教本
ひかりの輪で使用している教本やテキストをご紹介しています。

【教本】の新着情報

2017/03/27
第36回心理学講義 『心の主となる』
2017/01/10
2016~17年年末年始セミナー心理学講義教本『アクセプタンス&コミットメント・セラピー』
2016/11/26
第35回心理学講義 『心理学の四大勢力』
2016/10/14
第34回心理学講義『ロゴセラピー ~生きる意味の心理学~』
2016/08/30
2016年夏期セミナー心理学講義 『選択理論 ~リアリティセラピー~』
2016/07/17
第32回心理学講義 『思考・感情・ストレスのコントロール:マインドフルネス』
2016/06/21
第31回心理学講義教本 『フロー理論』
2016/05/24
2016年GWセミナー心理学講義教本『自己存在価値を求めて』
2016/05/24
2015年夏期セミナー心理学講義教本『ポジティブ心理学』
2016/04/19
第30回心理学講義 『森田療法』
2016/04/12
第24回心理学講義『人は誰も多重人格』
2016/04/02
第29回心理学講義 『子供の発達・人格形成における父親の役割』
2016/02/27
第28回心理学講義教本『愛着理論②』
2016/02/09
【心理学教本】2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」
2016/01/25
【心理学教本】2014年GWセミナー心理学講義 「認知療法、マインドフルネス認知療法」
2016/01/12
2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』
2015/02/27
2014~2015年 年末年始セミナー特別教本『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』第1章公開
2015/02/21
《改訂版》2014年夏期セミナー特別教本『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』 
2015/01/27
《改訂版》2014年GWセミナー特別教本『幸福のための仏教哲学  平等社会の道と自己を知る智恵』 
2014/03/27
《改訂版》2013年 夏期セミナー特別教本『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』
2014/01/27
2013~14年 年末年始セミナー特別教本『輪の思想と目覚めの教え 仏母の瞑想と二極調和の奥義』第1章公開
2013/09/17
《改訂版》2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』
2013/03/10
《改訂版》2012~13年 年末年始セミナー特別教本『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』
2012/10/09
《改訂版》2012年夏期セミナー特別教本 『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』
2012/07/23
《改訂版》2012年GWセミナー特別教本『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』
2012/04/06
《改訂版》2011~2012年 年末年始セミナー特別教本『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』
2011/10/20
《改訂版》2011年夏期セミナー特別教本『輪の思想と宗教哲学』
2011/08/18
2011年GWセミナー特別教本『 ひかりの輪と日本と輪の思想』第1章公開
2011/03/10
2010~11年 年末年始セミナー特別教本『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』第1章公開
2011/03/10
《改訂版》2010年夏期セミナー特別教本『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』
2010/12/31
《改訂版》2010年GWセミナー特別教本『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』
2010/12/31
《改訂版》2009年~10年 年末年始セミナー特別教本『一元の法則と瞑想法  卑屈・妬みを超えて感謝と慈悲へ』
2010/12/31
《改訂版》2009年2月セミナー特別教本『大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就』
2010/12/31
《改訂版》2008~09年 年末年始セミナー特別教本『仏教講義 悟りの道程2  悟りと利他の思想と瞑想法』
2010/12/31
《改訂版》2008年夏期セミナー特別教本 『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』
2009/05/05
2009年GWセミナー特別教本『内観と仏教の自己内省法 唯識思想と縁起の法 輪と循環の思想』第1章公開

このコーナーについて

  • 上祐史浩の特別教本、講話などをご紹介 (2015年02月21日)

    このコーナーでは、上祐史浩およびひかりの輪編集部の著した特別教本の一部と、それを解説した講話などをご紹介しています。

    ひかりの輪では、年末年始、GW、お盆などの連休ごとに行うセミナーごとに、毎回のテーマに沿った教本を作成し、学習していますが、その特別教本をこのコーナーで一部公開しています。

    これらの教本や講義は、自分と他者の比較をして優劣をつける習慣が強い現代の競争社会にあって、幸福な心で生きていくために役立てていただけるのではないかと思います。

    このコーナーではその教本の一部をご紹介していますが、こちらから特別教本は購入できます。⇒特別教本の購入へ

    じっくりとお読みいただき、智慧、勇気、愛を培っていただければ幸いです。

    ***********************************************

    ※教本の中の「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意

    ① ひかりの輪は、宗教ではなく、東西の思想哲学の学習教室です。特定の宗教宗派、
    神仏、人物(歴史上の人物を含め)、経典・聖典を信仰していません。

    ② この教本の中で、仏教・神道・道教・仙道・ヴェーダ・ヒンズー教・キリスト教
    の思想の一部を解説・紹介しているものがありますが、それらを信仰することを
    推奨するものではありません。

    それらの宗教の思想に関して、盲信を排除し、理性に基づいて研究・検討し、
    その一部に、合理的で有益だと思われたり、そのように解釈ができると考えた
    思想があれば、それを解説ないし紹介したものです。
    こうした実践は、宗教ではなく、宗教哲学と呼ばれることがあります。
    よって、ある宗派・経典・宗教家の一部を、私たちなりの解釈で紹介しても、
    すべてを紹介していることはありません。

    ③ この教本は、現在までの科学では説明がつかない事項に関する記載を含んでいます。
    たとえば、上祐代表らがなした不思議な体験・シンクロ現象などや、多くの東洋
    思想が説く、目に見えないエネルギー(気・プラーナ)の思想・霊性・霊性を増
    進する修行、さらには自然療法・温泉療法・民間療法・ヒーリングや占星学に関
    する記載です。

    しかし、ひかりの輪は、そうした体験・思想・世界観・技法・技術を絶対化・神
    格化・宗教化する意図は全くありません。
    さらに、それらに対して、過度にのめり込まずに、理性による疑問・批判の精神
    を堅持し、バランス感覚を維持することが必要だと考えています。

    その一方で、現在の科学で説明がつかないものを、はなから否定すれば、現在の
    科学を絶対化・盲信することになりかねず、それは、「宗教における盲信」と同じ
    性質のものであり、真の知性・理性・叡智の否定だと考えます。
    たとえば、それらの中には、経験的に広く有効性が認められ、実用化されている
    ものもあります。科学哲学の研究でも、科学と疑似科学(にせ科学)の境界は不
    明確というのが通説です。

    よって、安直に不思議なものを絶対化する過ちと、現在の科学で説明不能なこと
    は何でも切り捨てる過ちの双方を避け、バランスを取ることが、人間の知性・叡
    智の進歩にとって最善だと考えています。

特別教本:一部特別公開

  • 2017年GW特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想』第1章公開 (2017年09月04日)

    第1章 苦しみを滅する仏陀の哲学


    1.はじめに

       釈迦牟尼が説いた教えの目的は、苦しみを滅することである。その中核は、釈迦牟尼の初めての説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で説かれた中道・四(し)諦(たい)・八(はっ)正(しょう)道(どう)で明らかにされている。ここでは、まずそれについて詳しく検討する。


    2.中道

       釈迦牟尼は、快楽主義(左道)でもなく、苦行主義(右道)でもなく、中道を説いたことで知られる。
       王子時代は、おそらくは欲楽にふけった生活を送ったと思われるが、人生の無常を感じて出家して修行に入ると、断食を含めた長年の厳しい苦行を行った。しかし、その末に、それで悟りを得ることができないとして苦行を捨て、「中道」に基づく修行に励んで悟り、目覚めた人(=仏陀)となったという。
       その後、釈迦牟尼は、鹿(ろく)野(や)苑(おん)において、五人の比丘(出家者)に初めての説法を行ったが(初転法輪)、四諦・八正道よりも先に、この中道の教えを、以下のように説いたという。

    「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
    比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃(ねはん)のために役立つものである。」(パーリ語経典相応部から『世界の名著 1』中央公論社 p435-439)

       なお、中道の教えと呼ばれるものには、いろいろな種類があり、初転法輪で説かれた中道は、快楽主義にも苦行主義にも偏らないという意味で「苦楽中道」ともいわれる。


    3.四諦

       「四諦」とは、四(し)聖(しょう)諦(たい)ともいわれ、4つの聖なる真理という意味がある。その4つの諦とは以下のとおりであり、まとめて「苦(く)集(じゅう)滅(めつ)道(どう)」と略称される。

    1.苦(く)諦(たい)--この世は苦であるという真理
    2.集諦(じったい)--苦の原因に関する真理
    3.滅諦(めったい)--苦の止滅に関する真理
    4.道諦(どうたい)--苦の止滅の道に関する真理

       四諦は、釈迦牟尼が最初に説いた教えであり、仏陀の根本教説である。これは、人間の苦を滅するために説いた教えである。
       この教えの要点は、この世・人生は一切苦であるが、苦の原因は煩悩であり、煩悩を滅すれば、苦は滅することができ、その具体的な道(八正道)があるというものである。この道を一言でいえば、この世、特に自己に対する執着(自我執着)を捨てることで、苦しみを滅すること(悟ること)ができるというものである。
       なお、煩悩が苦の原因であるという教えは、「縁(えん)起(ぎ)の法」ともいわれる。ただし、縁起の法は、釈迦牟尼の死後、その意味が拡大され・複雑化したので、煩悩が苦の原因であるという最初期の縁起の法は、特に此(し)縁(えん)性(しょう)縁起という。よって、此縁性縁起を言い換えたものが、四諦の(集諦の)教えということもできる。


    4.苦諦:この世は苦である--仏教の説く「苦」の意味とは

       これは、この世界の一切が苦であるという意味だが、ここでは「苦」という意味を正確に知る必要がある。この漢訳語の苦の原語は、サンスクリット語ではドゥッカ(duhkha)といい、その原義は「不安定な、困難な、望ましくない」といったほどの意味である。
       それから転じて、ドゥッカ(duhkha)には、二つの意味がある。
       一つ目の意味は、日本語の苦と同じような意味であり、苦と楽のうちの苦のことである。より正確にいえば、この世界には、苦と、楽と、苦でも楽でもない(不苦不楽)の三つがあるが、その中の苦である。これは、苦と楽と不苦不楽を、異なるものとして区別し、苦は、楽と不苦不楽の対極にあるものという意味がある。
    しかし、苦諦が説く苦とは、この意味でのドゥッカ(duhkha)ではないことが肝心である。これが理解できないと、仏教の教えが、不合理なまでにこの世界が苦しみだと強調していると誤解することになる。
       二つ目の意味のドゥッカ(duhkha)とは、楽も不苦不楽も、それにとらわれると、それが変化して壊れるがゆえに苦しみの原因となると考える場合の苦である。苦と楽と不苦不楽を、別のものとはしない特殊な見方であり、苦楽は表裏一体という仏教の重要な思想が反映されている。
       このドゥッカ(duhkha)の意味をよく表すものとして、仏教には「三苦」という教えがある。三苦とは、苦(く)苦(く)・壊(え)苦(く)・行(ぎょう)苦(く)である。
       「苦苦」とは、苦しみそのものである苦である。すなわち、身体的・精神的な苦痛である。
       「壊苦」とは、楽が変化して壊れる・滅する時の苦しみである。ここでは、仏教の中核の思想である無常が関係してくる。言い変えれば、今、楽であるものの先には、それにとらわれると苦しみがあることを意味している。これを苦楽表裏ともいう。
       次の「行苦」も、無常に関係している。行とは、サンスクリット語でサンスカーラ(saṃskāra)であり、作られたものといった意味があるが、わかりやすくいえば、一切の存在である。
       そして、仏教では、後に詳しく述べるが、あらゆる存在は無常であるから、一(いっ)切(さい)行(ぎょう)苦(く)といって、一切の存在は(とらわれれば)苦しみ(の原因となるもの)であると説く。こうして、行苦とは、(とらわれれば、無常であるがゆえに)一切の存在は、苦(の原因となるもの)であるという意味での苦である。
       こうして、苦諦が説く「この世は苦である」ないしは「一切は苦である」という教えは、一切のものが、今この時点で苦痛であるという意味ではない。一切のものが、無常であることなどを背景として、とらわれれば、人にとって苦の原因となるという意味である。
       ここでドゥッカ(duhkha)の原義に、先に述べたように、不安定な、望ましくないといった意味があることを思い出してほしい。これを踏まえると、仏教が説く「苦」=ドゥッカ(duhkha)とは、「不安定であるがゆえに、とらわれることは望ましくない(もの)」という意味だと解釈するとよいと思う。こうして、物事にとらわれない、執着しないというのは、仏教の思想の中核である。


    5.四苦八苦

       さて、三苦に加えて理解しておきたいのが、四(し)苦(く)八(はっ)苦(く)の教えである。日常用語の四苦八苦とは、非常な苦しみを意味するが、仏教用語では、人間の人生の様々な苦しみを分類して説いたものであり、人生は苦しみであると説くものである。ただし、この場合の苦しみも、先ほどの仏教的な広い意味での苦しみ(ドゥッカ〈duhkha〉)であることに注意されたい。
      まず、「四苦」とは、①生・②老・③病・④死である。老・病・死はわかりやすいが、仏教では、生も苦しみとする。実際、妊娠・出産の過程は、いろいろな意味で思い通りにならず、母胎と胎児に、死を含んだ危険が伴う。
       さらに、次の四つの苦を加えて「八苦」という。それは、⑤求(ぐ)不(ふ)得(とく)苦(く)--求めても得られない苦しみ、⑥愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)--愛する対象と別れる苦しみ、⑦怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)--憎む対象に出会う苦しみ、⑧五(ご)蘊(うん)盛(じょう)苦(く)である。
       最後の「五蘊」とは、人または世界を構成するものを五つに分類したものである、具体的には、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)であり、その意味は、色が身体、受が感受作用、想が表象作用(イメージ)、行が意志作用、識が識別作用である。ここでは、色=身体のみが物質的な要素で、受・想・行・識は精神的な要素である。なお、広い意味では、世界全体を構成する物質と精神的な要素を意味する。
       そして、五蘊盛苦とは、五(ご)取(しゅ)蘊(うん)苦(く)ともいわれ、その意味は、五蘊は全て無常であることなどから、とらわれると苦しみであるという意味である。すなわち、一切行苦とほぼ同じ意味だと解釈してよいと思う。
       さて、ひかりの輪では、四苦八苦の教えをよりわかりやすくするために、後半の四つの苦しみに関して、⑤求めても得られない苦しみ、⑥得て執着したものを失う苦しみ、⑦(求めるがゆえに)奪い合うことによる苦しみ、⑧それがゆえに一切のものはとらわれれば苦しみになる、などと表現している。
       これは、一切のものは、とらわれ求める限りは、その結果として、いろいろな苦しみが必ず生じることを強調したものである。


    6.集諦:苦しみの原因は煩悩である--苦の原因とは何か

       集諦とは、苦(く)集(じゅう)諦(たい)ともいうが、苦の原因に関する真理という意味であり、釈迦牟尼は「苦の原因は煩悩である」と説いた。この「集」の原語には、起源・原因・招集という意味がある。そのため、苦の原因ないし苦を招き集めるものは煩悩であるという意味で、集諦と訳されたと思われる。
       なお、これは、先ほど述べたように、最も根本的な最初期の縁起の法である此縁性縁起と同一である。よって、集諦を中核とした四諦の教えを端的に表現したのが、此縁性縁起だという解釈もある。
       では、次に、この「煩悩」とは何かというと、仏教が説く根本的な煩悩は、三毒といわれ、それは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)、すなわち貪り・怒り・無智である。ただし、ここの四諦の文脈における煩悩は、特に渇愛(渇いたように欲望を求めてやまない感情)のことを意味するという解釈もある。
       そして、根本的な煩悩が苦しみを招く過程を示したのが、釈迦牟尼が説いた「十二縁起」という教えであるとされるので、多少難解ではあるがここで解説したい。なお、この十二縁起の教えの中では、渇愛は「愛」と漢訳されたものである。


    7.十二縁起:無智から苦しみが生じるプロセス

       「十二縁起」とは、人間の苦しみの原因(=煩悩)を、順に分析したものであり、それが「無明」から始まり「老死」で終わる十二の因果関係の連続で表現されるので、十二縁起と呼ばれる(縁起とは因果関係という意味がある)。十二因縁、十二支縁起、十二支因縁などと訳される場合もある。
       その十二の因果関係の連続とは、以下のとおりであるが、これは、「無明」によって「行」が生じ、「行」によって「識」が生じ、最後に、「生」によって「老死」が生じるという意味であると理解されたい。

    1.無明(むみょう) - 煩悩の根本。根本的な無智。真理がわからないこと。
    2.行(ぎょう) - 意志作用・志向作用。
    3.識(しき) - 識別作用(物事の区別・差別・好き嫌いの精神的作用)。
    4.名(みょう)色(しき) - 人の心身。名が精神現象(心)、色が物質現象(肉体)を意味する。
    5.六(ろく)処(しょ) - 五感と意識。六処とは、六つの感覚器官といったほどの意味で、六つとは五感と意識のこと。
    6.触(そく) - 六つの感覚器官が、それぞれの感受対象に触れること。外界との接触など。
    7.受(じゅ) - 感受作用。六処で外界などに触れた結果として感じること、感覚。
    8.愛(あい) - 渇愛・愛着。
    9.取(しゅ) - 執着・とらわれ。
    10.有(う) - 存在・生存。
    11.生(しょう) - 生まれること・出産。
    12.老(ろう)死(し) - 老いと死。


    8.十二縁起の法の解釈:様々な解釈があり多少難解

       十二縁起の法の解釈は、率直にいえば、様々な解釈があって、多少なりとも難解である。全体を見れば、最後の方に、生=生まれることがあるから、少なくとも前半は、生まれる前のプロセス=胎児の胎内でのプロセスだと解釈して、胎生学的な解釈をすることが少なくない。
       また、釈迦牟尼の死後は、十二縁起が、前世と現世(今生)と来世の三つの生にまたがった過程をあらわしているとする解釈(三(さん)世(ぜ)両(りょう)重(じゅう)の縁起)も現れた。そこで、こうした解釈のばらつきを越えて、十二縁起のエッセンスと思われることをまとめておきたい。
       第一のエッセンスは、すべては「無明」から始まるとしていることである。この無明とは、元の意味は、目が見えないという意味で、転じて聡明さに欠けるという意味を持つ。そして、仏教用語としては、人生や事物の真相・実相に明らかでないこと=無知であることを意味する。
       より具体的には、すべては無常であり固定的なものは何もないという事実に、無知なことであるとされる。これを仏教用語で言い換えると、縁起・無常・空といった真理を知らないことなどと表現される場合もある。この縁起・無常・空に関しては、第二章で詳しく説明する。
       そして、釈迦牟尼は「無明こそ最大の穢れである。比丘(出家者)たちよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ」と説いたという(法句経243)。また、仏教用語の中で、この無明と同一とされるのが、痴(愚痴)であるが、この痴も、煩悩の中でも最も基本的なものとされる。三つの根本煩悩(三毒)とか、六つの根本煩悩とされるものの一つであって、その中でも最も根本的なものとされる。
       こうして、無明とは、人の持つ根本的な無知であって、すべての煩悩の根源とされるものである。その意味を込めて、以下では、根本的な「無知」ではなく、根本的な「無智」という表現を使うこととする。では、次に、より詳しく無明の意味を理解することにしよう。


    9.四(し)顛(てん)倒(どう)

       この根本的な無智に関連して、釈迦が悟った直後に、まず説いた教えと思われるのが、四顛倒である。顛倒の原義は、ひっくり返ることであるが、それから転じて、真理とは逆さまな見方=間違った見方といったほどの意味になる。
       具体的には、釈迦牟尼は、人は、

    1.無常なものを常(恒常的なもの)であると錯覚している。
    2.無我を我と錯覚している。
    3.苦しみであるものを楽であると錯覚している。
    4.不浄なものを浄であると錯覚している。

    と説いた。
       ここで、無我とは、私・私のもの・私の本質ではない、という意味である。よって、無我を我と錯覚しているということは、私・私のもの・私の本質ではないものを、私・私のもの・私の本質と錯覚しているということである。
       なお、我は、永久不変の本質という意味があり、そのため、無我は、永久不変の本質がなく、固定した実体がないとも解釈される。これは、大乗仏教が説く空の思想と繋がるものである。
       この中の無常・無我・苦の三つは、頻繁に説かれる仏教の重要な教えであり、仏教の基本的な現実認識である。詳しくは第二章に述べるが、ここで簡潔にいえば、「この世の一切のものは、無常であり、変化して消えていくものであって、私自身も、必ず老い病み死ぬものであるから、本当の意味で、私とか、私のものといえるものは全くなく、一切は(とらわれるならば)苦しみである」ということである。
       にもかかわらず、実際には、悟っていない人は、無常であることを理解せず、本当の意味で私・私のものなどはないことを理解せず、そのために(とらわれるならば)苦しみ(の原因となるもの)を楽だと錯覚して、それにとらわれるという間違いに陥っているというのである。


    10.四顛倒と十二縁起

       この四顛倒の教えを踏まえて、十二縁起のプロセスを考えてみよう。無常を常、無我を我、苦を楽、不浄を浄と錯覚すると、実際はとらわれれば苦しみ(の原因)となるものを、楽と錯覚することになる。
       すると、この無明=無智のために、無明の次の「行」(意志作用)が生じる。すなわち、何らかの意思・欲求が生じるのである。その後に「これが良い悪い」といった「識」(識別作用)が生じる。そして、その後に、母体内の胎児の意識は、育ちつつある自分の「名色」(=自分の心身)に執着するようになる。
       そして、「六処」(感覚器官)によって外界に接触して(「触」)、色々なものを感じるようになり(「受」=感受作用)、その結果、いろいろなものを愛着して求めるようになり(「愛」=渇愛)、いろいろなものにとらわれ(「取」)、自分の存在(「有」)にとらわれて生まれる(「生」)が、その結果、老いと死という苦しみに至る。このように理解することができる。
       そして、このプロセスをどこかで切断・捨断できれば、苦しみが生じないということになる。


    11.仏教心理学的な無智の説明

       次に、仏教が育んだ仏教の心理学の視点から、無智を根源とする煩悩の形成について述べる。仏教には、唯識思想をはじめとして、人の心を分析した心理学というべきものがある。その中には、根本的な無智からどのように煩悩が生起していくかの過程も分析されている。
       まず、(悟っていない人の)根本的な無智として、「(自分の)覚醒状態を見失っているという無智」があるという見解がある。覚醒状態とは、仏教では涅槃であり、仏陀の覚醒状態である。
       そして、この根本無智と同時に生じるのが、「自己と他者を区別する無智」であると説く。これを言い変えれば、覚醒状態では、自己と他者を区別しないが、それを失うと同時に、自己と他者を区別する意識が生じるということである。すなわち、仏教では、この世界の真実は、自己と他者は繋がっていて別ものではないが、それを人は理解せずに、自己と他者を区別する錯覚に陥っていると説くのである。
       そして、自己と他者を区別すると、自分・私という意識が生じ、他者よりも自分に執着する。これを自我執着、我執、我見、我愛などという。
       そして、外界に、自分に心地よいものと不快なものがあると感じるようになる。快不快、好き嫌いの区別が生じる。そして、心地よいものを、自分のものとしよう、自分のものとして増やそうという「貪り」、その逆に、不快なものを排除しようとする「怒り」が生じる。
       これが、無智から、貪り、怒りが生じるプロセスであり、これら三つを三毒(三つの根本煩悩)ともいう。この三つの煩悩が、他の様々な煩悩(下位の煩悩)をもたらす。妬み・慢心・愛着などの様々な煩悩が生じる。
       しかし、この煩悩は苦しみをもたらす。四苦八苦の教えで解説したように、貪り求めても、得られない苦しみ、得たものさえ失う苦しみ、そして、求めるがゆえに奪い合う苦しみが生じる。こうして、無智から様々な煩悩が生じて、様々な苦しみが生じる。
       最後に参考までに、大乗仏教の唯識思想では、痴(根源の無智=自他の区別)が、我痴(自我意識)を生じさせ、それが我愛(自我執着)を生じさせ、我慢(慢心・私は偉い・優れているという意識)を生じさせると説いている。ここでは、自我執着の中で、慢心(我慢)が強調されている。


    12.滅諦と道諦

       四諦の第三である「滅諦」は、苦(く)滅(めっ)諦(たい)ともいう。苦の止滅に関する真理という意味であり、「苦は滅する」という教えである。
       より具体的には、苦しみの原因は煩悩であるから、煩悩を滅するならば、苦しみは滅することができるということである。
       そして、四諦の第四の道諦は、苦(く)滅(めつ)道(どう)諦(たい)ともいう。苦を止滅する道に関する真理という意味である。
       そして、苦の原因は煩悩であり、その根源は無智であるから、苦を止滅する道とは、無智を滅して、煩悩を滅して、苦しみを滅する道である。
       これが、まさに仏道修行のことであり、釈迦牟尼の直説の教えでは、この修行体系をまとめて、「七(しち)科(か)三(さん)十(じゅう)七(しち)道(どう)品(ぼん)」という。
       ただし、その中で、釈迦牟尼の初めての説法で四諦とともに説かれ、初期仏教において最も主要な修行体系が、「八正道」である。この八正道について、第二章で詳しく述べることにする。
       なお、八正道以外の七科三十七道品の修行体系に関しては、本教本の主旨を外れるので、『2016~17年 年末年始セミナー特別教本「四無量心と六つの完成」』を参照されたい。

  • 2016~17年年末年始特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第1章公開 (2017年09月04日)

    第1章 四無量心の教え:基礎編


    1.四無量心とは何か

      「四無量心」とは、仏陀や菩薩の心の在り方及び実践である。その意味で、仏教の思想と実践の最も重要なものの一つであり、仏道修行の基本であって、なおかつ究極の目的ということもできる。
       まず、『岩波仏教辞典』(第二版、岩波書店)が解説する四無量心の意味を見て、その概略を理解しよう。

       「四つのはかりしれない利他の心、慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量に
        おこして、無量の人々を悟りに導くこと。」


    2.四無量心の「無量」とは何か

       こうして、四無量心とは、四つの無量の(=はかりしれない)利他の心である。では、「無量」とは、具体的にはどういう意味だろうか。
       『分(ふん)別(べつ)論(ろん)註(ちゅう)』という仏教の経典解釈書によれば、

       「無量とは、『対象となる衆生が無数であること』あるいは『対象とする個々の有情
       (著者注:生き物)について(慈悲の心で)余すことなく完全に満たす』という遍満
       無量の観点から、このように称する。」

    とされている。(ウィキペディア「四無量心」より)
       こうして、無量とは、利他の心の広さと深さに関係する。広さに関しては、その利他の心は、この世界・宇宙のすべての生き物=無数に広がっている。よく「すべての衆生(生き物)」と表現されるが、すべての生き物に及ぶ、広大無辺な利他の心である。
       次に、深さに関しては、その利他の心は、個々の生き物を完全に幸福にするという意味を持つ。そして、大乗仏教の「菩薩道」という思想においては、これは、究極的には、すべての生き物を最高の幸福の境地である「仏陀の境地」に導くことを意味する。すなわち、すべての生き物を、ついには仏陀の状態にすることが、四無量心の利他の心の究極である。


    3.慈・悲・喜・捨とは何か

       それでは、慈・悲・喜・捨とは何か。その原語を含め、いつくかの文献から引用する。

    「「慈」とは生けるものに楽を与えること、
    「悲」とは苦を抜くこと、
    「喜」とは他者の楽をねたまないこと、
    「捨」とは好き嫌いによって差別しないことである。」
    (『岩波仏教辞典』(第二版・岩波書店)より)

    「慈無量心(サンスクリット語:マイトリー, パーリ語:メッター)
       -「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
    悲無量心(サンスクリット,パーリ語: カルナー)
       -「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
    喜無量心(サンスクリット,パーリ語: ムディター)
       -「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
    捨無量心(サンスクリット語: ウペクシャー パーリ語: ウペッカー)
       -「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。」
    (ウィキペディア「四無量心」より)

       それでは、次に慈・悲・喜・捨のそれぞれに関して、より具体的に解説をする。


    4.慈・悲・喜・捨の、より具体的な解説

       「慈(マイトリー)」とは、他の幸福を願う心であり、他に楽を与える行為である。こうして、四無量心とは、心の持ち方と、行為・実践の双方を含んでいる。
       「悲(カルナー)」とは、他の苦しみを悲しむ心であり、他の苦しみを取り除く行為である。「悲」といっても、自分の苦しみを悲しむのではなく、他の苦しみを悲しむ意味である。
       「喜(ムディター)」とは、他の幸福をねたまずに、共に喜ぶことである。そして、行為としては、他の幸福の源である他の善行を称賛する、見習うことなどが含まれる。
       「捨(ウペクシャー)」の意味としては、いろいろな表現があるが、まとめれば、「平静で平等な心」ということができる。「平静」とは、苦楽に一喜一憂せず、心の沈みと心の浮つきの双方を離れた、落ち着いた平らかな心の状態を意味する。また、「平等な心」とは、他者に対して、好き嫌い・差別を超えて、皆を等しく利する心である。
       なお、「捨」には、無関心という意味もある。これは、自分の苦しみや自分を苦しめる他の悪行(あくぎょう)に、無関心・怒らないという意味である。自分の苦楽に一喜一憂しない、平静な心の中核として、自分の苦しみや、それをもたらす他の悪行に無関心・怒らないという心の状態があるということである。よって、これは、他の苦しみに対して、無関心・無頓着という意味ではない。仮にそうであれば、他の苦しみを悲しむ「悲」の心と矛盾する。他の苦しみに対する無関心を含めた、単なる無関心は「無智捨」と呼び、「捨無量心」とは似て非なるものとする経典もある。
       こうして見ると、「喜」が、他の善行を称賛することである一方で、「捨」は、他の悪行を怒らないことである。よって、四無量心の一つの解釈として、四無量心とは、他に楽を与え、他の苦を取り除き、他の善行を称賛し、他の悪行に怒らないことと解釈することもできる。実際に、同じインドで発祥し、仏教の母胎となったヨーガの経典は、そのように表現している。


    5.仏教の伝統における四無量心の位置づけ

       説明の言葉が多少難しくなるが、伝統の仏教の教義では、四無量心は、「四(し)梵(ぼん)住(じゅう)」とか、「四(し)梵(ぼん)行(ぎょう)」ともいわれる。これは、四無量心を修行する者は、大梵天界という高い天界に生まれ変わるとされているからである。
       また、四無量心は、上座部仏教が説く、「サマタ瞑想(止)」に入る際の40種類ある瞑想対象である「四十業処(しじゅうぎょうしょ)」の一部である。ここで上座部仏教とは、テーラワーダ仏教ともいわれ、釈迦牟尼の直説である初期仏教の教えに忠実な仏教宗派であり、後にインドからスリランカ・東南アジアに広がった。
    そして、この初期仏教の時代から、仏教瞑想の基本的な教義として、「止観(しかん)」というものがある。そして、「止(サンスクリット語でサマタ)」は、心を静める(止める)瞑想である。「観(ヴィパッサナー)」は、物事をありのままに見る瞑想である。心を静めると、物事をありのままに見ることができ、物事をありのままに見ると、心が静まる。この「止の瞑想」の一部として、四無量心があるのである。
       これを簡略化したものが、現代において広く行われている「慈悲の瞑想」である。慈悲の瞑想は、現代において「ヴィパッサナー瞑想」として広がっている瞑想においては、その準備段階として、セットにして行われる。これは、仏教の精神を最もよく表現した瞑想法として、きわめて重視されている。
       慈悲に関して最も有名な経典の一つである『慈悲経』(パーリ仏典小部小誦経9番)には、慈悲の瞑想の要点として、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願うことが説かれている。さらに、慈しみを修習する上で、毎日の生活で従うべき態度、精神的姿勢、行動等などが説かれている。例えば、「自分の独り子を命がけで守るのと同じ態度で、一切の生類への慈しみを増大させるように」など。この慈悲の瞑想は、パーリ仏典では非常に重要視されており、長部、中部、相応部、増支部等のたくさんの経典に出てくる。
       そして、慈悲の瞑想をすることで得られる成果については、釈迦牟尼は、息子のラーフラに、以下のように説いている。

    「ラーフラ、慈の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚(しんに)(怒りの心)も消えてしまうからです。ラーフラ、悲の瞑想を深めなさい。というのも、悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな残虐性も消えてしまうからです。ラーフラ、喜の瞑想を深めなさい。というのも、喜の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな不満も消えてしまうからです。ラーフラ、捨の瞑想を深めなさい。というのも、捨の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな怒りも消えてしまうからです。」
    (『大ラーフラ教誡経』パーリ仏典中部62番)


    6.四無量心が静める様々な煩悩

       上記の経典が説くように、四無量心は、利他の心ではあるが、同時に、それを実践する者の煩悩を和らげ、心を静め、悟りに近づけるものである。すなわち、「利他」を目的としながら、それが「利己」の結果をももたらす。そこで、慈・悲・喜・捨のそれぞれについて、どのような煩悩を静める効果があるかを詳しく述べることにする。


    7.「慈」が静める煩悩:貪りと怒り

       釈迦牟尼は、ラーフラに対して、「慈」の瞑想と実践によって、瞋恚(怒りの心)が消えると説いている。確かに、慈しみの心と怒りの心は対極であるから、慈の瞑想によって、怒りの心が静まることは納得がいくだろう。しかし、これには、より深い意味合いがあるのである。それは何かというと、怒りの根底には、貪り・執着があるということである。そして、慈の瞑想は、この貪り・執着を和らげ、怒りの心を和らげるのである。
       人は、自分のものを際限なく求めて、とらわれる心=貪り・執着がある。その究極が独占欲である。これがあると、それを妨げる者に対する怒りが生じる。貪り・執着が全くない状態であれば、怒りも生じない。そして、この貪り・執着を和らげるのが、他の幸福を願い、他に楽を与えることである。自分のものを際限なく求めるのではなく、足るを知ることがなければ、他に与えることはできないからである。
       この意味で、慈は、貪り・執着を和らげ、その結果、怒りを和らげることになる。


    8.「悲」が静める煩悩:冷たさ・残虐性

       釈迦牟尼が説いているように、他の苦しみを悲しみ取り除く「悲」の瞑想と実践によって、残虐性を和らげることができる。これをもう少し広く表現すれば、冷たさ・冷たい心を和らげるということができるだろう。残虐さといえば、他の苦しみを喜ぶ、他を苦しめようとする心というニュアンスがあるが、冷たい心は、そこまではいかないが、他の苦しみに無関心という状態である。
       他の苦しみに無関心ということは、その根底に、「他の苦しみは、自分とは無関係である」という意識がある。例えば、他の苦しみに対して「自分には責任がない」とか、「今、他人が経験している苦しみは、自分の過去や未来の苦しみではない」といった、いわゆる「他人事」という意識である。これは、自と他の幸不幸を区別する意識であり、煩悩としては「無智」という根本的な煩悩の範疇に入る。
       そして、「慈」が和らげる貪りの煩悩と、「悲」が和らげる冷酷な心は、不離一体である。というのは、貪りが強ければ、他から幸福を奪い、他を苦しめることになるが、他の苦しみに無関心だからこそ、貪りを続けるからである。
       その意味で、慈悲の実践は一体である。他に楽を与える「慈」の実践は、他の苦しみを取り除く「悲」の実践に自ずと繋がり、同じように、他の苦しみを取り除く「悲」の実践は、自ずと他に楽を与える「慈」の実践に繋がってくる。
       そして、これは、自分が煩悩的な喜びを得ている時に、その裏側では、他者が苦しんでいるという重要な事実を示している。すなわち、自分の煩悩の喜びの裏側には、他の苦しみがあり、他の煩悩の喜びの裏側に、自分の苦しみがあるということである。


    9.煩悩的な喜びは、自と他の間で奪い合うもの

       煩悩的な喜びをよく観察してみると、財物・異性・食べ物・名誉・地位・権力といったものは、いずれも際限なく求めれば、他との奪い合いになる。
       例えば、お金持ちであるという喜びも、貧乏であるという苦しみも、他との比較・競争で決まっている。日本人は途上国からは、皆が王侯貴族に見えるほど金持ちだと見えるそうだが、日本人の中では、経済苦を原因として年間数千人が自殺するし、自分が貧しいというコンプレックスで悩んでいる人がいる。
       異性も、三角関係を含めて同性への妬みなど、他との奪い合いの側面は否めない。食べ物の喜びの裏には、食べ物になる死んだ生き物の苦しみがある。名誉・地位・権力は、少数の人しか得られないからこそ成り立つものであり、得る人の喜びに裏には、得られない人の苦しみがあることは明白である。

    10.慈悲は、奪い合いを超えて、分かち合いを深める

       こうしてみると、煩悩的な喜びは、自他の間で奪い合うものである。その結果、わかりやすくいえば、人は、他と楽を奪い合い、互いに苦しみを押し付けあう傾向がある。
       そして、その反対が慈悲の実践であり、他に楽を与え、他の苦しみを取り除く。これを言い換えれば、他と苦楽を分かちあう実践である。こうして、「奪い合い」を控えて、苦楽の「分かち合い」を深めることが、慈悲の実践の要点である。


    11.「喜」が静める煩悩:妬み

       他の幸福を喜ぶ心は、妬みを和らげる。妬みは、「喜」とはまさに逆の心の働きで、他の幸福を憎む心である。この妬みの心の背景には、「自分が他に優位になることで幸福になる」と考える錯覚がある。これに対して、喜の心は、「他の幸福を喜ぶ広い心が、真の幸福の道である」という気づきに基づいている。
       さらに深く考察すれば、人は、自と他の幸福を区別し、「幸福は自他の間で奪い合うもの」と錯覚しがちである。そうして、自分のものを「今よりもっと、他人よりももっと」と際限なく求める。しかし、この際限のない欲求がある限り、満たされることはなく、求めても得られなかったり、得たものさえ失ったり、自分より得ている他人への妬みや不満がある。
       一方、自と他の幸福を一つと見て、他の幸福を自分の幸福とする広い心を培い、それが本当の幸福であることに気づくならば、不満が根本的に解消する。そして、「喜無量心」ともいわれるが、世界のすべての人々・生き物の幸福を自分の幸福とも見て、共に喜ぶ心には、無量の喜びが宿り、完全に満たされる。よって、釈迦牟尼は、「喜の瞑想によって、不満がなくなる」と説いているのである。


    12.「捨」が静める煩悩:怒り

       釈迦牟尼は、「捨」は、「慈」と同様に、怒りの心を静めると説いている。捨は、前に述べたように、苦楽に傾かず、一喜一憂しない「平静な心」、好き嫌い・差別を超えた「平等な心」、そして、自分の苦しみや、それをもたらす他の悪行に「無関心・怒らない」という意味がある。その意味で、捨の実践が、怒りの心を静めることは自明である。
       しかし、捨が怒りを静めるという教えは、実は非常に深い内容を含んでいる。それについては別の章で述べることにする。

  • 2016年夏期特別教本『気の霊的科学と人類革新の道 ヨーガ行法と悟りの瞑想』第2章公開 (2017年09月04日)

    第2章 気の霊的科学:人類の革新の可能性


    1.気(生命エネルギー)の霊的科学とは

       「気」とは、体の中を流れる目に見えない生命エネルギーである。その存在は、物理学的には証明されていないが、気の思想を前提とし、それを活用する効果は、例えば、中国医学の鍼灸・指圧の治療法のように、長い歴史の中で経験的に広く認められてきた。
       その結果、鍼灸・指圧は、現代では大学で教えられ、国家資格があり、保険医療の対象にもなっているように、WHO(世界保健機関)を含め、公式に認められている事実がある。
       さらに、依然として異端の学会ではあるが、トランスパーソナル心理学会などでは、気の存在を何かしら物理量で表せないかという検討・研究がなされるなどしている。
      この生命エネルギーを表すために、気という言葉を使うのは、中国の思想の道教・仙道・気功・中国医学などである。一方、ヨーガではプラーナ、チベット仏教では風(ルン)などと呼ばれる。

    2.気の通り道:気道に関して

       体内には、気が流れる道がある。これを気道という。中国医学では、経絡(けいらく)(経脈(けいみゃく)と絡(らく)脈(みゃく))と言われてよく知られている。ヨーガやチベット仏教では、ナーディ(脈管(みゃっかん))と呼ばれる。
       気道の場所も気道の総数も、それぞれの思想・学派によって異なる。中国医学などでは、経脈には、12の正(せい)経(けい)と呼ばれるものと、8の奇(き)経(けい)と呼ばれるものがあるとすることが多い。ヨーガや仏教では、主に3つのナーディがあるとするが、それを含めて72000本ものナーディがあると説かれることが多い。


    3.気道の交差点:経穴、気道の密集点:チャクラ

       複数の気道が通る交差点があり、これを中国医学では、経(けい)穴(けつ)(ツボ)という。経穴の総数については複数の見解があるが、例えば、350以上の正穴(せいけつ)と250以上の奇(き)穴(けつ)があるという。
       そして、チャクラとは、ヨーガや仏教が説く、非常に多くの気道が密集しているところである。後に詳しく述べるが、体内の各種の神経(しんけい)叢(そう)や臓器に関係し、様々な能力や煩悩と関係しているとされる。


