教本と講義
ひかりの輪で使用している教本やテキスト、それを解説した上祐代表の講話などをご紹介しています。

【教本と講義】の新着情報

2016/11/26
第35回心理学講義 『心理学の四大勢力』
2016/10/14
第34回心理学講義『ロゴセラピー ~生きる意味の心理学~』
2016/08/30
2016年夏期セミナー心理学講義 『選択理論 ~リアリティセラピー~』
2016/07/17
第32回心理学講義 『思考・感情・ストレスのコントロール:マインドフルネス』
2016/06/21
第31回心理学講義教本 『フロー理論』
2016/05/24
2016年GWセミナー心理学講義教本『自己存在価値を求めて』
2016/05/24
2015年夏期セミナー心理学講義教本『ポジティブ心理学』
2016/04/19
第30回心理学講義 『森田療法』
2016/04/12
第24回心理学講義『人は誰も多重人格』
2016/04/02
第29回心理学講義 『子供の発達・人格形成における父親の役割』
2016/02/27
第28回心理学講義教本『愛着理論②』
2016/02/09
【心理学教本】2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」
2016/01/25
【心理学教本】2014年GWセミナー心理学講義 「認知療法、マインドフルネス認知療法」
2016/01/12
2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』
2015/02/27
2014~2015年 年末年始セミナー特別教本『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』
2015/02/21
《改訂版》2014年夏期セミナー特別教本『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』 
2015/01/27
《改訂版》2014年GWセミナー特別教本『幸福のための仏教哲学  平等社会の道と自己を知る智恵』 
2014/05/27
《改訂版》2013~14年 年末年始セミナー特別教本『輪の思想と目覚めの教え 仏母の瞑想と二極調和の奥義』
2014/03/27
《改訂版》2013年 夏期セミナー特別教本『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』
2013/09/17
《改訂版》2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』
2013/03/10
《改訂版》2012~13年 年末年始セミナー特別教本『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』
2012/10/09
《改訂版》2012年夏期セミナー特別教本 『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』
2012/07/23
《改訂版》2012年GWセミナー特別教本『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』
2012/04/06
《改訂版》2011~2012年 年末年始セミナー特別教本『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』
2011/10/20
《改訂版》2011年夏期セミナー特別教本『輪の思想と宗教哲学』
2011/08/18
《改訂版》2011年GWセミナー特別教本『 ひかりの輪と日本と輪の思想』
2011/03/10
《改訂版》2010~11年 年末年始セミナー特別教本『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』
2011/03/10
《改訂版》2010年夏期セミナー特別教本『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』
2010/12/31
《改訂版》2010年GWセミナー特別教本『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』
2010/12/31
《改訂版》2009年~10年 年末年始セミナー特別教本『一元の法則と瞑想法  卑屈・妬みを超えて感謝と慈悲へ』
2010/12/31
《改訂版》2009年GWセミナー特別教本『内観と仏教の自己内省法 唯識思想と縁起の法 輪と循環の思想』
2010/12/31
《改訂版》2009年2月セミナー特別教本『大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就』
2010/12/31
《改訂版》2008~09年 年末年始セミナー特別教本『仏教講義 悟りの道程2  悟りと利他の思想と瞑想法』
2010/12/31
《改訂版》2008年夏期セミナー特別教本 『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』

このコーナーについて

  • 上祐史浩の特別教本、講話などをご紹介 (2015年02月21日)

    このコーナーでは、上祐史浩およびひかりの輪編集部の著した特別教本の一部と、それを解説した講話などをご紹介しています。

    ひかりの輪では、年末年始、GW、お盆などの連休ごとに行うセミナーごとに、毎回のテーマに沿った教本を作成し、学習していますが、その特別教本をこのコーナーで一部公開しています。

    これらの教本や講義は、自分と他者の比較をして優劣をつける習慣が強い現代の競争社会にあって、幸福な心で生きていくために役立てていただけるのではないかと思います。

    このコーナーではその教本の一部をご紹介していますが、こちらから特別教本は購入できます。⇒特別教本の購入へ

    じっくりとお読みいただき、智慧、勇気、愛を培っていただければ幸いです。

    ***********************************************

    ※教本の中の「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意

    ① ひかりの輪は、宗教ではなく、東西の思想哲学の学習教室です。特定の宗教宗派、
    神仏、人物(歴史上の人物を含め)、経典・聖典を信仰していません。

    ② この教本の中で、仏教・神道・道教・仙道・ヴェーダ・ヒンズー教・キリスト教
    の思想の一部を解説・紹介しているものがありますが、それらを信仰することを
    推奨するものではありません。

    それらの宗教の思想に関して、盲信を排除し、理性に基づいて研究・検討し、
    その一部に、合理的で有益だと思われたり、そのように解釈ができると考えた
    思想があれば、それを解説ないし紹介したものです。
    こうした実践は、宗教ではなく、宗教哲学と呼ばれることがあります。
    よって、ある宗派・経典・宗教家の一部を、私たちなりの解釈で紹介しても、
    すべてを紹介していることはありません。

    ③ この教本は、現在までの科学では説明がつかない事項に関する記載を含んでいます。
    たとえば、上祐代表らがなした不思議な体験・シンクロ現象などや、多くの東洋
    思想が説く、目に見えないエネルギー(気・プラーナ)の思想・霊性・霊性を増
    進する修行、さらには自然療法・温泉療法・民間療法・ヒーリングや占星学に関
    する記載です。

    しかし、ひかりの輪は、そうした体験・思想・世界観・技法・技術を絶対化・神
    格化・宗教化する意図は全くありません。
    さらに、それらに対して、過度にのめり込まずに、理性による疑問・批判の精神
    を堅持し、バランス感覚を維持することが必要だと考えています。

    その一方で、現在の科学で説明がつかないものを、はなから否定すれば、現在の
    科学を絶対化・盲信することになりかねず、それは、「宗教における盲信」と同じ
    性質のものであり、真の知性・理性・叡智の否定だと考えます。
    たとえば、それらの中には、経験的に広く有効性が認められ、実用化されている
    ものもあります。科学哲学の研究でも、科学と疑似科学(にせ科学)の境界は不
    明確というのが通説です。

    よって、安直に不思議なものを絶対化する過ちと、現在の科学で説明不能なこと
    は何でも切り捨てる過ちの双方を避け、バランスを取ることが、人間の知性・叡
    智の進歩にとって最善だと考えています。

特別教本:一部特別公開

  • 2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行  不動心・人間関係・健康・自己実現』 (2016年11月22日)

    第1章 現世幸福の教え

      ここでは、私が、現世幸福に関する宗教的な智恵と考えるものを、いくつか紹介したいと思う。これは、巷にあふれるお金儲けや成功術のノウハウを紹介する書籍などとは大きく違い、あくまでも宗教的な智恵の枠組みの中から、現世を幸福に健やかに生きていくための教えを紹介するというものである。
      よって、現世の幸福の智恵といっても、際限なく欲楽を貪ることをよしとする価値観に基づいたものではない。ひかりの輪が、その中核の思想として説いている、万人・万物を一体・平等と見る輪の思想や、それに基づく万人・万物への感謝・尊重・愛といった価値観に矛盾しないものであることを、前もってご理解いただきたい。

    ※「精神的・宗教的な智恵」という言葉についての補足
      ここでいう「精神的・宗教的な智恵」とは、盲信の危険をはらむ宗教の信仰の話ではないことを補足しておきたい。智恵という言葉は、正に叡智・知性・理性に通じるものであることからわかるように、「宗教的な智恵」とは、宗教の思想の中で理性によって納得することできるもの、理性に基づいて再解釈したものである、「宗教哲学」と同じ意味合いで使っている。
      特に、ここでは、仏教の中の悟りの思想哲学に関する話である。悟りの思想は、人の多くの苦しみは、自己に対する過剰な愛着に原因があり、瞑想その他の修行により、過剰な愛着を弱めることで、苦しみを弱めることである。これは一種の高度な心理療法ということもできる。
      たとえば、鬱病やストレスに対する最新の心理療法の一つである「マインドフルネス心理療法」は、仏教の念(=マインドフルネス)の瞑想法の応用であることからも、仏教の説く苦しみ・ストレスを和らげ、悟りに近づく思想と実践は、理性による批判を許さない盲信とは違う、幸福の人生哲学である。


    1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心

      人生は、山あり谷ありで、喜びもあるが、同時にさまざまな苦しみがある。それは、毎日のさまざまな苦しみから、学業・仕事・事業での失敗・挫折・敗北や、失業・倒産・病気・事故を含めた人生の危機まで、さまざまである。
      特に近年の日本は、高度成長期が終わり、バブル崩壊後の停滞する経済の時代となった。リストラ・失業・鬱病等の精神疾患・自殺者は増大した。市場原理主義の導入による競争の激化により、厳しさを増す労働環境の中でのストレスが増大し、勝ち組・負け組といわれる貧富格差の拡大や、若者のワーキングプアといった問題も起こっている。
      今後の社会全体を見ても、東日本大震災・原発事故・地球温暖化に見られる自然災害や環境問題や、少子高齢化・消費増税・巨額の国家債務による財政破綻の危機、さらには、近隣諸国との外交領土問題・安全保障問題など、さまざまな不安要素も抱えている。
      こうしたさまざまな問題に対しては、その解消のために、絶えず個々人から政府までが努力しているが、全てを解消することは、到底できそうもない。よって、こうした問題が起こったとしても、それに対していかに絶望することなく、強くて安定した前向きな心を保ちながら生きていくかという智恵が、非常に重要なものとなる。ここでは、そうした不動心を得るための宗教的な智恵を紹介したいと思う。


    (1)私の人生体験について

      まず、その前提として、私自身の人生体験について多少述べたいと思う。一言で言えば、私は、よく「地獄体験」といわれるものを繰り返してきた。
      オウム真理教の時代から、私は、仏教的な智恵を学び、不動心を追い求めてきた。87年に出家した私は、ストイックな戒律の下での生活と極限的に厳しい修行、慣れない海外生活と教祖の与える宗教的な試練の連続に耐え、88~89年頃になると、不動心を得ることに、一定の結果を感じ始めていた。
      ところが、その前後から、教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。
      その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。その中で、事件の直前にロシアに赴任した私は、紙一重でその難を逃れることとなったが、教団の破綻は、痛烈な精神的な打撃であったし、近しい同僚が刺殺されるという生命の危機や、社会的に四面楚歌の状況を生み出した。
      さらには、自分も、偽証という比較的軽微な罪であったが、逮捕・起訴され、数年にわたる独居房での勾留・受刑を経験した。受刑中に、麻原の中心の教義だった予言が外れるとともに、麻原自身が奇行・不規則発言を始め、精神的に深く麻原に依存していた私は、独居房の孤独の中で、精神的にも追い詰められていった。
      さらに、99年の出所近くになると、外の信者と地域住民との摩擦が非常に激しくなり、団体を監視する新しい法律が、最高幹部の私の出所を警戒するものとして「上祐新法」とも呼ばれるなどしたために、相当の精神的なプレッシャー・葛藤が生じた。ただ、このプレッシャーに対して、麻原とは関係なく、自分自身の仏教的な思考・瞑想で、自己愛・我執を弱めることで、非常に深く静まった精神状態を体験した。これは以後の自分の精神の安定の土台となった。
      99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。
      しかし、2003年頃になると、自分なりの思想が芽生えて、オウム時代を反省して、教団を改革しようとしたが、麻原やその家族を絶対視する保守的な人々の激しい反対を受け、結果として、自室に事実上幽閉され、再び勾留同然の状態となった。その中で、自分の今後の方向性に関して深く葛藤・逡巡(しゅんじゅん)した。
      一年半ほどして、2004年の末になると、自分に賛同する人々が増えたことに意を強くして、自分の考えを貫くため、麻原の家族に反旗を翻し、その幽閉状態を破り、独自の活動を始め、教団を割ることになった。その後も、麻原を絶対視する人々からの激しい批判・拒絶・妨害・追放を経験し、2006年には二つのグループを施設や経済の面で完全に分離することになった。
      その後、2007年になると、私たちのグループは、精神的な進化を深め、麻原信仰を払拭して、アレフを集団で脱会し、ひかりの輪として独立した。しかし、その後も、様々な人たちの理解・協力・支援によって、徐々に改善されつつあるが、依然として、社会からの誤解・批判・圧力が続いてきた。
      また、今はすでに収まっているが、この過程においては、団体内部においても、過去の信仰を放棄するという一種の自己破壊のプロセスや、従来の団体の財務を支える仕組みの放棄のために、さまざまな精神的なストレス・動揺・混乱・摩擦・失敗が発生し、一部ではあるが、鬱病にかかる者も現れた。さらに高齢化のために、認知症や身体障害を患った高齢者の介護の問題も生じた。こうして、厳しい財務状態の中で、オウム事件の被害者賠償の履行に四苦八苦した。
    そうした中で、昨年2012年に至って、オウムの逃亡犯全員が逮捕・収監されたことを一つのきっかけとして、テレビ・週刊誌などのメディアに復帰し始め、年末に大手出版社から、オウム時代の総括本を出版した。
      その後は、今年2013年は、トークショー・ネット番組・講演会に招かれることが多くなり、東京や大阪ではすでにさまざまな方々や団体にご招待いただき、福岡・札幌・熊本・沖縄などでもご招待いただいている。最近は、宗教関係の著名な映画・書籍の批評の依頼を受けることもままあり、去年に引き続き、間もなく対談本を発刊する予定となっている。こうして、ようやくではあるが、社会復帰の途に着くに至りつつある。
      こうしたわけで、過去20年以上、一種の地獄体験の連続であったが、その中で結果として殺されもせず死刑にもならず、ノイローゼにもならず、賠償負担を負って厳しい中で、何とかではあるが、一団体の代表を務めてきたことは、自分の力ではとうていなく、厳しい社会環境の中でも、さまざまな人々の貴重な手助けがあったからこそであり、さらには、人智を超えたさまざまな幸運のおかげであった。
      そして、以下に私が述べることは、こうした地獄体験の連続を通ってきた者による、実体験・実感に基づいたものである。

     

    (2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵

      先ほど述べたさまざまな苦境において、私を精神的に助けた大きな要素が、苦の裏に楽があるという考え方だった。これは、仏教開祖の釈迦牟尼の思想でもあり、苦楽表裏などといわれる。快楽の裏には苦しみがあるが、苦しみの裏にも喜びがある。特に、苦しみによって、正法に対する信仰が芽生えると説く。それほど苦しみがない状態では、人は、自らの間違った執着などを反省しないというのだ。苦しみがあってこそ、その原因となっている過剰な執着を反省するという。
      また、受刑中に、昭和の希代の実業家となった松下幸之助(パナソニック・松下電器の創始者)の著書を読んだ。その中には、彼が苦境にあった時に、「この苦しみは、将来の幸福のために必ず役立つ」と自分に言い聞かせてきた体験が切々と書かれていた。そして、彼は、病弱だったから他に頼む術を憶え、学歴がなかったから他から素直に学べ、お金が無かったから丁稚奉公に行って商人の機微を学んだとして、「自分の不遇・苦しみを、逆に活かしてきた」と語っていた。
      そんな中で、私も、オウム真理教の深刻な失敗・挫折に対し、それを重要な教訓として活かし、それを完全に乗り越えた新しい思想、新しい知恵の学びの場を創造することを志すことにしたのである。それは、最初は理解されにくくても、長期的には社会の役に立つはずだと考えた。
      なぜならば、オウム真理教の問題は、オウム真理教に限らない。世界全体の原理主義的な宗教の問題であるし、さらには自己の教祖や教団を絶対視する従来型の宗教に広く当てはまる問題である。そして突き詰めれば、オウム真理教を生んだ戦後日本社会が、依然として乗り越えていない、敗戦までの自国を絶対視した大日本帝国体制にも共通した問題である。
      それがゆえに、この問題を完全に乗り越えた思想を創造することは、オウム真理教的なさまざまな問題を解決するために役立ち、他のカルト教団・原理主義組織に限らず、日本社会全体が過去の過ちを繰り返さない方向にも役に立つと考えた。そして、今そのためにさまざまな取り組みを行い、それが徐々に、前に述べたように、社会の一部に受け入れられ始めている。
      こうして、苦しみの裏に喜びがある。苦しみは、宗教的には執着を捨てる悟りへの道だし、世俗的にも失敗・挫折・批判は、反省と改善を通して成功・脱皮・称賛の始まりとなる。失敗は成功へ、挫折は脱皮に、批判は称賛につながる。
      逆に、苦しみ少なく、楽が多すぎれば、自分を鍛える機会を得にくい。成功の体験ばかりで失敗・挫折の体験がないと、失敗・挫折に対して精神的にもろくなったり、過去の成功体験によるプライドにとらわれたりして、失敗・挫折を直視できずに失敗する。称賛に慢心を起こせば、ゆくゆく批判されるようになる。成功・称賛が、失敗・批判につながる。
      こうして、苦境にある時には、その苦しみばかりに目を向けずに、なるべくその裏にある利点を捜すべきである。必ず何かの利点があると考えるのだ。格言で言えば、人間万事塞翁が馬、ピンチの裏にチャンスあり、死中に活を求めるである。
      この際、苦しみから逃げてばかりいて、例えば自分の失敗を認められなかったりすると、その苦の裏にある利点は見つからないし、失敗を成功の元にする道は見いだすことができない。死中に活という視点では、これまでの自分の死を恐れていては、新たな生=脱皮・進化はできない。人の脱皮・進化とは、死と再生、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。
      なお、日常生活でよく経験する失敗・挫折・批判・病気・経済苦といったさまざまな苦しみの裏側に、一般論として、どんな喜びがあるかについては、例えば、前回のセミナーの特別教本(2012年~2013年 年末年始セミナー特別教本)などでも述べているので、その一部を下記に引用しておく。

    「個々別々の苦しみを恩恵とみる事例」

    ① 病気の苦しみ
      病を得て、生活習慣を改め、体を労(いた)われば、健康・長寿を得る機会に変えることができる(いわゆる一病息災)。また、病気になって初めて、自分を支える人の恩恵に気づくことも多い。
    ② 経済の不安(最近よく聞かれる日本人の苦しみ)
      そもそもが、恵まれている日本人という視点を持てば、貪りや浪費を反省し、質素倹約を培う機会であり、途上国の貧しい人たちへの慈悲を培う機会ともなる。
    さらには、自己の所有物ではなくて、大自然など、皆が共有しているものが、真の宝であると悟る機会ともなる。

    ③ 批判・誹謗
      正しい批判は、自分を改善し、自分の未来のためになるものである。その意味で批判されなければ、自分に良き未来はない。間違った批判は忍耐力を養い、それに動じなければ、長期的には自分の評価を高める機会となる。すなわち、批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」という欲求が作り出すものである。

    ④失敗・挫折
      その裏に恩恵がある。努力を続ける限りは、それは、成功・成長へのステップである。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれる。失敗は、これでは成功しないことを知るという成功へのステップだ。すなわち、失敗、挫折の苦しみは、すぐに成功を望む欲求が作り出すものである。

    ⑤怒り・軽蔑の対象
      悪行をなしている他人も、謙虚な心で見れば、自分の反面教師であり、その意味で、助力者である。仮に、全く反面教師なく、自力だけで間違いを避けることができるかを考えるとよい。
      自分の幸福を邪魔するように感じられる妬みの対象も、「感謝の法則①」で述べたように、よく考えれば、実際には、自分よりも必ずしも幸福ではないことがわかる。また、優れた他人に対する妬みの場合は、実際には、その人たちは、自分の見本であり、貴重な切磋琢磨の対象である。そうした存在なく、自分だけの力で向上することができるかを考えるとよい。

    (3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵

      また、苦境に強い人の性格として、そういった状況でも、依然として自分が得ている恵みを意識できることがある。たとえば、失業しても、健康な体と愛する家族がいることに感謝して、絶望せず、それを土台として再び立ち上がっていくとか、病気になっても、支えてくれる家族や知人がいることに感謝して、人間の幅を広げて再び立ち上がっていくなどである。
      しかし、苦境に弱い人は、そういった状況になると、全てを失ったかのように錯覚し、「自分はもうだめだ、おしまいだ」と考えてしまうことがある。しかし、実際に、私たち日本人は、安全・長寿・豊かと三拍子揃った社会に住んでおり、いかなる苦境であろうと、視点を変えれば、大変な恵みにある。
      例えば、民族紛争・感染症・飢餓貧困に悩む途上国の人から見れば、王侯貴族である。途上国では、常に水も電気も燃料も不自由なところもあり、毎日が東日本大震災の被災地のような環境条件である。百年・二百年前の日本の人々から見れば、天国のような恵みに恵まれている。
      この意味では、苦しみ・苦境とは、実際には、比較の問題であって、途上国や昔の人から見れば、私たちが苦境と考えるものは、苦境とは感じられないだろう。あまりに恵まれた私たちが、その恵みに慣れ過ぎて感謝を失っているがゆえに、苦境と感じられるともいうことができるのだ。
      こうしたことを考え、苦境に立ったときに、依然として自分には、さまざまな恵みがあることや、この世界には、はるかに苦境にある人たちが無数に存在することを考えるならば、苦境に強くなることができるのではないだろうか。


