動画[講話]
上祐史浩の講話の動画をご紹介します。

2016年01月

  • 第269回『劣等感への3つの対応と、優越感の4つの落とし穴とその脱却法』(2016年1月24日 60min 東京) (2016年01月24日)

    多くの人が悩む自他の比較・劣等感とその裏の慢心・見下しの心に関して仏教と現代の心理学から総合的に解説。劣等感への3つの対応、優越感の4つの落とし穴と脱却法、真の幸福と成長の道とは。

     

  • 第268回『現代人のための新しい仏教解釈:「輪の法則』(2016年1月17日 63min 大阪) (2016年01月24日)

    1.伝統仏教の中心思想とその問題

    伝統仏教の中心思想は、1.縁起(ものごとは他と相互依存して生じる)、2.空・無常(固定した実体はない)、3.無我(本当の私はない。永久不変の本質はない)、仮(全ては仮に設定されたもの)などである。

    しかし、これは現代人に分かりにくく、日常の自分の苦しみや問題を解決する実際的に智恵・視点にはならないことが多い。よって、この思想の本質を維持しながら、現代人にもわかりやすく、ピンとくる形で、表現したものが、「輪の思想」である。

    2.輪の法則、エゴを弱める「自他の循環」の思想

    それは、自と他は輪のように繋がり、循環している面があることを理解することを助ける。それによって、自他を区別し、自己を偏愛し、他と奪い合うというエゴの問題を和らげることができる。

    たとえば、自分の身体は他の死んだ身体からできていて、自分の死後は今度は他の身体を構成する。自他の生死はセットであり、生は自分のものではなく、一時的に自分のもとにあるだけで、いずれ宇宙に返すもの。命と財産が預かり物だという意識がないと死の恐怖を感じたり財産に執着したりするが、自分のものと錯覚しなければ恐れを感じることはない。

    3.具体的な瞑想法:手印とひかりの輪の読経瞑想

    自他は別のように見えて実は一つ。合掌と定印は腕を輪のように結ぶ形を作り、自他が一体で循環していることを象徴している。この理解を修習するため、ひかりの輪では「自他一体・万物愛す」という経文を使って読経瞑想を行っている。

  • 第264回~267回 年末年始セミナー特別教本『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』の解説講話 (2016年01月18日)

    2015年~2016年の年末年始セミナーにて行われた、上祐史浩の講話全7講話中、第1回、3回、5回、7回の4講話の解説動画です。

    ●第1回講話(2015年12月29日 90min)

    セミナー教本第一章「仏陀の一元の智慧」の解説講話

    「仏教が説く悟りの智慧(智恵)は、私たちの日常の観念を超えている面がある。これを言い換えれば、仏教の教えは、悟っていない人がなぜ頻繁に苦しむかというと、
    日常の常識的な観念の中に多くの錯覚があるからと説くのである。
    この錯覚を無智、すなわち、事物をありのままに理解できない意識の状態としている。一方、悟った人(仏陀)は、無智を滅して、智慧を得た者である。
    そのため、本稿では、皆さんが、これまでの学校教育や社会生活などの日常の中では、考えたこともなかった思想を紹介することになる。」(教本より抜粋)



    ●第3回講話(2015年12月30日 72min)

    セミナー教本第二章「一元の智慧に基づく幸福の道」の解説講話

    「仏教では、人が皆、幸福を求めながらも必ずしも幸福になれない理由は、無智であると説いている。すなわち、幸福を求めながらも、幸福になる正しい道・手段を知らないということである。
    これを言い換えれば、不幸になる道を幸福の道だと錯覚し、幸福の道を不幸の道だと錯覚しているというのである。そこで、本章では、前章で述べた仏陀の一元の智慧に基づいて、本当の幸福になる道について述べたいと思う。」



    ●第5回講話(2015年12月31日 70min)