    4.気の強化と気道の浄化の恩恵:心身の健康・悟り

       そして、仏教やヨーガにおいては、①気を強化することと、②気道を浄化して気道の中に十分な気がスムーズに流れるようにすることが、その人の心身の健康、煩悩・心のコントロール=悟りを実現するために非常に役立つと考えられている。言い換えれば、「気」と「心」と「体」が深く関係しているというのである。
      まず、中国医学では、気の流れが悪い部分に、病気が発生すると考える。その意味で、病気という漢字は、「病んだ気」のために体の疾患=病気が生じるという思想を表している。よって、気を調整することで、病気を治したり、予防したりすることができると考えられている。
       また、気と、気持ち=心は、気と体の関係よりも、いっそう深く関係・同期している。気の強さや気道の状態によって、心が大きく変化するのである。気を調整することで、煩悩・心をコントロールし、悟りの大きな助けになるというのである。これについては、後に詳しく述べたい。
       そして、体操や呼吸法などの身体の操作を通して、気のコントロールを積極的に行うヨーガをハタ・ヨーガと呼ぶ。これと同じ技法は、ヨーガと同じインドを発祥とする仏教に関しても、密教の中に取り入れられた(特に後期密教とされる密教の中に)。
       しかし、気のコントロールを積極的に行うヨーガ・仏教の修行法は、日本には、実質上20世紀後半になるまでは、本格的に輸入されることはなかったと私は考えている。


    5.ヨーガのナーディの思想

       前にも述べたように、気道(ナーディ・脈管)とチャクラの位置や数に関しては、ヨーガ・仏教の各学派・宗派で異なる。私たちは、それらを総合的に研究してきた。
       その中で、図A・Bは、著名なヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師が解説する、3つのナーディと9つのチャクラの図である(『魂の科学』〈たま出版刊〉より引用)。

    ※図A↓


    ※図B↓


       まず、三つの主要なナーディは、以下の通りである。

    ①スシュムナー管
       尾てい骨から背骨(脊髄)を通って頭頂に至る。中央の気道。

    ②ピンガラ管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも右側を通って右の鼻に至る。
       右側の気道。別名スーリヤ・ナーディ。

    ③イダー管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも左側を通って左の鼻に至る。
       左側の気道。別名チャンドラ・ナーディ。


    6.ヨーガのチャクラの思想

       次に、9つのチャクラの位置と名前は、以下のとおりである。

    ①頭頂:サハスラーラ・チャクラ
    ②眉間:アージュニャー・チャクラ
    ③咽頭部:ヴィシュッダ・チャクラ
    ④胸部・心臓部:アナーハタ・チャクラ
    ⑤肝臓部:スーリヤ・チャクラ
    ⑥膵臓部:チャンドラ(マナス)・チャクラ
    ⑦上腹部:マニプーラ・チャクラ
    ⑧下腹部:スヴァディシュターナ・チャクラ
    ⑨尾てい骨:ムーラダーラ・チャクラ

       ヴェーダの聖典では、これらの9つのチャクラが説かれているが、現代のヨーガの導師は、その中のスーリヤ・チャクラとチャンドラ・チャクラを除いた7つのチャクラを主なチャクラとして強調することが少なくない。この7つのチャクラの性質に関しては、『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。
       なお、ヨーガ行者の体験の中には、これとは異なったピンガラー管・イダー管の位置を体験する者もいる。例えば、ピンガラー管とイダー管が、尾てい骨からそれぞれ直線的に右側か左側を上っていくのではなく、双方ともが左右に蛇行しながら、チャクラの部分でお互いに交差して上っていくものである。これについては、別に解説する。


    7.仏教のナーディの思想

       図Cは、チベット仏教の僧侶ツルティム・ケサン師が解説する3つのナーディと4つのチャクラである(『図説マンダラ瞑想法』〈ビイング・ビッグ・プレス刊〉229頁より)。

    ※図C↓


       まず、3つの気道は以下の通りである。

    ①ウマ・アヴァドゥーディ(中央脈管)
       下端は性器で、脊髄を通り、頭頂に至る。太さ10ミリ程とも。
       ※下端は臍(へそ)から指4本分下がった所との表現もある。
       ※位置が、脊髄ではなく、背骨の前という表現もある。
       ※管の太さは状況で変わる(右と左の脈管も同じ)。

    ②ロマ・ラサナー(右の脈管)
       中央脈管の右側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その右側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その右側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と左の脈管と絡み合っている。

    ③キャンマ・ララナー(左の脈管)
       中央脈管の左側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その左側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その左側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と右の脈管と絡み合っている。


    8.仏教のチャクラの思想

       次に、4つのチャクラの位置と名称は、以下の通りである。

    ①頭頂:大楽輪

    ②咽頭部:受用輪
       正確には、喉そのものの中にではなく、喉から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ③胸部・心臓部:法輪
       正確には、心臓ではなく、両乳房の中央の所から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ④臍:変化輪
       正確には、臍そのものではなく、臍があるところから背骨側に入った奥のあたりにある。

       なお、中央の気道の位置として、背骨・脊髄に加え、体の前面、背中とお腹の中間という3つがあるという考えもある。すなわち、体を側面から見て、前側の気道、中央の気道、後側(背骨)の気道である。


    9.チャクラでの気道の詰まりが煩悩を生じさせる

       さて、チャクラの部分で、気道に詰まりがあって、気がうまく流れず、停滞すると、そのチャクラに対応した煩悩が生じる。気道が詰まっているチャクラによって、それぞれ異なる煩悩が生じる。
       ただし、気=エネルギーが不足していれば、気道は詰まっていても、その詰まった部分までエネルギーが届いていない状態になる。この場合は、煩悩は生じない。あくまでも、エネルギーが気道の詰まった部分にぶつかり、その流れが遮られている場合に煩悩が生じる。
       すなわち、煩悩とは、流れようとするエネルギーと、それを遮る気道の詰まりの間の緊張状態が作るストレスなのである。例えば、性器のところのスヴァディシュターナ・チャクラの部分で気道が詰まると、性欲が生じるのである。
       そして、そこで性欲を満たすならば(すなわち射精をするならば)、そのチャクラの部分から、エネルギーが外に漏れだす。その結果として、エネルギーと気道の詰まりの緊張状態は一時的に解消されるから、性欲が消える。しかし、エネルギーが回復して、再び緊張状態が生じると、再び性欲が現れることになる。


    10.気道の浄化の重要性:悟り・解脱の道

       仮に、チャクラの部分の気道の詰まりを取り除くことができたとしたら、緊張状態は解消され、そのチャクラを越えて、エネルギーが上昇する。
       そして、すべてのチャクラに詰まりがなくなると、エネルギーは頭頂のサハスラーラ・チャクラに集中する。このチャクラは特別であって、このチャクラにエネルギーが集中すると、悟り・解脱が生じるとされる。
       なお、頭頂に至る気道は、中央気道だけである。よって、中央気道にエネルギーが集まるときに、心は不動となり、悟り・解脱に至るといわれることがある。


    11.気と気道の3つの状態

       ここで、エネルギーと気道の状態を以下の3つに分類することで、より理解を深めたいと思う。

    ①エネルギーが不足している場合
       煩悩は生じない。無気力な状態。意志・集中力も弱い。

    ②エネルギーはあるが、気道が詰まり、流れが阻害される場合。
       煩悩が生じる。無気力ではないが、煩悩のため心が不安定で、集中も妨げられる。

    ③エネルギーが強く、気道の詰まりもない場合。
       煩悩がなく、心が静まり、集中力が強い。高い瞑想状態。


    12.各チャクラと各気道と煩悩の関係

      さて、次に、各チャクラと煩悩の関係であるが、主な7つのチャクラに関しては、『ヨーガ・気功教本』に詳説したので、そちらを参照されたい。
       残りの二つの副次的なチャクラのうち、スーリヤ・チャクラは、「太陽のチャクラ」ともいわれ、小さな太陽のような形をしており、肝臓の右側にあって、火元素優位だとされる。食物の消化作用を助けている。
       このチャクラの部分で気道が詰まると、怒りが生じるという。それは、実際に怒りを表現せずに、内面に怒り・ストレスをため込んでいる状態の場合もある。この怒りは、ムーラダーラ・チャクラの怒りよりもレベルが高く、単に「嫌だ嫌だ」というのではなく、他人の問題に対して怒る場合などがある。
       チャンドラ・チャクラは、「月のチャクラ」ともいわれ、球形であり、膵臓と脾臓の近くにあり、膵液の分泌に関係しているとされる。
       このチャクラで気道が詰まると、無智の煩悩が生じる。無智とは、仏教では根本煩悩といわれ、物が正しく考えられない状態である。具体的には、単純に物が考えられない愚鈍な状態、動きが鈍い、目先の快楽に偏る、怠惰である、(自己中心で)他に冷淡・無関心といった状態をもたらす。さらに、間違った霊的・宗教的な探求・魔境、イメージ上の性欲、覚醒剤の使用にも関係するともいわれる。


    13.3つの気道と煩悩の関係

       中央・右・左の3つの気道が、仏教の3つの根本煩悩である貪(貪り)・瞋(怒り)・痴(無智)に関係しているという考えがある。どう対応するかというと、以下のとおりである。

    ①中央気道:貪り・執着
       どういう対象への貪りかは、どのチャクラの部位で、中央気道が詰まるかによる。
       なお、この気道だけは、他の気道と異なり、頭頂のチャクラに通じており、どこも詰まっていなければ、解脱・悟り・真理に対する貪り=探求心・求道心が生じることになる。

    ②右気道:怒り
       どういう性質の怒りかは、どのチャクラの部位で、右気道が詰まるかによる。

    ③左気道:無智
       どういう性質の無智かは、どのチャクラの部位で、左気道が詰まるかによる。


    14.各チャクラの3つの詰まり

       この3つの気道は、各チャクラを通っている。そこで、各チャクラの中央や右側や左側で気道が詰まっているならば、そのチャクラに対応する煩悩に加え、貪り・怒り・無智の煩悩も、加わっている可能性がある。
      例えば、スヴァディシュターナ・チャクラの右側で詰まっている場合は、そのチャクラに対応する煩悩である性欲に関係する怒り、例えば、異性への性愛に絡んだ怒りが生じる可能性がある。
       こうして、サハスラーラ・チャクラを除くと6つの主なチャクラがあるが、それぞれが3つの気道と関係しているので、全部で18か所の詰まりのポイントがあることになる。それに加え、チャンドラとスーリヤの2つのチャクラがある。


    15.気道の浄化の方法:身体行法・瞑想・戒律・聖地

       気道の浄化の方法としては、物理的な方法、すなわち、ハタ・ヨーガなどの身体行法によるものと、精神的な方法がある。
       ハタ・ヨーガなどの身体行法として、アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラーが有効である。この詳細は『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。
       なぜ有効かというと、気道の詰まりは、経験的に言って、①筋肉や関節をほぐす、②血流を増大させる、③体を温める、④深い十分な呼吸によって浄化することができるからである。よって、アーサナ(体操・体位法)やプラーナーヤーマ(呼吸法・調気法)が有効なのである。
       また、ヨーガ行法以外にも、同じような効果を持つ修行法として、気功の行法、歩行瞑想、(温泉の)入浴などは有効である。また、中国医学の鍼灸・指圧・マッサージなどが、気道の浄化に有効な理由もわかるだろう。
       なお、プラーナーヤーマやムドラーは、尾てい骨に眠っているプラーナ(気・生命エネルギー)の親玉ともいうべきクンダリニー(宇宙エネルギー・根源的生命エネルギー)を覚醒させる効果がある。
       このクンダリニーが覚醒すると、その力強いエネルギーの上昇によって、ナーディを物理的に浄化することもできる。たとえて言えば、詰まった配管を高圧洗浄するようなものである。
       次に、精神的な方法であるが、一つは、煩悩を和らげる瞑想である。気道の詰まりは、煩悩と一体不可分である。よって、何かしらの精神的な作業、煩悩を和らげる効果を持つ思索ないしは精神集中によって、煩悩が和らげば、同時に気道も浄化されることになる。これは、ヨーガでは、ジュニャーナ・ヨーガやラージャ・ヨーガの実践に分類されるだろう。
       二つ目は、日ごろから悪行を慎み、善行に励むことである。宗教的な表現では、戒律を守る、功徳を積むことである。悪行は、煩悩を増大させ、気道を詰まらせる。言い換えれば、気道を詰まらせているものが、煩悩の原因である悪いカルマという考え方がある。
       なお、カルマ(業)とは、過去の行為の後に残存する潜在的な力のことをいうが、悪いカルマは気道を詰まらせ、良いカルマは気道を解放する力・効果を持っているということである。
       よって、日ごろから悪行を慎み、善行に励めば、おのずと気道は浄化される。ただし、それだけでは、十分には浄化できないために、上記の身体行法や瞑想などによっても浄化するのである。
       三つ目は、神聖な環境に身を置くことである。体の中の気(内気)の状態は、体の外の環境の気(外気)の状態と繋がっており、大きな影響を受ける。すなわち、神聖な気・波動に満ちた聖地に身を置くと、内気も浄化することができるのである。
       ひかりの輪では、修行の四つの柱として、①教学(正しい考え方の学習)、②功徳(悪行の抑止と善行の励行)、③行法(身体行法や瞑想実践)、④聖地巡り(や自宅の霊的な浄化)を掲げている。これは皆、気を強化し、気道を浄化する効果がある。


    16.善悪を感じる身体への進化:人類の革新へ

       気を強化し、気道を浄化することに成功すると、エネルギーがスムーズに身体を流れていく結果として、心身が軽快で楽になり、心の安定と広がりが生じる。また、クンダリニーの覚醒に成功すると、そのエネルギーによって、内的な歓喜も生じる。
       そして、これは、修行者が悪行を回避し善行を励行する上で、非常に重要な変化をもたらす。というのは、奪い合いなどの悪行をなせば、気道を詰まらせ気を弱めるため、心身が不快となり、分かち合いなどの善行をなせば、心身が心地よくなるからである。
       普通の人は、煩悩・欲望・奪い合いなどは、頭では「悪い」とわかっているが、体や心がそれを求めてしまう。また、逆に、分かち合い・慈悲は、頭では「善い」とわかっているが、体や心は「辛い」と感じる。
       つまり、頭と心と体がバラバラであり、理性と感性が、矛盾・葛藤しているのである。これが、現代の社会になっても依然として、個々人が善悪を十分に分別して行動できない理由であるし、無数の事件・紛争が続いている理由である。
       しかし、気の強化と浄化を進めていくならば、善いことをすれば心身も「気持ちよい」と感じ、悪いことをすれば心身も「気持ち悪い」と感じる状態に、いわば「進化」することができるのである。
       言い換えれば、善悪を理解する頭に加え、「善悪を感じる体」を持つことができるようになる。これは、都市文明が始まって以来、数千年もの間、人類が現在に至っても克服できていない奪い合いや戦争を乗り越えるための決め手になるのではないだろうか。だとすれば、これは、人類の革新・進化であろう。


    17.ヨーガや仏道修行の様々な恩恵:高い集中力など

       ここで、気を強化・浄化するヨーガや仏道修行の恩恵を列挙しておきたいと思う。
       第一に、それは、悟り、すなわち、心の安定と広がりを与える。そして、心の安定は、正しい判断力や直観力を含めた智慧を高めることになる。
       第二に、気の状態と密接に関連する心身の健康を向上させる。そして、心身を軽快で楽にして、究極的には、内的な歓喜をもたらす。
       第三に、物事の達成・人生の成功をもたらす。すでに述べた安定した心、智慧、健康に加え、気の強化・浄化ができていれば、前に述べたように物事を実現するために必要な強い意志・集中力が得られるのである。
       特に、仏教・ヨーガの修行が深まると、禅定・サマディなどと呼ばれる深い瞑想状態に至る。それは、心が深く安定し、非常に高い集中力を持った状態である。無心の集中力とでもいうべき状態である。
       これは、スポーツの世界で選手が最高のパフォーマンスを発揮する際の特殊な心理状態である「ゾーン状態」や、心理学で何もかもが流れるようにうまくいく心理状態とされる「フロー状態」に深く通じるものである。
       その状態に入った選手は、勝敗の結果を気にする雑念がなく、無思考の状態であり、流れるように最善の動きをするという。まさに、無欲の極限的な集中状態である。
       そして、これを偶然・偶発的に体験するのではなく、継続的な訓練によって作り出そうとするのが、ヨーガや仏教の禅定・サマディの修行である。

  • 2016年GW特別教本『新しい幸福と成長の哲学』第1章公開 (2017年09月04日)

    第1章 仏教の幸福哲学:心が作り出す幸不幸


    1 一般的な幸福観

    一般には、「今よりもっと」「他人よりもっと」と、何かの喜びを求めて、それを得ることで幸福になると考える。しかし、実際には、多くの場合、必ずしもそうできないので、人は苦しむ。求めても得られず、むしろ失う場合もある。求めれば奪い合いが深まるから、他と苦しめ合う場合も多い。結果として、「求めても得られない幸福という苦しみ」が生じる。言い換えれば、「逃げようとしても逃げられない苦しみ」が生じる。


    2 苦と楽は表裏という思想

    このことを仏教の説く人の心の仕組み(仏教の心理学)に基づいて、もう少し詳しく分析すると、「苦と楽は表裏である」という道理があることがわかる。
    第一に、「楽の裏に苦がある」ということである。例えば、人は、何かの幸福を得ても、ずっと満足することはなく、それに飽き足りなくなって、もっと欲しくなる。特に、他と比較して、「自分も他人と同じように欲しい」、さらには「他人よりも欲しい」と思う。先ほど述べたように「今よりもっと」「他人よりもっと」ということである。こうして、健やかに生きていくに十分なものを得ていても、それ以上に欲求する。
    しかし、こうして果てしなく欲求すると、様々な苦しみを招く。そもそも、際限ない欲求自体がストレスである。求めても得られない苦しみが生じる。さらに、得たものさえ失う苦しみがある。そして、求めるほど、他との奪い合いは激しくなり、それによって苦しむこともある。
    第二に、第一と逆に、「苦の裏の楽」がある。苦しみは、後に様々な幸福に繋がる面がある。人は、苦しみがあるから努力し、成長する面がある。苦しみが自分を鍛えて成長を促すのである。
    そして、究極的には、苦しみは、仏教的な悟り・慈悲の原動力になる。というのは、すべての苦しみは、「私」と「私のもの」に過剰に執着すること(自我執着)によって生じるので、(仏教的な悟りの教えを知る者にとっては)苦しみを体験することは、自我執着を弱めて悟りに近づこうとする動機を強めるからである。
    さらに、苦しみの体験こそが、悟りの終着点である慈悲の心を培う上で役に立つ。自己の苦しみの体験が、他の苦しみを理解して慈悲を培う土台となるからである。


    3 仏教的な幸福観:苦楽に頓着せず、分かち合う幸福

    苦楽が表裏であることを踏まえ、仏教が説く「真の幸福」とは何かと言うと、楽を過剰に貪らずに、足るを知って、他者と楽を分かち合って、幸福になることである。この「足るを知る」とは、今ある多くの恵みに気づいて感謝し、その恩返しとして他と楽を分かち合うとも表現できる。
    その意味で、これは、①今ある幸福に気づくこと、②他者と幸福を分かち合うことによる幸福である。言い換えれば、「(今ある幸福に)気づく幸福」と「分かち合いの幸福」である。言い換えると、感謝と分かち合いの幸福、知足と慈悲の幸福である。
    一方、「今よりもっと・他人よりもっと」と幸福を求めることは、現状への不満に基づいて、他者から奪い勝って、幸福を得ようとするものである。言い換えると、「(今ないものを)未来に求める幸福」であり、「奪い勝つ幸福」である。不満と奪い合い、貪りと奪い合いの幸福である。
    そして、仏教的な幸福観では、苦しみに対しては、苦しみを過剰に厭わずに、苦しみの裏にある喜びに気づいて、苦しみを喜びに変えて幸福になる。これは、苦しみにも感謝することに繋がる。
    さらに、これに基づいて、他者の苦しみに関しても、それを分かち合うことによって、他者だけでなく、自分も幸福になると考える。よって、楽とともに苦しみをも分かち合って、苦楽を分かち合うことで幸福になるとする。
    一方、一般的な幸福観では、苦しみに対しては、それからなるべく逃げようとして、その中で、他者と苦しみを押し付け合う面がある。楽を奪い合い、苦しみを押し付け合うのである。
    なお、仏教が説く慈悲とは、まさに他と苦楽を分かちあうことと表現できる。慈悲の慈は、他に楽を与えることとされる。悲は、他の苦しみを(自己の苦しみのように)悲しみ、それを取り除くこととされる。こうして、慈悲とは、苦楽の分かち合いにほかならない。そして、仏陀の持つ大慈悲の心とは、すべての人々・生き物に対する慈悲である。


    4 仏教的な幸福観・生き方の恩恵

    上記の仏教的な幸福観、すなわち、楽を過剰に貪らずに足るを知り、苦を過剰に嫌がらずに喜びに変え、他者と苦楽を分かちあう幸福観・生き方には、気づきにくいが、実際には、様々な重要な恩恵がある。
    第一に、心の安定と広がりである。苦楽に過剰に頓着して、一喜一憂しないために、心は安定している。また、他と楽を奪い合わず(苦を押し付け合わずに)、分かち合うので、心が広がる。これは、自分と他人の真の幸福が一体であると気づいて、自と他(の幸福)を区別しないため、心が広がるとも表現できるだろう。
    第二に、深い智恵(智慧)、すなわち、物事を正しく認識する力が生じる。合理的な判断力や直観力などが生じる。心が安定していると物事を正しく見ることができる。波立つ感情に左右されずに、合理的な判断ができる。さらに、心が静まっている時にこそ、直感が働きやすい。
    第三に、健康・長寿をもたらす。心が安定し、ストレスが少なければ、ストレスを原因とした悪い生活習慣による様々な病気(生活習慣病)、心因性の病気、そして、免疫力の低下を防ぐことができる。
    また、東洋医学の思想で言えば、心が安定して広がっていると、体の中の目に見えないエネルギー(気)の流れがスムーズになり、心身の健康をもたらす。逆に、気の流れが悪い所が病気になる(そもそも「病気」という漢字の意味は、病気が「病んだ気の流れ」によって生じることを意味している)。
    第四に、良い人間関係をもたらす。これは、他と奪い合わず、苦楽を分かち合う生き方をするのであるから、自明であろう。
    さらに、仏教的な生き方は、こうした様々な恩恵を得つつ、継続的な地道な努力によって、(他者・全体のために)有意義な事柄をなす人生を送ることができる。


    5 仏教的な幸福観と競争に関して

    他と幸福を奪い合わないとする仏教的な幸福観は、必ずしも競争を否定するものではない。なぜならば、競争には二つのタイプがあるからである。ないしは、競争する人の姿勢には、二つのタイプがあるからである。
    一つ目は、互い・全体が向上する切磋琢磨としての競争である。これは、仏教的な幸福観と矛盾せずに合致する、他者・全体への愛・慈悲の実践と解釈できる。
    実際に、切磋琢磨が全くなければ、馴れ合い・腐敗・堕落・怠惰などで、皆で悪い方向に行く場合も少なくない。この意味で、競争による切磋琢磨により、お互いの良い所を見て学び合う機会や、お互いの問題点を指摘し合って解消し合う機会を得て、互いの努力を深めることは有意義だろう。
    二つ目は、自分が勝つことだけを目的とした競争である。これは、他に勝ったり負けたりして、互いの成長を図るのではなく、自分の勝利だけを至上とする姿勢である。これは、優越感を満たすことだけが目的とも表現できるだろう。
    これは、仏教的な幸福観とは合致しない。他の勝利を憎み、他者・全体への愛は育たない。負けた場合は、卑屈・妬みに苦しむ。よく勝つ者でも、長い間には、落ち目があり、それに苦しむ。老化のため、勝つ力は、誰でも尻すぼみである。
    さらに、勝利至上主義は、競争自体を損なう。負けることを強く嫌がって、競争自体を避ける場合がある。これでは、切磋琢磨し合う者(競争の参加者)が減る。優越感を満たす欲求が強いと、そうできない場合には、強い劣等感が生じる。別の問題として、競争上のルール違反、不正行為をなす者が出る。嘘・偽装・盗作・中傷など。これは、本来の切磋琢磨による成長・向上を妨げる。現代社会の競争に多いのではないだろうか。


    6 幸不幸を含めた全ては心の現れ

    「苦楽は表裏であって、苦楽の分かち合いが真の幸福の道」と説く仏教の教えを言い換えれば、「苦しみは煩悩から生じ、真の喜びは慈悲から生じる」ということになる。
    そして、この教えの土台には、「苦楽、幸不幸は、自分の心が作り出す」という思想がある。これは、心の持ち方、視点、価値観を変えれば、より幸福を感じることや、不幸・苦しみを和らげることができるということである。
    そもそも、仏教では、幸不幸に限らず、「全ては心の現れ」とも説く。実際に、私たちが感じる「外界」とは、実際には脳内の情報であって、外界を直接に感じたものではない。外界の刺激は、感覚器官が、脳に伝える信号を出すきっかけにはなるが、脳が感じるもの自体ではなく、信号を受け取った脳は、関連した情報を瞬時に引き出し、それら全体を私たちは感じている。
    この際、それが良いとか悪いとか、楽であるとか苦であるといった印象も生じる。こうして、私の脳・意識・心が、いろいろな解釈を加えている。よって、同じものを体験しても、異なる人には、異なった体験・印象が生じる。人によって、同じものに対する良し悪し・苦楽の印象も異なる。こうして、一人に一つの宇宙(の体験)がある。私たちが「外界」と呼ぶものは、「自分の脳・心の中にある外界」の体験である。
    これは、一部において、自分の夢の中に現れる他人が、自分の意識が作った他人にすぎないことと似ている面がある。現実の体験も夢の体験も、脳内の情報の体験である点は違いがないからだ。目に見えるものは「目の前」にあると感じられるが、実際には「目の後ろ」にある脳内の情報である。そのため、現実と同じほどリアルな夢を見る場合もある。
    こうして、「外界」と呼ばれる体験が、自分の意識の中の体験であるならば、自分の意識・考え方・心の持ち方・視点などを変えることで、その「外界」の感じ方を大きく変えることができると仏教は説く。具体的には、喜びを感じなかったものに喜びを感じることも、苦しみを感じたものに喜びを感じることもできる。以下にいくつかの事例を挙げて、これを説明する。


    7 貪りを捨て、感謝の心を持つと、大きな喜びが生じる

    人の心には、際限のない欲求(貪り)がある。どんなに得ても、満足せず、もっと欲しくなる。すでに得たものは、どんなに多くても、当然のものとなって、飽きてしまう。特に、他人と比較して、「他人と同じように得たい」、「他人よりももっと得たい」と感じる。自分と他人がともに多くを得ていても、お互いの間の差に意識が集中し、「(他よりも)もっと欲しい」と感じるのである。これは「優越感を満たしたい」という欲求が背景にあるからだろう。
    そのため、我々の住む「21世紀の日本社会」は、客観的に見れば、「人類史上最も恵まれた社会」と言っても過言ではないが、ほとんどの日本人には、「最も恵まれた社会」のようには感じられていないだろう。毎日見る日本社会の印象は、大して変わり映えせず、楽しいこともあるが、いろいろ嫌なこともあるといった印象だろう。人によって、楽しいことが少なく、嫌なことが多いと感じているかもしれない。
    しかし、客観的には、今現在の他の国々と比較しても、世界最高の長寿、突出した安全性、有数の豊かさがある。さらに、現在の人類が生まれて以来30万年の間に、一説では5000億もの人類が生まれたともいわれるが、その5000億の中で、僅かに70億のみが、21世紀に生き、1億3千万のみが、21世紀の日本社会に生きている。
    仮に、イエスや仏陀の時代の人々が、現代日本にタイムトラベルしてきたら、これこそが、極楽浄土・千年王国と思うかもしれない。科学技術と物資の豊かさ。人種・民族・性・階級による差別や、暴力の支配を否定した平等主義・民主主義の社会と、その中で育った人々の意識や言動。それは、高度な科学と高徳の人々が集う仏教伝説の理想郷である「シャンバラ」とさえ、映るかもしれない。
    言い換えれば、様々な物資・技術・思想・規範・制度など、私たちの日常は、先人の血と汗の結晶によって作られた膨大な贈り物に満ちている。私たちが、得ているものを当然と見る貪りの心を捨てて、得ている恵みの大きさに気づこうとする感謝の心を持てば、21世紀の日本社会は、貴重な宝に満ちた世界と感じられるのではないだろうか。
    この意味で、外界に恵みを感じる時は、私たちは、「感謝」という「心の豊かさ」の投影を見ているのではないだろうか。逆に、外界に不満ばかりを感じる時は、私たちは「貪り」という私たちの「心の貧しさ」の投影を見ているのではないだろうか。


    8 幸福を求めても得られない苦しみに対して

    多くの人が、幸福を求めても、なかなか得られないという苦しみを抱えているだろう。しかし、幸福は心が作り出すという視点から見れば、それも、心の持ち方が問題なのである。具体的には、例えば、以下のような問題がある。

    (1)とらわれ過ぎている

    すでに述べたように、苦しみの原因として、過剰な欲求・とらわれがある。よって、「それなしではいけないのか」、「多くの人々がなしで生きているのではないか」と自問するとよいのではないか。
    ただし、これは、「いかなる欲求も捨て、何もしなければよい」と主張しているのではない。何か有意義で重要な事柄を実現しようとする場合でも、とらわれ過ぎない方が逆にうまくいくからである。
    とらわれ過ぎると、心身が緊張して、最善の思考・行動が妨げられる。そうした場合は、とらわれを減らすとうまくいく。前に述べたように、心が静まると、物事を正しく見ることができるし、最善の行動ができる。
    よって、そうした時は「あまりうまくやろうと思わない方がうまくいく」と自分に言い聞かせるとよいだろう。これは、格言で言えば、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」、「勝つと思うな、思えば負けよ」といったものに通じるものである。

    (2)すでにある幸福を見ようとしない

    今は得ていない幸福を、未来に得ることが幸福だとばかり考えている。言い換えると、感謝が少なく(足るを知らず)、自分よりも恵まれている人ばかり見て(妬み)、恵まれていない人のことは考えない(慈悲に乏しい)。
    21世紀の日本社会が、客観的には人類史上最も恵まれた社会であるように、実際には、(自分も他人も)得ている幸福の方が、まだ得ていない幸福よりも膨大である。しかし、これに気づいて感じることはない。というのは、常に「今よりもっと」「他人よりもっと」と求めて、「皆が得ているものは当たり前だ」と思っているからである。これは貪りの心が生じさせる苦しみである。

    (3)他の幸福を喜びとしない

    常に自分が(他よりも)幸福になることばかりを考えている。「自分の幸福は喜びだが、他の幸福は妬ましく、自分には苦しみだ」と思い込んでいる。言い換えれば、「幸福は、自分と他人の間で奪い合うもの」とばかり考えている。
    しかし、実際には、「他の幸福を自分の喜びとする」という幸福がある。言い換えると、「広く温かい心による幸福」とも表現できるだろう。そして、これには非常に多くの恩恵がある。
    まず、広い心自体が、生理的に心地良いものである。そして、これには、他との奪い合いがなく、分かち合いがあるから、精神的な安定や健康、さらには、良好な人間関係が得られることになる。
    また、これは、加齢とともに失われる幸福ではなく、心の訓練を続ければ、死ぬまで増大していく喜びである。そして、自分は1人だが、他は無数に存在するから、自分の幸福だけを喜びにするよりも、はるかに多くの(無数の)喜びを得ることができる。

    (4)分かち合うものこそ、最高のものと気づいていない

    「他人より多くを得ることが幸福だ」と思い込んでいるために、実際には「他と分かち合っているものこそ、最高のものである」と気づくことができない。自分のものだけを喜びとし、他人のものは妬ましく思う中で、共有しているものの価値・喜びを見失っているのである。
    実際には、この世界で最も価値があるものは、自分のものも他人のものも、自分も他人もすべてを含み、生み出し、包んでいる、宇宙、地球、大自然の万物であろう。その素晴らしさ・価値を感じることができない。
    逆に、宇宙万物に比べれば、極めて卑小であって、さらに長続きしないものが、自分や他人の財産・地位・名誉である。しかし、そうしたものが、自分のものか、他人のものかに関して、滑稽なほどに、一喜一憂している。言い換えれば、真の幸福(=万人と分かち合っているもの)に気づいていないため、偽りの幸福を追い求めて、苦しんでいるとも表現できるだろう。


    9 「逃げられない苦しみ」という悩みに関して

    次に、逃げられない苦しみに悩んでいる場合である。苦しみがあっても、逃げることができれば、そうすればよいし、たいていの人は、すでにそうしているだろう。しかし、人生には、なかなか逃げられない苦しみがある。
    これに対しては、心の持ち方・視点を変えて解消することが唯一の対処法である。逆に言えば、「心の持ち方が、苦しみを作り出している」と考えるのである。具体的には、例えば、以下のような心の問題が、苦しみを作り出す。

    (1)実際よりも悪いと考えている

    苦しみを増大させる一つの要因は、実際よりも、苦しみを過大視すること。実際よりも悪いと考える。例えば、何か嫌なことを経験する時だけでなく、する前も、した後も「嫌だ」と思い、そのため、合間なく、ずっと苦しむなど。「苦しみが永続し、合間がない」と感じる。
    実際には、苦しみは、時とともに消えていくものだし、生じたり消えたりと合間もあるものである。これは、(苦しみを過剰に)嫌悪するために生じる苦しみである。
    よって、「それは、それほど悪いのか」と自問するとよいのではないか。

    (2)良い面もあることに気づかない

    先ほど述べたように、苦しみの裏側には喜びがあり、苦しみは、人の努力・成長をもたらす。仏教的な悟りの原動力や慈悲の土台にもなる。言い換えると、目先は苦しみであっても、その先には様々な恩恵がある。
    しかし、このことに気づかずに、苦しみは、「悪い」とばかり考えてしまう。同じように、目先の喜びに対しては、その先にある苦しみに気づかずに、それに流されてしまう。
    よって、「それは、良い面もあるのではないか」と自問するとよいのではないか。

    (3)必要な面があることに気づかない

    全く苦しみがなければ、本当の努力・成長はできないだろうし、悟り・慈悲を培うこともできないとすれば、全く苦しみがないことは恐ろしいことであり、一定の苦しみは、人に必要なものだろう。ところが、私たちは、無意識的に、「苦しみは、なるべくない方がよい」と考えてしまう。
    よって、「(この苦しみは)必要なのではないか」「自分の抱えている苦しみは多すぎるのか、それとも少なすぎるくらいなのか」などと自問するとよいのではないか。
    なお、仏陀の教えは、苦行主義を否定している。言い換えれば、苦しめば苦しむほどよいとは主張していない。快楽主義も苦行主義も否定する。これは、楽にも苦にも偏らない中道とされる。


    10 各種の苦しみの裏にある喜び・恩恵の事例

    次に、批判、失敗・挫折、経済苦、病苦といった、よくある苦しみに関して、その裏側にある恩恵を意識する瞑想について述べる。

    (1)批判

    全く批判がなければ、必要な反省・成長ができるか。自分の欠点全てを自分で気づくことができるか。批判は、反省・成長に必要であり、将来の称賛をもたらす。さらには、自己愛を弱め、悟りに近づく機会も与える。

    (2)失敗

    全く失敗・挫折がなければ、本当に成功できるか。真の成功とは、失敗とその反省・改善の努力から生じるのではないか。失敗は成功の元であり、すなわち、成功へのステップである。

    (3)経済苦

    全く経済苦がなければ、本当に豊かになれるか。経済苦は、質素倹約の智恵を生み、その意味で、浪費を解消し、安定した豊かさをもたらす。また、経済苦の体験は、貧しい人たちへの慈悲や、自分のものに執着せずに、宇宙万物を自分の本当の宝とする悟りの境地の土台となる。

    (4)病苦

    全く病苦がなければ、本当に健康になれるだろうか。何か一つ病気があると、体をいたわり長生きするが(一病息災)、健康自慢の人は、過信のため、早死にする場合が多いという。さらに、病苦の時こそ、自分一人で生きているのではないと気づき、他者への感謝・謙虚な心が芽生えることも多い。さらに、老いや死の苦とともに、自我執着を越え、悟りの境地に至る助けになる。


    11 敵と友も心が作り出す

    人にとって、最大の苦しみの対象の一つである「敵」という存在も、自分の心の持ち方が作り出す面がある。すなわち、心の持ち方によって、友が敵に見えるし、逆に敵を友と見ることも可能なのである。以下に、その事例を挙げる

    (1)妬み:優れた他者(仏)が敵(悪魔)に見える

    「自分が一番になりたい」、「独占したい」という欲求が強いと、優れた他者は、妬みのために、自分の邪魔・敵に見える。その場合は、本来は自分を幸福に導く仏陀のような人でさえ、悪魔のように見えてしまう。
    しかし、純粋に自分が向上・成長して幸福になろうとすれば、優れた他者こそは、自分の見本となり、向上・成長に不可欠である。良き切磋琢磨の相手である好敵手は、敵ではなくて、最大の助力者・最大の友ともなり得る存在である。

    (2)怠惰:自分を批判する者は全て敵と見える

    批判は辛いが、自分では気づかない自分の問題点を知って成長する機会を得る場合もある。実際に、他人は、自分の成長を期待して、批判する場合も少なくない(逆に言えば、批判されなくなったら、見捨てられているのかもしれない)。また、たとえ理不尽な批判であっても、自分の精神力・忍耐力を鍛える機会として活かすこともできる。
    よって、向上心が強ければ、自分を批判する者が、「自分の成長の助力者」と見えるが、怠惰と未熟な自己愛が強いと、「敵」と見えやすいことがわかる。

    (3)コンプレックス:いろいろな人が敵に見える

    コンプレックスが強い場合、「他人が自分を嫌っている」とか、「不当な扱いをしている」と、すぐに考えやすい。一種の被害妄想である。すると、多くの人を敵と見やすくなってしまう。これは、劣等感・自己嫌悪・卑屈が背景にあって、それが、他への過剰な嫌悪に繋がるという心理構造である。

    (4)悟りの心:憎むべき敵さえも、仏に見える

    自分を憎む敵対者も、悟りを求める者には、悟りへの重要な助力者・原動力になる。というのは、自分が、自我執着を弱めるならば、敵対者による苦しみも弱まるからである。
    よって、いにしえの仏道修行者は、敵対者を重要な修行課題としてきた。悪魔さえも、自分の悟りを促す、仏の化身・仏法の守護神と見る瞑想や、仏陀と父母と敵対者をすべて平等に愛する瞑想もある。
    こうして、心の持ち方によって、仏が悪魔に見えることもあるし、逆に悪魔が仏に見えることもある。


    12 苦しみを和らげる仏教の三毒の教え

    前に述べたように、仏教は、苦しみは煩悩が作り出すと説く。そして、煩悩の中には、三つの根本的な煩悩(三毒)があるという教えがある。その三毒とは、貪り・怒り・無智などと訳される(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))。
    よって、日常生活でいろいろな苦しみを感じた時に、「この三毒が原因ではないか」と自問してみることは有益である。そして、自分に思い当たる節があれば、苦しみが和らぐだろう。具体的には、以下のように自問・瞑想するのである。

    (1)貪り=欲張り過ぎ

    貪りとは、過剰な欲求、欲張り過ぎである。あれやこれや求め過ぎれば、得られない場合の苦しみや不安は増大する。よって、苦しみを感じている時に、「(本当に必要なものではないのに何かを)欲張り過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、とらわれ過ぎによる苦しみと同じである。

    (2)怒り=嫌がり過ぎ

    怒りとは、よりわかりやすく言えば嫌悪であり、嫌がり過ぎである。よって、苦しみを感じている時に、「(それを苦しみだとばかり考えて、何かを)嫌がり過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、苦しみの過大視や、苦しみを悪いとばかり考え、その裏の良さ・必要性を理解していない場合と同じである。

    (3)無智=怠け過ぎなど

    無智は、三つの根本煩悩の中でも、さらに根本的な煩悩である。すなわち、貪りと怒りも、無智から生じている。それは、物事をありのままに見ることができない(縁起や空を理解できない)ために、自と他の幸福を区別し、苦楽表裏を理解せずに、「自分だけが早く楽に幸福になろう」とする意識状態である。そのため、無智は怠惰を含んでいる。
    よって、苦しみを感じている時に、「(その原因が)何か必要な努力を怠っているからではないか」と自問して、思い当たる節がないかを考えてみるとよいだろう。というのは、人は、最初は、必要な努力を認識していても、怠惰によって、それを実行したくない場合、それを忘れてしまい、その後は、なぜ苦しんでいるのかが、わからなくなるからである。

  • 2015~16年 年末年始セミナー特別教本 『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』第1章公開 (2015年12月19日)

    2015~16年 年末年始セミナー特別教本

    『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』


    目次      購入はこちらから

    教本の中の、「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意 ............ 4

    第一章 仏陀の一元の智慧............ 5

    1.悟りの智慧:常識の中の錯覚を超える............ 5
    2.言葉にはデメリットがある............ 5
    3.言葉を重視する西洋思想............ 5
    4.仏教が説く言葉のメリットとデメリット............ 6
    5.言葉によって名前が与えられた場合............ 7
    6.感覚器官による区別の問題............ 8
    7.人の五感と意識は錯覚を起こす............ 8
    8.良し悪しの感じ方にも過剰な区別がある............ 8
    9.良し悪し・苦楽も繋がっている:苦楽表裏............ 9
    10.仏陀の智慧:二つのものは実は一つ............ 10
    11.比較で生じる良し悪し・苦楽も、同時に生じる............ 10
    12.比較による良し悪しの変化について............ 11
    13.一元の思想・哲学............ 11
    14.仏道修行の手印や座法が象徴するもの............ 12
    15.一元思想の象徴である「輪」............ 12
    16.一元思想と、仏教の「縁起の思想」との関係............ 13
    17.一元思想と仏教の「空の思想」との関係............ 13