    (4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵

      さて、仏陀の教えでは、全ての苦しみの根本的な原因は、過剰な自己愛である。自と他を区別して、自己を偏愛する心の働き。自我執着ともいう。これは、自分自身(心や身体など)に対する執着(我執(がしゅう))と、自分のもの(財物・地位・名誉)に対する執着(我所執(がしょのしゅう))がある。
      これをわかりやすくいえば、人は、他者よりも自分を愛し、死を恐れ、天寿を無視して、永久に生きていきたいと思うことが多い。だから、自分が老い、病み、死ぬことを恐れる。しかし、自分が生きるには、他の生き物が食べ物などとなって犠牲になる(自分の生の裏に他の死がある)。多くの生命体が死ぬからこそ、多くの生命体が生まれても、地球の生命圏のバランスが取れる。人間が不死となれば、人口が爆発し、飢餓や戦争が起こる。
      さらに、人は、他人よりも、自分の財物・名誉・地位を増やそうとし、その欲望には際限がないことが多い。しかし、それを言い換えれば、いくら得ても満ち足りることがなく、さらには、得られない時の苦しみ、得たものを失う時の苦しみ、他と奪い合う苦しみが生じる。実際に、これまでの人類の歴史の一面は、貪り・争い・戦争の歴史であった。
      このように考えていくと、自分と他人を区別し、自分だけ過剰に愛する自我執着が、苦しみの根本原因であることがわかる。そして、仏陀の教えでは、この自我執着を弱めるためのさまざまな教えがある。その典型が、釈迦牟尼の直説とされる無我(アナートマン)という教えである。
    これは、私たちが通常「これが私である」と思い込んで執着する自己の心身について、実際には、身体は老い・病み死ぬものであり、心も絶えず移り変わっていく、無常で実体がないものであることを考え、それらが、本当の意味で私ではなく、私のものではなく、私の本質ではないなどと瞑想するものである。また、これとほぼ同様の四(し)念処(ねんじょ)・五蘊(ごうん)無我といった教義・瞑想がある。
      この瞑想の目的は、自我執着を和らげることであり、一言で言えば、自我執着に基づく思考を減少させることだ。自分のことばかりを過剰に愛して、それゆえに悩み続ける思考を弱め静めていくことである。ようするに、自分のことばかり考えるのを止めてしまうのである。
    こう言えば、何か簡単なことに思えるかもしれない。しかし、それは単純なことではあっても、簡単ではない。この単純なこと、自分のことばかり考えないようにすることを阻んでいるのが、自分に深く執着してきた長い習慣であって、そのために、自分のことばかり考えないようにしようとすると、不安・恐怖などが襲ってくることが多い。
      それゆえに、この境地を体得するには、従前から仏教的な思想を学び、無我の瞑想の練習をした上で、自分のことを考えることをやめないことによる苦しみが、自分のことを考えることをやめる不安や恐怖をしのぐような状況、すなわち、一種の試練・苦境を体験する場合が多いと思う。
      私の場合は、前に述べたとおり、オウム時代の初期に、こうした仏教的な考え方の学習や訓練がある程度なされていたので、それに馴染んでいった時期があって、その後、オウムが破綻した後に、元教祖から離れて、獄中で独りで苦悩する中で、あらためて無我の瞑想を行って、それを体得していった経緯がある。それ以来、たいていのことでは動じないようになり、今もそれを訓練し続けようと努めている。
      この瞑想を体得するならば、非常に静かな、静まった意識状態を体験する。不要な思考は停止している。それは、オカルト的な霊的体験とは違った意味で、神聖な感じさえする状態である。

    (5)無我と直感:静まった意識に生じる直感

      そして、この静まった意識状態においては、現実の問題を突破するアイディア・直感・インスピレーションが浮かびやすい。
    苦境にあって、自我執着が強すぎると、例えば、「失いたくない」という不安ばかりが先立って、いろいろと考えてはいても、悩んでいるだけで、エネルギーを消耗するばかり、空回りすることが多い。さらに、不安・焦りなどで混乱・狼狽した精神状態から、さらに苦境を深めるような過ちを犯す場合も少なくない。
      一方、無我の静まった意識状態では、こうした精神的な混乱はなく、落ち着いて物事を見ることができる。また、こだわりがないゆえに、こだわりによって見えなかった突破口も見えてくる。さらに、不思議なことだが、こうした意識状態においてこそ、直感・インスピレーションが生じやすい。仏教の経典の一部も神通力を説くものがあるが、それは煩悩・欲望が静まった人間の精神に生じる、高度な智恵のことを意味するのではないかと思う。


    (6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り

      輪の法則は、無我の法則をさらに推し進めたものだ。先ほど述べたように、自我執着の根本には、自と他を区別する心の働きがある。自と他を区別して、自己を偏愛するのが自我執着だ。
      一方、輪の法則とは、万物が一体平等という思想であり、私たちが日常的になしている自と他の区別とは、厳密には錯覚であって、実際には自と他を含む宇宙の万物は一体であるという真理を示している。
      これは科学的に、自分や他人、自分と外界を観察すればわかる事実・現実である。どんな人間も一人だけで生きることなどできず、絶えず空気・水・食べ物などを外部から取り入れ、排出して、外界と一体となって生きている。人は宇宙の一部であり、「私」とは他から独立した存在ではなく、いわば、宇宙の中に「私」と名付けられた場所があるようなものである。しかも、その場所の範囲は、絶えず変化しており、その内と外に明確な境界はない。
    この真理を悟るならば、単に心が静まるだけでなく、自と他の区別を超えた、広く温かな意識が生まれてくる。それは、万物との一体感であり、万物に支えられていることを認識した万物への感謝・尊重を伴う意識である。私は、これが大乗仏教の説く悟りの境地だと考えている。この境地を垣間見るようになれば、自と他の区別に基づく自我執着は相当に弱まっており、さまざまな苦しみも同時に減少する。


    (7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント

      さて、これらの法則を言葉で言ってしまうと簡単な面もあるが、実際に体得・実践するのは、一筋縄ではいかない場合もある。それが容易であれば、ある意味では、誰もが苦しみを容易に脱却できているだろう。しかし、苦しみは苦しみ、喜びは喜びと見て区別する、これまでの習慣によって、なかなか苦しみの裏側に、喜びが見いだせない場合もある。
      実際に、苦しみの裏に喜びがあるといっても、こうした法則は、いわば一般論、公式であって、自分の苦しみ・苦難に具体的に当てはめて、自分の場合は、どのような喜び・利点が、その裏にあるかを見いだすことは、また別である。すなわち公式の応用力・適用力の問題があるのだ。
      また、世間一般は、苦しみの裏に喜びを見いだすことがない中で、そのように信じて見いだす努力をすること自体に、本当にそうなのだろうか、本当にそう考えられる自分になれるのだろうか、という心細さを感じることもあるだろう。
      そこで、仏陀が説いたのは、同じ志を持った者が集まり、助け合ったり、切磋琢磨したりすることの重要性ではないかと思う。仏陀の教えは、仏・法・僧と訳される三宝を尊重することを説いた。サンスクリット語では、ブッダ・ダルマ・サンガといわれる。
      ブッダ(仏)は道理・法則に目覚めた人であり、ダルマ(法)はブッダの教え・法則である。そして、サンガは、僧伽(そうぎゃ)・僧と音訳される。その意味を表す漢訳は、「衆(しゅ)」、「和合(わごう)衆(しゅ)」などである。すなわち、サンガの元の意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。
      こうして、仏教では、サンガは、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重された。サンガは、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。なお、狭い意味では、サンガは仏教の出家者の教団を指す。
      ところが、中国や日本では、出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じた。そのため、僧という言葉が、集団・集会を意味する本来のサンガ(僧伽)とは、大きく違った意味で用いられるようになった。
      それはともかく、学業や武道をはじめ、どのような習い事も、同じ志を持つ者たちが、道場や教室などを場として集い、先輩後輩の間で助け合ったり、互いに切磋琢磨したりすることは、大きな効用がある。
      法則も、単に頭から知識として学ぶのではなく、それを長く深く実践してきた先輩などと直に接して感化を受け、肌から学ぶ、心と体から学ぶ部分があるのは、いうまでもない。
    これによって、独りでは、なかなか法則を体得できず、それどころか、疑問も多々わいて、心細くもあるといった問題を和らげることができる。ひかりの輪も、各地に教室を設け、専従スタッフが運営し、それが良きサンガとなることを志している。
      さらに、ひかりの輪は、サンガの良さをフルに生かしたものとして、「悟り集中修行」というものを行っている。それは、ひかりの輪の支部教室にて、法則を学び体得する者が集い、丸一日ないし数日の間、集中した修行実践をするものである。
      皆がよく集中できるように、一人一人のために一定の個別の空間を作り、その中で、他の用事・雑務を排除して、集中的に法則の学習を行い、法則に基づいた思索を深め(法則を自分の問題に当てはめる)、法則に基づいた思考を修習・瞑想する。
      これは、浄化された空間、同じ志を持った者が集うことによる目に見えない相乗効果、先輩の助言・助力といった環境と、各人が他の用事を排除して法則の体得に一定の長時間の間、専念・集中するといった条件が相まって、法則の体得に、大きな効果を発揮する。


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  • 2009年2月セミナー特別教本「大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就」 (2016年11月08日)

    第1章 正観の瞑想:仏教の基本

    1.すべては無常である

      ※諸行無常、苦楽表裏、四苦八苦(大乗仏教で説かれる教え「三法印」の3つ)

      生まれたものはすべて滅する。すべての生き物は、生まれても、必ず老い病み死ぬ。幸福・不幸も無常である。
      すべての煩悩による楽も、苦しみに変わる。求めて得られたら、もっと欲しくなり、際限がなく、得られなければ苦であり、失うときも苦であり、奪い合う敵と会うのも苦である。すなわち、苦楽表裏、四苦八苦である。
      また、すべては無常であるがゆえに、すべては平等である、すべての生き物、すべての幸福・不幸は、無常であるという点において変わらず、その意味で、すべては大差なく、平等である。


    2.すべては空である

      ※三法印の諸法無我、十二支縁起、大乗の一切皆空、唯識の阿頼耶(あらや)識(しき)縁起(えんぎ)

      私たちが現実と呼ぶものはすべて、五感や言葉による思考が作り出した幻影である。私たちと違った五感や思考を持っている生き物には、同じ世界がまったく違って見えるし、電子顕微鏡には世界はすべて原子・分子の渦と見え、赤外線をとらえる眼には夜空が明るく見える。
      こうして、現実とは、外部に存在するものを感じた結果ではなく、それぞれの生き物が、それぞれの五感や思考に基づいて、さまざまに体験する、自分の脳内のデータにすぎない。
      自分の脳内のデータの体験にすぎないから、時には、夢の中でも、起きている時と同じような現実的な体験をする。起きている時と違って、五感は外界をとらえていないが、起きている時と同じように脳内のデータを体験するならば、同じような現実的な体験が現れる。これは夢見のヨーガの悟りである。
      言いかえれば、そこにはスクリーンしかないのに、映し出された映画の情景が実在すると錯覚したり、そこに水しかないのに、湖面に映る景色が実在すると錯覚したりするように、脳内に映し出された三次元立体映画の映像を実在するものと錯覚しているのである。
      こうして、私たちが経験する現実とは、十二支縁起が説くように、無明に基づく五感と意識(=六処・六識)に依存して生起している(縁起している)ものにすぎず、実体がない(空である)。ないしは、唯識が説くように、阿頼耶識に基づく五感と意識(前五識と意識・六識)に縁起しており、空なのである。
      そして、無智・無明とは、五感と言葉による思考の結果、実際には心の中の(脳内の)データに過ぎないものを外部にあって実在するものだと錯覚することであり、それに執着して、貪り・怒りをはじめとする煩悩を生起させることである。


    3.存在の真実は、そして真の幸福は、涅槃の寂静、空性にある

      ※三法印の涅槃寂静、大乗仏教の空性・唯識の阿摩羅識、原始仏教の無我・非我

      諸行無常や諸法無我を修習し、外界・対象に実体を錯覚する無智を滅して、貪り・怒りが静まり、三毒を滅すると、涅槃の寂静の境地に至る。
      瞑想によって、五感と思考の動きを止めて、深い意識に入るならば、そこには、いかなる姿形も現れず、自と他・内と外の区別もなく、時間感覚も消えた、寂静の無限の空間がある。
      これが釈迦牟尼の説いた涅槃、仏教が説く空性の体験・仏陀の境地と言われるものであり、本当の楽、涅槃の真楽と言われるものである。


    4.すべては相互に関連している

      ※重々無尽縁起(法界縁起)、如来蔵縁起(真如縁起)

      私たちの日常の意識には、自と他は区別されて現れる。しかし、これは、私たちの五感と日常の思考が作り出している錯覚にすぎない。五感には、自と他が別のように映し出されて、それに対して、日常の思考が、そのおのおのに別々の名前をつけて、区別しているので、自と他が別のものだと錯覚しているにすぎない。
      しかし、実際には、この宇宙の一切は、相互に深く結びついており、一体である。これは、最新の科学である量子力学が説いている真実である。すべての物質は波動を有し(物質波)、その波動は宇宙全体に広がっており、さらに、物質の最も微細なレベル=量子は、人が観測する前は波動であるのに、観測しようとすると、波動から粒子に収縮するとされる。よって、宇宙のすべての存在は、波動として宇宙全体に存在し、一体である。
      量子力学よりも粗雑なレベルでも同様である。分子生物学は、私たちの肉体の内と外の間には、絶えず分子の出入り・循環があり、自分だけの体の分子などまったくなく、年単位ですべての分子が入れ替わり、肉体が地球の生命圏と不離一体であることを示している。空気、水、食べ物などの分子が、肺や皮膚の呼吸、飲食、発汗、排泄等の作用によって、出入りしているのである。
      こうして、すべての生き物は、宇宙・地球という巨大な生命体の細胞のようなものであり、万物とともに生存している。万物に支えられ、万物のおかげで、生存している。よって、私たちは、すべての衆生に、万物に感謝するべきである。
      また、分子に限らず、人の精神も、個々人でバラバラではない。現代では、言語による絶え間ない情報の交換がなされており、自分だけの考えや、他人だけの考えなどあり得ないし、言語を超えて、以心伝心、社会の空気などと言うように、精神が直接的に連動することも起こっている。
      そして、万物は、仏陀とつながっている。釈迦牟尼のような諸仏も、すべての生き物とつながって生き、その体の一部だった分子は、今も地球の全体を循環しており、いかなる者も諸仏とつながっている。
      さらに、仏陀の本体が法であるならば、法に基づきすべての現象が生じる大宇宙は、すべて仏陀の現れであって、こうして、大宇宙を仏の現れと見るならば、すべての生き物は、その仏陀の一部であり、その本質は仏陀であり、皆が未来の仏陀である、と説く仏性・如来像の思想が導き出される。


    5.すべては心の現れである

      ※縁起の法・因果応報・自業自得、唯識思想

      自分の体験する現実は、自分の六識(五感と意識)が作り出す体験であり、その意味で、心の現れであり、実体がない。

      次に、自分が感じる幸福・不幸も、三毒(貪り・怒り・無智)に縁起した、心の現れであり、実体がない。同じ条件でも、欲求の強い人には、苦しみとなり、欲求が少なければ、喜びとなるように、苦楽は心の現れである。
      また、以前より良い条件を得れば、喜びを感じるが、慣れると喜びは感じなくなり、逆に、もっと欲しいという苦しみが生じ、ましてや慣れたものを失えば、以前に戻っただけにすぎないのに、大いに苦しむ。こうして、苦楽は、心の現れであり、実体がない。
      ここで欲求が強いとは、善行が少なく悪行が多い結果であり、その場合、喜びが少なく苦しみが多くなり、欲求が少ないとは、善行が多く悪行が少ない結果であり、その場合、喜びが多く苦しみが少ない。これが、因果応報・自業自得の法である。

      そして、他人と自分の関係においても、お互いがお互いの心の現れ=鏡である。私たちの日常の意識では、自分と他人は大きな差異があるように感じている。しかし、それは、無智によって、現実に実体を錯覚しているからである。
    無智を超えた仏陀の視点から見れば、衆生はすべて、現実とは虚像のように実体がない幻影なのに、それに引きずられ、輪廻の鎖の輪を浮沈しており、その無智においては、人間の間はおろか、人間と他の生き物の間にも大差はない。無智の中のすべての衆生は、皆が、大差ない盲目の亀にすぎず、すべては仏陀の手のひらの存在なのである。
      ましてや、私たちが見る身の回りの人たちは、同じ人間の五感を持ち、同じ言語で思考しており、その五感と思考が映し出す、非常に似通った現実という幻影にとらわれているのだから、それだけで、非常に似通っているのである。
      そして、私たちが、十分に内省すれば、他人の悪行・善行が、自分の顕在的ないし潜在的な悪行・善行の投影であることがわかる。すなわち、カルマ・ヨーガ、すべての衆生は、自分の鏡であり、仏・法の現れである。
      この理解を阻むものは、現実に実体を錯覚する無智を根本として、自と他の区別をなして、プライド・闘争心・嫉妬心にとらわれた結果、自分の悪行を見ることを避けたりすることを含め、自分と他人をありのままに見ることができない意識の状態である。よって、これを努めて乗り越えるならば、他人が自分の鏡であることが理解される。

     

  • 2014年夏期セミナー特別教本『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』 (2016年10月31日)

    第1章 仏教が説く無智と智慧とは何か


    1.無智とは


      仏教では、すべての苦しみの原因を無智(無明)などの言葉で表す。無智とはいろいろな解釈があるが、わかりやすくいえば、現象をありのままに見る・感じることができない状態をいう。しかし、以下では、この無智に関して、興味深いいくつかの具体的な見解を紹介して、仏教が説く幸福の智慧(智恵)を学びたいと思う。


    2.縁起・空を理解しない状態

      無智が現象をありのままに見ることができない状態だとして、逆に現象をありのままに見ることができる状態=智慧とは何なのか。これについては、よく縁起ないし空という言葉を用いて説明される場合が多い。
      縁起とは、因縁(いんねん)生起(しょうき)の略であるが、縁が条件、起が生起という意味なので、全体として、「条件によって生起する」といった意味になる。よって、縁起の法とは、「この世界の事物が条件によって生起している」という教えである。そして、これを理解できている状態が智慧の状態であり、逆にいえば、理解できない状態が無智の状態である。
      では、「条件によって生起する」とは、どういう意味かというと、わかりやすくいえば、「あらゆる事物は、無条件では生起しない」、「何か他に依存して生起している」という意味である。よって、さらにわかりやすくいえば、「この世界の事物はすべて、相互依存によって存在し、他から独立してそのものだけで存在するものはない」という程の意味になる。これは、言い換えれば、「万物は何かしらつながっており、本質的には一体である」という意味になる。
      そして、縁起と結びつくのが「空」という概念である。空とは、「実体がない」といった程の意味である。より詳しく表現すると、「固定した実体がない」、「他から独立した固定した実体がない」といった程の意味になる。
      そして、縁起しているものは空である、と仏教は説く。すなわち、「相互依存しているものは、(他から独立した固定した)実体がない」、という意味である。なぜそうかというと、相互依存し、他に依存しているものは、他が変化すれば、自分も変化するからである。
      そして、特に大乗仏教では、この世の一切は実体がないと考え、「一切皆空」という思想がある。なお、縁起と空の関係については、ほかにも深い意味があるが、それは後に説明する。
      そして、この世界は縁起しており空である、という認識がある意識状態が、智慧が生じている状態であり、そうでない意識状態が、無智の状態ということである。


    3.根本無智:本来の状態を見失っている状態

      仏教の宗派の一つには、無智の中で、根本無智という概念を説くものがある。この場合の根本無智とは、表現が難しい。それでもあえて表現すると、「本当の自分の意識が、自分自身を見失っている状態」とも表現することができるだろう。
      ただし、この表現は多分に、皆さんのイメージ的な理解を促すための方便の一面がある。
    例えば、ここでの本当の自分、本来の自分とは、ヒンドゥー・ヨーガが説く永久不変の自分の本質とか、真実の自分といった意味を持つ「真我」という概念とは異なる。真我とは、わかりやすくいえば、自分の永久不変の霊魂のようなものである。
      仏教では、真我は説かずに、その存在を否定することが多い。先ほど述べたように、この世界の万物は、縁起=相互依存しており、空=固定した実体がない。よって、私の中にも、他者・万物から独立しており(=相互依存していない)、永久不変な(=固定した実体がある)存在はないと考える。
      難しいことはともかくとして、本当の自分の意識が自分自身を見失っている状態だという以上、根本無智とは、わかりやすくいえば、本当の自分自身を知らない、本当の自分自身に対する無智という意味合いを持つ。私たちは、本当の私たち自身を見失っているというのだから、これは、ある意味では驚くべき思想である。
      では、本当の自分を見失っているというのはどういうことなのかについて説明することにする。それは、いくつかの喩えによって説明する。


    4.夢や映画の喩え:本来の自分を見失った状態

      現実の世界と同じように、夢の中でも、私たちは、私たち自身と他人を経験する。しかし、それが夢だと気づくならば、それまで私だと思っていた夢の中の私は、本当の私ではないことに気づく。夢の中の私から自分の意識が遠のき、同時に、夢全体が自分が作ったものだという認識が生じる。
      これは、夢だと気づく前は、本当の私が夢の中の私と一体となっていたところ、夢だと気づいた段階で、その二つが分離し始めたということもできる。本当の私が、本当の私ではないものに執着し、一体化していたところ、それが解消されたとも表現できるだろう。
      そして、これは、仏教が説く悟りの状態と似通っている一面がある。仏教の悟りとは、私たちが「私」と呼んでいるものに対する過剰な執着(自我執着)を弱め、自と他がつながっていることを悟り、万物を愛することだとも表現できる。「私」だけを偏愛せず、「私」と他者・万物が一体であると悟って、万物を愛する状態である。

      もう一つ別の喩えがある。それは映画を見る人である。映画を見ている時、人は、その映画の主人公に感情移入し、一体化して、主人公とともに一喜一憂することがある。あたかも、自分が映画の主人公になったかのように喜び悲しむ。しかし、映画が終われば、我に返り、主人公から意識が離れて、本来の自分自身に戻る。場合によっては、映画の最中に、何らかの理由で、我に返る場合もある。
      そして、インドの思想家の中で、この世界を神の作った三次元立体映画のようなものだと説く人がいる。その中には、私や彼など、さまざまな登場人物がいる。そして、私たちは、本来は、その映画を見ているだけの存在なのに、その映画の中の「私」という登場人物と一体化し、「私」を偏愛しているというのである。

