仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

このコーナーについて

  • 様々な仏教思想をご紹介しています

    このコーナーでは、ひかりの輪が説く仏教思想や「輪の思想」の特別教本をご紹介するとともに、仏教・ヨーガを科学的に検証する記事を掲載していきます。

テーマ別教本のご紹介

  • 仏教・ヨーガのテーマごとの教本をご紹介します

     

      ひかりの輪では、2007年の発足以来、11年以上にわたって、古今東西の思想・哲学や科学などを幅広く探究してきました。その成果は、これまで、毎年の集中セミナーのたびに刊行してきた30冊以上の「特別教本」にまとめられてきました。

      しかし、「特別教本」は数が多く、テーマも分散しているため、何から読めばよいかよくわからないという声もありました。
      そこで、今回、ひかりの輪では、これまでの30冊以上の「特別教本」の中から、特定のテーマごとに内容を抽出して1冊1冊にまとめた「テーマ別教本」を新たに刊行することにしました。

      これで、ご興味・ご関心のある分野の「テーマ別教本」を選んで、効率的・集中的な学習をしていただくことが可能になりました。

仏教思想の基本

  • 苦しみを滅する仏陀の哲学

    以下のテキストは、2017年GW特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想』第1章として収録されているものです。

  • 四無量心の教え:基礎編

    以下のテキストは、2016~17年年末年始特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第1章として収録されているものです。

  • 仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲

    以下のテキストは、2015年夏期セミナー特別教本『仏教の心理学』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1 心の三毒とは

       仏教は、心理学の要素がある。そして、人の心の働きを論理的に分析し、すべての煩悩と苦しみの原因として、(心の)「三毒」というものを説く。これは、すべての煩悩の根本となるものであり、そのために、すべての苦しみの根本原因と考えられている。

       三毒とは、貪り・怒り・無智の三つの心の働きである。仏教用語では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と表現する。貪=貪り、瞋=怒り、痴=無智である。そして、この三つの中で、無智が根本であり、無智が原因となって、貪りと怒りが生じているとされる。

     

    2 無智とは何か

       無智とは何か。これは非常に奥が深い。これを理解することは、仏教の精髄を理解することに等しい。仏陀とは、無智を超えて、智慧(智恵)を得た者とされる。よって、無智と智慧は対極的な概念であり、この二つを理解することは、仏陀とは何か、その悟りとは何かを理解することでもある。

       無智を一言で説明することは難しい。一言で説明してしまうと、逆にそのエッセンスが理解できない面がある。よって、本書では、無智を説明するために、様々な表現を使う。しかし、その表現はすべて同じことを意味している。


    3 伝統仏教の無智の説明

       まず、無智とは、物事をありのままに(正確に)認識することができないことをいう。ではありのままに、正確に認識できないというのは、どういうことであろうか。

       伝統的な仏教的な表現をすると、たとえば、無智とは、仏教の根本哲学である縁起の法を理解できず、それに基づいて事物を理解できないことと表現できる。なお、縁起の法とは、あらゆる事物が、他に依存し、相互に依存し合って存在しているというものである。

       また、無智とは、同じく仏教の根本哲学である空の思想を理解できず、あらゆる事物が空であることを理解できないこととも表現される。空とは、固定した実体がないことという意味であり、仏教(特に大乗仏教)では、あらゆる事物は固定した実体がないと説かれる。

       この縁起と空の二つの思想は、本質的に一体であり、同じことを言っている。なぜならば、縁起の法が説くように、あらゆる事物が他に依存し、相互に依存し合って存在しているならば、あらゆる事物は、他が変われば自分も変わり、自分が変われば他も変わるという関係にあり、その結果、空の思想が説くように、あらゆる事物は、固定した実体がないという結論となるからである。

       逆に、仏陀の智慧とは、あらゆる事物が縁起(相互に依存)しており、空である(固定した実体がない)ことを理解する強靱な認識力であると表現されることがある。


    4 簡明な無智の説明 (1) 自と他の区別

       このように無智を説明したとしても、皆さんの日常生活に役立つ智恵にはならないだろう。そこで、上記の意味をより噛み砕いた形で、無智の意味を説明した表現を紹介したいと思う。

       そうした無智の説明としては、「自と他の区別をする無智」というものがある。これは、人が、自己と他者・外界、例えば、自分と他人が、本質的には繋がっているにもかかわらず、それを別のものだと錯覚することを意味している。本当は一体なのに、別のものだと錯覚することを無智と言っているのである。

       その当然の結果として、この無智の状態にある人は、他人よりも自分に執着する状態に陥る。これが自我執着などと呼ばれている。具体的には、自分自身に加え、自分の物に執着するのである。

       なお、この応用編として、本当の自分は、自と他が繋がっていると認識しているのだが、その本当の自分を見失ってしまっていることを「根本的な無智」という場合がある。これは、まず、本当の自分を見失う根本無智があって、そのため、次に、自と他を区別する無智が生じるという理論である。

       さて、この自と他を区別する無智は、自と他の幸福を区別する心に結びつく。わかりやすく言えば、自分と他人の幸福は一体ではなく、別のものであるという意識である。自分の事だけを考える、エゴの心の働きである。


    5 簡明な無智の説明 (2) 目先の楽へのとらわれ

       また、別の無智の説明としては、「目先の楽を求める心の働き」という表現もある。これは、実際には、目先の楽の後には苦しみがあるにもかかわらず、その楽の部分しか見えず、裏の苦しみの部分がわからない心の状態である。

       これは、仏教が説く、苦楽表裏という思想と繋がる。すなわち、楽の裏には苦しみがあり、苦しみの裏には楽がある、という思想である。この視点からは、無智とは、苦しみを伴わない楽があるという錯覚(および、楽を伴わない苦しみがあるという錯覚)のことを言うのである。わかりやすく言えば、(人生は)楽があるから苦があって、苦があるから楽があるということである。

       以上の二つの簡明な無智の説明は、両方とも縁起の法と合致する。自と他を区別する無智は、自と他が相互依存の関係であることを理解しない状態である。楽があるから苦があり、苦があるから楽があることを理解しない無智は、楽と苦が相互依存の関係であることを理解しない状態である。


    6 簡明な無智の説明 (3) 今の自分さえよければいい

       さて、さらに噛み砕いた無智の説明をしたいと思う。それは、「今の自分さえよければいい」という心の働きである。

       前項で述べたとおり、自と他を区別する無智は、他よりも自分に執着する自我執着をもたらし、自分と他人の幸福を区別することにつながる。これをわかりやすく言えば、「自分さえよければいい」という意識である。

       次に、目先の楽にとらわれる無智とは、わかりやすく言えば、「今さえよければいい」ということである。よって、この二つの無智の説明を組み合わせて、わかりやすく表現すれば、無智とは、「今の自分さえよければいい」という心の働きと表現できる。

       このように無智を理解することは、人の様々な心の問題・煩悩・苦しみの根本原因を理解する上で非常に役立つので、ぜひ頭に入れておいていただきたい。


    7 簡明な智慧の説明

       それでは、無智の簡明な説明に基づいて、仏陀の智慧(智恵)というものを簡明に説明するとどうなるか。それは、「今だけではなく、長期的に(全体的に)、自分だけでなく、他と共に、幸福になることが、真の(自分の)幸福である」と理解している意識ということになる。

       これを噛み砕いて表現すると、第一に、目先の楽だけではなく、後先を見渡した長期的・全体的な幸福が重要だと理解していること。第二に、本当の(自分の)幸福とは、他人と共に幸福になることで、自と他の幸福は、本当は一体であると理解していることである。

       しかし、我々は、なかなかこのように思えないし、仮に頭ではわかっていたとしても、実際には、なかなか、このようには行動できないものである。そして、それは、無智が心を覆っているからだと仏教は説くのである。


    8 智慧と慈悲の一体性

       そして、智慧が生じるならば、慈悲が生じる。なぜならば、智慧とは、自と他の存在を一体と見て、自と他の幸福を一体と見る意識状態であるから、自ずと万物への愛が生じるのである。

       さらに、目先の楽にとらわれず、長期的な幸福を考えるため、他と共に幸福になる道をコツコツと地道に歩んでいこうとする。仏陀・菩薩は、すべての人々・生きものを救うために、延々と利他の実践に励もうとすると説かれているが、それは仏陀・菩薩の智慧から生じた慈悲であり、別の言葉では、菩提心と呼ばれている。


    9 無智から生じる貪り

       では次に、無智から生じる貪りについて説明したい。これは、自分にとって好ましいと感じるものを求める心の働きである。

       一見して、これは問題がないように思えるかもしれない。しかし、なぜ問題かというと、先ほど述べたように、目先の楽の後には苦しみがあり、自分にとって好ましいと思っても、それにとらわれて求め過ぎると、苦しみを招くからである。

       よって、より正確に言えば、貪りとは、単に自分に好ましいと感じるものを求めることではなく、それにとらわれて、生きていくに必要以上に貪り求める状態ということができる。そして、実際に、人は、この貪りの状態に非常に陥りやすい。

       たとえば、財や富、名誉や地位といったものへの欲求は際限がない。いくら得ても、もっと欲しくなる。そのため、求めて得られない場合の苦しみ、得たものを失う苦しみや不安・恐怖、さらに、他人と奪い合うことによる怒り・憎しみ・妬み・不安・恐怖といったものが生じる。これらの苦しみは、得れば得るほど逆に大きくなるのである。

       よって、仏教では、苦楽表裏と言う。得れば得るほど苦しみも増える。すなわち、楽の裏には苦しみがある。すなわち、多くを得た者の重たさ・苦しみである。逆に、それほど得なければ、そうした苦しみは生じない。すなわち、得ていない者の気楽さである。

       こうして、貪りは苦しみを招くものとされる。


    10 無智から生じる怒り

       さて、無智から生じる怒りとは、ある意味で、貪りとは正反対のものである。すなわち、これは、自分にとって好ましくないと感じるものに対する心の働きである。まとめれば、好ましいと思う(錯覚する)ものに対する心の働きが貪りであり、好ましくないと錯覚する者に対する心の働きが怒りである。

       なお、この怒りは、よりわかりやすく言えば、嫌悪と言った方がよいかもしれない。好ましくないと感じるものに対する嫌悪である。ただ、伝統仏教の表現では、瞋=怒りと訳されることの方が多い。

       この怒りも、一見して問題がないように見える。好ましくないもの、苦しみだと感じるものに対して嫌悪する、怒るのは当然ではないかと思うかもしれない。

       しかし、貪りの問題と同じように、好ましくない、苦しみだと感じるものの裏側に、好ましい要素、喜びの要素があるのである。よって、怒り・嫌悪が強いということは、苦しみの裏側にある喜びには気づかないということなのである。

       ここで、「仮に、苦しみの裏側に喜びがあっても、苦しみもある以上は、それは要らないから、苦しみをもたらすものに対しては、私はやはり怒るのだ」と考えるかもしれない。しかし、実際には、それでは苦しみが消えない場合が多いのである。

       たとえば、逃げ切れない苦しみである。どんなに怒り・嫌悪しても、それから逃げられない苦しみがある。たとえば、人間関係の苦しみのほとんどは、家族や、学校・会社の友人・知人など、嫌だからといっても簡単に離れられない人との間に生じる。

       さらに、この怒りは、貪りの対象と共に生じることが多い。そのため、貪りを捨てなければ、どんなに怒っても苦しみは続くのである。先ほど述べたように、何かにとらわれ、貪り求めれば、求めても得られない場合や、得た者を失う場合や、他と奪い合う場合に、苦しみが生じる。そして、この苦しみと共に怒りが生じるが、この苦しみは、どんなに怒っても、貪りを和らげなければ解消しない。


    11 苦の裏の楽に気付いて怒りを超える

       そこで、仏教は、こうした苦しみには、悪いことばかりではなく、良い面があると説くのである。

       例えば、こうした苦しみの経験によって、人は、過剰なとらわれ・貪りを解消する方向に導かれるという。それが解消できたならば、より自由な幸福な心の状態になるのである。

       また、こうした苦しみによって、人は、貪り奪い合うのではなく、他と分かち合うことこそが、真の幸福であると悟る時が来るという。

       こうして、苦しみの裏側には、自分にとって好ましい面、喜びがあると気づくならば、苦しみと怒りが和らぐことになる。


    12 仏陀・菩薩の広い心、平等心

       一方、無智を超えて、智慧を有する仏陀・菩薩とは、特定のものに対する過剰な貪りや、特定のものに対する過剰な怒りを超えて、万物への愛(大慈悲・菩提心・博愛)を有している者である。

       この心の働きは、万物を分け隔てなく愛することができるという意味で、平等心と呼ばれることもある(仏教用語では捨の心ともいう)。言い換えれば、非常に広い心、究極的には、世界・宇宙全体に広がった、広大無辺な心である。

       この象徴として、仏教には、宝生(ほうしょう)如来という仏がいる。平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)という智慧を持っているとされる仏で、万物の平等性を悟っているとされる。また、阿弥陀如来にもそのイメージがある。南無阿弥陀仏の念仏や、世界遺産の宇治平等院で祭られていることで有名だ。その念仏を唱えるならば、悪人さえも救うといわれる。

       阿弥陀如来の化身とされる有名な観音菩薩も同様である。観音菩薩は、別名を観自在菩薩といわれる。そして、千の手を持つ観音菩薩は千手観音といわれるが、その千の手には千の目があり、すべての生き物を見守っているという。


    13 目覚めた人・仏陀

       こうした仏陀・菩薩は、まさに仏典の物語に出てくる(おそらく架空の)超人的な存在であって、私たち人間の手の届く境地ではないだろう。しかしながら、私たちも、自分だけのことばかり考える心の働きを乗り越えるならば、自分の身の回りの人から、友人・知人、さらには、その他の多くの人や生き物の苦しみを思うことは可能である。

       特に、情報通信技術が飛躍的に発達した現代では、昔の人から見るならば、私たちは、千の目を持っている存在といえるかもしれない。問題は、それを持ちながらも、毎日、自分のことしか考えていなければ、目が開いておらず、眠っているのと同様である。

       仏陀という言葉は、覚者とも訳されるが、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味だ。仏陀でない普通の人は、夢者とも表現される。自分のことばかりにとらわれていれば、体の目は持っていても、実際には世界のほんの一部しか見ることはないから、事実上、眠っているのとほとんど同じであろう。体の目に加え、心の目が開かれてこそ、真に目覚めた人になるのではないだろうか。


    14 仏陀・菩薩の息の長い努力

       前に述べたように、目先の楽に偏らず、苦と楽が表裏であることを理解する仏陀の智慧は、息の長い努力をする特性がある。

       目先の楽の裏側には苦しみがあり、苦しみの裏側には喜びがある。ということは、真の幸福は、さほど簡単に得られるものではなくて、コツコツとした地道な長期的な努力によって得られることを示している。

       そして、仏陀の智慧とは、「今の自分さえよければいい」という無智を乗り越えて、「長期的に、他と共に幸福になることが、本当の幸福である」と理解している。非常に広い心を持って、皆と共に、息の長い努力によって、幸福になろうとする心構えである。

       伝説の弥勒菩薩などは、地球のすべての人々を救済するために、何十億年も修行するといわれている(一説に56億7000万年)。あえて身近な格言で表現すれば、これでは足りないかもしれないが、「ローマは一日にして成らず」ということだろうか。

       しかし、我々には、「すぐに幸福になりたい、成功したい」、という気持ちが起こりやすい。言い換えれば、「楽して幸福になりたい、努力はなるべくしたくない、怠けたい」という心の働きである。格言で言えば、「急いては事をし損じる」である。

       巷には、すぐにでも幸福になれる、誰もが成功するなどと宣伝し、多額の料金を取るものもあるが、これらは、目先の楽に飛びつく私たちの無智の煩悩を利用している商売のようにも思える。


    15 真の力は、破壊力ではなく継続力

       そして、長期的な地道な努力こそが、真の力ではないかと思う。つまり、忍耐力・継続力である。よく「継続は力なり」といわれる。

       一方、力には、いろいろな種類があって、人によっては、怒りの力とか、攻撃力・破壊力の方を重視するかもしれない。

       怒りにもいろいろあり、すべてを否定するつもりはないが、悪い意味での怒りは、忍耐力・継続力と対極にあるものだ。怒りを乗り越える力が忍耐力であり、怒りでキレずに辛抱強く努力し続けてこそ、継続力に繋がる。

       そして、前に述べたように、悪い意味での怒りは、苦しみに対して、その裏側に喜びがあることを理解できずに生じる心の働きである。

       逆に、その裏側の喜びを理解すれば、今の苦しみに忍耐することができる。そして、地道な継続的な努力によって、苦しみの裏側の喜びを引き出していくことができる。無執着や慈悲といった悟りの境地は、そうした努力によって実現されるものだろう。

       これは、世俗の世界にも通じる真理ではないかと思う。たとえば、戦国の覇者でいえば、織田信長は、破壊力に長けていたと思う。今川を破った衝撃的な桶狭間の急襲、武田を滅ぼした革新的な三千丁の鉄砲隊。

       しかし、最後に天下を手中に収めたのは、辛抱強さ・息の長い努力に優れていた徳川家康だった。気性が激しいといわれる織田信長らは、その性格からか、家臣の謀反で絶命した。信長を引き継いで天下を統一した秀吉も、寿命が足りず、自分の子孫は続かなかった。

       一方、家康は、その名の通り、健康によく留意し、辛抱を続けた。そして、49歳で没した信長や62歳の秀吉と異なって、76歳の天寿を全うし、徳川幕府は世界史で他に類を見ない、260年の長き太平の世を実現した。その寿命の違い、忍耐力・継続力の違いが、三人の命運を分けたのではないだろうか。

       怒りの力と関係する破壊力・攻撃力は、ある意味で、瞬間の力、一瞬の力である。一方、忍耐力・継続力と関係するのは、「時」というものの力である。時と共にすべては移り変わり、大器は晩成するという。その意味でも、それは大きな力ではないかと思う。


    16 広く長い心:時空間に広がる仏陀の心

       こうして見ると、仏陀の智慧・慈悲とは、世界・宇宙全体(の生きもの)に広がった心を持って、一生の間(ないしは未来永劫ともいうべき)息の長い努力を続けようとする心の働きということができると思う。短くいえば、空間と時間全体に広がった心、時空間一杯に広がった心である。

       私たちがこの境地に到達することは到底できないだろうが、できるだけ広い心を持って、一生の間努力し続ける心構えは重要である。それは、怠惰や焦りから解放された、広くて、どっしりとした心の状態であろう。

     

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  • 仏教とヨーガの思想の根幹と実践の基本

    以下のテキストは、2018年夏期セミナー特別教本『仏教・ヨーガの根幹の思想と実践 ポスト平成の思想と神秘体験の科学』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


    1.ヨーガの本来の意味

    「ヨーガ」の原意は、体操ではなく、心のコントロールである。ヨーガの根本経典とされる『ヨーガ・スートラ』には、厳密な表現で「心の作用の静止・制御」とされており、「(日常的な)心の働きを止滅すること」などと解釈される。すなわち、(日常的な)思考や感情といった心の働きを静止させた状態であり、それは、究極的な心の安定と集中の状態である。

    ヨーガは、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、普通は自分の思いのままにならずに動き続ける心を牛馬に例えて、牛馬を御するように、心を制御するということを示唆している言葉である。


    2.ヨーガの本来の目的

    ヨーガの本来の目的について、『ヨーガ・スートラ』では、「ヨーガとは心の作用を止滅することである 」(『ヨーガ・スートラ』1-2)」、「その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」 (『ヨーガ・スートラ』1-3)」と説いている。こうして、ヨーガは、心の作用を止滅して、「真我」の本来の姿に至ろうとするものである。

    ここで「真我」とは何かというと、サンスクリット原語はアートマン(Ātman)であり、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。これは「最も内側 (Inner most)」を意味する サンスクリット語のアートマ(Atma)を語源としている。

    よって、真我は、個の中心にあって、認識をするものであるが、知るもの(主体)と知られるもの(客体)の二元性を超えている。すなわち、主体と客体、自と他の区別を超えた意識である。

    ヨーガは、心の作用を止滅して、この真我の意識状態に至ろうというものである。
    そして、この状態は、インド哲学が説く人生の究極の目的とされる輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」を果たした状態でもある。よって、心の働きを止滅して、解脱を果たすことが、ヨーガの目的であるということができる。

    また、真我(アートマン)は、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ))。ウパニシャッドと呼ばれる経典では、アートマンは不滅であり、生存中は人の体の心臓のところに宿るとされている。


    3.ヨーガの古典的修行体系:八段階の修行

    『ヨーガ・スートラ』に示された古典ヨーガは、主に観想法(瞑想)によるヨーガである。そのため、体操を含んだ後期のヨーガに比較すれば、静的なヨーガである。

    そして、その具体的な実践方法は、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、以下の通りである。

    ①ヤマ(禁戒) してはならないことを示した戒律
    ②ニヤマ(勧戒) するべきことを示した戒律
    ③アーサナ(座法・体位法) ヨーガ体操と瞑想座法
    ④プラーナーヤーマ(調息法・調気法) 呼吸法による気(プラーナ)の制御
    ⑤プラティヤーハーラ(制感) 感覚・五感の制御
    ⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)) 一点に対する精神集中
    ⑦ディアーナ(静慮) 集中の拡大
    ⑧サマディ(三昧) 超集中状態(主体と客体の合一)

    仏教では瞑想のことを「禅定」というが、禅定とは、「禅」と「定」の複合語であって、禅が、上記のディアーナ(静慮)に由来する言葉で、ディアーナが音訳されて、ゼンナとなり、禅になったものである。定は、上記のサマディ(三昧)に由来する言葉で、サマディが音訳されて三昧となり、それを意訳して定となったものである。

    そして、禅=ディアーナは、静慮と訳され、定=サマディは、三昧=超集中などと訳されるので、心が静まった深い集中状態を意味するが、仏教でも、禅定は、瞑想による心の安定・集中を意味する。そして、これは、心の働きの静止・制御を意味するヨーガの本来の意味とも非常に近い。


    4.仏教の本来の意味:仏陀とは目覚めた人

    仏教とは、文字通り、仏=仏陀・ブッダの教えである。ブッダとはサンスクリット原語で、目覚めた人、覚醒者、覚者といった意味がある。これを言い換えると、智慧を得た人という意味である。

    仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で、この教えは、目を開かせ、智慧を生じさせ、心の寂静、涅槃(悟りの境地)などを与えるとした。

    智慧とは、物事をありのままに見る認識力であり、仏教用語でいえば、縁起や空の道理を理解することである。

    縁起とは、一切の事物が他から独立しては存在せず、相互に依存しあって存在していること(万物相互依存)であり、空とは、一切の事物が他から独立した固定した実体を持たないことを意味する。縁起と空は本質的には一体の概念であり、相互に依存しあって存在しているから、一方が変われば他方も変わり、固定した実体がないということである。

    縁起や空といった難しい概念を使わずに、智慧を分かりやすく表現するならば、物事の全体を認識する力、物事を俯(ふ)瞰(かん)する力とでも表現することができる。

    それは、自分だけではなく、自分と他人のつながり・相互依存を把握する力であり、物事の今現在だけではなく、それが移り変わっていく未来まで把握する力などを含む。

    よって、智慧とは、仏陀の無我の教え(他から独立した私・私のもの・私の本質といったものはない)や、無常の教え(物事は移り変わる)を理解する力とも表現できる。

    よって、完全な智慧を得た仏陀は、世界の全時空間に合一しているなどとも説かれることがある。意識・心の視野が広大無辺に拡大した状態である。よって、この智慧は、仏陀の広大無辺な愛の心である大慈悲・四無量心と一体である。智慧と慈悲は、仏陀の二大徳性ともいわれる。


    5.智慧の対極の無智

    一方、仏陀ではない普通の人(凡夫)は、精神的に目覚めていない者(夢者)ということになる。そして、普通の人は、智慧を獲得しておらず、物事をありのままに見る力がない。これを無智(痴)という。

    よって、無智とは、智慧がない、縁起や空の道理を理解していない、万物の相互依存性・固定した実体の欠如を理解していない、物事の全体を把握する、俯瞰する力がない、無我や無常の教えを理解していない状態ということができる。

    結果として、無智によって、自分と他人のつながりと物事の無常性を理解しないがゆえに、自と他を区別して自己を偏愛し、自分と自分の物を際限なく欲求して(貪り)、それを阻むものに対して怒ることになる。これが無智から貪りと怒りが生じるプロセスであり、無智・貪り・怒りを心の三毒(貪・瞋・痴)という。

    こうして智慧と慈悲、無智・貪り・怒りがセットである。


    6.初期仏教の修行の目的:苦しみを取り除く

    仏教の修行の目的は、仏陀の最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))に説かれている四(し)諦(たい)の教えに明らかである。四諦とは以下のとおりである。

    ①苦(く)諦(たい):この世は苦である。一切は苦である。
    ②集諦(じったい):苦は煩悩によって生起する。
    ③滅諦(めったい):煩悩を滅すれば苦は滅する。
    ④道(どう)諦(たい):煩悩と苦しみを滅する道は八正道である。

    ここで、この世は苦である、ないし一切は苦である(一切皆苦・一切行苦)という教えの中の「苦」の原語であるドゥッカは、単純に苦痛という意味ではない(仮にそうだとしたら、この世には明らかに苦痛と快楽の双方がある以上、この教えは合理的ではないことになる)。

    それは、不安定な、困難な、望ましくないといった意味がある言葉である。よって、このドゥッカという言葉は、どんな喜びも時とともに変化する不安定なものであり、自分の思いのままにすることは困難であり、それにとらわれることは望ましくないといったほどの意味があると思われる。

    そして、この四諦の教えから明らかなように、仏陀の教え・修行の目的は、苦しみの原因を明らかにした上で、苦しみを取り除くことである。


    7.苦しみの原因は煩悩であり、その根源は無智である

    そして、苦しみを取り除くために、苦しみの原因を見ると、それは煩悩であると仏陀は説く。この苦と煩悩の心理的な因果関係が、仏陀が説いた最初の「縁起の法」である。

    後に縁起の法の概念が複雑化・拡大したため、この最初期の縁起の法を「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」と呼ぶことがある(一方、先ほど述べた万物が相互依存であることを意味する縁起の法は相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)と呼ばれる)。

    そして、先ほど述べた通り、仏陀によれば、煩悩の根源は無智であり、無智から始まって、貪りや怒りをはじめとする様々な煩悩が生じる。そして、無智を根本として、貪りや怒りといった様々な煩悩、様々な執着・とらわれが生じると、それによって様々な苦しみに至る。

    そのプロセスを十二の段階に分けて詳しく説いた教えが「十二縁起の法」と呼ばれるが、ここではその詳細は省略する。


    8.人間の苦しみ:四苦八苦・三苦

    そして、仏陀・仏教が説いた人間の苦しみとは、四苦八苦や三苦という教えに説き明かされている。

    四苦八苦とは、

    ①生
    ②老
    ③病
    ④死と、
    ⑤求不得苦(ぐふとくく:求めても得られない苦)
    ⑥愛別離苦(あいべつく:愛する者と別れる苦)
    ⑦怨憎会苦(おんぞうえく:憎しみの対象と会う苦しみ)
    ⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)ないし、五取蘊苦(ごしゅうんく:一切にとらわれることの苦しみ)である。

    ここで、生老病死の中の「生」の苦しみとは、出産は母子ともに危険で大きな苦しみを伴い、またどのような子供が生まれるか定かでないといった苦しみを指している。

    そして、そうして生まれても、必ず老い・病み・死ぬという苦しみがある。残りの四つに関しては、何かにとらわれて求めても得られない苦しみがあり、得て執着したものを失う苦しみがあり、求める限りは奪い合い憎み合う苦しみがあり、よって、一切のとらわれは苦しみであるといった意味がある。

    また、三苦という教えは、苦苦(くく)・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)であり、苦苦とは、心身の苦痛そのものである苦しみであり、壊苦とは、喜びであるものが壊れる時の苦しみである。行苦については、この「行」は(一切の)存在という意味であるから、一切の存在がドゥッカである(不安定で、困難で、望ましくない)という意味であり、一切の存在の無常性による苦しみを意味する。

    以上をまとめれば、仏陀は、①苦しみの原因は煩悩であり、②それを詳しくいえば、無智によって貪り・怒りといった煩悩が生じて、様々なとらわれが生じる結果として、四苦八苦や三苦といった苦しみが生じるから、③無智を解消するための智慧を培う修行をすべきであると説いたのである。


    9.智慧を得る道程:三学・八正道

    そして、智慧を得る具体的な実践法として説かれたのが八正道であるが、その要点は「三学」という教えに集約される。この三学とは、仏教の要となる三つの学習修行の実践項目であって、①戒(戒律を守る)、②定(禅定=瞑想の実践)、③慧(智慧)である。すなわち、戒律を守って、瞑想を行い、智慧(悟り)を得るということである。

    これは、仏教の最も基本的な修行の体系である。そして、三学の教えよりも、より細かく修行の実践課題を表しているものが八正道や、それを含めた七科(しちか)三十七(さんじゅうしち)道品(どうぼん)と呼ばれる修行体系であるが、それらすべてに共通する基本的な修行体系が三学である。


    10.ヨーガと仏教の修行体系・目的の違い

    ヨーガと仏教の修行の体系や目的の違いは、ここまで見てきたことからわかるように、ヨーガは禅定(=瞑想による心の安定と集中)に終わるが、仏教はそれに終わらず、禅定によって、物事をありのままに見る智慧を得ようとする点である。

    この禅定と智慧は、仏教の要となる概念であり、別の表現では、止と観(サマタとヴィパッサナー)という。心が静止すれば、物事をありのままに見る(観る)ことができるという意味である。そして、禅定と智慧、止と観は、相互依存の関係にあって循環しており、①瞑想による心の安定と集中(禅定・止)を努めて深めれば、物事をありのままに見る力(智慧・観)が深まり、②同様に、物事をありのままに見ることに努めれば(智慧・観)、禅定・止も深まる。

    一方、ヨーガには、アーサナ(座法・体位法)やプラーナーヤーマ(調気法)といった身体行法が瞑想の準備段階として説かれている点が、仏教と比較した場合の特徴となっている。ただし、仏教の中でも密教の宗派は、ヨーガとの交流・混合が進み、ヨーガの身体行法が多分に取り入れられているものがある。

    そして、日常の行動をコントロールする戒律が、瞑想の土台になっている点は、ヨーガと仏教の共通点である。


    11.ひかりの輪の修行の四つの柱

    さて、初期仏教・ヨーガの修行の重要な目的が、前にも述べた通り「心のコントロール」であるが、そのための手段に関して、ひかりの輪は、初期仏教・大乗仏教・ヨーガなどの古今東西の修行法を総覧して、以下の四つにまとめあげている。

    ①教学:教えを学ぶ→思考・想念の浄化
    ②功徳:戒律の実践→日常の行動の浄化
    ③行法:身体行法→身体の浄化
    ④聖地:自分の身を置く環境の浄化

    この教学・功徳・行法・聖地は、上に示した通り、思考・行動・身体・環境の浄化を意味する。そして、心は自分の意思では、直ちにコントロールすることはできないものだが、この四つは心と深くつながっており、この四つを浄化・コントロールすることで、間接的に心を浄化・コントロールすることができるのである。


    12.環境の浄化:自分の体の外側の要素の浄化

    (1)住環境:自分の身を置く環境

    ①自室:整理整頓・掃除・換気、心が落ち着く視覚・聴覚・嗅覚の情報。
    仏画・自然写真、クラシック・瞑想音楽・聖音、瞑想香・アロマ
    ②野外の自然に親しむ:理想は特段浄化された気の場所(パワースポット)

    (2)飲食物

    ①バランスがとれた自分の体質に合ったもの:極端な食養学は盲信しない。
    ②避けるべきもの:食べすぎと冷たい物の取りすぎ。

    (3)衣服

    ①体を締め付けず、気の流れを阻害しないもの。
    ②伝統的な瞑想補助ツール:①貴石(個人に合ったもの)②仏教法具

    (4)人間関係

    ①何事も学びは個人よりも、切磋琢磨する集団の方が進みやすい。
    ②他人の言葉・行動から学び、さらには心から以心伝心で学ぶという思想。
    ③釈迦の教え:①良き友と交わる ②サンガ:仏道修行者の集いの重視
    仏教の三宝:ブッダ(仏)・ダルマ(仏の教え)・サンガ


    13.日常の言動の浄化

    (1)心が安定する言動を選択し、不安定にする言動を避ける。

    心理学の選択理論:感情は選択できないが、行動・思考は選択できる。

    (2)仏教をはじめとする各宗教には、日常行動を規定する戒律がある。

    三学の教え(戒・定・慧)が説くように、戒律を守る生活が、心の安定と集中をもたらす瞑想の土台となる。
    心の安定をもたらす行為が善行(功徳)、その逆の行為を悪行(罪)と解釈される。

    (3)健康的な生活習慣も、日常の言動の浄化(戒律)の一部である

    ①住環境を整える(上記の通り)
    ②適度な運動をする(有酸素運動。ヨーガのアーサナ・プラーナーヤーマなど)
    ③適切な飲食(上記の通り)
    ④規則的な睡眠(夜更かしを避ける)
    ⑤入浴(下記の通り)
    ⑥良い姿勢・呼吸(下記の通り)
    ⑦気の流れを阻害しない服装(上記の通り)

    良い生活習慣は、生活習慣病や精神的な病気を回避し、健康・長寿・若さを保つことにも役立つ。


    14.身体の浄化

    (1)仏教・ヨーガ・気功などの身体行法

    ①アーサナ(体位法・座法):体をほぐし、気の流れを改善、座法を安定化。
    ②プラーナーヤーマ(調気法):気の流れを改善し、心の安定・集中力を高める。
    ③その他:クリヤヨーガ、気功法、歩行禅(歩行瞑想)

    (2)入浴:体をほぐし、血流・気の流れを改善する

    入りすぎは禁物、温泉は古来仏教僧の聖地(その後大衆化された)。
    時間がなくシャワーの場合、多少熱めで十分に浴びる。

    (3)真言(マントラ):心が安定する言葉を唱える

    これに関連して、巻末の参考資料の「身体心理学」の研究結果が示す通り、体の使い方と心の状態には、深い関係があることがわかっている。その一部は以下のとおりである。

    ①筋肉の状態:筋肉を弛緩させると、リラックスし、ストレスが減少し、免疫力が増大する。
    ②呼吸の状態:腹式呼吸で長く息を吐くと、心拍・血圧が低下、ストレスが減少する。
    ③姿勢:うつむきの姿勢はネガティブな気分、背筋を伸ばすと前向きになる。
    ④発声:アー音は開放的な気分、ウーン音はゆったりした気分、ウン音は温かい気分をもたらす。

     

    15.思考の浄化

    (1)思考と感情・心は深く連動しており、習慣化・自動化している。

    心理学の認知療法が説くように、否定的な思考とそれに連動する否定的な感情の習慣がある。
    自動思考・自動感情。

    (2)心が安定するものの見方(=仏陀の教え)を体得することが重要である(仏陀の智慧=正見を得る)。

    止と観の教え:心が静まると物事が正しく見える。正しくものを見れば心が静まる。

    (3)仏陀の教えを学ぶ際の注意

    単に知識として吸収せずに、その是非をよく吟味して、論理的に十分に納得した上で修習する。
    そして、絶えず法則を思念する(正念の教え)。

    (4)思考の浄化=智慧の獲得の3つの段階

    ①知識の学習:教えを学んでいるが確信していない。
    ②論理的な理解(推理智):教えの正しさを論理的に確信。
    ③瞑想による直観:教えを瞑想による直接体験で体得。


    16.瞑想直前の準備

    瞑想を行う場合、いきなり行うのではなく、以下の準備を心がける。

    (1)環境の浄化:瞑想する場の掃除・整理整頓・換気により、気の流れをよくする。

    加えて、心が静まるような仏画・聖音・瞑想香を用いた霊的な浄化が望ましい。

    (2)適度な運動を行う(例えば上記のアーサナなど)。

    (3)姿勢を整える。以下の三つの点に注意する。

    ①座法:安定した座り方(できればヨーガの座法)。
    背筋を真っ直ぐにして、肩などの体の力を抜く。
    ②手印:手の組み方。合掌・定(じょう)印(いん)など各種ある。
    緊張しているか眠気があるかなどによって選択。
    ③目・視線:しっかり開ける、半眼、目を閉じるなど各種ある。
    緊張しているか眠気があるかで選択する。顔は下を向きすぎないように。

    (4)呼吸法を行う。


    17.瞑想の際の注意点

    (1)真言瞑想や読経瞑想の時の注意点

    三密加持といわれ、①身(身体)、②口(言葉)、③意(意識)の3点において、仏陀に近づくようにする。身体においては、上記の通り、座法、手印、目・視線などにおいて正しい姿勢を保ち、言葉においては、真言・読経をしっかり唱え、意識においては、仏陀・仏陀の教えなどを思念する。

    (2)瞑想のタイミング

    朝起床後に瞑想すれば、1日全体の心や行動が、エゴ・煩悩から離れた、よいものとなりやすい。「初めよければ」ということ。普通の人は、寝ている間は意思が働かないから、朝起きた直後は、エゴ・煩悩が生じている。

    また、夜眠る前に瞑想すれば、その日の心や行動の汚れを、その後の睡眠や翌日に持ち越さずに済み、よい睡眠状態(=瞑想)を得ることができる。その日1日を反省する機会にも。

    (3)瞑想による智慧と煩悩の解消

    瞑想による心の安定と集中は、物事をありのままに見る力=智慧・悟りを与える。そして、この智慧が強まるほど、無智・貪り・怒りという3つの根本煩悩が和らぎ、他の煩悩も和らいで、苦しみが解消していく。

    人の苦しみの根本原因である根本的な煩悩(三毒)は、無智・貪り・怒りである。これを言い換えれば、智慧が生じると、自分の苦しみが、①貪り(欲張りすぎ)、②怒り(嫌がりすぎ)、③無智(間違った見方・今の自分さえよければという怠惰など)が原因であることに気づいて、それを解決・解消することができる。

    (4)感謝の瞑想は覚醒の扉となる

    感謝の瞑想を深めて広げていくならば、①自分の得ている恵みの膨大さ、②自分の苦しみの裏にある恩恵、③自分の慢心・罪、④恩返しとしての利他の実践の重要性、⑤万物が一体である真理などに目覚める(気付く・悟る)ことができる。この詳細に関しては、2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成の新しい生き方・感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』を参照されたい。


    18.心のコントロールの様々な恩恵

    (1)精神的な苦しみの解消、心の安定・幸福、苦しみに対する強さを得る

    究極的には、苦しみを喜びに変える生き方を体得し、仏陀の智慧・慈悲に近づく。

    (2)健康・長寿・若さ(仏教・ヨーガの修行と健康長寿の深い関係は第1章を参照)

    究極的には、強く良い気の流れによる身体的な快感を得る(仏陀の至福の身体・内的歓喜)。

    (3)知性の向上:感情に流されない合理的な判断力

    究極的には、静まった心に生じる直感力・インスピレーション(仏陀の智慧)を得る。

    (4)人間関係の改善:感情の暴走・奪い合い・憎み合いの解消

    究極的には、広く深い感謝と恩返しの心に基づく仏陀の利他心・慈悲・菩薩道の体得。

    (5)長期的な有意義な自己実現

    ①上記の心の安定・高い知性・健康・良い人間関係は、幸福の資源とされる。
    これによって、長期的な自己実現:時(=天)を味方に付けた生き方ができる。
    ②人生の前半は、学力・体力・容姿・財力などで負け組でも、心身の健康長寿を得て、
    後半は逆転して、最後は悟り(老年的超越)に至る人生が可能となる。

     

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心の安定と幸福・人間関係の智恵

  • 不安や恐怖を和らげる

    以下のテキストは、2015年 GWセミナー特別教本『心の安定のための人生哲学 不安・卑屈・孤独・怒りの解消』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1 はじめに

      物質的には豊かになった現代社会でも、私たちの人生には、さまざまな不安が付きまとっています。例えば、仕事、経済、人間関係、健康、老後・死の不安など。そして、最近は、不安神経症・強迫観念症の人も目立ってきました。

      これは、物や技術が豊かになっても、人の心の不安は、解消されないことを示しています。そこで、本章では、不安や恐怖を和らげる方法を解説したいと思います。


    2 不安と欲求は比例する

      まず、不安は、欲求と比例して大きくなります。「こうしたい」、「こうでなければならない」という欲求が多ければ多いほど、「そうならないのではないか」という不安も増大します。

    私が、仏教哲学を研究した結果としては、欲求の増大とともに、以下のような不安・苦しみが生じます。まず、欲求には際限がありません。満たしても満たしても、「もっともっと欲しい」と思うのが、人間の心です。そのため、第一に、必ず欲求が満たせないという苦しみが生じます。その前に、「満たせないのではないか」という不安が生じます。

      第二に、何かを求めて、それを得たとしても、そのために、逆に、「それを失うのではないか」という不安が生じます。そして、場合によっては、実際に失う苦しみが生じます。

      第三に、求めれば、多くの場合、同じものを求める他人と争い・奪い合いになります。そこで、「他人に負けるのではないか」、「奪われるのではないか」、という不安・苦しみが生じます。また、「憎まれるのではないか」、「妬まれるのではないか」、といった不安・苦しみも生じます。

      これらの人生の不安・苦しみに加えて、人間には、老い・病み・死ぬという根本的な苦しみ・不安があります。そして、これらの人間の抱える苦しみ・不安全体を表現したものが、「四苦八苦」という言葉の本来の意味です。これは、そもそもは仏教用語だったのです。


    3 欲求と不安を自己管理する

      もちろん、欲求と不安がすべて悪いと言っているのではありません。欲求と不安が全くなければ、何かを実現したり、改善したり、問題を察知して解決したりすることもできません。これまでの人類の発展もなかったでしょう。

      しかし、強すぎる不安は、逆効果となります。焦りや緊張が強すぎれば、逆に目的を達成することができません。また、不安に押しつぶされて萎縮し、非常に消極的な生き方に陥る場合もあります。また、人によっては、不安を持つ必要がない些細なことにも、不安を持つ場合があります。いわゆる、不安神経症とか、強迫観念症とも言われる状態です。

      よって、欲求と不安が大きくなり過ぎないようにする必要があります。つまり、自分で、欲求と不安の量をコントロールできるようになることが望ましいと思います。


    4 とらわれを減らす

      さて、これまでにお話ししたとおり、不安が強すぎる場合は、欲求・とらわれを減らすことが、その一つの解決策となります。

      しかし、これには多少のハードルがあります。不安が生じるということ自体が、欲求に執着している、とらわれている状態だからです。簡単に欲求を減らせるならば、不安が強すぎる状態にはならないからです。

      そこで、不安が強すぎる場合は、落ち着いて「今自分が望んでいるものは、そのすべてが必要なものだろうか」と考えてみるとよいと思います。例えば、

      「それは皆、今、絶対に必要だろうか。もう少し後でもよいのではないか。
      焦りすぎてはいないだろうか。」

      「それは皆、自分が健やかに生きていくために必要だろうか。
      十分に恵まれているのに、欲張っているのではないか」

      などと、自問してみます。

      そうすると、多くの場合、必要以上のものを求めていることに気づきます。そして、少しだけ、自分の欲求・とらわれを減らすように、自分に言い聞かせます。そして、これがうまくできれば、心が落ち着きます。