    第二章 一元の智慧に基づく幸福の道............ 14

    1.無智が不幸を、智慧が幸福をもたらす............ 14
    2.無智について............ 14
    3.無智と貪りと怒り............ 14
    4.仏教の心理学:唯識思想............ 15
    5.我愛(自我執着)と我慢(慢心)............ 15
    6.我愛がもたらす様々な苦しみ............ 16
    7.体の苦しみに関する考え方............ 16
    8.苦楽表裏の教えの詳細............ 17
    9.苦楽を表裏一体と悟る智慧がもたらす幸福とは............ 17
    10.苦しみの裏側にある喜び............ 18
    11.苦しみを和らげ、喜びを増やす具体的な実践............ 19
    12.知足と慈悲・感謝と分かち合いによる幸福............ 19
    13.我慢(慢心)のもたらす様々な苦しみ............ 20
    14.優劣も表裏一体と悟る智慧による幸福............ 21
    15.優れているとされる者が自戒すべきこと............21
    16.自他一体の一元の智慧............ 22
    17.智慧・慈悲と、無智・貪り・怒り............ 22

    第三章 思考の叡智と無思考の叡智............ 24

    1.言葉による思考のメリットとデメリット............ 24
    2.言葉のメリット:差異の理解・分析・分別............ 24
    3.言葉のデメリット:繋がりを見失う............ 24
    4.実際より固定的な存在だと錯覚する............ 25
    5.私などへの執着・嫌悪............ 26
    6.良し悪し・善悪を表す言葉の悪影響............ 26
    7.現代の問題点:言葉による思考のデメリット............ 27
    8.西洋のロゴス・分析・自我の文明............ 27
    9.東洋の無思考・無分別・無我の文化............ 28
    10 言葉のデメリットを解く仏教............ 28
    11.仏陀の教え:言葉・象徴・以心伝心............ 29
    12.違いと繋がりの叡智の融合:智慧の本当の意味............ 29
    13.思考と無思考の循環・バランス............ 30
    14.陰陽のバランスの思想............ 30
    15.いったん心を静めた上で考える............ 31
    16.現代に広がる鬱病にも有効............ 31
    17.心を静める修行法............ 32


    第四章 最新:読経瞑想の解説............ 33

    1.ひかりの輪の読経瞑想............ 33
    2.「苦楽一体」について:苦楽は縁起............ 34
    3.「苦楽一体」の二つ目の意味:苦楽は同根............ 34
    4.「苦楽一体」の三つ目の意味:苦楽は循環............ 35
    5.「万物感謝」について............ 36
    6.この世界を仏の母胎の中、仏の道場と見る思想............ 36
    7.「優劣一体・万物尊重」について............ 37
    8.「優劣一体」の二つ目の意味:優劣は同根............ 37
    9.他を教師および反面教師として学ぶ............ 38
    10.「優劣一体」の三つ目の意味:優劣の循環............ 39
    11.「自他一体・万物愛す」............ 40
    12.自と他の真の幸福・真の価値も一体である............ 40


    「ひかりの輪」基本理念 ............... 42

    1,思想・哲学の学習・実践を通じて、社会への奉仕に努める ... 42
    2,宗教ではなく、「宗教哲学」を探求していく ... 42
    3,自己を絶対視せず、「未完の求道者」の心構えを持つ ... 43
    4,感謝・尊重・愛の実践で、すべての存在に神性を見いだす ... 43
    5,過去の反省に基づき、特定の存在を絶対視しない ... 44
    6,善悪二元論の妄想を超えた、叡智・思想に基づく実践を行なう ... 44
    7,諸宗教の神仏は、人に内在する神性を引き出す存在として尊重する ... 44
    8,「輪の思想」で、すべての調和のために奉仕する ... 45


    基本理念付帯文--オウム真理教の総括と反省 ............... 46

    (1)人を神として盲信した過ち ... 46
    (2)架空の終末予言、善悪二元論の世界観を盲信した過ち ... 47
    (3)仏教・密教の誤った解釈・実践をした過ち ... 47
    (4)この過ちの宗教的な責任の一端は、私たちにもあること ... 47
    (5)一般社会に対して ... 47

     

  • 2015年夏期セミナー特別教本  『仏教の心理学 心の三毒、智慧と慈悲』第1章公開 (2015年12月19日)

    2015年夏期セミナー特別教本

    『仏教の心理学 心の三毒、智慧と慈悲』

     

    目次         購入はこちらから

    教本の中の、「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意 ............ 4

    第1章 仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲...............5

    1 心の三毒とは............5
    2 無智とは何か............5
    3 伝統仏教の無智の説明............5
    4 簡明な無智の説明 (1) 自と他の区別............6
    5 簡明な無智の説明 (2) 目先の楽へのとらわれ............6
    6 簡明な無智の説明 (3) 今の自分さえよければいい............7
    7 簡明な智慧の説明............7
    8 智慧と慈悲の一体性............8
    9 無智から生じる貪り............8
    10 無智から生じる怒り............9
    11 苦の裏の楽に気付いて怒りを超える............9
    12 仏陀・菩薩の広い心、平等心............10
    13 目覚めた人・仏陀............10
    14 仏陀・菩薩の息の長い努力............11
    15 真の力は、破壊力ではなく継続力............11
    16 広く長い心:時空間に広がる仏陀の心............12

    第2章 自と他に対する嫌悪を超える智慧...............13

    1 はじめに............13
    2 心理学者アドラーと劣等感............13
    3 劣等コンプレックス............14
    4 優越コンプレックス............14
    5 コンプレックスの原因:画一的な価値観による自他の比較............15
    6 自分を愛せなければ他も愛せない............15
    7 他を愛して幸福になる様々な恩恵............16
    8 欠点と長所は表裏:仏教の苦楽表裏の思想から............16
    9 コンプレックス脱出の根本的な条件:地道な努力............17
    10 無智を本格的に超える重要な体験とは............17
    11 卑屈の背景にも、無智・怠惰が潜む場合がある............18
    12 責任転嫁・他への過剰な批判の背景にも、無智・怠惰がある............18
    13 優越コンプレックスに対する対処の複雑さ............19
    14 優越コンプレックスに対する空回りしない対応............19
    15 地道な努力をしている人の爽やかさ............20
    16 後悔・卑屈・不安と、反省・努力・自信............20

    第3章 現代社会の心の闇を解く:無差別殺人の心理学...............21

    1 はじめに............21
    2 無差別殺人・通り魔殺人の現状と心理学的な原因............21
    3 根本の原因:長期間の欲求不満と他責的な傾向............22
    4 促進要因:破滅的な喪失感と類似事件の影響............22
    5 補助要因:社会的・心理的な孤立と、武器の入手............23
    6 精神病理的な観点からの考察:被害妄想............23
    7 無差別殺人の一部にある拡大自殺............23
    8 自殺の中にも他殺的な要素:他殺的な自殺............24
    9 無差別殺人の中にも自殺的な要素がある:自殺的な他殺............24
    10 自分も他人も愛せず、人生や生命の価値がわからないという問題......25
    11 誇大な自分の理想と現実のギャップの解消............25
    12 誇大自己症候群:育児放棄がもたらす結果............26
    13 誇大自己を解消する無償の愛............26
    14 親の過剰な保護・支配も誇大自己をもたらす............27
    15 連動する心理的な問題:過剰な自己愛............27
    16 根本の問題:過剰な自他の比較・自己愛............28
    17 地道な努力の必要性:理想と現実の自分の落差を埋めるために.........28
    18 他責的な傾向と被害妄想に関して............29
    19 解離性障害や空想虚言症............29

    第4章 悟りとは何か:目から鱗の仏教思想...............31

    1 はじめに:悟りの意味や原語について............31
    2 仏教が説く「悟り」「仏陀」「涅槃」............31
    3 覚り=目覚め............32
    4 「現実」とは、夢と似た幻影の性質がある............32
    5 夢だと気付いているブッダと、気づかずに夢を見る人............33
    6 夢と気づくことと、悟ることの類似性............33
    7 悟りとは、本当の自分(の心)を知ること............34
    8 人は自分を知らない=仮面の問題............34
    9 悟りとは世界の直接体験である............35
    10 世界の直接体験とはどんなものか............35
    11 悟りとは今ここで得られるもの............36

    第5章 21世紀:人工知能と智慧の時代...............37

    1 2045年問題とは............37
    2 人間のすべきこと(仕事)が大きく変わる............37
    3 人工知能の危険:他の革新的な技術と同様に............37
    4 人間とコンピュータの融合............38
    5 東洋の叡智が説く人間の知性=智慧............38
    6 智慧とは何か............39
    7 コンピュータ・人工知能には、智慧はない............39
    8 西洋の分析の文明と、東洋の輪の文明............40
    9 人工知能の弊害を緩和するためにも............40
    10 西洋と東洋の叡智の融合を............41

    ひかりの輪 基本理念...............42

     

  • 2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』第1章公開 (2015年05月05日)

    第1章 不安や恐怖を和らげる


    1 はじめに

      物質的には豊かになった現代社会でも、私たちの人生には、さまざまな不安が付きまとっています。例えば、仕事、経済、人間関係、健康、老後・死の不安など。そして、最近は、不安神経症・強迫観念症の人も目立ってきました。
      これは、物や技術が豊かになっても、人の心の不安は、解消されないことを示しています。そこで、本章では、不安や恐怖を和らげる方法を解説したいと思います。


    2 不安と欲求は比例する

      まず、不安は、欲求と比例して大きくなります。「こうしたい」、「こうでなければならない」という欲求が多ければ多いほど、「そうならないのではないか」という不安も増大します。
    私が、仏教哲学を研究した結果としては、欲求の増大とともに、以下のような不安・苦しみが生じます。まず、欲求には際限がありません。満たしても満たしても、「もっともっと欲しい」と思うのが、人間の心です。そのため、第一に、必ず欲求が満たせないという苦しみが生じます。その前に、「満たせないのではないか」という不安が生じます。
      第二に、何かを求めて、それを得たとしても、そのために、逆に、「それを失うのではないか」という不安が生じます。そして、場合によっては、実際に失う苦しみが生じます。
      第三に、求めれば、多くの場合、同じものを求める他人と争い・奪い合いになります。そこで、「他人に負けるのではないか」、「奪われるのではないか」、という不安・苦しみが生じます。また、「憎まれるのではないか」、「妬まれるのではないか」、といった不安・苦しみも生じます。
      これらの人生の不安・苦しみに加えて、人間には、老い・病み・死ぬという根本的な苦しみ・不安があります。そして、これらの人間の抱える苦しみ・不安全体を表現したものが、「四苦八苦」という言葉の本来の意味です。これは、そもそもは仏教用語だったのです。


    3 欲求と不安を自己管理する

      もちろん、欲求と不安がすべて悪いと言っているのではありません。欲求と不安が全くなければ、何かを実現したり、改善したり、問題を察知して解決したりすることもできません。これまでの人類の発展もなかったでしょう。
      しかし、強すぎる不安は、逆効果となります。焦りや緊張が強すぎれば、逆に目的を達成することができません。また、不安に押しつぶされて萎縮し、非常に消極的な生き方に陥る場合もあります。また、人によっては、不安を持つ必要がない些細なことにも、不安を持つ場合があります。いわゆる、不安神経症とか、強迫観念症とも言われる状態です。
      よって、欲求と不安が大きくなり過ぎないようにする必要があります。つまり、自分で、欲求と不安の量をコントロールできるようになることが望ましいと思います。


    4 とらわれを減らす

      さて、これまでにお話ししたとおり、不安が強すぎる場合は、欲求・とらわれを減らすことが、その一つの解決策となります。
      しかし、これには多少のハードルがあります。不安が生じるということ自体が、欲求に執着している、とらわれている状態だからです。簡単に欲求を減らせるならば、不安が強すぎる状態にはならないからです。
      そこで、不安が強すぎる場合は、落ち着いて「今自分が望んでいるものは、そのすべてが必要なものだろうか」と考えてみるとよいと思います。例えば、

      「それは皆、今、絶対に必要だろうか。もう少し後でもよいのではないか。
      焦りすぎてはいないだろうか。」

      「それは皆、自分が健やかに生きていくために必要だろうか。
      十分に恵まれているのに、欲張っているのではないか」

      などと、自問してみます。
      そうすると、多くの場合、必要以上のものを求めていることに気づきます。そして、少しだけ、自分の欲求・とらわれを減らすように、自分に言い聞かせます。そして、これがうまくできれば、心が落ち着きます。


    5 腹八分目の精神

      とはいっても、とらわれを減らすことは、なかなか難しいものです。例えば、「求めることをやめてしまったら、幸福になれないのではないか」という思いも生じます。これは当然のことでしょう。それが、まさに「とらわれ」というものだからです。
      しかし、必要なことは、欲求・とらわれのすべてを捨てることではありません。それを「少しだけ」でいいから、節約することです。そして、客観的に見れば、とらわれによる不安が強すぎる場合は、それに押しつぶされてしまい、逆に不幸になろうとしているのです。落ち着いて考えて、これに気づき、自分に言い聞かせることが重要です。
      よく、「腹八分目に医者いらず」と言います。これは、食べたいと思う量の8割くらいまでにしておく、ないしは満腹の一歩手前でやめておくと、健康を守ることができるということですね。そして、この腹八分目の精神は、体の健康のみならず、心の健康にも役立つものだと思います。食べ物も、「こうしたい」という心の欲求も、多すぎれば、不幸を招くのです。
      言い変えれば、人間は、多くの場合、幸福になるために必要なものを100パーセントではなく、120パーセントくらい求めてしまうものだと思います。そうした時に、不安が強くなる場合があります。これをよくわきまえ、必要な時に、内省してみるとよいと思います。


    6 とらわれない方がうまくいく智恵

      そして、古来の格言・ことわざや、仏教哲学を学んでみると、とらわれ過ぎない方が物事がうまくいくとか、幸福になるという智恵があることがわかります。
      例えば、「急がば回れ」、「急いては事をし損じる」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言があります。武術や競技の世界でも、「肩の力を抜け」、「勝つと思うな、思えば負けよ」と言われます。
      これは、欲求・とらわれが強すぎると、焦り・緊張・不安が強くなりすぎ、逆にうまくできなくなることを示しています。そうした時に、少しだけ、とらわれを節約すると、逆にうまくいくのです。
      私も、人前で講話をする時に、うまく話せるかが不安になることが、時々あります。そうした時は、「うまくやろうと思わない方(思いすぎない方)がうまくいく」と自分に言い聞かせることがあります。そして、今までの経験で、本当にそうだと思っているので、そのように言い聞かせると、すぐに心が落ち着くようになりました。


    7 無心・無我の境地が最強という智恵

      そして、この延長上に、仏教の悟りや、武術の達人の境地として、いわゆる無心・無我の境地というものがあると思います。
      武術の達人は、相手に勝つこと(負けないこと)を目的としています。しかし、あたかも「勝ちたい」という欲求がないかのように、心が静まっている状態こそが、最強・無敗の境地であるということです。これは、静まった心こそが、相手の動きを最も正確に読み取ることができるし、自分の体も、緊張なく最もスムーズに動くからではないかと思います。
      仏教では、心が静まると、物事をありのままに見ることができると説きます。これは、有名な「止観」という教義です。「止」と「観」とは、「心が止まると、物事を正確に観ることができる」という意味です。
      そして、物事をありのままに見ることができる、という意味の中には、単に正確な分析力・判断力だけではなく、いわゆる直観・ひらめき・インスピレーションといった高度な知性が含まれています。心が静まった状態でこそ、直観が生じやすくなるのです。


    8 捨てた後に、舞い込んでくる幸福

      よって、とらわれを捨てた後に、逆に得られるものがあるのです。「うまくやろう」と思い過ぎるとらわれを捨てて、心が静まった結果として、正確な判断力・直観が生じ、逆に物事をうまく行う智恵が生じるということです。
      また、単に自分の判断力や、直観が改善するだけでなく、実際に、自分の周囲の流れが良くなると感じる場合もあります。例えば、とらわれている間は、なかなか得られなかったものが、とらわれを捨てたら、逆に舞い込んできたと感じることです。
      これはあたかも、幸福を求めて幸福になるというのではなく、幸福があちらから舞い込んでくるような感覚です。まさに、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言の背景にあるものかもしれません。
      不思議なことですが、この現象を合理的に説明できる面もあります。例えば、何かにとらわれるあまり、ガツガツしていれば、他人との良い関係は得にくくなります。「友達が欲しい」、「恋人が欲しい」、「顧客が欲しい」、「取引先と良い関係を得たい」と思っても、空回りしてしまいます。とらわれを弱めて、振る舞いに落ち着きや明るさが出てくれば、他との良い縁が得られやすくなります。何事も自分の力だけでは成せないものですから、これは重要だと思います。
      また、とらわれが強く、焦りがある場合は、時間が長く感じられて、「いつまでたっても、うまくいかない」と感じます。しかし、とらわれを弱めて、今できることに集中していると、その間に、求めていたものが得られることがあります。こうした場合も、幸福が舞い込んできたと感じるものでしょう。


    9 バランスが重要。釈迦牟尼の中道の思想

      繰り返しになりますが、これまでのお話は、欲求・とらわれをすべて捨てるということではありません。適度な欲求を持つ、欲求の量を管理するということです。欲求が、多すぎず、少な過ぎず、バランスが取れていることが最善だということです。
      欲求が全くなければ、何の進歩・改善もありません。仏教で言えば、釈迦牟尼も、真の幸福を求めて、修行に入り、悟ったとされます。また、そもそも、人間が生きるためには、生存欲求が必要です。これを捨てるということは自殺を意味します。宗教で言えば、苦行の果てに死ぬことを解脱と誤解した一部の昔の修行者のケースです。
      その一方で、欲求・とらわれは、多ければ多いほど、多くのものが得られる、幸福になる、というわけでもないことが、重要なポイントです。全く欲求がなければ、得ることはできませんが、逆に多すぎれば、空回りするばかりか、逆に得られにくくなるということです。さらには、心身を病んだり、周りが敵ばかりに見えてきたりする場合さえあります。
      そこで参考になるのが、釈迦牟尼の中道という思想です。釈迦牟尼は、王子として生まれました。よって、修行を始める前に、王子として欲楽を極める生活をしたと思います。その後、修行に入って苦行を行いました。それは、極度の断食など、死の間際まで自分の体を痛めつけるものでした。
      その結果、釈迦牟尼は、このどちらの生き方も、真の幸福・悟りに至るものではないと悟り、どちらにも偏らない「中道の教え」に目覚めたとされます。それは、欲楽にふけるものでもなく、いたずらに体を痛めつけるものでもなく、心を静めた平安の境地(涅槃)を目指すものでした。


    10 とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観

      ここで、仏教の哲学の中で、とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観をご紹介したいと思います。その代表的なものが、無常と慈悲の思想です。
      まず、無常とは、世の中のすべてが移り変わり、生じたものは滅するということです。私たちは、いつか必ず死にます。死ぬときは、それまでに得たものはすべて失います。だとすれば、例えば、「お金・名誉・地位などに、あまりにガツガツして生きることに、絶対的な価値があるのだろうか」と考えることができます。
      実際に、あまりにそうしようとすれば、犯罪さえも犯しかねず、実際に、そうした事例が毎日報道されています。それは著名な政治家・事業家にまで及んでいます。そのため、死んだ後に汚名を残す場合もあります。
      これに対して、自分がいずれは死んで、得たものすべてを失うことを意識することは、有益だと思います。こうして人生を長い目で見ると、目先のものへのとらわれが弱まり、本当に重要なことが何かが見えてくるのではないでしょうか。
      なお、仏教では、人は、「自分」と「自分のもの」にとらわれると説きます。それぞれを我執(がしゅう)・我所執(がしょのしゅう)と言います。お金や地位や名誉といった「自分のもの」に対するとらわれは、「自分」に対するとらわれが土台になっています。よって、「自分」を失う「死」を意識することで、「自分のもの」に対するとらわれを弱めるのです。

     

    >>教本の購入はこちらから

     

  • 2014~2015年 年末年始セミナー特別教本 『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』第1章公開 (2015年02月27日)

    2014~2015年 年末年始セミナー特別教本
    『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』

    ■目次                 購入はこちらから

    第1章 哲学・科学・宗教:人類の叡智を総覧する........................5

    1.哲学とは何か..........................................................................................5
    2.さまざまな地域の哲学..............................................................................6
    3.元は一体だった自然科学と哲学..................................................................6
    4.現在までの哲学と自然科学の相互作用.........................................................7
    5.宗教と哲学:対立的な関係と類似性............................................................7
    6.宗教哲学の誕生.......................................................................................7
    7.第三の道としての宗教哲学........................................................................8
    8.「ひかりの輪」の基本理念........................................................................8
    9.宗教哲学の本質:理性と感性のバランス......................................................10
    10.「感じること」と「存在すること」の違い...................................................10
    11.感性の究極:「神のようなもの」を感じること.............................................10
    12.感性の暴走:盲信....................................................................................11
    13.感性の暴走を止める理性...........................................................................11
    14.人は神を知る能力があるか........................................................................12
    15.否定の断定も不合理:理性の暴走・独裁......................................................12
    16.理性の限界を突破する感性........................................................................13
    17.理性と感性のバランス・調和.....................................................................13
    18.科学と非科学の区別とは...........................................................................14
    19.科学界も歪める集団心理...........................................................................14
    20.統計とバイアス:プラシーボ効果...............................................................15
    21.科学界と産業界のつながり........................................................................15
    22.疑似科学による悪徳商法、宗教の霊感商法...................................................15
    23.宗教界と科学界の類似性質........................................................................16
    24.違いとつながり:二分化していないが違いはある..........................................16
    25.現代の科学の構造的な問題........................................................................17
    26.STAP細胞問題の背景...........................................................................17
    27.言葉の問題と無知の知の大切さ..................................................................17

    第2章 「足るを知る」を土台とした智恵と愛の思想..................19

    1.日本社会を覆う漠然とした将来の不安.........................................................19
    2.足るを知る精神の重要性...........................................................................19
    3.河野義行氏の言葉「これまでも何とかなってきたんだし」..............................20
    4.不安が増す原因に、貪り・執着・とらわれ...................................................20
    5.足るを知る精神と、慈悲・分かち合いの精神................................................21
    6.慈悲の心がもたらす、現実面での幸福.........................................................22
    7.何とかなる程度なのが人間の常..................................................................22
    8.「不自由を常と思えば不足なし」:太平の世を築いた家康の遺訓........................23
    9.楽観も悲観もなく:悲観に偏る終末思想の背景に貪りの欲望か........................24
    10.21世紀の日本:多様性の受け入れ=分かち合いの道....................................25
    11.精神的な成長に必要な、知足と父性(母性)の実現.......................................25
    12.競争社会での分かち合い・慈悲の道............................................................26

    第3章 山の思想・修験道の実践:体でまなぶもの.....................29

    1.「ひかりの輪」と修験道...........................................................................29
    2.修験道とは何か.......................................................................................29
    3.「山の思想」=山を仏の母胎と見て生まれ変わる修行.................................... 30
    4.修験道が説く超自然的な力「験力」とは......................................................31
    5.野性性の向上か、神の化身か.....................................................................31
    6.大自然に親しむことの重要性.....................................................................32
    7.体験してみて初めてわかる........................................................................32

    巻末エッセイ1:太陽の周りの虹の光の輪.................................33

    1.「ひかりの輪」は、太陽の周りの虹の光の輪から..........................................33
    2.輪の思想・三つの縁起の法則.....................................................................33
    3.万物同根・万物一体:虹の無数の色は太陽の光から.......................................33
    4.万物関連・万物一体:虹の色は全て連続して一体である.................................33
    5.万物循環・万物一体:太陽の周りの虹は完全な輪・円の形である.....................34
    6.循環の法則(周期的な運動の法則)............................................................34
    7.循環の法則と占星学.................................................................................34
    8.循環の法則と社会現象..............................................................................35

    巻末エッセイ2:
    霊性(スピリチュアリティ)と、その特徴・問題点..................36

    1.スピリチュアリティ.................................................................................36
    2.(新しい)スピリチュアリティの歴史.........................................................37
    3.スピリチュアリティの自然志向と強力な指導者の不在....................................37
    4.「新しいスピリチュアリティ」現象の問題点:スピリチュアルエゴ..................38
    5.思想哲学・宗教の実践と団体組織のあり方................................................39
    6.団体組織・指導者の良さを活かし、
    その弊害を取り除く「ひかりの輪」の取り組み..........................................39

    参考資料 「ひかりの輪」基本理念.......................................... 41

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  • 2014年夏期セミナー特別教本『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』第1章公開 (2014年08月15日)

    第1章 仏教が説く無智と智慧とは何か


    1.無智とは


      仏教では、すべての苦しみの原因を無智(無明)などの言葉で表す。無智とはいろいろな解釈があるが、わかりやすくいえば、現象をありのままに見る・感じることができない状態をいう。しかし、以下では、この無智に関して、興味深いいくつかの具体的な見解を紹介して、仏教が説く幸福の智慧(智恵)を学びたいと思う。


    2.縁起・空を理解しない状態

      無智が現象をありのままに見ることができない状態だとして、逆に現象をありのままに見ることができる状態=智慧とは何なのか。これについては、よく縁起ないし空という言葉を用いて説明される場合が多い。
      縁起とは、因縁(いんねん)生起(しょうき)の略であるが、縁が条件、起が生起という意味なので、全体として、「条件によって生起する」といった意味になる。よって、縁起の法とは、「この世界の事物が条件によって生起している」という教えである。そして、これを理解できている状態が智慧の状態であり、逆にいえば、理解できない状態が無智の状態である。
      では、「条件によって生起する」とは、どういう意味かというと、わかりやすくいえば、「あらゆる事物は、無条件では生起しない」、「何か他に依存して生起している」という意味である。よって、さらにわかりやすくいえば、「この世界の事物はすべて、相互依存によって存在し、他から独立してそのものだけで存在するものはない」という程の意味になる。これは、言い換えれば、「万物は何かしらつながっており、本質的には一体である」という意味になる。
      そして、縁起と結びつくのが「空」という概念である。空とは、「実体がない」といった程の意味である。より詳しく表現すると、「固定した実体がない」、「他から独立した固定した実体がない」といった程の意味になる。
      そして、縁起しているものは空である、と仏教は説く。すなわち、「相互依存しているものは、(他から独立した固定した)実体がない」、という意味である。なぜそうかというと、相互依存し、他に依存しているものは、他が変化すれば、自分も変化するからである。
      そして、特に大乗仏教では、この世の一切は実体がないと考え、「一切皆空」という思想がある。なお、縁起と空の関係については、ほかにも深い意味があるが、それは後に説明する。
      そして、この世界は縁起しており空である、という認識がある意識状態が、智慧が生じている状態であり、そうでない意識状態が、無智の状態ということである。


    3.根本無智:本来の状態を見失っている状態

      仏教の宗派の一つには、無智の中で、根本無智という概念を説くものがある。この場合の根本無智とは、表現が難しい。それでもあえて表現すると、「本当の自分の意識が、自分自身を見失っている状態」とも表現することができるだろう。
      ただし、この表現は多分に、皆さんのイメージ的な理解を促すための方便の一面がある。
    例えば、ここでの本当の自分、本来の自分とは、ヒンドゥー・ヨーガが説く永久不変の自分の本質とか、真実の自分といった意味を持つ「真我」という概念とは異なる。真我とは、わかりやすくいえば、自分の永久不変の霊魂のようなものである。
      仏教では、真我は説かずに、その存在を否定することが多い。先ほど述べたように、この世界の万物は、縁起=相互依存しており、空=固定した実体がない。よって、私の中にも、他者・万物から独立しており(=相互依存していない)、永久不変な(=固定した実体がある)存在はないと考える。
      難しいことはともかくとして、本当の自分の意識が自分自身を見失っている状態だという以上、根本無智とは、わかりやすくいえば、本当の自分自身を知らない、本当の自分自身に対する無智という意味合いを持つ。私たちは、本当の私たち自身を見失っているというのだから、これは、ある意味では驚くべき思想である。
      では、本当の自分を見失っているというのはどういうことなのかについて説明することにする。それは、いくつかの喩えによって説明する。


    4.夢や映画の喩え:本来の自分を見失った状態

      現実の世界と同じように、夢の中でも、私たちは、私たち自身と他人を経験する。しかし、それが夢だと気づくならば、それまで私だと思っていた夢の中の私は、本当の私ではないことに気づく。夢の中の私から自分の意識が遠のき、同時に、夢全体が自分が作ったものだという認識が生じる。
      これは、夢だと気づく前は、本当の私が夢の中の私と一体となっていたところ、夢だと気づいた段階で、その二つが分離し始めたということもできる。本当の私が、本当の私ではないものに執着し、一体化していたところ、それが解消されたとも表現できるだろう。
      そして、これは、仏教が説く悟りの状態と似通っている一面がある。仏教の悟りとは、私たちが「私」と呼んでいるものに対する過剰な執着(自我執着)を弱め、自と他がつながっていることを悟り、万物を愛することだとも表現できる。「私」だけを偏愛せず、「私」と他者・万物が一体であると悟って、万物を愛する状態である。

      もう一つ別の喩えがある。それは映画を見る人である。映画を見ている時、人は、その映画の主人公に感情移入し、一体化して、主人公とともに一喜一憂することがある。あたかも、自分が映画の主人公になったかのように喜び悲しむ。しかし、映画が終われば、我に返り、主人公から意識が離れて、本来の自分自身に戻る。場合によっては、映画の最中に、何らかの理由で、我に返る場合もある。
      そして、インドの思想家の中で、この世界を神の作った三次元立体映画のようなものだと説く人がいる。その中には、私や彼など、さまざまな登場人物がいる。そして、私たちは、本来は、その映画を見ているだけの存在なのに、その映画の中の「私」という登場人物と一体化し、「私」を偏愛しているというのである。

      もちろん、これらは喩えである。現実の世界は、夢や映画とまったく同じではない。しかし、現実の世界が、夢と似た一面を持っているというのである。それは、現実の世界でも、私たちの本来の意識は、私たちが普段「私」と呼んでいる「私の心や体」とまったく同じものではないというのである。
      これを言葉で表現するのは難しいが、本来の私たちの意識とは、普段の私たちの意識・心とは違って、「私」だけを偏愛し、欲張ったり怒ったりするものではなく、静まった、広がった、温かい意識である。言い換えれば、「私」を偏愛した意識、自我執着に基づく思考や感情ではなく、自と他を区別しない、静まった、広がった、温かい意識である。


    5.仏教と心理学の一致点:
    普段の自分の思考と感情は、本当の自分ではない

      さて、少し脱線するが、心理学の心理療法の分野においても、自分の思考や感情を本当の自分とせずに、それを冷静・客観的に見つめることで、鬱やストレスが解消するという見解がある。マインドフルネス認知療法というものである。
      認知療法では、ストレスや鬱の強い人の原因が、その人の思考が極端に否定的であることにあると考える。そして、その思考をバランスのとれたものに修正していくことが重要だが、普段、いろいろな体験をした時の私たちの思考と感情は、私たちの合理的な判断によって生じるのではなく、過去の習慣などによって自動的に生じるものであり、多くの場合、私たちの意識は、その思考や感情と一体になって、それに巻き込まれている。
      よって、マインドフルネス認知療法では、一定の手法によって、心を鎮める訓練を行い、その後、自分の思考や感情を冷静・客観的な視点から観察すること、すなわちよく気づく訓練をする(=マインドフルネス)。これは自分の思考や感情を観察する自分を作ることであり、自分の認知を観察するメタ認知ともいわれる。言い換えれば、自分自身と、自分の思考と感情が一体化していたところに対して、両者の脱一体化を図るのである。そして、この脱一体化が始まると、心理療法の経験では、症状が和らぐという。
      そして、普段の自分の思考や感情を本当にあるべき自分の意識ではないと考える思想は、仏教の無我・非我の思想・瞑想や、四念処・五蘊無我の瞑想などにある。実際に、マインドフルネスという言葉は、仏教の「念」という言葉から来ている。西洋現代の心理学者が、仏教思想に心の問題の解決のヒントを見出したのである。彼らにとっては、仏教の教えの一部は心理学・心理療法であり、ブッダは心理療法家とも位置付けられているという。
      それでは、再び話を元に戻し、本来の自分の意識が、自分自身を見失ってしまった結果、どういうことになるかについて述べる。


    6.根本無智から派生した無智:自と他を区別する意識

      その本来の意識が自分を見失ってしまうと、私たちの心には自と他の区別が生じ、他よりも自己を偏愛する状態(自我執着)が生じる。この「自と他を区別する意識」は、あらゆる煩悩の源になるので、これを無智と呼ぶ場合も少なくない。
      自と他を区別する無智の意識状態は、どういったものか。それは、自分と他者が別物であり、なおかつ自と他それぞれが固定的なものに感じられている。すなわち、縁起や空の理解が失われている。
      縁起や空を理解する智慧とは、万物が相互依存であり、固定した実体を持たない、というものであった。自と他は相互依存でつながっており、自と他双方とも、必ず死ぬように、固定した実体はない。こうして、自と他が一体であり、両者とも固定した実体がないと悟っている場合は、人は、自分だけを過剰に偏愛したり、自分のために(他と争って)多くのものを得たりしようとはしない。よって、欲や怒りが生じない。
      なぜならば、自分には実体がないと感じているから、自分だけを過剰に偏愛しないし、さらには、自分は他者と別のものではなく一体であると感じている。また、自分だけではなく、他者万物に実体を感じなければ、自分のために何かを得ようとする意識も生じない。

      しかし、自と他が別物であり、それぞれに実体があると感じ、自分を偏愛する意識が生じると、その自分のために、他者・外界の中で、好ましいと感じるものが生じて、それを欲し、好ましくないと感じるものが生じて、それを嫌う心が生じる。
      これは、夢や映画の喩えを逆のプロセスで考えるとわかる。夢の中で、それが夢だと気づいていた人が、再び夢であることを忘れてしまうと、どうなるか。するとやはり、夢の中の私と一体化し、夢の中の私を過剰に偏愛し、場合によっては、夢の中の他者と相争う(という内容の夢を見ることになる)。
      しかし、それが夢だと気づいていた時には、夢の中の私と他者は、別々のものではなく、すべては自分の夢の一部として一体である。そして、そのどちらにも実体は感じないから、自分だけを偏愛したり、その夢の中の何かに強く執着したり、嫌悪したりすることはない。


    7.現実と夢や映画の喩えとの違い

      なお、現実と、夢や映画の類似性を指摘したが、当然異なる部分がある。それは、夢を見ている人は、それが夢だと気づいた後まもなく、夢から覚める。すなわち、夢を見ることをやめる。映画も同様である。
      しかし、悟りによって現実が夢に似た側面があると気づき、本当の自分の意識が目覚めたとしても、現実の体験をやめることはできない。厳密にいえば、それをやめるのは死を迎える時である。その意味で、現実は長い夢のようなものだという人もいる。
      しかし、それも長い夢と似ているというだけであって、長い夢と同じではない。自分の夢は、自分が目覚めればなくなるし、なくなってもよい。しかし、現実世界で悟り目覚めたとしても、現実世界がなくなれば、悟り目覚めた自分自身も同時になくなってしまう。
      先ほど真我との違いの所で述べたように、ここでの本当の自分の意識とは、この世界と別に存在している絶対的な存在ではなくて、あくまでもこの世界と共に、相互依存しあって存在するものである。
      また、夢の世界は、自分が目覚めれば消えてなくなるが、現実の世界は、自分が死んでも、他に生き続ける人がいて、延々と続いていく(こう考えるのが普通である)。



    8.自我執着を弱めるとともに慈悲を培う

      ここで、仏教などの教えが、現実と、夢や映画との類似性を説く目的は、執着を弱めるためである。特に、「私」と「私のもの」に対する過剰な執着である。私と私のものへの執着を、仏教では、それぞれ「我執(がしゅう)」や「我(が)所(しょの)執(しゅう)」ともいう。
      私に過剰に執着し、私のものを過剰に増やそうとすれば、その裏側にさまざまな苦しみが生じる。この点については、後にあらためて検討するが、苦しみが生じるゆえに、私や私のものへの過剰な執着を弱めようとして、夢との類似性を説くのである。
      そして、重要なこととして、仏教が説くのは、過剰な自我執着を弱めるだけではなく、万人・万物への愛、すなわち慈悲を説くということである。「私」だけに執着せずに、「万人」を愛しましょう、ということである。こうして、この世界は夢のようなものであるからといっても、この世界が無価値であるとか、空しいとか、否定したり、破壊したりしてよいということではないのである。
      そのため、仏教の修行では、①無智を乗り越えて縁起や空を理解した智慧と、②大慈悲(四無量心)の二つの実践が重要だといわれることが多い。


    9.ブッダとは目覚めた人という意味

      これらの教えを理解すると、サンスクリット語のブッダという言葉が、目覚めた人という意味を持つことが理解しやすいだろう。というのは、悟りというものの本質が、現実の世界に、夢との類似性があることに気づくことを含んでいるからである。
      ないしは、夢から目覚めるのと似たように、悟りの状態にも、見失っていた本来の自分自身を取り戻すといった意味合いがあるからである。
      さらには、悟りとは、新しい意識の目覚めではあるが、それは、そもそも存在しているにもかかわらず、悟るまでは見失っていたものであると考えるので、その意味でも、目覚めた、という言葉がよく合っているということができる。

     

    >>教本の購入はこちらからどうぞ。

  • 2013~14年 年末年始セミナー特別教本 『輪の思想と目覚めの教え 仏母の瞑想と二極調和の奥義』第1章公開 (2014年01月27日)

    《改訂版》2013~14年 年末年始セミナー特別教本
    『輪の思想と目覚めの教え 仏母の瞑想と二極調和の奥義』

    ■目次                 購入はこちらから

     

    第一章 輪の思想・法則の復習....................................6

    1 輪の思想と輪の法則...................................................6

    (1)輪の思想とは.....................................................................6
    (2)輪の法則(一元の法則)とは................................................6
    (3)輪の法則に関する読経瞑想...................................................7

    2 三悟心経:三つの悟りの輪の法則から...........................8

    (1)「万物恩恵・万物感謝」 ......................................................8
    ①自分の恵みの大きさに気づき、それを支える万物に感謝する
    ②苦の裏の恩恵に気づき、苦楽双方の森羅万象に感謝する
    ③宇宙・万物こそが最大の恩恵だと気づいて感謝する
    (2)「万物仏・万物尊重」 .........................................................10
    ①万人が未来の仏
    ②万人・万物が(仏のように)学びの対象・教師
    (3)「万物一体・万物愛す」......................................................11

    3 三悟智経 ...............................................................12

    (1)「苦楽一体・万物感謝」......................................................12
    (2)「優劣一体・万物尊重」......................................................13
    ①長所の裏に短所
    ②短所の裏に長所
    ③他と共に、成長し幸福になるという考え方
    (3)「自他一体・万物愛す」......................................................15
    ①自と他が輪のように一体:他が自分に、自分が他に
    ②万物こそ真の自己と考え、万物を愛する

    4 三縁起経 ...............................................................16
    第二章 「仏陀」とは「目覚めた人」...........................18
    1 仏陀とは目覚めた人...................................................18
    (1)目覚めた人には苦しみがない.........................................................18
    (2)現実と夢の類似性........................................................................19

    2 夢と現実の類似性①:私・我の無常性...........................19
    (1)いつかは終わる「私」:人生は長い夢の如し ....................................19
    (2)夢で見れば十分なものと、現実に実現すべきもの ...........................19
    (3)利他の行為・慈悲の実践には、永続的な価値がある ........................20
    (4)業の思想:自分の生前の行為の影響は死後も続く..............................20
    (5)「全体」こそが真の自己という思想と、
    万人万物を愛する慈悲の思想.....................20
    (6)苦しみは目覚めの手助け:苦楽中道・万物恩恵.................................21

    3 夢と現実の類似性②:他者は学びの対象........................21
    (1)他者は、自分の学びの対象............................................................21
    (2)現実の世界の他者も、自分の鏡、学びの対象....................................22
    (3)他人の問題が自分にもあると気づく重要性.......................................22
    (4)他人の長所は、自分の長所の投影...................................................23
    (5)自と他のつながりを理解するメリットと理解しないデメリット............23

    4 夢と現実の類似性③:万物が同根で一体........................24
    (1)すべては、同根・一体である.........................................................24
    (2)無智の智:まだ目覚めていないと自覚する智恵.................................24
    (3)夢と気づくことの希少な価値.........................................................25


    第三章:三悟心経を用いた仏教の瞑想の学習と実践...26

    1 覚醒・悟りの瞑想の学習と実践................................................26
    2 供養・分かち合いの瞑想の学習と実践.......................................26
    3 懺悔・反省の瞑想の学習と実践................................................27
    4 菩提心・慈悲の瞑想の学習と実践.............................................28


    第四章 瞑想の実践に用いられる象徴の意味..................30

    1 仏像・仏画...........................................................................30

    2 手印が象徴するもの:感謝・決意・瞑想、そして輪と和の法則......30

    3 法具とその聖音の象徴:輪と覚醒と無限の広がりの心..................31

    4 「ひかりの輪」が象徴するもの................................................31

    5 「太陽の周りの虹の光の輪」:宇宙の実相と万物への愛 ...............32


    第五章 輪の法則の補充解説.......................................33

    1 「万物一体・万物愛す」
    真の自己である宇宙万物の一部として生きる境地 ..................33
    2 「万物同根」:宇宙万物の母:仏母の慈悲の教え ........................35
    (1)母は良い子も悪い子も愛する ......................................................35
    (2)仏陀は、すべての人々・生き物の母のような心を持っている ............35
    (3)私たち一人一人が、実は宇宙万物の母の一部である ........................36
    (4)さまざまな宗教思想が、宇宙の万物が同根であると説く ..................36
    (5)優劣・善悪を超え、万人・万物を尊重し愛する考え方のまとめ .........37
    3 懺悔・反省の瞑想の学習と実践による他者への怒りの止滅 ..................38