      もちろん、これらは喩えである。現実の世界は、夢や映画とまったく同じではない。しかし、現実の世界が、夢と似た一面を持っているというのである。それは、現実の世界でも、私たちの本来の意識は、私たちが普段「私」と呼んでいる「私の心や体」とまったく同じものではないというのである。
      これを言葉で表現するのは難しいが、本来の私たちの意識とは、普段の私たちの意識・心とは違って、「私」だけを偏愛し、欲張ったり怒ったりするものではなく、静まった、広がった、温かい意識である。言い換えれば、「私」を偏愛した意識、自我執着に基づく思考や感情ではなく、自と他を区別しない、静まった、広がった、温かい意識である。


    5.仏教と心理学の一致点:
    普段の自分の思考と感情は、本当の自分ではない

      さて、少し脱線するが、心理学の心理療法の分野においても、自分の思考や感情を本当の自分とせずに、それを冷静・客観的に見つめることで、鬱やストレスが解消するという見解がある。マインドフルネス認知療法というものである。
      認知療法では、ストレスや鬱の強い人の原因が、その人の思考が極端に否定的であることにあると考える。そして、その思考をバランスのとれたものに修正していくことが重要だが、普段、いろいろな体験をした時の私たちの思考と感情は、私たちの合理的な判断によって生じるのではなく、過去の習慣などによって自動的に生じるものであり、多くの場合、私たちの意識は、その思考や感情と一体になって、それに巻き込まれている。
      よって、マインドフルネス認知療法では、一定の手法によって、心を鎮める訓練を行い、その後、自分の思考や感情を冷静・客観的な視点から観察すること、すなわちよく気づく訓練をする(=マインドフルネス)。これは自分の思考や感情を観察する自分を作ることであり、自分の認知を観察するメタ認知ともいわれる。言い換えれば、自分自身と、自分の思考と感情が一体化していたところに対して、両者の脱一体化を図るのである。そして、この脱一体化が始まると、心理療法の経験では、症状が和らぐという。
      そして、普段の自分の思考や感情を本当にあるべき自分の意識ではないと考える思想は、仏教の無我・非我の思想・瞑想や、四念処・五蘊無我の瞑想などにある。実際に、マインドフルネスという言葉は、仏教の「念」という言葉から来ている。西洋現代の心理学者が、仏教思想に心の問題の解決のヒントを見出したのである。彼らにとっては、仏教の教えの一部は心理学・心理療法であり、ブッダは心理療法家とも位置付けられているという。
      それでは、再び話を元に戻し、本来の自分の意識が、自分自身を見失ってしまった結果、どういうことになるかについて述べる。


    6.根本無智から派生した無智:自と他を区別する意識

      その本来の意識が自分を見失ってしまうと、私たちの心には自と他の区別が生じ、他よりも自己を偏愛する状態(自我執着)が生じる。この「自と他を区別する意識」は、あらゆる煩悩の源になるので、これを無智と呼ぶ場合も少なくない。
      自と他を区別する無智の意識状態は、どういったものか。それは、自分と他者が別物であり、なおかつ自と他それぞれが固定的なものに感じられている。すなわち、縁起や空の理解が失われている。
      縁起や空を理解する智慧とは、万物が相互依存であり、固定した実体を持たない、というものであった。自と他は相互依存でつながっており、自と他双方とも、必ず死ぬように、固定した実体はない。こうして、自と他が一体であり、両者とも固定した実体がないと悟っている場合は、人は、自分だけを過剰に偏愛したり、自分のために(他と争って)多くのものを得たりしようとはしない。よって、欲や怒りが生じない。
      なぜならば、自分には実体がないと感じているから、自分だけを過剰に偏愛しないし、さらには、自分は他者と別のものではなく一体であると感じている。また、自分だけではなく、他者万物に実体を感じなければ、自分のために何かを得ようとする意識も生じない。

      しかし、自と他が別物であり、それぞれに実体があると感じ、自分を偏愛する意識が生じると、その自分のために、他者・外界の中で、好ましいと感じるものが生じて、それを欲し、好ましくないと感じるものが生じて、それを嫌う心が生じる。
      これは、夢や映画の喩えを逆のプロセスで考えるとわかる。夢の中で、それが夢だと気づいていた人が、再び夢であることを忘れてしまうと、どうなるか。するとやはり、夢の中の私と一体化し、夢の中の私を過剰に偏愛し、場合によっては、夢の中の他者と相争う(という内容の夢を見ることになる)。
      しかし、それが夢だと気づいていた時には、夢の中の私と他者は、別々のものではなく、すべては自分の夢の一部として一体である。そして、そのどちらにも実体は感じないから、自分だけを偏愛したり、その夢の中の何かに強く執着したり、嫌悪したりすることはない。


    7.現実と夢や映画の喩えとの違い

      なお、現実と、夢や映画の類似性を指摘したが、当然異なる部分がある。それは、夢を見ている人は、それが夢だと気づいた後まもなく、夢から覚める。すなわち、夢を見ることをやめる。映画も同様である。
      しかし、悟りによって現実が夢に似た側面があると気づき、本当の自分の意識が目覚めたとしても、現実の体験をやめることはできない。厳密にいえば、それをやめるのは死を迎える時である。その意味で、現実は長い夢のようなものだという人もいる。
      しかし、それも長い夢と似ているというだけであって、長い夢と同じではない。自分の夢は、自分が目覚めればなくなるし、なくなってもよい。しかし、現実世界で悟り目覚めたとしても、現実世界がなくなれば、悟り目覚めた自分自身も同時になくなってしまう。
      先ほど真我との違いの所で述べたように、ここでの本当の自分の意識とは、この世界と別に存在している絶対的な存在ではなくて、あくまでもこの世界と共に、相互依存しあって存在するものである。
      また、夢の世界は、自分が目覚めれば消えてなくなるが、現実の世界は、自分が死んでも、他に生き続ける人がいて、延々と続いていく(こう考えるのが普通である)。



    8.自我執着を弱めるとともに慈悲を培う

      ここで、仏教などの教えが、現実と、夢や映画との類似性を説く目的は、執着を弱めるためである。特に、「私」と「私のもの」に対する過剰な執着である。私と私のものへの執着を、仏教では、それぞれ「我執(がしゅう)」や「我(が)所(しょの)執(しゅう)」ともいう。
      私に過剰に執着し、私のものを過剰に増やそうとすれば、その裏側にさまざまな苦しみが生じる。この点については、後にあらためて検討するが、苦しみが生じるゆえに、私や私のものへの過剰な執着を弱めようとして、夢との類似性を説くのである。
      そして、重要なこととして、仏教が説くのは、過剰な自我執着を弱めるだけではなく、万人・万物への愛、すなわち慈悲を説くということである。「私」だけに執着せずに、「万人」を愛しましょう、ということである。こうして、この世界は夢のようなものであるからといっても、この世界が無価値であるとか、空しいとか、否定したり、破壊したりしてよいということではないのである。
      そのため、仏教の修行では、①無智を乗り越えて縁起や空を理解した智慧と、②大慈悲(四無量心)の二つの実践が重要だといわれることが多い。


    9.ブッダとは目覚めた人という意味

      これらの教えを理解すると、サンスクリット語のブッダという言葉が、目覚めた人という意味を持つことが理解しやすいだろう。というのは、悟りというものの本質が、現実の世界に、夢との類似性があることに気づくことを含んでいるからである。
      ないしは、夢から目覚めるのと似たように、悟りの状態にも、見失っていた本来の自分自身を取り戻すといった意味合いがあるからである。
      さらには、悟りとは、新しい意識の目覚めではあるが、それは、そもそも存在しているにもかかわらず、悟るまでは見失っていたものであると考えるので、その意味でも、目覚めた、という言葉がよく合っているということができる。

     

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  • 2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』 (2016年10月18日)

    第1章 不安や恐怖を和らげる


    1 はじめに

      物質的には豊かになった現代社会でも、私たちの人生には、さまざまな不安が付きまとっています。例えば、仕事、経済、人間関係、健康、老後・死の不安など。そして、最近は、不安神経症・強迫観念症の人も目立ってきました。
      これは、物や技術が豊かになっても、人の心の不安は、解消されないことを示しています。そこで、本章では、不安や恐怖を和らげる方法を解説したいと思います。


    2 不安と欲求は比例する

      まず、不安は、欲求と比例して大きくなります。「こうしたい」、「こうでなければならない」という欲求が多ければ多いほど、「そうならないのではないか」という不安も増大します。
    私が、仏教哲学を研究した結果としては、欲求の増大とともに、以下のような不安・苦しみが生じます。まず、欲求には際限がありません。満たしても満たしても、「もっともっと欲しい」と思うのが、人間の心です。そのため、第一に、必ず欲求が満たせないという苦しみが生じます。その前に、「満たせないのではないか」という不安が生じます。
      第二に、何かを求めて、それを得たとしても、そのために、逆に、「それを失うのではないか」という不安が生じます。そして、場合によっては、実際に失う苦しみが生じます。
      第三に、求めれば、多くの場合、同じものを求める他人と争い・奪い合いになります。そこで、「他人に負けるのではないか」、「奪われるのではないか」、という不安・苦しみが生じます。また、「憎まれるのではないか」、「妬まれるのではないか」、といった不安・苦しみも生じます。
      これらの人生の不安・苦しみに加えて、人間には、老い・病み・死ぬという根本的な苦しみ・不安があります。そして、これらの人間の抱える苦しみ・不安全体を表現したものが、「四苦八苦」という言葉の本来の意味です。これは、そもそもは仏教用語だったのです。


    3 欲求と不安を自己管理する

      もちろん、欲求と不安がすべて悪いと言っているのではありません。欲求と不安が全くなければ、何かを実現したり、改善したり、問題を察知して解決したりすることもできません。これまでの人類の発展もなかったでしょう。
      しかし、強すぎる不安は、逆効果となります。焦りや緊張が強すぎれば、逆に目的を達成することができません。また、不安に押しつぶされて萎縮し、非常に消極的な生き方に陥る場合もあります。また、人によっては、不安を持つ必要がない些細なことにも、不安を持つ場合があります。いわゆる、不安神経症とか、強迫観念症とも言われる状態です。
      よって、欲求と不安が大きくなり過ぎないようにする必要があります。つまり、自分で、欲求と不安の量をコントロールできるようになることが望ましいと思います。


    4 とらわれを減らす

      さて、これまでにお話ししたとおり、不安が強すぎる場合は、欲求・とらわれを減らすことが、その一つの解決策となります。
      しかし、これには多少のハードルがあります。不安が生じるということ自体が、欲求に執着している、とらわれている状態だからです。簡単に欲求を減らせるならば、不安が強すぎる状態にはならないからです。
      そこで、不安が強すぎる場合は、落ち着いて「今自分が望んでいるものは、そのすべてが必要なものだろうか」と考えてみるとよいと思います。例えば、

      「それは皆、今、絶対に必要だろうか。もう少し後でもよいのではないか。
      焦りすぎてはいないだろうか。」

      「それは皆、自分が健やかに生きていくために必要だろうか。
      十分に恵まれているのに、欲張っているのではないか」

      などと、自問してみます。
      そうすると、多くの場合、必要以上のものを求めていることに気づきます。そして、少しだけ、自分の欲求・とらわれを減らすように、自分に言い聞かせます。そして、これがうまくできれば、心が落ち着きます。


    5 腹八分目の精神

      とはいっても、とらわれを減らすことは、なかなか難しいものです。例えば、「求めることをやめてしまったら、幸福になれないのではないか」という思いも生じます。これは当然のことでしょう。それが、まさに「とらわれ」というものだからです。
      しかし、必要なことは、欲求・とらわれのすべてを捨てることではありません。それを「少しだけ」でいいから、節約することです。そして、客観的に見れば、とらわれによる不安が強すぎる場合は、それに押しつぶされてしまい、逆に不幸になろうとしているのです。落ち着いて考えて、これに気づき、自分に言い聞かせることが重要です。
      よく、「腹八分目に医者いらず」と言います。これは、食べたいと思う量の8割くらいまでにしておく、ないしは満腹の一歩手前でやめておくと、健康を守ることができるということですね。そして、この腹八分目の精神は、体の健康のみならず、心の健康にも役立つものだと思います。食べ物も、「こうしたい」という心の欲求も、多すぎれば、不幸を招くのです。
      言い変えれば、人間は、多くの場合、幸福になるために必要なものを100パーセントではなく、120パーセントくらい求めてしまうものだと思います。そうした時に、不安が強くなる場合があります。これをよくわきまえ、必要な時に、内省してみるとよいと思います。


    6 とらわれない方がうまくいく智恵

      そして、古来の格言・ことわざや、仏教哲学を学んでみると、とらわれ過ぎない方が物事がうまくいくとか、幸福になるという智恵があることがわかります。
      例えば、「急がば回れ」、「急いては事をし損じる」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言があります。武術や競技の世界でも、「肩の力を抜け」、「勝つと思うな、思えば負けよ」と言われます。
      これは、欲求・とらわれが強すぎると、焦り・緊張・不安が強くなりすぎ、逆にうまくできなくなることを示しています。そうした時に、少しだけ、とらわれを節約すると、逆にうまくいくのです。
      私も、人前で講話をする時に、うまく話せるかが不安になることが、時々あります。そうした時は、「うまくやろうと思わない方(思いすぎない方)がうまくいく」と自分に言い聞かせることがあります。そして、今までの経験で、本当にそうだと思っているので、そのように言い聞かせると、すぐに心が落ち着くようになりました。


    7 無心・無我の境地が最強という智恵

      そして、この延長上に、仏教の悟りや、武術の達人の境地として、いわゆる無心・無我の境地というものがあると思います。
      武術の達人は、相手に勝つこと(負けないこと)を目的としています。しかし、あたかも「勝ちたい」という欲求がないかのように、心が静まっている状態こそが、最強・無敗の境地であるということです。これは、静まった心こそが、相手の動きを最も正確に読み取ることができるし、自分の体も、緊張なく最もスムーズに動くからではないかと思います。
      仏教では、心が静まると、物事をありのままに見ることができると説きます。これは、有名な「止観」という教義です。「止」と「観」とは、「心が止まると、物事を正確に観ることができる」という意味です。
      そして、物事をありのままに見ることができる、という意味の中には、単に正確な分析力・判断力だけではなく、いわゆる直観・ひらめき・インスピレーションといった高度な知性が含まれています。心が静まった状態でこそ、直観が生じやすくなるのです。


    8 捨てた後に、舞い込んでくる幸福

      よって、とらわれを捨てた後に、逆に得られるものがあるのです。「うまくやろう」と思い過ぎるとらわれを捨てて、心が静まった結果として、正確な判断力・直観が生じ、逆に物事をうまく行う智恵が生じるということです。
      また、単に自分の判断力や、直観が改善するだけでなく、実際に、自分の周囲の流れが良くなると感じる場合もあります。例えば、とらわれている間は、なかなか得られなかったものが、とらわれを捨てたら、逆に舞い込んできたと感じることです。
      これはあたかも、幸福を求めて幸福になるというのではなく、幸福があちらから舞い込んでくるような感覚です。まさに、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言の背景にあるものかもしれません。
      不思議なことですが、この現象を合理的に説明できる面もあります。例えば、何かにとらわれるあまり、ガツガツしていれば、他人との良い関係は得にくくなります。「友達が欲しい」、「恋人が欲しい」、「顧客が欲しい」、「取引先と良い関係を得たい」と思っても、空回りしてしまいます。とらわれを弱めて、振る舞いに落ち着きや明るさが出てくれば、他との良い縁が得られやすくなります。何事も自分の力だけでは成せないものですから、これは重要だと思います。
      また、とらわれが強く、焦りがある場合は、時間が長く感じられて、「いつまでたっても、うまくいかない」と感じます。しかし、とらわれを弱めて、今できることに集中していると、その間に、求めていたものが得られることがあります。こうした場合も、幸福が舞い込んできたと感じるものでしょう。


    9 バランスが重要。釈迦牟尼の中道の思想

      繰り返しになりますが、これまでのお話は、欲求・とらわれをすべて捨てるということではありません。適度な欲求を持つ、欲求の量を管理するということです。欲求が、多すぎず、少な過ぎず、バランスが取れていることが最善だということです。
      欲求が全くなければ、何の進歩・改善もありません。仏教で言えば、釈迦牟尼も、真の幸福を求めて、修行に入り、悟ったとされます。また、そもそも、人間が生きるためには、生存欲求が必要です。これを捨てるということは自殺を意味します。宗教で言えば、苦行の果てに死ぬことを解脱と誤解した一部の昔の修行者のケースです。
      その一方で、欲求・とらわれは、多ければ多いほど、多くのものが得られる、幸福になる、というわけでもないことが、重要なポイントです。全く欲求がなければ、得ることはできませんが、逆に多すぎれば、空回りするばかりか、逆に得られにくくなるということです。さらには、心身を病んだり、周りが敵ばかりに見えてきたりする場合さえあります。
      そこで参考になるのが、釈迦牟尼の中道という思想です。釈迦牟尼は、王子として生まれました。よって、修行を始める前に、王子として欲楽を極める生活をしたと思います。その後、修行に入って苦行を行いました。それは、極度の断食など、死の間際まで自分の体を痛めつけるものでした。
      その結果、釈迦牟尼は、このどちらの生き方も、真の幸福・悟りに至るものではないと悟り、どちらにも偏らない「中道の教え」に目覚めたとされます。それは、欲楽にふけるものでもなく、いたずらに体を痛めつけるものでもなく、心を静めた平安の境地(涅槃)を目指すものでした。


    10 とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観

      ここで、仏教の哲学の中で、とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観をご紹介したいと思います。その代表的なものが、無常と慈悲の思想です。
      まず、無常とは、世の中のすべてが移り変わり、生じたものは滅するということです。私たちは、いつか必ず死にます。死ぬときは、それまでに得たものはすべて失います。だとすれば、例えば、「お金・名誉・地位などに、あまりにガツガツして生きることに、絶対的な価値があるのだろうか」と考えることができます。
      実際に、あまりにそうしようとすれば、犯罪さえも犯しかねず、実際に、そうした事例が毎日報道されています。それは著名な政治家・事業家にまで及んでいます。そのため、死んだ後に汚名を残す場合もあります。
      これに対して、自分がいずれは死んで、得たものすべてを失うことを意識することは、有益だと思います。こうして人生を長い目で見ると、目先のものへのとらわれが弱まり、本当に重要なことが何かが見えてくるのではないでしょうか。
      なお、仏教では、人は、「自分」と「自分のもの」にとらわれると説きます。それぞれを我執(がしゅう)・我所執(がしょのしゅう)と言います。お金や地位や名誉といった「自分のもの」に対するとらわれは、「自分」に対するとらわれが土台になっています。よって、「自分」を失う「死」を意識することで、「自分のもの」に対するとらわれを弱めるのです。

     

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  • 2011~2012年 年末年始セミナー特別教本『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』 (2016年10月11日)

    第一章 三悟心経の由来

      「三悟心経(さんごしんぎょう)」は、ひかりの輪オリジナルのごく短いお経である。それは、これまでにひかりの輪で説かれてきた万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りの教えのエッセンスである。「心経」とは、心髄の教えという意味で、「般若心経」の場合も、般若経典の中の心髄の教えという意味である。
      この教えが生まれた一つの背景は、それ以前にひかりの輪で実践されてきたサンスクリット原語のマントラ(真言)が、日本人一般にとっては馴染みにくいということがあった。まず、日本語ではないので意味がわからないこと、さらには正確には発音しにくく、日本語訛りになることなどである。
      それとは別に、このお経が生まれるもう一つの背景として、ひかりの輪が長年行ってきた日本各地の聖地巡礼があった。その一つに、昨年2010年に、島根県に大国主(おおくにぬし)神(のかみ)を祭る出雲大社を巡礼した。この出雲大社の御祭神の大国主神は、日本の神道の神話上、日本列島に最初に国を作った国造りの神とされる(神武天皇による大和朝廷以前)。
      この大国主神は、出雲と周辺諸国を治める上で、人々の心を歌で惹き付けたとされ、そのため、歌の神ともされる。そして、これは日本の「歌」であるから、和歌や短歌というように、韻を踏んだリズミカルな言葉であろうというのが、私の解釈である。そして、この韻を踏んだリズミカルな言葉というのが、「三悟心経」にも活かされている。
      さて、その後、今年2011年になって、羽黒修験道で有名な出羽三山を巡礼した。その際、現地の修験道の先達に習って修験道の勤行を行ったが、その中に含まれていたのが、般若心経の読経であった。
      般若心経は、大乗仏教が中心の日本の仏教において宗派を問わず広く唱えられている。読経される経典としては、間違いなく日本で一番人気のある、突出して人気のあるお経である。そのお経は漢訳の経典で、「色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)」という言葉で有名で、四字熟語などを中心とし、読んでみるとリズミカルな経典で、この、読んだときの調子・リズムによる心地よさが人気の原因ではないかと私は感じた。
      しかし、色即是空・空即是色を含め、全体が漢語であるため、ほとんどの人には、読経はできても、ある程度仏教用語を知っている人でも、意味を理解することは難しい。ましてや一般の人の場合はなおさらで、意味がさっぱりわからないだろう。よって、読経自体はリズミカルだが、その教えの意味が、心に入ってくるのは難しいだろう。
      そういった経緯の中で、韻を踏んだ語句によって読経するのにリズミカルで、かつ現代の日本人の皆さんにも、わかりやすい経典を独自に作れないかという視点から生まれたのが、この三悟心経である。
      それは、「三悟心経」という題名を合わせると全部で27文字で、般若心経(約270文字)の十分の一の短さであり、しかも、現代日本語で表現されているので、誰にでもわかりやすいものとなった。四字熟語を中心に、韻も踏んだ語句となっている。
      とはいえ、これは、世界の普遍的・根本的な道理とする思想、すなわち万物を輪のように平等一体と見る思想(輪の法則、一元法則)を、ひかりの輪なりに表したものである。その普遍的な道理は、現代社会の日常の意識・常識を越えた法則であり、よって、その理解のためには十分な解説が必要となる。その理解ができていれば、すでに一定の悟りの段階(推理智)に来ているともいうことができるからである。本書の主な目的は、その解説である。