    セミナー教本第三章「施行の叡智と無思考の叡智」の解説講話

    「言葉による思考には、メリットとデメリットがある。メリットは、この世界の様々な差異を理解することだ。一方、デメリットは、差異を理解するだけではなく、色々なものが全く別のもので、しかも固定的な存在に見えてしまうことだ。
    そして、仏陀の教え、縁起や空の教えは、このデメリットに対応するための智慧となっているのである。」これについて詳しく解説しています。



    ●第7回講話(2016年1月2日 114min)

    セミナー教本第四章「最新:読経瞑想の解説」の解説講話

    三悟智経「苦楽一体・万物感謝、優劣一体・万物尊重、自他一体・万物愛す」

    「三悟心経」は、三つの悟りの心の教えという意味であり、仏陀の悟りの境地を(三つの切り口から)表現したものである。
    「三悟智経」は、三つの悟りの智慧の教えという意味であり、ひかりの輪が説く、輪の思想・一元の智慧を端的に表したものである。
    そして、「三縁起経」とは、万物が一体であると説く輪の思想について、三つの視点から表したものである。
    第7回目は、三悟智経について解説しています。

  • 心理学講義『愛着理論(前編)』(2016年1月1日 85min) (2016年01月08日)

     

    ◆愛着とは◆

    仏教では、愛着は煩悩の一つで、根本的な3つの煩悩のうち貪り(貪:とん)といわれるもので、苦しみを生じさせるものとされます。

    心理学的には、養育者との情緒的な特別な結びつきのことを言い、乳幼児期の赤ちゃんが心身の健全な成長のために必要な安心・安全を提供するものとします。
    この心理学講義では、この意味での愛着についての話です。

    「愛着理論」の資料、後半の講義の動画データは販売しておりますので、ご希望される方は、下記連絡先にお願いいたします。shop@hikarinowa.net

    「愛着理論」の教本は>>>こちらでご紹介しています。

     

     

  • 2016~17年年末年始セミナー特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第4章(中継/1月1日(日)12時より) (2016年01月01日)

       2016~17年年末年始セミナー にて、1月1日 12:00から行われる、上祐代表講話のネット生中継で使用されるテキストです。

     特別教本第4章.pdf

       ※PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。Adobe Readerをお持ちでない方は、こちらからダウンロードしてください。

        ●ネット公開生中継はこちらからご覧いただけます。

    http://hikarinowa.net/tv/
    Ustreamひかりの輪チャンネル

    12/29~1/2までの年末年始セミナー期間中の講話中継の日程は>>>こちら 

    ●テキストがダウンロードができない方は、以下をご参照ください。

      第4章 六波羅蜜(六つの完成)・十八の実践

    1.六つの完成

    本章では、いよいよ六波羅蜜(六つの完成)の解説を行う。六つの完成とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行の完成を意味する。そして、そのそれぞれに、三つの修行があると解釈できるので、六つの完成・十八の実践ということになる。


    2.布施--三つの布施

    では、六つの完成について説明する。まず第一は、布施の実践である。
    第一の布施は、「財施」である。これは、財物を施すことである。また、広くは労働を奉仕することも含む。これは、財物への過剰な執着は、人を幸福にせず、それを他に施すことが、それを和らげ、慈悲を培うという意味合いがある。
    第二の布施は、「無(む)畏(い)施(せ)」である。これは、文字通り解釈すれば、畏れ(恐れ)の無い状態を施す、という意味である。言い換えると、他を恐れから守ることである。そして、これは、その裏に、怒りによって他を攻撃することを避けるという意味があるとも解釈できるだろう。
    第三の布施は、「法施」である。これは、仏陀の教え・法則を施すということである。自と他を区別せずに、他と法則を分かち合おうとする慈悲の心で、行うべきものである。
    布施の実践は、他と分かち合うことであるから、「自分だけよければいい」とか、「自分が独占したい」という心の働きを弱めることができる。こうして、自と他の区別を和らげ、利他の心を培うことになるから、智慧と慈悲を体得するために重要な法則とされる。また、布施以下の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧も、本質的には、これと同じ意味合いがあると解釈される。