    (1)懺悔・反省で、自と他のつながりに気づく ....................................38
    (2)善悪の観念が阻む、自と他のつながりの理解 .................................39
    (3)自分と万物の関わりに気づく ......................................................39

    4 時の輪の法則と、今ここの幸福......................................................40


    第六章 二極の調和の思想:三性の輪の法則の補充解説...42

    1 二極の調和の思想:三性の輪の法則の復習....................................42
    ◎三性(さんしょう)理経(りきょう)の教えの復習 ..................................................................42
    (1)「仏性・教え」「自力と他力」の統合 .............................................43
    (2)「直感と理性」「表層意識と潜在意識」の統合 .................................43
    (3)「悟りと利他(智慧と方便)」「慈悲と法力」の統合 ........................44

    2 三性の輪の法則:二極調和の思想の補充解説.................................45

    (1)緊張と弛緩のバランス ...............................................................46
    (2)生命の源:火と水・光と闇・熱と寒のバランス ..............................46
    (3)人を育てる愛の条件:厳しさと優しさ・浄化と受容 ........................47
    (4)現代の価値観への重要な示唆:物の幸福と心の幸福の調和 ...............47
    (5)悟った人の生き方:生と死を共に意識して生きる ...........................47
    (6)最善の知性:理性と感性、論理的思考と直感の統合 ........................48
    (7)天地一体の境地 ........................................................................48
    (8)輪と和の同一性 ........................................................................48
    (9)もう一つの極:時=継続的な努力の重要性 ....................................49


    第七章:21世紀の思想を探る:輪の仏教と宗教哲学.........51
    1 「輪の仏教」とは :仏教の進化の予見....................................51
    2 宗教哲学とは:宗教と哲学、宗教と理性の融合...........................52
    教本の中の「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  • 2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行  不動心・人間関係・健康・自己実現』第1章公開 (2013年05月05日)

    第1章 現世幸福の教え

      ここでは、私が、現世幸福に関する宗教的な智恵と考えるものを、いくつか紹介したいと思う。これは、巷にあふれるお金儲けや成功術のノウハウを紹介する書籍などとは大きく違い、あくまでも宗教的な智恵の枠組みの中から、現世を幸福に健やかに生きていくための教えを紹介するというものである。
      よって、現世の幸福の智恵といっても、際限なく欲楽を貪ることをよしとする価値観に基づいたものではない。ひかりの輪が、その中核の思想として説いている、万人・万物を一体・平等と見る輪の思想や、それに基づく万人・万物への感謝・尊重・愛といった価値観に矛盾しないものであることを、前もってご理解いただきたい。

    ※「精神的・宗教的な智恵」という言葉についての補足
      ここでいう「精神的・宗教的な智恵」とは、盲信の危険をはらむ宗教の信仰の話ではないことを補足しておきたい。智恵という言葉は、正に叡智・知性・理性に通じるものであることからわかるように、「宗教的な智恵」とは、宗教の思想の中で理性によって納得することできるもの、理性に基づいて再解釈したものである、「宗教哲学」と同じ意味合いで使っている。
      特に、ここでは、仏教の中の悟りの思想哲学に関する話である。悟りの思想は、人の多くの苦しみは、自己に対する過剰な愛着に原因があり、瞑想その他の修行により、過剰な愛着を弱めることで、苦しみを弱めることである。これは一種の高度な心理療法ということもできる。
      たとえば、鬱病やストレスに対する最新の心理療法の一つである「マインドフルネス心理療法」は、仏教の念(=マインドフルネス)の瞑想法の応用であることからも、仏教の説く苦しみ・ストレスを和らげ、悟りに近づく思想と実践は、理性による批判を許さない盲信とは違う、幸福の人生哲学である。


    1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心

      人生は、山あり谷ありで、喜びもあるが、同時にさまざまな苦しみがある。それは、毎日のさまざまな苦しみから、学業・仕事・事業での失敗・挫折・敗北や、失業・倒産・病気・事故を含めた人生の危機まで、さまざまである。
      特に近年の日本は、高度成長期が終わり、バブル崩壊後の停滞する経済の時代となった。リストラ・失業・鬱病等の精神疾患・自殺者は増大した。市場原理主義の導入による競争の激化により、厳しさを増す労働環境の中でのストレスが増大し、勝ち組・負け組といわれる貧富格差の拡大や、若者のワーキングプアといった問題も起こっている。
      今後の社会全体を見ても、東日本大震災・原発事故・地球温暖化に見られる自然災害や環境問題や、少子高齢化・消費増税・巨額の国家債務による財政破綻の危機、さらには、近隣諸国との外交領土問題・安全保障問題など、さまざまな不安要素も抱えている。
      こうしたさまざまな問題に対しては、その解消のために、絶えず個々人から政府までが努力しているが、全てを解消することは、到底できそうもない。よって、こうした問題が起こったとしても、それに対していかに絶望することなく、強くて安定した前向きな心を保ちながら生きていくかという智恵が、非常に重要なものとなる。ここでは、そうした不動心を得るための宗教的な智恵を紹介したいと思う。


    (1)私の人生体験について

      まず、その前提として、私自身の人生体験について多少述べたいと思う。一言で言えば、私は、よく「地獄体験」といわれるものを繰り返してきた。
      オウム真理教の時代から、私は、仏教的な智恵を学び、不動心を追い求めてきた。87年に出家した私は、ストイックな戒律の下での生活と極限的に厳しい修行、慣れない海外生活と教祖の与える宗教的な試練の連続に耐え、88~89年頃になると、不動心を得ることに、一定の結果を感じ始めていた。
      ところが、その前後から、教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。
      その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。その中で、事件の直前にロシアに赴任した私は、紙一重でその難を逃れることとなったが、教団の破綻は、痛烈な精神的な打撃であったし、近しい同僚が刺殺されるという生命の危機や、社会的に四面楚歌の状況を生み出した。
      さらには、自分も、偽証という比較的軽微な罪であったが、逮捕・起訴され、数年にわたる独居房での勾留・受刑を経験した。受刑中に、麻原の中心の教義だった予言が外れるとともに、麻原自身が奇行・不規則発言を始め、精神的に深く麻原に依存していた私は、独居房の孤独の中で、精神的にも追い詰められていった。
      さらに、99年の出所近くになると、外の信者と地域住民との摩擦が非常に激しくなり、団体を監視する新しい法律が、最高幹部の私の出所を警戒するものとして「上祐新法」とも呼ばれるなどしたために、相当の精神的なプレッシャー・葛藤が生じた。ただ、このプレッシャーに対して、麻原とは関係なく、自分自身の仏教的な思考・瞑想で、自己愛・我執を弱めることで、非常に深く静まった精神状態を体験した。これは以後の自分の精神の安定の土台となった。
      99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。
      しかし、2003年頃になると、自分なりの思想が芽生えて、オウム時代を反省して、教団を改革しようとしたが、麻原やその家族を絶対視する保守的な人々の激しい反対を受け、結果として、自室に事実上幽閉され、再び勾留同然の状態となった。その中で、自分の今後の方向性に関して深く葛藤・逡巡(しゅんじゅん)した。
      一年半ほどして、2004年の末になると、自分に賛同する人々が増えたことに意を強くして、自分の考えを貫くため、麻原の家族に反旗を翻し、その幽閉状態を破り、独自の活動を始め、教団を割ることになった。その後も、麻原を絶対視する人々からの激しい批判・拒絶・妨害・追放を経験し、2006年には二つのグループを施設や経済の面で完全に分離することになった。
      その後、2007年になると、私たちのグループは、精神的な進化を深め、麻原信仰を払拭して、アレフを集団で脱会し、ひかりの輪として独立した。しかし、その後も、様々な人たちの理解・協力・支援によって、徐々に改善されつつあるが、依然として、社会からの誤解・批判・圧力が続いてきた。
      また、今はすでに収まっているが、この過程においては、団体内部においても、過去の信仰を放棄するという一種の自己破壊のプロセスや、従来の団体の財務を支える仕組みの放棄のために、さまざまな精神的なストレス・動揺・混乱・摩擦・失敗が発生し、一部ではあるが、鬱病にかかる者も現れた。さらに高齢化のために、認知症や身体障害を患った高齢者の介護の問題も生じた。こうして、厳しい財務状態の中で、オウム事件の被害者賠償の履行に四苦八苦した。
    そうした中で、昨年2012年に至って、オウムの逃亡犯全員が逮捕・収監されたことを一つのきっかけとして、テレビ・週刊誌などのメディアに復帰し始め、年末に大手出版社から、オウム時代の総括本を出版した。
      その後は、今年2013年は、トークショー・ネット番組・講演会に招かれることが多くなり、東京や大阪ではすでにさまざまな方々や団体にご招待いただき、福岡・札幌・熊本・沖縄などでもご招待いただいている。最近は、宗教関係の著名な映画・書籍の批評の依頼を受けることもままあり、去年に引き続き、間もなく対談本を発刊する予定となっている。こうして、ようやくではあるが、社会復帰の途に着くに至りつつある。
      こうしたわけで、過去20年以上、一種の地獄体験の連続であったが、その中で結果として殺されもせず死刑にもならず、ノイローゼにもならず、賠償負担を負って厳しい中で、何とかではあるが、一団体の代表を務めてきたことは、自分の力ではとうていなく、厳しい社会環境の中でも、さまざまな人々の貴重な手助けがあったからこそであり、さらには、人智を超えたさまざまな幸運のおかげであった。
      そして、以下に私が述べることは、こうした地獄体験の連続を通ってきた者による、実体験・実感に基づいたものである。

     

    (2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵

      先ほど述べたさまざまな苦境において、私を精神的に助けた大きな要素が、苦の裏に楽があるという考え方だった。これは、仏教開祖の釈迦牟尼の思想でもあり、苦楽表裏などといわれる。快楽の裏には苦しみがあるが、苦しみの裏にも喜びがある。特に、苦しみによって、正法に対する信仰が芽生えると説く。それほど苦しみがない状態では、人は、自らの間違った執着などを反省しないというのだ。苦しみがあってこそ、その原因となっている過剰な執着を反省するという。
      また、受刑中に、昭和の希代の実業家となった松下幸之助(パナソニック・松下電器の創始者)の著書を読んだ。その中には、彼が苦境にあった時に、「この苦しみは、将来の幸福のために必ず役立つ」と自分に言い聞かせてきた体験が切々と書かれていた。そして、彼は、病弱だったから他に頼む術を憶え、学歴がなかったから他から素直に学べ、お金が無かったから丁稚奉公に行って商人の機微を学んだとして、「自分の不遇・苦しみを、逆に活かしてきた」と語っていた。
      そんな中で、私も、オウム真理教の深刻な失敗・挫折に対し、それを重要な教訓として活かし、それを完全に乗り越えた新しい思想、新しい知恵の学びの場を創造することを志すことにしたのである。それは、最初は理解されにくくても、長期的には社会の役に立つはずだと考えた。
      なぜならば、オウム真理教の問題は、オウム真理教に限らない。世界全体の原理主義的な宗教の問題であるし、さらには自己の教祖や教団を絶対視する従来型の宗教に広く当てはまる問題である。そして突き詰めれば、オウム真理教を生んだ戦後日本社会が、依然として乗り越えていない、敗戦までの自国を絶対視した大日本帝国体制にも共通した問題である。
      それがゆえに、この問題を完全に乗り越えた思想を創造することは、オウム真理教的なさまざまな問題を解決するために役立ち、他のカルト教団・原理主義組織に限らず、日本社会全体が過去の過ちを繰り返さない方向にも役に立つと考えた。そして、今そのためにさまざまな取り組みを行い、それが徐々に、前に述べたように、社会の一部に受け入れられ始めている。
      こうして、苦しみの裏に喜びがある。苦しみは、宗教的には執着を捨てる悟りへの道だし、世俗的にも失敗・挫折・批判は、反省と改善を通して成功・脱皮・称賛の始まりとなる。失敗は成功へ、挫折は脱皮に、批判は称賛につながる。
      逆に、苦しみ少なく、楽が多すぎれば、自分を鍛える機会を得にくい。成功の体験ばかりで失敗・挫折の体験がないと、失敗・挫折に対して精神的にもろくなったり、過去の成功体験によるプライドにとらわれたりして、失敗・挫折を直視できずに失敗する。称賛に慢心を起こせば、ゆくゆく批判されるようになる。成功・称賛が、失敗・批判につながる。
      こうして、苦境にある時には、その苦しみばかりに目を向けずに、なるべくその裏にある利点を捜すべきである。必ず何かの利点があると考えるのだ。格言で言えば、人間万事塞翁が馬、ピンチの裏にチャンスあり、死中に活を求めるである。
      この際、苦しみから逃げてばかりいて、例えば自分の失敗を認められなかったりすると、その苦の裏にある利点は見つからないし、失敗を成功の元にする道は見いだすことができない。死中に活という視点では、これまでの自分の死を恐れていては、新たな生=脱皮・進化はできない。人の脱皮・進化とは、死と再生、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。
      なお、日常生活でよく経験する失敗・挫折・批判・病気・経済苦といったさまざまな苦しみの裏側に、一般論として、どんな喜びがあるかについては、例えば、前回のセミナーの特別教本(2012年~2013年 年末年始セミナー特別教本)などでも述べているので、その一部を下記に引用しておく。

    「個々別々の苦しみを恩恵とみる事例」

    ① 病気の苦しみ
      病を得て、生活習慣を改め、体を労(いた)われば、健康・長寿を得る機会に変えることができる(いわゆる一病息災)。また、病気になって初めて、自分を支える人の恩恵に気づくことも多い。
    ② 経済の不安(最近よく聞かれる日本人の苦しみ)
      そもそもが、恵まれている日本人という視点を持てば、貪りや浪費を反省し、質素倹約を培う機会であり、途上国の貧しい人たちへの慈悲を培う機会ともなる。
    さらには、自己の所有物ではなくて、大自然など、皆が共有しているものが、真の宝であると悟る機会ともなる。

    ③ 批判・誹謗
      正しい批判は、自分を改善し、自分の未来のためになるものである。その意味で批判されなければ、自分に良き未来はない。間違った批判は忍耐力を養い、それに動じなければ、長期的には自分の評価を高める機会となる。すなわち、批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」という欲求が作り出すものである。

    ④失敗・挫折
      その裏に恩恵がある。努力を続ける限りは、それは、成功・成長へのステップである。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれる。失敗は、これでは成功しないことを知るという成功へのステップだ。すなわち、失敗、挫折の苦しみは、すぐに成功を望む欲求が作り出すものである。

    ⑤怒り・軽蔑の対象
      悪行をなしている他人も、謙虚な心で見れば、自分の反面教師であり、その意味で、助力者である。仮に、全く反面教師なく、自力だけで間違いを避けることができるかを考えるとよい。
      自分の幸福を邪魔するように感じられる妬みの対象も、「感謝の法則①」で述べたように、よく考えれば、実際には、自分よりも必ずしも幸福ではないことがわかる。また、優れた他人に対する妬みの場合は、実際には、その人たちは、自分の見本であり、貴重な切磋琢磨の対象である。そうした存在なく、自分だけの力で向上することができるかを考えるとよい。

    (3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵

      また、苦境に強い人の性格として、そういった状況でも、依然として自分が得ている恵みを意識できることがある。たとえば、失業しても、健康な体と愛する家族がいることに感謝して、絶望せず、それを土台として再び立ち上がっていくとか、病気になっても、支えてくれる家族や知人がいることに感謝して、人間の幅を広げて再び立ち上がっていくなどである。
      しかし、苦境に弱い人は、そういった状況になると、全てを失ったかのように錯覚し、「自分はもうだめだ、おしまいだ」と考えてしまうことがある。しかし、実際に、私たち日本人は、安全・長寿・豊かと三拍子揃った社会に住んでおり、いかなる苦境であろうと、視点を変えれば、大変な恵みにある。
      例えば、民族紛争・感染症・飢餓貧困に悩む途上国の人から見れば、王侯貴族である。途上国では、常に水も電気も燃料も不自由なところもあり、毎日が東日本大震災の被災地のような環境条件である。百年・二百年前の日本の人々から見れば、天国のような恵みに恵まれている。
      この意味では、苦しみ・苦境とは、実際には、比較の問題であって、途上国や昔の人から見れば、私たちが苦境と考えるものは、苦境とは感じられないだろう。あまりに恵まれた私たちが、その恵みに慣れ過ぎて感謝を失っているがゆえに、苦境と感じられるともいうことができるのだ。
      こうしたことを考え、苦境に立ったときに、依然として自分には、さまざまな恵みがあることや、この世界には、はるかに苦境にある人たちが無数に存在することを考えるならば、苦境に強くなることができるのではないだろうか。


    (4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵

      さて、仏陀の教えでは、全ての苦しみの根本的な原因は、過剰な自己愛である。自と他を区別して、自己を偏愛する心の働き。自我執着ともいう。これは、自分自身(心や身体など)に対する執着(我執(がしゅう))と、自分のもの(財物・地位・名誉)に対する執着(我所執(がしょのしゅう))がある。
      これをわかりやすくいえば、人は、他者よりも自分を愛し、死を恐れ、天寿を無視して、永久に生きていきたいと思うことが多い。だから、自分が老い、病み、死ぬことを恐れる。しかし、自分が生きるには、他の生き物が食べ物などとなって犠牲になる(自分の生の裏に他の死がある)。多くの生命体が死ぬからこそ、多くの生命体が生まれても、地球の生命圏のバランスが取れる。人間が不死となれば、人口が爆発し、飢餓や戦争が起こる。
      さらに、人は、他人よりも、自分の財物・名誉・地位を増やそうとし、その欲望には際限がないことが多い。しかし、それを言い換えれば、いくら得ても満ち足りることがなく、さらには、得られない時の苦しみ、得たものを失う時の苦しみ、他と奪い合う苦しみが生じる。実際に、これまでの人類の歴史の一面は、貪り・争い・戦争の歴史であった。
      このように考えていくと、自分と他人を区別し、自分だけ過剰に愛する自我執着が、苦しみの根本原因であることがわかる。そして、仏陀の教えでは、この自我執着を弱めるためのさまざまな教えがある。その典型が、釈迦牟尼の直説とされる無我(アナートマン)という教えである。
    これは、私たちが通常「これが私である」と思い込んで執着する自己の心身について、実際には、身体は老い・病み死ぬものであり、心も絶えず移り変わっていく、無常で実体がないものであることを考え、それらが、本当の意味で私ではなく、私のものではなく、私の本質ではないなどと瞑想するものである。また、これとほぼ同様の四(し)念処(ねんじょ)・五蘊(ごうん)無我といった教義・瞑想がある。
      この瞑想の目的は、自我執着を和らげることであり、一言で言えば、自我執着に基づく思考を減少させることだ。自分のことばかりを過剰に愛して、それゆえに悩み続ける思考を弱め静めていくことである。ようするに、自分のことばかり考えるのを止めてしまうのである。
    こう言えば、何か簡単なことに思えるかもしれない。しかし、それは単純なことではあっても、簡単ではない。この単純なこと、自分のことばかり考えないようにすることを阻んでいるのが、自分に深く執着してきた長い習慣であって、そのために、自分のことばかり考えないようにしようとすると、不安・恐怖などが襲ってくることが多い。
      それゆえに、この境地を体得するには、従前から仏教的な思想を学び、無我の瞑想の練習をした上で、自分のことを考えることをやめないことによる苦しみが、自分のことを考えることをやめる不安や恐怖をしのぐような状況、すなわち、一種の試練・苦境を体験する場合が多いと思う。
      私の場合は、前に述べたとおり、オウム時代の初期に、こうした仏教的な考え方の学習や訓練がある程度なされていたので、それに馴染んでいった時期があって、その後、オウムが破綻した後に、元教祖から離れて、獄中で独りで苦悩する中で、あらためて無我の瞑想を行って、それを体得していった経緯がある。それ以来、たいていのことでは動じないようになり、今もそれを訓練し続けようと努めている。
      この瞑想を体得するならば、非常に静かな、静まった意識状態を体験する。不要な思考は停止している。それは、オカルト的な霊的体験とは違った意味で、神聖な感じさえする状態である。

    (5)無我と直感:静まった意識に生じる直感

      そして、この静まった意識状態においては、現実の問題を突破するアイディア・直感・インスピレーションが浮かびやすい。
    苦境にあって、自我執着が強すぎると、例えば、「失いたくない」という不安ばかりが先立って、いろいろと考えてはいても、悩んでいるだけで、エネルギーを消耗するばかり、空回りすることが多い。さらに、不安・焦りなどで混乱・狼狽した精神状態から、さらに苦境を深めるような過ちを犯す場合も少なくない。
      一方、無我の静まった意識状態では、こうした精神的な混乱はなく、落ち着いて物事を見ることができる。また、こだわりがないゆえに、こだわりによって見えなかった突破口も見えてくる。さらに、不思議なことだが、こうした意識状態においてこそ、直感・インスピレーションが生じやすい。仏教の経典の一部も神通力を説くものがあるが、それは煩悩・欲望が静まった人間の精神に生じる、高度な智恵のことを意味するのではないかと思う。


    (6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り

      輪の法則は、無我の法則をさらに推し進めたものだ。先ほど述べたように、自我執着の根本には、自と他を区別する心の働きがある。自と他を区別して、自己を偏愛するのが自我執着だ。
      一方、輪の法則とは、万物が一体平等という思想であり、私たちが日常的になしている自と他の区別とは、厳密には錯覚であって、実際には自と他を含む宇宙の万物は一体であるという真理を示している。
      これは科学的に、自分や他人、自分と外界を観察すればわかる事実・現実である。どんな人間も一人だけで生きることなどできず、絶えず空気・水・食べ物などを外部から取り入れ、排出して、外界と一体となって生きている。人は宇宙の一部であり、「私」とは他から独立した存在ではなく、いわば、宇宙の中に「私」と名付けられた場所があるようなものである。しかも、その場所の範囲は、絶えず変化しており、その内と外に明確な境界はない。
    この真理を悟るならば、単に心が静まるだけでなく、自と他の区別を超えた、広く温かな意識が生まれてくる。それは、万物との一体感であり、万物に支えられていることを認識した万物への感謝・尊重を伴う意識である。私は、これが大乗仏教の説く悟りの境地だと考えている。この境地を垣間見るようになれば、自と他の区別に基づく自我執着は相当に弱まっており、さまざまな苦しみも同時に減少する。


    (7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント

      さて、これらの法則を言葉で言ってしまうと簡単な面もあるが、実際に体得・実践するのは、一筋縄ではいかない場合もある。それが容易であれば、ある意味では、誰もが苦しみを容易に脱却できているだろう。しかし、苦しみは苦しみ、喜びは喜びと見て区別する、これまでの習慣によって、なかなか苦しみの裏側に、喜びが見いだせない場合もある。
      実際に、苦しみの裏に喜びがあるといっても、こうした法則は、いわば一般論、公式であって、自分の苦しみ・苦難に具体的に当てはめて、自分の場合は、どのような喜び・利点が、その裏にあるかを見いだすことは、また別である。すなわち公式の応用力・適用力の問題があるのだ。
      また、世間一般は、苦しみの裏に喜びを見いだすことがない中で、そのように信じて見いだす努力をすること自体に、本当にそうなのだろうか、本当にそう考えられる自分になれるのだろうか、という心細さを感じることもあるだろう。
      そこで、仏陀が説いたのは、同じ志を持った者が集まり、助け合ったり、切磋琢磨したりすることの重要性ではないかと思う。仏陀の教えは、仏・法・僧と訳される三宝を尊重することを説いた。サンスクリット語では、ブッダ・ダルマ・サンガといわれる。
      ブッダ(仏)は道理・法則に目覚めた人であり、ダルマ(法)はブッダの教え・法則である。そして、サンガは、僧伽(そうぎゃ)・僧と音訳される。その意味を表す漢訳は、「衆(しゅ)」、「和合(わごう)衆(しゅ)」などである。すなわち、サンガの元の意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。
      こうして、仏教では、サンガは、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重された。サンガは、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。なお、狭い意味では、サンガは仏教の出家者の教団を指す。
      ところが、中国や日本では、出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じた。そのため、僧という言葉が、集団・集会を意味する本来のサンガ(僧伽)とは、大きく違った意味で用いられるようになった。
      それはともかく、学業や武道をはじめ、どのような習い事も、同じ志を持つ者たちが、道場や教室などを場として集い、先輩後輩の間で助け合ったり、互いに切磋琢磨したりすることは、大きな効用がある。
      法則も、単に頭から知識として学ぶのではなく、それを長く深く実践してきた先輩などと直に接して感化を受け、肌から学ぶ、心と体から学ぶ部分があるのは、いうまでもない。
    これによって、独りでは、なかなか法則を体得できず、それどころか、疑問も多々わいて、心細くもあるといった問題を和らげることができる。ひかりの輪も、各地に教室を設け、専従スタッフが運営し、それが良きサンガとなることを志している。
      さらに、ひかりの輪は、サンガの良さをフルに生かしたものとして、「悟り集中修行」というものを行っている。それは、ひかりの輪の支部教室にて、法則を学び体得する者が集い、丸一日ないし数日の間、集中した修行実践をするものである。
      皆がよく集中できるように、一人一人のために一定の個別の空間を作り、その中で、他の用事・雑務を排除して、集中的に法則の学習を行い、法則に基づいた思索を深め(法則を自分の問題に当てはめる)、法則に基づいた思考を修習・瞑想する。
      これは、浄化された空間、同じ志を持った者が集うことによる目に見えない相乗効果、先輩の助言・助力といった環境と、各人が他の用事を排除して法則の体得に一定の長時間の間、専念・集中するといった条件が相まって、法則の体得に、大きな効果を発揮する。


    >>教本の購入はこちらからどうぞ

     

  • 2012年夏期セミナー特別教本『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』第2章公開 (2012年08月15日)

    【※この教本の購入はこちらから】

     

    第二章 親子問題の克服と仏陀の智慧


    1 親子問題は諸問題の根源

       現代社会のさまざまな問題の原因を探っていくと、親子問題に行き着くという見方がある。人にとって、親子関係は初めての人間関係である。そして、「三つ子の魂百まで」というように、幼少期・青年期の体験が人生全体に及ぼす影響は大きい。よって、親子関係のあり方が、他の人間関係にも大きな影響を与える可能性がある。よって、親子関係における心の問題・課題があれば、それを解決・改善することは非常に重要である。
       特に、親子関係は、最初の上下関係である。よって、人生における他の上下関係、すなわち学校の教師、会社の上司、一部の妻の夫との関係、そして、自分が所属するあらゆる組織・集団のトップ・上層部との関係、宗教団体の信者と教祖の関係、市民・国民としての政府・政治家との関係にまで、影響を及ぼしている(投影されている)と考えられる。


    2 真に大人になる過程

       さて、親子関係の問題を考える前に、どのように変化していくのが健全な親子関係なのかを考えてみたい。もちろん、そのパターンに当てはまらないものが、不健全であると解釈するのは適切ではない。人は、親子関係における不備を、人生の中で、他の方法によって埋め合わせる能力を持っているからである。よって、それを踏まえながら、分析してみよう。
       親子関係の変化とは、言い換えれば、子供が大人になっていくプロセスであろう。乳幼児のころは、子供は親に絶対的に近い依存状態にある。子供は親なしでは生きることができず、自分と親が中心である「狭い世界」を体験している。ある心理学の理論では、この段階の子供は、親と自己を、神と神の子のように絶対視しているとする。自分が何か欲すると、すぐにそれを満たしてくれる万能の存在(親)が現れるように見え、3歳前後で自我意識(他人とは別の自分)が芽生える前までは、その親と自分の区別さえ定かにはついていない。
       その後、自我意識が芽生えて、第一反抗期を迎える。親と自分の区別が生じ、親とは違った存在である自分=自我が確立されていく。さらに十代に入って、第二反抗期を迎える。親に対してさまざまに依存していた状態から、親以外の人々との交わりの中で、親とは違った自分の考え方・価値観・生き方が生じ、第一反抗期で芽生えた自我が、第二反抗期では、確立に向かう。
       ただし、いつまでも単純に親に反抗しているならば、真に成熟した大人になったということができるかは疑問である。十分に成熟した大人になるには、親も自分も、同じ多くの人間の一人であり、長所も欠点もある不完全な存在だと認識することである。
       そうすると、親の良いところには感謝しつつ、親の過ちについても、不完全な人間の一人として許しやすくなる。親が自分を傷つけたとして恨みを持つばかりではなく、親の過ちの背景にあるものが、親の人間としての苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると洞察していく。そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づく。
       さらに、自分も、親と対等の一人の人間として、いつまでも親ばかりに負担をかけずに、自立して生きていくべきだと自覚が生じる。そして、自立ができると、その後は、自分が親側に回って、他を育む責任があると自覚する段階に至る。子供から親側に回るのである。なお、他を育むとは、一般的には、自分の子供を生み育てることだが、そうでない場合は、縁のある次世代やなんらかの自分の後進、年齢に関係なく未成熟な人たちの育成を担う。
       そして、この自覚の背景には、理想としては、親に対する感謝に基づく恩返しの心がある。自分が親に辛抱強く育ててもらったことに対する感謝に基づき、自分も同じように、子供や次世代を辛抱強く育むという恩返しの心である。
       こうして、今までのプロセスをまとめると、①親への依存(親と自分の絶対視)→②親への反抗(自我の芽生えと進化)→③親と自分の相対化→④感謝や許しを伴う自立→⑤親側に回って恩返しというプロセスがあると思うのである。


    3 現代社会の親子問題:親への感謝・尊敬の減少

       しかし、ここで、「理想としては」と書いたのは、現代の社会では、親に対する感謝・尊敬が、著しく低いという問題があるからである。特にこの日本においては、そうである。世論調査によると、子供の半数以上が親を尊敬・信頼しておらず、しているのは三割強であるという結果もあり、諸外国に比べても低い。この場合は、親への感謝に基づいて、その恩返しとして、自分も親と同じ他者の養育の義務・責任を担うという意識が不足する可能性がある。
       この点に関連して、他者への感謝と、他者への愛(慈愛)は深い関係があるという考え方がある。自分が他に支えてもらっている、愛してもらっているという自覚=感謝は、自分の他者に対する愛につながり、その恩返しとして、他者に奉仕する心を作るものだろう。なお、ここでの愛は、親が子供の養育に要する愛であるから、「長期間の忍耐を伴う無償の愛」である。
       これは、宗教的に言えば、仏陀の慈悲、神の博愛などと性質がよく似ている。実際に、大乗仏教の教えでは、仏陀がすべての衆生を救おうとする大慈悲の心を説くが、その心に近づくためには、親の子供への愛をモデルにする場合が多い。具体的には、自分の親が、いかに自分を愛してくれたかを思い起こした上で、今生では親ではない者たちも、無数の過去世では自分の親だった生があると考えて、すべての者たちを過去世の親としての恩人であると瞑想するのである。こうして、すべての者を恩人と見て、その恩を思って、すべての者への愛を育み、その恩に報いようと考え、すべての者を苦しみから救う利他行(菩薩道)の実践をすることを決心する。
       こうして、大乗仏教が説く衆生済度の菩薩道・利他行の修行においても、「感謝と恩返し」という構図が明確である。よって、他者の愛の恩に感謝して、その恩返しとして、今度は自分が他者に奉仕していく、というパターンは、人間としての人格の成熟・向上の上で、極めて基本的・根源的・普遍的な道理ではないかと思われる。
       これをわかりやすく言えば、父親としてか母親としてかは別にして、自分が柱になる(大黒柱になる)という決意であろう。こうして、人類は、親から子供に、前世代から次世代にと、この感謝と恩返しの心の連鎖を経て、愛と奉仕というものを伝播してきたのである。


    4 親子問題が少子化の一因では

       しかし、この21世紀の現代社会において、少なからず、この愛と奉仕のリレーが弱体化しているのではとも思われる。少子化の問題がいわれるが、この原因は、マスコミでよくいわれるように、将来の経済的な不安によるものだけなのであろうか。20年前までの高度成長期やバブル期などと比較するならば、そうかもしれないが、明治以降の日本の近代全体から見れば、今よりも経済的な困難や将来不安が大きかった時期もあったことは明らかだ。
       しかし、そうした発展途上国でさえあった時期にさえ、出生率は今より高かったであろう。もちろん、諸条件が大きく違うので、単純な比較はできない。しかし、根本的な問題として、子供・次世代を辛抱強く育むことへの責任や、価値の自覚が乏しくなったのではないか。そして、さらにいえば、そうする自信が乏しくなったのではないだろうか、というのが私の仮説である。
       この視点に基づいて、親などへの感謝と、それに基づく恩返しの実践が、現代社会において、どのように損なわれているのかについて、考察してみたいと思う。


    5 親への感謝を妨げる要因:戦後社会の心の隙間

       次に、親への感謝を妨げる要因を考えてみよう。第一に考えられることは、戦後日本社会の基本的な価値観である。まず、その前に、戦前・戦中の思想を考えてみよう。
       その時代は、大日本帝国・国家神道の体制の下で、日本は神の国で、国父たる天皇は神の末裔の現人神(あらひとがみ)であり、それにならって、家長である父親や学校の教師・校長先生には強い権威があった。子供たちは、その思想の下で、天皇のみならず、自分を生み育んだ親、教師、国を尊び、自らもその神の国の臣民・子孫としての自尊心を形成した。
       このタイプの思想の場合、自分を生み出したものへの尊重と、自分自身の価値が完全にセットになっている。自分を生み出したものは、神の国とその王と臣民であり、よって、生み出された自分も、神の国の臣民であるとなる。よって、人が本質的に欲求する自分の価値=自尊心に基づいて、親・教師・社会・国家への尊重が自動的に形成されるのである。
       こういった仕組みは、神の化身を自称する宗教団体と、それに帰属・帰依する信者の間にも見られる精神的な構造である。いったん、自分たちの教祖と集団が、神の集団であると妄信してしまうならば、自分が、選ばれた神の民(選民)として自尊心(厳密には虚栄心)を非常に強く充足できるために、あとは、その自尊心(虚栄心)の充足を維持するために、その教団(ないしは宗教国家)の立派な信者(臣民)として必要とされる行動を求められれば、それが客観的には相当に苦行的なことであっても、選民たるに必要なこととして、それに励む仕組みができあがるのである。
       とはいえ、こうした仕組みには大きな弊害があることは、第二次世界大戦の結末や、こうしたタイプの新興宗教・カルト宗教の状態を見れば、一目瞭然である。自分たちだけを神の集団と信じるのは、根拠なき妄信であるばかりか、外部社会を尊重せず、その価値を強く否定することになり、排他的・攻撃的にもなる。神の集団と摩擦するものは、必然的に悪魔の集団となるからだ。
       よって、我々は、こうした妄信・選民思想ではなく、自分を生み出した親や社会に対する感謝と、虚栄心ではなく健全な自尊心を見出すための、「新しい道」を見出さなければならないだろう。


    6 戦後社会の競争主義の弊害

       しかし、戦後日本社会は、この新しい道を十分に見出せていない。大日本帝国の虚栄心の充足が完全に崩壊し、その代わりに導入された価値観は、個人主義、自由主義、資本主義、競争主義、経済主義、会社主義などである。国家のために、個人の自由を抑圧する全体主義的な体制に替わって、個人の自由が尊重される社会になったのは良かったが、その中には、自分を生み育む者たちへの感謝・尊敬を培うための土台となる思想は見あたらない。
       その代わり、資本主義・競争主義の価値観の中では、現状に不満を抱き、「今よりも、もっと」と求め、自分と他人を比較し、「他人よりも、もっと」と求めることが重視される。この不満と競争は、まさに感謝と逆行する思考の枠組みである。感謝は、与えられているものの大きさを見ることによって生じるが、不満は、与えられているものは当然のこととして、与えられていないもの、得ていないものを見て生じる意識である。
       さらに競争主義は、自他を比較して、他に勝ってこそ価値があるという価値観である。よって、自分の親と他人の親を比較したり、自分の親を一般的な親の基準・イメージなどと比較したりして、評価することにもなる。これは、親や教師の方が、それぞれの子供の評価を他の子供との比較=偏差値によって行うのだから、自業自得といえなくもないが、子が親を、親が子を比較=偏差値で評価する時代だ。
       この場合、たいていの親がなしている養育上の莫大な自己犠牲は、「親だから当然」の一言で、評価されない可能性がある。そして、子供が親を評価するのは、何か特別なことをしてもらったという印象がある時のみとなり、親なりに精一杯やっていても、例えば他の親と比較して、それを下回る場合には、恨みさえ抱くという結果になりかねない。
       偏差値・相対評価を超えて、親が子になすことを見れば、死の危険さえはらむ出産から、乳幼児の際の24時間の拘束への忍耐、そして、20年以上にもわたる体調の良い時も悪い時も含めた、年中無休で毎日提供される衣・食・住や、教育・学習・娯楽の機会、そして、精神的なケアを含めた、物心両面の無条件・無償の奉仕など、本当に膨大なものがある。これは、偏差値・相対評価には馴染まないことは明らかだろう。
    しかし、競争社会、偏差値・相対評価の世界では、子供も親も、それぞれが「自分なりに精一杯努力したか」ではなくて、他との比較や、一般的な基準・イメージとの比較で、評価される。子供も親も、自分たちで気づかないうちに、競争社会の価値観に犯されて、努力が評価されるのではなく、他と比較して優位であるかどうか、すなわち「勝利という結果」が求められているのではないか。
       しかし、他と比較して、良い子・悪い子、良い親・悪い親と評価することは、本来の親子関係には馴染まないものだろう。なぜならば、親子関係は、基本的に、条件付きの愛ではなく、「無条件の愛」「無償の愛」の典型であるべきだと思うからである。親は、自分の子供というだけで、他の子供との比較なしに、子供を愛し、子供も自分の親というだけで、他の親と比較せずに、親に感謝するのが自然であろう。この無条件の愛の原則に基づいて、親が子供に無償の奉仕をなし、その後、子から親に、それが恩返しされるのである。
    こうして、「今よりも、もっと」「他人よりも、もっと」という、資本主義・競争主義の価値観が、親子関係を脅かしているのではないかと懸念される。その中では、当然のこととして、多くのものに感謝せず、他と比較して少なければ、逆に恨むことさえある。
       さらには、感謝よりも不満・怒りが多い意識状態の中で、仮に親に叱られるなどすれば、それを愛の鞭と解釈する智慧や忍耐力は働かずに、自己を否定されたとばかり思い込んで、長らく恨むという可能性も増えていくだろう。


    7 親側の問題を考える前に

       これまでは、子供の親に対する感謝の不足の問題を取り上げてきたが、次に、親側の問題を取り上げたい。子供が親になっていくのだから、子供にゆがみがあって、そのまま親になれば、親側にも問題があることは疑いない。ただし、その前に、何が親側の過ちで、何が子側の過ちではあるかを慎重に検討する必要がある。
       ゆがんだ視点で親を見ていると、感謝すべきことを恨んでいる場合もある。自分の家の経済状態を考えず、「他の親と比較して、おこづかいが少なかった」と恨みを持つ人もいれば、客観的に見れば、親が怒るのが当たり前のことをしているのに、自分の過ちは思い出したくないために、すっかり忘れてしまって、親にひどく叱られたことだけを根に持っている等の事例がある。
       そして、幼少期・青年期は、多分に記憶が不正確である。主観的な印象ばかりが残って、客観的な事実と一致していない場合も少なくない。そういったことには十分注意するべきである。


    8 自分の親への感情が、親になった自分に跳ね返る

       さて、次に、親側の問題について考えてみよう。まず、自分が子供として親に持った感情が、親になろうとする自分、ないしは親になった自分に跳ね返ってくる可能性があることである。自分が親に対する十分な感謝がなければ、感謝に基づく恩返しの気持ちも弱いということになる。親が自分を育てるために、いかほどの困難に耐えたか、という認識がなければ、自分が自分の子育てに忍耐する気持ちが十分に持てるだろうか。
       人の能力というのは、気持ち次第の部分が相当にあると思う。客観的には相当につらいことでも、皆がやっていること、やれていることは、たいてい自分もやるものだが、皆がやっていなければ、なかなかできるものではない。よって、「自分の親が自分自身にこうしてくれた」という認識は、自分も同様にする責任があり、「そうできた親の子供として、同じようにできるはずだ」という気持ちが、無意識的にであっても生じるものではないだろうか。こうして、親に対して正しく感謝することは、自分が親として子供を育てるときの目に見えない力になるのではないだろうかと思う。