    第二章 万物に感謝する教え:万物恩恵・万物感謝


    1 三悟心経

    三悟心経は、以下の通りである。

      万物(ばんぶつ)恩恵(おんけい)、万物(ばんぶつ)感謝(かんしゃ)
      万物仏(ばんぶつほとけ)、万物(ばんぶつ)尊重(そんちょう)
      万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛(あい)す

    簡単に意味を示せば、以下の通りである。

      万物を恩恵と見て、万物に感謝する。
      万物を仏と見て、万物を尊重する。
      万物を一体と見て、万物を愛する。

      そして、このお経は、教えを説いたお経でもあるが、同時に、このような心境に至るように自ら努めるとともに、万物を神仏としてその達成を誓願するためのものであるから、「誓願の言葉」とも言われている(三つ悟りの誓願の言葉)。


    2 万物に感謝する教え「万物恩恵・万物感謝」の解説

      では、「万物恩恵、万物感謝」という教えの意味合いを解説する。
      まず、日ごろ、私たちが体験するものは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものの三つに分類することができる。そして、好きなものには、それをもっともっと欲しいと感じ、嫌いなものには、それから逃げようとか、それを排除・破壊しようと感じ、無関心なものには何も感じない。
      この一つ目の心の働きを仏教では貪りと言い、二つ目の心の働きを怒りと言い、この二つを含めて、貪り・怒り・無智の三つを心の三つの毒(三毒)と呼ぶ。伝統的には、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒と言われることが多い。
      しかし、こうした心の働きは、私たちが本来感じることのできる幸福を非常に少なくしてしまう。それは後ほど詳しく説明するが、例えば、好きなものがあっても、「もっともっと」という心の働きが強いと、それは際限がないために、満ち足りることはなく、その裏側にさまざまな苦しみをもたらす。
      また、嫌いなものでも、その裏側には、私たちにとって、大きな恩恵となるものがあるが、それからいたずらに逃げる心が強いと、それを活かせない。そして、普段はまったく無関心な対象も、大きな恩恵をもたらしている事実がある。
      その結果として、多くの人が、万物に恩恵を感じ、万物に感謝できる心の状態ではなくて、その逆に、いろいろな不幸・不足を感じ、いろいろな不満を抱く、といった心の状態に陥りがちである。一言で言えば、自分を取り巻く条件が客観的にどうであれ、心が感じる幸福・喜びが少なく、不幸・苦しみが多いという状態である。
      それは、客観的に見たら世界最高レベルの長寿と豊かさと安全といった三拍子揃った日本という社会に住んでいながら、年間に三万もの人が自殺し、数百万もの人が精神を病むといった現状が、表している。
      よって、この万物恩恵・万物感謝という教えの意味・目的は、心の持ち方、ものの見方を変えることによって、心の感じる幸福・喜びを最大限にしようというものである。その究極的な状態が、万物を恩恵と見て、万物に感謝できる心境である。
      そして、それに少しでも近づければ、日常生活で感じる幸福・喜び・恩恵・感謝が、今までの二倍・十倍・百倍となっていく。そして、究極的な状態が、仏陀の四無量心と呼ばれている心の状態で、その中には、無量=無限の喜びが生じているという。
      では、次に、具体的にどのようなものの見方・考え方によって、万物恩恵・万物感謝の境地に近づくことができるかについて、解説する。


    3 私たちは一体である宇宙の万物に支えられている:無智の捨断

    (1)万物の支えを意識して感謝する

      万物を恩恵と見て感謝する心を培うために、まず意識するとよいことは、私たちは自分だけの力だけではなく、万物の支えで生きているということである。
      それは、具体的に言えば、他の人々の支え、日々の糧となる他の生き物の支え、空気・水などを与える地球の生命圏の支え、太陽からの陽の光を含めた太陽系や、太陽系を支える銀河系、無数の銀河系を相互に支え合っている無限の宇宙と広がっていく。よって、万物を恩恵と見て、万物に感謝する。
      このものの見方のメリットは、
      ①普段はまったく意識しない万物の支えを改めて意識して、感謝の心を培うこと
      ②狭くなりがちな意識を解放して、宇宙全体に広げること
      ③自分だけの力で生きて(成功して)いるという慢心とそれによる苦しみを減らすこと
    などがある。
      なお、この教えを伝統的な仏教的な方便(表現)で解説するならば、釈迦牟尼が説いた縁起の法にあたる。縁起の法の「縁起」とは、「因縁(いんねん)生起(しょうき)」の略であり、万物が、他から独立して、自分だけの力で生じるのではなくて、他に依存して、他を原因・条件として、生起しているという事実を説くものである(因=原因、縁は条件といった意味がある)。
      よって、縁起の法は、人の思考の対象となる宇宙の万物は相互に依存し合って存在し、固定した実体がなく、本質的に一体であることを意味している。なお、ひかりの輪は、仏教開祖・釈迦牟尼を尊敬し、仏教のさまざまな教えを採用しているが、仏教とその教えを絶対視してはおらず、あくまでも、それを方便・手段として活かそうとしている。
      よって、教えの解説においては、まず現代の誰もがわかる日本語の言葉で解説し、その後、その教えが、伝統仏教の教え(ないしはその他の宗教の教え)においては、どのような教えと関係するかを付け加える形で紹介するスタイルをとることにする。

    (2)万物を一体と気づいて、平等な感謝と愛を培う

      さて、次に考えるべきことは、私たちが得ている万物の支えというものが、平等で一体であるということである。私たちの毎日の生活や、幸福の探究を支えているのは、自分が日常の中で好きだと感じる人・ものだけでなく、嫌いと感じる人・ものや、普段は無関心な人・ものも含めた万物である。
      日常の感覚では、好きと感じる以外のものは、あたかも必要がない存在のように錯覚しているが、実際には、嫌いと感じるものや、無関心なものに支えられなければ、私たちは生きていくことはできない。客観的に見れば、好きなものよりも、むしろ、嫌いなものと無関心なものを合わせたものの方が、実際に私たちの毎日を支えている割合は、圧倒的に多いだろう。
      さらに重要なことは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものを含めた万物は、お互いに切り離すことができない、相互に依存し合った関係にある。すなわち一体として存在している。
      例えば、人類社会は、今や非常に進化した分業のシステムの中にある。普段はまったく意識しない地球の裏の国の産業活動も、私たちの毎日の経済生活に直接関係するほど、人類社会の一体性が深まっている。普段意識する存在に支えられている割合の方が、全体の中では、圧倒的に少ないだろう。
      また、嫌いなものに支えられている場合も非常に多い。自分が嫌いな人や、ないしは会えば必ず嫌いになるであろうタイプの人が働く会社の製品・サービスに、毎日大変助けられていたり、自分が日常生活で最も嫌いだと感じている人が、自分の最愛の人を産んだ人であったりする場合も多いようだ(嫁と姑の問題)。多くの場合、好きなものが嫌いなものを、嫌いなものが好きなものを作っている。
      また、私たちを育む地球の生命圏・大自然も相互依存の一体性の中に存在する。今日の私たちにとっては嫌に感じられる雨も、農家にとっては必須の「恵みの雨」であり、その農産物がなければ、私たちも生きていくことができない。逆に、晴天の日の心地よさも、雨乞いをする農家には、恨めしいものである。快適なものが不快なものを、不快なものが快適なものを作り出している。
      こうしてみると、私たちは一体である万物の中の一部分を見ては好きだとか、嫌いだとかと感じているが、それらは一体である全体の一部であって、他から独立した存在ではないことがわかる。
      そして、ここで重要なことは、このことを意識すると、万物を一体と見て、万物に平等に感謝する心を養っていく第一歩となることである。その意味で、万物を一体として恩恵と見て、万物に平等に感謝するのである。
      ここでも、この教えに関して、伝統の仏教的な方便・表現による解説を加えておこう。大乗仏教の教えでは、「平等心」という言葉がある。これは、普段好きだとか嫌いだとかとして、区別している対象を等しく平等に愛する心の働きであり、仏陀の心の働きの一つであるとされる。万物を平等に愛するのが、仏陀の心なのである。
      そして、さらに重要なことは、仏陀の平等な愛は、万物への平等な感謝から生じるということである。感謝に基づいた愛なのである。これは、詳しくは後に述べるが、すべての衆生を救済するために、仏陀の境地に至ろうと決意する「発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)」と呼ばれる教えに関係してくる。


    4 貪りを越えて慈悲を培う感謝(貪りの捨断)

      資本主義を中心とした現代社会に生きる私たちは、日常生活の中で、快楽は、それを必要以上に際限なく貪ろうとし、その逆に、苦しみには嫌悪して、それを避けようとばかりする傾向が少なくない。
      しかし、昨今行き詰まりを見せつつある資本主義の中で、今こそ、この快楽と苦しみといったものの本質について、正しく知る智恵(智慧)が必要である。すなわち、人が感じる楽と苦というものの本質を深く考察してみるのである。すると、自分が日常生活に流される中で、いままで理解していなかった、私たちの心の働きの真理を理解することができるのである。
      その心の働きの真理の中で、まず第一に重要なことは、苦楽表裏という事実である。これは、楽を貪ると、苦しみも増えて、楽の裏に苦があるということ、そして、逆に、苦しみの裏には、楽もあるということである。
      まず、快楽の貪りは、際限がない。そのため、決して真の満足は得られない。例えば、私たちは、世界全体から見れば、長寿・豊か・安全と三拍子揃った日本社会に生きている。しかし、日本社会の中から見れば、年間三万人が自殺し、数百万人の人が精神を病み、停滞する経済と少子高齢化により、多くの人が現状への不満と、将来への不安を抱えている。これはなぜだろうか。
      貪りの心は、何かを得ても、喜びや感謝の気持ちは最初だけで、すぐにそれを当然のものとして、さらに求める性質がある。その一方で、いったん得たものには執着が生じ、得る前はそれ無しでいられたのに、得た後に失うと、非常に辛く感じられる。そして、より多くを求める中で、ないし得たものを守ろうとする中で、他との奪い合い、妬み・恨みなどが生じる。こうして快楽の貪りの裏には、さまざまな苦しみがあるのである。
      これを伝統の仏教的な方便・表現で解説すると、四苦八苦という教えである。仏教の専門用語の「四苦八苦」とは、我々が日常的に用いる特別に苦しい状態を意味する言葉ではなく、貪りや執着のため、人間が陥りやすい一般的な苦しみを八つに分類したものである。
      こうして、貪りには際限がなく、それが強くなると、決して満ち足りず、絶えず不満が生じ、感謝の心が弱まる。よって、「万物恩恵・万物感謝」ではなく、「万物不足・万物不満」といった意識状態になる。
      そして、貪りの心は、非常に偏狭な視野に陥っている心の状態である。それは、自分が得ていないもの、自分より恵まれている人ばかりを見ており、世界全体を見ていない。その結果として、自分の幸福の大きさを客観的には見ることができない状態である。
      この貪りの落とし穴に気づくには、今与えられている幸福の大きさを努めて考えるようにして、それに気づいて感謝し、足るを知る心を持つことである。そうすると、人の感じる幸福感とは、じつは、お金や名誉の量といった外的な条件よりも、心の持ち方によって、心から生まれるものであることがわかる。
      言い換えると、同じ環境にあっても、心の持ち方で幸福な人もいれば不幸な人もおり、どんな場合でも、心の持ち方によっては、幸福を見いだすことができるが、貪りにとらわれると、どんな場合でも、不満が生じることがわかる。幸福は心が感じるものだから、幸福感は、心が中心となって生み出している。これに気づくと、万物恩恵・万物感謝の心境に近づくことができる。
      そして、感謝は、人にとって最も重要な宝ともいうことができる「慈悲の心」をもたらす。感謝によって、貪りが静まると、自ずと、自分と世界がありのままに見えてくる。すなわち、世界の中で自分の得ている幸福の大きさに気づくのである。
      その中から自ずと、自分よりはるかに苦しんでいる、恵まれていない者たちが、この世界には、無数に同時に存在している事実に気づき、他への慈悲の心が生じる。そして、ひいては、貪りとは正反対の分かち合いの重要性に気づくことになる。
      この慈悲の心というのは、「仏の心」ともされるが、人の心の働きの中で、貪りや怒りとは違って、非常に大きな安定した幸福感を与えるものである。感謝と結びついた慈悲の心は、その意味では、人にとっての最大の宝であろう。
      一方、現代の日本社会に生きる我々の日常の状態は、多くの場合、この視野(しや)狭窄(きょうさく)の状態に近いのではないだろうか。自分の生きている周囲の世界がほとんど見えていない状態で、自分のことばかりを考え、そして、自分がまだ得ていないもの、自分より恵まれているものばかりを見ている。そこから、現状への不満と将来への不安が生じる。
      それは、仏陀の視点から見るならば、自分よりはるかに苦しむ無数の存在に対して、非常に無慈悲な心の状態だろう。
      さて、無慈悲という言葉を使ったが、この貪りの心の本質は、しっかりと分析するならば、そもそもが、他から幸福を奪おうとする心の働きなのである。
      そして、奪うために生じるのが、嘘や悪口、盗みや不当な手段での取得、場合によっては殺しといった、さまざまな悪行や犯罪行為である。しかし、この悪行は、長期的には、当然、さまざまな苦しみをその本人にもたらすことになる。
      この点について詳しく分析してみよう。際限のない貪りは、必ず、自分と他人を比較して、他よりも多く得よう、他に優位に立とうという心の働きを含んでいる。よって、必ず他との奪い合いの一面がある。
      お金持ちになることや、名誉、地位、権力を得ることは、皆が得られるものではなく、他との比較・競争・奪い合いの一面がある。そもそも、お金持ちとは、他と比較して多くのお金を持っていることだし、名誉や地位や権力も同様である。
      その意味で、自分が快楽を貪る裏側には、必ず他の苦しみが存在している。自己の快楽の裏に他の苦しみ、他の快楽の裏に自己の苦しみが存在する。言い換えると、貪りとは、どこかで自分のことだけを考え、他の苦しみを無視しなければ、できないのである。気づかないうちにか、気づいて自覚的に行うかは別にして、貪りとは、「無慈悲になる」という大きな代償を必要とするものである。
      こうして、貪りは、そもそもが、他から幸福を奪おうとする無慈悲な本質があるから、他から奪う過程で、前にも述べたとおり、嘘や悪口、盗みや不当な手段の取得といった悪行を犯すことにもつながっていく。私たちの世界の中で、富や権力の追求において、これは非常によくあることだろう。
      ここでもう一つ重要なことは、貪りの心の働きがあると、自分より恵まれていると思われる人への妬みが強くなる。しかし、その妬みの対象は、自分が想像しているようには、実際には幸福ではないのである。それは、自分の貪りのために、その人が自分よりも幸福だと錯覚しているだけにすぎない。真実は、慈悲こそが真の幸福の道である。
      自分より多くを得ていても、貪りは際限がなく、真の満足をもたらさない一方で、より多くを得たがゆえに、それを失う不安や恐れも多く、奪い合いにも深入りして、妬みや恨みを買うことも多い。さらに言えば、奪い合いの中で悪に手を染めている場合も多い。
      それでは、本人は決して幸福ではない。しかし、貪りの心が強いと、こういったことがわからず、実際には、妬む必要がないのに、妄想の中に入ったかのように、妬みの感情に苦しんでしまうのである。
      なお、別のケースとして、妬みの対象が、快楽を貪るものではなく、真に精神的に優れた存在である場合があるが、その場合は、そういった存在は、自分の幸福への障害・邪魔なのではなく、切磋琢磨して自分が向上するための貴重な助力者である。ただ、名誉や地位への貪りは、それがわからなくなる原因となる。
      こうして、この貪りの落とし穴に陥らないために、感謝と分かち合いが必要である。感謝がないと、足るを知って貪りを静めることが難しい。そして、他への無慈悲や、自分の力で幸福になっているという慢心が生じる。それは、他の幸福を奪う、他を苦しめる悪行が増大する原因となる。
      一方、感謝に基づき、自ずと生じるのが慈悲の心である。そして、慈悲の心は、貪りや奪い合いの悪行とは正反対の行為である分かち合いの実践をもたらす。他と苦楽を分かち合う行為である。
      最後に、こうして、私たちが日常生活で感じているさまざまな苦しみが、実は貪りの心によって生じているものであることに深く気づくならば、そういった苦しみの経験は、貪りを反省し、智恵(智慧)と慈悲を育むために、神仏が与える愛の鞭と解釈することもできるだろう。
      すなわち、苦しみを恩恵として感謝できる心境である。こうするならば、苦にも楽にも感謝し、この意味でも、万物恩恵、万物感謝の心境に近づくことができる。よって、この点について、次に詳しく述べることとしたい。


    5 苦しみの裏にある喜びに気づいて感謝する(怒りの捨断)

      さて、次に快楽への貪りではなく、苦しみに対する嫌悪について考えてみよう。普通、人は、苦しみを嫌がり、快楽を求める。しかし、深く考えてみるならば、快楽や喜びばかりの人生は、恐ろしいものであり、逆に、一定の苦しみの経験は、先ほども述べたが、慈悲という大きな宝の源になり得ることがわかる。
      まず、苦しみが慈悲の源であることについて考えてみよう。人のさまざまな苦しみの根元は、自分と他人を区別し、自分のみを偏愛し、自分のために、さまざまな快楽を貪ることによって生じることは、先ほど述べたとおりである。
      この苦しみの真の原因に気づく(=智慧が生じる)ならば、自と他を区別せずに、万物を平等に愛する慈悲の心、すなわち、苦楽を分かち合う心の働きが生じ、それによる最高の精神的な幸福を得ることができる。
      その意味では、自己の苦しみというのは、私たちを智慧と慈悲に導く愛の鞭であるということができる。例えば、自己の苦しみの経験があってこそ、それを活かして、他の苦しみを理解し同情し、それを分かち合おう、取り除こうという温かい心の働きも生じる。また、自己の苦しみの経験があってこそ、他が苦しみから脱却して、幸福になることを本当に喜ぶ心の働きも生じる。
      逆に苦しみの経験が少なく喜びの経験が多い者は、他の苦しみを理解することはできない。美貌・才能・財産・名誉・地位などすべてを得ていたマリー・アントワネットが、それがゆえに、民衆の餓えの苦しみをまったく理解できず、命を落とした話は有名である。
      一方、慈悲の化身とされる観音菩薩は、その前生において、さまざまな苦しみが連続する悲惨な生涯を送ったが、「その苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決意したことによって誕生したという説話がある。こうして、苦しみの体験が、まさに慈悲の化身を生み出したのである。
      伝統的な仏教的な表現では、この、他の苦しみを自己の苦しみのように悲しみ、他の喜びを自己の喜びのように喜ぶ心の働きを「慈悲」という。詳しくは、他の苦しみを悲しみ、取り除く心を「悲」といい、他に幸福・楽を与える心を「慈」の心という。
      次に、苦の裏には楽があるという理解をもう少し深めるために、いろいろな具体的な事例を見ることにしよう。
      まずは、物理的な苦しみに関してである。病気は苦しみであるが、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気があった方が、体を労り、長寿になるという意味である。確かに、病気の中には、普段の不摂生が原因のものも多い。それを反省し、改めて節制して、体を労るならば、逆に健康に良く、長く生きることができるだろう。一方、健康が自慢の人は、体を労ることがなく、ある時ぽっくりと逝ってしまう場合もある。
      また、病気になったとき、ないしは病弱な人の場合は、慢心を抱きにくいという長所もある。病気になって、自分が多くの人に支えられて生きていることがわかり、感謝の心を持つことができたという話は多い。
      また、松下幸之助は、病弱であったがゆえに、他に頼む術を身につけたという。彼は同様に、財力がないからお金持ちの元に丁稚奉公に行って若くして商人の才を育み、学力がなかったから、他から謙虚に学ぶことができたと語っている。
      こうして、自分の体力、財力、学力が乏しいという苦しみを、優れた他の力を活かすという形で逆に活用して、喜びに変えたのである。これも、自己の苦しみを、他を活かす慈悲の源にして、自と他の双方を幸福にするという一つのパターンである。
      伝統的な仏教的な教義では、老い、病み、死ぬという身体の苦しみは、究極的には、無常である自分というものにとらわれず、自我執着から心を解放する(悟りを得る)ために、逆に活かすべきであると考える。
      すなわち、他から独立した固定した実体を持つ自分などは、実際には存在しないことを悟り(無我の悟り)、自分への執着を捨てて、すべての衆生を平等に愛する大慈悲の体得などに活かすのである。ヨーガ的に表現すると、真実の自分は無限の宇宙であるという悟り(宇宙意識)の体得である。
      次に、経済的な不安の裏にある恩恵についても考えてみよう。病気の一病息災と同じように、経済的な不安は、贅沢・浪費を反省し、質素倹約や勤労の習慣を身につけ、長期的な経済的な安定を得る機会ともなる。
      そして、究極的には、物質的な幸福の限界を悟って、精神的な幸福に目覚める機会となる。具体的に言えば、例えば、自己が所有する財や富による幸福の限界を悟って、皆が共有する物、例えば大自然などにこそ、真の豊かさがあることに気づくなどである。これも、仏教的にいえば、自我執着から無我・大慈悲・宇宙意識への進化ということができる。
      次に、精神的な苦しみについてである。まず、誹謗・中傷の苦しみである。まず、正しい批判ならば、それは、今は辛くても長期的には自分の成長を促し、結果として逆に称賛・名誉をもたらす愛の鞭である。逆に、まったく批判されない場合には、将来は非常に暗いと言わざるを得ない。
      一方、間違った批判は、それに落ち着いて耐えることで、しばらくすれば、逆に評価されるようになるものだし、智慧と慈悲の目で見るならば、それは批判している者の心の歪み・苦しみを知る機会ともなる。
      そして、究極的に言えば、称賛・名誉・権力に対する貪りが強い我々にとっては、誹謗・中傷は、それに落ち着いて対応することで、そういった貪り・欲望から自己を解放して、智慧と慈悲を培う良い機会ともなる。ある仏教の経典では、誹謗・中傷等に耐えることが、慈悲を目指す大乗仏教において非常に重要だと説いている。
      また、現代社会の中で多いのが、自己嫌悪・卑屈・妬み・寂しさといった感情であろう。物質的に満たされた今の社会では、称賛・名誉・地位・権力といった欲求、自己の存在価値を認めてもらいたい欲求が強い。それがゆえに、それが認められない状態、自分が他に劣っている、価値がない、愛されていないといった感情に悩む人も多い。
      しかし、自分がそういった苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解できる者となることや、優れた他を活かして自分も幸福になることを考えるならば、苦しみを喜びにすることができるだろう。これは文字通り、他と苦と楽を分かち合う実践である。
      コンクリート・ジャングルとも呼ばれる現代社会は、愛情欲求・認知欲求は満たされずに、多くの人の中にいながら、心は寂しいという人も多い。それは、自分の苦しみに没入せずに、それを活かして、同じような苦しみ、ないしは自分以上の苦しみを持ちながらも、この世界に同時に生きている無数の者たちへの慈悲によって、和らげることができるだろう。
      妬みの苦しみについて言えば、先ほど述べたように、妬みの対象が、実際には、自分が思うほどには幸福ではないことに気づくための試練である。貪りの追求において、自分より勝った他者が、幸福に見えるのは錯覚である。人の心を真に幸福にするものは、貪りではなく、慈悲だからである。
      また、妬みの対象が、真に優れた存在である場合は、それが実際には、自分の幸福への障害ではなく、自分の助力者であることに気づく試練であろう。人は、一人ではなかなか成長できるものではなく、優れた切磋琢磨の対象があってこそ、よりよく成長できるからである。
      人生における困難や挫折・失敗の苦しみにも、その裏側に喜びを見いだすことができる。まず、困難なく達成できることには、たいてい真の価値はない。困難の経験は、自分が取り組んでいることの価値を示している。
      大乗仏教では、教えの理解と体得の難しさに耐えることを説いている。教えの理解と体得は、それほど容易ではない。すぐに身につくものではなく、コツコツと努力する中で、徐々に身につくものだ。逆に、すぐに身につくものは、まやかしや落とし穴が多い。
      また、多くの偉人は、成功とは、失敗なく達成できるものではないとしている。失敗こそが成功の元。失敗・挫折なく成功するというのは、自分が抱えている壁を突破したものではないだろう。
      イギリスの元首相であるチャーチルは、「成功する能力とは、めげずに何度でも失敗を経験できる能力だ」と言い切っている。自動車のホンダ(本田技研工業)の創業者は、「皆が成功を求めるが、自分にとっての成功とは、度重なる失敗と反省を通してのみ、得られるものだ」という趣旨のことを述べている。
      エジソンは、1000回の実験で白熱電球を発明した際に、「999回は失敗ではなく、これでは成功しないということを知った成功へのステップだった」という趣旨のことを語っている。
      仏教的に言えば、人は皆、神ではなく、不完全な人間として生まれるときに、万事を正確に理解できない無智・悪業と共に生まれてくる。その無智・悪業は、実際に挑戦し、失敗の体験を通して、それでは成功しないと知ってこそ、晴れていくと考える。無智の悪業の清算によって、智慧(智恵)と成功が生じるというのである。
      よって、悟りの道程も、本を読んでも、指導者から学んでも、すべてが計算通り、目算通りには行かない。個人によって違う紆余曲折がある。よって、仏教では、苦しみによって、正法に対する信仰が生じるとも説かれている。