    3.持戒--三つの根本戒と十戒

    持戒は、例えば、仏陀の説いた十戒(=十悪をなさないこと)を護持することである。
    この十悪とは、①殺生、②偸(ちゅう)盗(とう)(盗み)、③邪淫、④妄語(嘘)、⑤綺語(きご)(必要のない言葉)、⑥悪口(あっく)、⑦両舌(仲違いさせる言葉)、⑧貪り、⑨怒り、⑩無智(仏法を理解せず、現象をありのままに見ることができない)である。
    この十戒は、本質的には、最後の三つの心に関する戒(貪り・怒り・無智の「三毒」を避ける)が根本である。この三毒は、根本的な煩悩とされ、これから他の悪行も生じる。例えば、殺生は主に怒り、偸盗は主に貪り、邪淫は主に無智が原因となることが多い。また、妄語・綺語は主に無智、悪口・両舌は主に怒りが原因となることが多い。
    なお、この十戒は、行為の戒律(殺生、偸盗、邪淫)、言葉の戒律(妄語、綺語、悪(あっ)口(く)、両舌)、心の戒律(貪り、怒り、無智)の三つにも分けることができる。


    4.忍辱--三つの忍辱

    忍辱の第一は、物質的な困窮に耐えることである。第二は、非難・批判に耐えることである。第三は、仏陀の教えの理解の難しさ(教えと常識のギャップ)に耐えることである。
    この忍辱の実践は、大乗の修行の中でも、非常に重要だといわれている。大乗の実践は、その根幹に、万物への感謝がある。そして、忍辱は、単に苦しみに対する忍耐とか、とらわれの放棄といったものにとどまらず、苦しみを喜びとして、苦しみに感謝するという教えが含まれている(転換の感謝)。それでこそ、敵対者を含めた万物への感謝が生じ、万物を恩人と見る発菩提心の土台となるのである。
    なお、三つの忍辱と三つの布施は、密接につながっている(表裏である)。財物を施すことは、物質的な困窮に耐えることと表裏である。怒らずに他を恐れから守ることは、他からの非難・批判に対して怒らずに耐えることと関係する。法則を施すことは、法則の理解(及び法則を理解させること)の難しさに耐えることと表裏である。
    さらに、この三つの布施と忍辱は、三つの根本戒と合致している。というのは、財施は、貪りを弱める(財物は貪りの原因)。無畏施は、怒りを弱める(怒らずに守るから)。法施は、無智を弱める(法則は無智を弱めるから)。こうして、三つの布施・三つの戒・三つの忍辱で、三毒を和らげることができる。
    最後に、多少脱線するが、これは、ヨーガのチャクラの思想とも似ている。ヨーガのチャクラは、①その下位の三つのチャクラは、財物・異性・食べ物に関係する。②アナーハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラは、虚栄心(プライド)や妬みに関係する。③アージュニャー・チャクラは、(間違った)善悪の観念のとらわれに関係する。そして、①は、物欲などの放棄であるから、財施・貪りの止滅と関連する。②の虚栄心・プライドは、怒りの原因となることが多いから、無畏施・怒りの止滅と関連する。③(間違った)善悪の観念は、法施・無智の止滅に関連する。

     