    9 親の過ちをいかにして許すか

       次に、親側に問題がある場合に、子供としてどうしたらよいかについて考えたい。まず、先ほど言ったように、子供の認識が偏っているのではなくて、本当に親側の問題であることを確認する必要がある。しかし、そうした上で残る、明らかな親の過ちについては、それを許す智慧を持つのが、自分自身が大人になることであろう。
       そのためには、第一に、自分も親も、多くの不完全な人間の一人であるという客観的な事実を受け入れることである。すなわち、親も自分も、長所も短所もあり、功も罪もなし、親に完全は期待できず、親に間違いがあっても仕方がない(人間の家族として自然な)のだという認識である。これは決して親を否定したり、見下したりすることではなく、親にしてもらったことには正しく感謝しつつ、親の過ちを許すことである。
       これは、親という人間をより深く理解することでもある。それまでのように、「親はこうしてくれなかった、自分を傷つけた」として恨みを持つばかりではなくなって、「親も一人の欠点もある人間」と位置づける中で、親の過ちの背景にあるものが、自分に対する根拠のない悪意ではなくて、ないしは表面的には自分への怒り・不満があるにしても、根本的には、親の中の苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると気づく。
       そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づき、その意味では、親への感謝を保ちつつも、親の人格の一部は反面教師となる。その子供である自分が、同じ問題を潜在的に共有する可能性があるからである。
       こうして、子供の頃は、前に述べた心理学によれば、あたかも親が絶対神で、自分を神の子と位置づけ、親と自分を平等に見てはいないが、大人になる中で、親と自分を平等に見るようになる。そして、親という存在を正しく理解する中で、感謝と許しとともに、親の長所や欠点が、その子供である自分の潜在的な長所や欠点である可能性に気づき、親と自分のつながりを正しく悟るのである。
       そして、親と自分を特別視・絶対視する意識から、親も自分も多くの不完全な人間の一人と気づく。親と自分を相対化することは、自己中心的な意識から抜けることでもある。その意味でも、これは本当に大人になることであろう。よって、親の過ちを許すことができない場合は、依然として、親と自分を特別視する、未成熟な意識が隠れている可能性がある。
       客観的に見れば、過ちをなすのは、自分の親だけではない。世界の中には、自分の親以上の過ちをなしている親が無数に存在する。にもかかわらず、自分の親の過ちは許せないというのは、その背景に、気づかないうちに、自己中心的な甘えがあるからではないか、ということである。


    10 誇大自己症候群という心理学理論

       心理学の理論に、誇大自己症候群という人格障害のタイプがある。通常、幼少期の子供は、親と自分を絶対視しているが、その後、大人になるプロセスで、徐々に、自分も親も相対化していく。しかし、子供の時に親に依存する経験が不足していると、このプロセスがうまく進まずに、大人になっても、自分を相対化できず、特別視する場合があるという。これを誇大自己症候群という。いわゆる自分を特別視する誇大妄想の精神状態である。
       この理論では、望ましい発育のプロセスは、幼少期に親にほどよく依存し、自己特別視の願望を満たすことができた上で、大人になる過程で、徐々にそれを脱却していくことらしい。それができずに、親への依存と自己特別視の欲求を満たせないままに大人になると、その欲求の渇きが残ってしまうというのである。


    11 競争社会やメディアが作る自己特別視の願望

       私は、この心理学の理論をすべて信じているのではない。私の経験からは、この理論とは違う理由でも、自己特別視の欲求が生じることがあると思う。例えば、子供の時に親の無条件・無償の愛を得ることができずに育つと、自分を無条件に愛することができず、そのために、競争社会の中では、もっぱら他と比較して自分が特別である場合だけ、自分に価値を感じる可能性がある。
       また、メディアの影響も大きいように思う。特に、40年から50年ほど前から、漫画やテレビのアニメや特撮番組などで、選ばれた若者が、超人に変身したり、超能力を発揮したりして、壮大な悪との戦いにおいて、特別な活躍をする内容のものが流行した。その中には、ウルトラマン・仮面ライダー・ヤマト・ガンダム・エヴァンゲリオンなどのように、社会現象になったものも少なくない。これらはフィクションであるとはいえ、明らかに誇大妄想的であり、かつ闘争的な内容であることは間違いない。
       さらに、精神世界系の雑誌や一般の書籍やテレビ番組などで、超能力、UFO等の神秘現象、世界を支配する陰謀、世紀末のハルマゲドン・世界戦争の危機の予言などが、大々的に宣伝された。その中でも、ユリ・ゲラーやノストラダムスの大予言などは、これまた社会現象になったものが少なくないが、超能力者になるとか、宇宙人にコンタクトするとか、世紀末を救う存在になるといった願望は皆、妄想的であることは間違いない。
       そして、私自身の場合を分析するならば、小学生の時に、父親が浮気で別居した前後から、学業において競争に勝つことに相当の精力を注ぐようになった。それとともに、超能力やUFOといった精神世界に関心を持って、先ほどのようなアニメや書籍を好むようになったのである。よって、無償の愛を感じられない家庭の現実の中で、競争やフィクションの世界に没入し、自己特別視の願望の充足を求めたのかもしれないと思う。


    12 誇大妄想と被害妄想のセット

       もちろん、「この世界で特別な存在でありたい」という気持ちは、誰もが持っている。しかし、誇大自己症候群が問題になるのは、それが現実的な願望ではなくて、明らかな誇大妄想を形成する場合である。また、誇大妄想は、セットで被害妄想も発生しやすい。本来は偉大な自分を認めない周囲の方が極めて不当であるという認識である。
       そして、オウム真理教の麻原教祖は、この誇大自己症候群の典型であろう。麻原の場合は、自分がキリストであるのに、それを認めず否定する社会はキリストを弾圧する悪業多き魂であり、戦わなければ教団はつぶされる運命であり、戦うならば一教団にもかかわらずキリストの集団であるがゆえに勝てる(可能性がある)という誇大妄想と被害妄想に陥ったのである。
       麻原のように重篤なケースは、特に幼少期の親子関係に特に深い傷があるのかもしれない。実際に麻原は視覚障害者であり、自分の意に反して、親元から離されて全寮制の盲学校に入れられるなどして、親への恨みが強かったといわれている。
       それに加えて、本人に通常とは違った認識・体験が多いことが、その原因になる場合もあると思う。すなわち、精神世界的にいえば、神秘体験・霊的体験である。客観的に見れば、それは(すべてではないにせよ)幻想・幻覚・幻聴を含む精神病理の体験である。しかし、本人(や本人の信者)にとっては、それを通して、自己(や教祖の)絶対性を信じ込んでしまうような体験である。
       そして、この誇大自己症候群の場合は、自分を特別な存在にしてくれる対象があると、それに絶対服従するが、そうでないと見ると、誰も尊敬しないという極端な傾向を持つ。自分が特別だという欲求を満たしてくれる(ように見える)存在にしか、価値を見出さないからである。麻原は、自分を救世主と予言するシヴァ大神(という自分の中の妄想体験)に帰依した。インドやチベットの宗教指導者については、自分を特別視しないと知ると、尊敬をやめてしまった。そして、親については、地獄や餓鬼の世界に落ちる低い存在と位置づけたのである。


    13 苦しみを喜びに転換する智慧

       これまでは、親の過ちを許す上で、親と自分を相対化して、親も不完全な人間の一人であり、過ちの背景には、親なりの苦しみ・弱さがあって、自分も潜在的にはそれを共有していると気づくことについて述べた。とはいえ、親との傷が大きい場合には、この許しの考え方だけでは、なかなか前向きになれない場合もあるだろう。そこで、仏陀の智慧から、もう一つ別の智慧を紹介したい。
       それはまさに、伝統的な仏陀の智慧であって、苦しみを喜びに変えていくというものである。どんな苦しみにも裏には恩恵がある。それに気づくことができれば、苦しみが減り、苦しみを与えた存在への恨みも和らぐ。例えば、親のせいで自分は不幸になったという、親への恨みや被害者的な感情と、自分に関する卑屈を引きずることを避けることができる。
       では、苦しみにはどんな恩恵があると考えるのだろうか。これは、智慧の分だけ恩恵があり、言い換えれば、無限である。しかし、多くの場合に当てはまるいくつかの公式をあげれば、例えば以下の通りである。


    14 苦しみは自分を鍛える愛の鞭

       第一に、苦しみは多くの場合、その人の進歩・鍛錬のための試練となる。何の苦しみもなければ、温室育ちとなり、社会に出ると潰れる人間になりかねない。
       例えば、親に、自分や自分の考え・生き方を否定・批判される人は少なくない。しかし、それを乗り越えてこそ、自分の成長もあり、強い自分、大人の自分になることができる。そして、社会に出た後にこそ頻繁に訪れる、自分が否定される状況にも耐える準備ができる。
       逆に、最近の若年層の中に、子供の時に親から全く叱られたことがないため(親が子供を叱ることができない)、忍耐力が極めて乏しく、ちょっとしたプレッシャーでうつになるケース(新型うつとも)が多発しているという。これでは一生、親のすねをかじるか、社会福祉に依存するしかなくなる。言い換えれば、自分でも気づかないうちに、過去の苦しみが、今の自分の忍耐力を形成しているのである。
       なお、否定・批判には、およそ二種類のものがあって、一つ目は正しい批判、すなわち、自分の問題点の適切な指摘である。これは、「今の自分を誉めてほしい」という欲求には辛いものだが、未来の自分をより良くするためには絶対に必要である。そこで、「どんな人間も不完全なのだから、全く批判をされないことは、逆に恐ろしいことだ」と考えれば、批判を恩恵と感じることができるだろう。すなわち、今誉められることよりも、成長して未来に真の評価を得ることの方が大切だと考え、今の賞賛ばかりにとらわれているから、味方を敵と錯覚するのだと気づくことである。
       これは一つの例であるが、仏陀の教えでは、人のすべての苦しみは、自分や自分のものに対する執着・とらわれによって生じていると説く。そして、とらわれのために行き詰まって苦しむと、ある段階で、とらわれの不利益に気づき、それを放棄できるようになって、苦しみから解放されると説く。こうして、苦しみは、とらわれを超える智恵(智慧)につながるものなのである。
       二つ目は、間違った批判・否定である。これは相手が無智であり、そのために否定している場合である。しかし、これも自分の見方一つで、恩恵と考えることができる。
       というのは、親・先輩・他人に否定されても、それに負けずに進んでいく経験をしてこそ、本当の意味で、正しく強く生きていくために必要な精神力や智慧を培うことができるからである。その意味では、たとえ自分が正しかったとしても、それを否定される経験がないことは、長い人生を考えれば、逆に恐ろしいことではないだろうか。
       そもそも、人類の歴史の中で、どんな時代も完全ではなく、あらゆる時代で、新しい世代は、何かしら古い世代と闘って、それを乗り越えて、新しい時代を作ってきた。前世代は、最初からは、次世代の新しい道を認めない(認めることができない)のが普通であり、新しい世代は、それに負けずに乗り越えなければならない。

    15 苦しみがとらわれを解消する源になる

       これに関連して、再びとらわれを超える智慧について述べたい。それは、何か重要なことを達成するには、辛抱・忍耐・継続的な努力が必要であり、「すぐに成功したい、認められたい」というのは、間違ったとらわれだということだ。本当の幸福は、苦しみを超えたところにあるということである。
       例えば、「ローマは一日にして成らず」、「失敗は成功のもと」、「急がば回れ」、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」といったさまざまな格言は、皆これを表していると思う。
       過去の偉人の話でも、これはよく出てくる教訓だ。ナチス・ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦の英雄である英国首相チャーチルは、「真に成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次へと失敗を経験する能力である」と語り、彼の有名な言葉は、「決して、決して、決して諦めない」であった。
       発明王エジソンは、1000回目の実験で白熱電球を発明したとされるが、エジソンは、その前の999回の失敗については、「失敗ではなく、これでは成功しないと知った成功へのステップだった」と語った。本田技研の本田宗一郎も、「人はすぐ成功を求めたがるが、私にとっては、99%が失敗と自己反省であり、成功は残りの1%である」という趣旨のことを語っている。自動車王のフォードは、成功するまで4回倒産、5回失敗した。ディズニーランドの創業者も、創業する前に、自分の考えを妄想的だと否定され、その後、3回倒産した後に成功した。大統領になったリンカーンも、最初は選挙に8回連続落選したという。
       逆に、すぐにできたこと、すぐに成功したこと、すぐに認められることの延長上に、真の達成や幸福があったためしがあるだろうか。世の中には、すぐに成功したように見える人もいるが、それを長く維持するとなれば、その過程には、人知れず、相当な困難があるものだろう。また、「すぐに認められたい」と考えて、常に親が敷いたレールの上を歩こうとしても、実際にそうできるわけでもないし、それで親が幸福を保証できるわけでもなく、後悔が残るだろう。
       これを仏教的に表現すると、人は皆、不完全であり、最初は何が正しい道かがわからないという無智の悪業があり、これに対して、エジソンが言ったように、いろいろな困難・失敗・苦しみを経験することで、無智の悪業を清算すると、智慧が生じて、真の幸福・達成の道を悟るのである。よって、苦しみは、まさに幸福へのステップなのである。


    16 苦しみの経験こそが慈悲の源

       第二に、自己の苦しみがあってこそ、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことができるということがある。自分に苦しみのない人は、実体験がない分だけ、どうしたって他の苦しみを理解する上では劣る。そして、この慈悲の心は、仏教では、真の幸福をもたらす最高の宝とされ、仏の心とされる。実際に、前章で述べたように、真の幸福は、今以上に求めたり、他に勝ったりすることばかりではなくて、他と分かち合い、他を愛することで得られるものであり、その意味でも、慈悲の心こそ、幸福への最大の宝だろう。
       逆に、苦しみの経験が乏しいと、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことはできない。それは、現実の人間関係をいろいろな意味で損ない、場合によっては、破滅を招く場合さえある。典型的な例が、フランスの民衆がパンさえなくて飢えていた時に「パンがないならケーキを食べればいいのに」という暴言を吐き、殺されたという王妃のマリー・アントワネットである。彼女は、名誉・血筋・美貌・才能・財産・権力などの一切に恵まれていたために、逆に、人として最も重要である慈悲の心を欠いていたのである。
       この意味で、苦しみに負けずに、それを慈悲の源として逆活用できるならば、苦しみが多いほど、慈悲深い、本当の意味で幸福な人間になることができる。実際に、大乗仏教で最も篤い信仰を集めている観音菩薩は、慈悲の化身ともされているが、苦しみの連続の生涯の果てに、「この苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決心した結果として、生まれたとされる。
       これは、親子関係での傷も同じである。親にひどく人格を否定されたとか、暴力を振るわれたという一般的な事例から、最近では、虐待、ネグレクト、近親姦といった、犯罪ともいうべき事例までよく聞かれるが、自分の苦しみを通して、同じような経験をした他の苦しみを理解し、その苦しみを和らげようとする慈悲の心を培うことができるという視点からは、いかなる傷も、自分の慈悲の心という宝に転換できる道である。よって、仏典では、「苦しみに感謝しよう、私を真理に導いてくれた苦しみに、敵対者に感謝しよう、私を真理に導いてくれた敵対者に」という聖句もある。


    17 反面教師は貴重な学びの対象

       第三に、苦しみを与えた親を反面教師と見る智慧である。親に過ちを見て、「自分は決してこうならない」と決心するケースは少なくない。これは、親と自分は別の人間だという視点からではなく、その親の子として、自分も一つ間違えば同じ過ちをする可能性があることを無意識的にも感じ取っているからこそ、強く決心するのだろう。
       そして、親でなくても、人間は誰しも皆、無智で弱い一面があるから、身近に何かの悪行をなす反面教師を見て、他人に迷惑をかけ、自分を不幸にするさまをよく知ることができる場合と、身近には反面教師がおらず、自分が初めて、ある悪に誘惑された場合では、同じ悪を回避する力は、相当に違ってくるのではないだろうか。
       いや、謙虚になって考えてみるならば、反面教師がいることによって、かろうじて同じ悪を回避することができるのが、人間というものではないだろうか。実際に、人類は、過去の歴史の過ちを教訓=反面教師として、現在を生きている。古代から現代まで、人間は実に多くの過ちをなしてきたが、今でこそ極悪とされていることも、過去には皆がやっていた時代があるのだ。
       こう考えると、見方によっては、親の過ちは、親が自分に身をもって、悪行の不利益を教えているとも解釈でき、それによって親への怒りを静めることができるだろうし、場合によっては感謝さえわいてくるのではないだろうか。
       そして、大きな目で見るならば、親子を含めた人間・人類とは、感情面でいえば、否定・軽蔑して争うことも多いが、その一方で、実際には、互いの良い点と悪い点を互いの教師・反面教師として学び合って、一体となって、進化・成長してきた面が多々あると思う。古代と現代を比べれば、人類は、特定の民族に限らず、全体として、大きく進化しているのである。こうして、親子を含め、人々は、一体となって成長するというのが真実なのである。
       「万人が一体として成長する」という人間観を含めて、「万物は本質的につながって一体である」という世界観は、第一章で解説したように「一元の思想」と呼ばれ、ひかりの輪では、これを「輪の法則」とも呼んでいる(輪が、万物が一体・平等の象徴だから)。これは、「万物が相互に依存し合って存在する」と説く仏教の縁起の法などにも通じる。その仏教では、仏陀や仏法のシンボルが法輪(法の車輪)である。


    18 親からの苦しみを超えて真の自立へ

       さて、苦しみを喜びに変える智慧をいくつか述べてきたが、この苦しみを喜びに変える智慧とは、親からの完全な自立を意味する。すなわち、親が間違った行為をしようが、自分は不幸にはならないという人生を作るからである。親の間違いで、自分が一生不幸になるのであれば、それは、まだ親の影響下である。親の被害者であると主張はできるが、人生の敗者にほかならず、幸福ではない。
       そして、仏陀の智慧から見れば、いつまでも「親のせいで自分が不幸である」と考えることは、自分の努力を怠っていることを隠すものであって、怠惰・甘えにほかならない。それは、まだ親の影響下にあって、真に自立した大人になっていない。真に大人になるとは、「自分の幸福は、自分の智慧と努力で得る」という意志が確立することであり、親の被害者として人生の敗者にならずに、自分の人生を自分で決める智慧者になることだ。
       そして、これは、親との関係に限らず、自分の人生の不幸や幸福、成功も失敗も、本質的には、他人ではなく、自分の努力で決まる(決めることができる)という考えである。そして、私が思うに、仏教などのインド思想が説く自業自得という言葉の本当の解釈ではないかと思う。
       では、これまで述べた、親に関係する苦しみを乗り越えて、智慧や慈悲に転換していく術についてまとめておこう。

    ① その苦しみは、親の愛に基づくもの(愛の鞭)ではなかったか。

       子に(快)楽を与えるだけが親の愛ではない。
       苦しみを与える親の方がもっと辛いのでは。

    ② 親の過ちだったとしても、親も不完全な人間の一人であるならば、それを許すべきではないか。

       親が、一人の人間として、その時に抱えていた苦しみがあったのではないか。
       その苦しみ・弱さは、子供である自分の中にも存在する要素なのではないか

    ③ 親からの苦しみは、視点を変えれば、自分を鍛え、智慧と慈悲の源となるものでないか。

       親の否定・批判は、自分を改善したり、強くしたりしたのではないか。
       親の過ちも、自分の反面教師ではないのか。
       親のせいで不幸になるのではなく、自分の努力で幸福になるのではないか。


    19 親子関係の問題の類型について

       次に、今まで述べてきたことを含め、親子関係の問題に関して、それをいくつかの側面・ケースに分けて、まとめてみたい。これは、すべての問題を網羅したのでなく、その一部であろうが、ある程度の整理にはなるかと思う。
       第一に、依存の対象の親がいなかったケースである。これは、親が他界したというだけでなく、なんらかの理由で親元を離された場合もある。また、片親がいない場合、ないしは親が離婚したので片親に育てられた場合というのも、このケースに含まれる可能性がある。さらに、実際に親はいても、自分が思う通りには依存できなかった印象がある場合も、広い意味では、このケースに含まれる可能性がある。
       この場合、親に対する不満・恨みが生じる可能性がある。しかし、前に述べたように、親への感謝の実践は、それに努めようとすれば、視点を変えることで、いかようにも可能なものである。例えば、親が他界した場合は、子を残したままこの世を去ることになった親の無念を思い、親代わりとして育ててくれた人の労苦に感謝することができる。また、他界していなかったとすれば、子供を手放さざるを得なかった実の親の苦しみを理解することが重要だろう。
       また、片親がいるケースでは、養育の苦労を一手に引き受けた片親の労苦に感謝することや、離婚だった場合では、自分のもとを去った方の親も養育費の支払い等の労苦を背負っていれば、それをよく考え、感謝の心を持つことに努めたい。
       そして、前に述べたが、このケースの中で、場合によっては、自分を特別視する意識が、大人になっても修正されない可能性があるという。この問題を克服するためには、自己を多くの人間の中の一人として相対化する必要がある。そのためには、自分を支えたさまざまな存在への感謝などを通して、万人が助け合って存在していることを理解し、万人を平等に尊重していく訓練が必要であろう。

       第二に、親に対する反発・怒り・恨みが、大人になっても残るケースである。これには、いろいろなパターンがあるだろうが、子供の時から親に酷く傷つけられた場合や、反抗期以来、考え方の違いなどから親との敵対的な関係が続く場合などがあるだろう。
       また、逆に長らく親に従順だったのが、ある時から一転して反発に転じる暴発的なケースが少なからず見られる。これは、支配的傾向の強い親のもとで、子供側の親によく見られたい欲求などから、長い間、子供が自分の欲求を抑圧する中で、徐々に蓄積された親に対する恨みが、一気に爆発する場合などとされる。
       そして、こうした場合は、自分も親も多くの不完全な人間の一人と理解する、成熟したものの見方によって、親にしてもらったことには感謝しつつ、親の過ちについては許すことができる。その中で、親の人としての苦しみを理解し、それが自分にもある要素だと理解すれば、親の過ちを自己の反面教師として生かすことさえできる。また、親に傷つけられたことは、必ずしも自分の価値を損なうものではなく、さまざまな意味で自分を鍛えたり、智慧や慈悲を深めたりする機会となるといった恩恵があると気づくことも有効である。こうして、親に感じた苦しみによる怒り・恨みの影響を超えるならば、本当の意味で自立した大人となることができる。

       第三に、親への依存が継続する場合である。これは、親の支配欲と子供の依存心が強く、子供が体は大人になっても、依然として、親への精神的・物質的な依存を続ける場合である。すなわち、子離れせぬ親の支配欲と、親離れせぬ子供の依存・甘えにより、不健全な相互依存=共依存の関係が形成されている。なお、これは、宗教の教祖と信者に似ており、実の親に依存できなかったり、反発したりした結果として、宗教の教祖のような他者を理想の依存対象として、親代わりに求める構造がある。
       この場合は、人は誰もが神の化身ではなく、親も教祖も自分も皆が、長所も短所もある人であって、万人が皆等しく尊いことを学ばなければならない。そのように親や教祖から自立して、支配されていた間に関して、してもらったことへの感謝と親の過ちへの許しに努めるのである。
       ただし、最近の問題としては、親への依存が継続するケースの中で、親が子供を適切に訓練できず、親子が友達同士のような関係でしかなく、親への尊敬が非常に乏しく(同様に教師等への尊敬も乏しい)、子供が自立して生きるに十分な強さを獲得できないままになって、親に精神的・経済的に依存し続ける場合がある。
       この場合は、まず親自身が、どのように教育してよいかわからない、基本的な指針がない問題や、(自分自身の体験などを通して)子供を叱ることで嫌われることを嫌がる傾向などがあれば、そういった問題を解消する必要があると思われる。


    20 親子問題はすべての人間関係の問題の源

       前にも述べたが、親子関係の問題は、すべての人間関係の問題の源だとも考えられる。親子関係は、人にとって最初の人間関係であり、最初に接した人間に対して、自分が形成した心の働きや見方というものは、他の人間を見る場合にも、相当な影響を与える可能性がある。いわゆる「三つ子の魂百まで」ということである。
       これまで見てきたことからまとめるならば、例えば、他に対する感謝が多いか少ないか、感謝に基づく奉仕(恩返し)の意識が強いか弱いか、怒り・恨みが多いか少ないか(他者への理解が深いか浅いか)、迷惑をかけたという反省の心が深いか浅いか、自己を特別視している=自己中心的か、自他を平等につながった存在として、自己を相対化しているかなどである。
       そして、前にも述べたように、子供の時に親に対する依存の機会が乏しかったり、親に対する反抗・反発から抜けきっていなかったりして、感謝と許しによる自立が果たされていないままだと、その人は、親代わりに、他の人に依存する場合がある。自立していない意識が、親の代わりに依存の対象とするのは、例えば、学校の教師や、女性の場合は結婚した夫、社員として会社の上長、信者として宗教の教祖、国民として国家・政治家などだろう。
       この場合の課題は、依存と反抗を超えて、感謝や許しの心を持って、自立することである。そして、感謝に基づく恩返しの心を持ち、他を育む側に回っていくことである。そして、現在の社会では、こうした人格的な成長の不足が、親子・家庭問題から、会社・宗教・国家の問題までにわたって、非常に重要な問題の根底にあると思われる。


    21 内観法:親などへの感謝を深める自己内省法

       ここでは、ひかりの輪が、親など他者に関する健全な感謝の心をはぐくむ自己内省法として導入している「内観」についてご紹介したい。ひかりの輪では、その外部監査委員のお一人が、この内観法の権威の大学教授であり、各支部で内観セミナーを開き、ご指導いただいている。なお、内観は、その源は、日本の伝統仏教宗派にあるとされるが、その後一切の宗教色を脱して、わが国発祥の科学的な自己内省法となり、学会もあり、国際的にも普及しているものである。
       なお、内観の詳細としては、一般のものとしては、例えば、前記の外部監査委員の方が書かれた冊子『内観への誘い』を参照されたい(ひかりの輪の各支部で頒布または閲覧に供している)。また、ひかりの輪のテキストとしては、過去に『内観、唯識、縁起のエッセンス』(2009年ゴールデンウィークセミナー特別教本)があるので、あわせて参照されたい。
       ここでは、そのあらましをざっと説明すると、内観とは、親をはじめとする家族・親族・近しい友人知人の一人一人について、幼少の頃から今現在に至るまで、だいたい数年単位の期間に区切って、(親などに)してもらったこと、してかえしたこと、迷惑をかけたことについて、なるべく正確に思い出していくという訓練である。
       この内観法の意味合いは、親に対する感謝・理解(許し)を増大させることなどがあるが、その背景として、人は、このようにしっかりとした内省の機会を持たなければ、どうしても自己中心的な、偏った、不正確な視点から、これまでの自分と親の関係をとらえている問題がある。
       すなわち、してもらっていることは、親として当然のことだと一切感謝せず、して返したことは非常に少ないにもかかわらず、自分の主観で相当にしたつもりになっており、迷惑をかけたことについては、相当にあるのに(相手が親だからとして)忘れて反省していない。
       特に、幼少期・青年期は、やはり知的・精神的な能力が未成熟であるから、その当時の(親に対する)認識・印象・判断は、非常に不正確であったり、偏っていたりする場合が少なくない。よって、大人になった今の時点で、落ち着いて見つめ直して見ることが、バランスを取り戻す上で役に立つ。
       また、前にも述べたが、「今よりもっと、他人よりももっと」といった、現代社会の資本主義・競争主義の影響を受けて、「親だから当然」とか、「他の親もしていること」として、多大な恵みがあっても感謝せずに、してもらっていないことばかりを見て不満を抱くことが多い。また、他の親と比較して、自分の親がしてくれたことが少なければ、親の抱える事情・困難は考えずに、恨みさえする場合もある。
       一方、自分では、「親のために、こういったことをしてあげたはず」と思っていても、客観的には、それは自分のためにしていることも多い(例えば親の言うことを聞いて勉学に励んだことなど)。また、迷惑をかけたことは非常に多いが、それも「親だから」として自覚がないことが多いものである。
       しかし、こうした親の労苦は、実際に自分が親側の立場に立って見るならば、相当なものであることが、容易にわかるものばかりである。一般に、出産=死の危険、乳幼児期の24時間の拘束、20年にもわたり、休日がなく年中無休で、毎日の衣・食・住や、勉学・教育の機会から、精神的なフォローまで、物心両面にわたる無償の奉仕など、そのすべてが大変な労苦である。
       よって、内観では、「親だから」という固定観念や、他の親と比較するといったことを排除して、偏差値・相対評価ではなく、絶対値で、事実として、親にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出すのである。
       言い換えれば、人は、現代社会の風潮の中で、親をはじめとする他人について、気づかないうちに、偏った甘えた自己中心的な視点から見ている可能性が高い。そして、親以外の他人にも同様の精神的な傾向が生じる。そこで、内観は、そういった偏り・ゆがみを排除し、公正公平な視点から、親をはじめとする他人を評価する訓練ということができると思う。

  • 2011~2012年 年末年始セミナー特別教本『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』第1~2章公開 (2012年01月30日)

    第一章 三悟心経の由来

      「三悟心経(さんごしんぎょう)」は、ひかりの輪オリジナルのごく短いお経である。それは、これまでにひかりの輪で説かれてきた万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りの教えのエッセンスである。「心経」とは、心髄の教えという意味で、「般若心経」の場合も、般若経典の中の心髄の教えという意味である。
      この教えが生まれた一つの背景は、それ以前にひかりの輪で実践されてきたサンスクリット原語のマントラ(真言)が、日本人一般にとっては馴染みにくいということがあった。まず、日本語ではないので意味がわからないこと、さらには正確には発音しにくく、日本語訛りになることなどである。
      それとは別に、このお経が生まれるもう一つの背景として、ひかりの輪が長年行ってきた日本各地の聖地巡礼があった。その一つに、昨年2010年に、島根県に大国主(おおくにぬし)神(のかみ)を祭る出雲大社を巡礼した。この出雲大社の御祭神の大国主神は、日本の神道の神話上、日本列島に最初に国を作った国造りの神とされる(神武天皇による大和朝廷以前)。
      この大国主神は、出雲と周辺諸国を治める上で、人々の心を歌で惹き付けたとされ、そのため、歌の神ともされる。そして、これは日本の「歌」であるから、和歌や短歌というように、韻を踏んだリズミカルな言葉であろうというのが、私の解釈である。そして、この韻を踏んだリズミカルな言葉というのが、「三悟心経」にも活かされている。
      さて、その後、今年2011年になって、羽黒修験道で有名な出羽三山を巡礼した。その際、現地の修験道の先達に習って修験道の勤行を行ったが、その中に含まれていたのが、般若心経の読経であった。
      般若心経は、大乗仏教が中心の日本の仏教において宗派を問わず広く唱えられている。読経される経典としては、間違いなく日本で一番人気のある、突出して人気のあるお経である。そのお経は漢訳の経典で、「色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)」という言葉で有名で、四字熟語などを中心とし、読んでみるとリズミカルな経典で、この、読んだときの調子・リズムによる心地よさが人気の原因ではないかと私は感じた。
      しかし、色即是空・空即是色を含め、全体が漢語であるため、ほとんどの人には、読経はできても、ある程度仏教用語を知っている人でも、意味を理解することは難しい。ましてや一般の人の場合はなおさらで、意味がさっぱりわからないだろう。よって、読経自体はリズミカルだが、その教えの意味が、心に入ってくるのは難しいだろう。
      そういった経緯の中で、韻を踏んだ語句によって読経するのにリズミカルで、かつ現代の日本人の皆さんにも、わかりやすい経典を独自に作れないかという視点から生まれたのが、この三悟心経である。
      それは、「三悟心経」という題名を合わせると全部で27文字で、般若心経(約270文字)の十分の一の短さであり、しかも、現代日本語で表現されているので、誰にでもわかりやすいものとなった。四字熟語を中心に、韻も踏んだ語句となっている。
      とはいえ、これは、世界の普遍的・根本的な道理とする思想、すなわち万物を輪のように平等一体と見る思想(輪の法則、一元法則)を、ひかりの輪なりに表したものである。その普遍的な道理は、現代社会の日常の意識・常識を越えた法則であり、よって、その理解のためには十分な解説が必要となる。その理解ができていれば、すでに一定の悟りの段階(推理智)に来ているともいうことができるからである。本書の主な目的は、その解説である。


    第二章 万物に感謝する教え:万物恩恵・万物感謝


    1 三悟心経

    三悟心経は、以下の通りである。

      万物(ばんぶつ)恩恵(おんけい)、万物(ばんぶつ)感謝(かんしゃ)
      万物仏(ばんぶつほとけ)、万物(ばんぶつ)尊重(そんちょう)
      万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛(あい)す

    簡単に意味を示せば、以下の通りである。

      万物を恩恵と見て、万物に感謝する。
      万物を仏と見て、万物を尊重する。
      万物を一体と見て、万物を愛する。

      そして、このお経は、教えを説いたお経でもあるが、同時に、このような心境に至るように自ら努めるとともに、万物を神仏としてその達成を誓願するためのものであるから、「誓願の言葉」とも言われている(三つ悟りの誓願の言葉)。


    2 万物に感謝する教え「万物恩恵・万物感謝」の解説

      では、「万物恩恵、万物感謝」という教えの意味合いを解説する。
      まず、日ごろ、私たちが体験するものは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものの三つに分類することができる。そして、好きなものには、それをもっともっと欲しいと感じ、嫌いなものには、それから逃げようとか、それを排除・破壊しようと感じ、無関心なものには何も感じない。
      この一つ目の心の働きを仏教では貪りと言い、二つ目の心の働きを怒りと言い、この二つを含めて、貪り・怒り・無智の三つを心の三つの毒(三毒)と呼ぶ。伝統的には、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒と言われることが多い。
      しかし、こうした心の働きは、私たちが本来感じることのできる幸福を非常に少なくしてしまう。それは後ほど詳しく説明するが、例えば、好きなものがあっても、「もっともっと」という心の働きが強いと、それは際限がないために、満ち足りることはなく、その裏側にさまざまな苦しみをもたらす。
      また、嫌いなものでも、その裏側には、私たちにとって、大きな恩恵となるものがあるが、それからいたずらに逃げる心が強いと、それを活かせない。そして、普段はまったく無関心な対象も、大きな恩恵をもたらしている事実がある。
      その結果として、多くの人が、万物に恩恵を感じ、万物に感謝できる心の状態ではなくて、その逆に、いろいろな不幸・不足を感じ、いろいろな不満を抱く、といった心の状態に陥りがちである。一言で言えば、自分を取り巻く条件が客観的にどうであれ、心が感じる幸福・喜びが少なく、不幸・苦しみが多いという状態である。
      それは、客観的に見たら世界最高レベルの長寿と豊かさと安全といった三拍子揃った日本という社会に住んでいながら、年間に三万もの人が自殺し、数百万もの人が精神を病むといった現状が、表している。
      よって、この万物恩恵・万物感謝という教えの意味・目的は、心の持ち方、ものの見方を変えることによって、心の感じる幸福・喜びを最大限にしようというものである。その究極的な状態が、万物を恩恵と見て、万物に感謝できる心境である。
      そして、それに少しでも近づければ、日常生活で感じる幸福・喜び・恩恵・感謝が、今までの二倍・十倍・百倍となっていく。そして、究極的な状態が、仏陀の四無量心と呼ばれている心の状態で、その中には、無量=無限の喜びが生じているという。
      では、次に、具体的にどのようなものの見方・考え方によって、万物恩恵・万物感謝の境地に近づくことができるかについて、解説する。


    3 私たちは一体である宇宙の万物に支えられている:無智の捨断

    (1)万物の支えを意識して感謝する

      万物を恩恵と見て感謝する心を培うために、まず意識するとよいことは、私たちは自分だけの力だけではなく、万物の支えで生きているということである。
      それは、具体的に言えば、他の人々の支え、日々の糧となる他の生き物の支え、空気・水などを与える地球の生命圏の支え、太陽からの陽の光を含めた太陽系や、太陽系を支える銀河系、無数の銀河系を相互に支え合っている無限の宇宙と広がっていく。よって、万物を恩恵と見て、万物に感謝する。
      このものの見方のメリットは、
      ①普段はまったく意識しない万物の支えを改めて意識して、感謝の心を培うこと
      ②狭くなりがちな意識を解放して、宇宙全体に広げること
      ③自分だけの力で生きて(成功して)いるという慢心とそれによる苦しみを減らすこと
    などがある。
      なお、この教えを伝統的な仏教的な方便(表現)で解説するならば、釈迦牟尼が説いた縁起の法にあたる。縁起の法の「縁起」とは、「因縁(いんねん)生起(しょうき)」の略であり、万物が、他から独立して、自分だけの力で生じるのではなくて、他に依存して、他を原因・条件として、生起しているという事実を説くものである(因=原因、縁は条件といった意味がある)。
      よって、縁起の法は、人の思考の対象となる宇宙の万物は相互に依存し合って存在し、固定した実体がなく、本質的に一体であることを意味している。なお、ひかりの輪は、仏教開祖・釈迦牟尼を尊敬し、仏教のさまざまな教えを採用しているが、仏教とその教えを絶対視してはおらず、あくまでも、それを方便・手段として活かそうとしている。
      よって、教えの解説においては、まず現代の誰もがわかる日本語の言葉で解説し、その後、その教えが、伝統仏教の教え(ないしはその他の宗教の教え)においては、どのような教えと関係するかを付け加える形で紹介するスタイルをとることにする。

    (2)万物を一体と気づいて、平等な感謝と愛を培う

      さて、次に考えるべきことは、私たちが得ている万物の支えというものが、平等で一体であるということである。私たちの毎日の生活や、幸福の探究を支えているのは、自分が日常の中で好きだと感じる人・ものだけでなく、嫌いと感じる人・ものや、普段は無関心な人・ものも含めた万物である。
      日常の感覚では、好きと感じる以外のものは、あたかも必要がない存在のように錯覚しているが、実際には、嫌いと感じるものや、無関心なものに支えられなければ、私たちは生きていくことはできない。客観的に見れば、好きなものよりも、むしろ、嫌いなものと無関心なものを合わせたものの方が、実際に私たちの毎日を支えている割合は、圧倒的に多いだろう。
      さらに重要なことは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものを含めた万物は、お互いに切り離すことができない、相互に依存し合った関係にある。すなわち一体として存在している。
      例えば、人類社会は、今や非常に進化した分業のシステムの中にある。普段はまったく意識しない地球の裏の国の産業活動も、私たちの毎日の経済生活に直接関係するほど、人類社会の一体性が深まっている。普段意識する存在に支えられている割合の方が、全体の中では、圧倒的に少ないだろう。
      また、嫌いなものに支えられている場合も非常に多い。自分が嫌いな人や、ないしは会えば必ず嫌いになるであろうタイプの人が働く会社の製品・サービスに、毎日大変助けられていたり、自分が日常生活で最も嫌いだと感じている人が、自分の最愛の人を産んだ人であったりする場合も多いようだ(嫁と姑の問題)。多くの場合、好きなものが嫌いなものを、嫌いなものが好きなものを作っている。
      また、私たちを育む地球の生命圏・大自然も相互依存の一体性の中に存在する。今日の私たちにとっては嫌に感じられる雨も、農家にとっては必須の「恵みの雨」であり、その農産物がなければ、私たちも生きていくことができない。逆に、晴天の日の心地よさも、雨乞いをする農家には、恨めしいものである。快適なものが不快なものを、不快なものが快適なものを作り出している。
      こうしてみると、私たちは一体である万物の中の一部分を見ては好きだとか、嫌いだとかと感じているが、それらは一体である全体の一部であって、他から独立した存在ではないことがわかる。
      そして、ここで重要なことは、このことを意識すると、万物を一体と見て、万物に平等に感謝する心を養っていく第一歩となることである。その意味で、万物を一体として恩恵と見て、万物に平等に感謝するのである。
      ここでも、この教えに関して、伝統の仏教的な方便・表現による解説を加えておこう。大乗仏教の教えでは、「平等心」という言葉がある。これは、普段好きだとか嫌いだとかとして、区別している対象を等しく平等に愛する心の働きであり、仏陀の心の働きの一つであるとされる。万物を平等に愛するのが、仏陀の心なのである。
      そして、さらに重要なことは、仏陀の平等な愛は、万物への平等な感謝から生じるということである。感謝に基づいた愛なのである。これは、詳しくは後に述べるが、すべての衆生を救済するために、仏陀の境地に至ろうと決意する「発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)」と呼ばれる教えに関係してくる。


    4 貪りを越えて慈悲を培う感謝(貪りの捨断)