    5 腹八分目の精神

      とはいっても、とらわれを減らすことは、なかなか難しいものです。例えば、「求めることをやめてしまったら、幸福になれないのではないか」という思いも生じます。これは当然のことでしょう。それが、まさに「とらわれ」というものだからです。

      しかし、必要なことは、欲求・とらわれのすべてを捨てることではありません。それを「少しだけ」でいいから、節約することです。そして、客観的に見れば、とらわれによる不安が強すぎる場合は、それに押しつぶされてしまい、逆に不幸になろうとしているのです。落ち着いて考えて、これに気づき、自分に言い聞かせることが重要です。

      よく、「腹八分目に医者いらず」と言います。これは、食べたいと思う量の8割くらいまでにしておく、ないしは満腹の一歩手前でやめておくと、健康を守ることができるということですね。そして、この腹八分目の精神は、体の健康のみならず、心の健康にも役立つものだと思います。食べ物も、「こうしたい」という心の欲求も、多すぎれば、不幸を招くのです。

      言い変えれば、人間は、多くの場合、幸福になるために必要なものを100パーセントではなく、120パーセントくらい求めてしまうものだと思います。そうした時に、不安が強くなる場合があります。これをよくわきまえ、必要な時に、内省してみるとよいと思います。


    6 とらわれない方がうまくいく智恵

      そして、古来の格言・ことわざや、仏教哲学を学んでみると、とらわれ過ぎない方が物事がうまくいくとか、幸福になるという智恵があることがわかります。

      例えば、「急がば回れ」、「急いては事をし損じる」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言があります。武術や競技の世界でも、「肩の力を抜け」、「勝つと思うな、思えば負けよ」と言われます。

      これは、欲求・とらわれが強すぎると、焦り・緊張・不安が強くなりすぎ、逆にうまくできなくなることを示しています。そうした時に、少しだけ、とらわれを節約すると、逆にうまくいくのです。

      私も、人前で講話をする時に、うまく話せるかが不安になることが、時々あります。そうした時は、「うまくやろうと思わない方(思いすぎない方)がうまくいく」と自分に言い聞かせることがあります。そして、今までの経験で、本当にそうだと思っているので、そのように言い聞かせると、すぐに心が落ち着くようになりました。


    7 無心・無我の境地が最強という智恵

      そして、この延長上に、仏教の悟りや、武術の達人の境地として、いわゆる無心・無我の境地というものがあると思います。

      武術の達人は、相手に勝つこと(負けないこと)を目的としています。しかし、あたかも「勝ちたい」という欲求がないかのように、心が静まっている状態こそが、最強・無敗の境地であるということです。これは、静まった心こそが、相手の動きを最も正確に読み取ることができるし、自分の体も、緊張なく最もスムーズに動くからではないかと思います。

      仏教では、心が静まると、物事をありのままに見ることができると説きます。これは、有名な「止観」という教義です。「止」と「観」とは、「心が止まると、物事を正確に観ることができる」という意味です。

      そして、物事をありのままに見ることができる、という意味の中には、単に正確な分析力・判断力だけではなく、いわゆる直観・ひらめき・インスピレーションといった高度な知性が含まれています。心が静まった状態でこそ、直観が生じやすくなるのです。


    8 捨てた後に、舞い込んでくる幸福

      よって、とらわれを捨てた後に、逆に得られるものがあるのです。「うまくやろう」と思い過ぎるとらわれを捨てて、心が静まった結果として、正確な判断力・直観が生じ、逆に物事をうまく行う智恵が生じるということです。

      また、単に自分の判断力や、直観が改善するだけでなく、実際に、自分の周囲の流れが良くなると感じる場合もあります。例えば、とらわれている間は、なかなか得られなかったものが、とらわれを捨てたら、逆に舞い込んできたと感じることです。

      これはあたかも、幸福を求めて幸福になるというのではなく、幸福があちらから舞い込んでくるような感覚です。まさに、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言の背景にあるものかもしれません。

      不思議なことですが、この現象を合理的に説明できる面もあります。例えば、何かにとらわれるあまり、ガツガツしていれば、他人との良い関係は得にくくなります。「友達が欲しい」、「恋人が欲しい」、「顧客が欲しい」、「取引先と良い関係を得たい」と思っても、空回りしてしまいます。とらわれを弱めて、振る舞いに落ち着きや明るさが出てくれば、他との良い縁が得られやすくなります。何事も自分の力だけでは成せないものですから、これは重要だと思います。

      また、とらわれが強く、焦りがある場合は、時間が長く感じられて、「いつまでたっても、うまくいかない」と感じます。しかし、とらわれを弱めて、今できることに集中していると、その間に、求めていたものが得られることがあります。こうした場合も、幸福が舞い込んできたと感じるものでしょう。


    9 バランスが重要。釈迦牟尼の中道の思想

      繰り返しになりますが、これまでのお話は、欲求・とらわれをすべて捨てるということではありません。適度な欲求を持つ、欲求の量を管理するということです。欲求が、多すぎず、少な過ぎず、バランスが取れていることが最善だということです。

      欲求が全くなければ、何の進歩・改善もありません。仏教で言えば、釈迦牟尼も、真の幸福を求めて、修行に入り、悟ったとされます。また、そもそも、人間が生きるためには、生存欲求が必要です。これを捨てるということは自殺を意味します。宗教で言えば、苦行の果てに死ぬことを解脱と誤解した一部の昔の修行者のケースです。

      その一方で、欲求・とらわれは、多ければ多いほど、多くのものが得られる、幸福になる、というわけでもないことが、重要なポイントです。全く欲求がなければ、得ることはできませんが、逆に多すぎれば、空回りするばかりか、逆に得られにくくなるということです。さらには、心身を病んだり、周りが敵ばかりに見えてきたりする場合さえあります。

      そこで参考になるのが、釈迦牟尼の中道という思想です。釈迦牟尼は、王子として生まれました。よって、修行を始める前に、王子として欲楽を極める生活をしたと思います。その後、修行に入って苦行を行いました。それは、極度の断食など、死の間際まで自分の体を痛めつけるものでした。

      その結果、釈迦牟尼は、このどちらの生き方も、真の幸福・悟りに至るものではないと悟り、どちらにも偏らない「中道の教え」に目覚めたとされます。それは、欲楽にふけるものでもなく、いたずらに体を痛めつけるものでもなく、心を静めた平安の境地(涅槃)を目指すものでした。


    10 とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観

      ここで、仏教の哲学の中で、とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観をご紹介したいと思います。その代表的なものが、無常と慈悲の思想です。

      まず、無常とは、世の中のすべてが移り変わり、生じたものは滅するということです。私たちは、いつか必ず死にます。死ぬときは、それまでに得たものはすべて失います。だとすれば、例えば、「お金・名誉・地位などに、あまりにガツガツして生きることに、絶対的な価値があるのだろうか」と考えることができます。

      実際に、あまりにそうしようとすれば、犯罪さえも犯しかねず、実際に、そうした事例が毎日報道されています。それは著名な政治家・事業家にまで及んでいます。そのため、死んだ後に汚名を残す場合もあります。

      これに対して、自分がいずれは死んで、得たものすべてを失うことを意識することは、有益だと思います。こうして人生を長い目で見ると、目先のものへのとらわれが弱まり、本当に重要なことが何かが見えてくるのではないでしょうか。

      なお、仏教では、人は、「自分」と「自分のもの」にとらわれると説きます。それぞれを我執(がしゅう)・我所執(がしょのしゅう)と言います。お金や地位や名誉といった「自分のもの」に対するとらわれは、「自分」に対するとらわれが土台になっています。よって、「自分」を失う「死」を意識することで、「自分のもの」に対するとらわれを弱めるのです。

     

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  • 中道の教えによる幸福な人生

  • ひかりの輪の内観:仏教と融合した新しい内観実践の思想

    以下のテキストは、2009年GWセミナー特別教本『内観と仏教の自己内省法』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    (1)仏教と内観の一致点


    1.自分が多くの人に支えられていることや、多くの幸福を与えられていることを認識し、感謝すること

       仏教の教義と内観が一致するところは、日頃認識することが少ないが、実際には、自分が、肉親・友人知人をはじめとして、多くの人々に支えられて生きていること、多くの幸福をすでに与えられていることを理解することである。これは、仏教の教義においては、縁起の法、唯識の依(え)他(た)起(き)性(しょう)の教義に関係する。

      現代社会に生きると、恒常的に欲求不満を作り出す構造を持つ資本主義社会の中で、「もっともっと」と求める(=貪る)心が強くなりがちで、すでに与えられているものの大きさを認識し、それに感謝することが非常に乏しい。こうして、感謝・満足よりも、貪り・不満が強くなってしまうのである。

       仏教的に言えば、これは、学習実践上の重要な課題である貪りの止滅である。それは生きていく上で必要以上のものを貪らず、他と分かち合う(他に施す)ことである。そして、この貪りを止滅するためには、まず、貪りに際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみであることを理解する必要がある。

       まず、貪りに際限がない理由は、人が感じる幸福・不幸が、比較によって生じる幻影であるからだ。例えば、今まで10万円の給料だった人が、給料が20万に上がると、上がった直後は喜びを感じるが、それに慣れてしまうと、それが当然のことになり、喜びがなくなり、もっともっとと求める心が生じる。再び喜びを感じようとして、もっと高い給料を欲するのであるが、その欲求が満たせないと苦を感じる。

       さらに、給料が元の10万に戻ると、大きな苦しみを感じる。最初は10万円で足りていたのに、得たものに対する執着が生じるがために、失う時には、苦しみが生じるのである。これは、四苦八苦の教えに説かれているものである。

       こうして、貪りは際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみをもたらす。このことを理解したならば、もっともっとと求めるのではなく、すでに与えられているものに感謝して貪りを止滅することが、真の幸福の道であることがわかる。

       さらに付け加えると、単に与えられていることへの感謝と貪りの止滅だけではなく、自分より恵まれない他者と分かち合う慈悲の実践によって、貪りはさらに止滅していく。

       そして、内観によって、いかに自分が支えられ、いかに多くの幸福を与えられてきたかについて、客観的に自分自身を調べて、それに感謝することは、貪りを和らげ、慈悲・利他の心を培うために、非常に有効な実践である。


    2.感謝に基づいて恩返しの心構えを持つこと

       感謝の実践が深まれば、それに伴い自ずと生じてくることが、恩返しの実践である。自分が支えられ、多くを与えられていることを認識すれば、自然と、自分も同じように他を支えて、与えることを考えるようになる。

       ところが、人は、親については、支えてもらう、養ってもらうことを当然としているために、自分が親にして返したことについて考えてみると、驚くほど少ないことに気づく場合が多い。これは、親と同様に、自分が依存すること、甘えることを当然としている対象に対しても生じやすい。

       よって、内観によって、親や親に類する依存の対象について、何をして返したかについて、客観的に自分自身を調べることは有効である。

       また、仏教では、慈悲・利他の実践が強調されるが、その実践が、他を見下した傲慢な心の働きによって行われる場合がある。この場合、物質的な意味では、他に施しをしたとしても、慢心の貪りを生じさせている。

       これを防ぐためにも、自分は様々な意味で他に支えられてきたのに、他にして返したことが乏しいことを自覚することが有効である。こうすることで、自分が偉いから他を利するというのではなく、他に多くを与えられてきたことに対する恩返しとして、他を利するという実践をすることができるからである。

       そして、この実践は、内観によって、自分が他に迷惑をかけたことについて、客観的に調べることによってさらに深まっていく。感謝が少なく、不満が多い場合は、知らず知らずに、自己中心・身勝手な心によって、他に迷惑をかけているものである。

       また、他に文字通り迷惑をかけていなくとも、他から与えられていること自体が、それは、他がなんらかの労苦を背負っているわけであり、他に迷惑をかけていると解釈することもできる。仏教の教義では、ある人の(煩悩的な)幸福は、多くの場合、その裏で他の苦しみが伴う場合が多いと説いている。

       こうして、自分が他にかけた迷惑を認識すると、傲慢な気持ちで慈悲・利他の実践をすることはおろか、恩返しとしてそうすることさえも超えて、いわゆる贖罪=悪業の清算として善業を積ませていただくという極めて謙虚な心構えが実現する。

       これは、非常に仏教的な生き方の実践となる。仏教においては、慈悲・利他の実践とか、善業・功徳を積む実践とは、それまでに自己中心的な心の働きによって積み重ねてきた悪業を清算して、自我執着を弱め、悟りのための土台を作る、自己の浄化の実践にほかならない。


    3.三つのレベルの内観:仏教と内観の融合

       ひかりの輪では、一般の内観をさらに発展させて、三つのレベルの内観のステージがあると考えている。

    まず、第一のレベルの内観が、通常の内観であり、肉親や友人・知人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを調べて、彼らに対する感謝と恩返しの実践を深めることである。

       しかし、仏教的な悟りを求める場合には、このレベルの感謝と恩返しを超えて、第二のレベルとして、人類社会全体への感謝と恩返しの実践に入る必要がある。
      

    私たちは、日々生活する上で、友人知人に限らず、無数の人々に支えられている。特に現代社会では、分業が進んでいるから、無数の人が互いに支え合って生活しており、自分や知人の力だけでは、1日として生活することはできない。

       自分の衣食住から通勤・通学、そして学習実践などを支えている存在は、単に日本の1億人にとどまることなく、遠く外国から輸入される様々な食料や製品、物資や資源・エネルギーから、そして日本の輸出品を買う多数の外国、そして、モノに限らず、世界中を結ぶ金融・情報のネットワークに至るまで、経済のグローバル化が進んだ今現在は、地球の60億全体が相互に支え合って生きていると言っても過言ではない。

    大昔は、東京がなんらかの原因で壊滅しても、日本の他の地域の人達は生活に困らなかっただろうが、今は東京の壊滅は日本全体の崩壊に繋がるだろうし、実際にアメリカの金融危機は、世界中を同時に大不況に陥れるほどに、人類社会の相互依存が深まっているのである。まさに、人類社会全体が相互依存の状態、相互に縁起・依他起性の状態である。

       しかしながら、こうして人類社会全体に支えられているにもかかわらず、日本をはじめとする先進国においても、自国の利益の追求=貪りが強まっているために、人類社会全体に対する感謝の気持ちや、それに基づく恩返しは乏しい状態である。それは、10億ほどの先進国が世界の富や財の多くを独占し、飽食にふける中で、それと同じほどの途上国が貧困と飢餓・病苦などに苦しんでいることからも明白である。

       さらに、仏教的な悟りを求めるためには、第三のレベルの内観として、全ての生き物、全ての衆生、万物への感謝と恩返しの実践が必要である。私たち人間は、人間社会だけで生きることができているのではなく、地球の生態系の中で、多くの生き物の犠牲の上に生きている。

       それは、生き物に限らず、空気・水を含めた地球の生命圏全体、そして、遠くは太陽の光も必要不可欠であり、それを支える太陽系、そして太陽系の支える銀河系・宇宙の全体に支えられて生きている。

       こうした大自然・大宇宙・万物に支えられて生きているという認識は、仏教が説く縁起の法や唯識の依他起性の教えや、大宇宙を、衆生を育む仏陀の母胎であると説く胎蔵界の思想にも通じるものである。

       この認識が深まると、自分というものが、宇宙・万物・全体から生み出され、全体に支えられ、全体の一部として、全体と一体になって存在しており、自然の与える寿命が来たならば死んで、自分の体は他の生き物の体になっていく、といった認識が生じる。

       これによって、自我に対する執着が弱まり、自と他の区別を超えて、無限の全体こそが本当の自分ではないか、といった認識も生じ、万物への愛・慈悲が深まっていく。こうした自我執着の弱まりと慈悲の増大こそが、まさに仏教の悟りのプロセスである。

       そして、全ての衆生・万物への感謝に基づいて、万物に恩返しようとする心の働きは、大乗仏教で最も重要な心構えである菩提心と関係してくる。菩提心とは、全ての衆生の幸福のために、仏陀の境地を求めようとする菩薩の心である。


    4.内観と聖地巡りの融合

       以上のように、内観を発展させると、大宇宙・大自然への感謝と一体感に行き着くが、これを体験的に培うのが、聖地巡りであり、発展的な内観の実践と組み合わせることが望ましい。

       発展的な内観の実践によって、理性を使って、自己存在の土台・根源として、大自然・大宇宙をとらえなおした上で、感謝と一体感をもって、大自然と向き合うならば、大自然と融合する仏教的な悟りの意識状態に近づきやすいということができる。

       現代社会に生きる人は、実際には大宇宙・大自然に支えられ、その一部として生きているにもかかわらず、そういった自覚がなく、自分と自然を切り離して区別し、自分だけの力で生きているかような錯覚をなしている。

       その結果として、他人や他の生き物・自然を害するような、自己中心的な生き方をして、地球環境問題まで起こしてしまっている現状がある。よって、仏教的な悟りを得るためには、こういった、自と他を区別し、自分と大自然を区別する心の働きを浄化し、大自然の一部としての自分を再認識することが望ましい。

       そして、私の体験上は、例えば、上高地などの純粋な自然・聖地は、現代社会の人々が陥りやすい、そういった自己利益の貪りや、貪りに基づく争いの心が静まって、純粋な自然が有している、他との調和・慈愛の心を培う体験をしやすいと思う。

     


    (2)内観と親子関係の問題


    1.オウム真理教と親子問題

       ひかりの輪においては、昨年、オウム真理教事件の総括を行い、その中で、元教祖や弟子たちの親子関係に関する問題が、オウムの問題の背景にあったのではないかという分析をなした。さらに、今年に入って、親子関係を含めた内観を行ない、スタッフ・会員が抱える親子関係の問題が、より明確になってきたように思う。

       そもそも、オウム真理教の麻原元教祖は、その幼少期に親との関係において、不遇を経験したと思われる。ジャーナリストが幼少期の元教祖を取材した内容を出版しているが、そこには、全盲ではないのに、無理に全寮制の盲学校に転校させられた不満、学校の友達と違って親が休日に会いに来ることがなかった事実、親が自分に対する国の交付金を生活費に回そうとしたことへの怒り、元教祖が師事した宗教団体の代表に漏らした親への憎しみなどの事実が報告されている。

       実際に、オウム真理教は、聖母(聖父)といった宗教的な概念がない。釈迦を生んだマハーマーヤ夫人や、イエスを生んだ聖母マリアといったような開祖の親を尊重する教義がない。実際に、マハーマーヤという宗教名は、麻原元教祖の妻(松本知子氏)に一時期与えられるなどしたが、元教祖を釈迦とダブらせるのならば、釈迦の母の名前は、元教祖の母に与え、知子氏には最初から妻の名前を与えただろう。

       また、1990年頃、元教祖は両親に会い、「父親は地獄、母親は餓鬼の世界に転生するから、父親を地獄ではなく餓鬼に、母親を餓鬼ではなく動物に転生するようにポアしておいた。今生はもう会うことはないだろう」と私に語ったことがあった。

       オウム真理教において、地獄・餓鬼・動物の三悪趣に転生する魂は、悪業多き魂とされている。元教祖が解釈したヨハネ黙示録では、キリスト(=元教祖)に従い、キリスト千年王国に入る、善業多き魂である聖徒(オウム真理教の信者)と、キリストと対立して地獄に堕ちる悪業多き魂が存在するが、元教祖の両親は、善業多き魂には含まれないことになる。

       普通の宗教では、救世主を生んだ親は当然の如く尊重されるし、仏教教義でも、出家者を生んだ親には大きな功徳が返るという。オウム真理教でも、元教祖の子供を生んだ女性達は大きな功徳を積んだとされた。これらの事実からしても、元教祖自身を生んだ両親が、三悪趣に落ちるという位置づけであるのは特別に思われる。そこには、元教祖の両親に対する特定の思いが現れているとは考えられないだろうか。

       そして、オウム真理教の教義の大きな特徴であり、最初の社会との対立の主因となったのが、苛烈な出家制度であった。(少なくとも成就者になるまで)親と子の連絡を禁じたこともあって、出家した子供の親による激しい反対活動が起こり、それがオウム真理教の一連の犯罪の原点ともいわれる坂本弁護士事件にも繋がった。坂本氏は、出家した子供の親達のために、教団を批判する活動をしたからである。

       そして、オウム真理教が大量の出家者を得たということは、元教祖だけの人格によるものではなく、その信者となって出家した者においても、その全てではないが、元教祖と同様とまではいかなくても、親に対する感謝や尊重ではなく、否定的な感情があったのではないかと思われる。これは私が知る多くの出家者がそうだからである。

       また、教団と親の対立は、そのまま、教団と社会全体との対立に繋がるものであった。親を含めた社会は悪業多き魂の集団であり、それを脱却してキリストたる元教祖に帰依し従う出家者こそが聖徒であり、救われるとされたからである。


    2.現代社会全体に広がる親子問題

       しかし、私の経験上、この親子関係の問題は、オウム真理教の信者だけの問題ではなく、日本社会全体を覆っている問題に違いないと思われる。むしろ、日本社会全体に広がる親子関係の問題の一部をオウム真理教の信者があぶり出したにすぎないだろう。

       また、私のロシアに関する体験からすると、日本だけではなく、現代の人類社会全体に広がっている可能性もある。彼らの多くは、親子関係が昔よりも悪化していると証言しているからである。

       もちろん、統計を取って、昔と比較したのではないから、昔と比べて多いとは断言できない。しかし、親子の人間関係に問題がある人の割合は非常に多いように思える。そして、子供側に親に対する尊敬・感謝が乏しいと思われる。

       それを裏付ける1つのデータとして、読売新聞が昨年末に実施した全国世論調査の結果によると、親を尊敬していない子は56%、一方、尊敬している子は37%となっているデータがある。半数以上が尊敬していないのだから、親を尊敬しない子の方が普通になっているのである。

       特に、日本ではこの傾向が顕著なようだ。戦後に価値観が崩壊し、天皇や国家の権威とともに、親の権威が崩壊したことも一因かもしれない。財団法人日本青少年研究所による日・米・中・韓で中・高校生を対象にしたアンケート調査(2008年9~10月)によると、

       ①「親の意見に従う」と回答した子どもは、日65.5%、米83.6%、中88.6%、韓83.3%で、日本の低さが際立ち、
       ②「親によく反抗する」は、日57.0%、米26.2%、中11.0%、韓44.9%で、逆に日本が一番高くなっており、
       ③「親はよく私を叱る」は、日66.5%、米36.3%、中33.5%、韓34.3%で、日本の子どもはよく保護者から叱られていると認識されており、
       ④「親はよく私をほめたり励ましたりする」では、日57.8%、米82.9%、中73.4%、韓74.7%で、4カ国中で最低となっており、
       ⑤「親を尊敬している」は、日64.1%、米89.8%、中97.0%、 韓84.2%で日本が最も低く、
       ⑥「親は私を大切にしてくれる」も、日83.7%、米92.4%、中95.5%、韓91.9%と日本だけが9割を下回っており、
       ⑦「自分はダメな人間だと思う」と回答した中学生の割合は、日56.0%、米14.2%、中11.1%、韓41.7%で、日本は5割を超えている。

       歴史や文化が違えば、子育てや親子関係の在り方も異なるといえ、以上の調査では、日本の子どもは、親を尊敬できず、自分自身も尊敬できないという結果が出ている。


    3.心理学や内観などを通した親子問題の分析

       私が、親子関係について、心理学的な分析や内観などを通した経験からして、問題となる親子関係のパターンには、以下のようなものがあると思う。もちろん、これが全てではなく、一部であろうが、最近の指導の体験上、印象深かったものをまとめてみた。

    1.親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。
    2.親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊敬・尊重せずに、反抗ばかりする。
    3.親に過剰に依存し(絶対視し)、自分に劣等感、自己嫌悪を抱く。
    4.親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。
    5.親に対する期待が十分に満たされずに、常に不満・怒りを持つ。

       まず、1については、オウム信者に多くみられるパターンだと思う。何かしらの理由で、親への尊敬、感謝がなく、恨みはなくても、多かれ少なかれ、親に失望している。

       この背景としては、心理学によると、子供は、誰しも幼少の時には、自分が絶対的な存在、特別な存在、世界の中心でありたいといった、誇大妄想的な願望があり(専門用語では誇大自己とも言う)、その願望を満たしてくれる存在として親に深く依存をする、という説がある。

       そして、この願望は、幼少の時に、親がそれを適度に満たしてあげて、成長するにつれて、自分も親も絶対・特別ではないという現実を徐々に受け入れさせ、それを卒業させるのが、子供の健全な発達には良いというのが心理学的な見解のようである。

       幼児であれば、自己中心的な世界観で、あれこれ親に要求しても、それは昔からある自然なものであるし、そうした欲求も、親との狭い世界の中であれば、充足させることが可能である(例えば、子供がアニメのヒーローや、キリストになった、という遊びをするのに、親が付き合うなど)。そして、親に絶対的に依存するのも、自分では何もできない子供にとっては、生きるためにも自然なことであろう。

       しかしながら、心理学的な見解では、幼少の時に、親にこうした願望を満たしてもらえないケースにおいて、大人になっても、誇大妄想的な願望を引きずって、現実的な向上欲求ではなく、誇大妄想的な傾向に陥る場合があるという(心理学的には誇大自己症候群と呼ばれる)。

       そして、親の代わりに、自分が誇大妄想的な願望を満たすことができると思う対象を求めて、誰かがそうだと思いこめば(すなわち盲信するならば)、その対象に絶対的に服従し、そうでなければ、誰も尊重せずに反抗する傾向を示すという。

       こうして反抗するのが、2のケースである。その理由は、その子供は、自分の絶対者願望を満たしてくれる存在のみに、価値を見いだしているからである。

       もし、誇大妄想的な願望ではなくて、現実的な向上心がある場合は、対象が絶対ではなくとも、重要なことを学ぶことができる者ならば十分に尊重できるし、親についても、完璧ではなくとも、その良い点を認めて、一定の感謝・尊敬ができる。

       しかし、誇大妄想的な願望が強いと、そういった健全な学習の姿勢や、他者への尊敬・感謝を持つことは難しくなるというのである。

       また、現代社会では、様々なメディアの情報が、こうした誇大妄想的な欲求を増大させているという問題がある。例えば、アニメ・漫画・SF映画のフィクションの世界もそうだし、バランスを欠いた超能力・神秘主義や、破滅予言・陰謀論などを扱う精神世界の雑誌や書籍もそうであろう。最近は、パソコンゲームやインターネットでも、そういった大量の妄想的なフィクションの情報が増えている。

       こういった情報が氾濫する現代社会の子供・若者は、場合によっては大人も、妄想的な世界観に陥りやすくなっていると思われる。

       そして、オウム真理教の教義には、こうした妄想的な概念が多く盛り込まれていた。絶対神の化身であり、最終解脱者である教祖がいて、教祖に帰依すれば、自分が解脱者・超能力者になり、ユダヤ・フリーメーソンを中心とした悪魔が支配する社会との戦いに勝利して、20世紀末にハルマゲドンで滅ぶ世界を生き残って、キリスト千年王国に入ることができる選ばれた存在になる、といった教義である。

       世紀末の予言が外れた今から思うと、これらの教義は妄想的と思えるが、当時信者となった者達はなぜ信じたのであろうか。自分のケースでもあるが、それは、教祖がキリストであるという確実な根拠を得たからではなく、オウム真理教に巡り会う前から、そもそもが、そういった世界に対する強い欲求・願望があったからではないかと思われる。

       つまり、十分に信じる根拠があったから信じたのではなく、そういった世界があり、そういった教祖がいてほしかったので、それがオウム真理教にあると信じたということではないかと思うのである。

       このオウム真理教の事例からもわかるように、子供の誇大妄想的な願望は、親と子だけが作り出している問題ではなく、親子を取り巻く社会全体の環境が影響していることはいうまでもない。親と子と社会の三者があいまって、問題を作り出しているのである。

       次のケースは、親に失望するのではなく、親を過剰に肯定(絶対視)するケースであり、これが3のケースである。

       1と2のケースは、なんらかの理由で、幼少の頃に、親によって、誇大妄想的な願望を満たせない場合に起こると述べたが、3のケースは、正反対に、大人になっても、親が、子供にとって、絶対的な存在であり続けるというケースである。

       このケースは、子供の親に対する依存が強く、親の子供に対する支配欲が強い場合に起こりやすいと思われる。子供が親に依存するだけでなく、親がいつまでも子供を自分に縛り付けるのである。

       この背景として、親は、子供を支配することで、自己存在意義を満たしている面があり、親の方も、実は子供に依存している心理状態にある。すなわち、親離れしない子供と、子離れしない親の組み合わせである。

       よって、一見そうは見えないものの、親の本質的な性格が、子供と似ているのではないかと私は思う。この場合は、親がまず子離れをする必要があり、子供に自信を持たせたり、自分への過剰な依存・甘えを抑制したりするべきである。ところが、こうした親の場合、子供が自分に依存するように誘導している場合もあるかもしれない。

       そして、このケースにおいては、例えば、実際には親が悪いのに、自分が悪いと思って、自分を責め、その結果、自分に不合理な劣等感を抱く場合がある。こうして、不当に自分を責める背景には、自分の存在意義を深く親に依存してしまっていて、親を否定すると、自分の存在意義が無くなるような場合である。

       例えば、親に認められることで、自分の存在意義を満たしてきた子供は、親が間違っているとなれば、自分の存在意義を根底から否定しなければならない。よって、親を否定するよりも、自分を一部でも否定した方が、相対的には、自己存在意義を守ることができるのである。

       この背景には、先ほども述べたが、なんらかの理由で、自分の存在意義を自分自身の価値・判断ではなく、親の価値・判断に委ね過ぎていることがある。

       そして、それから抜け出せない理由としては、①抜け出すためには、親によって満たしてきた自己の存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②親の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信のなさ・卑屈、その奥にある依存・怠惰などがあるだろう。

       さて、先ほども述べたように、幼少の頃には、誰もが、親を絶対視し、親の価値・判断に自己を深く委ね、親も子供を良い意味で支配することが必要であり、自然であり、健全であるから、問題の核心は、子供が大きくなっても、依然としてそれを卒業しないということに尽きる。

       心理学的には、子供が健全な発達過程をたどる場合は、反抗期というものを経て、子供は親の絶対性を否定し、自分の価値・判断で、自立して生きる過程を経る。その中で、重要なことは、子供は、親の絶対性を否定するだけでなく、自分自身も、多くの人間の一人であることを受け入れて、自己を相対化していくプロセスがある。

       これによって、妄想的な絶対者願望ではなく、現実的な健全な自己向上欲求を持つようになる。そして、親に対しても現実的に見て、不完全ではあっても、自分を育てた存在として健全な感謝の心を持つようになるのである。

       しかし、3のケースでは、子供や親の要因によって、この自立のプロセスがうまくいかないのである。そして、30歳、40歳になっても、親に依存し続ける場合がある。

       さらに、このケースは、肉親の親に限らず、親の代わりに依存の対象とした者にも当てはまる。

       例えば、前回の1のケースなどで、親以外に、自分の願望を満たす存在を見つけ、それに過剰に依存・服従する場合は、その存在について、同じことが起こる。例えば、実際には相手が悪いのに、自分が悪いなどと考えるのである。

       これは、言うまでもなく、オウム真理教の信者と元教祖の関係に当てはまる。例えば、元教祖が主導した事件について、少なからぬ信者が、「自分たちのカルマが悪いから、元教祖が事件を起こさざるを得なかったのだ」と考えるケースがあった。

       これは、信者にとっては、元教祖を否定すれば、自分の信仰=自分の存在意義の根本を否定することになるから、それよりも、元教祖を否定せずに、自分の一部を否定する方が、自己を守ることができたからである。

       また、信者がこの状態から抜け出せない背景も、親への依存から抜け出せない子供の理由と同じであり、①抜け出すためには、元教祖によって満たしてきた自己存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②元教祖の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信の不足があるが、その奥には、自信がつくほどに必要な努力をしない依存・甘え・怠惰などがある。

       具体的に言えば、元教祖に対する絶対的な帰依によって与えられるとされていた、キリストの弟子・選ばれた魂になること、解脱者になること、三悪趣に落ちず高い世界へ転生することといった願望について、それを放棄するか、ないしは、別の手段で得ようとする努力が必要となる。

       そして、元教祖の教義としては、信者は汚れており、正しい判断ができず、グルに絶対的に帰依することによってのみ救われ、自分で判断してはならず、グルを裏切ると三悪趣に落ちる、などというものがあって、これが信者を呪縛し、その自立を妨げる要素となっている。

       しかし、根本的な原因は、元教祖の教義が根本的な原因ではなく、必要な努力をなす労苦を嫌がる信者側の依存・甘え・怠惰である。依存したい者には、依存するべきであるという教義は、都合が良いものであるからだ。

       しかし、依存・甘え・怠惰という煩悩の本質は、最初は楽だが、後からつけが回ってくるというものである。一方、自立は、最初は努力が必要で労苦があるが、後は楽になるというものであろう。これを踏まえて、自分の弱さに打ち勝たなければならない。

       さて、このケースの1つの変形版として、ずっと依存状態が続くのではなくて、親の目から見ると、ある段階から突然、服従から反抗に移行する場合があるようだ。これが、4のケースである。

       すなわち、段階的に反抗期を経験し、段階的に親も自分も相対化し、親への一定の感謝や尊敬をもって、健全な自立をするのではなく、ある段階まで全く反抗期がなくて、親から見ると、何でも言うことを聞く、とても素直で良い子であったのが、いきなり、反抗や非行に移行するケースである。

       この場合、子供は、長らく、親に認められたいために(親に従って自己存在意義を満たそうとしてきたがために)、無理して自分を抑圧してきたことが、ある段階から、恨みのような感情に変わり、爆発する場合もあるようだ。

       客観的に見ると、子供が自らの意思で親に依存してきた場合も、子供の方は、親が自分を無理に抑圧してきたという印象を形成する場合があるようだ。他人から見れば、過剰な責任転嫁であるが、こういったことは、子供に限らず、大人の世界にもよくある。

       そして、これも、子供と親に限らず、オウム真理教の元信者と元教祖のケースにも当てはまる。自分の意思で元教祖に帰依したにもかかわらず、元教祖を否定した後は、自分が安直に信じた責任は十分に自覚せず、もっぱら教祖にのみ責任を転嫁し、教祖を一方的に恨むというケースである。

       しかし、(特に幹部信者などの場合は)単純に騙されたと主張するばかりで、自分が安直に信じて教祖を祭り上げたという反省がなければ、本当の意味で自分が変わることはできない。

       帰依している時は、教団を弾圧する社会が悪いと安直に主張して、帰依をやめたら、自分を騙した教祖が悪いとばかり主張するならば、今も昔も、常に自分は被害者の位置づけであって、問題を他人のせいにしてばかりである。

       こうして、脱会しても、人格は変わらないという問題はよくみられる。わかりやすく言うと、オウムは脱会したが、オウム人格は変わらないという現象である。脱会するのは、一瞬の手続きだが、本質的に人格を変えるのは辛抱強い努力が必要である。

       この背景には、先ほどのケースと同じように、やはり依存・甘え・怠惰があるといわざるをえない。真に幸福になるには、自分の問題点を反省して、辛抱強く努力して、成長していくほかはないのである。

       最後に5番目のケースは、親を絶対視してはいないが、親に対する期待が十分に満たされないために、常に強い不満・怒りを持つ場合である。

       2のケースとの違いは、親に失望し、突き放しているのではなく、依然として期待していることである。4のケースとの違いは、4のケースは恨みであるから、もう相手への期待はないが、2のケースの不満・怒りは、依然として強い期待が背景にある。

       そして、私の経験上、こうして、常に不満・怒りを持っていると、場合によっては、憎しみのレベルにまで至る場合があるようだ。

       しかし、実際に、どんな親も不完全な人間であるから、いろいろな欠点があるのは仕方がないことである。そして、先ほど言ったような状態で、精神が歪みやすい現代社会においては、相当に人格が崩れている親もいるだろう。そして、その親のもとで育った子供が親になり、その子供がまた親になっている時代である。

       具体的には、会員や一般の人の相談を受けていると、父親で言えば、女癖・酒癖が悪い、母親や自分に暴言を吐く、暴力を振るうとか、いろいろな事例が出てくる。

       確かに、そういった問題はない方がいいに決まっている。しかし、私が相談を受けた体験上は、そういった親の人格は、直ちには改善されそうにない場合も少なくない。

       さらには、子供が単に不満や怒りをもって親を責めても、親にもいろいろあるだろうから、必ずしも良い方向には行かない場合がある。仏教的な因果の法則(カルマの法則)からすれば、自分の不満や怒りの心・波動が相手に伝わって、相手に投影され、相手からも反発が返るだけとなる場合もある。それでは、建設的・前向きな行為ではないだろう。

       そもそも、本当に相手を変えようとする場合は、相手をよく理解し、辛抱強く賢いアプローチ=慈悲の実践が必要であり、その中には、相手の向上を祈りつつも、無理な期待はしないという心構えが含まれる。

      子供にとって、これは大変なようだが、ポイントは、本当の意味で大人になるには、必要な努力であるということだ。親に求めるばかりで、自分側の努力がない場合は、子供はいつまでも子供であり続ける。

       そして、その背景には、繰り返しになるが、必要な努力を避ける依存・甘え・怠惰があり、それから脱却できないならば、その自分の未熟な人格の投影を親に見続けることになりかねないのである。

       さて、この5のケースも、親以外の強い期待・依存の対象に当てはまるものである。例えば、団体の内部での学習仲間同士の関係にも、これが当てはまらないかについて、よく検討してもらいたい。


    4.内観と親子問題の緩和

       次に、こういった問題に対する内観の実践の効果を考えてみよう。まず、この5のケースにおいては、特に内観が有効であると思われる。

       というのは、確かに、親にはいろいろな欠点があるだろうが、内観を通して、自分が親に実に様々なことをしてもらってきたことや、自分も親にいろいろ迷惑をかけてきたことなどを認識することによって、バランスの取れた見方ができるようになることが期待されるからである。

       逆に言えば、通常は、強い期待を背景に、普段は、親のしてくれないこと、親の欠点ばかり見ており、内観の実践でもしなければ、親の長所・恩恵を客観的に見たり、自分側の欠点を客観的に見たりすることはなかなかできないと思われる。

       自分の欲求が強いと、与えられていない部分ばかりを見て不満に思うが、仏教的には、それは貪りの心の働きである。また、その場合は、相手と同様に、自分にも欠点があることが理解できなくなるが、それは、自他を区別する無智である。

       相手の問題について、自分では正しいことを言っているつもりでも(仮に言っていること自体は正しいとしても)、その時の心の働きが、無智・貪りに基づいており、相手のことを思って(慈悲に基づいて)いない場合が少なくない。

       この場合は、相手の反応も、自分の心の投影として否定的なものになる可能性があるし、何よりも、こうした期待を背景とした不満・怒りを募らせるだけでは、自分自身がなかなか成熟していかないという不利益がある。

       次に、1と2と4のケースにおいても、内観は有効であると思われる。その前に、もう一度、1と2と4のケースを列挙すると、以下の通りである。

    1.親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。
    2.親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊重せずに、反抗ばかりする。
    4.親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。

       これらのケースの根底には、自己の誇大妄想的な願望が背景としてあることは、前に述べた通りである。1のケースは、教祖などに依存し、その願望を満たそうとしており、2のケースは、満たすための依存の対象が見つかないので、誰も尊敬しない状態であり、3のケースは、依存したが満たされなかったことによる恨みの状態である。

       しかし、この誇大妄想的な願望は、前にも述べたとおり、子供の時ならばともかく、成長する過程では、卒業すべきものである。言うまでもなく、現実の社会では、幼稚で、妄想的で、傲慢で、自己中心的なものである。

       これに対して、内観の実践は(特にひかりの輪の仏教的な内観の実践は)、自分が、いかに実際に肉親や知人を含めた他に支えられているか、いかに万物に支えられているかという事実を理解していくから、自己の絶対性ではなく、自己の相対性(他との支え合いで自分が成り立っていること)の理解を促進する面がある。

       すなわち、内観とは、物の考え方において、子供から大人になる効果があると思われる。妄想的な自己存在意義を求めて、自分や特定の他者を絶対視・特別視するのではなく、自分を多くの人間の一人として受け入れて、その中で健全な自己向上欲求を持つことである。これは、内観の権威である人も述べていることである。

       こうして、内観に基づいて、他への感謝と謙虚さを培うならば、自己中心を脱却して、他と調和した生き方をするきっかけとなる可能性がある。そして、前にも述べたが、この考え方は、仏教では、縁起の法や、唯識の依他起性の思索・瞑想でもあり、自我意識を弱めて、全体と一体化する効果を持つ。

       最後に、3のケースであるが、これは、内観実践上は特殊なケースである。この人の場合は、親や、親に準じる依存の対象に対して、普通とは逆の偏りを形成している。

       すなわち、普通は、してもらっていることの多さ、して返したことの少なさ、迷惑をかけたことの多さを十分に認識しないために、それを調べていけばいいのであるが、このケースにおいては、逆に、①してもらっていないことも、してもらっていると考えたり、②して返していることがあっても、過小評価していたり、③迷惑をかけていない場合も、迷惑をかけていると思いこむといった場合がある。

       これは、通常のケースでは、自己中心的な意識が働くところ、3のケースは、相手が、自己の存在意義になっているために、その相手を中心とした意識が働いてしまい、相手に偏った見方をしているからである。

    よって、私の見解としては、通常とは逆の方向性で内観をする必要がある。


    5.内観で培う健全な親への認識と悟りの関係

       さて、内観によって、両親をはじめとする人々に対して、感謝や尊重といった、健全で肯定的な心を培うことは、仏教の悟りを得る上で非常に重要である。

       というのは、大乗仏教の教えの核心は、全ての衆生を愛する四無量心であり、それに関連して、全ての衆生に仏性があると説くことにある。

       そして、全ての衆生を愛する四無量心を培う上で、いにしえの聖者方は、弟子たちに、自分の両親が自分をいかに愛してくれたかを思い出させ、全ての衆生が自分の過去世の母や父であったことを瞑想させてきた。

       また、大乗仏教には、この宇宙が全ての衆生を育む仏陀の母胎の中であると考え、その仏に合一する教えがある。宇宙を自分の母であり、仏であると見ているのであるが、この思想を理解する上でも、今生の自分を生み育てた母親や父親に対する感情がバランスの取れたものであることは重要である。

       また、全ての衆生に仏性があるという教えは、全ての生き物は、本質的には、慈悲という仏陀の心を有しているという意味であって、どんな悪人でも、例えば我が子を育もうとする瞬間には、慈悲・利他の心を現すといった事実が指摘される。

       簡単に言えば、仏教の教えとは、全ての人、全ての生き物に価値を認め、それを愛することであるから、自分を生み出した、自分が今生初めて接した人間である親を愛することは、非常に重要な課題となる。