    5.精進--三つの精進

    精進の第一は、伝統的な表現では「鎧の精進」といわれるが、言い換えれば、「決起の精進」である。これは、困難を感じても、勇気をもって仏道修行の実践に入ることである。
    人は概して、「楽して幸福を得たい」と思うものだが、仏陀の教えは、真の幸福とは、善行を積み上げる努力を経て達成されるものである。よって、常に楽を求める精神からは、仏陀の教えの実践は困難に思えるが、それが真の幸福の道であるから、これを乗り越える決起の精進が必要である。
    第二は、「実行の精進」である。これは仏陀の教えの実践を、遅らせないことである。人は、「今さえ楽であればいい」と考えがちだが、今日できることを明日に延ばすほど、実際には苦しみが増大していく。よって、今日できることは今日実行する精進が必要である。
    第三は、「たゆまぬ精進」といわれているが、言い換えれば「継続の精進」である。これは、たゆまず仏陀の教えの実践することである。人は、何ごとにつけても、ある程度修行が進むと、途中で気を緩め、修行から離れてしまう傾向がある。これを乗り越えるのが、継続の精進(たゆまぬ精進)である。
    この精進は、法則の実践において、とてもよく問題となる無智・怠惰・慢心を滅するものである。第一の決起の精進は、「楽して幸福になりたい」という無智を超えるものである。第二の実行の精進は、「今さえ楽であればよい」という怠惰を超えるものである。そして、第三の継続の精進は、「焦らず弛まず努力せずに楽をしたい」という慢心を超えるものである。


    6.禅定--三つの禅定

    禅定の第一は、未真理の瞑想である。これは、まだ、十分に仏陀の教えに基づいた瞑想に至っていない段階の瞑想である。教学がしっかりとできていないと、与えられる瞑想をなしても、その深い意味がわからず、瞑想上の気持ちよさなどに意識を取られる場合が、この場合である。
    第二は、真理の論理的な瞑想である。これは、仏陀の教えに基づいた瞑想をしているが、それが依然として論理的な思考に基づくものであって、仏陀の教えを直接体験している段階には至っていない。相当に高い段階ではあるが、まだ、煩悩が十分に滅してはいない。
    第三は、真理を直接体験している瞑想である。これは、仏陀の教えを直接体験している瞑想であり、論理・思考によらない瞑想である。

     

    7.智慧--三つの智慧

    智慧の実践の第一は、教学による智慧である。教学といっても、この段階は、仏陀の教えを知識として吸収しているにすぎない段階である。知識としては吸収しているが、まだ十分な思索・分析がなされておらず、仏陀の教えの正しさを、論理的にも体験的にも理解していない。
    第二が、推理智(論理智)の智慧の段階である。これは仏陀の教えを、論理的に分析・思索し、十分に納得している段階である。しかし、この理解は、仏陀の教えの直接体験による理解ではなく、論理によって間接的に、仏陀の教えを理解した=推理した段階である。
    第三が、真理を直接体験している智慧である。これは仏陀の教えを(瞑想によって)直接体験して得られた智慧である。いわゆる直観智である。
    なお、上記のように、禅定と智慧は連動している。これは、禅定=瞑想の結果として、心が静まると、智慧が生じるからである。これは、止観の教えの中にも出てくる。すなわち、瞑想によって心が静まる(=止)と、正確な観察が生じる(=観)という教えである。
    以上、大乗仏教が説く、六つの完成・十八の実践について紹介・解説した。それは、仏教の実践の中で、煩悩を止滅し、利他の心を培い、仏陀の境地に至るために欠かせない重要な実践項目であるとされている。