      資本主義を中心とした現代社会に生きる私たちは、日常生活の中で、快楽は、それを必要以上に際限なく貪ろうとし、その逆に、苦しみには嫌悪して、それを避けようとばかりする傾向が少なくない。
      しかし、昨今行き詰まりを見せつつある資本主義の中で、今こそ、この快楽と苦しみといったものの本質について、正しく知る智恵(智慧)が必要である。すなわち、人が感じる楽と苦というものの本質を深く考察してみるのである。すると、自分が日常生活に流される中で、いままで理解していなかった、私たちの心の働きの真理を理解することができるのである。
      その心の働きの真理の中で、まず第一に重要なことは、苦楽表裏という事実である。これは、楽を貪ると、苦しみも増えて、楽の裏に苦があるということ、そして、逆に、苦しみの裏には、楽もあるということである。
      まず、快楽の貪りは、際限がない。そのため、決して真の満足は得られない。例えば、私たちは、世界全体から見れば、長寿・豊か・安全と三拍子揃った日本社会に生きている。しかし、日本社会の中から見れば、年間三万人が自殺し、数百万人の人が精神を病み、停滞する経済と少子高齢化により、多くの人が現状への不満と、将来への不安を抱えている。これはなぜだろうか。
      貪りの心は、何かを得ても、喜びや感謝の気持ちは最初だけで、すぐにそれを当然のものとして、さらに求める性質がある。その一方で、いったん得たものには執着が生じ、得る前はそれ無しでいられたのに、得た後に失うと、非常に辛く感じられる。そして、より多くを求める中で、ないし得たものを守ろうとする中で、他との奪い合い、妬み・恨みなどが生じる。こうして快楽の貪りの裏には、さまざまな苦しみがあるのである。
      これを伝統の仏教的な方便・表現で解説すると、四苦八苦という教えである。仏教の専門用語の「四苦八苦」とは、我々が日常的に用いる特別に苦しい状態を意味する言葉ではなく、貪りや執着のため、人間が陥りやすい一般的な苦しみを八つに分類したものである。
      こうして、貪りには際限がなく、それが強くなると、決して満ち足りず、絶えず不満が生じ、感謝の心が弱まる。よって、「万物恩恵・万物感謝」ではなく、「万物不足・万物不満」といった意識状態になる。
      そして、貪りの心は、非常に偏狭な視野に陥っている心の状態である。それは、自分が得ていないもの、自分より恵まれている人ばかりを見ており、世界全体を見ていない。その結果として、自分の幸福の大きさを客観的には見ることができない状態である。
      この貪りの落とし穴に気づくには、今与えられている幸福の大きさを努めて考えるようにして、それに気づいて感謝し、足るを知る心を持つことである。そうすると、人の感じる幸福感とは、じつは、お金や名誉の量といった外的な条件よりも、心の持ち方によって、心から生まれるものであることがわかる。
      言い換えると、同じ環境にあっても、心の持ち方で幸福な人もいれば不幸な人もおり、どんな場合でも、心の持ち方によっては、幸福を見いだすことができるが、貪りにとらわれると、どんな場合でも、不満が生じることがわかる。幸福は心が感じるものだから、幸福感は、心が中心となって生み出している。これに気づくと、万物恩恵・万物感謝の心境に近づくことができる。
      そして、感謝は、人にとって最も重要な宝ともいうことができる「慈悲の心」をもたらす。感謝によって、貪りが静まると、自ずと、自分と世界がありのままに見えてくる。すなわち、世界の中で自分の得ている幸福の大きさに気づくのである。
      その中から自ずと、自分よりはるかに苦しんでいる、恵まれていない者たちが、この世界には、無数に同時に存在している事実に気づき、他への慈悲の心が生じる。そして、ひいては、貪りとは正反対の分かち合いの重要性に気づくことになる。
      この慈悲の心というのは、「仏の心」ともされるが、人の心の働きの中で、貪りや怒りとは違って、非常に大きな安定した幸福感を与えるものである。感謝と結びついた慈悲の心は、その意味では、人にとっての最大の宝であろう。
      一方、現代の日本社会に生きる我々の日常の状態は、多くの場合、この視野(しや)狭窄(きょうさく)の状態に近いのではないだろうか。自分の生きている周囲の世界がほとんど見えていない状態で、自分のことばかりを考え、そして、自分がまだ得ていないもの、自分より恵まれているものばかりを見ている。そこから、現状への不満と将来への不安が生じる。
      それは、仏陀の視点から見るならば、自分よりはるかに苦しむ無数の存在に対して、非常に無慈悲な心の状態だろう。
      さて、無慈悲という言葉を使ったが、この貪りの心の本質は、しっかりと分析するならば、そもそもが、他から幸福を奪おうとする心の働きなのである。
      そして、奪うために生じるのが、嘘や悪口、盗みや不当な手段での取得、場合によっては殺しといった、さまざまな悪行や犯罪行為である。しかし、この悪行は、長期的には、当然、さまざまな苦しみをその本人にもたらすことになる。
      この点について詳しく分析してみよう。際限のない貪りは、必ず、自分と他人を比較して、他よりも多く得よう、他に優位に立とうという心の働きを含んでいる。よって、必ず他との奪い合いの一面がある。
      お金持ちになることや、名誉、地位、権力を得ることは、皆が得られるものではなく、他との比較・競争・奪い合いの一面がある。そもそも、お金持ちとは、他と比較して多くのお金を持っていることだし、名誉や地位や権力も同様である。
      その意味で、自分が快楽を貪る裏側には、必ず他の苦しみが存在している。自己の快楽の裏に他の苦しみ、他の快楽の裏に自己の苦しみが存在する。言い換えると、貪りとは、どこかで自分のことだけを考え、他の苦しみを無視しなければ、できないのである。気づかないうちにか、気づいて自覚的に行うかは別にして、貪りとは、「無慈悲になる」という大きな代償を必要とするものである。
      こうして、貪りは、そもそもが、他から幸福を奪おうとする無慈悲な本質があるから、他から奪う過程で、前にも述べたとおり、嘘や悪口、盗みや不当な手段の取得といった悪行を犯すことにもつながっていく。私たちの世界の中で、富や権力の追求において、これは非常によくあることだろう。
      ここでもう一つ重要なことは、貪りの心の働きがあると、自分より恵まれていると思われる人への妬みが強くなる。しかし、その妬みの対象は、自分が想像しているようには、実際には幸福ではないのである。それは、自分の貪りのために、その人が自分よりも幸福だと錯覚しているだけにすぎない。真実は、慈悲こそが真の幸福の道である。
      自分より多くを得ていても、貪りは際限がなく、真の満足をもたらさない一方で、より多くを得たがゆえに、それを失う不安や恐れも多く、奪い合いにも深入りして、妬みや恨みを買うことも多い。さらに言えば、奪い合いの中で悪に手を染めている場合も多い。
      それでは、本人は決して幸福ではない。しかし、貪りの心が強いと、こういったことがわからず、実際には、妬む必要がないのに、妄想の中に入ったかのように、妬みの感情に苦しんでしまうのである。
      なお、別のケースとして、妬みの対象が、快楽を貪るものではなく、真に精神的に優れた存在である場合があるが、その場合は、そういった存在は、自分の幸福への障害・邪魔なのではなく、切磋琢磨して自分が向上するための貴重な助力者である。ただ、名誉や地位への貪りは、それがわからなくなる原因となる。
      こうして、この貪りの落とし穴に陥らないために、感謝と分かち合いが必要である。感謝がないと、足るを知って貪りを静めることが難しい。そして、他への無慈悲や、自分の力で幸福になっているという慢心が生じる。それは、他の幸福を奪う、他を苦しめる悪行が増大する原因となる。
      一方、感謝に基づき、自ずと生じるのが慈悲の心である。そして、慈悲の心は、貪りや奪い合いの悪行とは正反対の行為である分かち合いの実践をもたらす。他と苦楽を分かち合う行為である。
      最後に、こうして、私たちが日常生活で感じているさまざまな苦しみが、実は貪りの心によって生じているものであることに深く気づくならば、そういった苦しみの経験は、貪りを反省し、智恵(智慧)と慈悲を育むために、神仏が与える愛の鞭と解釈することもできるだろう。
      すなわち、苦しみを恩恵として感謝できる心境である。こうするならば、苦にも楽にも感謝し、この意味でも、万物恩恵、万物感謝の心境に近づくことができる。よって、この点について、次に詳しく述べることとしたい。


    5 苦しみの裏にある喜びに気づいて感謝する(怒りの捨断)

      さて、次に快楽への貪りではなく、苦しみに対する嫌悪について考えてみよう。普通、人は、苦しみを嫌がり、快楽を求める。しかし、深く考えてみるならば、快楽や喜びばかりの人生は、恐ろしいものであり、逆に、一定の苦しみの経験は、先ほども述べたが、慈悲という大きな宝の源になり得ることがわかる。
      まず、苦しみが慈悲の源であることについて考えてみよう。人のさまざまな苦しみの根元は、自分と他人を区別し、自分のみを偏愛し、自分のために、さまざまな快楽を貪ることによって生じることは、先ほど述べたとおりである。
      この苦しみの真の原因に気づく(=智慧が生じる)ならば、自と他を区別せずに、万物を平等に愛する慈悲の心、すなわち、苦楽を分かち合う心の働きが生じ、それによる最高の精神的な幸福を得ることができる。
      その意味では、自己の苦しみというのは、私たちを智慧と慈悲に導く愛の鞭であるということができる。例えば、自己の苦しみの経験があってこそ、それを活かして、他の苦しみを理解し同情し、それを分かち合おう、取り除こうという温かい心の働きも生じる。また、自己の苦しみの経験があってこそ、他が苦しみから脱却して、幸福になることを本当に喜ぶ心の働きも生じる。
      逆に苦しみの経験が少なく喜びの経験が多い者は、他の苦しみを理解することはできない。美貌・才能・財産・名誉・地位などすべてを得ていたマリー・アントワネットが、それがゆえに、民衆の餓えの苦しみをまったく理解できず、命を落とした話は有名である。
      一方、慈悲の化身とされる観音菩薩は、その前生において、さまざまな苦しみが連続する悲惨な生涯を送ったが、「その苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決意したことによって誕生したという説話がある。こうして、苦しみの体験が、まさに慈悲の化身を生み出したのである。
      伝統的な仏教的な表現では、この、他の苦しみを自己の苦しみのように悲しみ、他の喜びを自己の喜びのように喜ぶ心の働きを「慈悲」という。詳しくは、他の苦しみを悲しみ、取り除く心を「悲」といい、他に幸福・楽を与える心を「慈」の心という。
      次に、苦の裏には楽があるという理解をもう少し深めるために、いろいろな具体的な事例を見ることにしよう。
      まずは、物理的な苦しみに関してである。病気は苦しみであるが、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気があった方が、体を労り、長寿になるという意味である。確かに、病気の中には、普段の不摂生が原因のものも多い。それを反省し、改めて節制して、体を労るならば、逆に健康に良く、長く生きることができるだろう。一方、健康が自慢の人は、体を労ることがなく、ある時ぽっくりと逝ってしまう場合もある。
      また、病気になったとき、ないしは病弱な人の場合は、慢心を抱きにくいという長所もある。病気になって、自分が多くの人に支えられて生きていることがわかり、感謝の心を持つことができたという話は多い。
      また、松下幸之助は、病弱であったがゆえに、他に頼む術を身につけたという。彼は同様に、財力がないからお金持ちの元に丁稚奉公に行って若くして商人の才を育み、学力がなかったから、他から謙虚に学ぶことができたと語っている。
      こうして、自分の体力、財力、学力が乏しいという苦しみを、優れた他の力を活かすという形で逆に活用して、喜びに変えたのである。これも、自己の苦しみを、他を活かす慈悲の源にして、自と他の双方を幸福にするという一つのパターンである。
      伝統的な仏教的な教義では、老い、病み、死ぬという身体の苦しみは、究極的には、無常である自分というものにとらわれず、自我執着から心を解放する(悟りを得る)ために、逆に活かすべきであると考える。
      すなわち、他から独立した固定した実体を持つ自分などは、実際には存在しないことを悟り(無我の悟り)、自分への執着を捨てて、すべての衆生を平等に愛する大慈悲の体得などに活かすのである。ヨーガ的に表現すると、真実の自分は無限の宇宙であるという悟り(宇宙意識)の体得である。
      次に、経済的な不安の裏にある恩恵についても考えてみよう。病気の一病息災と同じように、経済的な不安は、贅沢・浪費を反省し、質素倹約や勤労の習慣を身につけ、長期的な経済的な安定を得る機会ともなる。
      そして、究極的には、物質的な幸福の限界を悟って、精神的な幸福に目覚める機会となる。具体的に言えば、例えば、自己が所有する財や富による幸福の限界を悟って、皆が共有する物、例えば大自然などにこそ、真の豊かさがあることに気づくなどである。これも、仏教的にいえば、自我執着から無我・大慈悲・宇宙意識への進化ということができる。
      次に、精神的な苦しみについてである。まず、誹謗・中傷の苦しみである。まず、正しい批判ならば、それは、今は辛くても長期的には自分の成長を促し、結果として逆に称賛・名誉をもたらす愛の鞭である。逆に、まったく批判されない場合には、将来は非常に暗いと言わざるを得ない。
      一方、間違った批判は、それに落ち着いて耐えることで、しばらくすれば、逆に評価されるようになるものだし、智慧と慈悲の目で見るならば、それは批判している者の心の歪み・苦しみを知る機会ともなる。
      そして、究極的に言えば、称賛・名誉・権力に対する貪りが強い我々にとっては、誹謗・中傷は、それに落ち着いて対応することで、そういった貪り・欲望から自己を解放して、智慧と慈悲を培う良い機会ともなる。ある仏教の経典では、誹謗・中傷等に耐えることが、慈悲を目指す大乗仏教において非常に重要だと説いている。
      また、現代社会の中で多いのが、自己嫌悪・卑屈・妬み・寂しさといった感情であろう。物質的に満たされた今の社会では、称賛・名誉・地位・権力といった欲求、自己の存在価値を認めてもらいたい欲求が強い。それがゆえに、それが認められない状態、自分が他に劣っている、価値がない、愛されていないといった感情に悩む人も多い。
      しかし、自分がそういった苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解できる者となることや、優れた他を活かして自分も幸福になることを考えるならば、苦しみを喜びにすることができるだろう。これは文字通り、他と苦と楽を分かち合う実践である。
      コンクリート・ジャングルとも呼ばれる現代社会は、愛情欲求・認知欲求は満たされずに、多くの人の中にいながら、心は寂しいという人も多い。それは、自分の苦しみに没入せずに、それを活かして、同じような苦しみ、ないしは自分以上の苦しみを持ちながらも、この世界に同時に生きている無数の者たちへの慈悲によって、和らげることができるだろう。
      妬みの苦しみについて言えば、先ほど述べたように、妬みの対象が、実際には、自分が思うほどには幸福ではないことに気づくための試練である。貪りの追求において、自分より勝った他者が、幸福に見えるのは錯覚である。人の心を真に幸福にするものは、貪りではなく、慈悲だからである。
      また、妬みの対象が、真に優れた存在である場合は、それが実際には、自分の幸福への障害ではなく、自分の助力者であることに気づく試練であろう。人は、一人ではなかなか成長できるものではなく、優れた切磋琢磨の対象があってこそ、よりよく成長できるからである。
      人生における困難や挫折・失敗の苦しみにも、その裏側に喜びを見いだすことができる。まず、困難なく達成できることには、たいてい真の価値はない。困難の経験は、自分が取り組んでいることの価値を示している。
      大乗仏教では、教えの理解と体得の難しさに耐えることを説いている。教えの理解と体得は、それほど容易ではない。すぐに身につくものではなく、コツコツと努力する中で、徐々に身につくものだ。逆に、すぐに身につくものは、まやかしや落とし穴が多い。
      また、多くの偉人は、成功とは、失敗なく達成できるものではないとしている。失敗こそが成功の元。失敗・挫折なく成功するというのは、自分が抱えている壁を突破したものではないだろう。
      イギリスの元首相であるチャーチルは、「成功する能力とは、めげずに何度でも失敗を経験できる能力だ」と言い切っている。自動車のホンダ(本田技研工業)の創業者は、「皆が成功を求めるが、自分にとっての成功とは、度重なる失敗と反省を通してのみ、得られるものだ」という趣旨のことを述べている。
      エジソンは、1000回の実験で白熱電球を発明した際に、「999回は失敗ではなく、これでは成功しないということを知った成功へのステップだった」という趣旨のことを語っている。
      仏教的に言えば、人は皆、神ではなく、不完全な人間として生まれるときに、万事を正確に理解できない無智・悪業と共に生まれてくる。その無智・悪業は、実際に挑戦し、失敗の体験を通して、それでは成功しないと知ってこそ、晴れていくと考える。無智の悪業の清算によって、智慧(智恵)と成功が生じるというのである。
      よって、悟りの道程も、本を読んでも、指導者から学んでも、すべてが計算通り、目算通りには行かない。個人によって違う紆余曲折がある。よって、仏教では、苦しみによって、正法に対する信仰が生じるとも説かれている。


    6 苦と楽の双方に偏らない釈迦牟尼の中道の教え

    (1)中道の教え

      さて、現代の日本人に非常に参考になると思われる教えが、釈迦牟尼の中道の教えというものである。これは、快楽主義も苦行主義も双方を否定した教えなので、「中道」と言われる。双方の極端を否定した道である。
      そして、これは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという真実に基づけば、自然な結論となる。苦しめば悟るという苦行主義は、合理性がなく前近代的であろう。しかし、楽を貪り、苦をいたずらに厭うのも意味がない。
      よって、①与えられている楽=恵みの大きさに気づいて感謝することで、貪りを静めて足るを知り、②さらには、経験する苦しみ(=与えられていない楽)については、その裏にある恩恵にも気づいて感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝する実践をするのである。

    (2)感謝と慈悲(分かち合い)のつながり

      さらには、貪りが静まり足るを知った状態において、感謝と共に出てくるのが、他者への慈悲の心である。慈悲の心は、他者との苦楽の分かち合いに結びつく。よって、キーワードを言えば、仏教的に表現すると「知足と慈悲」、現代的に表現すると「感謝と分かち合い」ということになる。そして、この慈悲・分かち合いが、人の心にとって、最も安定した大きな幸福感を与えるものである。
      この背景には、先ほど述べたように、快楽を貪ると、さまざまな苦しみを招くが、自己の苦しみと共に、他の苦しみも生じているという事実がある。貪りは無慈悲なのである。よって、この貪りを静める中道の道は、知足と慈悲、感謝と分かち合いの道は、自分の幸福だけでなく、他の幸福の道でもある。
      そして、感謝と慈悲は、不離一体で、互いが互いを強め合うものである。感謝で貪りが静まると、自分の得ている恵みと無数の他の苦しみに気づき、慈悲の心が深まる。そして、慈悲の心が深まると、自分のさまざまな苦しみは、じつは貪りから生じていると気づき、苦しみさえも、自分を慈悲に導く恩恵として感謝できるようになる。こうして、感謝が慈悲をもたらし、さらに、慈悲が感謝を深めることになる。

    (3)今後の日本社会のために

      そして、現代の日本人は、苦しいといっても、一般的にいって、途上国の一部のように飢えているわけではない。それどころか、長寿・豊か・安全と三拍子揃った、現在の人類社会でも希な社会である。
      先日、九州の阿蘇や高千穂に行ったが、その際に、ある神社の宮司さんが、「現在の日本社会は、人類史上最も恵まれた社会です」と語っているのを聞いた。もちろん、これは、物質面や民主主義体制といった視点から見た場合であろう。しかし、少なくとも、大日本帝国の時代や士農工商の江戸時代に戻りたいという人は極めて少ないだろう。
    その社会の中では、釈迦牟尼の説いた、苦にも楽にも偏らない実践は、過剰な貪りを抑制して、バランスを取るために非常に重要ではないかと思う。貪りは際限がなく、満ち足りることない中で、求めても得られない苦、執着したものを失う苦、奪い合いの苦など、さまざまな苦しみを招く。よって、絶えず現状への不満と将来への不安がある。
      そのため、先ほども述べたように、日本社会は、客観的には恵まれているのに、その中の人は、幸福観に乏しいのではないだろうか。それは、国際比較・世論調査などを見てもそうである。
      逆に、途上国でありながら、一説によると、国民の97%が幸福であると感じているのがブータンという国である。その前国王は、経済力=GNPを幸福の指標にするのではなく、人の感じる幸福感の大きさを重視し、GNH(国民総幸福感)を唱えた。このブータンは、自然環境を重視する仏教国である。
    -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
      2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答した。(中略)
      ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。
    「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」(以上ウィキペディアより)
    -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
      こうした状況を考えると、恵まれた環境でも、幸福観の乏しい私たち日本人のためには、万物を恩恵と見て、万物に感謝し、慈悲・分かち合いの喜びを培う教えと実践が、今後非常に重要ではないかと思う。


    >>教本の購入はこちらからどうぞ

  • 2011年GWセミナー特別教本『 ひかりの輪と日本と輪の思想』第1章公開 (2011年08月18日)

    《改訂版》2011年GWセミナー特別教本
    『 ひかりの輪と日本と輪の思想』

    ■目次  ★第1章をご紹介      購入はこちらから

  • 2010~11年 年末年始セミナー特別教本 『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』第1章公開 (2011年03月10日)

    《改訂版》2010~11年 年末年始セミナー特別教本
    『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』

    ■目次  ★第1章をご紹介         購入はこちらから

  • 2009年GWセミナー特別教本『内観と仏教の自己内省法 唯識思想と縁起の法 輪と循環の思想』第1章公開 (2009年05月05日)

    《改訂版》2009年GWセミナー特別教本
    『内観と仏教の自己内省法  唯識思想と縁起の法  輪と循環の思想』

    ■目次              購入はこちらから

    1 ひかりの輪の内観:仏教と融合した新しい内観実践の思想・・ 3

    (1) 仏教と内観の一致点・・ 3
    (2) 内観と親子関係の問題・・ 7


    2 唯識思想のエッセンス:科学との接点と一元の思想・・・・・18

    (1) 唯識の世界観と科学の接点・・ 18
    (2) 唯識の思想を通して、一元の悟りを深める・・ 22


    3 縁起の法を中心とした仏法のエッセンス・・・・・・・・・・27

    (1) 各種の縁起の法について・・ 27
    (2) 縁起の法から派生する重要な教義・・ 29


    4 輪と循環の思想--生死・苦楽・善悪の循環・・・・・・・・33

    (1) 仏教の教えの象徴としての輪 ・・33
    (2) 物理的な循環 ・・33
    (3) 循環と仏陀の法則 ・・34
    (4) 精神的な循環 ・・34
    (5) 悟りのための循環の法則 ・・35
    (6) 生と死の循環を悟り、すべてを一体として愛する ・・35
    (7) 楽と苦の循環を悟り、真の幸福とは四無量心と悟る ・・36
    (8) 善と悪の循環を悟り、すべての衆生を仏の現れと見る・・37

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  • 2009年2月セミナー特別教本「大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就」第1章公開 (2009年02月28日)

    第1章 正観の瞑想:仏教の基本

    1.すべては無常である

      ※諸行無常、苦楽表裏、四苦八苦(大乗仏教で説かれる教え「三法印」の3つ)

      生まれたものはすべて滅する。すべての生き物は、生まれても、必ず老い病み死ぬ。幸福・不幸も無常である。
      すべての煩悩による楽も、苦しみに変わる。求めて得られたら、もっと欲しくなり、際限がなく、得られなければ苦であり、失うときも苦であり、奪い合う敵と会うのも苦である。すなわち、苦楽表裏、四苦八苦である。
      また、すべては無常であるがゆえに、すべては平等である、すべての生き物、すべての幸福・不幸は、無常であるという点において変わらず、その意味で、すべては大差なく、平等である。


    2.すべては空である

      ※三法印の諸法無我、十二支縁起、大乗の一切皆空、唯識の阿頼耶(あらや)識(しき)縁起(えんぎ)

      私たちが現実と呼ぶものはすべて、五感や言葉による思考が作り出した幻影である。私たちと違った五感や思考を持っている生き物には、同じ世界がまったく違って見えるし、電子顕微鏡には世界はすべて原子・分子の渦と見え、赤外線をとらえる眼には夜空が明るく見える。
      こうして、現実とは、外部に存在するものを感じた結果ではなく、それぞれの生き物が、それぞれの五感や思考に基づいて、さまざまに体験する、自分の脳内のデータにすぎない。
      自分の脳内のデータの体験にすぎないから、時には、夢の中でも、起きている時と同じような現実的な体験をする。起きている時と違って、五感は外界をとらえていないが、起きている時と同じように脳内のデータを体験するならば、同じような現実的な体験が現れる。これは夢見のヨーガの悟りである。
      言いかえれば、そこにはスクリーンしかないのに、映し出された映画の情景が実在すると錯覚したり、そこに水しかないのに、湖面に映る景色が実在すると錯覚したりするように、脳内に映し出された三次元立体映画の映像を実在するものと錯覚しているのである。
      こうして、私たちが経験する現実とは、十二支縁起が説くように、無明に基づく五感と意識(=六処・六識)に依存して生起している(縁起している)ものにすぎず、実体がない(空である)。ないしは、唯識が説くように、阿頼耶識に基づく五感と意識(前五識と意識・六識)に縁起しており、空なのである。
      そして、無智・無明とは、五感と言葉による思考の結果、実際には心の中の(脳内の)データに過ぎないものを外部にあって実在するものだと錯覚することであり、それに執着して、貪り・怒りをはじめとする煩悩を生起させることである。


    3.存在の真実は、そして真の幸福は、涅槃の寂静、空性にある

      ※三法印の涅槃寂静、大乗仏教の空性・唯識の阿摩羅識、原始仏教の無我・非我

      諸行無常や諸法無我を修習し、外界・対象に実体を錯覚する無智を滅して、貪り・怒りが静まり、三毒を滅すると、涅槃の寂静の境地に至る。
      瞑想によって、五感と思考の動きを止めて、深い意識に入るならば、そこには、いかなる姿形も現れず、自と他・内と外の区別もなく、時間感覚も消えた、寂静の無限の空間がある。
      これが釈迦牟尼の説いた涅槃、仏教が説く空性の体験・仏陀の境地と言われるものであり、本当の楽、涅槃の真楽と言われるものである。


    4.すべては相互に関連している

      ※重々無尽縁起(法界縁起)、如来蔵縁起(真如縁起)

      私たちの日常の意識には、自と他は区別されて現れる。しかし、これは、私たちの五感と日常の思考が作り出している錯覚にすぎない。五感には、自と他が別のように映し出されて、それに対して、日常の思考が、そのおのおのに別々の名前をつけて、区別しているので、自と他が別のものだと錯覚しているにすぎない。
      しかし、実際には、この宇宙の一切は、相互に深く結びついており、一体である。これは、最新の科学である量子力学が説いている真実である。すべての物質は波動を有し(物質波)、その波動は宇宙全体に広がっており、さらに、物質の最も微細なレベル=量子は、人が観測する前は波動であるのに、観測しようとすると、波動から粒子に収縮するとされる。よって、宇宙のすべての存在は、波動として宇宙全体に存在し、一体である。
      量子力学よりも粗雑なレベルでも同様である。分子生物学は、私たちの肉体の内と外の間には、絶えず分子の出入り・循環があり、自分だけの体の分子などまったくなく、年単位ですべての分子が入れ替わり、肉体が地球の生命圏と不離一体であることを示している。空気、水、食べ物などの分子が、肺や皮膚の呼吸、飲食、発汗、排泄等の作用によって、出入りしているのである。
      こうして、すべての生き物は、宇宙・地球という巨大な生命体の細胞のようなものであり、万物とともに生存している。万物に支えられ、万物のおかげで、生存している。よって、私たちは、すべての衆生に、万物に感謝するべきである。
      また、分子に限らず、人の精神も、個々人でバラバラではない。現代では、言語による絶え間ない情報の交換がなされており、自分だけの考えや、他人だけの考えなどあり得ないし、言語を超えて、以心伝心、社会の空気などと言うように、精神が直接的に連動することも起こっている。
      そして、万物は、仏陀とつながっている。釈迦牟尼のような諸仏も、すべての生き物とつながって生き、その体の一部だった分子は、今も地球の全体を循環しており、いかなる者も諸仏とつながっている。
      さらに、仏陀の本体が法であるならば、法に基づきすべての現象が生じる大宇宙は、すべて仏陀の現れであって、こうして、大宇宙を仏の現れと見るならば、すべての生き物は、その仏陀の一部であり、その本質は仏陀であり、皆が未来の仏陀である、と説く仏性・如来像の思想が導き出される。


    5.すべては心の現れである

      ※縁起の法・因果応報・自業自得、唯識思想

      自分の体験する現実は、自分の六識(五感と意識)が作り出す体験であり、その意味で、心の現れであり、実体がない。

      次に、自分が感じる幸福・不幸も、三毒(貪り・怒り・無智)に縁起した、心の現れであり、実体がない。同じ条件でも、欲求の強い人には、苦しみとなり、欲求が少なければ、喜びとなるように、苦楽は心の現れである。
      また、以前より良い条件を得れば、喜びを感じるが、慣れると喜びは感じなくなり、逆に、もっと欲しいという苦しみが生じ、ましてや慣れたものを失えば、以前に戻っただけにすぎないのに、大いに苦しむ。こうして、苦楽は、心の現れであり、実体がない。
      ここで欲求が強いとは、善行が少なく悪行が多い結果であり、その場合、喜びが少なく苦しみが多くなり、欲求が少ないとは、善行が多く悪行が少ない結果であり、その場合、喜びが多く苦しみが少ない。これが、因果応報・自業自得の法である。

      そして、他人と自分の関係においても、お互いがお互いの心の現れ=鏡である。私たちの日常の意識では、自分と他人は大きな差異があるように感じている。しかし、それは、無智によって、現実に実体を錯覚しているからである。
    無智を超えた仏陀の視点から見れば、衆生はすべて、現実とは虚像のように実体がない幻影なのに、それに引きずられ、輪廻の鎖の輪を浮沈しており、その無智においては、人間の間はおろか、人間と他の生き物の間にも大差はない。無智の中のすべての衆生は、皆が、大差ない盲目の亀にすぎず、すべては仏陀の手のひらの存在なのである。
      ましてや、私たちが見る身の回りの人たちは、同じ人間の五感を持ち、同じ言語で思考しており、その五感と思考が映し出す、非常に似通った現実という幻影にとらわれているのだから、それだけで、非常に似通っているのである。
      そして、私たちが、十分に内省すれば、他人の悪行・善行が、自分の顕在的ないし潜在的な悪行・善行の投影であることがわかる。すなわち、カルマ・ヨーガ、すべての衆生は、自分の鏡であり、仏・法の現れである。
      この理解を阻むものは、現実に実体を錯覚する無智を根本として、自と他の区別をなして、プライド・闘争心・嫉妬心にとらわれた結果、自分の悪行を見ることを避けたりすることを含め、自分と他人をありのままに見ることができない意識の状態である。よって、これを努めて乗り越えるならば、他人が自分の鏡であることが理解される。

     

特別教本:目次公開

  • 2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』 (2015年04月29日)

    2015年 GWセミナー特別教本

    『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』

    目次              購入はこちらから

  • 2014年夏期セミナー特別教本 『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』  (2015年02月21日)

    《改訂版》2014年夏期セミナー特別教本
    『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』

    ■目次    ★第1章をご紹介           購入はこちらから

  • 2014年GWセミナー特別教本 『 幸福のための仏教哲学  平等社会の道と自己を知る智恵』  (2015年01月27日)

    《改訂版》2014年GWセミナー特別教本
    『 幸福のための仏教哲学  平等社会の道と自己を知る智恵』

    ■目次   ★第1章をご紹介       購入はこちらから

  • 2013年 夏期セミナー特別教本 『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』 (2014年03月27日)

    《改訂版》2013年 夏期セミナー特別教本
    『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』

    ■目次   ★第1章をご紹介          購入はこちらから

  • 2013年GWセミナー特別教本 『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』 (2013年09月17日)

    《改訂版》2013年GWセミナー特別教本
    『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』

    ■目次 ★第1章をご紹介              購入はこちらから

  • 2012~13年 年末年始セミナー特別教本 『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』 (2013年03月10日)

    《改訂版》2012~13年 年末年始セミナー特別教本
    『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』

    ■目次           購入はこちらから

  • 2012年夏期セミナー特別教本 『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』 (2012年10月09日)

    《改訂版》2012年夏期セミナー特別教本
    『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』

    ■目次★第1章をご紹介          購入はこちらから

  • 2012年GWセミナー特別教本 『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』 (2012年07月23日)

    《改訂版》2012年GWセミナー特別教本
    『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』

    ■目次              購入はこちらから

  • 2011~2012年 年末年始セミナー特別教本 『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』 (2012年04月06日)

    《改訂版》2011~2012年 年末年始セミナー特別教本
    『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』

    ■目次  ★第1章と第2章をご紹介           購入はこちらから

  • 2011年夏期セミナー特別教本 『輪の思想と宗教哲学』 (2011年10月20日)

    《改訂版》2011年夏期セミナー特別教本
    『輪の思想と宗教哲学』

    ■目次              購入はこちらから

  • 2010年夏期セミナー特別教本 『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』 (2011年03月10日)

    《改訂版》2010年夏期セミナー特別教本
    『三悟の一元法則、菩提心と六波羅蜜 宗教哲学・21世紀の思想』

    ■目次               購入はこちらから

  • 2010年GWセミナー特別教本『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』 (2010年12月31日)

    《改訂版》2010年GWセミナー特別教本
    『一元の法則と悟りの道 内省修行による心の浄化』

    ■目次           購入はこちらから

  • 2009年~10年 年末年始セミナー特別教本『一元の法則と瞑想法  卑屈・妬みを超えて感謝と慈悲へ』 (2010年12月31日)

    《改訂版》2009年~10年 年末年始セミナー特別教本
    『一元の法則と瞑想法  卑屈・妬みを超えて感謝と慈悲へ』

    ■目次            購入はこちらから

  • 2009年2月セミナー特別教本『大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就』 (2010年12月31日)

    《改訂版》2009年2月セミナー特別教本
    『大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就』

    ■目次                   購入はこちらから

  • 2008~09年 年末年始セミナー特別教本『仏教講義 悟りの道程2  悟りと利他の思想と瞑想法』 (2010年12月31日)

    《改訂版》2008~09年 年末年始セミナー特別教本
    『仏教講義 悟りの道程2  悟りと利他の思想と瞑想法』

    ■目次                  購入はこちらから                 

  • 2008年夏期セミナー特別教本 『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』 (2010年12月31日)

    《改訂版》2008年夏期セミナー特別教本
    『仏教思想と万物の尊重  縁起・自我・自業・感謝・慈悲』

    ■目次              購入はこちらから

その他の教本:目次公開

  • 『ヨーガ・気功教本』 (2017年09月05日)

    『ヨーガ・気功教本』 47P

    はじめての方にもよくわかる、ヨーガの裏表を熟知したひかりの輪が、最新・最善のヨーガ行法をご紹介します。

    ご購入はこちらから。

    目 次

    ■□1 ヨーガとは?........................................................................ 3

    ■□2 ヨーガの流派........................................................................ 4

    ■□3 『ヨーガ・スートラ』におけるヨーガの8部門(階梯)............... 5

    (1) 禁戒(ヤマ)
    (2) 勧戒(ニヤマ)
    (3) 坐法(アーサナ)
    (4) 調気法(プラーナーヤーマ)
    (5) 制感(プラーティヤーハラ)
    (6) 凝念(ダーラナ)
    (7) 静慮(ディアーナ)
    (8) 三昧(サマディ)

    ■□4 ハタ・ヨーガの技法............................................................... 9

    (1) アーサナ
    ・気(プラーナ:生命エネルギー)について
    ・クンダリニーについて
    ・チャクラについて
    ・心と気(エネルギー)の関係について
    (2) プラーナーヤーマ(調気法)
    (3) ムドラー

    ■□5 クンダリニー・ヨーガ............................................................ 16

    ■□6 クンダリニー・ヨーガの注意点・問題点 ................................. 17

    (1) 我欲ではなく、心を豊かにするという正しい動機を持つ
    (2) 十分な経験のある指導者のもとで行う
    (3) 精神疾患のある人は避けるべき
    (4) 焦って行わない
    (5) 自然に親しむ

    ■□7  代表講話 『クンダリニー・ヨーガと霊的修行のポイント』...  20

    ■□8  ヨーガの実践 ~ 行法紹介 ................................................  26

    <アーサナ ①前屈系> 上体を前に倒すポーズ / 頭を膝につけるアーサナ
    <アーサナ ②ねじり系> 三角ねじりのアーサナ /ワニのアーサナ
    <アーサナ ③反り系> コブラのアーサナ / 弓のアーサナ
    <アーサナ ④その他> 鋤のアーサナ / シャバ・アーサナ
    <プラーナーヤーマ> 完全呼吸法

    ■□9  気功とは? ........................................................................ 35

    ・「気」とは?
    ・気功の目的「天人合一(てんじんごういつ)」
    ・修練の方法~調身・調息・調心
    ・気功修練の段階
    ・気功とヨーガ

    ■□10 気功の実践 ~ 行法紹介 ......................................................  37

    <動功> スワイショウ①(前後のスワイショウ)
    スワイショウ②(ねじりのスワイショウ)
    <静功> 三円式站粧功(さんえんしきたんとうこう)
    <収功>

    ■□11 ひかりの輪のヨーガと気功 .............................................  40

    (1) ナチュラル・ヨーガ
    (2) 呼吸のヨーガ
    (3) エンライトメント・ヨーガ
    (4) 流体循環気功

    ■□12 ヨーガ・気功 体験談 .........................................................  44

     

  • 『クンダリニー症候群とその対処法』 (2017年09月05日)

    『クンダリニー症候群とその対処法 ~原因不明の精神不調の一因として~』

    【※この教本のご購入はこちらから】


    ●目次

    1 本書の意図 ......................................................2

    2 クンダリニー症候群とは ....................................2

    3 他の精神病との区別の問題 ................................. 2

    4 クンダリニー症候群の原因は .............................. 4

    (1)仙骨付近の打撃・負傷
    (2)臨死体験に伴うクンダリニーの活性化
    (3)薬物と向精神薬
    (4)間違った動機による激しいクンダリニー・ヨーガの修行

    5 クンダリニー症候群の症状とは .............................. 7

    (1)自律神経系のうち交感神経系の暴走からくる自律神経失調症
    (2)全身の激しい脈動、脈拍数の増加と高血圧、偏頭痛
    (3)急性または慢性の疲労、抑鬱、神経症
    (4)性欲の昂進あるいは減退
    (5)統合失調症的症状、幻視・幻聴
    (6)体が跳ねる、持ち上がる体験(空中浮揚)
    (7)脳溢血や半身不随
    (8)自殺などを招く
    (9)潜在的な人格障害や精神病を表面化する

    6 クンダリニー症候群の統御・鎮静法 ........................11

    (1)クンダリニーを非活性化する一般原則
    (2)過剰な興奮や過剰な抑鬱に対して
       ①呼吸法
       ②精神集中
       ③体の位置
       ④音
    (3)本質的な解決

心理学教本

  • 第36回心理学講義 『心の主となる』 (2017年03月27日)

    ※教本の一部をご紹介します>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

        

                 『心の主になる』

     1.はじめに

    私たちは、心によって苦しんでいます。
    どんな心が自分を苦しめ、不幸にするのか。
    どんな心が自分を楽にし、幸福にするのか。

    まず、このことを理解する必要があります。

    そして、どんな心になるかは、自分で選択できる、という理解が必要です。
    このことは、なかなか理解出来ないことかも知れません。心は自分の思うようにならない、というのが一般的に多くの人が思っていることかもしれません。

    しかし、心理学理論のなかには、自分の心の状態はコントロールできる、選択できるという理論をとなえているものがあります。

    そこで今回は、今まで行ってきた心理学講義から、その点を理論としているものを複数選んで、講義したいと思います。そうすることで、自分を楽にし、幸福になる心を選択することができるようになるための助けになればと思います。

    まず、はじめにその名称がそのまま「選択」という言葉を使っている「選択理論」からみていきましょう。


    2.選択理論の主な概念

    1)行動の仕組み

    (1)行動の4つの要素
    選択理論では、行動を4つの要素に分けて考えます。普通の捉え方と少し違いますので、単に行動と言わずに「全行動」という言い方をします。
    その4つとは、

    ①行為:通常、行動と言われる外側に現れた身体の行い、表情。
    ②思考:思い、考え。
    ③感情:気分や感情。
    ④生理反応:汗が出る、血圧が上がる、動悸がする、食欲不振、不眠、頭痛などの身体反応。

    思考や感情まで行動という言葉の枠組みに入れてしまうことに承諾しにくい人もいるかもしれませんが、仕事をしているときでも、ある動作(行為)があり、やりながら、「どうやるかを」考えながらやり、その過程において、さまざまな気分・感情が生じてくるでしょう。そして、体を動かすことや、集中していることでの生理反応はあるでしょう。これが「全行動」ということです。

    例えば、掃除・片付けをするというとき。掃除機をかけている、あるいは、雑巾で拭いているという「行為」があり、そのとき、「ここは汚れがひどいなあ」とか、「もっと力入れて拭かないときれいにならないなあ」などと「思考」したり、だんだんきれいになっていくことに「気持ち良い」という「感情」もあるでしょう。また、体を動かしていることで何らかの生理反応はあるでしょう。

    このように、1つの行動にはこの4つはつながって生じています。

    (2)コントロールできるのは、「行為」と「思考」
    この「全行動」を選択理論では、自動車に例えて説明します。4つの要素を4つのタイヤに見立てます。

    「行為」と「思考」が前輪で、「感情」と「生理反応」が後輪です。
    車を運転する場合、前輪を操作することで、進む方向が決まります。私たちの行動についても同様で、前輪である「行為」と「思考」を操作=コントロールすることで、進む方向も決まり、「感情」や「生理反応」も決まります。
    ですから、自分の行動を選択すると言った場合、どのような「行為」を行うか、どのような「思考」をするかを選択するということになります。「行為」と「思考」は選択できます。

    自己コントロールというとき、この「行為」と「思考」をコントロールすることだと理解することは、とても大切なことです。気分を直したいので、良い気分を選ぼうとしても、良い気分を選ぶことはなかなかできません。気分に影響を与える「行為」や「思考」を変える=選ぶことならできます。もちろん、長年の習慣がありますから簡単に変えられるというわけではありませんが、練習によって「行為」や「思考」を変える=選びなおすということはできるようになります。気分転換というとき、散歩したり、お茶を飲んだりするということは普通にやっているかと思いますが、それをもっと積極的に重要な場面でも行うということです。

    認知療法でも、「思考」=ものの見方・考え方を変えて「感情」を変えるということです。ここは選択理論と認知療法が同じ見解というか、事実に気づいたアプローチをしているということになります。後ほど、認知療法については取り上げます。

    (3)落ち込みも選択
    生きていくうえで、落ち込むことがあるのは普通のことです。ただ、その落ち込みを持続させているのは、その人の選択によってである、ということです。

    落ち込みを持続させるには、どのような行動をとったらいいでしょうか?
    家に閉じこもる。布団にくるまって「自分なんてダメだ」と繰り返し考える。

    一方、落ち込みが持続しそうにない行動はどんな行動があるでしょうか?
    外に出て少し早めに歩く。自分の好きな美味しい食べ物を食べる。お笑いを見るなどが考えられます。まだまだあるでしょうから、皆さんで考えてみてください。

    いかがでしょう?
    落ち込みを持続させる行動も、持続させない行動もどちらも選ぼうと思えば選ぶことができます。もちろん、持続させない行動を選ぶのは、多少の努力は必要でしょうが、できないことではありません。それを選び行うことで、気分は変わってきます。

    では、なぜ、落ち込みを持続させるのでしょうか。落ち込みを持続させるには、それなりの理由、メリットがあるからです。そのメリットとは、

    ①人にお願いしなくても助けが得られる。
    落ち込んでいることで、人から心配してもらえる。
    つまり、落ち込むことで他人をコントロールできる。

    ②逃避
    落ち込むことで、したくないこと、恐れていることをしない言い訳としている。
    「こんな状態でそれどころではない」と言ってやることから逃避している。

    ③怒りの抑制
    落ち込むことで活動を鈍らせ、怒りを抑制し、怒りから生じる破壊行動を止める。
    人は、何かうまくいかないと、怒りか落ち込むかのどちらかが生じるといいます。
    怒りは人間関係にしろ、物理的なものにしろ、破壊へと導きますから、落ち込む
    ことを選択することで、怒りの弊害を防ぐことができるというわけです。

    これらのメリットは、本当の意味で自分に楽を与える、幸福になることではなく、
    一時逃れに過ぎないことを理解する必要があります。この点は、年末年始セミナーの心理学講義で行った「アクセプタンス&コミットメント・セラピー」とも共通するものです。「この行為が本当に自分の人生を豊かにし、幸福にしていくものか?」と自問することが必要です。

    (4)怒りも選択
    怒りは普通、誰にでも生じるものです。自分がやってほしくないことを他人がした場合など、「ムカッ」「イラッ」とすることはあるでしょう。問題は、そのとき、どうするかです。怒りを強くし、長引かせるか、瞬間的なもので終わらせるかは選択の問題です。

    怒りを強くし、長引かせるにはどういう行動をとったらいいでしょうか?
    相手の行ったことを何度も思い起こし、「何であんなことしやがったんだ!」と繰り返し考える。舌打ちをし、握り拳を強く握る、など。

    一方、怒りの炎を大きくしないためには、どんな行動をとったらいいでしょう?
    大きく深呼吸する。顔を洗う。屈伸するなど、体を動かす。怒りに水を差すという感じです。

    怒りを持続させる行動、止める行動のどちらも行うことはできることはわかっていただけると思います。あとは、自分がどちらを選ぶかにかかっています。

    そして、単に怒りというマイナスの心を収めることだけでなく、プラスの心に変えていくことが次の段階です。


     

  • 2016~17年年末年始セミナー心理学講義教本『アクセプタンス&コミットメント・セラピー』 (2017年01月10日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

       

    『アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)
    ~マインドフルネスと価値ある行動~』

    第1部 理論編

    1.ACTは、行動主義心理学の「第3世代」

    前回(第35回)の心理学講義で、心理学の4つの大きな潮流(勢力)について勉強しましたが、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)は、その中の行動主義心理学に属します。他の3つは、フロイトの精神分析学、マズローの人間性心理学、トランスパーソナル心理学です。

    ACTは、行動主義心理学の「第3世代」に属します。

    「第1世代」は1950~1960年代、行動主義の名前の通り、目に見える行動を対象として研究されたもので、思考や感情は軽視していました。刺激-反応による条件付けで人の行動を捉え、人間を機械的なものと捉えていたこの「第1世代」の影響で、その後の行動主義も、人間を機械的にみるものだと思われてきました。

    「第2世代」は、認知を行動の変化を促す重要なものと捉えました。認知行動療法などがその代表です。1970年代です。

    そして、「第3世代」は、このアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)や以前に心理学講義でもとりあげたマインドフルネス認知療法です。これらは、アクセプタンス(受容)とマインドフルネスに重点をおいています。

    ACTの創始者は、アメリカのスティーブン・C・ヘイズ博士。1999年にACTの書籍がはじめて出版されました。

     

    2.ACT2つの柱

    (1)つらい思考や感情に対する効果的な対処 ~マインドフルネス~
    つらい不快な思考や感情に対して私たちは、巻き込まれて、翻弄されたり、また、抵抗したり、それを避けよう、排除しようとします。そのいずれも、思考・感情に囚われて苦しんでいる状態です。そのようにならないようにする対処法としてマインドフルネスがあります。

    マインドフルネスとは、
    ①今この瞬間の自分の外界や内界(心)の出来事にただ気づいている状態。
    思考・感情に巻き込まれないで、今の瞬間の思考や感情に気づくこと。
    ②抵抗・反発をせず心を開き、かつ執着・欲求もせず、対象に気づいている状態
    ③注意・気づきの範囲を広げたり、狭めたり柔軟性がある。

    ※マインドフルネスについては、第32回の心理学講義でも取り上げていますので、そちらも参照してください。今回のACTでの表現と少し違うところがあります。

    以下、第32回心理学講義『思考・感情・ストレスのコントロール ~心に巻き込まれないために~』から、マインドフルネスの説明のところを引用します。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    マインドフルネスとは?