       ところが、現代では親子関係が歪んでおり、親を尊敬していない子供が多くなっている。よって、この親子の問題を乗り越えなければ、仏教の教えの根幹が損なわれる。

       一方、オウム真理教は、この問題を解決せずに、この問題を逆手にとった宗教であると思われる。すなわち、末法の世には悪業多き魂が多いとして、教団を肯定しない親は強く否定し、出家制度によって子供を親から隔絶し、教祖のもとに集中させることで、子供が救われるとし、親をはじめとする社会と敵対し、戦って勝利することを教義とした。

       よって、この問題を乗り越えることは、現代における仏教の学習実践の困難を克服することであるとともに、オウム真理教を乗り越えることとも深く関連している。

       そこで内観の実践の重要性が出てくる。確かに昔に比べて親の問題が増えているのだろうと思う。しかし、昔も相対的に不徳な親は多くいたはずであり、そういった場合は子供がどのような眼差しで親を見るかで、親への感情が大きく変わるはずである。そこに、内観の重要性がある。

       また、悪化しているのは親だけでなく、子供の友人、学校の教師、マスコミの情報を含めた、子供を取り巻く社会全体であろうから、それによって、子供側が親を見る目が歪んでいることもあるはずである。

       そして、内観では、客観的に、親に受けた恩恵や親に迷惑をかけたことを調べていく。そうすることによって、現代の親でも、依然として我が子を思う気持ちは決して少なくない、という事実が浮かび上がってくるのではないかと私は思う。

       もちろん、人によっては、例えば、浮気、離婚、酒癖、女癖、暴言、暴力と、親の問題がいろいろあるだろうが、それであっても、親が子供になす自己犠牲の奉仕は膨大であるという事実もあるはずである。それらをありのままに認識し、親に合格点を与えられないものであろうか。

      また、親に捨てられた子供の場合も、捨てたくて捨てたのではない親の苦しみに気づいたり、親代わりになってくれた人への感謝を深めたりすることで、自分の心を癒して浄化し、他者への愛というかけがえのない心の働きを深めることで、悟りの土台ができるのではないだろうか。

     

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  • 願望成就・目的達成の智恵

    以下のテキストは、2017~18年年末年始セミナー特別教本『仏陀の智慧・慈悲・精進の教え 立ち直る力と願望成就の法則』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1.はじめに

    第一章では、苦しみに強くなる智恵について探求したが、本章では、視点を変えて、願望成就・目的達成の智恵について述べたいと思う。ただし、苦しみを取り除くことと、願望の成就や目的の達成は、裏表の側面があり、共通項も多いことに留意されたい。


    2.一般的な願望成就のノウハウ:意志・自信

    一般的に願望成就・目的達成のノウハウとして、第一によくいわれていることは、願望を成就させる明確な意志を持つことであろう。具体的には、「自分はやる」という意志を持ち、それとセットで、「できる」という気持ちを持つことである。

    そして、自分が自覚した意識(表層意識)においてだけではなく、自覚していない深層意識(潜在意識・無意識)にも、その意志を浸透させるという考えがある。例えば、一部で使われる手法として、「(これから)する」という未来形の意志ではなく、「できた」という過去完了形のイメージをすることがある。これは、未来形である意志の場合は、その裏側の潜在意識では、逆に「今はまだできていない」という意識が残るが、過去完了形ならばそれがなく、潜在意識まで意志統一できるという考えであろう。

    しかし、そもそも否定的な想念が絶えず強く、自信がない人の場合は、なかなかこれが難しい。

    よって、その前に、第一章では、否定的な想念を止める「気分転換・リセット」や「自己を客観視する瞑想や内省」、さらには、「自分に自信をつける」ための基礎的な訓練などを紹介した。


    3.目的達成の手段を具体化する上でのポイント

    そして、目的達成の意志は、その達成の手段と深く結びついている。達成の手段が明確でなければ、そもそも具体的には何をしたらいいかわからないから、実際の具体的な行動に結びつかず、そのため、意志自体が不明瞭のままとなって、何も達成することができない。そもそも、ある目的があった場合、それを達成する手段を実現することが、その下位の目的となる。つまり、目的の手段の達成が、第二の目的となり、第二の目的の手段の達成が、第三の目的となる。

    さて、達成の手段を具体化するためには、普通は、そのために役立つ情報を収集する。例えば、自分がやろうとしていることが先例のないものでない限りは、似たような目的を実現した他者が提供する情報・成功例などを収集する。ただし、前章で述べたとおり、妬みが強い人は、他者の成功例を吸収せずに否定してしまう傾向がある。そのために自分自身も自信を持つことができず、達成のための手段を失う場合もあることに留意すべきである。

    さて、先例がないような場合は、暗中模索することになるが、そうした場合でも、目的達成の手段をつかむための鍵の一つとなるものが、安定した心である。安定した心は、主観・感情に左右されず、物事を偏りなく、客観的に合理的に正しく判断する知性を与えてくれる。また、心が静まっている時こそ、突破口を得るためのひらめき・インスピレーションが生じやすくなる。これは、仏教では智慧(智恵)とされるものである。こうした、いわゆる創造性といったものも、安定した前向きな心の働きから生まれやすい。

    また、心の安定や知性・智慧と連動して、目的達成の突破口を開いていく土台となるものが、健康・長寿や良い人間関係といった基本的な力であろう。健康は、長期間の継続的な努力を可能とするし、良い人間関係は、目的達成のために、他人が自分にはない智恵や力を与えてくれることになる。この心の安定・知性・健康・人間関係は、心理学においても、人の幸福のための四つの重要な資源といわれている。


    4.失敗の苦しみを超えて、努力を継続する重要性

    また、何事も一直線に成功するものではないから、失敗を嫌がる心の働きは、最終的な達成を阻むものとなる。

    諺(ことわざ)にも、「失敗は成功のもと」というが、努力を続ける限り、成功に限らず、失敗も、その人の貴重な経験となり、成功のための材料・ステップになるという考え方が重要である。すなわち失敗の苦しみは、成功のもとであると考えて、喜びにしていくことである。

    例えば、1000回の実験を経た果てに白熱電球を発明したとされるエジソンは、それ以前の999回の失敗に関して問われた時に、「それは失敗ではなく、成功のためのステップであった」と答えたという。

    失敗は、確かに苦しいものであるが、視点を変えてみれば、失敗とは、それが成功の道ではないことを知ったということでもあるから、その意味で、成功に一歩近づいた、成功へのステップである。よって、そのように前向きに解釈して、失敗を成功へのステップとして前向きにとらえ、努力を続けるのである。

    そして、ウィンストン・チャーチル(元英国首相)は、第二次世界大戦で、破竹の勢いで領土を拡大していたナチス・ドイツの侵略を食い止め、最終的に打倒した英雄であるが、彼は、「成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次に失敗を経験する能力である」と語っている。
    チャーチルは、幼い頃の言語障害を克服し、陸軍士官学校の入学試験にも繰り返し失敗した上で3度目に合格、首相になったのも2度の落選の後であり、まさに「失敗は成功のもと」を体現した人物である。そして、ナチス・ドイツがヨーロッパ大陸全体を支配し、自国が危うい状況にあった時も、「決して、決して、決して、諦めない」という有名な言葉を残した。

    こうして、諦めない者には「失敗は成功のもと」となる。一方、継続的な努力をしない性格の者が、最初に成功すると、慢心に陥って、その成功体験にいつまでも固執して、失敗する場合がある。これは、継続的な努力がなければ、「成功が失敗のもと」になるケースである。

    こうして、絶対的な失敗と絶対的な成功というものはなく、失敗と成功は、長期的には、移り変わる、入れ替わる性質がある。そして、努力する者には、成功と、成功のもととなる失敗があり、努力しない者には、失敗と、失敗のもととなる成功がある。努力は、全てを成功に変え、怠惰は、成功さえも失敗の原因にする。

    エジソンやチャーチル以外にも、人生前半に何度も繰り返し失敗しながら、継続的な努力を通して、後に大きな達成をした事例は数多く存在する。例えば、英国ではなく、米国の大統領においても、奴隷解放などで名高いリンカーンの政治生活は、8回連続の選挙での落選から始まっている。これは、まさに七転び八起きの人生である。

    エジソンが創業者であるゼネラル・エレクトリックス(GE)に限らず、米国の世界的な企業に関していえば、ビッグスリー(米国三大自動車会社)のフォードも、初期には4回の倒産を経験している。あのディズニーも、当初は3回の倒産を経験し、そのアイディアはバカにされていたという。彼らが、前半の失敗で諦めてしまっていれば、歴史に名高い大統領も、現在の世界的な企業も、存在しなかったことになる。


    5.結果にとらわれすぎると、逆にうまくいかない場合がある

    次に、前章で述べたこととも関係するが、願望をかなえる手段に集中するのではなく、願望がかなうかどうかの結果にばかりにとらわれると、様々な心の問題が生じて、逆にうまくいかないという仕組みがある。

    第一に、願望が成就しない=失敗することをひどく恐れるあまり、何事にもチャレンジができなくなるのである。この場合は、成功も失敗も何の経験も得られずに、智恵が深まらず、成功から遠のくことになる。また、この変形として、失敗した結果を受け入れられずに、それをもっぱら他人のせいにして責任転嫁をする場合がある。この場合も、必要な反省と改善の努力ができないので、成功から遠のくことになる。

    そして、チャレンジできなくなる状態がひどくなると、いわゆる引きこもり状態となる。また、責任転嫁がひどくなると、自己愛型人格障害や被害妄想などを呈する。こうして、結果を気にするあまり、心の安定・バランスを損なうと、他との人間関係を失ったり、損なったりするとともに、自身の健康をも害してしまい、これでは、何事も達成できない。健康と良い人間関係は、願望成就の土台であることはいうまでもない。

    第二に、結果を気にするあまり、不安その他によって、心が不安定になると、物事を正しく合理的に判断することができなくなることである。

    前章で述べた通り、悪い結果に対する不安を感じること自体は、問題を事前に把握して防止したり、備えたりすることにつながるので、むしろ必要なことである。しかし、結果を気にしすぎて、悪い結果に対する不安が強くなりすぎると、焦るがあまりに物事を正しく判断できず、逆の目に出る自滅的な選択をする場合が少なくない。企業の倒産なども、辛抱が効かずに、自滅する事例がある。

    また、これとは逆のケースとして、慢心に陥るなどして、膨れた自己愛から、「悪い結果となる可能性を見たくない」という心の働きが強くなると、問題を未然に防止することができなくなる場合がある。こうして結果にとらわれすぎない、バランスのとれた心の状態が重要である。

    第三に、結果を得ようと、自己中心的な考えに陥って、不正な手段を用いる場合である。これは、自分の実力を高めるどころか、自分を甘やかして堕落させるものである。さらに、いうまでもないが、最初はごまかせても、いずれは発覚し、他者の信頼・人間関係を損なって、長期的には失敗に終わることになる。これも、願望成就の土台となる良好な人間関係を損なうことになるし、不正手段を用いている場合は、その発覚を恐れた内面のストレスも非常に強いであろうから、それで健康を害する可能性も高くなる。

    逆に、結果にとらわれすぎることなく、今なすべき手段の実行に集中するなどして、安定した心を保つならば、物事を正しく判断する能力を高めることができ、健康と他者との人間関係も損なうことがない。よって、安定した継続的な努力を長期間にわたって積み重ねることができるから、願望を成就しやすくなる。これを諺の経験則を借りて表現するならば、「果報は寝て待て」、「勝つと思うな、思えば負けよ」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」「急がば回れ」などであろう。


    6.心を静めると、願望達成の道をより正しく理解できる

    これまで述べたことと関連するのが、前章でも述べた、心が静まると物事を正しく見ることができるという法則である。これは、仏教の止と観(禅定と智慧)の教えに通じる。すなわち、「心が静まる(止) ⇔ 物事がありのままに見える(観)」というものである。

    逆に、前項でも述べたとおり、心が不安定な時は、物事を正しく見ることができずに、錯覚を起こして間違った行動をして失敗しやすい。そして、そうした失敗は、心の波のトップとボトムの時に、言い換えれば、躁(そう)状態と鬱(うつ)状態の時に起こりやすい。心が喜びに浮ついている時と、心が苦しみで乱れたり、落ち込んだりしている時である。

    まず、苦しい時は、苦しみを実際以上に過大視する傾向がある。例えば、実際に何かの苦しい経験をする前にも、絶えず不安を抱き、苦しい経験をした後も延々と後悔するケースがある。この場合は、恐怖と強い焦りにつながって、間違った行動をとって、逆に苦しみが増大する場合がある。

    よって、厳しい時こそ、逆に、努めて冷静さ・平静・心の安定を取り戻すことが重要となる。

    次に、喜びによって心が浮ついている(舞い上がっている)時は、喜びを実際以上に過大視することで、落とし穴にはまる可能性が高まる。心が、喜びに没入・執着してしまい、その裏側に隠れ潜んでいる苦しみ・問題点が見えない(見たくない)状態である。良い面しか見ず、悪い面を見ない。これは、慢心・過信・油断につながり、後に悪い現象が起きることになる。すなわち、「好事魔多し」ということである。

    よって、仏教では、何事も苦楽表裏であり、心の落ち込みと浮つきを超えて、絶えず平静な心を培うことを重視している。特に仏陀・菩薩の心とされる四無量心の教えでは、常に平静で万事に平等な心の働き(捨〈ウペクシャー〉)が重要だとされているので、別の章に詳しく述べることにする。

    これらのことを諺で言うならば、苦しい時も、「万事塞翁が馬」の精神であり、喜びの時も、「好事魔多し」、「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」という心構えであろう。

     

    7.気の強化・浄化が、願望成就の力をもたらす

    さて、前章で述べた通り、心の不安定を解消し、心の安定と智慧を得るための仏教・ヨーガの東洋思想の修行は、思考・行動・身体・環境の4つの浄化にまとめることができる。ここでは、その中で、気の浄化・強化という要素について述べたいと思う。

    「気」とは、前章でも述べた通り、中国哲学(道教)からインドの仏教・ヨーガの思想まで、東洋思想で広く説かれる、人の体の内外にあるとされる目に見えないエネルギーである。そして、これが人の元気・体力・意志力・集中力などに関係し、さらには、他人・周囲の場にも影響を与える。

    そして、気を改善するという場合、気の強化と気の浄化という二つの側面がある。ここで、気の強化とは、このエネルギーを強化すること、エネルギーの量を増やすことである。一方、気の浄化とは、気の性質を清らかなものすること、ならびに、気が流れる道(気道)の詰まりをなくして、浄化することである。

    気の強化=エネルギーの強化によって、元気になり、強い意志の力などを得ることができる。そして、気を浄化することで、煩悩・欲望・雑念が減少する。そして、気の強化と浄化を合わせることで、安定した心と高い集中力を得ることができる。これがまさに仏教で「禅定」と呼ばれる状態である。

    この気の強化と浄化は、お互いに相乗効果があるので、ごく大雑把にいえば、共に進めることが望ましいが、厳密にいえば、ケースバイケースの部分が少なくないので、気を浄化・強化する修行を実際に行う場合は、繊細・緻密な理解と経験が必要となる。

    よって、その詳細は、2017年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学とヨーガの歴史と体系』2016年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学と人類の可能性』『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)などを参照されたい。

    そして、安定した心と高い集中力を実現したならば、それを活かして、重要な目的の実現を図ることができる。それは、物事を正しく判断し、実行する力、現象を動かす力を持っている。


    8.気の浄化・教化の具体的な方法

    次に、気・エネルギーを強めて浄化する具体的な方法について述べる。第一に、善行(ぜんぎょう)を行い、悪行(あくぎょう)を減らすと、気のエネルギーは増大するとされている。その意味では、気のエネルギーは、仏教の用語でいえば「功徳」にもつながる面があるということもできるだろう。

    実際に、人が利他の行為など良いことをすると、心が明るく軽く温かくなると感じるのは、気のエネルギーが増大して上昇しているからだと解釈できる。気のエネルギーは、光・熱の性質があり、それが強まると、身体の中を上昇する傾向があるからである。逆に自己中心で他を傷つけるような悪いことをすると、逆に心が暗く重たく冷たくなると感じるのは、気のエネルギーが減少し、光・熱が減少し、エネルギーが下降するからであると解釈できるだろう。

    なお、善行とは、繰り返しになるが、利他の行為であり、①積極的な利他の行為に加え、②煩悩的・自己中心的な行為=悪行を避けて他を害さないようにする行為も、仏教においては、消極的な利他の行為と解釈される場合がある。

    初期仏教では、殺生・偸盗(ちゅうとう)(盗み)・邪淫(不倫)などの「十の悪行」をなさない「十戒」の実践や、その逆に命を助ける、他に施すなどの「十の善」をなす実践が説かれた。大乗仏教では、布施(施し)・持戒(十戒を守ること)・忍辱(にんにく)(苦しみに耐えること)などの功徳が説かれる。

    第二に、気のエネルギーは、物理的な方法によって強化することができる。いわゆる身体行法である。典型的な方法が、ヨーガの呼吸法であるプラーナーヤーマである。これは、実際には「調気法」と訳され、気を調御するための特殊な呼吸法である。これによって、体の外側の気(外気)を内側に取り込むことができる。

    また、外気は、飲食によっても取り込むことができるが、例えば、食べすぎれば、取り込んだ気を消化作業のために消耗してしまう。また、冷たいものを取りすぎれば、熱エネルギーである気は減少することに注意を要する。食べすぎと冷たいものの摂りすぎは、普通の意味での健康にも良くないので控えるべきである。

    なお、善行によって気・エネルギーを高める場合と、調気法などの物理的な方法によってエネルギーを高める場合には、多少の違いがある。前者は、質の高い、清らかなエネルギーを得ることができるとされる(ヨーガで「善性のエネルギー」といわれる場合もある)。

    後者はエネルギーには違いがないが、その質に関していえば、エネルギーを取り込む先の環境条件などに左右されることがある(ヨーガでは「動的なエネルギー」といわれる場合もある)。よって、調気法は、理想をいえば、清らかな外気の場所で行うことが望ましい。また、これと同じ原理で、食べ物を通しても、人は外気を取り込むので、食事の内容に気を配ることも重要である。

    ただし、都市社会に住むたいていの人は、聖地などで呼吸法を行う機会は乏しく、自宅で行うことが多いので、その場合は、自室をきちんと整理整頓をし、換気をするなどして、気の流れを良くしておく。加えて、何らかの宗教的・霊的な手法によって浄化することが望ましい。ひかりの輪では、仏画・仏像などの象徴物の設置や、仏教の法具の聖音、瞑想用のお香などを推奨している。


    9.利他心に基づく願望は、表層意識と深層意識を統合し、大きな力を得ることができる

    願望をかなえるために、表層意識だけではなく、深層意識にもその意志を浸透させるという考えがあり、例えば、未来形の意志ではなくて「できた」という過去完了形のイメージをする手法があることなどを冒頭で述べたが、次からは、さらに深層心理と願望成就の関係について述べたいと思う。

    まず、繰り返しになるが、心理学でも仏教思想(の中の心理学)においても、人には、「自分が自覚している意識=表層意識(顕在意識)」と、「自覚していない意識=深層意識(無意識・潜在意識)」があるとされている。

    そして、深層心理学者のカール・ユングなどが主張した通り、通常の人の場合は、エゴ・自己中心的な意識によって、表層意識と深層意識は分裂した状態にある。具体的にいえば、例えば、人は、自分の自己中心的で身勝手な行為は、「忘れたい、見たくない」ので、その事実の記憶は、表層意識から排除され、深層意識の中に抑圧され、普段は自覚されていない。

    その結果として、ほとんど忘れてしまう場合さえあるが、何かをきっかけにして、蘇ってくることがある。死の危険が迫った際や、臨死体験の際に、人生全体の記憶が走馬灯のように駆け巡る人生回顧(ライブレビュー)などの事実は、表層意識では忘れている記憶が深層意識の中に保存されていることを示している。

    こうして、人の意識は、表層意識と深層意識の間で分裂しているが、人の意識全体の95パーセントは、表層意識ではなく深層意識であるといわれており、私たちが自覚しないうちに、それが私たちの行動に与える影響力は非常に大きいとされている。言い換えれば、人の心・行動は、自覚されていない深層意識によって大きく左右されているということになる。

    そこで、普通は分裂している表層意識と深層意識に対して、自己中心的な心・エゴを弱めることで、それらを統合し、意識全体を統一して、何かの願望・目的を実現しようとしたならば、意識全体の力を使うことができることになる。これは、わかりやすくいえば、迷いがない状態ということができるだろう。

    一方で、表層意識と深層意識が分裂したままで、何かの願望を実現しようとする場合には、ケースバイケースではあるが、表層意識の願望を、深層意識が阻もうとする場合も考えられる。すると、それは、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものであって、願望は実現しにくくなると考えられる。

    さらに、心理学者ユングの深層心理学では、深層心理の中に、表層意識と深層意識を含めた人の意識全体の中心として、普通は自覚されない「自己」という「内なる神」のような意識が存在しており、それは、表層意識と深層意識を統合しようとしていると主張している。

    その統合を果たすためには、それまで何らかの心の歪み・自己中心的な心の働きのために、表層意識が自覚を避けてきた自分の深層心理にある、暗部をよく自覚して内省し、自己中心的な心の働き、すなわち自分と他人の(幸福の)区別を和らげることが必要になってくる。すなわち自他(の幸福)を区別する二元的な意識から、自他(の幸福)のつながりを踏まえた一元的な意識への精神的な向上である。

    これは、仏教が説く利他心・慈悲の心の実現と通じるものがある。そして、言い換えれば、自分のためだけではなく、自他双方の全体の利益を追求する願望・目的は、表層意識と深層意識を統合し、心の全体の力を使うことができるということになる。

    これに関連して、仏教には「如意宝珠」という法具があるが、これは、意のままに願望をかなえる仏の法力の象徴であるとされる。これは、慈悲心に基づく仏の正しい願いは、自在にかなうことを意味しているが、これは表層意識と深層意識の統合された力を意味するとも考えられる。なお、如意宝珠には、その形状からして、表層意識と深層意識が統合された心の状態を象徴するという見方もあるという。


    10.大乗仏教の菩薩道・六波羅蜜から学ぶ目的達成の奥儀

    ここで、願望成就・目的達成の奥儀として、大乗仏教の菩薩道と、その修行法である六波羅蜜に関して述べたいと思う。というのは、菩薩道は、仏教の修行であるが、一人俗世から離れていく道ではなく、全ての生き物を救う実践であり、その意味では、極めて壮大な事業である。そして、その壮大な目的・壮大な事業を達成しようとする場合に、どのような修行を行うかを学ぶことは、願望成就・目的達成の奥儀を学ぶことにつながると考えられる。

    まず、菩薩道とは、全ての人々・生き物を救う(仏陀の境地に導く)ことを求めて行う修行である。そして、全ての生き物を救うために、自らが仏陀の境地に至るための修行を行う心を菩提心という。それは全ての衆生を恩人と見なす感謝の心(知恩)に基づいて、その恩に報いようとする心(報恩)によって、いまだに苦しんでいる全ての生き物を救おうとする慈悲の心を生じさせた結果であるという。

    そして、この菩提心を持った者が行う修行課題が、「六波羅蜜」と呼ばれる六つの修行である。六波羅蜜とは、「六つの完成」という意味であり、その六つとは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧であって、その六つの実践を完成させることが、六波羅蜜の修行である。

    「布施」とは、主に、他者への財物・安らぎ・教えの施しである。「持戒」は、戒律を護持して、他を傷つける悪行を避け、他を利する善行をなすことである。「忍辱(忍耐)」は、経済的な困難、誹謗中傷、教えを理解・体得する上での困難に耐え、それを喜びに変えていく忍耐の実践である。

    「精進」は、こうした修行実践を勇気をもって始め、毎日継続し、ひたすら続ける努力である。「禅定」は、瞑想による心の安定と集中であり、「智慧」は、縁起や空の道理・理法を悟り、物事を正しく見る高度な認識力であり、禅定によってもたらされる。

    そして、六波羅蜜の各実践をよく見れば、それが、これまで述べてきた願望成就のためのポイントと、非常によく合致していることがわかるだろう。

    まず、布施と持戒の実践は、利他心を培い、良好な人間関係を形成する。さらに、それによる善行の増大と悪行の減少は、その人の気のエネルギーを浄化・強化し、強いエネルギー・意志力・集中力を与える。こうして、利他心、良好な人間関係、強いエネルギーといった、願望をかなえるための重要な要素を得ることになる。

    忍辱(忍耐)は、いろいろな困難・挫折・失敗といった苦しみに逃げることなく耐えて、それを喜びに変えていく実践であるから、願望をかなえる過程での失敗の苦しみに負けずに、それを成功へのステップに変えていく実践に通じる。そして、これによって、強い意志力を培いつつ、次の精進による継続的な努力に結び付けるのである。

    精進の実践は、焦らずたゆまず努力を続けることであり、これは、過程での成功に過信して努力を緩めることなく続けることや、忍辱(忍耐)の実践とともに、過程での失敗にめげずに、それを成功のもとに変える努力を継続することにつながる。

    最後に、禅定は、願望成就・目的達成の要となる心の安定と集中をもたらすものである。そして、それによる智慧は、物事を正しく見る力・ひらめきを与え、目的達成のために正しい道を歩む力、突破口を得る力となる。

     

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気の科学・ヨーガ・健康・自己実現

  • 気の霊的科学:人類の可能性

    以下のテキストは、2016年夏期特別教本『気の霊的科学と人類の可能性 ヨーガ行法と悟りの瞑想』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1.気(生命エネルギー)の霊的科学とは

       「気」とは、体の中を流れる目に見えない生命エネルギーである。その存在は、物理学的には証明されていないが、気の思想を前提とし、それを活用する効果は、例えば、中国医学の鍼灸・指圧の治療法のように、長い歴史の中で経験的に広く認められてきた。

       その結果、鍼灸・指圧は、現代では大学で教えられ、国家資格があり、保険医療の対象にもなっているように、WHO(世界保健機関)を含め、公式に認められている事実がある。

       さらに、依然として異端の学会ではあるが、トランスパーソナル心理学会などでは、気の存在を何かしら物理量で表せないかという検討・研究がなされるなどしている。

      この生命エネルギーを表すために、気という言葉を使うのは、中国の思想の道教・仙道・気功・中国医学などである。一方、ヨーガではプラーナ、チベット仏教では風(ルン)などと呼ばれる。

     

    2.気の通り道:気道に関して

       体内には、気が流れる道がある。これを気道という。中国医学では、経絡(けいらく)(経脈(けいみゃく)と絡(らく)脈(みゃく))と言われてよく知られている。ヨーガやチベット仏教では、ナーディ(脈管(みゃっかん))と呼ばれる。

       気道の場所も気道の総数も、それぞれの思想・学派によって異なる。中国医学などでは、経脈には、12の正(せい)経(けい)と呼ばれるものと、8の奇(き)経(けい)と呼ばれるものがあるとすることが多い。ヨーガや仏教では、主に3つのナーディがあるとするが、それを含めて72000本ものナーディがあると説かれることが多い。


    3.気道の交差点:経穴、気道の密集点:チャクラ

       複数の気道が通る交差点があり、これを中国医学では、経(けい)穴(けつ)(ツボ)という。経穴の総数については複数の見解があるが、例えば、350以上の正穴(せいけつ)と250以上の奇(き)穴(けつ)があるという。

       そして、チャクラとは、ヨーガや仏教が説く、非常に多くの気道が密集しているところである。後に詳しく述べるが、体内の各種の神経(しんけい)叢(そう)や臓器に関係し、様々な能力や煩悩と関係しているとされる。


    4.気の強化と気道の浄化の恩恵:心身の健康・悟り

       そして、仏教やヨーガにおいては、①気を強化することと、②気道を浄化して気道の中に十分な気がスムーズに流れるようにすることが、その人の心身の健康、煩悩・心のコントロール=悟りを実現するために非常に役立つと考えられている。言い換えれば、「気」と「心」と「体」が深く関係しているというのである。

      まず、中国医学では、気の流れが悪い部分に、病気が発生すると考える。その意味で、病気という漢字は、「病んだ気」のために体の疾患=病気が生じるという思想を表している。よって、気を調整することで、病気を治したり、予防したりすることができると考えられている。

       また、気と、気持ち=心は、気と体の関係よりも、いっそう深く関係・同期している。気の強さや気道の状態によって、心が大きく変化するのである。気を調整することで、煩悩・心をコントロールし、悟りの大きな助けになるというのである。これについては、後に詳しく述べたい。

       そして、体操や呼吸法などの身体の操作を通して、気のコントロールを積極的に行うヨーガをハタ・ヨーガと呼ぶ。これと同じ技法は、ヨーガと同じインドを発祥とする仏教に関しても、密教の中に取り入れられた(特に後期密教とされる密教の中に)。

       しかし、気のコントロールを積極的に行うヨーガ・仏教の修行法は、日本には、実質上20世紀後半になるまでは、本格的に輸入されることはなかったと私は考えている。


    5.ヨーガのナーディの思想

       前にも述べたように、気道(ナーディ・脈管)とチャクラの位置や数に関しては、ヨーガ・仏教の各学派・宗派で異なる。私たちは、それらを総合的に研究してきた。

       その中で、図A・Bは、著名なヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師が解説する、3つのナーディと9つのチャクラの図である(『魂の科学』〈たま出版刊〉より引用)。

    ※図A↓


    ※図B↓


       まず、三つの主要なナーディは、以下の通りである。

    ①スシュムナー管
       尾てい骨から背骨(脊髄)を通って頭頂に至る。中央の気道。

    ②ピンガラ管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも右側を通って右の鼻に至る。
       右側の気道。別名スーリヤ・ナーディ。

    ③イダー管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも左側を通って左の鼻に至る。
       左側の気道。別名チャンドラ・ナーディ。


    6.ヨーガのチャクラの思想

       次に、9つのチャクラの位置と名前は、以下のとおりである。

    ①頭頂:サハスラーラ・チャクラ
    ②眉間:アージュニャー・チャクラ
    ③咽頭部:ヴィシュッダ・チャクラ
    ④胸部・心臓部:アナーハタ・チャクラ
    ⑤肝臓部:スーリヤ・チャクラ
    ⑥膵臓部:チャンドラ(マナス)・チャクラ
    ⑦上腹部:マニプーラ・チャクラ
    ⑧下腹部:スヴァディシュターナ・チャクラ
    ⑨尾てい骨:ムーラダーラ・チャクラ

       ヴェーダの聖典では、これらの9つのチャクラが説かれているが、現代のヨーガの導師は、その中のスーリヤ・チャクラとチャンドラ・チャクラを除いた7つのチャクラを主なチャクラとして強調することが少なくない。この7つのチャクラの性質に関しては、『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。

       なお、ヨーガ行者の体験の中には、これとは異なったピンガラー管・イダー管の位置を体験する者もいる。例えば、ピンガラー管とイダー管が、尾てい骨からそれぞれ直線的に右側か左側を上っていくのではなく、双方ともが左右に蛇行しながら、チャクラの部分でお互いに交差して上っていくものである。これについては、別に解説する。


    7.仏教のナーディの思想

       図Cは、チベット仏教の僧侶ツルティム・ケサン師が解説する3つのナーディと4つのチャクラである(『図説マンダラ瞑想法』〈ビイング・ビッグ・プレス刊〉229頁より)。

    ※図C↓


       まず、3つの気道は以下の通りである。

    ①ウマ・アヴァドゥーディ(中央脈管)
       下端は性器で、脊髄を通り、頭頂に至る。太さ10ミリ程とも。
       ※下端は臍(へそ)から指4本分下がった所との表現もある。
       ※位置が、脊髄ではなく、背骨の前という表現もある。
       ※管の太さは状況で変わる(右と左の脈管も同じ)。

    ②ロマ・ラサナー(右の脈管)
       中央脈管の右側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その右側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その右側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と左の脈管と絡み合っている。

    ③キャンマ・ララナー(左の脈管)
       中央脈管の左側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その左側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その左側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と右の脈管と絡み合っている。


    8.仏教のチャクラの思想

       次に、4つのチャクラの位置と名称は、以下の通りである。

    ①頭頂:大楽輪

    ②咽頭部:受用輪
       正確には、喉そのものの中にではなく、喉から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ③胸部・心臓部:法輪
       正確には、心臓ではなく、両乳房の中央の所から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ④臍:変化輪
       正確には、臍そのものではなく、臍があるところから背骨側に入った奥のあたりにある。

       なお、中央の気道の位置として、背骨・脊髄に加え、体の前面、背中とお腹の中間という3つがあるという考えもある。すなわち、体を側面から見て、前側の気道、中央の気道、後側(背骨)の気道である。


    9.チャクラでの気道の詰まりが煩悩を生じさせる

       さて、チャクラの部分で、気道に詰まりがあって、気がうまく流れず、停滞すると、そのチャクラに対応した煩悩が生じる。気道が詰まっているチャクラによって、それぞれ異なる煩悩が生じる。

       ただし、気=エネルギーが不足していれば、気道は詰まっていても、その詰まった部分までエネルギーが届いていない状態になる。この場合は、煩悩は生じない。あくまでも、エネルギーが気道の詰まった部分にぶつかり、その流れが遮られている場合に煩悩が生じる。

       すなわち、煩悩とは、流れようとするエネルギーと、それを遮る気道の詰まりの間の緊張状態が作るストレスなのである。例えば、性器のところのスヴァディシュターナ・チャクラの部分で気道が詰まると、性欲が生じるのである。

       そして、そこで性欲を満たすならば(すなわち射精をするならば)、そのチャクラの部分から、エネルギーが外に漏れだす。その結果として、エネルギーと気道の詰まりの緊張状態は一時的に解消されるから、性欲が消える。しかし、エネルギーが回復して、再び緊張状態が生じると、再び性欲が現れることになる。


    10.気道の浄化の重要性:悟り・解脱の道

       仮に、チャクラの部分の気道の詰まりを取り除くことができたとしたら、緊張状態は解消され、そのチャクラを越えて、エネルギーが上昇する。

       そして、すべてのチャクラに詰まりがなくなると、エネルギーは頭頂のサハスラーラ・チャクラに集中する。このチャクラは特別であって、このチャクラにエネルギーが集中すると、悟り・解脱が生じるとされる。

       なお、頭頂に至る気道は、中央気道だけである。よって、中央気道にエネルギーが集まるときに、心は不動となり、悟り・解脱に至るといわれることがある。


    11.気と気道の3つの状態

       ここで、エネルギーと気道の状態を以下の3つに分類することで、より理解を深めたいと思う。

    ①エネルギーが不足している場合
       煩悩は生じない。無気力な状態。意志・集中力も弱い。

    ②エネルギーはあるが、気道が詰まり、流れが阻害される場合。
       煩悩が生じる。無気力ではないが、煩悩のため心が不安定で、集中も妨げられる。

    ③エネルギーが強く、気道の詰まりもない場合。
       煩悩がなく、心が静まり、集中力が強い。高い瞑想状態。


    12.各チャクラと各気道と煩悩の関係

      さて、次に、各チャクラと煩悩の関係であるが、主な7つのチャクラに関しては、『ヨーガ・気功教本』に詳説したので、そちらを参照されたい。

       残りの二つの副次的なチャクラのうち、スーリヤ・チャクラは、「太陽のチャクラ」ともいわれ、小さな太陽のような形をしており、肝臓の右側にあって、火元素優位だとされる。食物の消化作用を助けている。

       このチャクラの部分で気道が詰まると、怒りが生じるという。それは、実際に怒りを表現せずに、内面に怒り・ストレスをため込んでいる状態の場合もある。この怒りは、ムーラダーラ・チャクラの怒りよりもレベルが高く、単に「嫌だ嫌だ」というのではなく、他人の問題に対して怒る場合などがある。

       チャンドラ・チャクラは、「月のチャクラ」ともいわれ、球形であり、膵臓と脾臓の近くにあり、膵液の分泌に関係しているとされる。

       このチャクラで気道が詰まると、無智の煩悩が生じる。無智とは、仏教では根本煩悩といわれ、物が正しく考えられない状態である。具体的には、単純に物が考えられない愚鈍な状態、動きが鈍い、目先の快楽に偏る、怠惰である、(自己中心で)他に冷淡・無関心といった状態をもたらす。さらに、間違った霊的・宗教的な探求・魔境、イメージ上の性欲、覚醒剤の使用にも関係するともいわれる。


    13.3つの気道と煩悩の関係

       中央・右・左の3つの気道が、仏教の3つの根本煩悩である貪(貪り)・瞋(怒り)・痴(無智)に関係しているという考えがある。どう対応するかというと、以下のとおりである。

    ①中央気道:貪り・執着
       どういう対象への貪りかは、どのチャクラの部位で、中央気道が詰まるかによる。
       なお、この気道だけは、他の気道と異なり、頭頂のチャクラに通じており、どこも詰まっていなければ、解脱・悟り・真理に対する貪り=探求心・求道心が生じることになる。

    ②右気道:怒り
       どういう性質の怒りかは、どのチャクラの部位で、右気道が詰まるかによる。

    ③左気道:無智
       どういう性質の無智かは、どのチャクラの部位で、左気道が詰まるかによる。


    14.各チャクラの3つの詰まり

       この3つの気道は、各チャクラを通っている。そこで、各チャクラの中央や右側や左側で気道が詰まっているならば、そのチャクラに対応する煩悩に加え、貪り・怒り・無智の煩悩も、加わっている可能性がある。

      例えば、スヴァディシュターナ・チャクラの右側で詰まっている場合は、そのチャクラに対応する煩悩である性欲に関係する怒り、例えば、異性への性愛に絡んだ怒りが生じる可能性がある。

       こうして、サハスラーラ・チャクラを除くと6つの主なチャクラがあるが、それぞれが3つの気道と関係しているので、全部で18か所の詰まりのポイントがあることになる。それに加え、チャンドラとスーリヤの2つのチャクラがある。


    15.気道の浄化の方法:身体行法・瞑想・戒律・聖地

       気道の浄化の方法としては、物理的な方法、すなわち、ハタ・ヨーガなどの身体行法によるものと、精神的な方法がある。

       ハタ・ヨーガなどの身体行法として、アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラーが有効である。この詳細は『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。

       なぜ有効かというと、気道の詰まりは、経験的に言って、①筋肉や関節をほぐす、②血流を増大させる、③体を温める、④深い十分な呼吸によって浄化することができるからである。よって、アーサナ(体操・体位法)やプラーナーヤーマ(呼吸法・調気法)が有効なのである。

       また、ヨーガ行法以外にも、同じような効果を持つ修行法として、気功の行法、歩行瞑想、(温泉の)入浴などは有効である。また、中国医学の鍼灸・指圧・マッサージなどが、気道の浄化に有効な理由もわかるだろう。

       なお、プラーナーヤーマやムドラーは、尾てい骨に眠っているプラーナ(気・生命エネルギー)の親玉ともいうべきクンダリニー(宇宙エネルギー・根源的生命エネルギー)を覚醒させる効果がある。

       このクンダリニーが覚醒すると、その力強いエネルギーの上昇によって、ナーディを物理的に浄化することもできる。たとえて言えば、詰まった配管を高圧洗浄するようなものである。

       次に、精神的な方法であるが、一つは、煩悩を和らげる瞑想である。気道の詰まりは、煩悩と一体不可分である。よって、何かしらの精神的な作業、煩悩を和らげる効果を持つ思索ないしは精神集中によって、煩悩が和らげば、同時に気道も浄化されることになる。これは、ヨーガでは、ジュニャーナ・ヨーガやラージャ・ヨーガの実践に分類されるだろう。

       二つ目は、日ごろから悪行を慎み、善行に励むことである。宗教的な表現では、戒律を守る、功徳を積むことである。悪行は、煩悩を増大させ、気道を詰まらせる。言い換えれば、気道を詰まらせているものが、煩悩の原因である悪いカルマという考え方がある。

       なお、カルマ(業)とは、過去の行為の後に残存する潜在的な力のことをいうが、悪いカルマは気道を詰まらせ、良いカルマは気道を解放する力・効果を持っているということである。

       よって、日ごろから悪行を慎み、善行に励めば、おのずと気道は浄化される。ただし、それだけでは、十分には浄化できないために、上記の身体行法や瞑想などによっても浄化するのである。

       三つ目は、神聖な環境に身を置くことである。体の中の気(内気)の状態は、体の外の環境の気(外気)の状態と繋がっており、大きな影響を受ける。すなわち、神聖な気・波動に満ちた聖地に身を置くと、内気も浄化することができるのである。

       ひかりの輪では、修行の四つの柱として、①教学(正しい考え方の学習)、②功徳(悪行の抑止と善行の励行)、③行法(身体行法や瞑想実践)、④聖地巡り(や自宅の霊的な浄化)を掲げている。これは皆、気を強化し、気道を浄化する効果がある。


    16.善悪を感じる身体への進化:人類の革新へ

       気を強化し、気道を浄化することに成功すると、エネルギーがスムーズに身体を流れていく結果として、心身が軽快で楽になり、心の安定と広がりが生じる。また、クンダリニーの覚醒に成功すると、そのエネルギーによって、内的な歓喜も生じる。

       そして、これは、修行者が悪行を回避し善行を励行する上で、非常に重要な変化をもたらす。というのは、奪い合いなどの悪行をなせば、気道を詰まらせ気を弱めるため、心身が不快となり、分かち合いなどの善行をなせば、心身が心地よくなるからである。

       普通の人は、煩悩・欲望・奪い合いなどは、頭では「悪い」とわかっているが、体や心がそれを求めてしまう。また、逆に、分かち合い・慈悲は、頭では「善い」とわかっているが、体や心は「辛い」と感じる。

       つまり、頭と心と体がバラバラであり、理性と感性が、矛盾・葛藤しているのである。これが、現代の社会になっても依然として、個々人が善悪を十分に分別して行動できない理由であるし、無数の事件・紛争が続いている理由である。

       しかし、気の強化と浄化を進めていくならば、善いことをすれば心身も「気持ちよい」と感じ、悪いことをすれば心身も「気持ち悪い」と感じる状態に、いわば「進化」することができるのである。

       言い換えれば、善悪を理解する頭に加え、「善悪を感じる体」を持つことができるようになる。これは、都市文明が始まって以来、数千年もの間、人類が現在に至っても克服できていない奪い合いや戦争を乗り越えるための決め手になるのではないだろうか。だとすれば、これは、人類の革新・進化であろう。


    17.ヨーガや仏道修行の様々な恩恵:高い集中力など

       ここで、気を強化・浄化するヨーガや仏道修行の恩恵を列挙しておきたいと思う。

       第一に、それは、悟り、すなわち、心の安定と広がりを与える。そして、心の安定は、正しい判断力や直観力を含めた智慧を高めることになる。

       第二に、気の状態と密接に関連する心身の健康を向上させる。そして、心身を軽快で楽にして、究極的には、内的な歓喜をもたらす。

       第三に、物事の達成・人生の成功をもたらす。すでに述べた安定した心、智慧、健康に加え、気の強化・浄化ができていれば、前に述べたように物事を実現するために必要な強い意志・集中力が得られるのである。

       特に、仏教・ヨーガの修行が深まると、禅定・サマディなどと呼ばれる深い瞑想状態に至る。それは、心が深く安定し、非常に高い集中力を持った状態である。無心の集中力とでもいうべき状態である。