    6 苦と楽の双方に偏らない釈迦牟尼の中道の教え

    (1)中道の教え

      さて、現代の日本人に非常に参考になると思われる教えが、釈迦牟尼の中道の教えというものである。これは、快楽主義も苦行主義も双方を否定した教えなので、「中道」と言われる。双方の極端を否定した道である。
      そして、これは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという真実に基づけば、自然な結論となる。苦しめば悟るという苦行主義は、合理性がなく前近代的であろう。しかし、楽を貪り、苦をいたずらに厭うのも意味がない。
      よって、①与えられている楽=恵みの大きさに気づいて感謝することで、貪りを静めて足るを知り、②さらには、経験する苦しみ(=与えられていない楽)については、その裏にある恩恵にも気づいて感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝する実践をするのである。

    (2)感謝と慈悲(分かち合い)のつながり

      さらには、貪りが静まり足るを知った状態において、感謝と共に出てくるのが、他者への慈悲の心である。慈悲の心は、他者との苦楽の分かち合いに結びつく。よって、キーワードを言えば、仏教的に表現すると「知足と慈悲」、現代的に表現すると「感謝と分かち合い」ということになる。そして、この慈悲・分かち合いが、人の心にとって、最も安定した大きな幸福感を与えるものである。
      この背景には、先ほど述べたように、快楽を貪ると、さまざまな苦しみを招くが、自己の苦しみと共に、他の苦しみも生じているという事実がある。貪りは無慈悲なのである。よって、この貪りを静める中道の道は、知足と慈悲、感謝と分かち合いの道は、自分の幸福だけでなく、他の幸福の道でもある。
      そして、感謝と慈悲は、不離一体で、互いが互いを強め合うものである。感謝で貪りが静まると、自分の得ている恵みと無数の他の苦しみに気づき、慈悲の心が深まる。そして、慈悲の心が深まると、自分のさまざまな苦しみは、じつは貪りから生じていると気づき、苦しみさえも、自分を慈悲に導く恩恵として感謝できるようになる。こうして、感謝が慈悲をもたらし、さらに、慈悲が感謝を深めることになる。

    (3)今後の日本社会のために

      そして、現代の日本人は、苦しいといっても、一般的にいって、途上国の一部のように飢えているわけではない。それどころか、長寿・豊か・安全と三拍子揃った、現在の人類社会でも希な社会である。
      先日、九州の阿蘇や高千穂に行ったが、その際に、ある神社の宮司さんが、「現在の日本社会は、人類史上最も恵まれた社会です」と語っているのを聞いた。もちろん、これは、物質面や民主主義体制といった視点から見た場合であろう。しかし、少なくとも、大日本帝国の時代や士農工商の江戸時代に戻りたいという人は極めて少ないだろう。
    その社会の中では、釈迦牟尼の説いた、苦にも楽にも偏らない実践は、過剰な貪りを抑制して、バランスを取るために非常に重要ではないかと思う。貪りは際限がなく、満ち足りることない中で、求めても得られない苦、執着したものを失う苦、奪い合いの苦など、さまざまな苦しみを招く。よって、絶えず現状への不満と将来への不安がある。
      そのため、先ほども述べたように、日本社会は、客観的には恵まれているのに、その中の人は、幸福観に乏しいのではないだろうか。それは、国際比較・世論調査などを見てもそうである。
      逆に、途上国でありながら、一説によると、国民の97%が幸福であると感じているのがブータンという国である。その前国王は、経済力=GNPを幸福の指標にするのではなく、人の感じる幸福感の大きさを重視し、GNH(国民総幸福感)を唱えた。このブータンは、自然環境を重視する仏教国である。
    -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
      2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答した。(中略)
      ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。
    「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」(以上ウィキペディアより)
    -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
      こうした状況を考えると、恵まれた環境でも、幸福観の乏しい私たち日本人のためには、万物を恩恵と見て、万物に感謝し、慈悲・分かち合いの喜びを培う教えと実践が、今後非常に重要ではないかと思う。


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  • 2015~16年 年末年始セミナー特別教本 『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』  (2015年12月19日)

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  • 2015年夏期セミナー特別教本  『仏教の心理学 心の三毒、智慧と慈悲』 (2015年12月19日)

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  • 2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』 (2015年04月29日)

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  • 2014~2015年 年末年始セミナー特別教本 『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』 (2015年02月27日)

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  • 《改訂版》2014年夏期セミナー特別教本 『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』  (2015年02月21日)

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  • 《改訂版》2014年GWセミナー特別教本 『 幸福のための仏教哲学  平等社会の道と自己を知る智恵』  (2015年01月27日)

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  • 《改訂版》2013~14年 年末年始セミナー特別教本 『輪の思想と目覚めの教え 仏母の瞑想と二極調和の奥義』 (2014年05月27日)

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  • 《改訂版》2013年 夏期セミナー特別教本 『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』 (2014年03月27日)

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  • 《改訂版》2013年GWセミナー特別教本 『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』 (2013年09月17日)

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  • 《改訂版》2012~13年 年末年始セミナー特別教本 『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』 (2013年03月10日)

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  • 《改訂版》2012年夏期セミナー特別教本 『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』 (2012年10月09日)

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  • 《改訂版》2012年GWセミナー特別教本 『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』 (2012年07月23日)

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  • 《改訂版》2011~2012年 年末年始セミナー特別教本 『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』 (2012年04月06日)

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  • 《改訂版》2011年夏期セミナー特別教本 『輪の思想と宗教哲学』 (2011年10月20日)

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  • 《改訂版》2011年GWセミナー特別教本『 ひかりの輪と日本と輪の思想』 (2011年08月18日)

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  • 《改訂版》2010~11年 年末年始セミナー特別教本 『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』 (2011年03月10日)

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  • 《改訂版》2010年夏期セミナー特別教本 『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』 (2011年03月10日)

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    『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』

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  • 《改訂版》2010年GWセミナー特別教本『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』 (2010年12月31日)

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    『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』

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  • 《改訂版》2009年~10年 年末年始セミナー特別教本『一元の法則と瞑想法  卑屈・妬みを超えて感謝と慈悲へ』 (2010年12月31日)

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  • 《改訂版》2009年GWセミナー特別教本『内観と仏教の自己内省法 唯識思想と縁起の法 輪と循環の思想』 (2010年12月31日)

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    『内観と仏教の自己内省法  唯識思想と縁起の法  輪と循環の思想』

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  • 《改訂版》2009年2月セミナー特別教本『大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就』 (2010年12月31日)

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  • 《改訂版》2008~09年 年末年始セミナー特別教本『仏教講義 悟りの道程2  悟りと利他の思想と瞑想法』 (2010年12月31日)

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  • 《改訂版》2008年夏期セミナー特別教本 『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』 (2010年12月31日)

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    『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』

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心理学教本

  • 第35回心理学講義 『心理学の四大勢力』 (2016年11月26日)

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         20世紀になって大きく発展してきた心理学は、四つの大きな流れがあります。

    第一の勢力:フロイトの精神分析、
    第二の勢力:ワトソンなどの行動主義心理学
    第三の勢力:アブラハム・マズローなどの人間性心理学
    第四の勢力:トランス・パーソナル心理学


    1.第一の勢力:フロイトの精神分析

      ご存知の方も多いと思いますが、フロイトは無意識の発見者といわれ、その功績は高く評価されています。 現代の心理療法のはじまりを創ったのはフロイトといってもいいでしょう。

      フロイトは、オーストリアの精神医学者でユダヤ人です。19世紀後半に自分の治療法を精神分析と名付けました。20世紀初頭に、弟子たちと勉強会を始めるようになり、その後、精神分析学会へと発展しました。ユングやアドラーなども参加していましたが、後に2人とも袂を分かち、それぞれの心理学を創始しました。

      フロイトは、神経症の原因が本人も気づかない無意識の中に隠されていることをつきとめました。無意識にある原因に気づいていくことに よって、神経症が治っていくと唱えました。

      その主な方法は、自由連想法(ある言葉を与えられ、その言葉から自由に思い浮かぶ考えを連想させていく方法で、潜在意識にある抑圧されたものに気づいていく)、夢分析によって、無意識の領域にア プローチすることです。フロイトは、人間の病んだ心の部分に焦点をあてていて、無意識というものをガラクタの集まりととらえていました。


    1)フロイトの主要な理論・概念

    (1)無意識の発見
      フロイトはよく無意識の発見者と言われるように、私たちの行動は無意識領域によって強く影響を受けていると言います。そして、氷山がちょうど海面下にほとんど沈んでいて、海面に出ているのはホンのわずかであるのと同じように、意識領域は氷山の一角であり、ほとんどは意識下の無意識領域であるといいます。

    (2)錯誤行為
      日常において、「言い間違い」や勘違いなどの錯誤行為を犯すものです。それは、疲労であったり、他のことに意識が向いていたりすることがその原因ですが、細心の注意を払っているときにも起こる錯誤行為は、無意識の願望の現れだといいます。例えば、「~する」というところを「~しない」と言い間違えるなどは、無意識レベルでは「したくない」という願望があり、それを表面意識も気づかないうちに表現していたということだということです。

      ひとつ例をあげます。
      ある議会の議長は議会を開くにあたって、「諸君、私は議員諸氏のご出席を確認いたしましたので、ここに閉会を宣言します」と言ってしまいました。 議長が開会宣言の代わりに閉会宣言をしてしまったのも、議長は自分の属する党が議会での形勢が思わしくないので、閉会してしまいたいと思っていたのです。

    (3)エス(イド)・自我・超自我
      フロイトは人の心を3つの要素に分けて考えました。

    ①エス(イド) ~快感原則~
      エスは人間の意識の最も深いところにあると考えました。エスとは、欲望本能のことで、心地よいことだけを求め、嫌なことを避けるという欲望です。「快感原則」というものです。乳幼児の時期はまさにこのエスによる快感原則だけで生きていると言ってもいいでしょう。

    ②自我 ~現実原則~
      人は成長するにつれ、エスによる自分の欲望だけで生きていくことが、困難を生み出すことがわかってくると、周囲との関係をも考慮し、他と折り合いをつけて自分の欲望を抑えたり、延期したりと現実に合わせるようになってきます。それが自我の働きであり、現実原則を確立していくことが自我の発達であると捉えました。(現実原則とは現実に沿った行動なり態度)
    自我はエスを抑え込むだけでなく、現実の中で許される形にエスの力を変形します。芸術やスポーツなど文化的な方向に変えるなどです。

    ③超自我
      超自我とは、良心と考えられます。親や先生などの道徳規範を教える教育やしつけによる倫理的価値基準が内在化したもので、倫理的価値基準に従って自我を監視し、自我を健全な働きに導くもの。超自我は自我の一部として最終的に形成された領域で、道徳性・倫理性の根源。また、真・善・美の理想追求に向かわせる働きもある。

    ④エス・自我・超自我の関係
      エスは欲望そのもので、その欲求を満たそうとする=快感原則です。
    超自我は、道徳性・倫理性の源で、道徳的融通のきかない、ある意味頑固親父のような、または優等生のような感じ。
      自我は、エスの奔放な欲望と超自我の頑固な倫理性の間で、現実に合わせてどのような行動をとるか調整コントロールするはたらき。

      このエスと超自我のバランスが崩れ、超自我が強くなりすぎて、エスの欲求を抑圧すると神経症になるということです。

      エスはすべての人にほぼ同様に備わっているものですが、自我や超自我は人によってそのタイプや高低のレベルは違っています。つまり、エスはもともと備わっているもので、自我や超自我は育ち・成長のなかで形成されてくるので個々に違いがあるということになります。

     

  • 第34回心理学講義『ロゴセラピー ~生きる意味の心理学~』 (2016年10月14日)

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     1.ロゴセラピーとは

      ロゴセラピーの「ロゴ」とはギリシャ語の「意味」という意味であり、ロゴセラピーとは、生きる意味を見失い、絶望している人に生きる意味を見出す援助をする心理療法で、「意味による治療」と訳すことができる。

      創始者は、オーストリアの精神医学者、心理学者のヴィクトール・E・フランクル。ユダヤ人であったフランクルは、ナチスの強制収容所生活を3年送っている。その体験をもとに書かれた『夜と霧』は日本語を含め17ヶ国語に訳されている。
      フランクルは、生き延びたが、父母、妻は、強制収容所で死亡している。

      ロゴセラピーは、フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学と並び、心理療法のウィーン学派三大潮流とも言われる。また、心理学全体の四大潮流(第1の潮流:精神分析、第2の潮流:行動主義心理学、第3の潮流:人間性心理学、第4の潮流:トランス・パーソナル心理学:巻末資料1参照)でいうと、第4の潮流:トランス・パーソナル心理学に入る。(注:トランスパーソナルとは、「個を超える」という意味である)

      ロゴセラピーでは、意味の喪失が、精神的病の原因となることがあり、意味を見出すことで、改善されていくという。そして、人はどんなに苦しい状況でも、そこに意味を見出せれば、耐え、生きていける。このことは、まさにフランクルの強制収容所での体験を現している。
      しかし、ロゴセラピーは収容所体験を基にしたものではなく、すでにその前に、理論はほぼ完成されており、収容所体験が理論の正当性を検証することとなったという。


    2.意味の喪失は現代社会の病理

      アメリカの大学で自殺未遂をした学生の85%が「人生が無意味に思えた」ことを自殺の理由に挙げている。このうち93%の学生は、社会的活動も活発で、成績もよく、家族関係も良好であったという。
      自殺は、アメリカの学生の死因の第2位である。そのことを考慮すると、上記のことは、人生の意味を感じることはいかに重要なことかわかる。
    (注:1970年代後半のデータを元にフランクルが述べている。2012年のデータでは、自殺はアメリカの若者の死因の第3位である。)

      経済的・社会的安定が幸福という思い込みは打ち消される。豊かになったからといって幸福になったわけではない。生きる意味の喪失=虚無感・むなしさという問題(実存的問題)が起こってきている。

      人に、どう生きていくのがいいのかを教えてくれた伝統や伝統的価値感が崩壊していくことで、現代では、方向喪失に陥り、自分が何をしたいか、どう生きたらいいのか、生きる意味を見出せなくなっている人が多いという。

      一方、いわゆる不幸と言われる状況のなかで幸福を感じている人もいる。フランクルは、受刑者からの手紙や、末期ガンの父親を看病する人からの手紙に、そうした人を見た。


    3.ロゴセラピー3つの基本

      ロゴセラピーでは、以下の3つを基本前提とする。これらは仮説とも言えるが、フランクル自身が収容所やクライアントなどとの関わりから得た実証とも言える。

    (1)意志の自由
      人間は様々な条件の制約を受け自由ではない。しかし、人間はその制約の中で自分の意志で態度を決めることができる自由を持っている。
      極限状況で、それに屈服するか、立ち向かうか、それはその人が決断・選択できる。
      強制収容所での体験がそれを裏づけている。飢えや寒さ、疲労、不衛生など極限の状況のなかで、エゴに乗っ取られ野獣性を現す人もいれば、思いやりなどの高潔な態度、聖性を現す人もいた。

      ここで、このような反論があるかもしれない。決断の自由というが、ある決断をした場合、その決断自体が決められていたことであり、その人の自由ではないのではないか、という反論である。これに対してフランクルは、「しかし、この論法では無限後退に陥り、集結に至らない」として退けている。

    (2)意味への意志
      人間は生きる意味を探し求めている。それは、高い目標や意欲である。
    意味への意志は、多くの研究者のテストや統計学的手法による研究によって、経験科学的に立証されてきた。
      アメリカの国立精神衛生研究所の調査研究(48大学、7948人対象)では、78%の学生が「人生に意味を見出すこと」を第1の目標にしている。

      ここで、マズローの欲求の階層説(巻末資料2参照)を考えてみる。マズローの階層説に基づけば、強制収容所などで飢えている状況では、第1の欲求(低い欲求)である生理的欲求が満たされていないなら、上位の欲求である意味への意志が生じることはないことになる。
      しかし、収容所においては、過酷な状況のなかでも生きる意味を求める人たちがいる。自分を価値ある意味ある存在として感じることで、極限状況を耐えた人たちがいるのだ。

      このようなことからも、意味への意志を人間は持っていると言えるのではないか。そして、それは、マズローの言う階層的な欲求を超えたものとして「意味への欲求」があると言えるかもしれない。

    (3)人生の意味
      どんな人にも人生の意味はあり、手に入れることはできる。
    このことは、多くの研究者によって実証されている。各研究によれば、人種・性・IQ・受けた教育・環境・宗教などの違いに関係なく、どんな人でも意味を手に入れることはできるという。

      意味を見出すということは、「現実の中に埋もれている可能性を知覚する」ことだとフランクルは言う。「自分たちの直面している状況に関して、(中略)、自分のなしうるものは何かを発見する、ということである。」(フランクル著『<生きる意味>を求めて 』春秋社より)と述べ、原理的には、どのような悪い状況においても、意味を見出すことはできるという。

      また、苦しみが自分をよりよい自分に変えるなら、苦しみにも意味があると、収容所経験者は語っていると、フランクルは上記の著書で述べている。

      さらに、「自分自身を変えることは、しばしば、自分自身を乗り越えることを意味する。自分自身を越えて成長する事を意味する」(フランクル著『<生きる意味>を求めて 』春秋社より)とも述べている。そして、それは苦しい状況のときにこそ生じる。

      また、与えられた運命(多くの場合、苦しい運命)を引き受けることは、人生の意味を成就する機会であるとも捉えている。

     

     

  • 2016年夏期セミナー心理学講義『選択理論 ~リアリティセラピー~』 (2016年08月30日)

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    1.選択理論とは

      選択理論は、精神科医ウイリアム・グラッサー博士によって提唱されたカウンセリング手法であるリアリティセラピー(現実療法)の基本理論です。

    (中略)

      選択理論の考えは、「他人を変えることはできない。変えることができるのは自分だけである」をモットーに、人が生きていくうえで、避けることのできない人との関係を良好なものにして、幸福に生きていく方法を説く心理学理論です。選択理論を使いカウンセリングを行っていくのが、リアリティセラピーです。