    では、マインドフルネスとはどのようなものでしょうか。
    マインドフルネスとは、注意深く今の瞬間に気づいている意識状態のことです。
    もう少し詳しく説明すると

    ①心を開いて、今この瞬間に十分に気づいている意識状態です。
    今この瞬間の自分の経験していることを、偏見をもたずに注意深く客観的に観察する。そのためには価値判断を加えずに、今という瞬間の体験と向き合うことが必要です。

    ②受け入れる
    ものごとを今のこの瞬間にあるがままの形で見る。
    私たちの心は通常、ものごとをありのままに受け取るのではなく、それに好き嫌いの色づけをして、自分の気にいるものへの欲求(愛着)と気に入らないものへの排除(嫌悪)、という「とらわれ」を生じさせます。そうではなく、そのままを受け入れ認識するようにします。

    ③常に初めて体験するように、予断をさしはさまないで、その瞬間を体験する。

    マインドフルネスは、東南アジアに伝わるテーラワータ仏教のヴィパッサナー瞑想がもとになっています。ヴィパッサナー瞑想は、瞬間瞬間の自分の心身の状態やものごとを観察し気づく瞑想で、お釈迦さまが説かれた四念処という瞑想に則った瞑想法です。

    四念処とは、身(体)・受(感覚)・心・法(現象)に対する観察です。

    * 身念処:そのときどきの身体の状態に気づきをもって見守る
    * 受念処:そのときどきの感覚に気づきをもって見守る
    * 心念処:そのときどきの心の状態に気づきをもって見守る
    * 法念処:現象・ものごとを気づきをもって見守る

    という観察です。経典には細かく観察法が書かれています。

    仏教の瞑想には、サマタ(シャマタ・止)瞑想、ヴィパッサナー(観)瞑想の2つがあります。それぞれどういう瞑想かというと、

    ◆サマタ(止)瞑想:心の働きを止め、静めていく瞑想。
    ひとつの対象に気づきを持って集中する。
    ◆ヴィパッサナー(観)瞑想:サマタ瞑想で心が静めた後、現象を客観的に観つめる瞑想。気づきの対象を広げてゆく。

    マインドフルネスはこの瞑想を基にしたものです。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2)本当に意味ある、価値ある人生を送るための行動
    思考・感情に囚われ、巻き込まれ、翻弄され、その苦しみから逃れようとして、アルコール・薬物・ギャンブル・暴食・引きこもり・寝る・先延ばしなどの行動をとり、本来やるべき、建設的な人生に価値ある行動をとれない、という状態を改善します。

    ACTは、つらい思考・感情があっても、それを放っておいて、やるべきことをやり、意味ある充実した生活(人生)を送れるようにします。人が、生きる上での価値見つけ、その価値に沿った生き方ができるようにします。上記が、そのための2つの柱です。

     

     

  • 第35回心理学講義 『心理学の四大勢力』 (2016年11月26日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

         20世紀になって大きく発展してきた心理学は、四つの大きな流れがあります。

    第一の勢力:フロイトの精神分析、
    第二の勢力:ワトソンなどの行動主義心理学
    第三の勢力:アブラハム・マズローなどの人間性心理学
    第四の勢力:トランス・パーソナル心理学


    1.第一の勢力:フロイトの精神分析

      ご存知の方も多いと思いますが、フロイトは無意識の発見者といわれ、その功績は高く評価されています。 現代の心理療法のはじまりを創ったのはフロイトといってもいいでしょう。

      フロイトは、オーストリアの精神医学者でユダヤ人です。19世紀後半に自分の治療法を精神分析と名付けました。20世紀初頭に、弟子たちと勉強会を始めるようになり、その後、精神分析学会へと発展しました。ユングやアドラーなども参加していましたが、後に2人とも袂を分かち、それぞれの心理学を創始しました。

      フロイトは、神経症の原因が本人も気づかない無意識の中に隠されていることをつきとめました。無意識にある原因に気づいていくことに よって、神経症が治っていくと唱えました。

      その主な方法は、自由連想法(ある言葉を与えられ、その言葉から自由に思い浮かぶ考えを連想させていく方法で、潜在意識にある抑圧されたものに気づいていく)、夢分析によって、無意識の領域にア プローチすることです。フロイトは、人間の病んだ心の部分に焦点をあてていて、無意識というものをガラクタの集まりととらえていました。


    1)フロイトの主要な理論・概念

    (1)無意識の発見
      フロイトはよく無意識の発見者と言われるように、私たちの行動は無意識領域によって強く影響を受けていると言います。そして、氷山がちょうど海面下にほとんど沈んでいて、海面に出ているのはホンのわずかであるのと同じように、意識領域は氷山の一角であり、ほとんどは意識下の無意識領域であるといいます。

    (2)錯誤行為
      日常において、「言い間違い」や勘違いなどの錯誤行為を犯すものです。それは、疲労であったり、他のことに意識が向いていたりすることがその原因ですが、細心の注意を払っているときにも起こる錯誤行為は、無意識の願望の現れだといいます。例えば、「~する」というところを「~しない」と言い間違えるなどは、無意識レベルでは「したくない」という願望があり、それを表面意識も気づかないうちに表現していたということだということです。

      ひとつ例をあげます。
      ある議会の議長は議会を開くにあたって、「諸君、私は議員諸氏のご出席を確認いたしましたので、ここに閉会を宣言します」と言ってしまいました。 議長が開会宣言の代わりに閉会宣言をしてしまったのも、議長は自分の属する党が議会での形勢が思わしくないので、閉会してしまいたいと思っていたのです。

    (3)エス(イド)・自我・超自我
      フロイトは人の心を3つの要素に分けて考えました。

    ①エス(イド) ~快感原則~
      エスは人間の意識の最も深いところにあると考えました。エスとは、欲望本能のことで、心地よいことだけを求め、嫌なことを避けるという欲望です。「快感原則」というものです。乳幼児の時期はまさにこのエスによる快感原則だけで生きていると言ってもいいでしょう。

    ②自我 ~現実原則~
      人は成長するにつれ、エスによる自分の欲望だけで生きていくことが、困難を生み出すことがわかってくると、周囲との関係をも考慮し、他と折り合いをつけて自分の欲望を抑えたり、延期したりと現実に合わせるようになってきます。それが自我の働きであり、現実原則を確立していくことが自我の発達であると捉えました。(現実原則とは現実に沿った行動なり態度)
    自我はエスを抑え込むだけでなく、現実の中で許される形にエスの力を変形します。芸術やスポーツなど文化的な方向に変えるなどです。

    ③超自我
      超自我とは、良心と考えられます。親や先生などの道徳規範を教える教育やしつけによる倫理的価値基準が内在化したもので、倫理的価値基準に従って自我を監視し、自我を健全な働きに導くもの。超自我は自我の一部として最終的に形成された領域で、道徳性・倫理性の根源。また、真・善・美の理想追求に向かわせる働きもある。

    ④エス・自我・超自我の関係
      エスは欲望そのもので、その欲求を満たそうとする=快感原則です。
    超自我は、道徳性・倫理性の源で、道徳的融通のきかない、ある意味頑固親父のような、または優等生のような感じ。
      自我は、エスの奔放な欲望と超自我の頑固な倫理性の間で、現実に合わせてどのような行動をとるか調整コントロールするはたらき。

      このエスと超自我のバランスが崩れ、超自我が強くなりすぎて、エスの欲求を抑圧すると神経症になるということです。

      エスはすべての人にほぼ同様に備わっているものですが、自我や超自我は人によってそのタイプや高低のレベルは違っています。つまり、エスはもともと備わっているもので、自我や超自我は育ち・成長のなかで形成されてくるので個々に違いがあるということになります。

     

  • 第34回心理学講義『ロゴセラピー ~生きる意味の心理学~』 (2016年10月14日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

     1.ロゴセラピーとは

      ロゴセラピーの「ロゴ」とはギリシャ語の「意味」という意味であり、ロゴセラピーとは、生きる意味を見失い、絶望している人に生きる意味を見出す援助をする心理療法で、「意味による治療」と訳すことができる。

      創始者は、オーストリアの精神医学者、心理学者のヴィクトール・E・フランクル。ユダヤ人であったフランクルは、ナチスの強制収容所生活を3年送っている。その体験をもとに書かれた『夜と霧』は日本語を含め17ヶ国語に訳されている。
      フランクルは、生き延びたが、父母、妻は、強制収容所で死亡している。

      ロゴセラピーは、フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学と並び、心理療法のウィーン学派三大潮流とも言われる。また、心理学全体の四大潮流(第1の潮流:精神分析、第2の潮流:行動主義心理学、第3の潮流:人間性心理学、第4の潮流:トランス・パーソナル心理学:巻末資料1参照)でいうと、第4の潮流:トランス・パーソナル心理学に入る。(注:トランスパーソナルとは、「個を超える」という意味である)

      ロゴセラピーでは、意味の喪失が、精神的病の原因となることがあり、意味を見出すことで、改善されていくという。そして、人はどんなに苦しい状況でも、そこに意味を見出せれば、耐え、生きていける。このことは、まさにフランクルの強制収容所での体験を現している。
      しかし、ロゴセラピーは収容所体験を基にしたものではなく、すでにその前に、理論はほぼ完成されており、収容所体験が理論の正当性を検証することとなったという。


    2.意味の喪失は現代社会の病理

      アメリカの大学で自殺未遂をした学生の85%が「人生が無意味に思えた」ことを自殺の理由に挙げている。このうち93%の学生は、社会的活動も活発で、成績もよく、家族関係も良好であったという。
      自殺は、アメリカの学生の死因の第2位である。そのことを考慮すると、上記のことは、人生の意味を感じることはいかに重要なことかわかる。
    (注:1970年代後半のデータを元にフランクルが述べている。2012年のデータでは、自殺はアメリカの若者の死因の第3位である。)

      経済的・社会的安定が幸福という思い込みは打ち消される。豊かになったからといって幸福になったわけではない。生きる意味の喪失=虚無感・むなしさという問題(実存的問題)が起こってきている。

      人に、どう生きていくのがいいのかを教えてくれた伝統や伝統的価値感が崩壊していくことで、現代では、方向喪失に陥り、自分が何をしたいか、どう生きたらいいのか、生きる意味を見出せなくなっている人が多いという。

      一方、いわゆる不幸と言われる状況のなかで幸福を感じている人もいる。フランクルは、受刑者からの手紙や、末期ガンの父親を看病する人からの手紙に、そうした人を見た。


    3.ロゴセラピー3つの基本

      ロゴセラピーでは、以下の3つを基本前提とする。これらは仮説とも言えるが、フランクル自身が収容所やクライアントなどとの関わりから得た実証とも言える。

    (1)意志の自由
      人間は様々な条件の制約を受け自由ではない。しかし、人間はその制約の中で自分の意志で態度を決めることができる自由を持っている。
      極限状況で、それに屈服するか、立ち向かうか、それはその人が決断・選択できる。
      強制収容所での体験がそれを裏づけている。飢えや寒さ、疲労、不衛生など極限の状況のなかで、エゴに乗っ取られ野獣性を現す人もいれば、思いやりなどの高潔な態度、聖性を現す人もいた。

      ここで、このような反論があるかもしれない。決断の自由というが、ある決断をした場合、その決断自体が決められていたことであり、その人の自由ではないのではないか、という反論である。これに対してフランクルは、「しかし、この論法では無限後退に陥り、集結に至らない」として退けている。

    (2)意味への意志
      人間は生きる意味を探し求めている。それは、高い目標や意欲である。
    意味への意志は、多くの研究者のテストや統計学的手法による研究によって、経験科学的に立証されてきた。
      アメリカの国立精神衛生研究所の調査研究(48大学、7948人対象)では、78%の学生が「人生に意味を見出すこと」を第1の目標にしている。

      ここで、マズローの欲求の階層説(巻末資料2参照)を考えてみる。マズローの階層説に基づけば、強制収容所などで飢えている状況では、第1の欲求(低い欲求)である生理的欲求が満たされていないなら、上位の欲求である意味への意志が生じることはないことになる。
      しかし、収容所においては、過酷な状況のなかでも生きる意味を求める人たちがいる。自分を価値ある意味ある存在として感じることで、極限状況を耐えた人たちがいるのだ。

      このようなことからも、意味への意志を人間は持っていると言えるのではないか。そして、それは、マズローの言う階層的な欲求を超えたものとして「意味への欲求」があると言えるかもしれない。

    (3)人生の意味
      どんな人にも人生の意味はあり、手に入れることはできる。
    このことは、多くの研究者によって実証されている。各研究によれば、人種・性・IQ・受けた教育・環境・宗教などの違いに関係なく、どんな人でも意味を手に入れることはできるという。

      意味を見出すということは、「現実の中に埋もれている可能性を知覚する」ことだとフランクルは言う。「自分たちの直面している状況に関して、(中略)、自分のなしうるものは何かを発見する、ということである。」(フランクル著『<生きる意味>を求めて 』春秋社より)と述べ、原理的には、どのような悪い状況においても、意味を見出すことはできるという。

      また、苦しみが自分をよりよい自分に変えるなら、苦しみにも意味があると、収容所経験者は語っていると、フランクルは上記の著書で述べている。

      さらに、「自分自身を変えることは、しばしば、自分自身を乗り越えることを意味する。自分自身を越えて成長する事を意味する」(フランクル著『<生きる意味>を求めて 』春秋社より)とも述べている。そして、それは苦しい状況のときにこそ生じる。

      また、与えられた運命(多くの場合、苦しい運命)を引き受けることは、人生の意味を成就する機会であるとも捉えている。

     

     

  • 2016年夏期セミナー心理学講義『選択理論 ~リアリティセラピー~』 (2016年08月30日)

     ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

     ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

    1.選択理論とは

      選択理論は、精神科医ウイリアム・グラッサー博士によって提唱されたカウンセリング手法であるリアリティセラピー(現実療法)の基本理論です。

    (中略)

      選択理論の考えは、「他人を変えることはできない。変えることができるのは自分だけである」をモットーに、人が生きていくうえで、避けることのできない人との関係を良好なものにして、幸福に生きていく方法を説く心理学理論です。選択理論を使いカウンセリングを行っていくのが、リアリティセラピーです。

      「自分を変える」ということは、自己をコントロールするということになります。「他人を変えることができない」ということは、他人をコントロールすることはできない、ということになります。

      人はよくこのようなことを言います。
    「私が今不幸なのは、あの人が○○したからだ」
     自分には一切の責任がなく、悪いのはすべて他人のせいということです。
     しかし、選択理論では、このように言います。「自分の行動のすべては、自分で選んでいる。それは、惨めな感情や神経症などの症状であっても」。つまり、今自分が不幸なのも、人のせいではなく、自分が選んだ行動によるものであるということです。ここで「選ぶ」という言葉がでてきましたが、選択理論という名称はここからきています。自分の行動は自分で選択している、ということです。
     自分で選択可能な自分の行動や思考を適切に選択することで、人間関係その他の問題を改善する理論です。

     それでは、この後、選択理論の主要な概念について説明していきます。そのなかで、私たちが自分の行動を選択しているということが理解できていくのではないかと思います。その前に、選択理論と反対の他人をコントロールするという普段私たちがよく行っていることがマイナスであることについて説明します。


    2.外的コントロール心理学

     選択理論を理解しやすくするために、選択理論とは逆の他人を変える、他人をコントロールすることについて説明します。選択理論では、他人をコントロールして変えようとすることを「外的コントロール心理学」と言います。

     私たちは往々にして、人を自分の思うように動かしたい、支配したいと思います。そして、そのために、罰を与えたり、褒美を与えたりして相手を自分の思うようにさせます。

     例えば、子どもが勉強しないと、おやつを与えないとか、テストでいい点取ったら○○あげるなどがそうです。このような対応では、子どもは一時的に勉強するかもしれませんが、このような対応が頻繁になると、効果も薄くなり、また、親子関係がかんばしくないものにもなっていきます。

     外的コントロール心理学には、「致命的な7つの習慣(行き過ぎやすい習慣)」というものがあります。

       ※ここで「致命的な」という表現がされていますが、それはグラッサー博士の臨床経験から、この7つの習慣が頻繁に使われたことで問題を生じさせたクライアントを多く診ていることから、行き過ぎやすい習慣という意味で「致命的な」という強い・極端な表現を使っているものと理解していただいたらと思います。

    ①批判する
    ②責める
    ③文句を言う
    ④ガミガミ言う
    ⑤脅す
    ⑥罰する
    ⑦ほうびで釣る

     この習慣が習慣的に実践されることで、基本的欲求が充足されず、問題が発生します。この7つ以外でも、相手の罪悪感に訴える、無視するなどのコントロール法もあります。

     外的コントロールに害がないならばいいのですが、そうではなく外的コントロールによって他人を思うように動かそうとすることで、人間関係が損なわれることになります。なぜなら、人に支配されることを快く思う人はいません。脅しや罰によって人を思うように動かしても、そのときだけで、その人との信頼に基づいた温かい人間関係を結ぶことはできません。

     人間は人との関係に支えられて生きています。良好な人間関係が結ぶことができない人は、孤独を感じ、良好な人間関係から得られる喜びを感じることができないので、他のことでその欲求を満たそうとします。たとえそれが、一見してマイナスなことであっても手っ取り早く快感を得られるものに手を出してしまいす。お酒、麻薬、暴力、ギャンブルなどがそうです。ですから、アルコール依存症の人など、良好な人間関係が持てるように支援していくことで、お酒を飲む必要がなくなっていきます。
     日常において、お互いがお互いに、相手をコントロールしようとするわけですから、良い関係を築くことは難しくなります。
     他人をコントロールし、変えるのではなく、自分をコントロールして変えることで良い人間関係を目指す選択理論が有効であることがわかると思います。

    (中略)

     ここに書かれている対立構図ではではない関係はどのような態度、習慣から生まれてくるのでしょうか。

     選択理論が説く「身につけたい7つの習慣」(不足しがちな習慣)
    ①耳を傾ける
    ②励ます
    ③尊敬する、敬意をはらう
    ④受け入れる
    ⑤違いを交渉する。調整する。話し合う。
    ⑥信頼する
    ⑦支援する

     外的コントロールの7つの習慣ではなく、上記の7つの習慣を実践することで人間関係は良好で温かいものになっていくことはおわかりになるかと思います。

     

  • 第32回心理学講義 『思考・感情・ストレスのコントロール:マインドフルネス』 (2016年07月17日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

    日々の生活のなかで、思考・感情など心に翻弄されている人が多いと思います。今回の講義では、心のコントロールと、心に巻き込まれないためには、どうしたらいいかということを「マインドフルネス」という心の状態をテーマに行います。

    思考・感情・ストレスのコントロール、心に巻き込まれないために、マインドフルネスという心の状態はたいへん有効です。

    マインドフルネスの状態によって、

    ①思考を変えることで感情を変えることが容易になり、
    ②自分と心(思考・感情・気分)を同一視しないことで、心に巻き込まれなくなります。

    では、マインドフルネスとは、どのようなものなのでしょうか。

    1.マインドフルネス

    (1)マインドフルネスの普及

    ここ数年でマインドフルネスが急速に普及しています。

    ストレス軽減のプログラムに役立てたのが、マインドフルネスの始まりです。マサチューセッツ大学医学部名誉教授のジョン・カバットジン博士が、マインドフルネス・ストレス低減プログラムを開発しました。

    その後、うつ病やパニック障害、不安障害などの心理療法である認知療法に取り入れられ、マインドフルネス認知療法として多くの人がその効果を実感しています。今では、医療・心理療法の分野だけでなく、教育、犯罪者の更生、ビジネスの分野にも広く浸透しています。googleで社員に取り入れられていることは有名です。

    ウィスコンシン大学での研究で、健康ではあるがストレスを感じている従業員を対象として企業での勤務時間に低減法を実施しその効果を検証しました。マインドフルネス瞑想をした人たちは、そうでない人たちよりも、不安や落ち込みといった感情にうまく対処でいるようになったということです。

    (2)マインドフルネスとは?

    では、マインドフルネスとはどのようなものでしょうか。
    マインドフルネスとは、注意深く今の瞬間に気づいている意識状態のことです。
    もう少し詳しく説明すると

    ①心を開いて、今この瞬間に十分に気づいている意識状態です。
    今この瞬間の自分の経験していることを、偏見をもたずに注意深く客観的に観察する。そのためには価値判断を加えずに、今という瞬間の体験と向き合うことが必要です。

    ②受け入れる
    ものごとを今のこの瞬間にあるがままの形で見る。
    私たちの心は通常、ものごとをありのままに受け取るのではなく、それに好き嫌いの色づけをして、自分の気にいるものへの欲求(愛着)と気に入らないものへの排除(嫌悪)、という「とらわれ」を生じさせます。そうではなく、そのままを受け入れ認識するようにします。

    ③常に初めて体験するように、予断をさしはさまないで、その瞬間を体験する。

    マインドフルネスは、東南アジアに伝わるテーラワータ仏教のヴィパッサナー瞑想がもとになっています。ヴィパッサナー瞑想は、瞬間瞬間の自分の心身の状態やものごとを観察し気づく瞑想で、お釈迦さまが説かれた四念処という瞑想に則った瞑想法です。

    四念処とは、身(体)・受(感覚)・心・法(現象)に対する観察です。

    * 身念処:そのときどきの身体の状態に気づきをもって見守る
    * 受念処:そのときどきの感覚に気づきをもって見守る
    * 心念処:そのときどきの心の状態に気づきをもって見守る
    * 法念処:現象・ものごとを気づきをもって見守る
    という観察です。経典には細かく観察法が書かれています。

    仏教の瞑想には、サマタ(シャマタ・止)瞑想、ヴィパッサナー(観)瞑想の2つがあります。それぞれどういう瞑想かというと、

    ●サマタ(止)瞑想:心の働きを止め、静めていく瞑想。
    ひとつの対象に気づきを持って集中する。
    ●ヴィパッサナー(観)瞑想:サマタ瞑想で心が静まったら、現象を客観的に観つめる瞑想
    気づきの対象を広げてゆく。

    マインドフルネスはこの瞑想を基にしたものです。

     (3)マインドフルネスの効果

    ①思考・感情の脱同一化が起こる・・・自分と思考・感情を同一視しない
    客観的に見つめるという意識状態によって、思考は事実とは違うこと。また、思考は流れ去る雲のようなものであるということが実感として認識され、その結果「単に思考に過ぎない」という捉え方になります。そして、そのように過ぎ去る思考と自分を同一視することがなくなり、思考や感情を自分から離して客観的に見ることができるようになり、思考や感情に巻き込まれることがなくなります。それによって、不安や怒りといった感情を少しずつコントロールできるようになります。

    ②思考・感情の脱自動化
    思考や感情は通常、自分の意思とは関係なく、自動的に生じます。それは習慣化・パターン化されたものです。その自動的な無意識的な反応に、マインドフルな意識状態は「気づく」ようになります。気づけば、自動的にならず自分でコントロールができやすくなります。つまり、自分を苦しめる習慣化された否定的な心の働きに気づき、その心に翻弄されることがなくなります。

    ③リラクセーション効果によるストレス軽減
    思考や感情のコントロールによってもストレスは軽減しますが、マインドフルネスによってリラクセーション効果が生じ、それによってつらい気分や感情から解き放たれます。それによって、自分の偏った認知やそれにともなった行動が修正されやすくなります。

    ④その他
    ・よりよい決定を行えるようになる
    ・集中力が増す
    ・創造性が増す
    ・血圧を下げる
    ・免疫力を高める
    ・痛みに捕らわれなくなり、痛みが軽減する
    ・快眠

    などの効果があります。

    では、次にマインドフルネスの意識状態に基づいて、心をコントロールするための方法を具体的に紹介していきます。

     

     

  • 第31回心理学講義 『フロー理論』 (2016年06月21日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

      フロー理論は、1970年代にミハイ・チクセントミハイという心理学者によって提唱されました。フロー理論は、ポジティブ心理学の中心的部分を占める理論の1つです。
    ひかりの輪の心理学講義では、昨年の夏期セミナーにおいて、ポジティブ心理学のもう一つの主要な理論である「拡張-形成理論」について紹介しました。

    チクセントミハイは、ハンガリー出身のアメリカの心理学者。10代のころ、ユングの空飛ぶ円盤についての講演を聴いたのが心理学との出会いで、たいへん興味深かったということです。


    1.フローとは

    スポーツや音楽演奏、仕事や遊びなど、あらゆることで、それを行うときに、極度に集中した状態で、時間の感覚がなく、自我の感覚もなく、自分がやっていることが流れるように自然にうまく行き、世界と一体化しているように感じる体験を「フロー体験」と呼びました。スポーツでは、「ゾーン状態」という言い方が一般的なようです。
    フロー状態のときには、高揚感に包まれ、自分の能力を最大限に発揮している状態であるということです。 また、この状態は、ヨガや禅、タオイズム(道教)における状態と共通点があることも指摘されています。

    プロのバスケット選手が「ゾーン状態にいる」ときのことを語っていますので紹介します。

    「時間の経過が分からなくなって、どのクォーターなのか分からなくなる。観客の声援が聞こえなくなる。何ポイント得点しているのか分からなくなる。思考しなくなる。ただプレイしているだけの状態だ。ムカつくほどすべてが本能的だ。そんな感覚がなくなり始めるとき、そのときがひどい。俺は自分に独り言をいうーおい、お前はもっと攻撃的でなきゃだめだろう。そのときが、それが去ってしまったということがわかるときなんだ。もう本能的じゃなくなっているんだ。」
    (クリストファー・ピーターソン著『ポジティブ心理学入門』春秋社より)

    「何かをやっていて、気がついてみると、『もうこんなに時間が立っていたの!』」
    「バッターが『ボールが止まって見える』」
    などというものもフロー体験です。

    ここで、フロー状態がどのようなものであるか、特徴をまとめてみます。

    (1)行っていることに没頭している。
    (2)時間感覚がなくなる。
    (3)自我の感覚がなくなる。
    (4)自分の能力を最大限に発揮できている。
    (5)世界と一体化しているような感覚。


    2.フロー体験の発見

    次に、チクセントミハイが「フロー」と名付けたこの状態をどのようにして発見したかについて簡単に述べます。

    チクセントミハイは、画家が絵を描いているときに、うまくいっているときは、空腹や疲れや不快感は忘れ去ったように絵を描くことに没頭していて、描き終わると完成した絵に執着せず、また、報酬のために描いていたのではなく、ただ、描くことに意味を見いだしていることに驚きました。
    その後、彼の学生たちとともに、スポーツ、音楽、絵画、登山、チェスなどをその活動そのもののために行っている人たちについて調査しはじめました。その結果から、フロー現象が発見されました。スポーツ、音楽、絵画、登山、チェスなど形式が違うものを行っているときの状況の体験報告の内容がよく似ていたため、それがどういうことなのか追求しました。

    それが、「フロー」と呼ばれるようになった体験でした。その状況を多くの人がよどみなく流れる水にたとえて表現するので、流れ=フローと名付けました。

    チクセントミハイが「フロー」について発表したところ、インド、中国、日本の心理学者、哲学者から彼のところに、手紙が届いたということです。それは、バガバット・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)を呼んだことがあるか、老子の『道徳経』を読んだことがあるか、あるいは、禅の奥義について読んだことがあるかというもので、それらには、フロー現象が書かれているということでした。

     

     

  • 2016年GWセミナー心理学講義教本『自己存在価値を求めて』 (2016年05月24日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

     1.自己存在価値を求める

      自己存在価値とは、「自分が存在する価値」です。人が生きていくうえでは、「自分は存在する価値がある」と感じることは不可欠です。ですから、自分には価値があるという感覚=自己価値感を欲しています。

    「自分には価値がない」と感じて、生きていくことはとてもつらいことです。自分には「価値がない」というのは、自分には「生きる価値がない」、自分は「生きるに値しない」ということです。ですから、人が生きるうえでは、「自分が価値ある存在である」と感じることは必要なことであり、それを求めて人は生きていると言っても過言ではありません。


    2.2つの自己価値感

      この自己価値感には、表面的な状況的なものと、根底の基本的なベースのものがあります。

      表面的な状況的な自己価値感とは、「いい学校にはいったら」「表彰されたら」「スタイルがよくなったら」など条件が整って感じるものです。

      一方、基本的な自己価値感は、欠点や未熟な点があっても、それでも自分に価値があると感じることができる、ありのままの自分を認めることができる状態のことです。それは、存在自体に価値を感じているからです。「・・・だから」価値がある、価値がないではなく、無条件に自分には価値があるという感覚です。

    基本的な自己価値感が乏しい人というのは、条件を満たすことで自己価値感を求めます。基本的な自己価値感が乏しいので、足りない分を穴埋めしなければ生きていけません。
    例えば、他者の評価を過剰に求めることなどがそうです。評価されることで自分の価値を感じることができます。評価されないと自分は価値がない存在だと感じてしまいます。
    このことは、自己価値感が低い人は、承認欲求が強いということです。他者に承認されることで、自分の価値を感じられるからです。ですから、自己価値が低ければ低いほど、承認欲求は脅迫的にまで強くなります。

    基本的な自己価値感がしっかりしている人は、表層的な外的な評価や賞賛を過剰に求めることで、自己価値を感じようとする必要がありません。それらがなくても、自己価値を感じて充足しているからです。しかし、基本的な自己価値感が乏しい人は、自分の価値感を感じるため、それを求めなければいられません。そして、それ求める人生を送ります。

     

  • 2015年夏期セミナー心理学講義教本『ポジティブ心理学』 (2016年05月24日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

    1.ポジティブ心理学

    ポジティブ心理学は、1998年、アメリカ心理学会会長であったペンシルベニア大学心理学部教授のマーティン・E・P・セリグマン博士によって創設されました。
    心理学の枠組みとしては最新の心理学です。

    ポジティブ心理学は、「生きる意味と目的を探求する心理学」で、何が人生を生きる価値のあるものにするか、という人生をよい方向に向かわせることについて科学的に研究する心理学、人生を生きる価値のあるものにする事柄を研究の主題として、取り組む心理学です。

    「ポジティブ心理学とは、私たち一人ひとりの人生や、私たちの属する組織や社会のあり方が、本来あるべき正しい方向に向かう状態に注目し、そのような状態を構成する諸要素について科学的に検証・実証を試みる心理学の一領域である、と定義されます。」
    (日本ポジティビティ心理学協会サイトより引用)

    「ポジティブ」という言葉から受けるイメージは、何でも楽観的に捉え、明るく元気という「空元気」、あるいは「現実逃避(軽視)」して明るく振る舞うという軽い浅薄なイメージがありますが、この心理学でいう「ポジティブ」はそういうものではありません。現実に苦難があればそれを直視して乗り越えて行こうという現実的・積極的なもので、にこにこ笑顔の元気さだけを扱うものではありません。この点、誤解されやすいネーミングだと思います。

    ポジティブ心理学の分野のなかで、中心的な理論として「拡張-形成理論」というものがあります。心理学博士のバーバラ・フレドリクソンという人の唱えた学説です。

    この他、ポジティブ心理学の理論として有名なものは「フロー体験」というものがあります。フロー体験とは、「そのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している状態で、そのことがすばらしくうまくいっている状態」をいいます。


    2.「拡張-形成理論」

    今回の心理学講義では、「拡張-形成理論」を紹介します。
    「拡張-形成理論」は、ポジティビティが心の拡張と心の能力・成長を高める(拡張-形成)ということを27万人のデータが証明した理論です。

    この理論を簡単に説明すると、
    ポジティブな感情が増えると、視野が広がり思考の範囲が広がり、さまざまな考え方や行動の可能性を開く、心身を開放し、受容性、創造性を高める、生活を改善する、人を成長させる、といものです。
    この理論は、ポジティブな心の状態=「愛」「喜び」「感謝」「安らぎ」といったポジティブな感情の研究から導き出されました。

     

  • 第30回心理学講義 『森田療法』 (2016年04月19日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

    1.日本で生まれた心理療法

       森田療法は、1919年に森田正馬によって開発された心理療法です。森田療法は、対人恐怖症、強迫神経症、不安神経症(パニック障害、全般性不安障害)などの神経症が主たる治療の対象。また最近では、慢性化するうつ病やガン患者のメンタルケアなど、幅広い分野に有効と言われています。 神経症とまではいかなくても、心配性の人、不安が強い人、完璧主義の人、神経質な人にも効果があります。

       ちょうど同じ頃、やはり神経症を対象とした精神療法がフロイトによって創始された精神分析です。
    精神分析と森田療法の違いは、森田療法では、①無意識ということは言わない、②過去を問わない、という違いがあります。

       森田療法の目指すところを簡単に言いますと、恐怖や不安、心配、緊張などがあってもそれをそのままにして(このことを「あるがまま」と言います)、やるべきことをやる、ということです。

       そのことを順次説明していきます。


    2.神経症とは

       まず、森田療法の治療対象となる神経症とはどういうものかをみていきましょう。

       神経症とは、心理的原因によって生じる心身の機能障害の総称で、器質的な問題によるものではありません。ですから、普通の人が日常体験するような心の働きの延長上にあるものです。

       例えば、外出したとき、玄関の鍵を閉め忘れたのではないか、という不安は普通にも生じることで、そのこと自体、神経症ではありません。そのことが、気になって気になって、何度も家に戻って鍵が閉まっているかどうか、確かめずにはいられないという状態が神経症です。


    3.主な神経症

    (1)恐怖症(社会不安障害)

       人前で話したり、初対面の人と会うときに生じる緊張や不安は誰にでもあることですが、このような緊張や不安が強く、学校、会社に行けず、社会的活動から引きこもってしまう状態です。引きこもらないまでも、人との接触を避けるようになり、生活に支障をきたします。「対人恐怖」「赤面恐怖」「外出恐怖」などがそうです。

       恐怖症は、大きく2つに分けられます。
       一つは、街中の雑踏、電車・バスなどの乗り物などの空間(広場)に対する恐怖症。もう一つ人から変に思われないか、批判されないかなどの対人恐怖症があります。

    (2)強迫神経症

       強迫観念による強迫行為。手を何度も洗わないと気がすまない、電気を消したか何回も確認しないといられないなどです。


    (3)不安神経症(パニック障害、全般性不安障害)

    ①パニック障害
       「このまま死んでしまうのでは」というパニック発作(不安発作)を繰り返します。突然の動悸や呼吸困難、発汗、めまいなどの身体症状とともに、強い不安や恐怖感を伴います。このパニック発作を何度か繰り返すと、また起こるのではないかという不安・恐怖(予期不安)が生じるようになります。そして、過去に発作が起きたような場所や逃げ場がないような場所(乗り物など)、それから、人に見られるのが恥ずかしいので大勢の人のいるところに出かけることを避けるようになります。

    ②全般性不安障害
       「何かの病気になるのではないか」「何か悪いことがおこるのではないか」など、様々な不安が生じ緊張し、震え、筋肉の緊張、発汗、めまい、頭のふらつきなどの身体症状を伴います。夜も眠れなくなり生活に支障をきたします。


    4.神経症は「不安」が基にある

       上記のように、神経症には様々なタイプや症状がありますが、共通しているのが「不安」です。不安と、その不安にとらわれることによって、不安が強まり、様々な症状が固定化したのが神経症です。

       神経症の症状は、普通の人が日常体験するような心の働きの延長上にあるもので、質的な違いはありませんが、その強さや継続時間が際立っています。

       例えば、何時間も手を洗うとか、何度も鍵をかけたか確認する等、日常生活に大きな支障をきたす場合、神経症であると考えられます。

     

     

     

  • 第24回心理学講義『人は皆、多重の人格をもつ』 (2016年04月12日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

     「人は皆、多重の人格をもつ」

    今回は一つの心理学理論を吟味しそこから学んでいくというのではなく、人間というのは「多重の人格を持っている」という理解と人間観を持つことで、自分と他人が全く違った別々の存在であるという認識から、自他の共通性・全く別の違った存在ではないことの理解(ひいてはその実感)、万人を平等に見る、自他に対する寛容と慈悲といったものを培う一助にしていただければと思います。