       これは、スポーツの世界で選手が最高のパフォーマンスを発揮する際の特殊な心理状態である「ゾーン状態」や、心理学で何もかもが流れるようにうまくいく心理状態とされる「フロー状態」に深く通じるものである。

       その状態に入った選手は、勝敗の結果を気にする雑念がなく、無思考の状態であり、流れるように最善の動きをするという。まさに、無欲の極限的な集中状態である。

       そして、これを偶然・偶発的に体験するのではなく、継続的な訓練によって作り出そうとするのが、ヨーガや仏教の禅定・サマディの修行である。

     

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  • 現世幸福の教え

    以下のテキストは、2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行  不動心・人間関係・健康・自己実現』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

      ここでは、私が、現世幸福に関する宗教的な智恵と考えるものを、いくつか紹介したいと思う。

    これは、巷にあふれるお金儲けや成功術のノウハウを紹介する書籍などとは大きく違い、あくまでも宗教的な智恵の枠組みの中から、現世を幸福に健やかに生きていくための教えを紹介するというものである。

    よって、現世の幸福の智恵といっても、際限なく欲楽を貪ることをよしとする価値観に基づいたものではない。ひかりの輪が、その中核の思想として説いている、万人・万物を一体・平等と見る輪の思想や、それに基づく万人・万物への感謝・尊重・愛といった価値観に矛盾しないものであることを、前もってご理解いただきたい。

    ※「精神的・宗教的な智恵」という言葉についての補足
      ここでいう「精神的・宗教的な智恵」とは、盲信の危険をはらむ宗教の信仰の話ではないことを補足しておきたい。智恵という言葉は、正に叡智・知性・理性に通じるものであることからわかるように、「宗教的な智恵」とは、宗教の思想の中で理性によって納得することできるもの、理性に基づいて再解釈したものである、「宗教哲学」と同じ意味合いで使っている。

      特に、ここでは、仏教の中の悟りの思想哲学に関する話である。悟りの思想は、人の多くの苦しみは、自己に対する過剰な愛着に原因があり、瞑想その他の修行により、過剰な愛着を弱めることで、苦しみを弱めることである。これは一種の高度な心理療法ということもできる。

      たとえば、鬱病やストレスに対する最新の心理療法の一つである「マインドフルネス心理療法」は、仏教の念(=マインドフルネス)の瞑想法の応用であることからも、仏教の説く苦しみ・ストレスを和らげ、悟りに近づく思想と実践は、理性による批判を許さない盲信とは違う、幸福の人生哲学である。


    1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心

      人生は、山あり谷ありで、喜びもあるが、同時にさまざまな苦しみがある。それは、毎日のさまざまな苦しみから、学業・仕事・事業での失敗・挫折・敗北や、失業・倒産・病気・事故を含めた人生の危機まで、さまざまである。

      特に近年の日本は、高度成長期が終わり、バブル崩壊後の停滞する経済の時代となった。リストラ・失業・鬱病等の精神疾患・自殺者は増大した。市場原理主義の導入による競争の激化により、厳しさを増す労働環境の中でのストレスが増大し、勝ち組・負け組といわれる貧富格差の拡大や、若者のワーキングプアといった問題も起こっている。

      今後の社会全体を見ても、東日本大震災・原発事故・地球温暖化に見られる自然災害や環境問題や、少子高齢化・消費増税・巨額の国家債務による財政破綻の危機、さらには、近隣諸国との外交領土問題・安全保障問題など、さまざまな不安要素も抱えている。

      こうしたさまざまな問題に対しては、その解消のために、絶えず個々人から政府までが努力しているが、全てを解消することは、到底できそうもない。よって、こうした問題が起こったとしても、それに対していかに絶望することなく、強くて安定した前向きな心を保ちながら生きていくかという智恵が、非常に重要なものとなる。ここでは、そうした不動心を得るための宗教的な智恵を紹介したいと思う。


    (1)私の人生体験について

      まず、その前提として、私自身の人生体験について多少述べたいと思う。一言で言えば、私は、よく「地獄体験」といわれるものを繰り返してきた。

      オウム真理教の時代から、私は、仏教的な智恵を学び、不動心を追い求めてきた。87年に出家した私は、ストイックな戒律の下での生活と極限的に厳しい修行、慣れない海外生活と教祖の与える宗教的な試練の連続に耐え、88~89年頃になると、不動心を得ることに、一定の結果を感じ始めていた。

      ところが、その前後から、教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。

      その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。その中で、事件の直前にロシアに赴任した私は、紙一重でその難を逃れることとなったが、教団の破綻は、痛烈な精神的な打撃であったし、近しい同僚が刺殺されるという生命の危機や、社会的に四面楚歌の状況を生み出した。

      さらには、自分も、偽証という比較的軽微な罪であったが、逮捕・起訴され、数年にわたる独居房での勾留・受刑を経験した。受刑中に、麻原の中心の教義だった予言が外れるとともに、麻原自身が奇行・不規則発言を始め、精神的に深く麻原に依存していた私は、独居房の孤独の中で、精神的にも追い詰められていった。

      さらに、99年の出所近くになると、外の信者と地域住民との摩擦が非常に激しくなり、団体を監視する新しい法律が、最高幹部の私の出所を警戒するものとして「上祐新法」とも呼ばれるなどしたために、相当の精神的なプレッシャー・葛藤が生じた。ただ、このプレッシャーに対して、麻原とは関係なく、自分自身の仏教的な思考・瞑想で、自己愛・我執を弱めることで、非常に深く静まった精神状態を体験した。これは以後の自分の精神の安定の土台となった。

      99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。

      しかし、2003年頃になると、自分なりの思想が芽生えて、オウム時代を反省して、教団を改革しようとしたが、麻原やその家族を絶対視する保守的な人々の激しい反対を受け、結果として、自室に事実上幽閉され、再び勾留同然の状態となった。その中で、自分の今後の方向性に関して深く葛藤・逡巡(しゅんじゅん)した。

      一年半ほどして、2004年の末になると、自分に賛同する人々が増えたことに意を強くして、自分の考えを貫くため、麻原の家族に反旗を翻し、その幽閉状態を破り、独自の活動を始め、教団を割ることになった。その後も、麻原を絶対視する人々からの激しい批判・拒絶・妨害・追放を経験し、2006年には二つのグループを施設や経済の面で完全に分離することになった。

      その後、2007年になると、私たちのグループは、精神的な進化を深め、麻原信仰を払拭して、アレフを集団で脱会し、ひかりの輪として独立した。しかし、その後も、様々な人たちの理解・協力・支援によって、徐々に改善されつつあるが、依然として、社会からの誤解・批判・圧力が続いてきた。

      また、今はすでに収まっているが、この過程においては、団体内部においても、過去の信仰を放棄するという一種の自己破壊のプロセスや、従来の団体の財務を支える仕組みの放棄のために、さまざまな精神的なストレス・動揺・混乱・摩擦・失敗が発生し、一部ではあるが、鬱病にかかる者も現れた。さらに高齢化のために、認知症や身体障害を患った高齢者の介護の問題も生じた。こうして、厳しい財務状態の中で、オウム事件の被害者賠償の履行に四苦八苦した。

    そうした中で、昨年2012年に至って、オウムの逃亡犯全員が逮捕・収監されたことを一つのきっかけとして、テレビ・週刊誌などのメディアに復帰し始め、年末に大手出版社から、オウム時代の総括本を出版した。

      その後は、今年2013年は、トークショー・ネット番組・講演会に招かれることが多くなり、東京や大阪ではすでにさまざまな方々や団体にご招待いただき、福岡・札幌・熊本・沖縄などでもご招待いただいている。最近は、宗教関係の著名な映画・書籍の批評の依頼を受けることもままあり、去年に引き続き、間もなく対談本を発刊する予定となっている。こうして、ようやくではあるが、社会復帰の途に着くに至りつつある。

      こうしたわけで、過去20年以上、一種の地獄体験の連続であったが、その中で結果として殺されもせず死刑にもならず、ノイローゼにもならず、賠償負担を負って厳しい中で、何とかではあるが、一団体の代表を務めてきたことは、自分の力ではとうていなく、厳しい社会環境の中でも、さまざまな人々の貴重な手助けがあったからこそであり、さらには、人智を超えたさまざまな幸運のおかげであった。

      そして、以下に私が述べることは、こうした地獄体験の連続を通ってきた者による、実体験・実感に基づいたものである。

     

    (2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵

      先ほど述べたさまざまな苦境において、私を精神的に助けた大きな要素が、苦の裏に楽があるという考え方だった。これは、仏教開祖の釈迦牟尼の思想でもあり、苦楽表裏などといわれる。快楽の裏には苦しみがあるが、苦しみの裏にも喜びがある。特に、苦しみによって、正法に対する信仰が芽生えると説く。それほど苦しみがない状態では、人は、自らの間違った執着などを反省しないというのだ。苦しみがあってこそ、その原因となっている過剰な執着を反省するという。

      また、受刑中に、昭和の希代の実業家となった松下幸之助(パナソニック・松下電器の創始者)の著書を読んだ。その中には、彼が苦境にあった時に、「この苦しみは、将来の幸福のために必ず役立つ」と自分に言い聞かせてきた体験が切々と書かれていた。そして、彼は、病弱だったから他に頼む術を憶え、学歴がなかったから他から素直に学べ、お金が無かったから丁稚奉公に行って商人の機微を学んだとして、「自分の不遇・苦しみを、逆に活かしてきた」と語っていた。

      そんな中で、私も、オウム真理教の深刻な失敗・挫折に対し、それを重要な教訓として活かし、それを完全に乗り越えた新しい思想、新しい知恵の学びの場を創造することを志すことにしたのである。それは、最初は理解されにくくても、長期的には社会の役に立つはずだと考えた。

      なぜならば、オウム真理教の問題は、オウム真理教に限らない。世界全体の原理主義的な宗教の問題であるし、さらには自己の教祖や教団を絶対視する従来型の宗教に広く当てはまる問題である。そして突き詰めれば、オウム真理教を生んだ戦後日本社会が、依然として乗り越えていない、敗戦までの自国を絶対視した大日本帝国体制にも共通した問題である。

      それがゆえに、この問題を完全に乗り越えた思想を創造することは、オウム真理教的なさまざまな問題を解決するために役立ち、他のカルト教団・原理主義組織に限らず、日本社会全体が過去の過ちを繰り返さない方向にも役に立つと考えた。そして、今そのためにさまざまな取り組みを行い、それが徐々に、前に述べたように、社会の一部に受け入れられ始めている。

      こうして、苦しみの裏に喜びがある。苦しみは、宗教的には執着を捨てる悟りへの道だし、世俗的にも失敗・挫折・批判は、反省と改善を通して成功・脱皮・称賛の始まりとなる。失敗は成功へ、挫折は脱皮に、批判は称賛につながる。

      逆に、苦しみ少なく、楽が多すぎれば、自分を鍛える機会を得にくい。成功の体験ばかりで失敗・挫折の体験がないと、失敗・挫折に対して精神的にもろくなったり、過去の成功体験によるプライドにとらわれたりして、失敗・挫折を直視できずに失敗する。称賛に慢心を起こせば、ゆくゆく批判されるようになる。成功・称賛が、失敗・批判につながる。

      こうして、苦境にある時には、その苦しみばかりに目を向けずに、なるべくその裏にある利点を捜すべきである。必ず何かの利点があると考えるのだ。格言で言えば、人間万事塞翁が馬、ピンチの裏にチャンスあり、死中に活を求めるである。

      この際、苦しみから逃げてばかりいて、例えば自分の失敗を認められなかったりすると、その苦の裏にある利点は見つからないし、失敗を成功の元にする道は見いだすことができない。死中に活という視点では、これまでの自分の死を恐れていては、新たな生=脱皮・進化はできない。人の脱皮・進化とは、死と再生、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。

      なお、日常生活でよく経験する失敗・挫折・批判・病気・経済苦といったさまざまな苦しみの裏側に、一般論として、どんな喜びがあるかについては、例えば、前回のセミナーの特別教本(2012年~2013年 年末年始セミナー特別教本)などでも述べているので、その一部を下記に引用しておく。

    「個々別々の苦しみを恩恵とみる事例」

    ① 病気の苦しみ
      病を得て、生活習慣を改め、体を労(いた)われば、健康・長寿を得る機会に変えることができる(いわゆる一病息災)。また、病気になって初めて、自分を支える人の恩恵に気づくことも多い。

    ② 経済の不安(最近よく聞かれる日本人の苦しみ)
      そもそもが、恵まれている日本人という視点を持てば、貪りや浪費を反省し、質素倹約を培う機会であり、途上国の貧しい人たちへの慈悲を培う機会ともなる。
    さらには、自己の所有物ではなくて、大自然など、皆が共有しているものが、真の宝であると悟る機会ともなる。

    ③ 批判・誹謗
      正しい批判は、自分を改善し、自分の未来のためになるものである。その意味で批判されなければ、自分に良き未来はない。間違った批判は忍耐力を養い、それに動じなければ、長期的には自分の評価を高める機会となる。すなわち、批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」という欲求が作り出すものである。

    ④失敗・挫折
      その裏に恩恵がある。努力を続ける限りは、それは、成功・成長へのステップである。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれる。失敗は、これでは成功しないことを知るという成功へのステップだ。すなわち、失敗、挫折の苦しみは、すぐに成功を望む欲求が作り出すものである。

    ⑤怒り・軽蔑の対象
      悪行をなしている他人も、謙虚な心で見れば、自分の反面教師であり、その意味で、助力者である。仮に、全く反面教師なく、自力だけで間違いを避けることができるかを考えるとよい。

      自分の幸福を邪魔するように感じられる妬みの対象も、「感謝の法則①」で述べたように、よく考えれば、実際には、自分よりも必ずしも幸福ではないことがわかる。また、優れた他人に対する妬みの場合は、実際には、その人たちは、自分の見本であり、貴重な切磋琢磨の対象である。そうした存在なく、自分だけの力で向上することができるかを考えるとよい。

     

    (3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵

      また、苦境に強い人の性格として、そういった状況でも、依然として自分が得ている恵みを意識できることがある。たとえば、失業しても、健康な体と愛する家族がいることに感謝して、絶望せず、それを土台として再び立ち上がっていくとか、病気になっても、支えてくれる家族や知人がいることに感謝して、人間の幅を広げて再び立ち上がっていくなどである。

      しかし、苦境に弱い人は、そういった状況になると、全てを失ったかのように錯覚し、「自分はもうだめだ、おしまいだ」と考えてしまうことがある。しかし、実際に、私たち日本人は、安全・長寿・豊かと三拍子揃った社会に住んでおり、いかなる苦境であろうと、視点を変えれば、大変な恵みにある。

      例えば、民族紛争・感染症・飢餓貧困に悩む途上国の人から見れば、王侯貴族である。途上国では、常に水も電気も燃料も不自由なところもあり、毎日が東日本大震災の被災地のような環境条件である。百年・二百年前の日本の人々から見れば、天国のような恵みに恵まれている。

      この意味では、苦しみ・苦境とは、実際には、比較の問題であって、途上国や昔の人から見れば、私たちが苦境と考えるものは、苦境とは感じられないだろう。あまりに恵まれた私たちが、その恵みに慣れ過ぎて感謝を失っているがゆえに、苦境と感じられるともいうことができるのだ。

      こうしたことを考え、苦境に立ったときに、依然として自分には、さまざまな恵みがあることや、この世界には、はるかに苦境にある人たちが無数に存在することを考えるならば、苦境に強くなることができるのではないだろうか。


    (4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵

      さて、仏陀の教えでは、全ての苦しみの根本的な原因は、過剰な自己愛である。自と他を区別して、自己を偏愛する心の働き。自我執着ともいう。これは、自分自身(心や身体など)に対する執着(我執(がしゅう))と、自分のもの(財物・地位・名誉)に対する執着(我所執(がしょのしゅう))がある。

      これをわかりやすくいえば、人は、他者よりも自分を愛し、死を恐れ、天寿を無視して、永久に生きていきたいと思うことが多い。だから、自分が老い、病み、死ぬことを恐れる。しかし、自分が生きるには、他の生き物が食べ物などとなって犠牲になる(自分の生の裏に他の死がある)。多くの生命体が死ぬからこそ、多くの生命体が生まれても、地球の生命圏のバランスが取れる。人間が不死となれば、人口が爆発し、飢餓や戦争が起こる。

      さらに、人は、他人よりも、自分の財物・名誉・地位を増やそうとし、その欲望には際限がないことが多い。しかし、それを言い換えれば、いくら得ても満ち足りることがなく、さらには、得られない時の苦しみ、得たものを失う時の苦しみ、他と奪い合う苦しみが生じる。実際に、これまでの人類の歴史の一面は、貪り・争い・戦争の歴史であった。

      このように考えていくと、自分と他人を区別し、自分だけ過剰に愛する自我執着が、苦しみの根本原因であることがわかる。そして、仏陀の教えでは、この自我執着を弱めるためのさまざまな教えがある。その典型が、釈迦牟尼の直説とされる無我(アナートマン)という教えである。

    これは、私たちが通常「これが私である」と思い込んで執着する自己の心身について、実際には、身体は老い・病み死ぬものであり、心も絶えず移り変わっていく、無常で実体がないものであることを考え、それらが、本当の意味で私ではなく、私のものではなく、私の本質ではないなどと瞑想するものである。また、これとほぼ同様の四(し)念処(ねんじょ)・五蘊(ごうん)無我といった教義・瞑想がある。

      この瞑想の目的は、自我執着を和らげることであり、一言で言えば、自我執着に基づく思考を減少させることだ。自分のことばかりを過剰に愛して、それゆえに悩み続ける思考を弱め静めていくことである。ようするに、自分のことばかり考えるのを止めてしまうのである。

    こう言えば、何か簡単なことに思えるかもしれない。しかし、それは単純なことではあっても、簡単ではない。この単純なこと、自分のことばかり考えないようにすることを阻んでいるのが、自分に深く執着してきた長い習慣であって、そのために、自分のことばかり考えないようにしようとすると、不安・恐怖などが襲ってくることが多い。

     それゆえに、この境地を体得するには、従前から仏教的な思想を学び、無我の瞑想の練習をした上で、自分のことを考えることをやめないことによる苦しみが、自分のことを考えることをやめる不安や恐怖をしのぐような状況、すなわち、一種の試練・苦境を体験する場合が多いと思う。

      私の場合は、前に述べたとおり、オウム時代の初期に、こうした仏教的な考え方の学習や訓練がある程度なされていたので、それに馴染んでいった時期があって、その後、オウムが破綻した後に、元教祖から離れて、獄中で独りで苦悩する中で、あらためて無我の瞑想を行って、それを体得していった経緯がある。それ以来、たいていのことでは動じないようになり、今もそれを訓練し続けようと努めている。

      この瞑想を体得するならば、非常に静かな、静まった意識状態を体験する。不要な思考は停止している。それは、オカルト的な霊的体験とは違った意味で、神聖な感じさえする状態である。

     

    (5)無我と直感:静まった意識に生じる直感

      そして、この静まった意識状態においては、現実の問題を突破するアイディア・直感・インスピレーションが浮かびやすい。

    苦境にあって、自我執着が強すぎると、例えば、「失いたくない」という不安ばかりが先立って、いろいろと考えてはいても、悩んでいるだけで、エネルギーを消耗するばかり、空回りすることが多い。さらに、不安・焦りなどで混乱・狼狽した精神状態から、さらに苦境を深めるような過ちを犯す場合も少なくない。
     

    一方、無我の静まった意識状態では、こうした精神的な混乱はなく、落ち着いて物事を見ることができる。また、こだわりがないゆえに、こだわりによって見えなかった突破口も見えてくる。さらに、不思議なことだが、こうした意識状態においてこそ、直感・インスピレーションが生じやすい。仏教の経典の一部も神通力を説くものがあるが、それは煩悩・欲望が静まった人間の精神に生じる、高度な智恵のことを意味するのではないかと思う。


    (6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り

      輪の法則は、無我の法則をさらに推し進めたものだ。先ほど述べたように、自我執着の根本には、自と他を区別する心の働きがある。自と他を区別して、自己を偏愛するのが自我執着だ。 

    一方、輪の法則とは、万物が一体平等という思想であり、私たちが日常的になしている自と他の区別とは、厳密には錯覚であって、実際には自と他を含む宇宙の万物は一体であるという真理を示している。

      これは科学的に、自分や他人、自分と外界を観察すればわかる事実・現実である。どんな人間も一人だけで生きることなどできず、絶えず空気・水・食べ物などを外部から取り入れ、排出して、外界と一体となって生きている。人は宇宙の一部であり、「私」とは他から独立した存在ではなく、いわば、宇宙の中に「私」と名付けられた場所があるようなものである。しかも、その場所の範囲は、絶えず変化しており、その内と外に明確な境界はない。

    この真理を悟るならば、単に心が静まるだけでなく、自と他の区別を超えた、広く温かな意識が生まれてくる。それは、万物との一体感であり、万物に支えられていることを認識した万物への感謝・尊重を伴う意識である。私は、これが大乗仏教の説く悟りの境地だと考えている。この境地を垣間見るようになれば、自と他の区別に基づく自我執着は相当に弱まっており、さまざまな苦しみも同時に減少する。


    (7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント

      さて、これらの法則を言葉で言ってしまうと簡単な面もあるが、実際に体得・実践するのは、一筋縄ではいかない場合もある。それが容易であれば、ある意味では、誰もが苦しみを容易に脱却できているだろう。しかし、苦しみは苦しみ、喜びは喜びと見て区別する、これまでの習慣によって、なかなか苦しみの裏側に、喜びが見いだせない場合もある。

      実際に、苦しみの裏に喜びがあるといっても、こうした法則は、いわば一般論、公式であって、自分の苦しみ・苦難に具体的に当てはめて、自分の場合は、どのような喜び・利点が、その裏にあるかを見いだすことは、また別である。すなわち公式の応用力・適用力の問題があるのだ。

      また、世間一般は、苦しみの裏に喜びを見いだすことがない中で、そのように信じて見いだす努力をすること自体に、本当にそうなのだろうか、本当にそう考えられる自分になれるのだろうか、という心細さを感じることもあるだろう。

      そこで、仏陀が説いたのは、同じ志を持った者が集まり、助け合ったり、切磋琢磨したりすることの重要性ではないかと思う。仏陀の教えは、仏・法・僧と訳される三宝を尊重することを説いた。サンスクリット語では、ブッダ・ダルマ・サンガといわれる。

      ブッダ(仏)は道理・法則に目覚めた人であり、ダルマ(法)はブッダの教え・法則である。そして、サンガは、僧伽(そうぎゃ)・僧と音訳される。その意味を表す漢訳は、「衆(しゅ)」、「和合(わごう)衆(しゅ)」などである。すなわち、サンガの元の意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。

      こうして、仏教では、サンガは、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重された。サンガは、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。なお、狭い意味では、サンガは仏教の出家者の教団を指す。

      ところが、中国や日本では、出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じた。そのため、僧という言葉が、集団・集会を意味する本来のサンガ(僧伽)とは、大きく違った意味で用いられるようになった。

      それはともかく、学業や武道をはじめ、どのような習い事も、同じ志を持つ者たちが、道場や教室などを場として集い、先輩後輩の間で助け合ったり、互いに切磋琢磨したりすることは、大きな効用がある。

      法則も、単に頭から知識として学ぶのではなく、それを長く深く実践してきた先輩などと直に接して感化を受け、肌から学ぶ、心と体から学ぶ部分があるのは、いうまでもない。
    これによって、独りでは、なかなか法則を体得できず、それどころか、疑問も多々わいて、心細くもあるといった問題を和らげることができる。ひかりの輪も、各地に教室を設け、専従スタッフが運営し、それが良きサンガとなることを志している。

      さらに、ひかりの輪は、サンガの良さをフルに生かしたものとして、「悟り集中修行」というものを行っている。それは、ひかりの輪の支部教室にて、法則を学び体得する者が集い、丸一日ないし数日の間、集中した修行実践をするものである。

      皆がよく集中できるように、一人一人のために一定の個別の空間を作り、その中で、他の用事・雑務を排除して、集中的に法則の学習を行い、法則に基づいた思索を深め(法則を自分の問題に当てはめる)、法則に基づいた思考を修習・瞑想する。

      これは、浄化された空間、同じ志を持った者が集うことによる目に見えない相乗効果、先輩の助言・助力といった環境と、各人が他の用事を排除して法則の体得に一定の長時間の間、専念・集中するといった条件が相まって、法則の体得に、大きな効果を発揮する。

     


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  • ヨーガの歴史と全体系

    以下のテキストは、2017年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学とヨーガの歴史と体系 転生思想と大乗仏教の哲学』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.ヨーガを生んだインドの古代宗教

    ヨーガを生んだインドの古代宗教の源として、ヴェーダと呼ばれる宗教文書がある。これは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称である。なお、「ヴェーダ」は 「知識」の意である。

    ヴェーダは、バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも、多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けてきたものが後世になって書き留められ、記録されたものである。

    ヴェーダは、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれ、特定の作者によって作られたものではなく、永遠の過去から存在していたとされ、霊感に優れた聖者達が神から受け取って顕現したと考えられている。

    そして、口伝でのみ伝承され、長らく文字にすることを避けられ、師から弟子へと口頭で伝えられたが、後になってごく一部が文字に記されたとされる(ヴェーダ、特にサンヒターの言語は、サンスクリット語とは異なる点が多く、ヴェーダ語と呼ばれる)。

    広義でのヴェーダは、

    ①サンヒター(本集)
    ヴェーダの中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)で構成

    ②ブラーフマナ(祭儀書・梵書)
    紀元前800年頃を中心に成立、散文形式で記述、祭式の手順や神学的意味を説明

    ③アーラニヤカ(森林書)
    人里離れた森林で語られる秘技、祭式の説明と哲学的な説明

    ④ウパニシャッド(奥義書)
    哲学的な部分、インド哲学の源流、紀元前500年頃を中心に成立、ヴェーダーンタ(「ヴェーダの最後」の意)を含む。

    狭義では、サンヒターだけをヴェーダといい、①リグ・ヴェーダ、②サーマ・ヴェーダ、③ヤジュル・ヴェーダ、④アタルヴァ・ヴェーダ、という4種類がある。ヴェーダは一大叢書(そうしょ)であり、現存するものだけでも相当に多いが、失われた文献をあわせると、さらに膨大なものになると考えられている。


    2.バラモン教とは

    バラモン教は、『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、バラモンと呼ばれる司祭階級が行う祭式を中心とする。

    バラモンは特殊階級であり、祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われ、生贄などの儀式を行うことができる。なお、バラモンは、正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」のために、日本ではバラモンと呼ばれる。

    バラモン教の最高神は一定しておらず、儀式ごとに、その崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。また、バラモン教では、人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命が決まるとされ、悲惨な状態に生まれ変わることに不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。

    バラモン教では、階級制度である四姓制があり、それは、①司祭階級バラモンが最上位で、②クシャトリヤ(戦士・王族階級)、③ヴァイシャ(庶民階級)、④シュードラ(奴隷階級)によりなる。これらのカーストに収まらない人々は、それ以下の階級パンチャマ(不可触民)とされた。

    カーストの移動は不可能であり、異なるカースト間の結婚はできない。

    バラモン教の起源は、紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程で作られたとされる。紀元前10世紀頃に、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まった。

    そして、紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成された。そして、紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して、宗教としての形がまとめられ、バラモン階級の特権がはっきりと示されるに至った。


    3.バラモン教からヒンドゥー教へ

    しかし、これに反発して、今も残る仏教やジャイナ教を含めた、多くの新しい宗教や思想が生まれた。これらの新宗教は、バラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持された。こうして、1世紀頃には、バラモン教は、仏教に押されて衰退した。

    しかし、4世紀頃にバラモン教を中心に、インドの各民族宗教が再構成されて、ヒンドゥー教に発展し、継承された。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わったが、バラモン教やヴェーダでは、シヴァやヴィシュヌは脇役であった。このため、バラモン教は、古代のヒンドゥー教と解釈してもよいだろう。

    なお、バラモン教(英:Brahmanism、ブラフミンの宗教)という言葉自体が、実は英国人が作った造語である。それは、先ほど述べたように、仏教以前に存在した、ヴェーダに説かれる祭祀を行うバラモンと呼ばれる祭祀階級の人々を中心とした宗教のことを指す。

    また、英国人は、バラモン教の中で、ヴェーダが編纂された時代の宗教思想を「ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)」と呼んだ。これは、バラモン教とほぼ同じ意味だが、バラモン教の方が一般的によく使われる。

    そして、ヒンドゥー教(英:Hinduism)も、英国人が作った造語であり、すでに述べたように、インドにおいて、バラモン教が、民間宗教を取り込んで発展的に消滅して出来た後の宗教を指す。なお、インド人の中では、特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前はなかった。

    なお、ヒンドゥー教という言葉が、広い意味で使われる場合には、インドにあった宗教の一切が含まれ、インダス文明まで遡るものである。ただし、一般的には、アーリア人のインド定住以後、現代まで連続するインド的な伝統を指す。

    そして、バラモン教の思想は、必ずしもヒンドゥー教と一致していない。たとえば、バラモン教では、中心となる神はインドラ、ヴァルナ、アグニなどであった。ヒンドゥー教では、バラモン教では脇役であったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。

    また、ヒンドゥー教でも、バラモン教と同様にヴェーダを聖典とするものの、二大叙事詩の『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』、プラーナ聖典、法典(ダルマ・シャーストラ)があり、さらには、諸派の聖典がある。


    4.仏教・ジャイナ教

    紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、バラモンを否定した新宗教が誕生するが、現在まで続いているのは仏教とジャイナ教だけである。

    仏教は、バラモン教の基本であるカースト制度を否定し、司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性を否定したが、釈迦牟尼(ゴータマ)の死後は、バラモン自身が、仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込み、バラモンの地位を確保しようした。

    同じように、仏教も、釈迦牟尼の死後は、バラモン・ヒンドゥー教の神を、仏法の守護神などとして取り込んで行った。こうして、仏教とバラモン・ヒンドゥー教は混合していった面がある。なお、その後の仏教は、イスラム教の侵入で、インド国内では完全に消滅したが、現代において、アンチ・カースト活動を背景として再興している。


    5.ヨーガの起源・原始ヨーガ

    ヨーガの起源には不明な点が多く、成立時期を確定することは難しい。紀元前2500年~1800年のインダス文明に起源があるとの見解もあるが、十分な証拠はない(遺跡の図画をヨーガの坐法と解釈した)。

    紀元前8世紀から5世紀には、ヨーガの行法体系が確立したと思われるが、ヨーガの説明が確認される最古の文献は、紀元前350年から300年頃に成立したと推定されるヴェーダ聖典の『カタ・ウパニシャッド』である。

    ヨーガは、解脱を目指した実践哲学体系・修行法である。心身の修行により、輪廻転生からの解脱(モークシャ)に至ろうとする。森林に入って樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは、紀元前に遡る古い時代から行われていたという。

    ヨーガの語源は、「牛馬に軛(くびき)をかけて車につなぐ」という意味の言葉(ユジュ)から派生した名詞である。ヨーガの根本経典として有名な『ヨーガ・スートラ』は、「ヨーガとは心の作用のニローダ(静止・制御)である」と定義しているから、牛馬に軛をかけてその奔放な動きを制御するように、人の身体・感覚器官・心の作用を制御・止滅するという意味であろう。

    さて、前に述べた通り、ウパニシャッドにも、ヨーガの行法がしばしば言及され、正統バラモン教では、六派哲学のヨーガ学派に限られずに行われた。祭儀をつかさどる司祭(バラモン)たちが、神々と交信するための神通力を得ようとしたともいわれる。そして、4~5世紀頃に、ヨーガ学派の経典『ヨーガ・スートラ』として、現在の形にまとめられたと考えられている。

    なお、この六派哲学とは、バラモン教において、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称であり、①ミーマーンサー学派(祭祀の解釈)、②ヴェーダーンタ学派(宇宙原理との一体化を説く神秘主義)、③サーンキャ学派(精神原理と非精神原理の二元論を説く)、④ヨーガ学派(身心の訓練で解脱を目指す)、⑤ニヤーヤ学派(論理学)、⑥ヴァイシェーシカ学派(自然哲学)である。

    なお、ヒンドゥー教では、これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカ(正統派、有神論者)と呼び、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などをナースティカ(非正統派、無神論者)として区別する。

    しかし、ヨーガの行法体系は、ヨーガ学派だけにとどまらず、正統学派全体さえも超え、インドの諸宗教と深く結びつき、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教の修行法ともなった。仏教に取り入れられたヨーガの行法は、中国・日本にも伝えられ、坐禅となった。仏教での漢訳語は瑜伽(ゆが)という。


    6.古典ヨーガ・ヨーガ学派

    そして、紀元後4~5世紀頃には、今日よくヨーガの根本経典・基本経典といわれる『ヨーガ・スートラ』が編纂された。紀元後3世紀以前という説もあるが、文献学的な証拠は不十分だという。編纂者は、ヨーガ学派の開祖ともされるパタンジャリといわれるが、実際には誰なのかはまだよくわかっていない。

    ヨーガ・スートラは、インドの六派哲学の一つである「ヨーガ学派」の経典であり、サーンキャ・ヨーガの経典であるが、四無量心などの仏教思想の影響も大きく受けた内容となっている。また、ヨーガの基本経典といっても、当時は多くの経典があったが、この経典だけが現存しているにすぎない。

    なお、ヨーガ学派は、ヨーガを初めて明確に定義した。サーンキャ学派と兄弟学派であって、ヨーガ学派は、その世界観の大部分をサーンキャ学派の思想に依拠している。すなわち、ヨーガ学派の行法実践を、サーンキャ学派の世界観が裏付ける形になっている。

    その経典が説く実践の内容は、主に、瞑想によって解脱を目指す静的なヨーガである。個々人の永久不変の本体である「真我」が、世界の万物から独立して存在する本来の状態(真我独存の状態)に戻って、解脱するとしている。

    具体的な修行実践としては、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、①ヤマ(禁戒・してはならないこと)、②ニヤマ(勧戒・すべきこと)、③アーサナ(座法・瞑想時の座り方)、④プラーナーヤーマ(調気法・呼吸法を伴った気の制御)、⑤プラティヤーハーラ(制感・感覚の制御)、⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)・精神の一点集中)、⑦ディヤーナ(静慮(じょうりょ)・集中の拡大)、⑧サマーディ(三昧・主客合一の精神状態)の8つの段階で構成される。
    この『ヨーガ・スートラ』に示される古典ヨーガは、今日では「ラージャ・ヨーガ」(王のヨーガという意味)とほぼ同義であるとされ、ラージャ・ヨーガが、古典ヨーガの流れを継承している。

    なお、この古典ヨーガ、八階梯のヨーガ、ラージャ・ヨーガの詳細に関しては、『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)に解説したので、それを参照されたい。


    7.サーンキャ学派とサーンキャ二元論

    サーンキャ学派の開祖は、紀元前4~3世紀のカピラとされる。その教義が体系化されたのは、3世紀頃の「シャシュティ・タントラ」とされるが、この文献は現存しない。サーンキャとは、知識によって解脱する道を意味している。これに対して、ヨーガは、行為の実習という位置づけがあり、サーンキャ(知識の実習)とヨーガ(行為の実習)を、共に解脱の道として、両者が結びついてセットとなった一面があったと思われる。

    サーンキャ学派の中心思想は、世界の根源として、プルシャ(精神原理・神我)とプラクリティ(根本原質・自性・物質原理)があるとする厳密な二元論である。

    プルシャは、本来は物質的要素を全く離れた純粋精神であり、永遠に変化することのない実体である。アートマン(我・真我)と同義と考えられる。プラクリティは、この現象世界の根源的物質であり、すべての現象は、プラクリティが変異したものとされる。

    そして、世界の全ては、プルシャがプラクリティを観照することを契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。具体的には、プラクリティには、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つのグナがあり、最初は平衡しており変化しないが、プルシャがプラクリティ=3グナを観照(関心をもって観察)すると、その平衡が破れて、プラクリティから様々な原理が展開し、意識、感覚器官、その対象など、世界が作られていくとする。

    そして、輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福は、プルシャ(自己)が、プラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(独存)だと考えた。

    前に述べたように、サーンキャ学派は、ヨーガ学派と対になっており、サーンキャ学派の思想は、ヨーガの行法実践を理論面から裏付ける役割を果たしている。ただし、両学の思想は異なる面もあり、ヨーガ学派は、最高神イーシュヴァラの存在を認める点が、サーンキャ学派と異なる。


    8.後期ヨーガ

    古典ヨーガが成立した後、ヨーガの中に様々な流派が成立した。主なものは、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、ハタ・ヨーガなどである。

    この中で、ラージャ・ヨーガが、サーンキャ・ヨーガ、古典ヨーガの系統をひくものである。それぞれのヨーガの流派の概略は、以下のとおりである。

    ①ラージャ・ヨーガ:
    古典ヨーガの流れを汲んだ、心理操作を中心とする瞑想ヨーガである。

    ②カルマ・ヨーガ:無私の行為・利他の奉仕を実践するヨーガ
    日常生活を修行の場ととらえ、見返りを要求しない無私の行為・利他の奉仕を行うヨーガである。

    ③バクティ・ヨーガ:神への信愛のヨーガ
    (人格)神を信じ愛する信仰のヨーガ。この実践者をバクタという。

    ④ジュニャーナ・ヨーガ:哲学的・思索のヨーガ
    高度な論理的な熟考・分析・思索によって、真我を悟るヨーガである。
    一般的に難易度が高いヨーガとされるが、うまく実践することができれば、最も高度なヨーガになり得るという見解がある。

    ⑤マントラ・ヨーガ:真言のヨーガ
    マントラ(聖なる言葉・真言)を唱えるヨーガである。
    主にサンスクリット語のマントラが広く用いられている。

    ⑥ハタ・ヨーガ:身体操作を用いる動的なヨーガ
    身体生理的操作から心理操作に入るヨーガであるが、後に詳述する。


    9.ハタ・ヨーガ

    この中でも、ハタ・ヨーガは最も新しいものであり、12~13世紀には出現したとされる。ハタ・ヨーガは、力のヨーガという意味であり、ヨーガの密教版ともいうべき内容のもので、12~13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータ(ヒンディー語でゴーラクナート)を祖とする。

    ただし、ハタ・ヨーガの経典となると、16~17世紀に出現した著名な『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』や、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』が最初のものとされる。

    このハタ・ヨーガは、サーンキャ・ヨーガとは大きく異なる性格をもっている。サーンキャ・ヨーガの修行は、主に心理的な作業が中心であるが、ハタ・ヨーガは、身体的な修行を心理的な修行の準備段階として重視し、その修練が中心となる。さらに「クンダリニー」という原理を重んじており、体内を流れるプラーナ(気・生命エネルギー)を重視する特徴を持っている。

    具体的には、アーサナ(体位法・体操)、プラーナーヤーマ(調息法・調気法・呼吸法)、ムドラー(印相(いんぞう)・クンダリニーを覚醒させる高度な行法)、シャットカルマ(浄化法)など重視し、サマディ(三昧、深い瞑想状態)を目指し、その過程で、超能力を追求する傾向もある。
    なお、ハタ・ヨーガの思想は、ヒンドゥー教のシヴァ派や、タントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説などと共通点が多い。具体的には、プラーナ(生命の風、気)、ナーディ(脈管)、チャクラ(ナーディの叢)が重要な概念となっている。

    このハタ・ヨーガの詳細に関しては、『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)に解説したので参照されたい。

    なお、近代インドでは、ハタ・ヨーガは避けられてきた面があり、ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシらの指導者たちは、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガのみを語ったという。

    その背景の一つとしては、これは単なる推察ではあるが、ハタ・ヨーガの体系の中に、男女の性的な交わりを活用する、いわゆるタントラ・ヨーガ、仏教でいう左道密教・タントラ密教が含まれていることがあるかもしれない。ただし、ハタ・ヨーガの実践は、性的行為を不可欠とするものでは全くなく、先ほど述べた行法のみを実践することができる。

    一方、現在、「ヨーガ」として世界に広がっているのは、ハタ・ヨーガである。ただし、それは、20世紀に、インドにおいて、近代の西洋の体操を取り入れてアレンジしたものを「ハタ・ヨーガ」の名で世界中に普及させた結果という一面がある。このため、ハタ・ヨーガという名前自体は復権することとなったが、このハタ・ヨーガは、伝統のハタ・ヨーガとは似て非なるものである(場合がある)。


    10.クンダリニー・ヨーガ:ハタ・ヨーガの奥義

    さらに、ハタ・ヨーガの奥義とされるのが、クンダリニー・ヨーガである。クンダリニー・ヨーガの行法は、ハタ・ヨーガからタントラ・ヨーガの諸流派が派生していくなかで発達した。

    ムーラダーラという尾てい骨に位置するチャクラ(霊的なセンター)に眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中のナーディやチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガである。チベット仏教のトゥンモ(内なる火)などのゾクリム(究(く)竟(きょう)次(し)第(だい))のヨーガとも内容的に非常に近い。

    クンダリニー・ヨーガの効果は、他のヨーガに比較しても劇的な面があり、神秘的・超常的な体験・現象や身体的な変調・不調も経験することがある。よって、クンダリニー・ヨーガの実践は、自己流または単独実践は避け、師に就いて実践すべきであるとされている。師とは、単に知識豊富で多少の呼吸法ができる師のことではなく、自身がクンダリニーの上昇経験を持ち、かつそれを制御できる師のことである。

     

    11.ヴェーダーンタ哲学と結びつくヨーガ

    ヨーガの流派の増大は、ハタ・ヨーガをもってだいたい終息し、独創的な思想の展開は衰え、様々な流派・思想の折衷・調和が多くなり、流派的個性が薄れていった。

    そして、哲学においては、ヴェーダーンタ哲学が、インドの本流となり、ヨーガ行法も、ヴェーダーンタ哲学と結びつくようになり、古典ヨーガの哲学であったサーンキャ哲学からは離れていった。ハタ・ヨーガも、ヴェーダーンタ哲学に基づいたものとなっている。

    ヴェーダーンタ哲学は、前に述べた六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派の哲学のことである。この学派は、ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う哲学派であり、古代よりインド哲学の主流である。なお、「ヴェーダーンタ」は、「ヴェーダの最終的な教説」を意味し、ウパニシャッドの別名でもある。

    開祖は、ヴァーダラーヤナで、『ブラフマ・スートラ』『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を三大経典とする。そして、ヴェーダーンタ学派における最も著名な学者は、8世紀インドで活躍したシャンカラである。そして、彼が説いたアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)は、最も影響力のある学説となっている。

     

    12.梵我一如・不二一元論という思想

    不二一元論とは、ウパニシャッドの「梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)」の思想を徹底した思想である。この「梵我一如」の思想とは、梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想である。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

    ブラフマンとは、ヒンドゥー教・インド哲学における宇宙の根本原理である。そして、これが自己の中心であるアートマンと同一であるとされるのが梵我一如の思想である。

    ヴェーダーンタ学派では、ブラフマンは、全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の真実、宇宙の源、神聖な知性として見なされ、全ての存在に浸透しているとされる。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は、ブラフマンの現われであり、ヴェーダの聖典において、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされている。