    8.粘り強い修行で、必ず智慧は深まる

    悟りに向かう道を歩む際に、私たちは、煩悩の手ごわさを経験する。しかし、ねばり強くダルマの実践を行うならば、徐々に智慧=仏陀の教えの理解が深まり、煩悩の根本である無智を減少させていく。その理由は、仏陀の教えは、この世界に関する正しい事実関係の理解に基づいているが、煩悩の源の無智は、その名のとおり、間違った事実関係の理解に基づいたものであるからだ。要するに、真実は勝つということである。
    例えば、無智の意識は、煩悩による「一時的な快楽」を好むが、それを貪れば、必ずその裏側に「さまざまな苦しみ=四苦八苦」を招く本質がある。また、無智の意識は、「私」というものが、他と独立した固定的な実体があるものと錯覚して、それに執着するが、実際には、他から独立しておらず、必ず、老い、病み、死ぬ無常なものである。
    多くの人にとって、悟りの道を歩む過程において、仏陀の教えよりも、煩悩と無智に馴染んでいるために、煩悩の力が大きく感じられる。それを減らしていくことは、難しいと感じられる。しかしこれは、これまでに仏陀の教えと煩悩を修習した時間・量の違いによるものであって、長い目で見るならば、一時的なものである。
    煩悩は強そうに見えるが、間違った事実の理解に基づき、本質的には人を幸福にしないために、無限に強くなることはない。いくら煩悩を追求しても、人は、煩悩によって、本当に幸福になると確信することはない。煩悩は、人を欺く性質のあるもので、人が煩悩を幸福への道として完全に信頼することはできない。
    一方、仏陀の教えの実践は、正しい事実関係に基づいたものだから、ねばり強く実践すればするほど、それに対する信頼は増大していく。輪廻転生の存在を仮定すれば、今生から来世とつながり、永久に無限に増大する。徐々に仏陀の教えになじんでいくことで、正しい見解である仏陀の教えが、間違った見解である煩悩と無智を、徐々に減少させていく。
    まとめれば、仏陀の教えは、真実・叡智であり、煩悩と無智は、虚構・錯覚である。真実が虚構を乗り越えるのは、長い目で見れば、時間の問題である。これをよく理解し、直ちに煩悩を乗り越えることができなくても、ねばり強く道を歩む心構えを持つべきである。


    9.智慧が増大し、無智・煩悩が減少する段階

    煩悩・無智が減少していく段階がある。これを理解することは、自分の教えの学習の進度を理解するために有効である。そこで、チベット仏教の教えから、その一例を紹介する。
    まず、最初の段階は、「誤った理解」の状態である。これは「煩悩的な欲求を満たすことが幸福の道である」と考える無智に覆われた心の状態である。これは、悟りの智慧の状態とは正反対である。真実と正反対に物事を理解している状態である。この状態の心は、まったく静まっていない。
    第2の段階が、「疑惑」の状態である。これは、最初の段階から、仏教の教えに多少なじんできた段階であり、誤った理解と正しい理解の双方が混在する、中間的な状態である。例えば、「「煩悩的な欲求を満たそうとしても、幸福にならないかもしれないし、やはり幸福になるかもしれない」と思っている。この両者のどちらの割合が大きいかによって、「疑惑」の段階の中にも、さまざまな段階がある。
    第3の段階が、「正しく憶測する意識」の段階である。これは、考え方は正しいが、それが論理的な根拠に基づいていない状態である。例えば、「煩悩的な欲求を満たそうとしても幸福にならない」とは考えているが、なぜそうであるかという論理的な根拠が十分に把握されていない。これは、第2の段階から、いっそう仏教の教えになじんできた段階である。
    第4の段階が、「正しい根拠に基づく推理」の段階である。これは、論理的な根拠に基づいて、「ダルマの教えが正しい」という推察に至っている段階である。例えば、「煩悩的な欲求を満たそうとしても、その裏側に様々な苦しみが生じるため、幸福にならない」と考えている状態である。これは、第3の段階から、ダルマの教えの論理的な根拠を観察する訓練を続けることで到達される。
    第5の段階が、「直接知覚」の段階である。これは、第4の推理による理解になじみ、物事をありのままに認識するに至った段階である。第4の段階と第5の段階の違いは、第4の段階では、「煩悩では幸福にならない」と理解はしていても、それは単なる観念的な理解にすぎず、煩悩が苦しみをもたらすことを実感できていないため、実生活においては、煩悩・執着を捨てることができない。その後、瞑想を含めた、長い修行を経て、意識を根底から変革して、実際に煩悩・執着を離れた心の状態(直接知覚)の段階に至る。