    そのために、「交流分析」、「影の理論」、「サイコシンセシス」などの心理学理論と「仏教の十界互具」の教えを参考にして話をしたいと思います。


    1.人は誰でも、多重人格

    人は様々な人格を持っています。人格というのは心の要素、性格などと考えてください。

    ・イライラして怒りっぽい自分。
    ・自分が驚いてしまうほどに優しい自分。
    ・引っ込み思案な自分。
    ・すぐに不安になってしまう自分。
    ・嫌なことがあると逃げてしまう自分。
    ・人前が苦手で赤面してしまう自分。
    ・人を助けたいと強く願う自分。
    ・批判的な自分。

    などです。まだまだたくさんあるでしょう。

    このことは、少しよく自分を省みれば、自分にもそういうところはあると思うことはできるでしょう。ところが、日常の生活のなかでは、あたかも自分にはそんな要素はない、と思って、他を批判したりします。

    これは、自分(「私はこういう人間である」)を限定して認識しているからで、その限定の幅・範囲が狭いほど、他人と自分は違うという思いも強くなります。

    これはどういうことかというと、「自分はこういう性格だ」というときの性格(要素)の数が少ないということで、他人と共有する要素が少なくなり、自分と他人の共通点を認識できない=自分と他人は違うということになるのです。

    このような人は、悪いことをしている人を見て、自分にはそういうところはないと思い、他を批判、断罪するようになります。


    2.人間はほぼ同じ心の要素を持っている

    人間というのは皆、ほぼ同じ様々な要素を持っていると思われます。
    ただ、どの要素が表面に表れているか、隠れているかの違いに過ぎないということです。どの要素がより発達しているか、未発達であるか、ということです。

    このことは、ユング心理学の元型という概念から考えると導き出されます。元型とは、人間に共通する心や行動の元パターンと言ったらいいかと思います。この元型は人間全体が共有する無意識の領域にあると言われています。ですから、私たちの心の要素やそこから生じる行動などの元は皆同じものを持っているというのです。

    ユングの元型を持ち出すまでもなく、心の中を落ち着いて理性的・合理的にのぞいて見れば、人間の中にある要素はだいたい同じだということに気づくのではないかと思います。

    そして、この「人間というのは皆、ほぼ同じ様々な要素を持っている、それは善の要素も悪の要素も」という認識(人間観)は、万人を平等に尊重し、寛容の心、慈悲の心を培うことにつながります。

    しかし、人間はなかなか悪の要素、マイナスの要素が自分にあることを認めたがりません。また、あまりにもすばらしい要素についても自分にとてもそんなものはないと思い、その要素があることを否定します。


    それでは、ここで私たちの内面には様々な人格が存在するということをいくつかの心理学理論からみていきましょう。

     

     

     

  • 第29回心理学講義 『子供の発達・人格形成における父親の役割』 (2016年04月02日)

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※心理学講義の動画販売は>>>こちらから

     

                         「子どもの発達・人格形成にはたす父親の役割」


      愛着理論でもみてきたように母親と子どもの関係は、子どもの生命維持を土台とした生物的なものである。それにひきかえ父親はどうだろうか。

      ほ乳類で子育てに関わる父親の割合は3%程度であるという。しかも、直接的に子育てに関わるのではなく、母子を外的から守るというような間接的なものである。

      それに比べ人間は家庭を持ち、父親も養育にあたる。このようなことは人間に特有なものと言ってよい。それは、人間社会が高度に組織化、役割分化した社会であることとも関係があると考えられる。

      子どもの発達・人格形成にはたす父親の役割というものを考えるにあたって、このあたりのことがポイントとなると思われる。


    1.父親の役割

      人間は単に体が成長するだけでは、大人になったとはいえない。社会のなかで社会の一員としてある一定の役割を果たし、自立して生きていけるようになって大人と言える。

      高度に組織化した人間社会では、そこで生きて行くにあたってのルールや規則・規制がある。このような社会で生きるうえで必要な社会的・文化的ルール・行動様式を身につけていくためには、子どもの身体的成長に気を遣う母親的要素だけでは足りない。そこで父親の役割が出てくる。

      このあと講義のなかで何回か言及していくことになるが、まずは、父親の役割というものを列挙してみることにする。

    ・強く頼もしい庇護者 →子どもは安心感を得ることができる。
    ・怖い父親 →禁止・抑止→子どもは欲望のコントロールを学ぶ。
    →また、社会でのルール・規範を学ぶ。社会性を身につける。
    ・厳しさ → 近寄りがたさ、距離をとる →自立、主体性
    → 現実、社会の厳しさを教える。
    ・興味や活動の刺激 →子どもの関心を外界へ向け、行動的にする。
    ・成長のモデル(自我理想) →自立、行動のモデル、生きる見本、生きる力


    2.発達段階的にみた父親の役割

    【言葉の説明】エディプス・コンプレックス:
    〔オイディプス王が父を殺して母を妻としたギリシャ神話にちなむ〕
    精神分析の用語。子供が無意識のうちに,異性の親に愛着をもち,同性の親に敵意や罰せられることへの不安を感じる傾向。フロイトにより提唱され,多くは男子と母親の場合をさす。 → エレクトラ-コンプレックス(Weblio辞書より引用)


      4歳頃、精神分析でいうエディプス期に入ると、父親は母親の関心・愛情をめぐるライバルとなる。しかし、父親は万能に見え、適わない存在。自分を抑え込む強い力をもつものとして恐怖の対象にもなる。ここで子どもは父親に対する愛着と恐怖・闘争の間で葛藤する。

      そしてその後、子どもは、父親には適わないことを認識し、母親を独占しようという幼い願望を諦めるようになる。

      次の段階で、父親を理想像として同一化しようとする。強い適わない存在に自分もそのようになろうとする。そうすることで、父親への愛着と恐怖・闘争の葛藤を乗り越えることができる。

    (以上は、4歳くらいから12,3歳までの間に漸次起き、個人差があるので、明確な年齢はしめせない)

      やがて思春期(13~18歳くらい)になると、父親にずっと同一化し続けることも越えなければならない。父親とは違う自分の人生を歩いて行くためには、次の段階に進む必要がある。父親から距離を取り、父親に反発するようになる。いわゆる反抗期である。

      この時期は母親との関係も変化する。それまで甘える対象であった母親を、何かとうるさいと感じるようになり、反発するようになる。これも自立の現れである。母性の受容する力=飲み込む力から脱却して自立しようとしているのである。

      このとき、父親の役割がある。子どもを手放せない(子離れできない)母親を支える役割である。親離れしていく寂しさを共有し、子どもの成長を喜ぶことを、ともに行うことによって、母親の子離れを促進させる。そいう形で父親は子ども成長の手助けをする。

     

     3.父親の不在(役割の欠如)の影響

      父親の不在という場合、死別や別居・離婚、長期出張などによって物理的に父親がいないということだけでなく、一緒に暮らしていても存在感がなく、父親としての役割をはたしていないというような、機能不全の状態(機能的不在)もその影響は同じであるという。もちろん、子どもがいくつくらいに不在状態になったかで、与える影響は違ってくる。

      現代は父親の存在が希薄になっている時代である。普通の家庭でも機能的な父親不在の状態は珍しいことではないのかもしれない。

      では、父親の不在がどのような影響があるかをみていく。

     

  • 第28回心理学講義『愛着理論②』 (2016年02月27日)

    第28回心理学講義 『愛着理論②』

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※動画販売は>>>こちらからご覧になれます。

     

    2.愛着形成に必要なもの

    (1)アカゲザルの実験からわかること
    前回の講義で、アカゲザルの実験をご紹介したが、それに引き続き行われた実験についてみてみる。

    前回ご紹介したのは、以下のような実験である。

    アカゲザルの実験とは、代理母として、哺乳瓶をつけた針金製の母ザルと、哺乳瓶をつけてない柔らかい布製の母ザルを作り、子ザルの行動を研究したものである。

    子ザルは、空腹を満たせる針金製の母ザルよりも空腹は満たせないが、柔らかい肌触りの母ザルと過ごす時間が圧倒的に多く、不安や恐怖を感じる場面では、柔らかい感触の母ザルにしがみつくことが確認された。このことで、心地よい身体接触(スキンシップ)が重要な意味を持つことがわかる。

    この実験の前に実験室で、子ザルたちを1匹ずつ区分けして、栄養や感染症に気をつけて育てていた。そうして育てられていた子ザルたちの様子はおかしかった。生気がなく、陰気で好奇心にも欠け、ぼんやりとして、体を揺すり続けたりした。また、大人のサルと一緒にされることに拒絶反応を起こした。

    このことから、前回紹介した実験が行われ、心地よい身体接触(スキンシップ)が愛着形成に重要な意味を持つことがわかったのであるが、その後、愛着形成に必要なものがそれだけでないこともわかった。


    (2)決定的に必要な要素「応答」

    布の柔らかい母ザルに育てられた子ザルにも異常がみられたのである。外界に対して無関心で、非社交的で他に対する不安が強かった。

    では、何が欠けていたのだろうか。それは、活発な応答性だった。
    泣けばすぐにそれに応え、話しかけたり、見つめ直したりなど、赤ちゃんの反応に対して丁寧に応答してやることである。布の母ザルでは、柔らかな心地よい感触はあっても応答はしてくれない。

    そこで、布の母ザルを天井からぶら下げて揺れて動くようにした。子ザルが抱きつけば動くようにしたのである。それだけのことで、非社交的な無関心さや自傷行為などの子ザルの異常な行動はなくなり、活発さ、好奇心が出てきた。

    さらに、子ザルを雌犬と一緒に飼ったところ、子ザルたちの生育は、吊されて動く布の母ザルと育つよりも良かった。特に社会性の発達はたいへんよかったということがわかった。犬は本当の母ザルほど世話ができなくても、吊されて動く母ザルに比べこれだけ発達に効果があるのである。犬も子ザルが泣けば舐めたりして、動く布の母ザルよりも応答性は高くなることがその効果なのだろう。また、スキンシップのときに生きものの体温・温もりを感じることができるという点も重要なのだろうと思われる。

    人間でも活発な応答が必要なことは、実証されている。前回の講義で紹介した、気むずかしいという素質を持つ赤ちゃんによる実験などがそうある。

    そして、このしっかりとした応答が、自分を見守っていてくれるという安心感を生み(=基本的信頼感および基本的安心感の形成)、愛着の対象を「安全基地」としてその後の成長が促される。


    3.愛着に問題を抱える人の特徴

    (1)自己否定的 卑屈、
    親から愛されない(しっかりした応答や世話を受けなかった)
    → 自分には価値がないと感じてしまう。

    (2)「よい子」を演じる
    親から愛されない → どうしたら愛されるか → 親の気に入る「よい子」になる
    認められるために頑張りすぎる。自分の本来の感情を抑えて気に入られようとする。

    (3)完璧を求める(「全か無か」、こだわりが強い)
    完璧であることで親に認められるので。
    完璧でないと自分の価値を感じられない。

    (4)安心感がない
    しっかりと応答をしてもらえなかったことで、見守ってもらっているという安心感が得られず「基本的安心  感」が形成されなかったことによる。

    (5)傷つきやすく、ものごとを否定的に受け取る
    愛されないことで自己否定的になり、こんな私に対して人が好意を持って接してくれるわけがないとい   う思いが、人の自分に対する反応を否定的なものと捉え、傷つく。

     

  • 2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」 (2016年02月09日)

    2014年夏期セミナー心理学講義 「自己愛について」

    ※教本の一部をご紹介します。  >>>教本の購入はこちらから

    ※動画は>>>こちらからご覧になれます。


    「自己愛について」

    現代人の精神構造を解明するうえで重要なものて自己愛というものがある。
    自己愛という概念は、精神分析の創始者であるフロイトが本格的に研究し唱えた。その後、フロイト派の人々が研究発展させてきた。

    自己愛=ナルシシズムというのは、水に映る自分の姿に恋をしたギリシャ神話のナルシスにならって命名されたもの。

    ナルシスの神話でわかるように、自己愛とは自分に対するとらわれ、自分の関心が自分に向いている状態をいう。
    精神分析学的にいうと、リビドー(さまざまな欲求のもととなるエネルギー)が自分に向かっている状態である。

    自分に向かう関心、エネルギーが強くなると周囲(他)へ向かう関心、エネルギーは弱まる=自己中心的になる。

    自己愛は誰にでもあるもので、外出前に鏡を見て髪型を整えたり、女性なら化粧するというのも自己愛である。
    自己愛の強さは、自分の自己像(自己イメージ)が自分の思い通りであるかどうかにとらわれる強さであり、鏡を見て髪型、化粧に強くこだわるのは自己愛が比較的強いといえる。

    適度な自己愛であれば問題は少ないが、あまりにも自分に意識関心が向かい、自己愛が強過ぎるとさまざまな問題が生じることになる。


    (1)自己愛は発達過程において必要

    乳幼児期に自己愛を満たすことができれば、それは適正な自尊心(自己愛)となり、歪んだ肥大した自己愛にはならない。

    自己愛は発達の過程において生じる自然なものである。
    通常の親子関係においては、一人では生きて生きようのない子どもに対して、親がさまざまな面において愛情をもって奉仕する中で、自然と生じてくる意識状態であり、幼い子どもにとっては、健全な一つの発達段階である。
    そして、それが適切な時期に適度に満たされつつ、子どもの自立の過程において、適切な時期に適度に満たされなくなっていき、子ども側から見れば、ほどよく断念させられることによって、より、「現実的な」自尊心や自信に姿を変えていく。

    しかし、このプロセスがうまくいかない場合がある。

    すなわち、肥大した幼い自己愛が、大人になってまで残ってしまう場合である。現実の「等身大の自分」を自覚できず、自己を「誇大視」し続けて、自分は何でもできる(できる存在でありたい)といった「万能感」を持ち続ける。これは、社会生活を行う上では、当然のごとく、他人との調和ができず、問題を生じさせやすくなる。甚だしい場合、病的な自己愛として人格障害とされる。


    (2)自己愛人格の特徴


    自己愛が強い人の特徴を挙げてみると、

    1.自己誇大視:自分の能力は人より優れているという思い。

    2.自己特別視:自分は他と違い特別な存在だという思い。

    3.理想的な自分をいつも実現しようとする。
    限りない成功、権力を得ること、才能を発揮すること、より美しくなることなど理想の実現を追い求める。自己愛が肥大化しているので、それを満たすために常に地位であったり、自分を認めてくれる人であったり、物によって価値を感じようと貪欲に求める。

    4.常に周囲からの賞賛、好意、特別扱いを得ようとする。さらにそれを得て当たり前と思っている。

    5.現実の自分がうまくいかないとき、そのことを認めない(否認)する、また、投影によって他の責任にする。

    ①「否認」のメカニズム
    自己愛的イメージ(誇大自己)と現実の自分との一致が自己愛を満たす、ということから考えて、誇大自己とかけ離れている自分の現実を認めることはできず、自分の問題を直視しないで、自分には非がなく問題はないと思いたいという自己愛的欲望によって、他に責任を押し付けることになる。

    自己愛というのは自分への愛着であるが、現実の自分への愛着ではなく自己イメージへの愛着であり、それは自分に都合よく思い描かれた自己イメージ=誇大自己である。

    よく、「本当の自分はもっとできる」「本気出してないだけだ」と言う人、思う人がいるが、この場合の本当の自分とは自己愛的自己イメージ=誇大自己のことである。なかなか現実の自分を受け入れられないので、自己イメージにしがみつこうとする。
    それが、他のせいにし、自分の責任を否認することになる。

    ②「投影」のメカニズム
    そして、他に責任をおしつける手っ取り早い方法として「投影」がある。
    投影は、自分にあることを認めたくない要素、「内なる悪」を外部に追い払い自分から消去することである。
    自己愛が強いほど、自分にマイナス要素があることを認めたくないので投影が起こりやすくなる。

    自己愛が強い人は、自分のマイナス面だけでなく、世界の悲惨なこと(飢餓、紛争などで苦しんでいる人がいること)なども見ようとせず、自分の自己愛を満たすことだけに意識が向いている。

    6.共感の欠如
    自己愛が強いということは、自分にばかり関心が向かっているので他人の気持ちがわからず、人に共感できない。こういう人が他人を大切にするのは、自己愛を満たすためであり、相手のためにやっているのではない。


     

  • 2014年GWセミナー心理学講義  「認知療法、マインドフルネス認知療法」 (2016年01月25日)

    2014年GWセミナー心理学講義『認知療法、マインドフルネス認知療法』

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    ※動画は>>>こちらからご覧になれます。

     

     

     1.認知療法

    認知療法とは、自分の感情はものごとの捉え方やものごとにたいする考え方によって決まるということを前提にしています。その自分のもの事の捉え方のくせや思考パターンを知り、極端な偏った捉え方の場合、それを柔軟性の高いものに変化させていくことで、感情・気分ひいては行動の改善を図り、社会への適応性を高めるための方法です。


    (1)感情は現象をどう考えるかで決まる

    認知療法は、「人の感情・気分というものは、現実の物事や状況によるのではなく、その人の物事の捉え方・見方に左右される」という事実から出発します。

    同じ状況(現象)を経験しても、その人のものの考え方・捉え方で苦・楽、幸・不幸が決まります。その現象によってつぶれてしまうか、バネにして成長していくかも、ものの考え方で決まってきます。幸・不幸は心次第ということです。

    これは仏教の「すべては心の現れ」という教えと同じです。特に、大乗仏教の深層心理学と言われる唯識思想がそうです。

    また、エピクテトスという古代ギリシャの哲学者も
    「人を悩ませるのは、事柄そのものではなくて、事柄に関する考えである」と語っています。


    (2)「心のくせ」「認知の歪み」「自動思考」

    それぞれの人には、それぞれの人特有の物事の捉え方(認知のパターン)があって、それが感情に影響を与えています。例えば、いつでもネガティブな考え方をしている人は、憂鬱な気分に悩まされることになります。憂鬱になり、感情が不安定なため社会に適応できにくい人のなかには、自分の心を苦しめるような片寄った極端なものの見方(認知の歪み、マイナスの心のくせ)をしていることが原因と考えられる場合が多くあります。

    認知とは簡単に言えば、外界をどう捉えるかということです。それが「歪んで」いるとは、例えて言えば、外界を映す心の鏡がグニャリと曲がっていて「歪んで」いるということで、現実をそのまま受けと止めず、極端な偏った捉え方をするということです。少しの失敗を大げさに捉え「自分の人生はもうおしまいだ」と考えてしまうことなどがその典型です。このように捉えれば心は落ち込みます。

    ですから、自分の「認知の歪み」のパターン、つまり「心のくせ」を知り、それを修正し、柔軟性の高いものに変化させることができれば、気分・感情のコントロールすることに役立ちます。

    しかし、「心のくせ」を自覚することはなかなか難しいことです。「心のくせ」はすっかり身についてしまっているものなので、自分で意識しないうちに自動的に出てくることが多いからです。

    「ある状況」には「こう反応」するということが、自分にとって当たり前になっています。自分で「こうだ」と考えて「ある状況」に対する捉え方・考え方を決めているわけではなく、無意識のうちに自動的に反応しています。自動的にある思考が生じてきます。「心のくせ」はこのように自動的に生じてくるものなので、認知療法では「自動思考」と言います。例えば、道で知り合いに会ったときに、相手が知らん振りして行ってしまったというときに、「何で無視するんだ、ひどい!」などという思い(思考)が自動的に出てきます。これが「自動思考」であり、そのように受け止めてしまう「心のくせ」なわけです。

    このように人のものの見方・捉え方というものは、ほぼ固定していて、「こういう出来事」には「こういう捉え方」をするというのが決まってしまっています。「固定観念」というものですね。

    したがって、落ち込んだり、沈んだ気分になったときには、その基になっている考え方を自覚していないものです。「心のくせ」は文字通り「くせ」であるので自分が気づかないうちに作用して、いつの間にか気分を暗く重苦しいものにしてしまいます。

    「心のくせ」は、人が生まれてから、子供時代、思春期・青年期を経て大人に至るまで経験し学習したことから成り立っています。
    人生の初期に学習したことほどしっかりと身に染み込んでいて、それを自覚することは相対的に難しいと思われます。成人してから学習したことはそれに比べ比較的容易に自覚できることが多く、それを修正していくことも比較的容易であることが多いと言えるでしょう。


    (3)スキーマ(=コア・ビリーフ、中核的な思い込み)

    さらに自動思考の奥にそれを生じさせる中核的な思い込み(スキーマ、コアビリーフ)というものがあります。

    スキーマ(中核的な思い込み)には以下のようなものがあります。

    ・自分はダメな人間だ。
    ・人はなんでも完全にできないといけない。
    ・何でも自分でやらないといけない。
    ・すべての人から愛されなくてはいけない。
    ・人は自分を利用するだけだ。
    ・人に弱みを見せてはいけない。
    (以上、大野裕著『こころが晴れるノート』創元社から引用)
    ・自分はみんなから嫌われている(自分のことを好きになる人なんていない)
    などです。


    (4)認知療法の対象

    うつ、パニック障害、強迫観念、被害妄想、落ち込み、不安、心配、怒り、卑屈などの強い人など。精神病理でなくても、人間関係、ストレス、自信の強化などにも有効で自己改革に役立つ方法です。


    (5)認知療法の手順

    ①思考と感情・気分の関係を知る
    どんな考え方をするとどんな感情・気分が生じるかを知る。

    ②「認知の歪み」の種類を知る

    ③自分がどんな「認知の歪み」をもっているか自覚する
    落ち込んだとき、沈んだ気分になったときにどのような思考(自動思考)が生じたかを記録する。そうすることにより、自分の認知のパターンがわかる。

    ④自覚した思考を適正な思考に修正する
    自分の認知パターンがわかり、それによってある感情・気分が生じていることを理解した次の段階として、認知パターン(思考)を合理的で適応的なものに修正する。

    ⑤スキーマ(中核的思い込み)を知り、修正する
    (スキーマに関しては取り組まない場合もある。)

    以上が認知療法の基本的手順です。

    まずは、(1)から順にすすめ、(3)を何回か繰り返し、ほどよいところで(4)の段階にいきます。(4)を繰り返すうちに少しずつ自分のものの受け取り方に変化が生じてきます。

    実際にやってみると分かりますが、自分の心(視野、考え方)が広がって行くのがわかります。
    固定したものの見方、捉え方(=観念)というのは、私たちの心を硬直させ、狭めてしまうものです。認知療法はその硬直した観念(物の捉え方)にアプローチします。 大らかで、柔らかい心になることによって、ものの捉え方も柔軟になります。

    仏教では「ものをありのままに見る」ことが悟り(心の揺るぎない安定状態)に至るうえで重要だと説きます。観念に曇った心は、ものをありのままに見ることはできません。ですから、認知療法は仏教の悟りにも通じる心理療法だと言えるでしょう。そして、悟りの手前の日常での心の安定を得るうえで、たいへん有効です。

    それでは、以上の手順を詳しくみていきます。

     

     

  • 2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』 (2016年01月12日)

    2015~16年末年始セミナー心理学講義 『愛着理論』

    ※教本の一部をご紹介します。>>>教本の購入はこちらから

    動画は>>>こちらからご覧になれます。

     

     1.愛着とは

    (1)愛着とは何か

    愛着とは、仏教では愛着は煩悩の一つで、根本的な3つの煩悩のうち貪り(貪:とん)といわれるもので、苦しみを生じさせるものとされる。

    心理学的には、「愛着」という概念は、養育者との情緒的な特別な結びつきのことを言い、乳幼児期の赤ちゃんが心身の健全な成長のために必要な安心・安全を提供するものとする。
    この講義では、心理学的概念としての「愛着」についての理論を講義する。


    (2)愛着は生物学的な現象

    愛着は、人間だけに見られるものではなく、猿などの霊長類や犬、馬などにも見られるもので、成長のために組み込まれているものと言える。鳥における刷り込みなどもそうである。

    すり‐こみ【刷(り)込み】
    生まれたばかりの動物、特に鳥類で多くみられる一種の学習。目の前を動く
    物体を親として覚え込み、以後それに追従して、一生愛着を示す現象。動
    物学者ローレンツが初めて発表した。刻印づけ。インプリンティング。
    (デジタル大辞泉より)

    観察実験で、出産直後1時間以内の赤ちゃんでも、単純な絵よりも、人間の顔の絵の方を目で追う傾向があることがわかっている。また、他の音よりも、人間の声に耳を傾けるということも実験結果でわかっている。

    人間は、赤ちゃんから子ども時代・思春期をへて大人になっていくが、赤ちゃんは自分では何一つできない。すべてを面倒見てくれる人がいなければ生きていけない存在だ。愛着はそうした面倒を見る人と赤ちゃんとの間で形成されるものである。

    愛着は、生物として成長し生存していくためには必要で、個体の生存と種の保存のためには必要であると「愛着理論」ではいう。


    (3)愛着は母子の相互関係

    赤ちゃんは自分の欲求に応えてくれる母親の存在があればこそ成長していくことができる。適切な世話は母親が赤ちゃんを可愛いと思い愛着していくことでうまくできるようになる。
    乳児が相手の顔を見つめ微笑み、声を出す「天使の微笑み」とも言われるものがあり、どんな人でも赤ちゃんのその微笑みを見ると可愛いと思い愛着を誘う。そうして母親の愛着が芽生え、愛情深い親身な世話の原動力になる。愛情深い親身な世話によって、赤ちゃんも母親に愛着するようになる。このように愛着は母子の相互関係で成立する。

    自分の欲求に対して応えてくれる対象に愛着が作られると、子どもは愛着の対象とそれ以外の存在をはっきり区別し、愛着対象だけを追い求めるようになっていく。そして、世話をされるのが愛着対象でなければ子どもは十分に満足しなくなる。

    この乳幼児期の愛着の仕方がその後の対人関係をはじめ、ストレスや困難にぶつかったときの処し方に影響するということがわかってきている。


    2.ボウルビィの愛着理論

    イギリスの児童精神分析家のボウルビィが愛着という概念によって「愛着理論」を作った。愛着理論のできる先行の研究として、ホスピタリズムの問題とアカゲザルの実験があるので紹介する。


    (1)ホスピタリズム

    ホスピタリズムは施設病とも言われ、施設で育つ子どもに心身の発達の遅れが著しく、病気に罹りやすく、治りにくく、死亡率も高いというもの。1920年ころに最初の報告がされた。
    栄養は十分与えられていても発達の遅れの問題が生じて、子どもたちは、人と接触しようとせず、表情も乏しく、自分の殻に閉じこもり、じっと座り込んでぼんやり宙を見つめていたり、意味の無い同じ行動を繰り返したり、自傷行為を行ったりという状態だった。

    どうしてこのような問題が起こるか研究した結果、施設では、集団で保育され、スキンシップがなく、親身になって子どもの世話をするのではないという養育環境がその原因であるということがわかった。そうしたことから、スキンシップの重要性が理解され徐々に改善されていたが、解決されたわけではない。また、里親を積極的に募ることで改善を図ろうとした。


    (2)アカゲザルの実験

    アカゲザルの実験とは、代理母として、哺乳瓶をつけた針金製の母ザルと、哺乳瓶をつけてない柔らかい布製の母ザルを作り、子ザルの行動を研究したものである。

    子ザルは、空腹を満たせる針金製の母ザルよりも空腹は満たせないが、柔らかい肌触りの母ザルと過ごす時間が圧倒的に多く、不安や恐怖を感じる場面では、柔らかい感触の母ザルにしがみつくことが確認された。このことで、心地よい身体接触(スキンシップ)が重要な意味を持つことがわかる。空腹を満たせることだけでは愛着行動は引き起こせないということになる。


    (3)母親との特別な結びつき「愛着」

    ボウルビィはこれらの研究をさらに一歩進め、「愛着」という概念で説明した。

    ボウルビィは、戦災孤児など親がいない施設で養育されていた子どもたちの調査を第二次世界大戦後にWHO(世界保健機関)に依頼されて行った。
    ボウルビィは、そうした子どもたちの問題を母性愛の剥奪という観点から説明した。母親と離されることでその愛情を受けることができず、それによって、母親との特別な結びつきが作られないことが、孤児たちの問題の原因であるとした。この母親との特別な結びつきの性質を「愛着」と呼んだ。


    (4)愛着は特定の人との関係

    愛着は、一人の人との緊密な関係によって作られることがわかっている。それは通常母親であるが、何らかの理由で母親に育てられなくても、愛情深く、親身に育ててくれる人がいればその人と愛着関係は成立する。そして、その特定の対象者だけに愛着行動をとり、それ以外の対象に対しては愛着行動は抑えられる。人見知りするのは母子の愛着関係が成立していることを表している。

    ※愛着行動:愛着を抱いた対象への接近や接触、後追い行動、微笑、発声など

    ホスピタリズムの問題が報告され、その改善が行われてきていたが、愛着理論では「愛着」という概念で問題の原因を一歩深く説明することができた。施設では、複数の人が入れ替わりで接することになり、特定の人と十分な愛着関係を結ぶことがなかなかできない。複数の人にスキンシップもある養育をされても、養育者が入れ替わる環境では特定の人との安定した関係・心の絆(=愛着)を築くことは難しい。
    このように健全な安定した愛着を形成できないと、歪んだ不安定な愛着が形成され、日常生活に大きく障害となるものを愛着障害という。


    (5)イスラエルのキブツの例(※キブツ:イスラエルの集団農業共同体)

    一人の人との関わりでなければ愛着関係は成立しないということの例として、イスラエルのキブツと呼ばれる集団での養育の仕方がある。

    キブツでは、合理性、効率性と子どもの自立のためにもいいという予測のもとで、子どもの世話は集団で行い、夜も母親と過ごすことなく子育てをした結果、不安定な愛着行動をとるようになったということが研究によってわかった。その後、キブツでの養育方法は変更された。
    集団での養育が愛着形成に障害を生じさせることと、愛着関係が子どもの健全な成長に必要だということが、この例からもわかる。

     

     

  • 第2~4回心理学講義 『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第2~4回 (2015年12月21日)

    第2~4回心理学講義
    『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第2~4回

    ※教本の一部をご紹介します。>>>購入はこちらから(第2~4回で1冊)


    1.意識の構造図の説明
    ◎ユングの意識図の説明・・・図① 参照

    ここで、意識のスペクトル図の各段階の詳しい説明の前に、私たちの意識の構造について説明しておきます。今後のスペクトル図の各レベルに基づいた講座の内容をより理解するためには必要かと思います。

    これから説明する意識の構造はユング心理学を基にしています。
    図を見てください。波線より上の部分が表層意識です。表層意識は意識全体(表層意識・無意識を含めた)の5~10%程度と言われています。よく氷山の一角と表現されます。
    この表層意識は論理的、合理的、分析的、功利的、言語的という性質があります。

     

    波線の下は無意識です。この波線は表層意識と無意識を分ける壁・柵です。
    無意識の領域も二つに分けられます。上の方を「個人的無意識(潜在意識」)といい、下の方はさらに深い意識で、人類に共通している無意識で「集合的無意識」といいます。

    ◎個人的無意識(潜在意識)
    個人的無意識は、この人生において経験されたデータ・過去からのデータが蓄積されています。故意にあるいは、意図せずに単に忘れ去ったか、抑圧したデータが蓄積されている貯蔵庫のようなものです。今まで人生で経験してきたすべてのことが、蓄えられています。たった一回経験したことでもなくならず、残っています。

    タンスの引き出しみたいなもので、普段はしまい込んでいて、引き出しを開けて「ああ、こんな服があったんだ。小さいとき着てたんだ」と。これは潜在意識にあったデータが表層意識にのぼってきた状態で、昔のことを思い出したということです。
    タンスの奥の方にしまい込んであるものは、なかなか思い出しません。しかし、退行催眠などを行うと小さい頃のことを思い出します。普段なかなか思い出せないことでも思い出します。子供のころのことだけでなく、前世かもしれないという記憶がよみがえることもあります。前世療法というものですね。(前世があるということも、ないということも、ともに証明することはできません。)

    潜在意識というのは、大変賢いです。例えば、ある部屋に通されて1分位待たされたとします。「こちらにどうぞ」と言われて、その後別な部屋に通されました。そこで「さっきの部屋に何がありましたか?」と聞かれたと。そのつもりではじめの部屋にいたのではないので表層意識ではあまりよく覚えていません。しかし、潜在意識にはしっかり情報は入っています。潜在意識は部屋に何があったか覚えています。

    そして、一度経験したことより何度も何度も繰り返し経験したことの方がしっかりと潜在意識に刻みこまれています。潜在意識に強く刻み込まれているものほど、私たちの行動に強い影響を与えます。

    そのことを詳しくお話しするために、潜在意識にデータがどのように刻み込まれるかというお話をします。この表層意識と潜在意識を分けている波線は表層と潜在意識を分ける壁・柵です。これは、7才~12才までの間に形成されます。ちょうど、小学生の年代ですね。中学生になるとほぼできあがり、大人と同じになります。
    余談ですが、中学生になると電車とか乗り物の運賃が大人料金になりますが、意識の形成過程からみても大人と同じになるということで理にかなっていて面白いですね。

    柵ができる前の子供時代というのは、表層意識と潜在意識の区別がほとんどありません。子供は潜在意識丸出しで生きていると言ってもいいと思います。潜在意識は活き活きとしたエネルギーの創造性の源です。ですから、子供は元気なんですね。
    また、「ある」か「ない」かの世界です。中間がないんです。ですから、こうしたいと思ったら、やらなければ気がすまない。我がままなんですね。子供は我がままでしょ?

     

  • 第1回心理学講義 第1回心理学講義 『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第1回 (2015年12月21日)

    第1回心理学講義
    『自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~』第1回

    ※教本の一部をご紹介します。>>>購入はこちらから


    それでは、「自他の区別を超えて ~自己成長のセラピー講座~」をはじめます。

    まず、講座の名前の説明からしたいと思います。チベットでは、仏教経典の講釈を行うときに経典の名前の説明からはじまります。その経典がどういうものなのか名前を説明すればわかるということです。

    それを真似するわけではありませんが、講座の名前を説明することによって、この講座がどういうものなのかつかんでいただけるのではないかと思いますので説明します。

    その前に「自己成長のセラピー」という言葉は、ケン・ウィルバー著の『無境界-自己成長のセラピー論』(吉福伸逸訳 平河出版社)からお借りしましたことをおことわりしておきます。

    「自他の区別」というのは、本来私たちの意識(何の制限もない広がった意識)とは違う「制限された意識(状態)」のことをさしています。

    「超える」というのは、その制限された意識の枠を超える・壊して、本来の意識に戻っていくということです。

    私たちは、自分で「私」という狭い枠を作ってその中で苦しんでいます。
    その枠が壊れたとき、そこには制限もない広々とした自分というものが経験されてきます。それが、本当の幸福への道なのです。

    副題の「自己成長」これは心の成長あるいは、意識の拡がりを意味します。
    「セラピー」これは「療法」です。
    近頃は、心理療法というものが人気がありますが、「サイコ・セラピー」といいます。 この講座のセラピーも心理療法と受け取っていただいたらいいと思います。

    講座というと一方的に聴くだけというのが一般的ですが、「心」の話となると頭でわかるだけでなく、「心」でわかる=気づきというのがたいへん重要になります。
    気づいて実感することですね。それこそ「セラピー」です。

    本講座では、単に知識をお伝えするだけでなく、エクササイズを行い、少しでも「気づき」を経験していただき、皆さんの成長に少しでもお役立てばと思いました。それで、「セラピー」という言葉を入れました。

     

    1.トランス・パーソナル心理学とは?

    この講座の背景となっている心理学は、トランス・パーソナル心理学という心理学です。 トランス・パーソナルとはどういう意味かといいますと、「トランス」とは「超える」、「パーソナル」は「個」という意味です。

    ですから、トランス・パーソナル心理学を単純に訳すと「超個心理学」「個を超える心理学」となります。この場合「個」というのは「個人」「自我」と考えていただいたらいいと思います。そうすると「自我を超える心理学」ということになります。

    「超える」とはどういうことか説明しますと、二つありまして、一つは水平方向です。
    これは、横へ の広がり、人と人との連帯・つながりということです。
    もう一つは垂直方向で自分の内面に深く入り込んでいって、「自我」を超えた意識状態を体験するということです。
    言葉の表現上、水平と垂直と分けて話していますが、結局は同じことであるとわかります。

    自分という 枠を壊せば、意識は全体に拡がっていくわけですから、水平にも垂直にも拡がるということになります。

     

      2.トランス・パーソナル心理学の成立過程

    トランス・パーソナル心理学の成立過程を見ていくことで、トランス・パーソナル心理学がどういうもの なのかわかってくると思いますから、簡単にその成立過程を見ていくことにしましょう。

    トランス・パーソナル心理学は、1960年代の後半にアメリカで成立しました。

    20世紀になって大きく発展してきた心理学は、四つの大きな流れがあります。
    その中でトランス・パーソナル心理学は第四の勢力と言われ、心理学の大きな潮流の中で最も新しい心理学の流れです。

    第一の勢力は、フロイトの精神分析です。

    ご存知の方も多いと思いますが、フロイトは無意識の発見者といわれ、その功績は高く評価されています。 現代の心理療法のはじまりを創ったのはフロイトといってもいいでしょう。
    フロイトは、神経症の原因が本 人も気づかない無意識の中に隠されていることをつきとめました。無意識にある原因に気づいていくことに よって、神経症が治っていくと唱えました。
    その主な方法は、夢を分析することによって、無意識の領域にア プローチすることです。フロイトは、人間の病んだ心の部分に焦点をあてていて、無意識というものをガラクタの集まりととらえていました。
    ただ、何でも性的なものに還元してしまうので、そのことに抵抗を示す人たちもいます。
    その後、多くの弟子たちが、彼の理論を発展させて現在にいたっています

    第二の勢力は、スキナー等の行動主義心理学です。

    物理学が科学として成立してきたことで、心理学も「科学」として成立させようという人たちがいました。しかしそのためには、「心」という目に見えないものを対象にしても客観的科学として成り立ちにくいので、目に見える「行動」(人間の生物機械的側面)を研究対象にしました。
    つまり、科学としての心理学は対象を客観的な行動に限定すべきだとし、人間を生物機械的にとらえ、おもに「刺激-反応」のパターンで理解しようとするものです。
    この考え方によれば、人間の行動は基本的に、すべて無意識の行動となります。
    フロイトが意識と無意識を分けたのに対して、行動主義では意識の存在すら認めないことになります。

    ですから、心に悩みをかかえている人が解決の参考になるのではと考えて、心理学の本でも読んでみようと、 行動主義の心理学の本を読んでもあまり役に立ちません。
    そして、「何だ心理学なんて役に立たないや」ということになります。(ただ、行動主義の中から出てきた認知療法はうつや不安神経症の人たちに対する療法としてかなり一般的になり効果が出ています)

    第三の勢力は、アブラハム・マズローの人間性心理学です。

    マズローは、はじめ行動主義心理学の研究者として出発しました。
    しかし、自分の子供が産まれ、子供を観 察していくうちに行動主義の人間を機械として見る見方に疑問を感じだしました。

    また、第一の勢力である精神分析は、病んでいる人の心の研究で、その点にもマズローは疑問をもち、より 健康な人たちを研究対象とした積極的な心理学を打ちたてました。それが、人間性心理学です。

    マズローは人間の欲求を階層的にとらえました。 最下層にあるのが、「生理的欲求」であり、その欲求が 満たされれば、次の欲求が起こってくるというものです。そして、その基本的な諸欲求を適度に満たすことが 出来れば、人間はますます成長し、心理的に健康になっていくと考えました。

    以下が6つの基本的欲求です。

    「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性への欲求
    「安全への欲求」・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求
    「所属と愛の欲求」・・・愛されることへの欲求
    「承認欲求」・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求
    「自己実現欲求」・・・・自分がなりたいものへの欲求

    また、マズローは「至高体験」というものに着目しました。「至高体験」というのは、大きな感動や喜びで 我を忘れるほど素晴らしい体験のことです。
    雄大な自然の美しさに時 を忘れ、我を忘れて感動する。そして大きな喜び、幸せを感じる。
    一般的に「ハイ」 と言われるものです。ランナーズ・ハイとか、宇宙と一体化するとか、宗教的体験なども含みます。

    「至高体験」のときの意識は、日常の意識状態とは違う意識状態で、変性意識状態と呼ばれるものです。

    そして、彼はその意味を考察しました。
    彼は、今までの精神分析や行動主義が病理的な面ばかり注目することに疑問を持ち、人間のこの「至高体験」 を起こした時の心の様子を探求することにも意義があるのではないかと考え、もっと人間の可能性、創造性、成 長、価値、自己実現など、人間の全体性、好ましく、高次な側面に焦点を当てた明るい心理学をめざしたのです。

    この明るい考え方は、「人間性心理学」として、60~70年代のアメリカの若者を捉えました。
    そして、「至高体験」は、「自己実現」している人たちの方がそうでない人たちより多いとマズローは言っています。

    この「至高体験」の研究からマズローは晩年「自己超越欲求」というものが「自己実現欲求」の上にあるんだ と言うようになりました。
    先ほど紹介した欲求の階層説の最後に「自己超越欲求」というものを加えたのです。

    マズロー自身アメリカ心理学会の会長まで務めた方でしたから「自己実現」していたといえるわけです。
    そういう人が「自己実現欲求」のさらに上に「自己超越欲求」があると唱えたということは、彼自身、「自己超越欲 求」というものを感じていたのではないかと推測できます。

    そして、この「自己超越」ということがトランス・パーソナル心理学の成立に結びついていきます。

     

     

ひかりの輪ポータルサイト
一般の方のために
ひかりの輪YouTubeチャンネル
ひかりの輪ネット教室
ひかりの輪ネットショップ
著作関係
外部監査委員会
アレフ問題の告発と対策
地域社会の皆様へ