    そして、梵我一如を徹底する不二一元論では、世界のすべてはブラフマンであり、ブラフマンのみが実在すると説く。他の存在は、ブラフマンが「仮現」したものであり、実在はせず、そのように見えている(錯覚されている)にすぎないとする。

    アートマンとは、ヴェーダの宗教において、意識の最も深い内側にある個の根源を意味し、真我とも訳される。身体の中で、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)と考えられる。それは、主体と客体の二元性を超えており、そのため、アートマン自身は、認識の対象にはならないともいわれる。そして、ヴェーダの一部であるウパニシャッドでは、アートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。

    一方、仏教では、アートマン(我・真我)の存在は認めず、無我を説き、無我を悟ることが、悟りの道とされる。また、仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、これまで述べたように、本来のインド思想では、宇宙の根本原理であり、その後に特定の神の名前となったのである。

     

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  • ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    以下のテキストは、2019年~20年 年末年始セミナー特別教本『最新科学が裏付ける仏教・ヨーガの悟りの思想』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.ヨーガが説く真我の思想と人間の苦しみの原因

    ヨーガでは、真我というものを説く。サンスクリット語では、アートマン(Ātman)である。ヴェーダの宗教(バラモン教・ヒンドゥー教)で使われる用語であり、意識の最も深い内側にある個の根源などを意味する。

    わかりやすくいえば、真実の自分、自分の本質といった意味だが、重要なことは、心とは異なるものであることだ。本来、真我は、純粋な認識主体であって、思考・感情・意志・欲求などの心理的な要素は一切含まない。絶えず移り変わる心(の諸要素)と異なり、真我自体は決して変化することがなく、永久不変の平安の状態にあるとされる。

    ところが、ヨーガの根本経典(ヨーガ・スートラ)によれば、普通の人の場合は、真我が、心を自分自身と混同・錯覚しているとする。そして、真我が、心を自分自身と錯覚して一体となっているので、心が苦しむとともに、真我が苦しむ状態に陥っている。本来は、真我が認識の主体であって、心は、体や外界と同じように、真我が認識している対象にすぎない。

    しかし、映画の観客が、映画の主人公に熱中して、主人公と精神的に一体化すると、映画の主人公の苦しみを、そのまま自分の苦しみのように感じるのと同じように、真我は、心と同化して心の苦しみを感じているのである。映画のたとえを使って、さらに説明すれば、この映画の名前は、21世紀の宇宙・地球・日本であり、それは三次元立体映画であって、その中の主人公は「私」という名前であり、観客席は「私」の体の頭部にあって、観客であるあなたは、体はなく、単なる認識する能力を持った意識である。

    そして、あなた=真我は、「私」の心や体を動かしてはいない。あなたは純粋な観客・観察者として、それを見ているだけである。しかしながら、あなたは、「私」の心を自分だと混同・錯覚し、「私」の心や体とともに苦しむのである。

     

    (※「真我」について:なお、ひかりの輪では、自分自身の中に永久不変な「真我」があるとする説を絶対視したオウムの教訓として、真我を認めるヨーガの修行では、場合によっては自我意識が肥大化し自己を神であると考える意識状態(いわゆる魔境)に入る恐れがあることを指摘し、伝統仏教にならい自己を特別視しない無我説を重視している)

     

    2.ヨーガが目指す心の制御と真我の覚醒 

    こうした思想に基づいて、ヨーガが目指すものは、真我が心(や体)を自分自身と錯覚した状態から抜け出して、独立することである。これを真我独存位という。真我独存位に至ると、永久不変の平安の状態に至るとされる。そして、この状態に至れば、インド思想が説く輪廻転生からの解脱(モークシャ)をもたらす。なぜ解脱できるかというと、輪廻・生まれ変わりの原因も、真我が、生き物の心(や体)に執着して、それを自分の物と錯覚することであるからだ。

    そして、真我独存位に至るために、ヨーガは、心の働きを止滅することを目指す。実は、心の働きを止滅することが、まさに「ヨーガ」という言葉の本来の意味である(ヨーガは体操ではない)。広くは、心の制御・コントロールとも解釈できるが、ヨーガの根本経典であるヨーガ・スートラには、心の働きを止滅することだと明記されている。

    これはなぜかというと、真我が、心を自分自身と混同・錯覚している中で、心の働きを止滅させるならば、真我のみの状態となり、真我はその本来の在り方に戻りやすくなるからである。そして、心の働きを止滅することが、ヨーガと呼ばれるとともに、サマディと呼ばれる深い瞑想・集中の状態である。この詳細に関しては、ひかりの輪のテーマ別特別教本第1集『ヨーガの思想と実践』を参照されたい。

     

    (※輪廻転生について:なお、ひかりの輪は、大乗仏教等の宗教・宗派ではなく、思想哲学の学習教室であり、来世や輪廻転生については、否定も肯定もしないという立場(中道)である)。

     

    3.最新の認知心理学と真我 

    最新の認知心理学・認知科学は、ヨーガの真我と心の関係の思想と、よく似た見解を持っている。それによると、全てないしほとんど全ての思考・感情・意志・欲求は、私たちの意識ではなく、無意識の脳活動が司って形成しているものである。そして、私たちの意識は、実際には、無意識から上ってくるそうした心理作用を、単に見ているだけの「傍観者」であるが、それを自分のものだと錯覚しているという。

    これは、意識が単なる観察者で、心理作用は意識のものではないという点で、驚くほど、ヨーガの説く真我と心の関係と一致している。真我は、純粋な観察者・認識の主体であり、心とは異なるものである。また、仏教の無我の思想とも一致している。仏教は、真我説は説かないが、心を含めた一切は本当の私・私の物ではないとする無我の思想を説く。

    そして、科学者によれば、過去数十年の目覚ましい認知科学の発展の結果として、従来の伝統的な人の意識・脳・心・精神の概念は崩れ去ろうとしているという。それはガリレオが唱えた地動説のように、人類の人間観・世界観に、革命的な変化をもたらす。

    これまでは、「私」の心・体の中心に、「意識」が存在し、人は自分の意志で、心や体を動かしていたはずだった。ところが、科学が描く新しい「意識」や「脳」の概念は、ガリレオの地動説が、地球を宇宙の唯一の中心的な存在から、宇宙のごくありふれた無数の星の一つにしてしまったのと同じような意味合いを持っている。

    すなわち、「意識」は、「私」の中心的な存在ではなく、「私」のごく端っこにいる存在であって、しかも「私」に起こることのごく一部を見ているだけの存在であるというのである。こうして、再び科学は、人類の自己中心的な欲求と、それに基づく固定観念を崩そうとしているのだ。

     

    4.自己中心性を失った代わりに得る壮大なもの 

    地球を世界の中心とした天動説は、人類の自己中心的な欲求を満たせたかもしれない。しかし、それを崩壊させた地動説が与えたものは、天動説による地球を中心とした狭苦しい世界とは比較にならない、はるかに壮大なものだった。

    それは、現在の科学でもその大きさが決定できないほどの広大な宇宙空間(無限である可能性もあるらしい)と、その中の無数の銀河・星々であり、いまだ発見されていないが地球と似た知的生命体が存在する星の可能性さえも内包しており、その中で人類は、単に観察するだけではなく、徐々にではあるが、地球以外の天体に旅をし始めているのである。

    同じように、私達=「意識」が、「私」という小世界の中心的な存在から、ごく周辺の存在に格下げになったとしても、それを前向きに受け止めて活用するならば、その代わりに、「意識」は、はるかに壮大なものを得ることになる。それについて次に述べたいと思う。

     

    5.「私」に過剰にこだわらない生き方への転換へ

    認知科学者が言う通り、自分=意識が、「自分の心や体」を主導しておらず、単に自分や他人の心や体の「観察者」であるならば、それは、ヨーガの真我説、仏教の無我説の人間観・世界観を裏付けることになる。そして、この意味合いは、極めて重要だと私は思う。というのは、その見解を確信すれば、自分と他人を過剰に区別し、自分だけを偏愛する意識(自我執着)から解き放たれやすくなるからだ。すなわち、悟りの境地に近づくことが容易になる可能性が高まるのである。

    まず、人が、自分と他人を区別する理由の一つは、自分の体は他から独立している自分の自由意志で自分が動かしており、同じように、他人の体は自分から独立した他人の自由意志によって他人が動かしていると解釈するからである。これは、自と他が別のものとして明確に区別された認識をもたらす。

    しかし、認知科学の見解によれば、真実は、あなたの意識は、「私と呼ばれる体の脳」に存在してはいるが、「私と呼ばれる脳や体」を動かしておらず、それを含めた「21世紀の世界・日本」と呼ばれる三次元立体映画を鑑賞しているだけである。同じように、彼の意識は、「彼と呼ばれる体の脳」に存在しているが、「彼と呼ばれる脳や体」を動かしてはおらず、同じ映画を観察・鑑賞しているだけである。

    そして、あなたの意識も彼の意識も、その映画の観客であって、「私」や「彼」そのものではない。「私」ないしは「彼」だけに過剰にこだわった見方をする義務も利益もない。映画の観客として、「私」や「彼」だけに限らず、様々な者が登場する「映画全体=世界全体」を広く楽しむ権利がある。普通の映画を見に行った際には、誰もが、そうするのではないか。

    実際に、「私」や「彼」に過剰にこだわる映画の見方をすれば、その映画は相当に不快なものになる。なぜならば、その映画のシナリオでは、「私」や「彼」は、必ずしも思い通りの人生を送ることにはなっていない。さらには、映画の終盤では、老いて病んで死ぬというバッドエンドを迎えることになっている。だから、「私」ないし「彼」を唯一重要な登場人物だと思い込むことは、楽しい映画の見方ではない。リラックスしながら、様々な登場人物を含んだ映画全体を広く楽しむ方がいい。

    そして、「私」という一人の登場人物に過剰にこだわらずに、映画全体を広く楽しむという映画の見方(人生の送り方)は、神の万物への愛(博愛)とか、仏陀の万人に平等な大慈悲といわれるものに通じるものである。

     

    6.精神と脳と体は密接不可分 

    最新の脳科学は、他にも、仏教やヨーガの思想と合致し、悟りの境地に近づくことを助ける重要な事実を、いろいろと明らかにしてきた。

    例えば、デカルトのような昔の科学者は、人の脳と精神は独立しており、精神が脳を動かし、体を動かしているとしたが(有名なデカルトの物心二元論)、現代の科学は、様々な研究・実験・証拠を通して、それを否定するに至っている。人の精神の活動は、明らかに脳の活動と密接不可分であって、脳は体の一部として、体と密接不可分に連動している。よって、体や脳の状態が変われば、我々の思考・感情・欲求は、大きな影響を受けるのである。

    この事実は、素人の科学の知識しかなくても、よく考えればわかることかもしれない。しかし、普通の人の常識としては、自分たちに、体の状態からは相当に独立した、確たる自分の意志・感情があるかのように錯覚している。デカルトの物心二元論的な考えは、私たちの常識には合致しても、もはや科学的な事実ではないのである。

    さらに、体の中のどこが高次の知的機能を有しているかも、十分に明確にはなっていない。脊髄にも、意外と高度な知的機能が存在する面もあるという。これは、脳とは何なのかという定義自体の問題かもしれない。仮に脳を高次の知的機能をつかさどる臓器というように広く定義するならば、脳の範囲は広がるかもしれない。

    そして、仏教やヨーガは、心と(脳と)体の関係を特に強調する思想である。一定の姿勢(座法)や一定の呼吸の仕方を保ちながら瞑想を行うなどの修行法は、まさにこの思想に基づいている。ヨーガは、特に身体と心の状態の一体性を強調し、体のコントロールによって心のコントロールを目指す思想である。特に、ヨーガの中でもハタヨーガや、仏教の中では密教の修行に、その傾向が強い。

     

    7.脳と環境も密接不可分 

    さらに、第1章で述べたとおり、脳は、体に加えて、体外の環境とも密接不可分に連動している。情報化社会である現代では、特にその傾向は強い。毎日目にするマスメディア・インターネット・街並みや、その様々なお店の様々な商品から、膨大な情報を脳は吸収している。それは意識が自覚しているものもあるが、無自覚で吸収するものも膨大である。そのため、科学者の中には、環境もすべて脳神経の一部であるという主張(いわゆる唯脳論)とか、環境の脳化とか、環境脳という概念を主張する人もいる。

    ここでは、「人に自由意志というものがあるのか」という昔からの問題がかかわってくる。自由意志とは、それぞれの個人が、他から独立した自由な意志を持ち、それによって自分の行動を選択しているかということである。そして、近代民主主義社会の思想の下に生きる私達の常識では、自由意志はあることが前提となっており、それに基づいて社会の制度・法律もできている。個々人の行動は、個々人の自由意志によるものであり、本人以外の何者かに強いられたり、操られたり、誘導されたものではないから、個々人の行動の責任は個々人にあるというものである。

    これに対して、現在の認知科学や心理学の主流の見解は、自由意志は全くないか、あっても非常に乏しいというものである。そもそも、無意識の脳活動が、私たちの思考・感情・意志・欲求の形成を主導しており、意識はそれにアクセスできず、そうなった理由や過程は、まるでわからない。にもかかわらず、それを「自分のものだ」と意識は思い込んでいる。すなわち、自分の中の他者に操られていることに気づいていない。

    そして、それにさらに輪をかけるのが、現代の情報化社会の加速である。毎日のあふれる情報は、無意識のうちにも脳に入り込んでいく。そのため、意識が全く気付かないうちに、私たちの精神に影響を与えている。こうして、精神と脳と体と環境が、以前にもまして、密接不可分に影響し合っているのが現代社会である。この知見もまた、仏教やヨーガが説く、万物が相互依存であって一体であるという、一元的な世界観と合致している。

     

    8.悟りを助ける脳科学・心理学の見解

    そして、ヨーガや仏教の思想や瞑想を実践した者の視点から見るならば、こうした最新の科学的な知見をフルに活用するならば、ヨーガや仏教の意識感・人間観・世界観を確信することの手助けとなる。その結果として、悟りの境地に至る瞑想を助け、以前よりも悟りの境地に近づきやすくなる可能性もあると思われる。

    最新の科学の知見は、依然として常識と解離しているが、時とともに、科学の知見が常識になっていくのが人類社会である。革命的な理論ほど、常識による固定観念の抵抗を強く受けるだろうが、長期的な視点からいえば、それは時間の問題にすぎない。キリスト教の人間・地球中心主義の思想のために、当初は激しく抵抗を受けたガリレオの地動説が、その後認められたことからも、よくわかるだろう。

    そして、最新科学が発見した精神・意識・脳・体・環境に関する真実が、常識となって深く浸透する頃には、人類の「意識」には、大きな変革が起こる可能性も期待できるのではないかと私は思う。

    現在の人々には、この世界は、何もかもがバラバラに見えて、狭苦しい自己と、他者・外界に大きく分かれている。しかし、今後は、私達の「意識」は、科学が検証した事実を学ぶ中で、「私」や「他人」や「環境」などを含めた全てが一体となった壮大なつながりを持った世界があることを認識して、受け入れやすくなるだろう。これは、ヨーガ(ないしは仏教)が説く「意識の拡大」・「宇宙意識」・「悟りの境地」への接近の土台となることは間違いない。

    なお、世界の全てが一体であるとするならば、「本当の私は、世界全体である」ということもできるだろう。「世界の一切が本当の私ではない」と説く無我や真我の思想は、実際のところ、これと矛盾するものではない。というのは、世界の何物も自分ではないという認識があればこそ、世界の何物にも執着することなく、世界全体に意識が広がりやすくなる、ということであるから。その結果として「世界全体が私」ということができる心理状態に近づくということである。

    話を元に戻すと、仏教・ヨーガの瞑想修行者が、最新の科学の知見をフルに活用するならば、「意識」が、偏狭な自我執着から解き放たれて、壮大な宇宙に精神的に広がる可能性は高くなるだろう。これまでの習慣である「狭い私」の固定観念がすぐに解消はしないだろうが、科学信仰ともいうことができる現代人の意識には、科学の見解は重要な影響をもたらし、固定観念を突き崩すスピードは上がっていくだろう。

    そして、「私」の中の中心的な存在から周辺に回された「意識」が、勇気をもってそれを前向きに受け止めて活用したならば、失ったものの代わりに得るものは、実に壮大なものになる。それは、意識の深い安定と、大きな広がりである。そもそも意識には、形や大きさはない。狭い世界に対する執着から精神的に解き放たれるならば、それは宇宙大ともいえる無限の可能性を秘めている。

     

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  • 新型コロナウイルスの感染問題と免疫力の強化

    以下のテキストは、2020年GWセミナー特別教本『コロナ感染問題と仏教・ヨーガの思想 人類の未来』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.はじめに:新型コロナウイルスの感染拡大

    今年の1月以降、新型コロナウイルスの感染症・新型肺炎の問題が発生した。これを踏まえて、本章では、この問題の現在の状況と、今後の行方と、望ましい対応・対策などについて述べたいと思う。

    まず、新型コロナウイルスの感染症は、依然としてそのウイルスの性質および現在の感染状況の双方において、わかっていないことが非常に多い。さらには、これに対する対応策を含めて、極めて複雑な問題をはらんでいる。その中で、自分なりにいろいろな情報・データを調べた上で、その問題の要点をまとめた上で、現時点での中間的な結論を出してみた。

    それを端的に言えば、この問題を解決する医療技術上の決め手は今のところなく、少なくとも1年は要する長期戦となる可能性が高いのが現状であり、その中では、政府・民間の双方の対策努力とともに、各人が日常から自分の自然免疫を高めることが重要だと思う。

    加えて、高齢者・医療従事者を中心として大変厳しい状況ではあるが、世界的な視点から見るならば、日本は非常に幸運な面も多く、そうした意味でも感謝と助け合いの心が今こそ重要であり、問題解決に向けた、個々人・各国家間の協力・連帯・助け合いが非常に重要になると思う。それでは以下に、この問題と今後のあるべき対策の要点を一つ一つ述べることにしたい。

     

    2.日本の現在の感染状況 

    現在、緊急事態宣言の発令による外出や営業の自粛の効果もあって、2020年4月の中旬ごろからは、国内の新規感染者が減少してきたことが、政府・専門家会議でも認められるようになった。

    しかしながら、政府は緊急事態宣言をさらに一か月延ばそうとしている(2020年5月2日現在)。その理由として、専門会議の提言によれば、①新規の感染者が一定の減少を見ているが、まだ不十分であること、②医療体制がひっ迫していること、が指摘されている。

    さらに専門家会議は、今後1年ほどは、何かしらの対策を実行する必要であり、これに対する国民の自粛疲れを懸念し、学校や公園の利用の再開などを提言した。こうして、同会議は、この問題への対処が長期戦となる見通しを初めて示すに至った。そして、今後、現在のような厳しい行動制限を解除する条件としては、①新規感染者が十分に減少すること、②十分な医療体制の拡充、などを上げた。

    これまで専門家会議は、2月末の最初の自粛の提言においても、「ここ1~2週間が、感染爆発が生じるか否かの瀬戸際」などと表現して、比較的短期間の目標を掲げてきた。また、4月7日の政府による緊急事態宣言も、期間を1カ月に区切って発令された。

    しかしながら、科学者の中からは、最低1年以上は我慢する必要があるとか、一部の研究機関では、断続的に2022年まで外出を自粛する必要があるという主張が多くなされていた。そうした科学的な見解に対して、これまで国民の反応を気にしていた政府・専門家会議が、ついに合わせてきたという状況だろう。よって、この問題が少なくとも1年ほどは長期化することが、確実な情勢となったと考えざるをえないと思う。

     

    3.新型コロナウイルスの性質について 

    これまでの状況から未解明の部分が多いこのウイルスの性質として、感染力が強く中国の武漢から始まって一気に世界全体に広がった。ただし、その危険性、すなわち致死率(感染した人の中から死亡する割合)の判断に関して言えば、一つ気を付けなければならないことがある。

    というのは、感染しても無症状や軽症のために、医療機関を受診してPCR検査(ウイルスの有無を調べる検査)によって感染の有無を確認しない人が多数いると思われるからである。よって、現在確認されている感染者と死亡者の数から算定することはできない。

    そこで、ごく最近導入された、過去に感染した経験があるかどうかの有無を調べる抗体検査(感染した後にできる抗体の有無を調べる検査)の結果が待たれてきた。抗体検査の正確度には、依然として疑問があって完全な信頼はできない。しかし、最近発表され始めた初期的な抗体検査の結果を見る限りは、やはり、これまでに確認されてきた感染者の総数を大きく上回る結果が示されている。

    例えば、カリフォルニア州の検査では、従来数の50倍から85倍と推定された。ニューヨーク州でも従来数の10倍以上の数値となっている。このニューヨーク州の検査では、無作為抽出で選ぶ検査の対象を、外出する人を中心としたために、感染者の割合が実際よりも高すぎる結果となった可能性もあるものの、ニューヨーク市に限った場合は、すでに4人に1人(約300万人以上)が感染していることが推測される結果となった。

    そうすると、感染者の中で死亡する確率=致死率の実際に関しては、WHOは0.66%を推定し、カリフォルニア州の抗体検査に基づけば0.12~0.2%、ニューヨーク州の抗体検査に基づけば約0.5%かそれ以下とも推定される。そして、欧米よりも死亡者総数や単位人口当たりの死亡者が相当に少ない日本に関して言えば、一部の専門医が言うように、最終的にはインフルエンザの致死率である0.1%と大して違わない(ないしはそれ以下となる)可能性もある。

    季節性インフルエンザに関して言えば、毎年1500万人ほどが感染し、それを直接的な原因として死亡する人は、近年は3000人ほどであり(実は近年相当増えてきており、以前は百人単位である時期もあった)、その関連死を含めれば1万人と推察されている。これに対して、これまでの日本における新型コロナウイルスによる死亡者は、インフルエンザの死亡者を大きく下回っている。

    なお、現状では、新型コロナウイルスの感染(経験)者はよく把握できていないが、それによって新型肺炎を引き起こした死亡者の総数に関して言えば、重症・肺炎になった段階では、患者すべてにPCR検査を行うので、新型肺炎の死亡者の総数はほぼ把握できているというのが政府の見解である。

     

    4.新型コロナウイルスによる医療機関への大きな負担・医療崩壊の恐れ 

    しかしながら、医療機関を中心として、この新型コロナウイルスの感染への対処として必要なものは、季節性インフルエンザとは大きく異なる。というのは、季節性インフルエンザに関しては、100年前に膨大な被害をもたらしたスペイン風邪(インフルエンザA型)を含め、人類社会が長らく慣れてきたウイルスである。しかし、この新型ウイルスには、人類社会が長年の免疫を持っているわけではなく、今回が初めての流行である。よって、インフルエンザと異なって、感染を予防するワクチンもなければ、感染後にその症状を緩和・解消するための治療薬があるわけでもない。

    よって、一気に感染が広がることを予防することは難しく、仮に一気に広がった場合には、治療薬もないために、治療に要する期間・負担は、インフルエンザの比ではないと思われる。さらに、ワクチンがないために、肝心の医療従事者自体の感染を予防することができず、すでに医療従事者の感染が相次いでおり、医療体制を根底から揺るがしている(政権は医療従事者の報酬を増やして対処しようとしているが)。こうして、現場の医療機関の負担は、物心両面において、季節性インフルエンザの比ではないと思われる。

    これに加えて、日本では、感染拡大の初期において、無症状者・軽症者までも隔離入院する方針を取り、さらに防護服・消毒薬・マスクなど、医療機関こそが必要とする物資が不足するなどの問題もあった。こうして医療機関への負担は、すでに相当大きなものになっており、専門家会議は医療体制がひっ迫していると報告している。

    そして、今後、この負担が医療機関のキャパシティを超えてしまい、新型コロナ感染者の中の重症者や、他の病気や怪我の重症者に対する治療が十分にできない状態が生じて、救える命が救えないという「医療崩壊」の状態を回避することが重要な課題であることは、すでに広く指摘されている通りである。

    今後は、これを回避するために様々な政策努力、例えば、軽症者を医療機関ではなくホテル収容して十分な医療従事者を付けたり、防護服・消毒薬・マスクなどの必要物資を医療機関に優先的に配分して医療従事者の感染を防ぎ、退役した医療従事者の現場復帰を要請して人員を補充するなどがなされつつあるから、一定の医療の増強・拡充はなされていくと思われる。

    しかし、その改善にも一定の時間は要するし、増強の程度にも物理的な限界がある。よって、予防や治療の決め手となるワクチンや特効薬が開発されるまでは、医療体制が拡充していくとしても、それを上回る感染者を発生させず、医療崩壊を防ぐ必要がある。そのためには、感染者の拡大を一定以内に抑え込むために、外出や営業の自粛といった、人と人の接触を抑制する現在の政策が必要だという見解が主流となっている。

     

    5.感染後の抗体・免疫の状態が未だに不明であるという問題

    さらに、この新型ウイルスに関しては、感染後にできる抗体による免疫が未だ不明であるという問題がある。すなわち、一度感染して治癒すれば、抗体による免疫が形成されて、二度と感染しないのか、少なくとも相当期間は再感染しないのか、そうではないのかということである。

    一般に一度感染症にかかると、その抗体ができて、それによる免疫が生じて、二度はかからない、ないしはかかりにくくなるということが知られている。しかし、実際には、ウイルスによって大きく異なる。例えば、はしかなどは、二度と感染しないが、HIV(エイズ)の場合は、抗体はできるが免疫はできない(よって、HIVは今のところ一生感染した状態が続くが、ウイルスの増殖を抑える優れた治療薬が開発され、一生治療薬を飲み続けなくてはならないものの、先進国では大きな問題にならなくなった。経済的に治療薬が使えない途上国では、現在も膨大な犠牲者を毎年出している)。

    そして、新型コロナウイルスの場合は、感染後にどの程度免疫が形成されるか、どのくらいの間は再感染しないのかが、まだよくわかっていない。というのは、治療後にPCR検査で陰性を示して治癒したとされた人が、その後再びPCR検査で陽性反応を示すという事例がよく報告されているからである。

    ただし、それは再感染したとは考えにくく、検査で陰性になったのは、ウイルスが潜伏したので検査で発見されなかったためであるとか、単純にPCR検査の確度は完全ではないために検査結果の誤りであるという見解が多いが、この陽性反応の再発の原因は未解明であり、それゆえに感染後の抗体・免疫に関しても確たることはわかっていない。抗体による免疫ができないか、制限されるとすれば、抗体を作ることを目的とするワクチンの開発を遅らせる可能性がある。

    また、これに関連して、感染症対策の一つとして、多くの人(人口の60%)が一度感染して抗体・免疫を作るならば、集団免疫というものを形成するので、その集団・社会の中では、流行を防ぐことができるという理論がある。しかしながら、こうして免疫形成自体がいまだ不明である以上、そればかりに頼って感染拡大を抑止せずに突っ込むわけにもいかない。

    実際に、ジョンソン首相をはじめとするイギリス政府は、一時この集団免疫政策を実行しようとしたものの、集団免疫の状態に至るまでに数十万人の犠牲者が出る可能性があるという科学的な報告がなされて中止に追い込まれた。さらに、それを提唱したジョンソン首相までが感染して重症となり、一時は生死をさまよったとも報道された。

    そもそも、集団免疫を形成するほどに多くの人が感染することを想定すると、それまでの間に医療機関が感染者に対処しきれず、医療崩壊が起きてしまえば、普段であれば救える人も救えないという大きな問題が発生する。さらには、集団免疫理論は、多少の犠牲者が出ることを覚悟した理論であるが、インフル・結核などの他の感染症の通常の年間の死亡者、すなわち数千人から1万人を大きく上回るような犠牲者を出すわけにもいかない。

     

    6.ワクチンや特効薬の開発見通し 

    こうした中で、長期的な予防・免疫形成の決め手となるワクチンや、感染者の治療・重症化防止の決め手となる特効薬の開発が期待されている。時期としては「今後1年・1年半くらいにも」という報道がよくなされる。そして、先日は安倍総理が「米国はこの秋にも人間に投与する」などと発言した(これは、薬が承認されて一般の医療機関が治療に使用開始できるという意味ではなくて、おそらくは臨床試験の開始を意味すると思われる)。

    しかし、本来はワクチンの開発には、数年は要する。しかし、今回は非常事態であるから、開発に時間がかかる従来型のワクチンの開発ではなくて、開発時間を大きく短縮できる遺伝子工学を用いた新しいワクチン開発が試みられようとしている。1年というのは、この新技術を前提にしているとされる。よって、厳しく言えば、これは未だ実績がない開発手法であるから、成功するかは保証の限りではない。

    さらに、このウイルスは、頻繁に変異しているとか(変異したとしても変異前のウイルスに対する抗体・ワクチンが変異後にただちに無効になるわけではないが)、抗体ができても免疫ができないHIV(エイズ)ウイルスに、新型コロナウイルスの遺伝子配列が一部似た部分があるといった情報がある。こうして、そもそもウイルスの実態自体がまだわかっていないことも、ワクチン開発における不安要素である。

    よって、実際の開発時期がいつになるかは、一部の専門家が率直に指摘するように、見通しが立つものではない。要するに、できてみるまではわからないというのが、科学的な事実だろう。実際に、エイズは発生して数十年が経ち、新型コロナの先輩のSARSは発生して17年が経った今もなお、ワクチンは開発できていないという現実がある。

    こうした中で、米国は、第二次大戦で米国の戦勝の決め手となった原爆開発の「マンハッタン計画」になぞらえて、官民総動員の「オペレーション・ワープ・スピード(超高速作戦)」を発動した。これは新型コロナウイルスのワクチン開発を、最大で8カ月短縮して、来年1月に、3億人分を提供可能とする計画である。

    これは、ウイルスとの戦いを戦争に見立てて、その決め手となる新兵器を開発するというイメージだろう。これを一種の戦争と見れば、勝つためには、新技術だから開発の保証がないのは当たり前であり、そんなことを言っている暇はないということだろう。

    とはいえ、今回は人間にいくらでも打撃を与えればいい原爆の開発ではなく、健康を守る医薬品の開発であり、特にワクチンは副作用があれば大きな問題となるから、スピードばかりを優先すればいいというものではないだろう。

    それはともかくとして、今回は、先進主要国が、あたかも戦時体制のように、最大限の資源・資金をワクチン・特効薬の開発につぎ込み、いわば人類総力戦体制であるから、これまでのワクチン開発に比較すれば、次元の違う開発速度を期待してもおかしくはない。

    「意思があるところに道がある」という普遍の道理があるし、不可能を可能にしてきたのが人類の歴史である。よって、楽観しすぎるのはよくないとしても、長期戦になることを覚悟しながらも、悲観的にもならずに前向きに考えることが正しいと思う。

     

    7.日本のワクチン・治療薬の開発と国家安全保障 

    現在、よく調べていないが、ワクチンの開発は、米国、ドイツなど欧米諸国が、やはりリードしているのであろうか。一方、日本について言えば、ワクチンの分野は、近年あまり産業が育っていないという。理由としては、ワクチンを開発したとしても、それを開発費に見合うように使ってもらえる保証が乏しいことや、ワクチンはそもそも病原体を弱毒化・無毒化して用いるものであるから、万が一にも薬害・副作用の問題が出れば、大きな損害が出るというリスクがあるということらしい。

    そのため、今回のワクチン開発にも、国際的な競争という視点から見れば出遅れており、むしろ治療薬(アビガンなど)の方に重点を置いているとも報道されている(なお、ワクチンは感染を予防するものであり、治療薬とは感染後に重症化を防いで早期に治癒を目指すものである)。

    しかし、ワクチンの有無は、国家の安全保障にかかわることである。よって、国際的な競争に勝利できるかは別として、日本も国産ワクチンの開発を目指してはいる。

    世界中に感染が拡大したウイルスのワクチンや特効薬は、単なる医療の問題に限らず、安全保障上の問題にもなる。なぜならば、それを最初に開発した国は、法的にはその輸出を規制する権利もあるし、開発されても増産するには時間がかかるために、どの国に優先的に提供するかという問題も出てくるからである。

    よって、日本政府は、国内での開発も資金援助しながらも、それ以上の予算をもって外国の開発計画を資金援助し共同開発をすることで、新規に開発されたワクチンを一定量確保しようとしていると報道されている。

     

    8.行動制限の規制の様々な弊害の懸念 

    もう一つ考える必要があることは、そうした状況の中で、自粛政策の弊害は、よくいわれる経済の悪化に限らないということである。お金よりも命を大切にすべきであるというのは一面的な見方である。というのは、経済の悪化による失業の増大が、自殺者の増加に結び付くことは、過去の不況時の統計などからも確認できる。

    また、外出自粛は、単身者がすでに3割を超えている今の社会においては、社会的な隔離や孤独をもたらす可能性があるが、そうした状態が精神状態を悪化させるなどして、様々な心身の疾患を増大させ、生活習慣病と同じように、ないしはそれ以上に、死亡率を高めることが調査研究の結果として明らかになっている。

    また、逆に、これまでは登校・出勤していた家族が、将来の不安・ストレスを抱えながら、外出自粛によって、家庭内により長くとどまることから、家庭内暴力の増大が心配されている。実際にWHOは家庭内暴力がおそろしく増大していると警告している。また、窃盗や暴力犯罪の増加も懸念される。

    こうして、人は、新型コロナ感染以外でも病気になるし、死ぬということである。新型コロナ感染による死亡を防ごうとするあまり、自殺やコロナ以外の疾患・暴力・犯罪の増大による死亡者が急増すれば、命を守るという視点から見れば本末転倒になる。

    よって、今後の対策においては、そのメリットとデメリット、コスト(リスク)とベネフィットの比較考量という視点が必要となってくる。

    これに対しては、日本政府を含めて各国の政府が、かつてない規模の財政出動や金融緩和によって、その影響を緩和しようとしている。しかしながら、すでにいろいろな批判・不満が出ているように、それがすべての休業・失業・倒産などによる収入の減少や債務の不履行といった経済的な損失全てを埋め合わせる(=補償する)ことは、できそうもない。

    実際に安倍政権は、休業などによる損失の補償をすることは非現実的として採用していない。さらに、失業・倒産・登校禁止・外出禁止などは、先に述べたように、単なる経済的な損失だけではなく、様々なストレス・精神的な問題・心身の病気・人間関係の問題・暴力犯罪の問題を引き起こす。

    そして、事態が長期化すれば、精神状態の悪化もあって、国民の一部には、政府が要請する必要な我慢を放棄する状況も予想される。そうなれば、そもそも強制力が乏しく、国民の自主性に基づく緊急事態宣言による規制政策は機能しなくなる。実際に、すでに「自粛疲れ」という言葉が言われ始めており、意識調査の結果の報道では、必要である限り行動規制をすることができると回答した人は多くはない。

    こうした事態に対して、仮に、強制力を持った法規を導入して対処しようとしても、強い反発を招いて社会・国民の分断に至る恐れがあり、そうすれば全体の協力が不可欠であるこの問題の解決に対しては、逆行する事態となりかねない。日本よりも強い規制措置(都市封鎖)が取られている米国では、すでに経済活動の再開を求め、規制する州政府に対しての抗議活動が始まっている。

     

    9.感染抑止のための経済停滞による世界的な弊害 

    また、日本をはじめとする先進国の経済活動の停滞は、サプライチェーンの問題を含めて、食糧生産の分野にも及んでいる。食糧生産が落ちているのである。その結果、将来的には食糧価格の上昇が予想され、それに伴い、途上国での飢餓の増大が懸念されており、WHOとFAO(国連食糧農業機関)がすでに警告を発している。

    食糧生産の不足は、先進国においては、食糧価格の上昇という問題となるが、経済力のない途上国の場合は、飢餓の増大に直結する恐れがあるのである。そして、それは政情・国家体制の不安定化に結び付き、それによる犠牲者の発生も懸念される。加えて、今年は70年に一度ともいわれるバッタの集団発生の被害が、中央アジアを中心に途上国の食糧問題を悪化させているともいわれている。

    こうした状況の中で、先進国が、自国の感染問題ばかりに気を取られる中で、途上国への援助に不足が生じるならば、普段にもまして問題が悪化する恐れがある。そして、途上国の飢餓の増大による政情の不安化・紛争の発生は、結果として巡り巡って、世界全体の安全保障や経済の問題につながってくる。

    また、もう一つの大きな問題として、世界全体の経済の停滞は、石油の需要を急減させ、原油価格の急落を招いている。これは、国家の財政を石油の輸出に依存する割合が大きい産油国である中東諸国やロシアの国家財政の悪化と、それによる政情の不安定化を招く恐れがある。例えば、中東の政情の不安定化・紛争の発生は、一転して石油生産の急減・価格の急騰・石油不足、すなわち石油危機を招いて、中東に石油を依存する日本のような国々にとっては、大きな経済的な打撃となる可能性がある。これを言い換えれば、原油価格があまりに低い今の状況は、中東諸国において、紛争発生を防止して原油価格の急騰を防ごうとする意欲・動機を損なう面もあるかもしれない。

    また、産油国の財務が悪化すれば、世界中に投資されてきた潤沢なオイルマネーが引き揚げられ、今でさえ大きな打撃を受けている世界の株式・金融市場の、さらなる停滞の要因となる可能性もある。また、米国のシェールオイル企業は生産コストが高く、原油安が続けば、それに耐えられずに倒産する恐れがあり、これが金融市場に波及して、米国に金融危機が生じて、さらなる経済停滞を招く恐れも懸念されている。

    ただし、この原油の急落の問題の背景には、新型コロナ感染による需要の急減だけではなく、主要な産油国である米国・サウジアラビア・ロシアといった国々の間での石油の産出量・輸出量における世界的なシェア争いの側面がある。そのために、原油価格を維持するために必要な減産が十分にできないという問題である。

    こうして、危機に瀕した世界の中で、各国の自国中心主義・エゴによって、問題の緩和が十分に進まないという現実(人災)がある。

     

    10.バランスの取れた規制と助け合い、そして新しい生き方の創造の重要性 

    こうして、感染抑止のための行動や経済の規制には、様々な損失があることを踏まえれば、今後の方針として、①規制の利益と不利益を十分に比較考量して、バランスの取れた規制とすること、②不利益を最小限にするために、各国の政府・民間・個々人の努力とその間の助け合いが、かつてなく必要とされるということだと思う。

    さらに、個々人も事業体も政府社会全体においても、単に早期に元の状態に戻ることを期待するのではなく、この状況がしばらくは続くだろうことを前提とし、この状況の中で健康と経済生活をなるべく両立することができないかを検討することも望ましいと思う。すなわち、この状況に適応して進化するということである。

    そもそもが、新型コロナ感染がなかったとしても、人々の生活や経済システムは、時代の流れとともに、無常に移り変わるものである。そして、コロナ問題以前から、例えば経済面でいえば、インターネットや高齢化の時代に向けて、次世代型の働き方・経済システムが提唱されてきた。テレワーク・ネット通販・宅配・オンライン診療・高齢者などを支援するAI技術などは、考えてみれば、感染症を抑止する上でも重要な、人と人の直接接触を必要としないシステム・テクノロジーでもある。実際に多くの識者が、すでに、新型コロナ感染の問題がいったん終息しても、人々の生き方・働き方は、完全には元に戻らずに、恒常的な変化をきたすことを予見している。

    こうして見るならば、この機会を逆に利用して、感染終息までの一時的なものとしてではなくて、長期的な、将来的なものとして、前向きに、新たなライフスタイル・ワークスタイル・経済システムを考えることが望ましいと思われる。しかし、適応が進みやすい人も、進みにくい人もいるだろうから、皆がなるべく速やかに、この変化に適応する上でも互いに協力し合うことが、今後の対応において重要ではないかと思う。

     

    11.人類社会の問題・弱点を焙り出す新型ウイルス 

    これを言い換えれば、新型コロナ感染問題は、少なくとも一部においては、コロナ以前からあった流れをいっそう加速させる現象とも解釈できるということになる。しかし、それは必ずしも発展的な良い流れを加速させるだけではない。これまでも拡大してきた悪い流れ・問題・人類社会の弱点をいっそう拡大して、強く焙り出すものではないだろうか。

    例えば、新型コロナウイルスが、最後の新型感染症となる保証はない。実際に、大きな被害に入らなかったが、2003年のSARS、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERSといった問題が、次々と発生してきたことは事実である。その際、日本には被害はなかったが、一部の外国には一定の被害が発生しており、そうした経験を持っている国々は、その後の対策が進み、今回の新型ウイルスの問題に比較的うまく対処ができている(韓国・香港・シンガポールなど)。

    また、大きな被害を出したものとしては、前世紀の末のHIV(エイズ)の問題がアフリカを中心に猛威を振るった。そして、あまり報道されることはなかったが、季節性インフルエンザの感染症の犠牲者が、国内外で最近は増大してきたおりでもあった。例えば、米国でもインフルエンザは大流行しており、年間数万人規模の犠牲者(昨年は3万7千人、数年前には6万人超)を出しているという。こうして、新型の感染症が続発しているということもできるのである。

    この背景としては、世界規模の無秩序な経済開発や野生動物の売買によって、人獣共通の感染症が発生して、世界全体に拡散していくリスクが増大しているという指摘が専門家によってなされている。また、他には、感染症の治療でよく用いられる抗生物質の乱用・誤用や、金銭主義に基づく低品質の抗生物質の販売などによって、抗生物質の効果が減少していることもあるという(薬剤耐性菌の多発)。こうして、新型感染症は、無秩序な経済活動・金銭主義などがもたらす人災という側面があるということである。本当に怖い敵はウイルスではなく、人間自身であると指摘する識者もいる。

     

    12.世界的な視点から見た日本の幸運な状況 

    世界に広がる新型コロナ感染の問題に関連して、もう一つ押さえておくべきことは、日本の状況を、世界全体から客観的に見ると、経済の問題などいろいろ大変ではあっても、現状の被害は、欧米に比較して相当に少なく、緊急事態宣言の後は新規感染者も減少しつつあることだ。単位人口当たりの死亡者は、一部の欧米諸国に比較して数百分の一にすぎない。そして、今後とも最善を尽くすならば、欧米の後を追って感染爆発が起こり、医療崩壊や多数の死亡者が出るという可能性は低いと思われる幸運な現状がある。

    そして、よく考えてみれば、欧米諸国と比較して、日本は、感染源の中国に非常に近い地理にあって、中国・武漢からの人の流入も相当に多く、さらには中国からの入国禁止も欧米に比較すると相当に遅れた経緯があった。

    にもかかわらず、その後、中国はおろか欧米のように都市封鎖もせずに、国民の自主性・自立性に任せた自粛誘導政策で、このような結果を得ていることは、諸外国から見れば、日本の謎とも、油断ともいわれて注目されている。

    特に、都市ばかりではなく、政権批判も封鎖され、「国一丸となって全てを我慢して闘え」と言われてきただろう中国の人達は、都市封鎖がないばかりか、普段にもまして政権が批判されるという日本の極めて緩く自由な状況は、(密(ひそ)かな)注目とやっかみの対象になっているとする報道もある。欧米から見てもそうであり、日本の油断なのか、日本の謎・不思議なのか、今後の行方が非常に注目されている。