    10.第4段階を実現する学習と実践--教えをしっかりと考えながら学ぶ

    私の個人的な見解であるが、私たちが第一目標とするべきは、第4段階の「正しい根拠に基づく推理」の段階である。これは、ダルマを十分に学び、しっかりと思索することによって実現できる。単に学ぶだけで何も考えない場合は、ダルマが正しいという考えは強くなるが、なぜ正しいかという根拠が把握されていないので、条件が変われば、考え方が逆戻りしてしまう恐れがある。
    よって、例えば、釈迦牟尼を含め自分の仏教の教師が偉大であると考えて、その教えを無思考に学んで記憶するだけでは不足である。一時的には、その人は偉大だという思いから学んでも、なにかの拍子で気が変わると(例えば、その人に対する気持ちが変わると)、教えの正しさとは無関係に、学ばなくなってしまうことがある。いかなる人間も、人である以上は不完全であるから、特定人物の偉大さを信じる気持ちのみで学ぶことは、不安定なものであり、教えを教えの正しさゆえに学ぶ姿勢が望まれる。
    実際に、釈迦牟尼自身が、自分に対する崇敬の念のみによって、その教えを受け入れるのではなく、よく吟味して、咀(そ)嚼(しゃく)した上で、受け取るように説いたという有名な事実がある。以下はこの点についてのダライ・ラマ法王の書籍からの引用である。

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    このような方法を用いて仏陀の言葉を慎重に検討する必要があるということは、仏陀自身による経典の中でも述べられていることである。仏陀はある経典の中で、本当に金であるかどうか定かでない金属を受け取ったときのように、自分の言葉を受け取りなさいと、弟子たちに勧めている。(中略)

    このように仏陀は、自分が説いた教えを弟子たちが批判的に検討することを認めている。仏陀の言葉を十分に吟味し、自分でそれを十分に検証した後で、「尊敬の念からではなく、教えを受け取るべきである。」と仏陀はいっている。
    仏陀のこの言葉どおり、古代インドの僧院、例えばナーランダー大学のような仏教大学では、学生たちが自分の教師の学術書を批判的に検討・分析するという伝統が発達した。
    このような批判的分析が、教師に対する敬意に反するものであるとみなされることは決してなかった。例えば、インドの偉大な導師であるヴァスバンドゥ(世親)にはヴィムクティセーナと呼ばれる一人の弟子がいた。彼は般若心経の理解に関してはヴァスバンドゥを凌駕するほど優秀な弟子だったといわれていて、ヴァスバンドゥの唯識理解に疑問を呈して、中観派の思想に即して経典を理解する方法を発展させた。
    チベット仏教の中でこのような例を挙げてみると、アラク・ダムチュ・ツァンの例がある。彼は十九世紀におけるニンマ派の偉大な導師、ミパムの弟子だった。彼はミパムに対して深い尊敬の念を抱いていたが、ミパムの著作に対しては、しばしば異論を口にすることがあった。
    あるとき、アラク・ダムチュ・ツァンは自分の弟子の一人から「自分の教師の著作を批判することは正しいことなのですか」と尋ねられた。すると彼は即座にこう答えたという。「もし教師が間違ったことを口にすれば、それがどんな偉大なラマであっても批判されなければならない」と。

    チベットの格言に、「人には尊崇の念を向けよ。しかしその人の著作は、十分かつ批判的な分析がなされねばならない」という言葉がある。これは、極めて健全な態度である。仏教ではこのことを「四つの拠り所」(四依)と呼んでいる。

    人に拠らず、言葉に拠るべし
    言葉に拠らず、その意味に拠るべし
    暫定的な意味に拠らず、決定的な意味に拠るべし
    知的な理解に拠らず、直接的な体験に拠るべし

    (『ダライ・ラマ 般若心経入門』ダライ・ラマ十四世、春秋社、2004)
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