      「自分を変える」ということは、自己をコントロールするということになります。「他人を変えることができない」ということは、他人をコントロールすることはできない、ということになります。

      人はよくこのようなことを言います。
    「私が今不幸なのは、あの人が○○したからだ」
     自分には一切の責任がなく、悪いのはすべて他人のせいということです。
     しかし、選択理論では、このように言います。「自分の行動のすべては、自分で選んでいる。それは、惨めな感情や神経症などの症状であっても」。つまり、今自分が不幸なのも、人のせいではなく、自分が選んだ行動によるものであるということです。ここで「選ぶ」という言葉がでてきましたが、選択理論という名称はここからきています。自分の行動は自分で選択している、ということです。
     自分で選択可能な自分の行動や思考を適切に選択することで、人間関係その他の問題を改善する理論です。

     それでは、この後、選択理論の主要な概念について説明していきます。そのなかで、私たちが自分の行動を選択しているということが理解できていくのではないかと思います。その前に、選択理論と反対の他人をコントロールするという普段私たちがよく行っていることがマイナスであることについて説明します。


    2.外的コントロール心理学

     選択理論を理解しやすくするために、選択理論とは逆の他人を変える、他人をコントロールすることについて説明します。選択理論では、他人をコントロールして変えようとすることを「外的コントロール心理学」と言います。

     私たちは往々にして、人を自分の思うように動かしたい、支配したいと思います。そして、そのために、罰を与えたり、褒美を与えたりして相手を自分の思うようにさせます。

     例えば、子どもが勉強しないと、おやつを与えないとか、テストでいい点取ったら○○あげるなどがそうです。このような対応では、子どもは一時的に勉強するかもしれませんが、このような対応が頻繁になると、効果も薄くなり、また、親子関係がかんばしくないものにもなっていきます。

     外的コントロール心理学には、「致命的な7つの習慣(行き過ぎやすい習慣)」というものがあります。

       ※ここで「致命的な」という表現がされていますが、それはグラッサー博士の臨床経験から、この7つの習慣が頻繁に使われたことで問題を生じさせたクライアントを多く診ていることから、行き過ぎやすい習慣という意味で「致命的な」という強い・極端な表現を使っているものと理解していただいたらと思います。

    ①批判する
    ②責める
    ③文句を言う
    ④ガミガミ言う
    ⑤脅す
    ⑥罰する
    ⑦ほうびで釣る

     この習慣が習慣的に実践されることで、基本的欲求が充足されず、問題が発生します。この7つ以外でも、相手の罪悪感に訴える、無視するなどのコントロール法もあります。

     外的コントロールに害がないならばいいのですが、そうではなく外的コントロールによって他人を思うように動かそうとすることで、人間関係が損なわれることになります。なぜなら、人に支配されることを快く思う人はいません。脅しや罰によって人を思うように動かしても、そのときだけで、その人との信頼に基づいた温かい人間関係を結ぶことはできません。

     人間は人との関係に支えられて生きています。良好な人間関係が結ぶことができない人は、孤独を感じ、良好な人間関係から得られる喜びを感じることができないので、他のことでその欲求を満たそうとします。たとえそれが、一見してマイナスなことであっても手っ取り早く快感を得られるものに手を出してしまいす。お酒、麻薬、暴力、ギャンブルなどがそうです。ですから、アルコール依存症の人など、良好な人間関係が持てるように支援していくことで、お酒を飲む必要がなくなっていきます。
     日常において、お互いがお互いに、相手をコントロールしようとするわけですから、良い関係を築くことは難しくなります。
     他人をコントロールし、変えるのではなく、自分をコントロールして変えることで良い人間関係を目指す選択理論が有効であることがわかると思います。

    (中略)

     ここに書かれている対立構図ではではない関係はどのような態度、習慣から生まれてくるのでしょうか。

     選択理論が説く「身につけたい7つの習慣」(不足しがちな習慣)
    ①耳を傾ける
    ②励ます
    ③尊敬する、敬意をはらう
    ④受け入れる
    ⑤違いを交渉する。調整する。話し合う。
    ⑥信頼する
    ⑦支援する

     外的コントロールの7つの習慣ではなく、上記の7つの習慣を実践することで人間関係は良好で温かいものになっていくことはおわかりになるかと思います。

     

  • 第32回心理学講義 『思考・感情・ストレスのコントロール:マインドフルネス』 (2016年07月17日)

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    日々の生活のなかで、思考・感情など心に翻弄されている人が多いと思います。今回の講義では、心のコントロールと、心に巻き込まれないためには、どうしたらいいかということを「マインドフルネス」という心の状態をテーマに行います。

    思考・感情・ストレスのコントロール、心に巻き込まれないために、マインドフルネスという心の状態はたいへん有効です。

    マインドフルネスの状態によって、

    ①思考を変えることで感情を変えることが容易になり、
    ②自分と心(思考・感情・気分)を同一視しないことで、心に巻き込まれなくなります。

    では、マインドフルネスとは、どのようなものなのでしょうか。

    1.マインドフルネス

    (1)マインドフルネスの普及

    ここ数年でマインドフルネスが急速に普及しています。

    ストレス軽減のプログラムに役立てたのが、マインドフルネスの始まりです。マサチューセッツ大学医学部名誉教授のジョン・カバットジン博士が、マインドフルネス・ストレス低減プログラムを開発しました。

    その後、うつ病やパニック障害、不安障害などの心理療法である認知療法に取り入れられ、マインドフルネス認知療法として多くの人がその効果を実感しています。今では、医療・心理療法の分野だけでなく、教育、犯罪者の更生、ビジネスの分野にも広く浸透しています。googleで社員に取り入れられていることは有名です。

    ウィスコンシン大学での研究で、健康ではあるがストレスを感じている従業員を対象として企業での勤務時間に低減法を実施しその効果を検証しました。マインドフルネス瞑想をした人たちは、そうでない人たちよりも、不安や落ち込みといった感情にうまく対処でいるようになったということです。

    (2)マインドフルネスとは?

    では、マインドフルネスとはどのようなものでしょうか。
    マインドフルネスとは、注意深く今の瞬間に気づいている意識状態のことです。
    もう少し詳しく説明すると

    ①心を開いて、今この瞬間に十分に気づいている意識状態です。
    今この瞬間の自分の経験していることを、偏見をもたずに注意深く客観的に観察する。そのためには価値判断を加えずに、今という瞬間の体験と向き合うことが必要です。

    ②受け入れる
    ものごとを今のこの瞬間にあるがままの形で見る。
    私たちの心は通常、ものごとをありのままに受け取るのではなく、それに好き嫌いの色づけをして、自分の気にいるものへの欲求(愛着)と気に入らないものへの排除(嫌悪)、という「とらわれ」を生じさせます。そうではなく、そのままを受け入れ認識するようにします。

    ③常に初めて体験するように、予断をさしはさまないで、その瞬間を体験する。

    マインドフルネスは、東南アジアに伝わるテーラワータ仏教のヴィパッサナー瞑想がもとになっています。ヴィパッサナー瞑想は、瞬間瞬間の自分の心身の状態やものごとを観察し気づく瞑想で、お釈迦さまが説かれた四念処という瞑想に則った瞑想法です。

    四念処とは、身(体)・受(感覚)・心・法(現象)に対する観察です。

    * 身念処:そのときどきの身体の状態に気づきをもって見守る
    * 受念処:そのときどきの感覚に気づきをもって見守る
    * 心念処:そのときどきの心の状態に気づきをもって見守る
    * 法念処:現象・ものごとを気づきをもって見守る
    という観察です。経典には細かく観察法が書かれています。

    仏教の瞑想には、サマタ(シャマタ・止)瞑想、ヴィパッサナー(観)瞑想の2つがあります。それぞれどういう瞑想かというと、

    ●サマタ(止)瞑想:心の働きを止め、静めていく瞑想。
    ひとつの対象に気づきを持って集中する。
    ●ヴィパッサナー(観)瞑想:サマタ瞑想で心が静まったら、現象を客観的に観つめる瞑想
    気づきの対象を広げてゆく。

    マインドフルネスはこの瞑想を基にしたものです。

     (3)マインドフルネスの効果

    ①思考・感情の脱同一化が起こる・・・自分と思考・感情を同一視しない
    客観的に見つめるという意識状態によって、思考は事実とは違うこと。また、思考は流れ去る雲のようなものであるということが実感として認識され、その結果「単に思考に過ぎない」という捉え方になります。そして、そのように過ぎ去る思考と自分を同一視することがなくなり、思考や感情を自分から離して客観的に見ることができるようになり、思考や感情に巻き込まれることがなくなります。それによって、不安や怒りといった感情を少しずつコントロールできるようになります。

    ②思考・感情の脱自動化
    思考や感情は通常、自分の意思とは関係なく、自動的に生じます。それは習慣化・パターン化されたものです。その自動的な無意識的な反応に、マインドフルな意識状態は「気づく」ようになります。気づけば、自動的にならず自分でコントロールができやすくなります。つまり、自分を苦しめる習慣化された否定的な心の働きに気づき、その心に翻弄されることがなくなります。

    ③リラクセーション効果によるストレス軽減
    思考や感情のコントロールによってもストレスは軽減しますが、マインドフルネスによってリラクセーション効果が生じ、それによってつらい気分や感情から解き放たれます。それによって、自分の偏った認知やそれにともなった行動が修正されやすくなります。

    ④その他
    ・よりよい決定を行えるようになる
    ・集中力が増す
    ・創造性が増す
    ・血圧を下げる
    ・免疫力を高める
    ・痛みに捕らわれなくなり、痛みが軽減する
    ・快眠

    などの効果があります。

    では、次にマインドフルネスの意識状態に基づいて、心をコントロールするための方法を具体的に紹介していきます。

     

     

  • 第31回心理学講義 『フロー理論』 (2016年06月21日)

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      フロー理論は、1970年代にミハイ・チクセントミハイという心理学者によって提唱されました。フロー理論は、ポジティブ心理学の中心的部分を占める理論の1つです。
    ひかりの輪の心理学講義では、昨年の夏期セミナーにおいて、ポジティブ心理学のもう一つの主要な理論である「拡張-形成理論」について紹介しました。

    チクセントミハイは、ハンガリー出身のアメリカの心理学者。10代のころ、ユングの空飛ぶ円盤についての講演を聴いたのが心理学との出会いで、たいへん興味深かったということです。


    1.フローとは

    スポーツや音楽演奏、仕事や遊びなど、あらゆることで、それを行うときに、極度に集中した状態で、時間の感覚がなく、自我の感覚もなく、自分がやっていることが流れるように自然にうまく行き、世界と一体化しているように感じる体験を「フロー体験」と呼びました。スポーツでは、「ゾーン状態」という言い方が一般的なようです。
    フロー状態のときには、高揚感に包まれ、自分の能力を最大限に発揮している状態であるということです。 また、この状態は、ヨガや禅、タオイズム(道教)における状態と共通点があることも指摘されています。

    プロのバスケット選手が「ゾーン状態にいる」ときのことを語っていますので紹介します。

    「時間の経過が分からなくなって、どのクォーターなのか分からなくなる。観客の声援が聞こえなくなる。何ポイント得点しているのか分からなくなる。思考しなくなる。ただプレイしているだけの状態だ。ムカつくほどすべてが本能的だ。そんな感覚がなくなり始めるとき、そのときがひどい。俺は自分に独り言をいうーおい、お前はもっと攻撃的でなきゃだめだろう。そのときが、それが去ってしまったということがわかるときなんだ。もう本能的じゃなくなっているんだ。」
    (クリストファー・ピーターソン著『ポジティブ心理学入門』春秋社より)

    「何かをやっていて、気がついてみると、『もうこんなに時間が立っていたの!』」
    「バッターが『ボールが止まって見える』」
    などというものもフロー体験です。

    ここで、フロー状態がどのようなものであるか、特徴をまとめてみます。

    (1)行っていることに没頭している。
    (2)時間感覚がなくなる。
    (3)自我の感覚がなくなる。
    (4)自分の能力を最大限に発揮できている。
    (5)世界と一体化しているような感覚。


    2.フロー体験の発見

    次に、チクセントミハイが「フロー」と名付けたこの状態をどのようにして発見したかについて簡単に述べます。

    チクセントミハイは、画家が絵を描いているときに、うまくいっているときは、空腹や疲れや不快感は忘れ去ったように絵を描くことに没頭していて、描き終わると完成した絵に執着せず、また、報酬のために描いていたのではなく、ただ、描くことに意味を見いだしていることに驚きました。
    その後、彼の学生たちとともに、スポーツ、音楽、絵画、登山、チェスなどをその活動そのもののために行っている人たちについて調査しはじめました。その結果から、フロー現象が発見されました。スポーツ、音楽、絵画、登山、チェスなど形式が違うものを行っているときの状況の体験報告の内容がよく似ていたため、それがどういうことなのか追求しました。

    それが、「フロー」と呼ばれるようになった体験でした。その状況を多くの人がよどみなく流れる水にたとえて表現するので、流れ=フローと名付けました。

    チクセントミハイが「フロー」について発表したところ、インド、中国、日本の心理学者、哲学者から彼のところに、手紙が届いたということです。それは、バガバット・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)を呼んだことがあるか、老子の『道徳経』を読んだことがあるか、あるいは、禅の奥義について読んだことがあるかというもので、それらには、フロー現象が書かれているということでした。

     

     

  • 2016年GWセミナー心理学講義教本『自己存在価値を求めて』 (2016年05月24日)

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     1.自己存在価値を求める

      自己存在価値とは、「自分が存在する価値」です。人が生きていくうえでは、「自分は存在する価値がある」と感じることは不可欠です。ですから、自分には価値があるという感覚=自己価値感を欲しています。

    「自分には価値がない」と感じて、生きていくことはとてもつらいことです。自分には「価値がない」というのは、自分には「生きる価値がない」、自分は「生きるに値しない」ということです。ですから、人が生きるうえでは、「自分が価値ある存在である」と感じることは必要なことであり、それを求めて人は生きていると言っても過言ではありません。


    2.2つの自己価値感

      この自己価値感には、表面的な状況的なものと、根底の基本的なベースのものがあります。

      表面的な状況的な自己価値感とは、「いい学校にはいったら」「表彰されたら」「スタイルがよくなったら」など条件が整って感じるものです。

      一方、基本的な自己価値感は、欠点や未熟な点があっても、それでも自分に価値があると感じることができる、ありのままの自分を認めることができる状態のことです。それは、存在自体に価値を感じているからです。「・・・だから」価値がある、価値がないではなく、無条件に自分には価値があるという感覚です。

    基本的な自己価値感が乏しい人というのは、条件を満たすことで自己価値感を求めます。基本的な自己価値感が乏しいので、足りない分を穴埋めしなければ生きていけません。
    例えば、他者の評価を過剰に求めることなどがそうです。評価されることで自分の価値を感じることができます。評価されないと自分は価値がない存在だと感じてしまいます。
    このことは、自己価値感が低い人は、承認欲求が強いということです。他者に承認されることで、自分の価値を感じられるからです。ですから、自己価値が低ければ低いほど、承認欲求は脅迫的にまで強くなります。

    基本的な自己価値感がしっかりしている人は、表層的な外的な評価や賞賛を過剰に求めることで、自己価値を感じようとする必要がありません。それらがなくても、自己価値を感じて充足しているからです。しかし、基本的な自己価値感が乏しい人は、自分の価値感を感じるため、それを求めなければいられません。そして、それ求める人生を送ります。

     

  • 2015年夏期セミナー心理学講義教本『ポジティブ心理学』 (2016年05月24日)

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    1.ポジティブ心理学

    ポジティブ心理学は、1998年、アメリカ心理学会会長であったペンシルベニア大学心理学部教授のマーティン・E・P・セリグマン博士によって創設されました。
    心理学の枠組みとしては最新の心理学です。

    ポジティブ心理学は、「生きる意味と目的を探求する心理学」で、何が人生を生きる価値のあるものにするか、という人生をよい方向に向かわせることについて科学的に研究する心理学、人生を生きる価値のあるものにする事柄を研究の主題として、取り組む心理学です。

    「ポジティブ心理学とは、私たち一人ひとりの人生や、私たちの属する組織や社会のあり方が、本来あるべき正しい方向に向かう状態に注目し、そのような状態を構成する諸要素について科学的に検証・実証を試みる心理学の一領域である、と定義されます。」
    (日本ポジティビティ心理学協会サイトより引用)

    「ポジティブ」という言葉から受けるイメージは、何でも楽観的に捉え、明るく元気という「空元気」、あるいは「現実逃避(軽視)」して明るく振る舞うという軽い浅薄なイメージがありますが、この心理学でいう「ポジティブ」はそういうものではありません。現実に苦難があればそれを直視して乗り越えて行こうという現実的・積極的なもので、にこにこ笑顔の元気さだけを扱うものではありません。この点、誤解されやすいネーミングだと思います。

    ポジティブ心理学の分野のなかで、中心的な理論として「拡張-形成理論」というものがあります。心理学博士のバーバラ・フレドリクソンという人の唱えた学説です。

    この他、ポジティブ心理学の理論として有名なものは「フロー体験」というものがあります。フロー体験とは、「そのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している状態で、そのことがすばらしくうまくいっている状態」をいいます。


    2.「拡張-形成理論」

    今回の心理学講義では、「拡張-形成理論」を紹介します。
    「拡張-形成理論」は、ポジティビティが心の拡張と心の能力・成長を高める(拡張-形成)ということを27万人のデータが証明した理論です。

    この理論を簡単に説明すると、
    ポジティブな感情が増えると、視野が広がり思考の範囲が広がり、さまざまな考え方や行動の可能性を開く、心身を開放し、受容性、創造性を高める、生活を改善する、人を成長させる、といものです。
    この理論は、ポジティブな心の状態=「愛」「喜び」「感謝」「安らぎ」といったポジティブな感情の研究から導き出されました。

     

  • 第30回心理学講義 『森田療法』 (2016年04月19日)

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    1.日本で生まれた心理療法

       森田療法は、1919年に森田正馬によって開発された心理療法です。森田療法は、対人恐怖症、強迫神経症、不安神経症(パニック障害、全般性不安障害)などの神経症が主たる治療の対象。また最近では、慢性化するうつ病やガン患者のメンタルケアなど、幅広い分野に有効と言われています。 神経症とまではいかなくても、心配性の人、不安が強い人、完璧主義の人、神経質な人にも効果があります。

       ちょうど同じ頃、やはり神経症を対象とした精神療法がフロイトによって創始された精神分析です。
    精神分析と森田療法の違いは、森田療法では、①無意識ということは言わない、②過去を問わない、という違いがあります。

       森田療法の目指すところを簡単に言いますと、恐怖や不安、心配、緊張などがあってもそれをそのままにして(このことを「あるがまま」と言います)、やるべきことをやる、ということです。

       そのことを順次説明していきます。


    2.神経症とは

       まず、森田療法の治療対象となる神経症とはどういうものかをみていきましょう。

       神経症とは、心理的原因によって生じる心身の機能障害の総称で、器質的な問題によるものではありません。ですから、普通の人が日常体験するような心の働きの延長上にあるものです。

       例えば、外出したとき、玄関の鍵を閉め忘れたのではないか、という不安は普通にも生じることで、そのこと自体、神経症ではありません。そのことが、気になって気になって、何度も家に戻って鍵が閉まっているかどうか、確かめずにはいられないという状態が神経症です。


    3.主な神経症

    (1)恐怖症(社会不安障害)

       人前で話したり、初対面の人と会うときに生じる緊張や不安は誰にでもあることですが、このような緊張や不安が強く、学校、会社に行けず、社会的活動から引きこもってしまう状態です。引きこもらないまでも、人との接触を避けるようになり、生活に支障をきたします。「対人恐怖」「赤面恐怖」「外出恐怖」などがそうです。

       恐怖症は、大きく2つに分けられます。
       一つは、街中の雑踏、電車・バスなどの乗り物などの空間(広場)に対する恐怖症。もう一つ人から変に思われないか、批判されないかなどの対人恐怖症があります。

    (2)強迫神経症

       強迫観念による強迫行為。手を何度も洗わないと気がすまない、電気を消したか何回も確認しないといられないなどです。


    (3)不安神経症(パニック障害、全般性不安障害)

    ①パニック障害
       「このまま死んでしまうのでは」というパニック発作(不安発作)を繰り返します。突然の動悸や呼吸困難、発汗、めまいなどの身体症状とともに、強い不安や恐怖感を伴います。このパニック発作を何度か繰り返すと、また起こるのではないかという不安・恐怖(予期不安)が生じるようになります。そして、過去に発作が起きたような場所や逃げ場がないような場所(乗り物など)、それから、人に見られるのが恥ずかしいので大勢の人のいるところに出かけることを避けるようになります。

    ②全般性不安障害
       「何かの病気になるのではないか」「何か悪いことがおこるのではないか」など、様々な不安が生じ緊張し、震え、筋肉の緊張、発汗、めまい、頭のふらつきなどの身体症状を伴います。夜も眠れなくなり生活に支障をきたします。


    4.神経症は「不安」が基にある

       上記のように、神経症には様々なタイプや症状がありますが、共通しているのが「不安」です。不安と、その不安にとらわれることによって、不安が強まり、様々な症状が固定化したのが神経症です。

       神経症の症状は、普通の人が日常体験するような心の働きの延長上にあるもので、質的な違いはありませんが、その強さや継続時間が際立っています。

       例えば、何時間も手を洗うとか、何度も鍵をかけたか確認する等、日常生活に大きな支障をきたす場合、神経症であると考えられます。

     

     

     

  • 第24回心理学講義『人は皆、多重の人格をもつ』 (2016年04月12日)