    ただし、歴史を振り返ってみると、強権行使をなるべく避けるこの日本行政の姿勢は、それと全く正反対に全体主義的であった大日本帝国の過去の敗戦の反動である。そして、その意味では、その時に大日本帝国と戦って、その体制を倒した中国や欧米との因縁(おかげ)ということにもなるだろうか。

     

    13.なぜ日本は被害が少ないのか:日本の謎か油断か 

    この中国や欧米との大きな違いの原因が何かについては、いろいろな意見がある。もちろんその前に、これは単なる何かの偶然であって、油断していれば欧米と同じように感染爆発を招いて痛い目にあう可能性があるという見方は、油断を戒めて最善の努力を尽くすうえでは必要だろう。しかし、違いがある以上は、何らかの科学的な理由があるはずである。これまで指摘されたところは、だいたい以下のようなものである。

    ①行動習慣

    欧米ほどには濃厚でない他人との身体接触の行動習慣や、強制力なしでも、集団の中で必要とされる行動を自らとる日本人の自律的な行動規範。 

    ②食生活習慣(免疫が強める食生活)

    日本の緑茶が、新型コロナウイルスにも抗ウイルス作用を持つカテキンを特に多く含んでいること(紅茶など比較しても)。重症化をもたらす免疫の過剰反応(サイトカインストーム)を防ぐ作用がある海藻類(ワカメ・昆布・もずく)などの消費量が多いこと。味噌・納豆などは、免疫力に非常に関係が深い腸内細菌を整えること。重症患者には過体重の人が多いが、その点に関しても、欧米の食生活に比較し、和食は理想の健康食ともいわれる。

    ③衛生管理に優れていること

    手洗いや入浴などの、そもそもの綺麗好き、衛生的な都市生活環境、さらに新型コロナ問題以前からの毎年のインフルや花粉症の流行から手洗いやマスクの習慣が広がっていたこと。 

    ④平等性の高い社会構造・医療制度

    貧富格差の少ない社会と国民皆(かい)保険(ほけん)に基づく平等で高水準な医療システム。欧米では、黒人などの少数派の人種の被害や、貧民街の住民の被害(シンガポールも)が大きい。

    ⑥クラスター潰しを軸とした今回の日本政府の対策の効果 

    ⑦日本人は、すでに一定の免疫を有しているという仮説

    日本が義務付けている(欧米は義務付けていない)結核予防のBCGワクチンの接種が新型コロナウイルスにも効果があるという仮説がある(一部の外国は効果を確認する臨床試験を開始している)。また、中国に近い日本には、症状の軽い初期型のウイルス(S型)による感染が昨年末からすでに広がっており、多くの人が部分的な免疫を獲得したという仮説がある(京都大学教授 上久保靖彦氏ら)。

    こうした、いろいろな説はあるが、今のところ科学的にはよくわからない。仮に将来において、科学的な理由が判明して、諸外国と分かち合えるものがあるならば、ぜひともそうしたいものである。

    それから、何が原因であろうとも、今世界全体の連帯が必要な中で、世界的な視野を持たずに、単に現状に不満ばかりを言うよりは、この得難い幸運をよく認識することは重要に思われる。そして、それを実際に支えているエッセンシャルワーカーなどの人たちに感謝し、さらに、高度な分業で成り立っているこの社会を支える万人・万物に感謝するべきだと思う。そして、感謝のようなポジティブな感情は、免疫力を高めるという医学的な研究結果が確立している。こうして、「情け」ならぬ、「感謝は人のためならず」ということができるだろう。

    最後に蛇足ながら、宗教思想家としては、この幸運な状況が、もし上記のような国民性のおかげであるならば、それを作ったご先祖様への感謝もした方がよいような気がする。

     

    14.個々人が自分自身の自然免疫を高める重要性 

    こうして、私たちは、今のところ決め手がない問題に対する長期戦の中にある。そして、前に述べたように、それを前向きに逆活用して、自分たちの新しいライフスタイルを確立するという考え方がある。

    そして、それを考える上で、重要なポイントの一つとして、日常から、個々人が自分の心身の健康=自然免疫を高める努力をすることがあることには疑いの余地はないだろう。

    新型コロナウイルスのワクチンや特効薬の開発は、期待はできるが、やはり不確かであり、少なくとも1年は要するし、それ以上かもしれない。また今後、さらなる新型ウイルスが現れる可能性も否定できない。その前に、季節性インフルエンザなどの既存の感染症も、近年は拡大傾向にあって、気づかないうちに多くの犠牲者を出していたところであった。

    これらの現象を見れば、現在の社会には、今回の新型コロナウイルスに限らず、感染症一般に関する重大な健康問題が存在することを示していると思う。

     

    15.感染予防・免疫の強化の基本事項 

    感染予防と免疫強化は、主に二つに分けることができると思う。一つ目は、なるべく体内へのウイルスの侵入を回避することである。二つ目は、ウイルスが侵入しても増殖感染せず、ないしは重症化しないように抵抗力=免疫力を形成することである。

     まず、ウイルスの体内への侵入を回避するための努力として指摘されることをまとめると、以下のとおりである。

    ① 密閉・密集・密接(いわゆる「3密」)の空間を避ける

    換気のない密閉した空間を避ける(なるべく換気する)。人が密集した空間を避ける。他と接近した状態での会話などの発生を避ける。なお、他と接近する場合も、マスクを着用するが、互いが、相手にうつすことは避けやすくなる。しかし、マスクによって、他人からうつされることを防ぐことはできないという。

    ② 日常の手洗い・洗顔

    手の全体をよく洗う。洗い損ねる場所が少なくない。洗うために石鹸・ハンドソープ・アルコール消毒剤の利用が推奨されている。ただし、一部には、消毒しすぎる場合、善玉菌も殺して長期的に逆効果という説も、一考に値する(後に述べるように、体の健康・免疫力が最後の決め手になる)。なお、汚い手で顔を触らないことも、よくいわれる。

    ③ うがい

    うがいの有効性には、十分な医学的な証拠はないとされる(ただし、全くないわけではない)。欧米では推奨されておらず、日本が独自に推奨する習慣である。うがいは喉の奥には届かず、鼻のウイルス感染には無効であるという。

    なお、うがいは、口(歯の部分)と喉の「2度うがい」が推奨されることがある。一方、うがい薬の感染症予防の有効性の証拠はないとの報告がある。その逆に、単なる水うがいの方が、うがい薬を用いたうがいよりも有効だったという研究結果がある。その理由は、うがい薬は殺菌力が強すぎて、善玉菌まで殺すためという推測がある。

    一口のお茶(特にカテキンの多い緑茶)を頻繁に飲むこと=飲みうがいは、科学的に有効と思われて推奨する医師も少なくない。頻繁に飲んで喉のウイルスを胃に送り込めば、胃酸で殺菌されるため、喉からウイルスが侵入することを防ぐという。

    ④ マスクの着用

    主に他人にうつさないようにするためで、自分の感染予防ではない(ただし、至近距離から他人の飛沫を口周辺に直接浴的に浴びることは物理的に避けられるだろう)。また、使い方としては、紐の部分だけを触ってマスクを脱着することなど、使い方に色々な注意の推奨がある。

    ⑤ 室内の換気(加湿)

    密閉空間はウイルスが溜まりやすいので換気する。加湿に関しては、新型ウイルスの感染と湿度の関係を示す医学的な証拠は十分にはないが、最近の米国の政府機関の発表では、高温多湿の状態の方が、ウイルスの働きが鈍るというものがある。しかし、インフルを含めた感染症全体の予防のためにも加湿は有効だろう。

    ⑥ 室内の消毒

    特に感染が疑われる人と同居している場合は、強く推奨される。ドアノブなど皆の手の触れる所を消毒する。消毒のためには、次亜塩素酸やエタノール消毒剤が推奨されている。ただし、厚生労働省のHPでも推奨されている、次亜塩素酸ナトリウムの漂白剤は、それを十分に薄めて使わなければならない等、使用上の注意が煩雑なために、失敗する人が少なくないようだ。次亜塩素酸水の商品ならば(多少高価ではあるが)、その心配はないだろう。

    それから、パソコン・スマホは、よく手に触れるものだが、見過ごされがちである。トイレ・洗面に関しては、糞尿にウイルスが混ざることがあるので、その消毒は重要である。また、トイレの蓋は、閉めた上で水を流すことが推奨される。開けたまま一気に水を流した場合、水の勢いでウイルスが空中に舞い上がる可能性があるからである。

    以上は、繰り返しになるが、ウイルスに接触しないようするためか、もしくは接触しても瀬戸際で洗浄して体内への侵入を予防するための対策である。しかし、結果として完全に侵入を防げるものではないので、その場合に備えて、「体の免疫力」を高め、感染・発症・重症化を防ぐことが最終的な防御行動になる。

    そのためには、以下のようなことがポイントだろうと思う

     

    16.生活習慣・身体的な側面

    まずは、免疫を高めるための食事・運動・睡眠といった生活習慣・身体的な側面による免疫の強化について述べる。その中でまずは、飲食の面である。

    (1)食事 

    ① 水分補給

    一般に水分が不足し、体が乾燥すると、排尿が衰え、体内の毒素の排泄が滞る。また喉などが乾燥している場合は、そのぶんウイルスが生き残りやすいとされる

    ② 緑茶

    緑茶に多く含まれるカテキンは、新型ウイルスに対して、最高の抗ウイルス作用を持つ食品成分ともされる。一口の緑茶を頻繁に飲めば、喉の乾燥を防ぐとともに、喉のウイルスを胃に洗い落とし胃酸で殺菌できる。緑茶が、お茶の中ではカテキンの成分が最も多いとされる。

    ③ 緑黄色野菜

    βカロテンが免疫を高めるといわれる。

    ④ 発酵食品

    腸内細菌を整えるとされる。味噌・納豆、ヨーグルト・乳酸菌飲料など。腸内細菌は全免疫力の7割ともいわれる。

    ⑤ 海藻類・フコイダン

    ワカメ・昆布・モズクなど。若者の重症化をもたらす免疫の過剰反応であるサイトカインストームという現象を抑制する作用があるとされる。 

    ⑥ キノコ類(キノコ・シイタケなど)

    ビタミンDが含まれ、感染症によい。 

    最後に、食べ過ぎによる太りすぎは、新型コロナウイルスの感染においては、よくない。過体重の人が重症化するデータがある。最後に、私的見解ではあるが、以前から和食は理想的な健康食といわれることが多いが、上記の食品のリストを見れば、感染症の予防・免疫強化においても実際にそうだと思う。これを機会に、西洋化した日本の食事を見直してもよいのではないだろうか。

    (2)睡眠

    睡眠は、リズミカルな睡眠、夜更かしを避けるなどが推奨されている。

    また、現代においては、精神的なストレスによる不眠症が増えているので、この点に関

    しては、次項の免疫強化に役立つ精神面の作業を参照されたい。

    (3)運動

    運動は、低強度運動・有酸素運動が良いとされる。生活習慣病の予防も同様である。激しい運動は、体力を消耗して、逆に免疫を弱めるとされている。低強度運動の典型は、ヨーガの体操・ストレッチや、(少し速めの)歩行であろう。実際に、ヨーガのストレッチによって、免疫を構成する抗体の源である免疫グロブリンが増大したという研究報告がある。

    また、ヨーガは、単に免疫を強化する低強度運動という物理的・生理的な効果があるだけでなく、それによる精神安定の促進から来る免疫強化の効果を期待することができるが、これについては次項で述べる。

    また、野外での歩行は、3密を避けなければならないが、日光を浴びることで、免疫を強化するビタミンDを体内で作成することができる効果もある。さらに、最新の米国政府の研究発表では、新型コロナウイルスが太陽光に弱く、浴びると不活性化するという報告がある。

    ただし、強い日光を浴び過ぎると紫外線による皮膚等への被害が出るので、日射しの強い季節には注意を要する。ビタミンDの作成には、20分ほどの短時間の露出でよいとされる。また朝の日射しは柔らかいので、うつ病の治療にも、早朝に日光を浴びる日光療法が推奨されている。

    その意味では、次項の精神的な安定の促進による免疫の強化とも関係する。

    なお、ここでのヨーガとは、本場インドの源流のヨーガのことである。今流行の巷のヨーガ教室には、ホットヨーガ、パワーヨーガなど、身体的な美・ダイエット等が主たる目的のものがある。それは、心身の健康・心の安定を目的にしたものではなく、時に動きが激しすぎるために、体を痛めたり、肺機能に負担をかけたりして、免疫という点からは逆効果のものも多いので、注意が必要である。

    本来の低強度運動としてのヨーガであれば、下記の通り、精神的な視点で免疫を高める効果もある。

     

    17.精神面からの免疫の強化:精神状態と免疫は深い関係がある

    精神状態と免疫は、深い関係があるとされる。精神の安定やポジティブな感情は、感染した細胞を死滅するNK細胞を活性化させて免疫を高めることが、研究によって確認されている。また、逆にストレスは、免疫を低下させる要因となるという研究報告もある。

    その点から見て、ヨーガ・仏教は、そもそも精神を安定させる、肯定的にすることが、その主たる目的ともいうことができる修練体系である。ヨーガという言葉の原意自体が、心の静止ないし制御である(厳密には「心の働きの止滅」)。本章の末尾の資料には、ヨーガによる免疫力の向上を示す様々な研究報告のリストがあるので、参照されたい。

    また、仏教が説く「止(し)観(かん)」の瞑想の中の「止(し)」の瞑想は、心を静める、静止させるための瞑想である。禅定の修行も同様である。また、仏教の修行の中には、静まった心を培うためにも、他に対する肯定的な心の働きかけとして、慈悲・利他・感謝と恩返し(報恩)といった瞑想や日常実践が説かれている。こうして、仏道修行は、心の安定と肯定的な心の働きを培うものであり、免疫の強化に役立つものである。

    なお、瞑想以外にも、ヨーガや仏教の身体行法は、身体をコントロールすることで、心の状態・生理的な状態を安定させる効能がある。

    第一に、ヨーガのアーサナ(体操・座法・体位法)がある。ヨーガにみられる筋肉をほぐす運動(筋肉弛緩法)は、心を安定させることが、身体心理学の分野で実験によって確認されている。また、コルチゾールなどのストレスの指標が改善し、免疫グロブリンが増大して免疫力が強化されることが報告されている。

    また、このヨーガのアーサナは、座法・体位法とも訳されることがあり、体操によって心身をほぐして整えて、正しい安定した姿勢で快適に座って瞑想ができるようにするためのものである。身体心理学の研究でも、背筋が伸びた正しい姿勢は、心の安定とも深い関係があるとされている。

    第二に、ヨーガのプラーナーヤーマ(呼吸法・調息法・調気法)がある。身体心理学の研究結果においては、単なる深呼吸よりも、息を吸った後に少し止めて、息をゆっくりと出す(長い呼気)が、精神の安定に有効であることが示されている。それとともに、PETCO2などのストレス指標が改善されることが報告されている。また、仏教で説かれる呼吸を意識化する呼吸法や、ヨーガのプラーナーヤーマの呼吸法が、肺結核の感染症の治療を助けるとの報告もある(末尾の資料⑦)。

    第三に、ヨーガのマントラ(真言)にも、精神的な効果が認められている。身体心理学の実験では、特定の発声が精神の開放・安定に関係するとの研究報告がある。特に「アー」音などが有効との身体心理学の報告があるが、マントラ・真言には、この音が多く含まれている。

    最後に、精神面の所でも述べたが、仏教の歩行瞑想(経(きん)行(ひん))も、心の安定に向けた精神的・身体的な効果があると思われる。

    その一つとして、歩行と瞑想を組み合わせたものとして、マインドフルネス・ウォーキングがあるので簡単に紹介したい。

    まずは、背筋を伸ばし、体の力は抜く。そうできるように、歩行を開始する前にアーサナ(体操)によって体の各部をほぐしておくとよい。

    そして、視線は下向きにならないようにして、姿勢を正しつつ、呼吸のテンポと歩行のテンポを同期させるようにする。

    そして、下腹部と足の感覚に注意を集中しながら、下腹を前進させていくイメージで、体や感覚を感じながら歩くようにする。

      

    ※参考情報1:ヨーガが免疫力を含む健康増進に役立つとの研究報告

    ヨーガは、心身の両面から、免疫力を含めた健康の増進に役立つという多くの研究報告がありますので、ご紹介します。

    ただし、新型コロナウイルスに関連しての報告ではありませんので、ご注意ください。

    「米国精神医学誌」研究報告
    「カウンセリング研究」学会誌の研究論

    「国際行動医学会」研究論文

    「大阪経大論集」(大阪経済大学の研究論文) 

    「社会医学研究」学会の研究論文

    早大助教授の研究:風邪・インフルの予防

    厚生労働省HP:ヨーガと感染症:肺結核

    厚生労働省HP:ヨーガと感染症:HIV

    米国ハーバード大・メディカルスクールの研究

    その他

     

    ※参考情報2:身体心理学とその研究結果

    身体・身体の動き・心の相互作用の視点から、心に取り組む身体心理学というものが、早稲田大学名誉教授である春木豊博士によって提唱されている。春木博士は行動主義心理学、健康心理学を研究し、ヨーガ、気功、禅などの実践もするなかで「身体心理学」を提唱した。

    東洋においては、ヨーガや気功など、体と体の動きと心の関係が古くから知られ、心身(しんじん)一如(いちにょ)という言葉もある。心身医学や健康心理学で心身の相関性は指摘されるが、身体心理学は、そこに「体の動き」というものを加え、より体と心の関係を明確にした。そして、身体心理学が目指すところは、ストレスへの耐性を高めること、心身のウェルビーイング(良好な状態)である。

    以下は、その研究結果の一部の紹介である。

    ① 呼吸が生理に及ぼす影響

    呼吸と血圧、心拍との関係を示す研究を紹介する。3つの呼吸法で実験を行った。

    ①腹式呼吸で呼気を長く行う ②腹式呼吸で呼気を短く行う ③深呼吸 である。

    実験前に血圧、心拍数を測り、気分評定表のチェックをした。実験直後に血圧、心拍数の測定をし、5分休憩後に再度測定をした。その結果、いずれの呼吸法でも血圧は下がったが、呼気を長く行った呼吸法(長息)が、最も下がり方が大きかった。長息は、血圧が下がった状態が持続したが、他の呼吸法は時間とともに元に戻った。心拍数は、どの呼吸法でも実験後上昇し、5分の休憩で急速に低下した。

    このことから、長い呼気が、血圧を下げるのに効果的であること、副交感神経を優位にし、生理的安定をもたらすことがわかる。また、ゆっくりした呼吸と速い呼吸で、心拍数と呼気終末二酸化炭素(PETCO2:PETCO2は呼吸によって吐き出された気体中のCO2の分圧(割合))の量を比較した実験では、ゆっくりした呼吸では、心拍数が下がり、呼気終末二酸化炭素の値が上がった。呼気終末二酸化炭素はストレスあるときは値が下がるので、ゆっくりした呼吸によって生理的緊張状態が改善できることを示している。

     

    ② 呼吸が心理に及ぼす影響

    腹式呼吸の実験において、気分の調査を行った。「落ち着いた--興奮した」「くつろいだ--緊張した」など、気分を表す対になった言葉を示し、その間を10段階で評価してもらった。

    その結果、長い呼気では、短い呼気や深呼吸よりも、落ち着いた気分、くつろいだ気分になる傾向が大きかった。腹式呼吸で長い呼気をすると、リラックス効果がもたらされることを示している。

    また、意識的に呼気を長くすることで、「タイプA性格」という、怒りやすい、焦りやすいという性格の人たちに効果があることがわかっている。長い呼気を行うと、「時間的切迫感」「焦りを感じて落ち着かない」というタイプAの傾向が低くなることがわかった。

     

    ③ 筋肉の弛緩法が心理・生理に及ぼす影響

    健常者に、ジェイコブソンの漸進的弛緩法(体の各部位を順次弛緩させていく方法。一度緊張させて緩めるという手順をとる)を行い、実験した。事前に、不安尺度、ストレス状態を調べる尺度に回答してもらい、そのときのリラクゼーションの程度も10段階でチェックし、生理的検査として心拍数を測り、唾液を採取した。

    この後、被験者は、筋弛緩法を20~25分行った。事後に、事前に行った検査を行った。比較対象として、筋弛緩法をやらないで静かに座っている被験者も同じように検査した。その結果、筋弛緩法を行った被験者は、不安、ストレスの程度が下がり、リラクゼーションの程度が上がった。筋弛緩法をやらないで静かに座っている被験者には、変化がなかった。筋弛緩が、心理的緊張を下げることがわかった。

    心拍数は、筋弛緩法を行った被験者は低下し、行わなかった被験者は変化がなかった。また、唾液から抽出されたコルチゾールは、筋弛緩法を行った被験者は低下し、行わなかった被験者は変化がなかった。コルチゾールは。、ストレスが高まると値が大きくなるので、筋弛緩法はストレスを下げたといえる。また、唾液からの免疫グロブリンが、筋弛緩法を行った被験者は増えていて、行わなかった被験者は変化がなかった。

    このことから、筋弛緩が、免疫力を高めたといえる。

    また、弛緩法が、恐怖心を弱めることができるという実験結果もある。恐怖心と筋緊張が、密接に関連していることを示していて、心の緊張と体の緊張は、同義であるといえる。

     

    ④ 発声が心理に及ぼす影響

    被験者に「アー イー ウ~ン エー オー」を発声してもらい、それぞれの発音に感情評定してもらった。「ウン」は温かい、ゆったりしたという回答が多かった。「ウ~ン」は落ち着いた気分、「アー」は開放的な気分をもたらした。

     

    ⑤ 姿勢が心理に及ぼす影響

    顔の方向が上向き・正面・下向きで、それぞれについて背骨を直立と曲げたものの、計6種類の姿勢をとってもらい、それぞれどのような気分を感じるかを17の形容詞対で評定してもらった(「生き生きした--生気がない」「自信がある--自信がない」「明るい--暗い」など)。首を下向きにすると、他の向きよりネガティブな気分になる、背骨を曲げると、ネガティブな気分になることがわかった。

    最もネガティブな気分になるのは、首を下向きにして、背骨を曲げる姿勢である。この姿勢はうつと関係がある。うつ気分になるとうつむき姿勢になるが、うつむき姿勢でうつ気分にもなるといえる。

     

    ⑥ 姿勢が知覚・心理に及ぼす影響

    音楽を聴くときの姿勢が、音楽の知覚にどのように影響するかという実験では、仰向けの姿勢、背筋を立てて正面を向く姿勢、背骨を曲げてうつむく姿勢の3つの姿勢で、行進曲風の明るい曲を聴いてもらった。

    うつむき姿勢で聴くと、他の姿勢よりネガティブな感じに聞こえるという結果であった。姿勢は、環境からの情報を受け取る場合に影響を与えるということが示唆される。

    姿勢と前頭葉との関係を調べた。直立姿勢とうつむき姿勢で「さ」「み」などからはじまる名詞をたくさん言ってもらう知的作業を行った。そのときの前頭葉の活性度を調べた。

    その結果、直立姿勢のときは前頭葉が活性化したが、うつむき姿勢のときは活性化しなかった。うつ状態の人は、知的作業をするとき、前頭葉が不活発であるという研究もある。うつむく姿勢は、うつ気分と関係し、知的活動も低下することがわかった。

    また、小学校、中学校で、しっかり座ると腰が立つ椅子を使うことで、従来の椅子と比べ「落ち着く」「生き生きした感じ」「くつろぐ」との評価があった。この椅子を半年間使って、姿勢への意識や学校生活に対する意識がどのように変わったか観察した結果、「授業中に姿勢を気にするようになり」「自分の姿勢はよい」という意識が高まり、「いらいらすること」が少なくなり、代わりに「落ち着いて勉強できる」ようになった。教師たちも、従来より生徒たちのやる気、集中力が増したと評価している。

    また、姿勢に対する意識が高まった生徒では、物事に飽きるということが減少し、頭がすっきりする程度も高まった。自己統制力が高まった。そうでない生徒では、そのような結果はなかった。

     

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  • 心身の健康の鍵: 自律神経の制御とヨーガの呼吸法

    下記のテキストは、2021年GWセミナー特別教本『自律神経を制御する呼吸法 大自然・大宇宙の瞑想』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.現代医学の自律神経の理論とヨーガの思想の類似性

    現代医学で健康の鍵とされ、最近よく一般向けの健康書籍などで紹介されるのが、自律神経の問題である。皆さんは、原因がよくわからない体調不良があると、自律神経失調症と診断されることなどは聞き及んでいるかもしれない。それほど広く、自律神経の問題は、さまざまな体調不良の原因となるとされ、さらに、それが原因・遠因となって、様々な具体的な疾患につながる。

    自律神経には、体の右側を走る交感神経と左側を走る副交感神経があり、この両者が、十分にかつバランスよく機能することが望ましいとされる。どちらも機能しないだけでなく、どちらかが十分に機能せずに両者のバランスが取れていない場合も望ましくないのである。

    さて、この理論と非常によく似たヨーガの理論があることが、ヨーガと医学の双方を研究している者たちの間で理解されてきた。それは、ヨーガでは、目に見えない生命エネルギーである「気」(インドのサンスクリット語ではプラーナ)が体の中を流れ、その気が流れる通り道を気道(ナーディ)と言うが、その中で、体の右側を通るピンガラ気道と、左側を流れるイダー気道というものがあり、それぞれが、現代医学・神経学が説く交感神経と副交感神経の働きによく似ているのである。

    そのために、日本のヨーガ研究の草分け的な存在である佐保田鶴治氏(故人、元大阪大学名誉教授)によれば、ヨーロッパのヨーガと医学の研究者の中には、交感神経・副交感神経と、ピンガラ気道・イダー気道を同一のものだとみなす人たちがいるほどだという(佐保田氏自身は全く同一だとみなすのは行き過ぎだとしている)。この分野に関する日本の研究者は多くはないが、やはり同一視する人たちがいる。両者が全く同一ではないにしても、相当に類似しているとすれば、それは、交感神経とピンガラ気道、副交感神経とイダー気道が、それぞれ連動している、つながりがあるという重要な意味を持つだろう。

    そして、さらに重要なことは、ヨーガの理論の中には、その身体行法、特に呼吸法(プラーナーヤーマ)によって、現代医学にはないピンガラ気道(→交感神経)とイダー気道(→副交感神経)の制御の方法が説かれているということである。ヨーガの呼吸法にはさまざまなものがあり、本稿で紹介する十数種類のものも、その一部にすぎない。このさまざまな呼吸法のそれぞれが、双方の気道(→双方の神経)の浄化・活性化・制御において異なる働きを持っており、その意味で、ヨーガの呼吸法は、非常に緻密・繊細に、双方の気道(→双方の神経)を制御する仕組みを持っているのである。

    そして、一般向けの健康書の中でも、自律神経の調整の方法が解説・紹介されているが、最近は、自律神経の権威・名医といわれる医師・医学者の中で、自律神経の調整のために、ヨーガの呼吸法と全く同じものを紹介している人が複数見られる状況となった。すなわち、自律神経の医学とヨーガの呼吸法が、融合しつつあるということができる。よって、現代医学の手法に加えて、ヨーガの呼吸法を学ぶことは、心身の健康の鍵となる自律神経の制御の上で、大いに役に立つと思われる。さらには、その呼吸法は、単なる心身の健康という範疇を超えて、心の深い安定・深い精神の集中といった、ヨーガや仏教が説く、瞑想や悟りといった言葉で表される、高度な心理的な発達の土台となる恩恵もある。

     

    2.自律神経とその制御に関する医学的な基礎知識 

    そこでまず、現代医学が解き明かした自律神経の仕組みに関して、その概略を解説しておきたい。まず、自律神経とは、人が意志しなくても自律的に働く活動を制御する神経である。例えば、心拍・血圧・発汗・呼吸・血管や気道の縮小・拡大などは、私たちが意志しなくても、勝手に体がそれを調整して動かしている。この自律的な動きを制御するのが自律神経である。よって、心理学的に言えば、無意識の脳活動が制御している神経であると表現することができるだろう。

    これに対して、体性神経とは、意志によって動く神経であり、運動神経や知覚神経などが含まれる。そして神経全体の分類から見れば、中枢神経(脳と脊髄の神経)と末梢神経(それ以外)があり、この末梢神経が、体性神経と自律神経に分けられる。

    図1:神経の全体像

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      図2:自律神経の概要

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    ※図1:『きのこらぼ』「『勝てるメンタル』のカギは自 律神経にあり⁉(前編)」より引用 https://www.hokto-kinoko.co.jp/kinokolabo/ jsport/performanceup/40630/

    ※図2:『MSDマニュアル家庭版』「自律神経系の概要」より引用 https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0

     

    3.交感神経と副交感神経の特徴

    次に、交感神経の特徴について述べる。大まかに言えば、交感神経は、体の右側を走っており、日中活発に働き、心身を活動に導き、緊張・興奮をもたらす神経である。

    また、交感神経と副交感神経は対極的な関係にあり、同時には、どちらか一方が活性化し、その働きが、他方の働きに対して優位になる。すなわち、交感神経の活性化は、副交感神経に対して交感神経が優位になった状態である(副交感神経の活性化は、副交感系神経が交感神経より優位になった状態である)。

    交感神経が活性化すると、生理現象としては、心拍は速く、血圧は高く、発汗は促進され、気道は拡張し、胃腸(消化)は停滞し、呼吸は速く・浅く、血管は縮小し、血流は抑制され、体温は上昇する。

    なお、医学者の中には、体温は低下するという見解もあるが、これは血管が縮小し、血流が抑制される視点からの見解であって、交感神経が活性化するのは、通常は体が活動する時であり、それに伴い体温は上昇するので、上昇するとの見解を優先した。

    さらに、覚醒、活動、集中、興奮、緊張、ストレス、脅威の認識とその排除(闘争・逃走)をもたらし、体や頭を動かすエネルギーを消費する。

    そして、交感神経の働きが過剰となると、継続的・過剰な緊張・過剰なストレス、不安・恐怖、不眠、血液循環の不足、胃腸の消化・栄養吸収の停滞、エネルギー・疲労回復の遅れ、体温の過剰な低下、免疫の不足・低下、炎症性疾患(癌・胃炎・胃潰瘍・リウマチ)などを招くといわれている。

    次に、副交感神経は、体の左側を走っており、夜中(眠っているとき)活発に働き、心身を休息に導き、リラックスをもたらす神経である。

    副交感神経が活性化すると(交感神経より優位になると)、生理現象としては、心拍は遅く、血圧は低く、発汗は抑制され、気道は縮小し、胃腸(消化)は活発になり、呼吸は遅く深く、血管は拡大し、血流は促進され、体温は低下する。

    そして、睡眠・休息・弛緩・リラックス、エネルギー・疲労の回復・食べ物の消化=栄養吸収をもたらす。

    しかし、副交感神経が過剰に働く場合は、集中の欠如・注意力散漫・警戒心の欠如・ボーッとした、昼間の眠気、無気力が生じる。さらに、充血・うっ血などで血液循環が逆に悪化する場合がある。また、体温の過剰な低下、免疫の過剰・暴走、アレルギー性疾患(アトピー・花粉症など)をもたらし、免疫が低下する。

      図3:交感神経と副交感神経の特徴

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      図4:自律神経の不均衡と免疫力の低下

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    ※図3:『NAGASHIMA ATHLETIC TRAINERS』「コロナ疲れ、外出自粛、テレワークで急増!? 自律神経失調症とツボ押しマッサージ」より引用
    https://at-n.net/usual/16152/

    ※図4:『ナチュラルクリニック代々木』「季節の変わり目にご用心~自律神経を整えましょう~」より引用
    https://www.natural-c.com/blog/2018/04/post-134-585425.html

      図5:自律神経と免疫細胞の関係

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     ※図5:『鍼灸整骨院tecu』「自律神経免疫療法」より引用
    https://trefleplus.com/tecutecu/autonomic/

     

    4.自律神経の乱れとその四つの状態

    自律神経失調症など、自律神経の乱れで生じる身体の不調の一例を示したものが図6である。このように、実に多くの身体の不調の原因となる。

    ここで自律神経の乱れとは、交感神経と副交感神経の双方が機能していない状態と、交感神経の働きが過剰で副交感神経の働きが不足する状態と、その逆の状態があり、自律神経の不調には3つの状態があるということになる(図7参照)。

    ストレスの強い現代人は、交感神経過剰が多いといわれているが、医師によれば、最近は、双方の神経が働いていない状態(トータルパワー不足ともいわれる)の人も多くなったという。また、私の個人的な経験からすれば、副交感神経過剰のタイプの人も少なくないと思うが、それは身体の不調ではなく、性格の問題とされるなどして見過ごされている可能性がある。

    これに対して、自律神経が整っている状態とは、交感神経と副交感神経の双方がしっかりと働き、適切に交替して、活動と休息のバランスが取れており、心身共に健康な状態である。

     図6:自律神経失調症の症状

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       図7:自律神経の4つの状態

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    ※図6:『はり・きゅう・整体 つぼのチカラ』「自律神経失調症」より引用
    https://tubotika.jp/hutyou.html

    ※図7:『ダ・ヴィンチニュース』「あなたの自律神経をセルフチェックしてみよう!」より引用
    https://ddnavi.com/serial/685919/a/

     

    5.ヨーガの神経生理学:気(プラーナ)と気道(ナーディ)など

    次に、ヨーガのピンガラ気道(右気道)とイダー気道(左気道)について解説し、それぞれが、交感神経と副交感神経とシンクロしていることを説明したい。まず、その準備として、ヨーガの基本的な知識を紹介したい。

    まず、ヨーガの思想では、気(プラーナ)と呼ぶ生命エネルギーが体の中を流れているとされ、その気が通る道を気道(ナーディ)と呼び、体全体に7万2千本あると説く。そして、複数の気道の交差点があるが、特に多くの気道が交差して密集する点をチャクラという。

    また、この思想は部分的な違いはあるが、仏教の後期密教も共有している。さらに、中国医学も、ほぼ同じ気の概念を扱い、気道を経絡(けいらく)といい、気道の交差点を経(けい)穴(けつ)(ツボ)といい、ほぼ同じ概念を共有していると考えられる。

    そして、ヨーガの思想では、体の中には、3つの主な気道(ナーディ)の存在が説かれ、それは以下のとおりである。

     ①スシュムナー気道:中央気道

    ②イダー気道(別名チャンドラ気道):左気道

    ③ピンガラ気道(別名スーリヤ気道):右気道

    次に、具体的な気道(ナーディ)とチャクラの位置を示したものが、図A・Bである。著名なヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師が解説する、3つのナーディと9つのチャクラの図である(『魂の科学』〈たま出版刊〉より引用)。

    図A

     

    図B

    図Bにあるように、スシュムナー気道は、尾てい骨から背骨(脊髄)を通って、頭頂に至る中央の気道である。ピンガラ気道は、尾てい骨からスシュムナー管よりも右側を通って、右の鼻に至る右側の気道である(別名スーリヤ気道)。イダー気道は、尾てい骨からスシュムナー管よりも左側を通って、左の鼻に至る左側の気道である(別名チャンドラ気道)である。

    なお、この3つの気道の概念は、ヨーガの各宗派と仏教の後期密教が共有しているものの、その気道の具体的な位置は、各宗教宗派でかなり異なる部分がある。ここでは、その詳細は省くことにする。

     

    6.ヨーガの右気道(ピンガラ気道)と交感神経との類似性

    ヨーガが体の右側を通ると説くピンガラ気道(ピンガラ・ナーディ)は、別名、スーリヤ・ナーディともいわれる。スーリヤとは太陽の意味であり、これは、太陽と月のうちの太陽、昼と夜のうちの昼を象徴し、名称からして、昼・日中に活性化する交感神経と類似している。

    その位置は、学派により諸説があるが、共通点として、右の鼻腔を通り(ないしは額に位置するアージュニヤー・チャクラに右側から入る)、腹部の右側に位置するスーリヤ・チャクラ(肝臓に位置するチャクラ)を通るとされる。

    このピンガラ気道の特徴は、前に述べた通り、太陽が象徴となっており、陽・日・火・熱・暖・男性などである。すなわち、陰陽の陽である。

    ピンガラ気道を活性化させる呼吸法であるスーリヤ・ベーダナ・プラーナーヤーマと呼ばれる呼吸法(プラーナーヤーマ)を行うと、ヨーガの経典によれば、体が温まるので、冬に行うとよいとされる。この点でも、体温を上昇させる交感神経と類似する。なお、ピンガラ気道を活性化させるとは、ピンガラ気道に、より多くの気(プラーナ・エネルギー)が流れる状態である。

    そして、ピンガラ気道の良い働きとしては、パワー・エネルギー・活動的な行動・集中力・注意力・神通力の増大をもたらし、左脳と関係する論理的な行動(左脳)に適するという説もある(人体の右脳は、体の左側に関係し、左脳は右側に関係しているためである)。一方、ピンガラ気道の悪い働きとしては、私の経験上、過剰な怒り・嫌悪・ストレス・不安・憂い・恐怖や、体を過剰に熱することがある。

     

    7.ヨーガの左気道(イダー気道)と副交感神経との類似性

    ヨーガは、体の左側を通るイダー気道(イダー・ナーディ)を説くが、これは別名、チャンドラ・ナーディという。チャンドラとは月の意味であり、太陽と月のうちの月、昼と夜のうちの夜を象徴する。こうして、名称からして、夜中に活性化する副交感神経の働きと類似している。

    その位置は、学派により諸説があるが、共通点として、左の鼻腔を通り(ないしは額に位置するアージュニヤー・チャクラに左側から入る)、チャンドラ・チャクラ(膵臓(すいぞう)・脾(ひ)臓(ぞう)に位置するチャクラ)を通る。

    イダー気道の特徴は、月が象徴であるように、陰・水・寒・冷・女性などである。陰陽の陰である。イダー気道を活性化させるチャンドラ・ベダナ・プラーナーヤーマと呼ばれる呼吸法(プラーナーヤーマ)を行うと、ヨーガの経典によれば、体の余計な熱を冷ますので、夏に行うとよいとされる。

    イダー気道の良い働きは、経験上、静寂(静かさ)・不動心・冷静さ・感情の制御が深まり、瞑想等の安定した静的な行動に適するという説がある。直感を高めるという説もある(右脳に関係する)。一方、イダー気道の悪い働きとしては、私の経験上、無智・眠気・無気力・怠惰・無価値なものへの執着、体を過剰に冷やすことだと思われる。

     

    8.呼吸における左右の鼻の使われ方とヨーガの左右の気道

    科学的な研究によって、人間は、常に左右の両方の鼻からは均等に呼吸していないことがわかっている。人間は、およそ90分間隔で、左右のどちらかの鼻の穴から強く呼吸をしているという(なお、早朝は、両方の鼻で均等に呼吸しているという説もあるという)。

    そして、ヨーガ修行の経験上は、左の鼻の呼吸が優位である時は、左気道=イダー気道(→副交感神経)が優位となっている。これは左気道=イダー気道に、右気道=ピンガラ気道より、より多くのエネルギー(気)が流れている状態だと考えられる。だとすれば、その時間帯は、右鼻の呼吸が優位である時に比較すれば、静的な行動に適しているということになる。

    一方、右の鼻の穴からの呼吸が優位であれば、ピンガラ気道(→交感神経)が優位となっている。これは左気道=イダー気道よりも、右気道=ピンガラ気道の方に、より多くのエネルギー(気)が流れている状態だと考えられる。そして、これは、左鼻の呼吸が優位であるときに比較すれば、動的な行動に適しているということになる。

    そして、ヨーガの呼吸法では、あたかもこの事実を踏まえたかのように、右鼻ないし左鼻だけで呼吸する呼吸法がある。右鼻だけで呼吸すると、体が温まるとされるが、これはピンガラ気道および交感神経の活性化の特徴である。逆に、左鼻だけで呼吸すると、体の余計な熱を取り除くとされるが、これはイダー気道および副交感神経の特徴である。

    また、これに関連したヨーガの理論として、「気道の詰まり」というものがある。悪い行為をすると、それに関連して気道が詰まり、気道の中を気が流れにくくなるというのである。

    気・経絡・経穴という概念を持つ中国医学にも、気(き)滞(たい)という概念がある。文字通り、気の滞り、経絡を流れる気が滞り、スムーズに流れない状態をいうもので、ヨーガとほぼ同じ概念を共有していると考えられる。

    そして、重要なことは、左気道に詰まりが生じると、左鼻が詰まる現象が起こる。右気道に詰まりが生じると、右鼻が詰まるという現象が起こる。

    そして、ヨーガの経典の記載から見ても、私の修行経験からしても、左鼻が詰まっている時に、左鼻を通すように左鼻だけで呼吸すると、左気道の詰まりが取り除かれ、左気道が活性化する。同じように、右鼻が詰まっている時に、右鼻を通すように、右鼻だけで呼吸すると、右気道の詰まりが取り除かれて、右気道が活性化する。

    以上をまとめてみると、気道に関してはチェックすべきこととして、第一に、気道が詰まっているか否か(左右のいずれか、ないしは両方の気道が詰まっていないか)ということがある。第二に、右気道と左気道のいずれかが不適切に、過剰に活性化していないか(いずれかに気[エネルギー]が偏っていないか)、それとも両方のバランスが取れているか、ということである。

    第一の問題は、気道が詰まっていると、その気道の気の流れが悪くなるため、その気道(と連動する神経)による必要な働きが生じないことになる。第二の問題は、例えば、夜の時間(暑い時)などは、右気道(→交感神経)の働きではなく、左気道(→副交感神経)の働きを活性化させたいのであるが、その時に逆に、右気道が活性化しているならば問題となるということである。

    さて、この二つの問題、すなわち、気道の詰まりと気の偏りはつながっている。というのは、左右いずれかの気道に詰まりがあると、詰まりがある側の気道には、気が流れにくくなるので、不適切な気の偏りが生じやすくなるということである。90分単位で左右いずれかの鼻の優位状態が交代するのが、自然な状態であるにもかかわらず、そうならない場合があるということである。

     

    9.ヨーガの呼吸法とアニメの『鬼滅の刃』のシンクロニシティ

    少し脱線してしまうが、ヨーガの呼吸法に、左右の気道を整えるものがあると言ったが、呼吸法を強調する人気のアニメに『鬼滅の刃』がある。鬼滅の刃は、新型コロナの問題が続く中で、アニメ映画の観客動員数の記録を塗り替えて、社会現象とまでいうべきほど人気になった。その『鬼滅の刃』の中には、「火の呼吸法」と「水の呼吸法」が出てくる。主人公の男の子は、最初は「水の呼吸法」を会得し、徐々に「火の呼吸法」を会得していく。

    そして、ヨーガの呼吸法も、これにシンクロする部分がある。「火の呼吸法」にシンクロするものとして、前にも述べたが、右気道(=ピンガラ気道・スーリヤ[太陽]気道)を活性化させ、体を温めるタイプの呼吸法がある。その中には、体を非常に熱くさせ、炎のエネルギーともいわれるクンダリニー(※)を覚醒させるものもある。一方、「水の呼吸法」にシンクロするものとして、左気道(=イダー気道・チャンドラ[月]気道)を活性化させ、体を冷ますタイプの呼吸法もある。