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     「人は皆、多重の人格をもつ」

    今回は一つの心理学理論を吟味しそこから学んでいくというのではなく、人間というのは「多重の人格を持っている」という理解と人間観を持つことで、自分と他人が全く違った別々の存在であるという認識から、自他の共通性・全く別の違った存在ではないことの理解(ひいてはその実感)、万人を平等に見る、自他に対する寛容と慈悲といったものを培う一助にしていただければと思います。

    そのために、「交流分析」、「影の理論」、「サイコシンセシス」などの心理学理論と「仏教の十界互具」の教えを参考にして話をしたいと思います。


    1.人は誰でも、多重人格

    人は様々な人格を持っています。人格というのは心の要素、性格などと考えてください。

    ・イライラして怒りっぽい自分。
    ・自分が驚いてしまうほどに優しい自分。
    ・引っ込み思案な自分。
    ・すぐに不安になってしまう自分。
    ・嫌なことがあると逃げてしまう自分。
    ・人前が苦手で赤面してしまう自分。
    ・人を助けたいと強く願う自分。
    ・批判的な自分。

    などです。まだまだたくさんあるでしょう。

    このことは、少しよく自分を省みれば、自分にもそういうところはあると思うことはできるでしょう。ところが、日常の生活のなかでは、あたかも自分にはそんな要素はない、と思って、他を批判したりします。

    これは、自分(「私はこういう人間である」)を限定して認識しているからで、その限定の幅・範囲が狭いほど、他人と自分は違うという思いも強くなります。

    これはどういうことかというと、「自分はこういう性格だ」というときの性格(要素)の数が少ないということで、他人と共有する要素が少なくなり、自分と他人の共通点を認識できない=自分と他人は違うということになるのです。

    このような人は、悪いことをしている人を見て、自分にはそういうところはないと思い、他を批判、断罪するようになります。


    2.人間はほぼ同じ心の要素を持っている

    人間というのは皆、ほぼ同じ様々な要素を持っていると思われます。
    ただ、どの要素が表面に表れているか、隠れているかの違いに過ぎないということです。どの要素がより発達しているか、未発達であるか、ということです。

    このことは、ユング心理学の元型という概念から考えると導き出されます。元型とは、人間に共通する心や行動の元パターンと言ったらいいかと思います。この元型は人間全体が共有する無意識の領域にあると言われています。ですから、私たちの心の要素やそこから生じる行動などの元は皆同じものを持っているというのです。

    ユングの元型を持ち出すまでもなく、心の中を落ち着いて理性的・合理的にのぞいて見れば、人間の中にある要素はだいたい同じだということに気づくのではないかと思います。

    そして、この「人間というのは皆、ほぼ同じ様々な要素を持っている、それは善の要素も悪の要素も」という認識(人間観)は、万人を平等に尊重し、寛容の心、慈悲の心を培うことにつながります。

    しかし、人間はなかなか悪の要素、マイナスの要素が自分にあることを認めたがりません。また、あまりにもすばらしい要素についても自分にとてもそんなものはないと思い、その要素があることを否定します。


    それでは、ここで私たちの内面には様々な人格が存在するということをいくつかの心理学理論からみていきましょう。

     

     

     

  • 第29回心理学講義 『子供の発達・人格形成における父親の役割』 (2016年04月02日)

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                         「子どもの発達・人格形成にはたす父親の役割」


      愛着理論でもみてきたように母親と子どもの関係は、子どもの生命維持を土台とした生物的なものである。それにひきかえ父親はどうだろうか。

      ほ乳類で子育てに関わる父親の割合は3%程度であるという。しかも、直接的に子育てに関わるのではなく、母子を外的から守るというような間接的なものである。

      それに比べ人間は家庭を持ち、父親も養育にあたる。このようなことは人間に特有なものと言ってよい。それは、人間社会が高度に組織化、役割分化した社会であることとも関係があると考えられる。

      子どもの発達・人格形成にはたす父親の役割というものを考えるにあたって、このあたりのことがポイントとなると思われる。


    1.父親の役割

      人間は単に体が成長するだけでは、大人になったとはいえない。社会のなかで社会の一員としてある一定の役割を果たし、自立して生きていけるようになって大人と言える。

      高度に組織化した人間社会では、そこで生きて行くにあたってのルールや規則・規制がある。このような社会で生きるうえで必要な社会的・文化的ルール・行動様式を身につけていくためには、子どもの身体的成長に気を遣う母親的要素だけでは足りない。そこで父親の役割が出てくる。

      このあと講義のなかで何回か言及していくことになるが、まずは、父親の役割というものを列挙してみることにする。

    ・強く頼もしい庇護者 →子どもは安心感を得ることができる。
    ・怖い父親 →禁止・抑止→子どもは欲望のコントロールを学ぶ。
    →また、社会でのルール・規範を学ぶ。社会性を身につける。
    ・厳しさ → 近寄りがたさ、距離をとる →自立、主体性
    → 現実、社会の厳しさを教える。
    ・興味や活動の刺激 →子どもの関心を外界へ向け、行動的にする。
    ・成長のモデル(自我理想) →自立、行動のモデル、生きる見本、生きる力


    2.発達段階的にみた父親の役割

    【言葉の説明】エディプス・コンプレックス:
    〔オイディプス王が父を殺して母を妻としたギリシャ神話にちなむ〕
    精神分析の用語。子供が無意識のうちに,異性の親に愛着をもち,同性の親に敵意や罰せられることへの不安を感じる傾向。フロイトにより提唱され,多くは男子と母親の場合をさす。 → エレクトラ-コンプレックス(Weblio辞書より引用)


      4歳頃、精神分析でいうエディプス期に入ると、父親は母親の関心・愛情をめぐるライバルとなる。しかし、父親は万能に見え、適わない存在。自分を抑え込む強い力をもつものとして恐怖の対象にもなる。ここで子どもは父親に対する愛着と恐怖・闘争の間で葛藤する。

      そしてその後、子どもは、父親には適わないことを認識し、母親を独占しようという幼い願望を諦めるようになる。

      次の段階で、父親を理想像として同一化しようとする。強い適わない存在に自分もそのようになろうとする。そうすることで、父親への愛着と恐怖・闘争の葛藤を乗り越えることができる。

    (以上は、4歳くらいから12,3歳までの間に漸次起き、個人差があるので、明確な年齢はしめせない)

      やがて思春期(13~18歳くらい)になると、父親にずっと同一化し続けることも越えなければならない。父親とは違う自分の人生を歩いて行くためには、次の段階に進む必要がある。父親から距離を取り、父親に反発するようになる。いわゆる反抗期である。

      この時期は母親との関係も変化する。それまで甘える対象であった母親を、何かとうるさいと感じるようになり、反発するようになる。これも自立の現れである。母性の受容する力=飲み込む力から脱却して自立しようとしているのである。

      このとき、父親の役割がある。子どもを手放せない(子離れできない)母親を支える役割である。親離れしていく寂しさを共有し、子どもの成長を喜ぶことを、ともに行うことによって、母親の子離れを促進させる。そいう形で父親は子ども成長の手助けをする。

     

     3.父親の不在(役割の欠如)の影響

      父親の不在という場合、死別や別居・離婚、長期出張などによって物理的に父親がいないということだけでなく、一緒に暮らしていても存在感がなく、父親としての役割をはたしていないというような、機能不全の状態(機能的不在)もその影響は同じであるという。もちろん、子どもがいくつくらいに不在状態になったかで、与える影響は違ってくる。

      現代は父親の存在が希薄になっている時代である。普通の家庭でも機能的な父親不在の状態は珍しいことではないのかもしれない。

      では、父親の不在がどのような影響があるかをみていく。

     

  • 第28回心理学講義『愛着理論②』 (2016年02月27日)

    第28回心理学講義 『愛着理論②』

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    2.愛着形成に必要なもの

    (1)アカゲザルの実験からわかること
    前回の講義で、アカゲザルの実験をご紹介したが、それに引き続き行われた実験についてみてみる。

    前回ご紹介したのは、以下のような実験である。

    アカゲザルの実験とは、代理母として、哺乳瓶をつけた針金製の母ザルと、哺乳瓶をつけてない柔らかい布製の母ザルを作り、子ザルの行動を研究したものである。

    子ザルは、空腹を満たせる針金製の母ザルよりも空腹は満たせないが、柔らかい肌触りの母ザルと過ごす時間が圧倒的に多く、不安や恐怖を感じる場面では、柔らかい感触の母ザルにしがみつくことが確認された。このことで、心地よい身体接触(スキンシップ)が重要な意味を持つことがわかる。

    この実験の前に実験室で、子ザルたちを1匹ずつ区分けして、栄養や感染症に気をつけて育てていた。そうして育てられていた子ザルたちの様子はおかしかった。生気がなく、陰気で好奇心にも欠け、ぼんやりとして、体を揺すり続けたりした。また、大人のサルと一緒にされることに拒絶反応を起こした。

    このことから、前回紹介した実験が行われ、心地よい身体接触(スキンシップ)が愛着形成に重要な意味を持つことがわかったのであるが、その後、愛着形成に必要なものがそれだけでないこともわかった。


    (2)決定的に必要な要素「応答」

    布の柔らかい母ザルに育てられた子ザルにも異常がみられたのである。外界に対して無関心で、非社交的で他に対する不安が強かった。

    では、何が欠けていたのだろうか。それは、活発な応答性だった。
    泣けばすぐにそれに応え、話しかけたり、見つめ直したりなど、赤ちゃんの反応に対して丁寧に応答してやることである。布の母ザルでは、柔らかな心地よい感触はあっても応答はしてくれない。

    そこで、布の母ザルを天井からぶら下げて揺れて動くようにした。子ザルが抱きつけば動くようにしたのである。それだけのことで、非社交的な無関心さや自傷行為などの子ザルの異常な行動はなくなり、活発さ、好奇心が出てきた。

    さらに、子ザルを雌犬と一緒に飼ったところ、子ザルたちの生育は、吊されて動く布の母ザルと育つよりも良かった。特に社会性の発達はたいへんよかったということがわかった。犬は本当の母ザルほど世話ができなくても、吊されて動く母ザルに比べこれだけ発達に効果があるのである。犬も子ザルが泣けば舐めたりして、動く布の母ザルよりも応答性は高くなることがその効果なのだろう。また、スキンシップのときに生きものの体温・温もりを感じることができるという点も重要なのだろうと思われる。

    人間でも活発な応答が必要なことは、実証されている。前回の講義で紹介した、気むずかしいという素質を持つ赤ちゃんによる実験などがそうある。

    そして、このしっかりとした応答が、自分を見守っていてくれるという安心感を生み(=基本的信頼感および基本的安心感の形成)、愛着の対象を「安全基地」としてその後の成長が促される。


    3.愛着に問題を抱える人の特徴

    (1)自己否定的 卑屈、
    親から愛されない(しっかりした応答や世話を受けなかった)
    → 自分には価値がないと感じてしまう。

    (2)「よい子」を演じる
    親から愛されない → どうしたら愛されるか → 親の気に入る「よい子」になる
    認められるために頑張りすぎる。自分の本来の感情を抑えて気に入られようとする。

    (3)完璧を求める(「全か無か」、こだわりが強い)
    完璧であることで親に認められるので。
    完璧でないと自分の価値を感じられない。

    (4)安心感がない
    しっかりと応答をしてもらえなかったことで、見守ってもらっているという安心感が得られず「基本的安心  感」が形成されなかったことによる。

    (5)傷つきやすく、ものごとを否定的に受け取る
    愛されないことで自己否定的になり、こんな私に対して人が好意を持って接してくれるわけがないとい   う思いが、人の自分に対する反応を否定的なものと捉え、傷つく。

     

  • 2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」 (2016年02月09日)

    2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」

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    「自己愛について」

    現代人の精神構造を解明するうえで重要なものて自己愛というものがある。
    自己愛という概念は、精神分析の創始者であるフロイトが本格的に研究し唱えた。その後、フロイト派の人々が研究発展させてきた。

    自己愛=ナルシシズムというのは、水に映る自分の姿に恋をしたギリシャ神話のナルシスにならって命名されたもの。

    ナルシスの神話でわかるように、自己愛とは自分に対するとらわれ、自分の関心が自分に向いている状態をいう。
    精神分析学的にいうと、リビドー(さまざまな欲求のもととなるエネルギー)が自分に向かっている状態である。

    自分に向かう関心、エネルギーが強くなると周囲(他)へ向かう関心、エネルギーは弱まる=自己中心的になる。

    自己愛は誰にでもあるもので、外出前に鏡を見て髪型を整えたり、女性なら化粧するというのも自己愛である。
    自己愛の強さは、自分の自己像(自己イメージ)が自分の思い通りであるかどうかにとらわれる強さであり、鏡を見て髪型、化粧に強くこだわるのは自己愛が比較的強いといえる。

    適度な自己愛であれば問題は少ないが、あまりにも自分に意識関心が向かい、自己愛が強過ぎるとさまざまな問題が生じることになる。


    (1)自己愛は発達過程において必要

    乳幼児期に自己愛を満たすことができれば、それは適正な自尊心(自己愛)となり、歪んだ肥大した自己愛にはならない。

    自己愛は発達の過程において生じる自然なものである。
    通常の親子関係においては、一人では生きて生きようのない子どもに対して、親がさまざまな面において愛情をもって奉仕する中で、自然と生じてくる意識状態であり、幼い子どもにとっては、健全な一つの発達段階である。
    そして、それが適切な時期に適度に満たされつつ、子どもの自立の過程において、適切な時期に適度に満たされなくなっていき、子ども側から見れば、ほどよく断念させられることによって、より、「現実的な」自尊心や自信に姿を変えていく。

    しかし、このプロセスがうまくいかない場合がある。

    すなわち、肥大した幼い自己愛が、大人になってまで残ってしまう場合である。現実の「等身大の自分」を自覚できず、自己を「誇大視」し続けて、自分は何でもできる(できる存在でありたい)といった「万能感」を持ち続ける。これは、社会生活を行う上では、当然のごとく、他人との調和ができず、問題を生じさせやすくなる。甚だしい場合、病的な自己愛として人格障害とされる。


    (2)自己愛人格の特徴


    自己愛が強い人の特徴を挙げてみると、

    1.自己誇大視:自分の能力は人より優れているという思い。

    2.自己特別視:自分は他と違い特別な存在だという思い。

    3.理想的な自分をいつも実現しようとする。
    限りない成功、権力を得ること、才能を発揮すること、より美しくなることなど理想の実現を追い求める。自己愛が肥大化しているので、それを満たすために常に地位であったり、自分を認めてくれる人であったり、物によって価値を感じようと貪欲に求める。

    4.常に周囲からの賞賛、好意、特別扱いを得ようとする。さらにそれを得て当たり前と思っている。

    5.現実の自分がうまくいかないとき、そのことを認めない(否認)する、また、投影によって他の責任にする。

    ①「否認」のメカニズム
    自己愛的イメージ(誇大自己)と現実の自分との一致が自己愛を満たす、ということから考えて、誇大自己とかけ離れている自分の現実を認めることはできず、自分の問題を直視しないで、自分には非がなく問題はないと思いたいという自己愛的欲望によって、他に責任を押し付けることになる。

    自己愛というのは自分への愛着であるが、現実の自分への愛着ではなく自己イメージへの愛着であり、それは自分に都合よく思い描かれた自己イメージ=誇大自己である。

    よく、「本当の自分はもっとできる」「本気出してないだけだ」と言う人、思う人がいるが、この場合の本当の自分とは自己愛的自己イメージ=誇大自己のことである。なかなか現実の自分を受け入れられないので、自己イメージにしがみつこうとする。
    それが、他のせいにし、自分の責任を否認することになる。

    ②「投影」のメカニズム
    そして、他に責任をおしつける手っ取り早い方法として「投影」がある。
    投影は、自分にあることを認めたくない要素、「内なる悪」を外部に追い払い自分から消去することである。
    自己愛が強いほど、自分にマイナス要素があることを認めたくないので投影が起こりやすくなる。

    自己愛が強い人は、自分のマイナス面だけでなく、世界の悲惨なこと(飢餓、紛争などで苦しんでいる人がいること)なども見ようとせず、自分の自己愛を満たすことだけに意識が向いている。

    6.共感の欠如
    自己愛が強いということは、自分にばかり関心が向かっているので他人の気持ちがわからず、人に共感できない。こういう人が他人を大切にするのは、自己愛を満たすためであり、相手のためにやっているのではない。


     

  • 2014年GWセミナー心理学講義  「認知療法、マインドフルネス認知療法」 (2016年01月25日)

    2014年GWセミナー心理学講義『認知療法、マインドフルネス認知療法』

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     1.認知療法

    認知療法とは、自分の感情はものごとの捉え方やものごとにたいする考え方によって決まるということを前提にしています。その自分のもの事の捉え方のくせや思考パターンを知り、極端な偏った捉え方の場合、それを柔軟性の高いものに変化させていくことで、感情・気分ひいては行動の改善を図り、社会への適応性を高めるための方法です。


    (1)感情は現象をどう考えるかで決まる

    認知療法は、「人の感情・気分というものは、現実の物事や状況によるのではなく、その人の物事の捉え方・見方に左右される」という事実から出発します。

    同じ状況(現象)を経験しても、その人のものの考え方・捉え方で苦・楽、幸・不幸が決まります。その現象によってつぶれてしまうか、バネにして成長していくかも、ものの考え方で決まってきます。幸・不幸は心次第ということです。

    これは仏教の「すべては心の現れ」という教えと同じです。特に、大乗仏教の深層心理学と言われる唯識思想がそうです。

    また、エピクテトスという古代ギリシャの哲学者も
    「人を悩ませるのは、事柄そのものではなくて、事柄に関する考えである」と語っています。


    (2)「心のくせ」「認知の歪み」「自動思考」

    それぞれの人には、それぞれの人特有の物事の捉え方(認知のパターン)があって、それが感情に影響を与えています。例えば、いつでもネガティブな考え方をしている人は、憂鬱な気分に悩まされることになります。憂鬱になり、感情が不安定なため社会に適応できにくい人のなかには、自分の心を苦しめるような片寄った極端なものの見方(認知の歪み、マイナスの心のくせ)をしていることが原因と考えられる場合が多くあります。

    認知とは簡単に言えば、外界をどう捉えるかということです。それが「歪んで」いるとは、例えて言えば、外界を映す心の鏡がグニャリと曲がっていて「歪んで」いるということで、現実をそのまま受けと止めず、極端な偏った捉え方をするということです。少しの失敗を大げさに捉え「自分の人生はもうおしまいだ」と考えてしまうことなどがその典型です。このように捉えれば心は落ち込みます。

    ですから、自分の「認知の歪み」のパターン、つまり「心のくせ」を知り、それを修正し、柔軟性の高いものに変化させることができれば、気分・感情のコントロールすることに役立ちます。

    しかし、「心のくせ」を自覚することはなかなか難しいことです。「心のくせ」はすっかり身についてしまっているものなので、自分で意識しないうちに自動的に出てくることが多いからです。

    「ある状況」には「こう反応」するということが、自分にとって当たり前になっています。自分で「こうだ」と考えて「ある状況」に対する捉え方・考え方を決めているわけではなく、無意識のうちに自動的に反応しています。自動的にある思考が生じてきます。「心のくせ」はこのように自動的に生じてくるものなので、認知療法では「自動思考」と言います。例えば、道で知り合いに会ったときに、相手が知らん振りして行ってしまったというときに、「何で無視するんだ、ひどい!」などという思い(思考)が自動的に出てきます。これが「自動思考」であり、そのように受け止めてしまう「心のくせ」なわけです。

    このように人のものの見方・捉え方というものは、ほぼ固定していて、「こういう出来事」には「こういう捉え方」をするというのが決まってしまっています。「固定観念」というものですね。

    したがって、落ち込んだり、沈んだ気分になったときには、その基になっている考え方を自覚していないものです。「心のくせ」は文字通り「くせ」であるので自分が気づかないうちに作用して、いつの間にか気分を暗く重苦しいものにしてしまいます。

    「心のくせ」は、人が生まれてから、子供時代、思春期・青年期を経て大人に至るまで経験し学習したことから成り立っています。
    人生の初期に学習したことほどしっかりと身に染み込んでいて、それを自覚することは相対的に難しいと思われます。成人してから学習したことはそれに比べ比較的容易に自覚できることが多く、それを修正していくことも比較的容易であることが多いと言えるでしょう。


    (3)スキーマ(=コア・ビリーフ、中核的な思い込み)

    さらに自動思考の奥にそれを生じさせる中核的な思い込み(スキーマ、コアビリーフ)というものがあります。

    スキーマ(中核的な思い込み)には以下のようなものがあります。

    ・自分はダメな人間だ。
    ・人はなんでも完全にできないといけない。
    ・何でも自分でやらないといけない。
    ・すべての人から愛されなくてはいけない。
    ・人は自分を利用するだけだ。
    ・人に弱みを見せてはいけない。
    (以上、大野裕著『こころが晴れるノート』創元社から引用)
    ・自分はみんなから嫌われている(自分のことを好きになる人なんていない)
    などです。


    (4)認知療法の対象

    うつ、パニック障害、強迫観念、被害妄想、落ち込み、不安、心配、怒り、卑屈などの強い人など。精神病理でなくても、人間関係、ストレス、自信の強化などにも有効で自己改革に役立つ方法です。


    (5)認知療法の手順

    ①思考と感情・気分の関係を知る
    どんな考え方をするとどんな感情・気分が生じるかを知る。

    ②「認知の歪み」の種類を知る

    ③自分がどんな「認知の歪み」をもっているか自覚する
    落ち込んだとき、沈んだ気分になったときにどのような思考(自動思考)が生じたかを記録する。そうすることにより、自分の認知のパターンがわかる。

    ④自覚した思考を適正な思考に修正する
    自分の認知パターンがわかり、それによってある感情・気分が生じていることを理解した次の段階として、認知パターン(思考)を合理的で適応的なものに修正する。

    ⑤スキーマ(中核的思い込み)を知り、修正する
    (スキーマに関しては取り組まない場合もある。)

    以上が認知療法の基本的手順です。

    まずは、(1)から順にすすめ、(3)を何回か繰り返し、ほどよいところで(4)の段階にいきます。(4)を繰り返すうちに少しずつ自分のものの受け取り方に変化が生じてきます。

    実際にやってみると分かりますが、自分の心(視野、考え方)が広がって行くのがわかります。
    固定したものの見方、捉え方(=観念)というのは、私たちの心を硬直させ、狭めてしまうものです。認知療法はその硬直した観念(物の捉え方)にアプローチします。 大らかで、柔らかい心になることによって、ものの捉え方も柔軟になります。

    仏教では「ものをありのままに見る」ことが悟り(心の揺るぎない安定状態)に至るうえで重要だと説きます。観念に曇った心は、ものをありのままに見ることはできません。ですから、認知療法は仏教の悟りにも通じる心理療法だと言えるでしょう。そして、悟りの手前の日常での心の安定を得るうえで、たいへん有効です。

    それでは、以上の手順を詳しくみていきます。

     

     

  • 2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』 (2016年01月12日)

    2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』

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     1.愛着とは

    (1)愛着とは何か

    愛着とは、仏教では愛着は煩悩の一つで、根本的な3つの煩悩のうち貪り(貪:とん)といわれるもので、苦しみを生じさせるものとされる。

    心理学的には、「愛着」という概念は、養育者との情緒的な特別な結びつきのことを言い、乳幼児期の赤ちゃんが心身の健全な成長のために必要な安心・安全を提供するものとする。
    この講義では、心理学的概念としての「愛着」についての理論を講義する。


    (2)愛着は生物学的な現象

    愛着は、人間だけに見られるものではなく、猿などの霊長類や犬、馬などにも見られるもので、成長のために組み込まれているものと言える。鳥における刷り込みなどもそうである。

    すり‐こみ【刷(り)込み】
    生まれたばかりの動物、特に鳥類で多くみられる一種の学習。目の前を動く
    物体を親として覚え込み、以後それに追従して、一生愛着を示す現象。動
    物学者ローレンツが初めて発表した。刻印づけ。インプリンティング。
    (デジタル大辞泉より)

    観察実験で、出産直後1時間以内の赤ちゃんでも、単純な絵よりも、人間の顔の絵の方を目で追う傾向があることがわかっている。また、他の音よりも、人間の声に耳を傾けるということも実験結果でわかっている。

    人間は、赤ちゃんから子ども時代・思春期をへて大人になっていくが、赤ちゃんは自分では何一つできない。すべてを面倒見てくれる人がいなければ生きていけない存在だ。愛着はそうした面倒を見る人と赤ちゃんとの間で形成されるものである。

    愛着は、生物として成長し生存していくためには必要で、個体の生存と種の保存のためには必要であると「愛着理論」ではいう。


    (3)愛着は母子の相互関係

    赤ちゃんは自分の欲求に応えてくれる母親の存在があればこそ成長していくことができる。適切な世話は母親が赤ちゃんを可愛いと思い愛着していくことでうまくできるようになる。
    乳児が相手の顔を見つめ微笑み、声を出す「天使の微笑み」とも言われるものがあり、どんな人でも赤ちゃんのその微笑みを見ると可愛いと思い愛着を誘う。そうして母親の愛着が芽生え、愛情深い親身な世話の原動力になる。愛情深い親身な世話によって、赤ちゃんも母親に愛着するようになる。このように愛着は母子の相互関係で成立する。

    自分の欲求に対して応えてくれる対象に愛着が作られると、子どもは愛着の対象とそれ以外の存在をはっきり区別し、愛着対象だけを追い求めるようになっていく。そして、世話をされるのが愛着対象でなければ子どもは十分に満足しなくなる。

    この乳幼児期の愛着の仕方がその後の対人関係をはじめ、ストレスや困難にぶつかったときの処し方に影響するということがわかってきている。


    2.ボウルビィの愛着理論

    イギリスの児童精神分析家のボウルビィが愛着という概念によって「愛着理論」を作った。愛着理論のできる先行の研究として、ホスピタリズムの問題とアカゲザルの実験があるので紹介する。


    (1)ホスピタリズム

    ホスピタリズムは施設病とも言われ、施設で育つ子どもに心身の発達の遅れが著しく、病気に罹りやすく、治りにくく、死亡率も高いというもの。1920年ころに最初の報告がされた。
    栄養は十分与えられていても発達の遅れの問題が生じて、子どもたちは、人と接触しようとせず、表情も乏しく、自分の殻に閉じこもり、じっと座り込んでぼんやり宙を見つめていたり、意味の無い同じ行動を繰り返したり、自傷行為を行ったりという状態だった。

    どうしてこのような問題が起こるか研究した結果、施設では、集団で保育され、スキンシップがなく、親身になって子どもの世話をするのではないという養育環境がその原因であるということがわかった。そうしたことから、スキンシップの重要性が理解され徐々に改善されていたが、解決されたわけではない。また、里親を積極的に募ることで改善を図ろうとした。


    (2)アカゲザルの実験

    アカゲザルの実験とは、代理母として、哺乳瓶をつけた針金製の母ザルと、哺乳瓶をつけてない柔らかい布製の母ザルを作り、子ザルの行動を研究したものである。

    子ザルは、空腹を満たせる針金製の母ザルよりも空腹は満たせないが、柔らかい肌触りの母ザルと過ごす時間が圧倒的に多く、不安や恐怖を感じる場面では、柔らかい感触の母ザルにしがみつくことが確認された。このことで、心地よい身体接触(スキンシップ)が重要な意味を持つことがわかる。空腹を満たせることだけでは愛着行動は引き起こせないということになる。


    (3)母親との特別な結びつき「愛着」

    ボウルビィはこれらの研究をさらに一歩進め、「愛着」という概念で説明した。

    ボウルビィは、戦災孤児など親がいない施設で養育されていた子どもたちの調査を第二次世界大戦後にWHO(世界保健機関)に依頼されて行った。
    ボウルビィは、そうした子どもたちの問題を母性愛の剥奪という観点から説明した。母親と離されることでその愛情を受けることができず、それによって、母親との特別な結びつきが作られないことが、孤児たちの問題の原因であるとした。この母親との特別な結びつきの性質を「愛着」と呼んだ。


    (4)愛着は特定の人との関係

    愛着は、一人の人との緊密な関係によって作られることがわかっている。それは通常母親であるが、何らかの理由で母親に育てられなくても、愛情深く、親身に育ててくれる人がいればその人と愛着関係は成立する。そして、その特定の対象者だけに愛着行動をとり、それ以外の対象に対しては愛着行動は抑えられる。人見知りするのは母子の愛着関係が成立していることを表している。

    ※愛着行動:愛着を抱いた対象への接近や接触、後追い行動、微笑、発声など

    ホスピタリズムの問題が報告され、その改善が行われてきていたが、愛着理論では「愛着」という概念で問題の原因を一歩深く説明することができた。施設では、複数の人が入れ替わりで接することになり、特定の人と十分な愛着関係を結ぶことがなかなかできない。複数の人にスキンシップもある養育をされても、養育者が入れ替わる環境では特定の人との安定した関係・心の絆(=愛着)を築くことは難しい。
    このように健全な安定した愛着を形成できないと、歪んだ不安定な愛着が形成され、日常生活に大きく障害となるものを愛着障害という。


    (5)イスラエルのキブツの例(※キブツ:イスラエルの集団農業共同体)

    一人の人との関わりでなければ愛着関係は成立しないということの例として、イスラエルのキブツと呼ばれる集団での養育の仕方がある。

    キブツでは、合理性、効率性と子どもの自立のためにもいいという予測のもとで、子どもの世話は集団で行い、夜も母親と過ごすことなく子育てをした結果、不安定な愛着行動をとるようになったということが研究によってわかった。その後、キブツでの養育方法は変更された。
    集団での養育が愛着形成に障害を生じさせることと、愛着関係が子どもの健全な成長に必要だということが、この例からもわかる。

     

     

  • 第2~4回心理学講義 『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第2~4回 (2015年12月21日)

    第2~4回心理学講義
    『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第2~4回

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    1.意識の構造図の説明
    ◎ユングの意識図の説明・・・図① 参照

    ここで、意識のスペクトル図の各段階の詳しい説明の前に、私たちの意識の構造について説明しておきます。今後のスペクトル図の各レベルに基づいた講座の内容をより理解するためには必要かと思います。

    これから説明する意識の構造はユング心理学を基にしています。
    図を見てください。波線より上の部分が表層意識です。表層意識は意識全体(表層意識・無意識を含めた)の5~10%程度と言われています。よく氷山の一角と表現されます。
    この表層意識は論理的、合理的、分析的、功利的、言語的という性質があります。

     

    波線の下は無意識です。この波線は表層意識と無意識を分ける壁・柵です。
    無意識の領域も二つに分けられます。上の方を「個人的無意識(潜在意識」)といい、下の方はさらに深い意識で、人類に共通している無意識で「集合的無意識」といいます。

    ◎個人的無意識(潜在意識)
    個人的無意識は、この人生において経験されたデータ・過去からのデータが蓄積されています。故意にあるいは、意図せずに単に忘れ去ったか、抑圧したデータが蓄積されている貯蔵庫のようなものです。今まで人生で経験してきたすべてのことが、蓄えられています。たった一回経験したことでもなくならず、残っています。

    タンスの引き出しみたいなもので、普段はしまい込んでいて、引き出しを開けて「ああ、こんな服があったんだ。小さいとき着てたんだ」と。これは潜在意識にあったデータが表層意識にのぼってきた状態で、昔のことを思い出したということです。
    タンスの奥の方にしまい込んであるものは、なかなか思い出しません。しかし、退行催眠などを行うと小さい頃のことを思い出します。普段なかなか思い出せないことでも思い出します。子供のころのことだけでなく、前世かもしれないという記憶がよみがえることもあります。前世療法というものですね。(前世があるということも、ないということも、ともに証明することはできません。)

    潜在意識というのは、大変賢いです。例えば、ある部屋に通されて1分位待たされたとします。「こちらにどうぞ」と言われて、その後別な部屋に通されました。そこで「さっきの部屋に何がありましたか?」と聞かれたと。そのつもりではじめの部屋にいたのではないので表層意識ではあまりよく覚えていません。しかし、潜在意識にはしっかり情報は入っています。潜在意識は部屋に何があったか覚えています。

    そして、一度経験したことより何度も何度も繰り返し経験したことの方がしっかりと潜在意識に刻みこまれています。潜在意識に強く刻み込まれているものほど、私たちの行動に強い影響を与えます。

    そのことを詳しくお話しするために、潜在意識にデータがどのように刻み込まれるかというお話をします。この表層意識と潜在意識を分けている波線は表層と潜在意識を分ける壁・柵です。これは、7才~12才までの間に形成されます。ちょうど、小学生の年代ですね。中学生になるとほぼできあがり、大人と同じになります。
    余談ですが、中学生になると電車とか乗り物の運賃が大人料金になりますが、意識の形成過程からみても大人と同じになるということで理にかなっていて面白いですね。

    柵ができる前の子供時代というのは、表層意識と潜在意識の区別がほとんどありません。子供は潜在意識丸出しで生きていると言ってもいいと思います。潜在意識は活き活きとしたエネルギーの創造性の源です。ですから、子供は元気なんですね。
    また、「ある」か「ない」かの世界です。中間がないんです。ですから、こうしたいと思ったら、やらなければ気がすまない。我がままなんですね。子供は我がままでしょ?

     

  • 第1回心理学講義 第1回心理学講義 『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第1回 (2015年12月21日)

    第1回心理学講義
    『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第1回

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    それでは、「自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~」をはじめます。

    まず、講座の名前の説明からしたいと思います。チベットでは、仏教経典の講釈を行うときに経典の名前の説明からはじまります。その経典がどういうものなのか名前を説明すればわかるということです。

    それを真似するわけではありませんが、講座の名前を説明することによって、この講座がどういうものなのかつかんでいただけるのではないかと思いますので説明します。

    その前に「自己成長のセラピー」という言葉は、ケン・ウィルバー著の『無境界-自己成長のセラピー論』(吉福伸逸訳 平河出版社)からお借りしましたことをおことわりしておきます。

    「自他の区別」というのは、本来私たちの意識(何の制限もない広がった意識)とは違う「制限された意識(状態)」のことをさしています。

    「超える」というのは、その制限された意識の枠を超える・壊して、本来の意識に戻っていくということです。

    私たちは、自分で「私」という狭い枠を作ってその中で苦しんでいます。
    その枠が壊れたとき、そこには制限もない広々とした自分というものが経験されてきます。それが、本当の幸福への道なのです。

    副題の「自己成長」これは心の成長あるいは、意識の拡がりを意味します。
    「セラピー」これは「療法」です。
    近頃は、心理療法というものが人気がありますが、「サイコ・セラピー」といいます。 この講座のセラピーも心理療法と受け取っていただいたらいいと思います。

    講座というと一方的に聴くだけというのが一般的ですが、「心」の話となると頭でわかるだけでなく、「心」でわかる=気づきというのがたいへん重要になります。
    気づいて実感することですね。それこそ「セラピー」です。

    本講座では、単に知識をお伝えするだけでなく、エクササイズを行い、少しでも「気づき」を経験していただき、皆さんの成長に少しでもお役立てばと思いました。それで、「セラピー」という言葉を入れました。

     

    1.トランス・パーソナル心理学とは?

    この講座の背景となっている心理学は、トランス・パーソナル心理学という心理学です。 トランス・パーソナルとはどういう意味かといいますと、「トランス」とは「超える」、「パーソナル」は「個」という意味です。

    ですから、トランス・パーソナル心理学を単純に訳すと「超個心理学」「個を超える心理学」となります。この場合「個」というのは「個人」「自我」と考えていただいたらいいと思います。そうすると「自我を超える心理学」ということになります。

    「超える」とはどういうことか説明しますと、二つありまして、一つは水平方向です。
    これは、横へ の広がり、人と人との連帯・つながりということです。
    もう一つは垂直方向で自分の内面に深く入り込んでいって、「自我」を超えた意識状態を体験するということです。
    言葉の表現上、水平と垂直と分けて話していますが、結局は同じことであるとわかります。

    自分という 枠を壊せば、意識は全体に拡がっていくわけですから、水平にも垂直にも拡がるということになります。

     

      2.トランス・パーソナル心理学の成立過程

    トランス・パーソナル心理学の成立過程を見ていくことで、トランス・パーソナル心理学がどういうもの なのかわかってくると思いますから、簡単にその成立過程を見ていくことにしましょう。

    トランス・パーソナル心理学は、1960年代の後半にアメリカで成立しました。

    20世紀になって大きく発展してきた心理学は、四つの大きな流れがあります。
    その中でトランス・パーソナル心理学は第四の勢力と言われ、心理学の大きな潮流の中で最も新しい心理学の流れです。

    第一の勢力は、フロイトの精神分析です。

    ご存知の方も多いと思いますが、フロイトは無意識の発見者といわれ、その功績は高く評価されています。 現代の心理療法のはじまりを創ったのはフロイトといってもいいでしょう。
    フロイトは、神経症の原因が本 人も気づかない無意識の中に隠されていることをつきとめました。無意識にある原因に気づいていくことに よって、神経症が治っていくと唱えました。
    その主な方法は、夢を分析することによって、無意識の領域にア プローチすることです。フロイトは、人間の病んだ心の部分に焦点をあてていて、無意識というものをガラクタの集まりととらえていました。
    ただ、何でも性的なものに還元してしまうので、そのことに抵抗を示す人たちもいます。
    その後、多くの弟子たちが、彼の理論を発展させて現在にいたっています

    第二の勢力は、スキナー等の行動主義心理学です。

    物理学が科学として成立してきたことで、心理学も「科学」として成立させようという人たちがいました。しかしそのためには、「心」という目に見えないものを対象にしても客観的科学として成り立ちにくいので、目に見える「行動」(人間の生物機械的側面)を研究対象にしました。
    つまり、科学としての心理学は対象を客観的な行動に限定すべきだとし、人間を生物機械的にとらえ、おもに「刺激-反応」のパターンで理解しようとするものです。
    この考え方によれば、人間の行動は基本的に、すべて無意識の行動となります。
    フロイトが意識と無意識を分けたのに対して、行動主義では意識の存在すら認めないことになります。

    ですから、心に悩みをかかえている人が解決の参考になるのではと考えて、心理学の本でも読んでみようと、 行動主義の心理学の本を読んでもあまり役に立ちません。
    そして、「何だ心理学なんて役に立たないや」ということになります。(ただ、行動主義の中から出てきた認知療法はうつや不安神経症の人たちに対する療法としてかなり一般的になり効果が出ています)

    第三の勢力は、アブラハム・マズローの人間性心理学です。

    マズローは、はじめ行動主義心理学の研究者として出発しました。
    しかし、自分の子供が産まれ、子供を観 察していくうちに行動主義の人間を機械として見る見方に疑問を感じだしました。

    また、第一の勢力である精神分析は、病んでいる人の心の研究で、その点にもマズローは疑問をもち、より 健康な人たちを研究対象とした積極的な心理学を打ちたてました。それが、人間性心理学です。

    マズローは人間の欲求を階層的にとらえました。 最下層にあるのが、「生理的欲求」であり、その欲求が 満たされれば、次の欲求が起こってくるというものです。そして、その基本的な諸欲求を適度に満たすことが 出来れば、人間はますます成長し、心理的に健康になっていくと考えました。

    以下が6つの基本的欲求です。

    「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性への欲求
    「安全への欲求」・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求
    「所属と愛の欲求」・・・愛されることへの欲求
    「承認欲求」・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求
    「自己実現欲求」・・・・自分がなりたいものへの欲求

    また、マズローは「至高体験」というものに着目しました。「至高体験」というのは、大きな感動や喜びで 我を忘れるほど素晴らしい体験のことです。
    雄大な自然の美しさに時 を忘れ、我を忘れて感動する。そして大きな喜び、幸せを感じる。
    一般的に「ハイ」 と言われるものです。ランナーズ・ハイとか、宇宙と一体化するとか、宗教的体験なども含みます。

    「至高体験」のときの意識は、日常の意識状態とは違う意識状態で、変性意識状態と呼ばれるものです。

    そして、彼はその意味を考察しました。
    彼は、今までの精神分析や行動主義が病理的な面ばかり注目することに疑問を持ち、人間のこの「至高体験」 を起こした時の心の様子を探求することにも意義があるのではないかと考え、もっと人間の可能性、創造性、成 長、価値、自己実現など、人間の全体性、好ましく、高次な側面に焦点を当てた明るい心理学をめざしたのです。

    この明るい考え方は、「人間性心理学」として、60~70年代のアメリカの若者を捉えました。
    そして、「至高体験」は、「自己実現」している人たちの方がそうでない人たちより多いとマズローは言っています。

    この「至高体験」の研究からマズローは晩年「自己超越欲求」というものが「自己実現欲求」の上にあるんだ と言うようになりました。
    先ほど紹介した欲求の階層説の最後に「自己超越欲求」というものを加えたのです。

    マズロー自身アメリカ心理学会の会長まで務めた方でしたから「自己実現」していたといえるわけです。
    そういう人が「自己実現欲求」のさらに上に「自己超越欲求」があると唱えたということは、彼自身、「自己超越欲 求」というものを感じていたのではないかと推測できます。

    そして、この「自己超越」ということがトランス・パーソナル心理学の成立に結びついていきます。

     

     

ヨーガ行法の心理学

  • 1.ヨーガとは? (2015年12月17日)

                                              山口雅彦

     

    大乗仏教の代表的派として中観派と唯識派という大きな派があります。唯識派とは、唯識ヨーガ行派といわれます。
    唯識は仏教の深層心理学と言われていて、その派の名前からもわかるようにヨーガの行を通じて得た瞑想体験の中から心の解明をしていきました。このように、心の解明とヨーガ行というのは関連しています。

  • 2.サンスカーラ (2015年12月17日)

                                              山口雅彦

     

    いつも、ある状況になるとパターン化した決まった行動や心の態度をとってしまう、自分ではそんな態度とりたくないのに・・・・。

  • 3.卑屈さと心のコントロールの関係 (2015年12月17日)

                                              山口雅彦

     

    ☆「ヨーガの八部門」

    さあ、それでは自己の真の主として、自己を振り回す習慣化された反応パターンをコントロールするための実践方法である、ヨーガの八部門をみていきましょう。

  • 4.禁戒と心のコントロールの関係 (2015年12月17日)

                                                                                        山口雅彦

    それでは、五つの戒と心のコントロールと関連した意味合いをみていきましょう。

    ①非暴力
    他を傷つける心の状態は元々不安定です。他を傷つけるときは、背景に怒り・憎しみがあります。怒りや憎しみに支配された心は調御しがたく、そして、暴力をふるうことにより、心はさらに昂ぶり、後悔の念が生じたりしていっそう不安定になります。

  • 5.知足と縁起と感謝 (2015年12月17日)

                                              山口雅彦

    2.<勧戒>

    禁戒というのは、「~してはいけないよ」、というもので、勧戒は「~しなさいよ」というものです。

    禁戒を守らないことで、卑屈さが増すという話をしました。それとは逆に勧戒を実践することは、自己評価を高めます。悪いことをすれば、自己評価が下がり卑屈になり、心は不安定になります。善いことをすれば、自己評価は上がり卑屈さは減り、心は安定します。

     

  • 6.調身・調息・調心 (2015年12月17日)

                                              山口雅彦

    よく調身・調息・調心といいます。目に見えない、つかめない心にいきなりアプローチすることは、むずかしいことです。それに比べ身体や呼吸をコントロールすることの方が簡単です。ですから、まず身体・呼吸をコントロールし、それを通して心にアプローチしていきす。調身・調息によって調心をはかるというわけです。

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