    また、『鬼滅の刃』では、人間離れした力を持つため、主人公らが「全集中の呼吸」という呼吸法を取り入れ、血液中の酸素濃度を高め、高い集中力と身体能力を手にするという設定がされているが、ヨーガの呼吸法でも、酸素濃度を高めるタイプの呼吸法や、集中力を高めるタイプの呼吸法がある。

    次に、呼吸法の効果と実践上の注意点に関して、まずは医学的な見地から紹介するとともに、加えて数千年もの間、呼吸法を取り入れてきたヨーガの見地からも紹介したいと思う。

    (※なお、ひかりの輪では、クンダリニーと関連して、「クンダリニー症候群」という心身の不調についても解説している。詳細は『クンダリニー症候群とその対処法』をご参照のこと。)

     

    10.医学者が説く、ゆっくりと吐く深呼吸:副交感神経の活性化

    呼吸法は、ヨーガや太極拳に限らず、最近では格闘技やスポーツで重視されるようになった。自律神経に詳しい小林弘幸・順天堂大教授は、①ゆっくり吐く呼吸を心がけることで、自律神経の副交感神経の活動が上がり、血流が良くなり、②血流が良くなると、腸の活動や免疫の働きも活性化し、長生きにつながるという。

    小林教授が勧めるのは、吸気と呼気の長さを1対2にして、深い呼吸をする方法である(長生き呼吸法)だ。たとえば2秒吸って4秒吐く。そして、1日3分間でも、時間を決めて毎日行う。こうして、普段おざなりになっている呼吸に意識を向けることが大事だという。

    教授は、特に最近は新型コロナウイルスの流行で、現代人のストレスはますます高まり、呼吸も浅くなっているのではないかと懸念されている。ストレスが高まると、呼吸は浅くなり、逆に、ゆっくり吐く呼吸法で、ストレスを解消できるということである。

    このメカニズムを詳しく説明すると、呼吸によって取り込まれる酸素は、血液に溶け込み、毛細血管を経由して全身の細胞に届けられる。よって、ゆっくりと深く呼吸をすれば、肺に取り込まれる酸素量が増え、そのため、酸素を運ぶ全身の血流量も増加する。

    その結果、全身の細胞の活性化につながる。全身の細胞は、酸素を取り込み、二酸化炭素を排出して、新陳代謝を行っている。よって、体の回復を早くさせたり、力を引き出したりすることができる。

    小林教授の研究では、ゆっくりと深く呼吸をすることで、すぐに毛細血管の血流量がアップすることが確認されている。よって、同教授は「呼吸には一瞬で体の状態を変える力があり、呼吸法ほど即効性の高い健康法はありません」と主張する。

    また、ゆっくりと吐くことによって、リラックス効果のある副交感神経が、刺激・活性化される。同教授の研究では、ゆっくりと吐く呼吸(吸気2秒・呼気4秒)によって、通常の呼吸(吸気1秒・呼気1秒)に比較して、自律神経の副交感神経が、2.5倍も活性化したことが確認されている。繰り返しになるが、副交感神経が活性化すると、リラックスすることができるのである。

    また、春木豊・早稲田大名誉教授は、体の使い方と心の状態には深い関係があるとする身体心理学を提唱しているが、同氏も科学的な実験を通して、ゆっくり吐く呼吸法の効果を確認している。

    次に、①腹式呼吸で呼気を長く行う、②腹式呼吸で呼気を短く行う、③普通に深呼吸する、という三つのケースの実験をして、それぞれの実験前後の血圧・心拍数を計ると、①のケースが、血圧・心拍数の下がり方が最も大きく、かつ下がった状態が、一番長く持続したという。

    こうして、長い呼気が、血圧を下げ、副交感神経を優位にして、生理的な安定をもたらすことが確認された。実際に、被験者に質問しても、長い呼気では、短い呼気や深呼吸よりも、落ち着いた気分、くつろいだ気分になる傾向が大きかったという。

    さらに、意識的に呼気を長くすることは、「タイプA性格」という、怒りやすい・焦りやすいという性格の人たちに効果があり、「時間的切迫感」「焦りを感じて落ち着かない」というタイプAの性格的な傾向が和らぐことも確認されたという。

    そして、他にも、ストレスと呼吸の深い相関関係も、実験で確認されている。被験者にストレスとなる作業をさせると、安静時と比較して、呼吸の時間が短くなる傾向が見られた。特に、息を吸った後に、息を吐くまでの間が短くなったという。ストレスがあると、ゆったりした呼吸ができないようである。

    また、ゆっくりした呼吸と速い呼吸で、心拍数と呼気終末二酸化炭素(PetCO2:PetCO2は、呼吸によって吐き出された気体中のCO2の分圧[割合])の量を比較した実験を行うと、ゆっくりした呼吸では、心拍数が下がり、呼気終末二酸化炭素の値が上がったという。呼気終末二酸化炭素は、ストレスがあるときは値が下がるので、ゆっくりした呼吸によって、ストレスが減少したことを示している。

    以上の結果から見て、呼吸をおざなりにせず、良い呼吸の習慣を作ることは重要である。私たちは、呼吸を無意識に、1日2万回以上しているといわれる。しかし、日常生活では呼吸を意識することはなく、おざなりにしてしまいがちだ。しかし、実際には、呼吸の質の良し悪しによって、さまざまな体調不良の原因にもなる。

    一方、小林教授によれば、1日数分でも、上記のゆっくり吐く長生き呼吸法を行えば、誰でもゆっくりと深い呼吸ができるようになるという。ただし、これは、1日だけやればいいというものではなく、毎日続けることが肝心である。ヨーガの修行でも、良いことを繰り返し行い習慣化する重要性(修(しゅ)習(じゅう))が強調される。

    さらに、ゆっくりと吐く呼吸法は、自律神経と腸内環境を同時に整えることができる。前にも述べたように、呼吸のときは、吐く時間を長くする。まず、前に述べたように、吐く時間を長くすると、自律神経の中でリラックス効果のある副交感神経が刺激されて、自律神経を整えることができる。

    また、ゆっくりと吐く深い呼吸法を行う際には、腹式呼吸で行う。お腹に深く息を入れで出すのである。これは、胃腸を運動させて、マッサージする効果がある。小林教授によれば、胃腸のマッサージによって、腸内環境が良好になるという。さらに、前に述べた通り、全身の血流量も増える。

    そのため、ゆっくりと吐く深い呼吸法によって、免疫力の向上も期待できる。というのは、免疫細胞の7割は腸内に存在しており、さらに、血流・血液循環が良ければ、免疫細胞が体全体を巡ることができる。さらに深い呼吸をすると、血流の増大とともに、軽い運動にもなるために、体温が若干向上する(体が温まる)。免疫力は、体温が高いほど向上する。

    こうして、ゆっくりと吐く深い呼吸は、①体内の酸素量・血流の増大・血液循環の改善、②自律神経の改善(副交感神経の活性化によるストレス解消・リラクセーション)、③腸内環境の改善、免疫力の向上をもたらす。結果として、小林教授によれば、①疲労回復、②さまざまな生活習慣病の改善、③ここ一番での集中力の向上・メンタルの安定・仕事のパフォーマンスアップなどにも有効だという。

    そして、始めた日から頭がスッキリするなど、気分が良くなることがあり、それを毎日の習慣にすれば、意識しなくても呼吸がゆっくりと深い呼吸に変わっていき、病気や不調を遠ざけてくれる健康体を築くことができるということになる。この意味で、手っ取り早い健康法ではないかと思われる。

     

    11.ヨーガの呼吸法:プラーナーヤーマの基本

    それでは次に、ヨーガの呼吸法について解説したい。そのために、ヨーガの呼吸法に関するヨーガの基礎知識を解説する。

    ヨーガの呼吸法は、プラーナーヤーマといわれる。文字通りに訳すと、気を制御する方法(調気法)となる。「プラーナ」とは、サンスクリット語で目に見えない生命エネルギーである「気」を意味する。よって、ヨーガの呼吸法は、この「気」を制御するためのものなのである。

    それがなぜ、集中力・精神の安定・心の制御に役立つのか。それには、ヨーガを含めた東洋思想に広く説かれる「気」の霊的科学の思想がある。ここでは、これを呼吸法との関連に絞って以下に説明する。なお、気の霊的科学の全体は、『テーマ別教本第1集「ヨーガの思想と実践」』や『2016年夏期セミナー特別教本「気の霊的科学と人類の可能性」』を参照されたい。

    「気」については、前にも述べたが、体の内外に存在して流動する目に見えないエネルギーである。狭い意味では、生命エネルギーであり、広い意味では、物理的な存在を含めた万物を構成する根源的なエネルギーという意味もあり、ヨーガでは、「プラーナ」と呼ぶ。また、気には、体の外にある外気と、体の中にある内気があり、内気にもさまざまな種類があるとされる。

    これも前に述べたが、体内には、気が流れる道である「気道」があり(ヨーガではナーディと呼ぶ)、全部で72000本ものナーディがあるが、主なナーディは3つであり、複数の気道が通る交差点があって、特に多くの気道が密集するところを「チャクラ」と呼ぶ。これは、神経が集中する場所(神経(しんけい)叢(そう))でもあり、重要な臓器がある所でもある。一般に、気道と神経と血管・血流は、深く関係しているとされる。

    プラーナーヤーマやアーサナ(ヨーガの体操法)は、この気道の詰まりを浄化することができるとされる。気道の詰まりは、経験的にいって、①筋肉や関節をほぐす、②血流を増大させる、③体を温める、④深い十分な呼吸、によって浄化することができる。よって、アーサナやプラーナーヤーマが有効なのである。

    また、ヨーガ行法以外にも、同じような効果を持つ修行法として、気功の行法、歩行瞑想、(温泉の)入浴などは有効である。さらに、プラーナーヤーマやムドラーは、尾てい骨に眠っているプラーナ(気・生命エネルギー)の親玉ともいうべきクンダリニー(宇宙エネルギー・根源的生命エネルギー ※)を覚醒させる効果がある。このクンダリニーが覚醒すると、その力強いエネルギーの上昇によって、ナーディを物理的に浄化することもできる。たとえていえば、詰まった配管を高圧洗浄するようなものである。

    こうして、プラーナーヤーマによる気道の浄化について述べたが、プラーナーヤーマのもう一つの重要な効果が、気(プラーナ)自体の強化である。すなわち体外の気(外気)を体の中に取り込んで、体内の気(内気)を増量・強化することである。これは、プラーナーヤーマで息を止めている時に起こるといわれることがある。すなわち、保息を伴わない普通の深呼吸では、酸素は体内に入るが、気(プラーナ)は、体内に充填されないともいわれることがある。

    最後に、プラーナーヤーマの恩恵を列挙すると、第一に、一般の健康増進の呼吸法(例えば、先ほど述べた長生き呼吸法)と同様に、心身の健康を向上させる。というのは、心身の健康は、気の状態と密接に関連するとされるからである。心身を軽快で楽にして、究極的には、内的な歓喜さえもたらすとされる。

    第二に、物事の達成・人生の成功をもたらす。心身の健康、安定した心、強い意志・集中力が得られるからである。究極的には、極めて高い集中力を持った状態(禅定・サマディ)を達成する。これは、スポーツで、選手が雑念なく無思考の深い集中状態に入って最高のパフォーマンスを発揮する「ゾーン状態」や、何もかもが流れるようにうまくいく心理状態とされる「フロー状態」に通じるものである。

    最後に、悟り・解脱、すなわち、深い心の制御・安定・苦悩からの解放を与える。そして、その心の安定は、正しい判断力や直観力を含めた智慧をもたらす。

     

    12.プラーナーヤーマの実践の準備:環境・服装・姿勢・弛緩

    次に、プラーナーヤーマの実践について述べる。まず、その準備についてである。

    プラーナーヤーマを行う環境に関しては、静かで換気の良い場所がよい。そうした自然の中で行えればよいが、都会の自宅の中で行う場合には、室内を整理整頓し、換気の良い状態にする。

    加えて、できれば、室内に仏画・自然の写真など、見ると心静まるものを置くとよい。さらに、室内に、気持ちの静まる瞑想用のお香や、ヨーガ・仏教などで用いる聖音を鳴らす法具などがあればいっそうよい。すなわち、見て・聞いて・嗅いで心が静まるものである。

    次に服装であるが、なるべく体を締め付けないものにする。時計・ベルト・バンド・靴下などは外しておく。こうして、血の巡り・気の巡りを改善し、筋肉がリラックスしやすいようにするのである。

    姿勢については、安定した座り方で座る。ヨーガ・仏教の座法を組むことができれば、なおのことよい。そして、背筋を伸ばして、肩・首・腕などの力が抜けるようにする。体の緊張が抜けることが、気や血の巡りを改善するからである。また、顔は下に向けずに前を見て、背筋が曲がらないようにする(視線は下を見てもよい)。

    腕については、いろいろなやり方がある。力を抜いて、手のひらを膝に合わせる形で膝に置くことや、仏教の座禅などで用いられる手の組み方(左手の手のひらの上に右手を重ね、座法を組んだ足の上に置く)もよいだろう。

    最後に、呼吸法を行う前に、顔・首・肩・腕・胸・腹部の力を十分に抜いておく。体に力が入っていると、気道が詰まりやすくなる。時間があれば、呼吸法を行う前に、各部の運動を行うとよい。ヨーガでは、プラーナーヤーマの前に、アーサナ(ヨーガ体操・体位法)を行うことが多い。

    特に現代人が凝っていることが多い首や肩をほぐす。首は、ゆっくりと大きく回す。時計回りに回したら、その後、逆に反時計回りに回す。これを何度か(何セットか)繰り返す。

    コツとして、回す前に息を吸い、回している際に息を出すとよい。息を出している時の方が、体は弛緩しやすいからである。人間の体の中で、頭部や胸部に比較して、首の部分が一番くびれて狭くなっているために、気の流れも停滞しやすい。

    肩の力を抜くには、肩を前から後ろに大きくゆっくり回し、その後、逆に、後ろから前に回す。この際も、回す前に息を吸い、回している時に息を出すとよいだろう。ないしは、単純に肩を上にいったん持ち上げて、その後、力を抜いて落とすのも有効である。いったん緊張させた反動を使うと、弛緩しやすいのである。

    腕も弛緩させておく。肩の筋肉と神経は、腕の筋肉・神経とつながっている。当然、首から肩を通って腕に至る気道もある。腕は、手首・肘などの関節がよくほぐれるように、ぶらぶらと振るとよいだろう。

    肩・首・腕がほぐせたら、胸部と腹部を手でマッサージして、ほぐしておくのもよいだろう。特に張りやコリを感じる部分があれば、その部分で気道が詰まっている可能性が高いので、念入りにほぐす。そして、気道の浄化に慣れると、自分なりに、気の流れの詰まりがわかるようになるので、そうしたら、その部分を念入りにほぐすようにする。

     

    13.左右の気道を浄化するプラーナーヤーマ

    それでは次に、左右の気道を浄化するプラーナーヤーマについて述べる。その前にまず、左右のどちらかの気道が、詰まっているか否かをチェックする方法を述べる。前にも述べたが、その最も簡便(かんべん)な方法は、左右の鼻の詰まり具合をチェックすることである。

    右気道(ピンガラ管)が詰まっている場合には、右の鼻が詰まっている。左気道(イダー管)が詰まっている場合には、左の鼻が詰まっていると考えるのである。そのためには、口を閉じて、片方の鼻を押さえ、息の出し入れをしてみればすぐにわかるだろう。

    その場合、①右か左かのどちらかが詰まっているか、②右も左も詰まっているか、③どちらも詰まらずにスムーズであるか、という結果になるだろう。たいていの人は、どちらかが詰まっていることが多い。

     

    14.右気道(→交感神経)を浄化・活性化するスーリヤ・ベディー・プラーナーヤーマ

    右の鼻が詰まっている場合には、左鼻を指で押さえて、右鼻から息を入れて、次に、指を離して左鼻を空けて、左鼻から息を出す。これが、前に少し触れた、スーリヤ・ベディー・プラーナーヤーマである。なお、経典には、これとは別のやり方として、右鼻だけを使って、息を出し入れする方法も説かれている。

    そうすると、徐々に右鼻も通ってくるだろう。こうして、このプラーナーヤーマは、右鼻、右気道(→交感神経)を浄化・活性化する。そして、経典によれば、体を温める効果があるので、冬季に行うことが推奨されている。

    このプラーナーヤーマの場合にも、前に述べたように、背筋はまっすぐに伸ばし、背中・首・頭は一直線になるようにする。顔を下に向けたり、左右に向けたりせずに、まっすぐ前を見るようにする。鼻を押さえている手が疲れてくると、手が下がって、顔が下や横に向きやすいので注意する。使っている手が疲れたら、もう一方の手に交代してもよい。

    息は、腹式呼吸で十分に吸い込み、しばらく止めて、その後、十分に出すようにする。ヨーガの経典には、息が苦しくなるまで止めると書かれているが、少なくとも初心者は、そこまで止めなくてもよいだろう。後に述べる基本呼吸法と同じように、4秒で吸って、少し止めて(4秒ほど)、4秒で出してもよいだろう。

    また、呼吸の出し入れの際に、多少の音がするのがよいともいわれる。そのぶんだけ強く詰まりを浄化できるからであろう。最初は、このプラーナーヤーマは、一度には3回ほど連続で行うにとどめ、慣れてきたら、徐々に連続して行う回数を増やすとよいとされる。

    また、これを深く行じるならば、クンダリニーの覚醒につながる効果もあるとされる。しかし、クンダリニーの覚醒のためには、経験豊かな指導者による指導・準備・注意が必要なので、そのような指導・準備を経ていない者は、これをあまり激しく行ってはいけない。何事も無理は禁物であるから、息を止める長さも、連続する回数も、徐々に進めていくとよい。

    なお、秘訣として、右気道に詰まりがある場合は、このプラーナーヤーマとともに、右の腹部にある肝臓の部分(スーリヤ・チャクラ)をよくマッサージするとよいことが多い。このチャクラは、右気道に深く関係するからである。

     

    ◎参考資料:スーリヤ・ベディー・プラーナーヤーマについて

    『実践・魂の科学』(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心訳 たま出版)360頁より

    普段座り慣れた座法で、背筋を伸ばして座ります。まず、右鼻からゆっくりと息を吸い始め、足の爪先から頭頂部まで、身体全体に息が満ち溢れるほどに吸息します。もうこれ以上吸息できないという所まで息を吸ったならば、右鼻を閉じ、できるだけ長く止息し、今度は左鼻から呼息します。

    この際注意する事は、吸息する時も呼息する時も、共に呼吸による静かな音が聞こえるようにさせていることです。初心者の場合、まず、左右の鼻を使って往復三回、この調気法を行うようにします。この調気法の回数については、その後一日一、二回ずつ増やしてゆき、最後には、行者の能力に応じて、往復二十一回~三十一回、行じるようにします。

    この調気法は冬季に行じる方が良いのですが、体内の体風素と粘液素の分泌が多い者は、夏季にあっても、この調気法を行じても差し支えありません。

    ≪効果≫

    この調気法を行ずると、体内の胆汁液の分泌が増大し、逆に体風素と粘液素の分泌が減少します。また、体内の消化吸収作用を促進させ、発汗作用を引き起こして、体内のすべての不純物を取り除きます。

    ゲーランダ・サンヒターには次のように述べられています。『スールヤ・ベディー(原文ママ)・クンバカは老と死を破壊する。また、クンダリニーを目覚めさせ身体内の火を増殖する』(ゲーランダ・サンヒター 五-68)

     

    15.左気道(→副交感神経)を浄化・活性化するチャンドラ・ベダナ・プラーナーヤーマ

    次に、左鼻が詰まっている場合には、右鼻を指で押さえて左鼻から息を入れ、次に指を離して右鼻を空けて、右鼻から息を出す。これを繰り返す。これが、チャンドラ・ベダナ・プラーナーヤーマである。別のやり方として、左鼻だけから息を出し入れする方法も経典に説かれている。

    しばらく続けているうちに、徐々に、左の鼻も通ってくるだろう。これは、左鼻・左気道(→副交感神経)を浄化・活性化し、経典によれば、体を冷ます効果があるとされ、夏季に行うことが推奨されている。同じように、背筋はまっすぐにし、背中・首・頭は一直線、顔を下や横に向けず、まっすぐ前を見る。手が疲れてくると、顔が下や横に向きやすいので、もう一方の手に交代してもよい。

    息も、腹式呼吸で十分に吸い、しばらく止め、十分に出す。また、呼吸の出し入れの際に、多少の音がするのがよいといわれる。その分だけ、強く詰まりを浄化できるからであろう。

    なお、後の参考資料にもある通り、ヨーガ行者の中には、このチャンドラ・ベダナ・プラーナーヤーマは、スーリヤ・べディー・プラーナーヤーマとやり方が逆であり、息が苦しくなるまで息を止めるとするものもあるが、私の経験・考えでは、左気道(→副交感神経)を浄化・活性化させて、体を冷ます効果を求めるチャンドラ・べディー・プラーナーヤーマの場合は、苦しくなるまで息を止めることは、不合理であると思われる(逆の効果を生じさせてしまう)。よって、基本呼吸法と同じように、4秒で吸って、少し止めて(4秒ほど)、4秒で出してもよいと思われる。

    また、左気道に詰まりがある場合は、上記のプラーナーヤーマとともに、左の腹部にある膵臓・脾臓の部分(チャンドラ・チャクラ)をよくマッサージすると、よいことが多い。

     

    ◎参考資料:チャンドラ・ベダナ・プラーナーヤーマについて

    『実践・魂の科学』(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心訳 たま出版)378頁より

    背筋を伸ばして、普段座り慣れた座法で座ります。右手の親指を立て、右鼻を押さえ、チャンドゥラ・ナーディーにつながる左鼻から、微かな吸息音と共に息を吸います。身体全体に息を満たして止息し、苦しくなったならば、右鼻からゆっくり呼息します。この調気法を能力に応じて何回も繰り返すのです。

    ≪訳者註解・・・・・この調気法では吸息は左鼻からだけで行ない、呼息は右鼻からだけで行います。≫

    ≪効果≫

    この調気法は胆汁素の分泌を減少させ、身体の余分な熱を下げます。身体が疲れを感じなくなり、ゲップをすることが無くなります。この調気法は、スールヤ・ベディー(原文ママ)のやり方と逆になっています。ですから、胆汁素の分泌が多い者は、この調気法を夏季に行ずれば良いのです。

    もしも、風邪などで左鼻が詰まっている場合には、まず右半身を下にして横になりますと、左鼻が通るようになりますので、それからこの調気法を行じてください。そして、この調気法を行ずることで、左右どちらの鼻が働いているのか、それがわかるようになるはずです。

     

    16.両方の気道を浄化するアヌロマ・ヴィロマ・プラーナーヤーマ

    次に、左右の両気道を浄化・活性化するアヌロマ・ヴィロマ・プラーナーヤーマを紹介する。まず、右鼻を押さえて、左鼻から息を入れ、次に、左鼻を押さえて右鼻は開けて、右鼻から息を出す。次に、右鼻から息を出し切ったら、同じ右鼻から息を入れて、右鼻を押さえて左鼻は開けて、左鼻から息を出す。そして、再び、左鼻から息を入れて、これを繰り返していく。

    なお、姿勢、手の使い方、呼吸の仕方の注意は、前記のプラーナーヤーマと同様である。

    このプラーナーヤーマの効果としては、左右の両鼻・両気道を浄化するとともに、鼻・肺を浄化し、さまざまな心身の健康の増進に役に立つとされる。健康に、非常に役立つものである。詳しくは、下記の参考資料を参照されたい。

    これは、左右の両気道を浄化・活性化させるので、交感神経と副交感神経の双方をバランスよく活性化させることになる。

     

    ◎参考資料:アヌロマ・ヴィロマ・プラーナーヤーマについて

    『実践・魂の科学』(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心訳 たま出版)373頁より

    座り慣れた座法で座り、まず右鼻を押さえて、左鼻から一気に息を吐ききります。続いて直ぐに、同じ左鼻から呼息します。次に、中指と薬指で左鼻を押さえ、右鼻から呼息し、その後直ぐに同じ右鼻から吸息します。このように左右の鼻で交互に二十~二十五回ずつ、速いスピードで呼吸を続けます。

    ≪効果≫

    この調気法により、鼻腔内と肺の不純物が取り除かれます。また、風邪や鼻炎の原因となっている鼻腔内の皮膚や粘膜も取り除かれます。また、呼吸がスムーズになり、左右の鼻を同時に使って呼吸することができるようになります。その結果、精神状態も安定し、肉体も健康になり、また、脳や肺の働きが良くなります。

     

    17.ヨーガの呼吸法における保息の意味合い

    スペインなどの研究チームが発表した2015年の論文によれば、ヨーガの上級者は、深い呼吸により、大脳の「島(とう)皮質(ひしつ)」と「下(か)前(ぜん)頭(とう)回(かい)」と呼ばれる部分が活性化したという。島皮質は、自分の体の自律神経や心拍などを監視し、下前頭回は、欲望や雑念を抑え、自分を制御することに関わる場所である。よって、深い呼吸で集中力が高まり、物事に動じなくなっていることがうかがえる。

    脳科学者の池谷(いけがや)裕二・東京大教授も、「呼吸は、脳活動を間接的に変化させられる。集中力を高めるために、呼吸を利用するのは理にかなっている」という。すなわち、呼吸法を鍛錬することで、集中力を高めるために必要な脳の機能を活性化させることができるということだ。

    ただし、ここでの「ヨーガの上級者の深い呼吸」とは、単なるゆっくり吐く深い呼吸ではない。ヨーガの呼吸法には、吸う息、吐く息に加えて、息を止める作業(保息)が含まれている。そして、集中力に関していえば、武術家・スポーツ選手などが経験するように、人は、何かに深く集中している時には、息をしていないことが多い。こうして、非常に深い集中と保息には、深い関係があるのである。

    また、深い集中力は、欲望や雑念を制御することと深い関係がある。様々な欲望・雑念があれば、深い集中はできないからである。こうして、ヨーガの呼吸法は、深い集中力を与えるが、これは、ヨーガの本来の目的である欲望の制御を含めた、心の制御による悟り・解脱といったことにつながるからである。

    さらに、ヨーガの理論においては、この、息を止めている間にこそ、呼吸法で外から取り入れた気(プラーナ・生命エネルギー)が体内に充填されるといわれることがある。深く息を吸えば、酸素は体内に吸収できるが、外の気(プラーナ)は、吸気に加えて、保息をしてこそ、体内に充填されるということである。これによって、体の外の気(外気)が体の中の気(内気)になり、体内の気が強化されることになる。

    そして、この保息の作業は、交感神経と副交感神経のうち、交感神経を活性化させるものだと思われる。なぜならば、集中は、交感神経活性化の一つの特徴でもあり、また、保息は、必然的に心拍・血圧・体温などを上昇させ、交感神経が活性化した状態となるからである。

     

    18.保息を伴う最も基本的な呼吸法(基本呼吸法)の仕方

    ヨーガの最も基本的な呼吸法は、1:1:1の比率で、入息(吸気)と保息と出息(呼気)を、リズミカルに繰り返すものである。最初は例えば、4秒・4秒・4秒で、入息・保息・出息を繰り返すとよいだろう。

    そして、集中力が増大してきたならば、1:2:2の比率(例えば4秒・8秒・8秒)、さらには1:4:2の比率(例えば4秒・16秒・8秒)で行う。保息が長いほど、集中力が高まっている兆候とされ、より高度な実践となる。

    なお、精神集中のポイントであるが、最初はまず、息の秒数に集中する必要があるだろう。それに慣れてきたら、同時に、出し入れする呼吸にも集中する。なお、眉間の所に精神集中を行う方法もある。体の上位の部分に集中すると、その分気が引き上がりやすくなるとされる。実行中に、特段の身体的な変化があれば、指導員の指導を受けることが望ましい。

    そして、この呼吸法は、交感神経と副交感神経の双方を、バランスよく活性化するものだと思われる。深くゆっくり息を吐くことで、副交感神経を活性化し、保息することで、交感神経を活性化させている。また、深く息を吸うことで、酸素と気(プラーナ)を体内に吸収している。その意味で、ヨーガの基本的な呼吸法である。

     

    ◎基本呼吸法のやり方のまとめ

    ①口からではなく、両鼻から息を出し入れする。

    ②腹式呼吸で、胸だけでなく、お腹も使って行う。

    ③4秒で息を吸い、4秒息を止め(=保息)、4秒で吐く。

    ④息の秒数、そして出し入れする呼吸に集中。

     

    19.保息を伴い両気道を浄化するスクハ・プールヴァカ・プラーナーヤーマ

    このプラーナーヤーマは、まず右鼻を押さえて、左鼻から息を入れ、しばらく息を止めたら、次に、左鼻を押さえて右鼻は開けて、右鼻から息を出す。次に、右鼻から息を出し切ったら、同じ右鼻から息を入れて、しばらく息を止め、右鼻を押さえて左鼻は開けて、左鼻から息を出す。そして、再び左鼻から息を入れて、これを繰り返していく。

    なお、姿勢、手の使い方、呼吸の仕方の注意は、前記のプラーナーヤーマと同様である。

    入息・保息・出息の比率・秒数は、基本呼吸法と同じで、1:1:1の比率(例えば4秒・4秒・4秒)で始め、集中力が増大してきたならば、1:2:2(例えば4秒・8秒・8秒)、さらには1:4:2(例えば4秒・16秒・8秒)で行う。

    保息が長いほど、集中力が高まっている兆候とされ、より高度な実践となる。長く息を止める(保息・クンバカ)ほど、心拍数や血流が増大して体が温まり、気道の詰まりは浄化しやすくなる。ただし、無理はいけないので、気を付けるようにする。特に、心臓疾患・高血圧などがある方は、無理をしないことである。

    この呼吸法は、交感神経と副交感神経の双方を、バランスよく活性化するものだと思われる。左右の両気道を浄化しながら、深くゆっくり息を吐くことで、副交感神経を活性化し、保息することで、交感神経を活性化させている。しかも、保息・出息を長くすると、非常に高い集中力・瞑想状態を実現する助けになるとされ、初心者が実践できるヨーガの呼吸法としては、最も高度な完成された呼吸法ではないかと私は考えている。

     

    ◎スクハ・プールヴァカ・プラーナーヤーマのやり方のまとめ

    ①右手の人差し指と中指は、額に当てて、

    ②右手の親指で、右鼻をふさぎ、左鼻から息を入れ、

    ③右手の薬指と小指で、左鼻をふさいで息を止め、

    ④右手の親指を離して、右鼻を空けて右鼻から息を出し、

    ⑤右鼻から息を入れて、

    ⑥右手の親指で、再び右鼻をふさいで息を止め、

    ⑦右手の薬指と小指を離して、左鼻を空けて左鼻から息を出し、

    ⑧最初に戻って、左鼻から息を入れる。以上のサイクルを繰り返す。

    ⑨4秒で息を吸い、4秒息を止め(=保息)、4秒で吐く。

    ⑩慣れてきたら保息の時間を延ばしていくが、詳しくは指導員の指導を受けること。

    ⑪右手が疲れたら、左手に代えてよいことは、他の呼吸法と同じ。

     

    20.深い瞑想状態に入るブラーマリー・プラーナーヤーマ

    さて、ここで、一番初めに紹介した、ゆっくり息を吐く深呼吸の呼吸法よりも、いっそう深くイダー気道(→副交感神経)を活性化させると思われる呼吸法として、ブラーマリー・プラーナーヤーマを紹介する。

    具体的なやり方は、まず、両鼻から十分に息を吸い、その後、蜂の羽音のような「ブーン」といった音を立てながら、なるべく長く鼻から息を出していく。そして、これを繰り返すというものである。この際に、息を止めること(保息)は行わない。これに熟達するならば、心身を深く静め、最も深い瞑想状態であるサマディに入ることができると経典に書かれている。

     

    ◎ブラーマリー・プラーナーヤーマのやり方のまとめ

    ①口からではなく、両鼻から息を出し入れする。

    ②十分に息を吸ったら、蜂の羽音のような「ブーン」といった音を立てながら、

    なるべく長く息を出していく。

    ③これを繰り返す。

    さて、ブラーマリー・プラーナーヤーマには、二つ目のやり方がある。私の個人的な見解では、この方が、さらに深いイダー気道(→副交感神経)の活性化につながるのではないかと思う。そのやり方は、左鼻のみで、息を出し入れするものである。その他は、上記のやり方と変わらない(詳しくは以下の参考文献を参照されたい)

     

    ◎参考資料:ブラーマリー・プラーナーヤーマについて

    『実践・魂の科学』(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心訳 たま出版)362頁より

    まず、『勇者のポーズ』で座ります。次に、右手親指で右鼻を押さえ、左鼻から吸息します。尾骶骨に到るまで息を吸い終ったならば、暫く止息した後、同じく左鼻からゆっくりと呼息しつつ、喉を使って、丁度、蜂の羽音のような音を出し続けるのです。この時、この音が自分自身の意思と理智という、二つの内的心理器官に響き渡るようにさせ、できるだけ長く呼息を持続させるのです。

    この調気法を行ずる際には、高低様々な音を聞き取ると思います。行法に慣れるに従って、行ずる回数を増やすようにします。この調気法は、例えば、落ち着きが無く、気の変わりやすい者や、心をある一点に集中できない者、心の中で真言を唱えられない者などが行ずれば、心が安定して来て、精神の集中力が得られるようになって来ます。私はカンカルに住んでいたラーマナンダという行者を知っていますが、彼は人里離れた静かな場所に座して、実に五時間から六時間もの間、この調気法を行じ続け、三昧の境地に入っておりました。

    ≪効果≫

    この調気法を行ずれば、話し言葉が張りのある美しいものとなります。また、呼吸もゆったりとして、しかも力強いものとなって来ます。また、歓喜を味あわせてくれる聖音オームをはっきりと聞き取れるようになり、意思や理智といった内的心理器官の働きを静め、精神に集中力がつき、三昧の境地へと入りやすくなります。

     

    21.両気道を浄化し、交感神経を活性化するカパーラ・バーティ

    これは、両鼻から激しく呼息と吸息を繰り返すものである。腹部をちょうど鍛冶屋の使う鞴(ふいご)のように、膨れさせたり、へこませたりさせて行うことが名前の由来になっている。

    具体的には、他の呼吸法と同様に、口からではなく両鼻から、腹筋を使って短く鋭く、息を出し入れし、出息と入息を繰り返す。保息は行わない。出息と入息は20回ほど繰り返して、1セットとして終了する。

    少し休んだら、同じことを繰り返す。ただし、気を引き上げる力が非常に強いので、一度には20回ほどにしておくのがよい。また、体が熱くなったり、体の一部に多少の痺れを感じたり、多少ぼーっとした感じになることがある。不快な感じが生じたら、出息・入息の回数を減らして加減するか、中止して、指導員の指導を受けることが望ましい。

    これは、明らかに体を温め、交感神経を活性化させる上で非常に大きな効果がある、また、気(プラーナ)を引き上げ、クンダリニーを覚醒させる効果もあるとされる。よって、クンダリニーの適切な覚醒のための必要な指導・準備を有していない初心者は、これを激しくやりすぎてはならない。その意味でも、指導者の指導の下で行うべきものである。

     

    ◎カパーラ・バーティ・プラーナーヤーマのやり方のまとめ

    ①口からではなく、両鼻から息を出し入れする。

    ②腹筋を使って、短く鋭く、息を出し入れし、出息と入息を繰り返す。

    保息は行わない。「鍛冶屋の鞴(ふいご)のように」ともいわれる。

    ③出息と入息は20回ほど繰り返して、1セットとして終了する。

    ④少し休んだら、また繰り返す。

    このカパーラ・バーティには二つ目のやり方がある。それは、左右の鼻のどちらか一つを、交互に使って行うものである。この方が左右の鼻に詰まりがある場合は、それを浄化し、左右の気道を浄化する効果は強いと思われる。詳しいやり方は、下記の参考資料を参照されたい。しかし、これは、より体に負担がかかるやり方なので、激しくやってはいけないことが注意されている。

     

    参考資料:カパーラ・バーティ・プラーナーヤーマについて

    『実践・魂の科学』(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 木村慧心訳 たま出版)より

    〇解説その1:同書387頁より

    この調気法の場合は、身体浄化法とかムドラーの章で説明されていますが、調気法の観点から言えば、次の二つのやり方があります。

    (ⅰ)『聖者のポーズ』で座り、腹部を丁度鍛冶屋の使う鞴(ふいご)のように膨れさせたり凹ませたりさせて、両鼻から激しく呼息と吸息を繰り返します。カパーラ・バーティと言う名前も、こうした調気法のやり方に由来しているのです。

    『鍛冶屋の使う鞴のように、素早く交代する呼吸がカパーラ・バーティと言われるもので、粘液素の分泌過剰からくる疾患を消す』(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー二-35)

    ≪訳者註解・・・・・カパーラ・バーティと言う語は「頭蓋骨の光」を意味する≫

    ≪効果≫

    身体内の粘膜素の分泌不調に起因する、あらゆる病気を癒します。

    (ⅱ)『左鼻から吸息し、右鼻から呼息する。次に右鼻から吸息し、左鼻から呼息する』(ゲーランダ・サンヒター 一-56)

    慣れるに従い、この回数を増やしてゆきます。

    ≪効果≫

    『息の出入は激しく行ってはならない。これを修得すると粘液素の不調に起因する病気を治すことできる』(ゲーランダ・サンヒター 一-57)

    つまり、肺を浄化し、粘液素を除去するのです。また、身体を健康にし、活力を漲らせてくれます。そして、呼吸がゆっくりと長くなるようにもさせてくれます。

     

    〇解説その2:同書426頁より

    座り慣れた座法で座り、まず、どちらか一方の鼻から息を吸い、次いで止息する事なしに、すぐに他方の鼻から息を吐き出します。このように。鍛冶屋の使う鞴のように、息を止めること無く出し入れする調気法の事を、カパーラ・バーティと呼んでいます。また調気法には二種類のやり方がありますけれど、今説明したやり方が、身体を浄化する上でより効果のあがるやり方になっています。

    このやり方の場合、片方の鼻で呼息したり吸息したりする時は、他の鼻は、親指とか、または、残りの指でしっかりと押さえておくことが大切です。このカパーラ・バーティについては、調気法の章ですでに説明しておきましたので参照して下さい。

    ≪効果≫

    動脈内を浄化し、余分な脂肪を取り去り、消化吸収の力を増して、肉体を健康にさせます。身体の動きを活発にさせ、粘液素の分泌不調からくるすべての疾患を癒します。また、生気の上昇を促進させ、クンダリニーを覚醒させる上での助けとなります。また、呼息と吸息だけを繰り返し行いますので、精神の集中力をつける上での助けとなりますし、また、瞑想状態に入りやすくなります。

    以上、六種の身体浄化法について解説致しましたが、これら以外にもあと数種類の身体浄化法があります。これらの身体浄化法のいずれも、先の六種の身体浄化法同様、精神集中と瞑想の各行法を行ずる上で、大きな助けとなってくれますので、以下に説明致します。

     

     

    [参考文献]

    ・『読売新聞』「鬼と戦う『全集中の呼吸』、主人公の超人的嗅覚の秘密に迫る」(2020年11月28日)

    https://www.yomiuri.co.jp/science/20201127-OYT1T50168/

    ・『NEWSCAST』「『鬼滅の刃』の「全集中の呼吸」は現実でも使える?? 自律神経の名医が健康効果を検証」(2020年5月19日)

    https://newscast.jp/news/148255?fbclid=IwAR0LFhIzt2jy8uAXeW1wdLZ6PpLJkvyC9E-v5TY5bu--2liD-5SySn1awyQ

    ・『TOCANA』「『鬼滅の刃』全集中の呼吸を「ヨーガの王」成瀬雅春が徹底解説!能力が一気に開花する"超人"呼吸法など伝授」(2020年12月22日)

    https://tocana.jp/2020/12/post_191864_entry.html


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21世紀の社会のための仏教・宗教哲学

  • 仏教の幸福哲学:心が作り出す幸不幸

    以下のテキストは、2016年GW特別教本『新しい幸福と成長の哲学』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1 一般的な幸福観

    一般には、「今よりもっと」「他人よりもっと」と、何かの喜びを求めて、それを得ることで幸福になると考える。しかし、実際には、多くの場合、必ずしもそうできないので、人は苦しむ。求めても得られず、むしろ失う場合もある。求めれば奪い合いが深まるから、他と苦しめ合う場合も多い。結果として、「求めても得られない幸福という苦しみ」が生じる。言い換えれば、「逃げようとしても逃げられない苦しみ」が生じる。


    2 苦と楽は表裏という思想

    このことを仏教の説く人の心の仕組み(仏教の心理学)に基づいて、もう少し詳しく分析すると、「苦と楽は表裏である」という道理があることがわかる。

    第一に、「楽の裏に苦がある」ということである。例えば、人は、何かの幸福を得ても、ずっと満足することはなく、それに飽き足りなくなって、もっと欲しくなる。特に、他と比較して、「自分も他人と同じように欲しい」、さらには「他人よりも欲しい」と思う。先ほど述べたように「今よりもっと」「他人よりもっと」ということである。こうして、健やかに生きていくに十分なものを得ていても、それ以上に欲求する。

    しかし、こうして果てしなく欲求すると、様々な苦しみを招く。そもそも、際限ない欲求自体がストレスである。求めても得られない苦しみが生じる。さらに、得たものさえ失う苦しみがある。そして、求めるほど、他との奪い合いは激しくなり、それによって苦しむこともある。

    第二に、第一と逆に、「苦の裏の楽」がある。苦しみは、後に様々な幸福に繋がる面がある。人は、苦しみがあるから努力し、成長する面がある。苦しみが自分を鍛えて成長を促すのである。
    そして、究極的には、苦しみは、仏教的な悟り・慈悲の原動力になる。というのは、すべての苦しみは、「私」と「私のもの」に過剰に執着すること(自我執着)によって生じるので、(仏教的な悟りの教えを知る者にとっては)苦しみを体験することは、自我執着を弱めて悟りに近づこうとする動機を強めるからである。

    さらに、苦しみの体験こそが、悟りの終着点である慈悲の心を培う上で役に立つ。自己の苦しみの体験が、他の苦しみを理解して慈悲を培う土台となるからである。


    3 仏教的な幸福観:苦楽に頓着せず、分かち合う幸福

    苦楽が表裏であることを踏まえ、仏教が説く「真の幸福」とは何かと言うと、楽を過剰に貪らずに、足るを知って、他者と楽を分かち合って、幸福になることである。この「足るを知る」とは、今ある多くの恵みに気づいて感謝し、その恩返しとして他と楽を分かち合うとも表現できる。

    その意味で、これは、①今ある幸福に気づくこと、②他者と幸福を分かち合うことによる幸福である。言い換えれば、「(今ある幸福に)気づく幸福」と「分かち合いの幸福」である。言い換えると、感謝と分かち合いの幸福、知足と慈悲の幸福である。

    一方、「今よりもっと・他人よりもっと」と幸福を求めることは、現状への不満に基づいて、他者から奪い勝って、幸福を得ようとするものである。言い換えると、「(今ないものを)未来に求める幸福」であり、「奪い勝つ幸福」である。不満と奪い合い、貪りと奪い合いの幸福である。
    そして、仏教的な幸福観では、苦しみに対しては、苦しみを過剰に厭わずに、苦しみの裏にある喜びに気づいて、苦しみを喜びに変えて幸福になる。これは、苦しみにも感謝することに繋がる。

    さらに、これに基づいて、他者の苦しみに関しても、それを分かち合うことによって、他者だけでなく、自分も幸福になると考える。よって、楽とともに苦しみをも分かち合って、苦楽を分かち合うことで幸福になるとする。

    一方、一般的な幸福観では、苦しみに対しては、それからなるべく逃げようとして、その中で、他者と苦しみを押し付け合う面がある。楽を奪い合い、苦しみを押し付け合うのである。

    なお、仏教が説く慈悲とは、まさに他と苦楽を分かちあうことと表現できる。慈悲の慈は、他に楽を与えることとされる。悲は、他の苦しみを(自己の苦しみのように)悲しみ、それを取り除くこととされる。こうして、慈悲とは、苦楽の分かち合いにほかならない。そして、仏陀の持つ大慈悲の心とは、すべての人々・生き物に対する慈悲である。


    4 仏教的な幸福観・生き方の恩恵

    上記の仏教的な幸福観、すなわち、楽を過剰に貪らずに足るを知り、苦を過剰に嫌がらずに喜びに変え、他者と苦楽を分かちあう幸福観・生き方には、気づきにくいが、実際には、様々な重要な恩恵がある。

    第一に、心の安定と広がりである。苦楽に過剰に頓着して、一喜一憂しないために、心は安定している。また、他と楽を奪い合わず(苦を押し付け合わずに)、分かち合うので、心が広がる。これは、自分と他人の真の幸福が一体であると気づいて、自と他(の幸福)を区別しないため、心が広がるとも表現できるだろう。

    第二に、深い智恵(智慧)、すなわち、物事を正しく認識する力が生じる。合理的な判断力や直観力などが生じる。心が安定していると物事を正しく見ることができる。波立つ感情に左右されずに、合理的な判断ができる。さらに、心が静まっている時にこそ、直感が働きやすい。

    第三に、健康・長寿をもたらす。心が安定し、ストレスが少なければ、ストレスを原因とした悪い生活習慣による様々な病気(生活習慣病)、心因性の病気、そして、免疫力の低下を防ぐことができる。

    また、東洋医学の思想で言えば、心が安定して広がっていると、体の中の目に見えないエネルギー(気)の流れがスムーズになり、心身の健康をもたらす。逆に、気の流れが悪い所が病気になる(そもそも「病気」という漢字の意味は、病気が「病んだ気の流れ」によって生じることを意味している)。

    第四に、良い人間関係をもたらす。これは、他と奪い合わず、苦楽を分かち合う生き方をするのであるから、自明であろう。

    さらに、仏教的な生き方は、こうした様々な恩恵を得つつ、継続的な地道な努力によって、(他者・全体のために)有意義な事柄をなす人生を送ることができる。


    5 仏教的な幸福観と競争に関して

    他と幸福を奪い合わないとする仏教的な幸福観は、必ずしも競争を否定するものではない。なぜならば、競争には二つのタイプがあるからである。ないしは、競争する人の姿勢には、二つのタイプがあるからである。

    一つ目は、互い・全体が向上する切磋琢磨としての競争である。これは、仏教的な幸福観と矛盾せずに合致する、他者・全体への愛・慈悲の実践と解釈できる。

    実際に、切磋琢磨が全くなければ、馴れ合い・腐敗・堕落・怠惰などで、皆で悪い方向に行く場合も少なくない。この意味で、競争による切磋琢磨により、お互いの良い所を見て学び合う機会や、お互いの問題点を指摘し合って解消し合う機会を得て、互いの努力を深めることは有意義だろう。
    二つ目は、自分が勝つことだけを目的とした競争である。これは、他に勝ったり負けたりして、互いの成長を図るのではなく、自分の勝利だけを至上とする姿勢である。これは、優越感を満たすことだけが目的とも表現できるだろう。

    これは、仏教的な幸福観とは合致しない。他の勝利を憎み、他者・全体への愛は育たない。負けた場合は、卑屈・妬みに苦しむ。よく勝つ者でも、長い間には、落ち目があり、それに苦しむ。老化のため、勝つ力は、誰でも尻すぼみである。

    さらに、勝利至上主義は、競争自体を損なう。負けることを強く嫌がって、競争自体を避ける場合がある。これでは、切磋琢磨し合う者(競争の参加者)が減る。優越感を満たす欲求が強いと、そうできない場合には、強い劣等感が生じる。別の問題として、競争上のルール違反、不正行為をなす者が出る。嘘・偽装・盗作・中傷など。これは、本来の切磋琢磨による成長・向上を妨げる。現代社会の競争に多いのではないだろうか。

     
    6 幸不幸を含めた全ては心の現れ

    「苦楽は表裏であって、苦楽の分かち合いが真の幸福の道」と説く仏教の教えを言い換えれば、「苦しみは煩悩から生じ、真の喜びは慈悲から生じる」ということになる。

    そして、この教えの土台には、「苦楽、幸不幸は、自分の心が作り出す」という思想がある。これは、心の持ち方、視点、価値観を変えれば、より幸福を感じることや、不幸・苦しみを和らげることができるということである。

    そもそも、仏教では、幸不幸に限らず、「全ては心の現れ」とも説く。実際に、私たちが感じる「外界」とは、実際には脳内の情報であって、外界を直接に感じたものではない。外界の刺激は、感覚器官が、脳に伝える信号を出すきっかけにはなるが、脳が感じるもの自体ではなく、信号を受け取った脳は、関連した情報を瞬時に引き出し、それら全体を私たちは感じている。

    この際、それが良いとか悪いとか、楽であるとか苦であるといった印象も生じる。こうして、私の脳・意識・心が、いろいろな解釈を加えている。よって、同じものを体験しても、異なる人には、異なった体験・印象が生じる。人によって、同じものに対する良し悪し・苦楽の印象も異なる。こうして、一人に一つの宇宙(の体験)がある。私たちが「外界」と呼ぶものは、「自分の脳・心の中にある外界」の体験である。

    これは、一部において、自分の夢の中に現れる他人が、自分の意識が作った他人にすぎないことと似ている面がある。現実の体験も夢の体験も、脳内の情報の体験である点は違いがないからだ。目に見えるものは「目の前」にあると感じられるが、実際には「目の後ろ」にある脳内の情報である。そのため、現実と同じほどリアルな夢を見る場合もある。

    こうして、「外界」と呼ばれる体験が、自分の意識の中の体験であるならば、自分の意識・考え方・心の持ち方・視点などを変えることで、その「外界」の感じ方を大きく変えることができると仏教は説く。具体的には、喜びを感じなかったものに喜びを感じることも、苦しみを感じたものに喜びを感じることもできる。以下にいくつかの事例を挙げて、これを説明する。

     
    7 貪りを捨て、感謝の心を持つと、大きな喜びが生じる

    人の心には、際限のない欲求(貪り)がある。どんなに得ても、満足せず、もっと欲しくなる。すでに得たものは、どんなに多くても、当然のものとなって、飽きてしまう。特に、他人と比較して、「他人と同じように得たい」、「他人よりももっと得たい」と感じる。自分と他人がともに多くを得ていても、お互いの間の差に意識が集中し、「(他よりも)もっと欲しい」と感じるのである。これは「優越感を満たしたい」という欲求が背景にあるからだろう。

    そのため、我々の住む「21世紀の日本社会」は、客観的に見れば、「人類史上最も恵まれた社会」と言っても過言ではないが、ほとんどの日本人には、「最も恵まれた社会」のようには感じられていないだろう。毎日見る日本社会の印象は、大して変わり映えせず、楽しいこともあるが、いろいろ嫌なこともあるといった印象だろう。人によって、楽しいことが少なく、嫌なことが多いと感じているかもしれない。

    しかし、客観的には、今現在の他の国々と比較しても、世界最高の長寿、突出した安全性、有数の豊かさがある。さらに、現在の人類が生まれて以来30万年の間に、一説では5000億もの人類が生まれたともいわれるが、その5000億の中で、僅かに70億のみが、21世紀に生き、1億3千万のみが、21世紀の日本社会に生きている。

    仮に、イエスや仏陀の時代の人々が、現代日本にタイムトラベルしてきたら、これこそが、極楽浄土・千年王国と思うかもしれない。科学技術と物資の豊かさ。人種・民族・性・階級による差別や、暴力の支配を否定した平等主義・民主主義の社会と、その中で育った人々の意識や言動。それは、高度な科学と高徳の人々が集う仏教伝説の理想郷である「シャンバラ」とさえ、映るかもしれない。

    言い換えれば、様々な物資・技術・思想・規範・制度など、私たちの日常は、先人の血と汗の結晶によって作られた膨大な贈り物に満ちている。私たちが、得ているものを当然と見る貪りの心を捨てて、得ている恵みの大きさに気づこうとする感謝の心を持てば、21世紀の日本社会は、貴重な宝に満ちた世界と感じられるのではないだろうか。

    この意味で、外界に恵みを感じる時は、私たちは、「感謝」という「心の豊かさ」の投影を見ているのではないだろうか。逆に、外界に不満ばかりを感じる時は、私たちは「貪り」という私たちの「心の貧しさ」の投影を見ているのではないだろうか。


    8 幸福を求めても得られない苦しみに対して

    多くの人が、幸福を求めても、なかなか得られないという苦しみを抱えているだろう。しかし、幸福は心が作り出すという視点から見れば、それも、心の持ち方が問題なのである。具体的には、例えば、以下のような問題がある。

    (1)とらわれ過ぎている

    すでに述べたように、苦しみの原因として、過剰な欲求・とらわれがある。よって、「それなしではいけないのか」、「多くの人々がなしで生きているのではないか」と自問するとよいのではないか。

    ただし、これは、「いかなる欲求も捨て、何もしなければよい」と主張しているのではない。何か有意義で重要な事柄を実現しようとする場合でも、とらわれ過ぎない方が逆にうまくいくからである。

    とらわれ過ぎると、心身が緊張して、最善の思考・行動が妨げられる。そうした場合は、とらわれを減らすとうまくいく。前に述べたように、心が静まると、物事を正しく見ることができるし、最善の行動ができる。

    よって、そうした時は「あまりうまくやろうと思わない方がうまくいく」と自分に言い聞かせるとよいだろう。これは、格言で言えば、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」、「勝つと思うな、思えば負けよ」といったものに通じるものである。

    (2)すでにある幸福を見ようとしない

    今は得ていない幸福を、未来に得ることが幸福だとばかり考えている。言い換えると、感謝が少なく(足るを知らず)、自分よりも恵まれている人ばかり見て(妬み)、恵まれていない人のことは考えない(慈悲に乏しい)。
    2

    1世紀の日本社会が、客観的には人類史上最も恵まれた社会であるように、実際には、(自分も他人も)得ている幸福の方が、まだ得ていない幸福よりも膨大である。しかし、これに気づいて感じることはない。というのは、常に「今よりもっと」「他人よりもっと」と求めて、「皆が得ているものは当たり前だ」と思っているからである。これは貪りの心が生じさせる苦しみである。

    (3)他の幸福を喜びとしない

    常に自分が(他よりも)幸福になることばかりを考えている。「自分の幸福は喜びだが、他の幸福は妬ましく、自分には苦しみだ」と思い込んでいる。言い換えれば、「幸福は、自分と他人の間で奪い合うもの」とばかり考えている。

    しかし、実際には、「他の幸福を自分の喜びとする」という幸福がある。言い換えると、「広く温かい心による幸福」とも表現できるだろう。そして、これには非常に多くの恩恵がある。
    まず、広い心自体が、生理的に心地良いものである。そして、これには、他との奪い合いがなく、分かち合いがあるから、精神的な安定や健康、さらには、良好な人間関係が得られることになる。

    また、これは、加齢とともに失われる幸福ではなく、心の訓練を続ければ、死ぬまで増大していく喜びである。そして、自分は1人だが、他は無数に存在するから、自分の幸福だけを喜びにするよりも、はるかに多くの(無数の)喜びを得ることができる。

    (4)分かち合うものこそ、最高のものと気づいていない

    「他人より多くを得ることが幸福だ」と思い込んでいるために、実際には「他と分かち合っているものこそ、最高のものである」と気づくことができない。自分のものだけを喜びとし、他人のものは妬ましく思う中で、共有しているものの価値・喜びを見失っているのである。

    実際には、この世界で最も価値があるものは、自分のものも他人のものも、自分も他人もすべてを含み、生み出し、包んでいる、宇宙、地球、大自然の万物であろう。その素晴らしさ・価値を感じることができない。

    逆に、宇宙万物に比べれば、極めて卑小であって、さらに長続きしないものが、自分や他人の財産・地位・名誉である。しかし、そうしたものが、自分のものか、他人のものかに関して、滑稽なほどに、一喜一憂している。言い換えれば、真の幸福(=万人と分かち合っているもの)に気づいていないため、偽りの幸福を追い求めて、苦しんでいるとも表現できるだろう。


    9 「逃げられない苦しみ」という悩みに関して

    次に、逃げられない苦しみに悩んでいる場合である。苦しみがあっても、逃げることができれば、そうすればよいし、たいていの人は、すでにそうしているだろう。しかし、人生には、なかなか逃げられない苦しみがある。

    これに対しては、心の持ち方・視点を変えて解消することが唯一の対処法である。逆に言えば、「心の持ち方が、苦しみを作り出している」と考えるのである。具体的には、例えば、以下のような心の問題が、苦しみを作り出す。

    (1)実際よりも悪いと考えている

    苦しみを増大させる一つの要因は、実際よりも、苦しみを過大視すること。実際よりも悪いと考える。例えば、何か嫌なことを経験する時だけでなく、する前も、した後も「嫌だ」と思い、そのため、合間なく、ずっと苦しむなど。「苦しみが永続し、合間がない」と感じる。

    実際には、苦しみは、時とともに消えていくものだし、生じたり消えたりと合間もあるものである。これは、(苦しみを過剰に)嫌悪するために生じる苦しみである。

    よって、「それは、それほど悪いのか」と自問するとよいのではないか。

    (2)良い面もあることに気づかない

    先ほど述べたように、苦しみの裏側には喜びがあり、苦しみは、人の努力・成長をもたらす。仏教的な悟りの原動力や慈悲の土台にもなる。言い換えると、目先は苦しみであっても、その先には様々な恩恵がある。

    しかし、このことに気づかずに、苦しみは、「悪い」とばかり考えてしまう。同じように、目先の喜びに対しては、その先にある苦しみに気づかずに、それに流されてしまう。

    よって、「それは、良い面もあるのではないか」と自問するとよいのではないか。

    (3)必要な面があることに気づかない

    全く苦しみがなければ、本当の努力・成長はできないだろうし、悟り・慈悲を培うこともできないとすれば、全く苦しみがないことは恐ろしいことであり、一定の苦しみは、人に必要なものだろう。ところが、私たちは、無意識的に、「苦しみは、なるべくない方がよい」と考えてしまう。

    よって、「(この苦しみは)必要なのではないか」「自分の抱えている苦しみは多すぎるのか、それとも少なすぎるくらいなのか」などと自問するとよいのではないか。

    なお、仏陀の教えは、苦行主義を否定している。言い換えれば、苦しめば苦しむほどよいとは主張していない。快楽主義も苦行主義も否定する。これは、楽にも苦にも偏らない中道とされる。


    10 各種の苦しみの裏にある喜び・恩恵の事例

    次に、批判、失敗・挫折、経済苦、病苦といった、よくある苦しみに関して、その裏側にある恩恵を意識する瞑想について述べる。

    (1)批判

    全く批判がなければ、必要な反省・成長ができるか。自分の欠点全てを自分で気づくことができるか。批判は、反省・成長に必要であり、将来の称賛をもたらす。さらには、自己愛を弱め、悟りに近づく機会も与える。

    (2)失敗

    全く失敗・挫折がなければ、本当に成功できるか。真の成功とは、失敗とその反省・改善の努力から生じるのではないか。失敗は成功の元であり、すなわち、成功へのステップである。

    (3)経済苦

    全く経済苦がなければ、本当に豊かになれるか。経済苦は、質素倹約の智恵を生み、その意味で、浪費を解消し、安定した豊かさをもたらす。また、経済苦の体験は、貧しい人たちへの慈悲や、自分のものに執着せずに、宇宙万物を自分の本当の宝とする悟りの境地の土台となる。

    (4)病苦

    全く病苦がなければ、本当に健康になれるだろうか。何か一つ病気があると、体をいたわり長生きするが(一病息災)、健康自慢の人は、過信のため、早死にする場合が多いという。さらに、病苦の時こそ、自分一人で生きているのではないと気づき、他者への感謝・謙虚な心が芽生えることも多い。さらに、老いや死の苦とともに、自我執着を越え、悟りの境地に至る助けになる。


    11 敵と友も心が作り出す

    人にとって、最大の苦しみの対象の一つである「敵」という存在も、自分の心の持ち方が作り出す面がある。すなわち、心の持ち方によって、友が敵に見えるし、逆に敵を友と見ることも可能なのである。以下に、その事例を挙げる

    (1)妬み:優れた他者(仏)が敵(悪魔)に見える

    「自分が一番になりたい」、「独占したい」という欲求が強いと、優れた他者は、妬みのために、自分の邪魔・敵に見える。その場合は、本来は自分を幸福に導く仏陀のような人でさえ、悪魔のように見えてしまう。

    しかし、純粋に自分が向上・成長して幸福になろうとすれば、優れた他者こそは、自分の見本となり、向上・成長に不可欠である。良き切磋琢磨の相手である好敵手は、敵ではなくて、最大の助力者・最大の友ともなり得る存在である。

    (2)怠惰:自分を批判する者は全て敵と見える

    批判は辛いが、自分では気づかない自分の問題点を知って成長する機会を得る場合もある。実際に、他人は、自分の成長を期待して、批判する場合も少なくない(逆に言えば、批判されなくなったら、見捨てられているのかもしれない)。また、たとえ理不尽な批判であっても、自分の精神力・忍耐力を鍛える機会として活かすこともできる。

    よって、向上心が強ければ、自分を批判する者が、「自分の成長の助力者」と見えるが、怠惰と未熟な自己愛が強いと、「敵」と見えやすいことがわかる。

    (3)コンプレックス:いろいろな人が敵に見える

    コンプレックスが強い場合、「他人が自分を嫌っている」とか、「不当な扱いをしている」と、すぐに考えやすい。一種の被害妄想である。すると、多くの人を敵と見やすくなってしまう。これは、劣等感・自己嫌悪・卑屈が背景にあって、それが、他への過剰な嫌悪に繋がるという心理構造である。

    (4)悟りの心:憎むべき敵さえも、仏に見える

    自分を憎む敵対者も、悟りを求める者には、悟りへの重要な助力者・原動力になる。というのは、自分が、自我執着を弱めるならば、敵対者による苦しみも弱まるからである。

    よって、いにしえの仏道修行者は、敵対者を重要な修行課題としてきた。悪魔さえも、自分の悟りを促す、仏の化身・仏法の守護神と見る瞑想や、仏陀と父母と敵対者をすべて平等に愛する瞑想もある。

    こうして、心の持ち方によって、仏が悪魔に見えることもあるし、逆に悪魔が仏に見えることもある。


    12 苦しみを和らげる仏教の三毒の教え

    前に述べたように、仏教は、苦しみは煩悩が作り出すと説く。そして、煩悩の中には、三つの根本的な煩悩(三毒)があるという教えがある。その三毒とは、貪り・怒り・無智などと訳される(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))。

    よって、日常生活でいろいろな苦しみを感じた時に、「この三毒が原因ではないか」と自問してみることは有益である。そして、自分に思い当たる節があれば、苦しみが和らぐだろう。具体的には、以下のように自問・瞑想するのである。

    (1)貪り=欲張り過ぎ

    貪りとは、過剰な欲求、欲張り過ぎである。あれやこれや求め過ぎれば、得られない場合の苦しみや不安は増大する。よって、苦しみを感じている時に、「(本当に必要なものではないのに何かを)欲張り過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、とらわれ過ぎによる苦しみと同じである。

    (2)怒り=嫌がり過ぎ

    怒りとは、よりわかりやすく言えば嫌悪であり、嫌がり過ぎである。よって、苦しみを感じている時に、「(それを苦しみだとばかり考えて、何かを)嫌がり過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、苦しみの過大視や、苦しみを悪いとばかり考え、その裏の良さ・必要性を理解していない場合と同じである。

    (3)無智=怠け過ぎなど

    無智は、三つの根本煩悩の中でも、さらに根本的な煩悩である。すなわち、貪りと怒りも、無智から生じている。それは、物事をありのままに見ることができない(縁起や空を理解できない)ために、自と他の幸福を区別し、苦楽表裏を理解せずに、「自分だけが早く楽に幸福になろう」とする意識状態である。そのため、無智は怠惰を含んでいる。

    よって、苦しみを感じている時に、「(その原因が)何か必要な努力を怠っているからではないか」と自問して、思い当たる節がないかを考えてみるとよいだろう。というのは、人は、最初は、必要な努力を認識していても、怠惰によって、それを実行したくない場合、それを忘れてしまい、その後は、なぜ苦しんでいるのかが、わからなくなるからである。

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  • 哲学・科学・宗教:人類の叡智を総覧する

    以下のテキストは、2014~2015年 年末年始セミナー特別教本 『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


       この章では、哲学、科学、宗教といった人類の叡智とされるもの全体に関して考察してみたいと思う。そして、これは、現代に生きる私たちが、常識として確かなものと信じているものが、いかに実際にはあやふやなものであって、現代も、近代や中世と変わらぬほどに、依然として発展途上であるということを知る手助けとなる。それは、いわゆる無知の知・謙虚さという偉大な智恵を与え、その結果として、真の智恵・叡智の進歩に役立つものだと信じる。


    1.哲学とは何か

       哲学の原語であるphilosophiaは、philein(愛する)と、sophia(知恵、知、智)が結び合わさったもので、「知(智)を愛する」、「愛知(智)の学」といった程の意味になる。なお、「哲学という日本語訳は、明治時代に西周(にし あまね)が用いて一般的に用いられるようになったという。
       よって、何を研究する学問であるかは決まっておらず、物理学とか、医学などと違って、学問の対象が決まっていないのである。広辞苑によれば、哲学とは、以下のように定義されている。

    「古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」
    (『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年、「哲学」より)

       すなわち、古代は、哲学は、学問一般であった。学問とは哲学であった。その後に、諸科学が哲学から分化・独立して、それ以外が哲学として残ったということである。

       哲学のテーマは、一定していないが、よく扱われるものは、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがあり、抽象度が高い概念であることが多い。

       また、その世界や物事や人間が、どのように存在しているかを論じる「存在論」と、「善とは何か(あるのか)」といったことを論じる「価値論」がある。

       また、近年は、哲学といえば、今現在の課題を扱うというよりも、過去の哲学(の歴史)を研究する学問とされることが多い。例えば、ギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)の主題、著作、哲学者を研究の対象とする学問である。


    2.さまざまな地域の哲学

       ヨーロッパ哲学は、その大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であるといえる。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。

       次に、東洋哲学についてであるが、哲学とは西洋で生まれたものだが、中国哲学、インド哲学、日本哲学というように、東洋思想を哲学と呼称する場合も多い。

       インド哲学は、インドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするが、インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。よって、インドの宗教には、哲学的でない範囲も広くある。

       中国哲学というと、老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家、朱子学、陽明学がよく取り上げられる。


    3.元は一体だった自然科学と哲学

       哲学は、最初から、自然現象の説明に努力した。そもそも、19世紀までは、科学(science)や自然科学(natural science)という言葉ではなく、「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われていたという。例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である。

       しかし、近代において、実験を重視する実験科学が登場すると、哲学と自然科学が分離し始める。こうして独自の研究方法が確立した分野が、哲学から分離して、諸科学となって、それ以外の分野について考えるのが哲学という感じになっていったようである。よって、哲学の研究対象として、科学的な研究方法が定まらない分野と、それに加えて、「どうあるべきか」「善とは何か」といった倫理や価値論の分野が残っていったということになる。


    4.現在までの哲学と自然科学の相互作用

       知・智を愛する哲学は、自然科学を無視することはなく、自然科学の新たな発見が、旧来の哲学を変化させたり、その逆に、古代の哲学者がなした科学的な知見が、自然科学の分野であらためて証明されたりすることもあった。

       特に近代の哲学者は、自然科学者の成果を重視し、観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。逆に、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題、例えば、科学と非科学の区別などについては、哲学者が考察を行ってきた(科学哲学)。こうした哲学者の活動が、新しい科学理論の形を呈示した場合もあり、相互に影響を与えている面もある。


    5.宗教と哲学:対立的な関係と類似性

       哲学は、宗教と同様に、神の存在に関連している分野を含んでいる。そのため、両者の厳密な区分は難しい。ただし、それは科学と非科学の区別が難しいのと同じように、境界がはっきりしていないということであって、理性を重視する哲学とは明らかに異なる宗教と、理性を否定する面が強い宗教の区別は可能である。

       そもそも、宗教哲学の項で述べるように、理性を重視する哲学は、その始まりから、理性を否定して盲信に陥る一面がある宗教に対して、懐疑的な姿勢を取ることが、その一つの役割であった。

       そして、宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、理屈や議論を敬遠した面があったろう。

       哲学と宗教との差異として、理性に基づく疑問・考察があるか否かがあげられることが多い。もちろん、宗教の中には、仏教のように哲学的で、師匠の見解に対する疑問・批判的な考察・改良を許してきた伝統があるものもあるが、信仰の遵守を求めるドグマ性があって、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較される。

       そして、西洋における哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきたといった見方は、今日一般的な哲学観となっている。


    6.宗教哲学の誕生

       宗教哲学(philosophy of religion)は、18世紀末ごろにヨーロッパにおいて成立したもので、宗教一般の本質、または、あるべき姿を探求するとともに、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解することを目的とする。

       前に述べたように、古代ギリシアなどで哲学が誕生した時から、それは、伝統的宗教に対する疑問と結びついていた。

       哲学は、理性によって宗教を解釈し、捉え直そうとしていた。そして、近世になると、ヨーロッパで強まった理性の啓蒙は、キリスト教の伝統的な信仰や神学を批判する哲学の流れを作った。

       その結果、二つの流れが生じた。一方では、宗教を理性によって否定しようという流れが生じ、一方では、その真逆に、理性を否定して、信仰の立場を維持・確立しようという流れである。これは、今現在の人類社会にも当てはまるかもしれない。いわゆる、宗教を否定する無神論の流れと、原理主義的・保守的な宗教に回帰する流れである。


    7.第三の道としての宗教哲学

       これに対して、第三の道が宗教哲学であった。それは、盲信を排除し、理性に基づいて、理性が納得いくように、宗教を新しく解釈し直そうとするものである。この立場を確立したのが、カントとされる。

       「ひかりの輪」も、オウム真理教の一連の事件に直面した者たちが、それによって、宗教的なものをすべて否定するのでもなく、「アレフ」のように理性を否定して従来の信仰を続けようというのでもなく、理性を否定する盲信を排除し、理性の納得がいくように、宗教を再解釈して、宗教そのものではない、新たな人の幸福の思想・哲学を作り上げようとする点で、この伝統的な宗教哲学の発生と似ている面がある。

       ヨーロッパでは、カントが「単なる理性の限界内での宗教」において、キリスト教の信仰の内容について、それを道徳という実践理性の立場から解釈して、キリスト教の説く真理を人間の普遍的な真理として再解釈しようとした。こうして、彼は、宗教を人間にとって普遍的な意味を持つものとして再解釈する宗教哲学への道を開いた。

       その後、カントのように宗教を道徳の範疇でとらえるのではなく、シュライアマハーのように、「宇宙の直観」などと見たり、ヘーゲルのように「生の根幹」ととらえたりする見方が現れたが、いずれにしも、宗教を理性に基づいて理解するものである。


    8.「ひかりの輪」の基本理念

       さて、ここで、以下に、「ひかりの輪」が、昨年制定(改正)した団体の「基本理念」(団体の綱領)の一部を紹介する。

    ………………………………………………………………………………………………………………………………

                                  「ひかりの輪」基本理念

    1, 思想・哲学の学習・実践を通じて、社会への奉仕に努める

       私たちは、物心両面の幸福のための様々な智恵・思想を学ぶとともに、現代に合ったものを新たに創造・実践し、普及させていく。物の豊かさに限らず、心の幸福・豊かさ・解放・悟り、真の自己実現・人生の目標の達成、さらには21世紀の社会全体の幸福の実現を通じて、社会への奉仕に努めていく。

       そのために、私たちは、仏教などの東洋哲学や心理学をはじめとする東西の思想哲学を学習・実践していく。その対象には、仏教のほか神道、修験道、仙道、ヨーガ、ヒンドゥー、聖書系等の宗教の思想哲学を含んでいるが、私たちは、特定の教祖・神・教義を絶対視して盲信したり、人や自然とは分離された超越的な絶対者を扱ったりすることはないので、宗教または宗教団体ではない。

       また、学びの対象には、宗教思想とともに、心理学、物理学などの自然科学、社会学、人類学、国内外の歴史なども含む。

    2, 宗教ではなく、「宗教哲学」を探求していく

       一般に宗教とは、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され忌避された神聖なものに関する信仰・行事」と定義されており(※1)、その実践においては、崇拝対象に対する疑問や理性による考察を許さない絶対的な信仰や、行きすぎた盲信を伴う場合もある。

       しかし、私たちは、次項以降に述べる理由により、特定の存在に対する絶対視や盲信を否定するとともに、人間から分離された超越的絶対者を崇拝することなく、理性を十分に維持して、私たち自身の内側や周辺の現実世界の中に神聖なる存在を見いだして尊重していく実践を行う。

       これを正確に表現するならば、「宗教」ではなく、「宗教一般の本質ないし、あるべき姿を自己の身上に探求し、理性にとって納得のゆくものとして理解しようとする」とされる「宗教哲学」(※2)の実践といえるものである。

      (※1)岩波書店『広辞苑』
      (※2)岩波書店『岩波 哲学・思想事典』

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    9.宗教哲学の本質:理性と感性のバランス

       こうして、崇拝対象に対する疑問や理性による考察を許さない絶対的な信仰や、行きすぎた盲信を伴う場合もある「宗教」に対して、宗教哲学とは、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解・解釈するものということができるだろう。

       わかりやすく言えば、人は、神的なものを感じる体験をする場合があると思う。しかし、自分が感じたことが、本当に神そのものなのか。それは、あくまでも自分の中の神体験であって、本当に自分を超えた絶対者・超越者である神を体験したのか。

       人は、そもそも外界の存在を直接的に体験するのではなく、自分の中の脳内現象を体験しているのではないか。こうした、客観的な、合理的な視点から、自分の感じたこと、体験したことを検討するのである。


    10.「感じること」と「存在すること」の違い

       人間が「感じること」と、実際に「存在するもの」は同じではない。これは、実は、ほかでもない仏陀の教えのエッセンスである。その意味では、仏教は、宗教とされながら、その中には、一般の人が宗教に抱くイメージとは真逆の要素、非常に哲学的、科学的な視点を含むものである。

       話を元に戻すと、人が、五感と意識、五感と言葉による思考によって把握するものは、厳密に考察すると、物事が実際に存在するあり方とは、実際には大きく異なっていることが多い。

       その良い例が、地動説と天動説である。日常の感覚では、どう見ても、太陽が地球の周りをまわっているのだが、科学の発見は、その逆であることを立証し、その土台の上に、現在の宇宙関連技術は機能している。こうして、科学の発展は、人の感性と異なる世界の真実を示してきた。

       分子生物学の発展は、常識的な人間観も覆している。普通に他人を見ると、自分とは別の生きものに見えるが、自分と他人は、それぞれが吐き出した空気をそれぞれが吸い込んで、それぞれの体を構成する分子を共有している。すべての生命体は、地球生命圏を循環する分子を共有し、一体となっており、「体を共有している」のである。


    11.感性の究極:「神のようなもの」を感じること

       しかし、人は、非常に多くの場合、自分が感じたことに基づいて生きるものだと思う。そして、その感性の究極が、「神のようなもの」を感じることだと思う。人類の歴史を見ると、宗教は人類の文化・社会・国家の中核にあり、無数の宗教が生まれた。ここ数世紀いろいろな意味で世界をリードしてきた欧米社会は、キリスト教社会であり、中世まではキリスト教が絶対であった。

       戦後日本は、国家神道による戦争の反動で、無宗教と自覚する人が多いが、宗教に属さずとも、節々でお寺や神社には足を運んでお祈りをし、世論調査では、人間を超えた大いなる何かがあると思う人が、無いと思う人より多いという。これは、特定の宗教に特化しない、日本人独自のやわらかく高度な宗教心であり、未来の人類のスタンダードだという主張もある。もちろん、戦後も無数の宗教団体が生まれ、活発に活動しているし、そもそもが、国家神道による戦争でさえ、まだわずか70年前のことだ。

       欧米の先進国は、政教分離の原則があるが、政治・国家運営の世界にも、宗教の大きな影響がある。米国大統領は、その就任の宣誓式を「それ故に神よ、私を助けてください」という言葉で締めくくる。宗教こそ、人と動物との違いだという考え方もある。戦後、猛烈な労働で経済を発展させた日本人は、エコノミックアニマルと揶揄されたこともある(なおエコノミックアニマルとは経済に非常に優れた才能があるというほめ言葉という解釈もあるが)。


    12.感性の暴走:盲信

       そして、時には、感性が暴走する。感じたものが感じたとおりに確かに存在すると考えて、客観的に見れば(多くの他人から見れば)、理不尽な形で、他人を傷つける。

       「ひかりの輪」が、反省と教訓の対象とするオウム真理教事件は、教祖と信者が感じた「神のようなもの」が、客観的で合理的な根拠がないにもかかわらず、真理だという集団心理が形成されて、起こされたものであった。

       イスラム原理主義、イスラム国の宗教的な戦争もそうだし、日本こそが神の国だと信じた大日本帝国の戦争にもその一面があるし、欧米の植民地侵略も、キリスト教を唯一絶対の真理と信じて、武力をもってしてでも世界に広めようという一面があった(牧師が軍隊と一緒に侵略した)。


    13.感性の暴走を止める理性

       だとすれば、我々は、感性の暴走に対して歯止めをかけようとする意識を持つ必要がある。感性に対して、理性といえばいいだろうか、客観的・合理的な思考によって、感じたことが実際にそうであるかを検証するのだ。

       その結果として、感じたことを完全に否定することになる場合もあるだろうが、少なくとも、疑問符をつけて、保留扱いにすることもあるだろう。少なくとも保留扱いにすることができれば、暴走することがなくなる。それは、感じたことを絶対視するのではなく、相対化することである。


    14.人は神を知る能力があるか

       神のようなものを感じる人の感性に対して、理性による疑問は、たとえば、以下のようなものである。

      人間は、不完全で全知には程遠く、宇宙のごく限られた範囲しか知らない。完全で全知で宇宙全体に存在するとされる神というものが仮に存在するとしても、それを知ることができるだろうか。神を知ることができるものは神だけであって、神でない者が、神を知ることができるだろうか。

       たとえるならば、バクテリアのような微生物は、人間を理解できるだろうか。サルと人間の違いを理解できるであろうか。犬や猫と人間の違いはどうか。昆虫と人間の違いさえ危ういのではないか。そして、動物や昆虫と、人間を取り違えれば、いったい何が起こるか。次元が違う者は、正しく理解できない可能性の方がずっと高いのではないか。


    15.否定の断定も不合理:理性の暴走・独裁

       しかし、だからといって、神が存在しないというわけではない。あくまでも、人の能力では、神が存在するかどうか、わからないというだけだ。神が存在しないと知ることも、神(を超えた神)でなければできないだろう。感性の暴走を抑制する理性の働きとは、感性を相対化することであって、わからないものは、わからないままにすることである。

       仮に、わからないから、証明できないから、存在しない、と断定することではない。もし存在しないと断定してしまうと、それは、逆に、理性の暴走・理性の独裁となる。感性の絶対性を否定するのはよいが、その反動で、理性を絶対とすれば、同じ愚を犯すことになる。人間は不完全であり、現在の科学さえも不完全であって、発展途上にほかならない。

       にもかかわらず、自分たちがわからないことは全て存在しないと決めてしまうことは、わからないことを確かに存在すると盲信することと、本質的には、同じ愚である。両者とも、無知の知の謙虚さと、それに基づく継続的な探究心を失っている。

       そして、理性に基づいて宗教を理解・解釈しようとした宗教哲学に対して、近年、理性ではそもそも理解できない神と宗教を理性で解釈しようとすることは矛盾しているという批判がある。これも、理性の独裁が起こった時に生じる批判ではないかと思う。何事も行きすぎは問題である。


    16.理性の限界を突破する感性

       科学の発見も、最初は、感性の働きから生じる場合がある。科学が、夢で見たものとか、合理的な根拠はないが、直感的に感じたことなどから生じる場合である。発見・発明とは、それまでにないものを見つけることだから、それまでの常識・知識・概念では理解できないことが多い。

       最近も、ノーベル賞を受賞した中村修二教授は、「ノーベル賞はだれか"狂ったこと"をしてこそ取ることができる。大きな企業には多くの上司がいるから、奇抜なアイデアが最後まで生き残ることはできない」と断言したという。

       例えば、今現在は、近代の自然科学の幕開けとして不動の地位を得ている、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も、発見当時は、十分には理解されずに、「オカルト」とされたことがある。最初は、非科学・まやかしとされたことが、後に科学と認められた事例も少なくない。ガリレオの地動説もそうだっただろう。

      すなわち、理性・合理性の働きは、従来の知識・概念に基づいて推察するという限界がある。だから、理性ばかりに偏り、感性を一切無視すれば、従来の知識・概念を突破して、未知の真実を知るきっかけを失う可能性がある。それは、進歩・進化を阻むことになる。


    17.理性と感性のバランス・調和

       そうすると、結論としては、理性と感性のバランスが必要なのではないかと思う。感じたことはすべて存在するとしてしまう「感性の暴走」と、わからないことはすべて存在しないとする「理性の暴走」という二つの暴走を回避して、感性と理性のバランスをとることである。

       感じたことをすぐに存在すると思い込まずに、理性によって検証してみる。そして、従来の枠組みで直ちに理解できなくても、感じたことをすぐさま否定しない。わからないことはわからないとして、あるともないとも決めつけずに、さらに探究を続ける。無知の知に基づく、継続的な探究心である。

       そのため、「ひかりの輪」の基本理念では、宗教哲学の項目の後に、「自己を絶対視せず、『未完の求道者』の心構えを持つ」「私たちは、謙虚に、自らを『未完の求道者』と位置づけ、道を求め続けていく。」としている。

       そして、理性で宗教の感性の暴走を止めようとした宗教哲学も、理性の独裁ではなく、理性と感性のバランスの上に実践されてこそ、その真の価値を発揮すると思う。


    18.科学と非科学の区別とは

       以上と関連することとして、科学と非科学は区別できるのか、について検討しておきたい。というのは、科学と宗教は、一部の人にとって、よく対極的なものとされるが、この場合は、それは、科学と非科学とはほとんど同じことのように扱われるからだ。

       しかし、結論から言えば、科学と非科学の区別を研究する学問である科学哲学の検討の結果は、両者の境界はあいまいであって、両者を区別する基準は確立できないというものである。

       まず、科学的であることの基本原則は、実験的な結果が再現可能であり、他者が検証可能ということである。STAP細胞は、小保方氏以外の研究者によって再現ができなかったので否定されたのである。そして、科学哲学者のカール・ポパーは、反証が可能であるという意味の「反証可能性」を持つ理論を科学とした。「反証が不可能」な理論は、科学ではないとして線引きされる、という考え方である。

       しかし、現場の科学者たちは、1度でも反証された理論を破棄するかというと、実際にはそうではないと指摘されている。科学者の実態は、ある理論が採用される・されない、というのは、合理的な論理によってではないという。実験を行った結果、彼らの意に反して反証された場合、それを素直に認めることはなく、自分たちが信仰している中心的な命題を守りたがり、実験のほうが失敗だったと解釈したりする。

       しかし、科学の世界では歴史的に見て、ある時代に当然だと認められている命題が、後代になってあっけなく覆ってしまうことが何度も繰り返されてきた。そして、そうした時に、信仰されてきた理論体系を打ち倒しているのは、別の理論体系を提唱した別の科学者集団である。


    19.科学界も歪める集団心理

       「集団心理」と言うが、「多数派の意見に追随して安心したい」とか、「少数派になることは怖い、」という心理・バイアスがかかり、行動・言説が変化してしまうということが明らかにされている。

       科学者も科学界という閉鎖的な集団の場で活動している人間であるので、その例外ではなく、ある科学者の集団(学会など)である理論体系を採用する人が多数派になると、それによってバイアスがかかり、それに追随したいという心理が働き、別の説は支持しにくくなるという心理が働く、ということが指摘されている。これは、まさに宗教団体にも通じる構造である。

       また、さらには少数派の説を非難することで自分が多数派に属していることを誇示することでバッシングに合わないようにする心理が科学者にも働くという。学校の教室のいじめの行動、および、いじめられ回避の行動と似ている。宗教団体でも同様である。


    20.統計とバイアス:プラシーボ効果

       反証主義以降に、ある頻度で起こるというように確率的にものごとを検証する方法としての統計学が発達していったが、この場合も、人間の心理的な原因によって、バイアスが起こり、例えば、自分の都合のいいように証拠を集めるバイアスもある。

       こうしたことを避けるため、観察者にも誰に偽薬を渡したのかわからない計測方法である二重盲検法が導入された。そして、偽薬や偽治療によっても心理作用によって効果が出るというプラシーボ効果が発表され、従来認められていた効果が単なるバイアスやプラシーボ効果である可能性が指摘されるようになった。

      こうした中で、2000年以降は、医学の分野では根拠に基づいた医療(Evidence Based Medicine)が大きく展開され、統計的な有効性といった科学的根拠に基づいた診療ガイドラインが作成されるに至った。


    21.科学界と産業界のつながり

       業界の利益を脅かすような問題が起きると、業界団体がその問題の研究を始める例が、ここ30年間で非常に増えている。 例えば、ある企業の従業員が危険なレベルの化学物質にさらされていることが研究から明らかになったとしよう。

       そういう場合の企業の典型的な対処法は、自社で研究者を雇ってその研究を批判する研究をさせることだ。また、ある薬の安全性が取りざたされると、製薬会社の経営陣は健康に対する深刻な危険はないとする実験結果をさかんに宣伝する。この手の研究は会社の資金で行われ、不安を感じさせるような結果は無視したり隠したりする。

       米国産業界の一部では脅威となる研究を「ジャンクサイエンス(ニセ科学)」だと非難し、反対に業界が委託して行った研究を「サウンドサイエンス(健全な科学)」として正当化することが常套手段になっている。


    22.疑似科学による悪徳商法、宗教の霊感商法

       疑似科学は、悪徳商法と親和性が高い。特に、偽医療の分野に親和性が高く、療法の根拠として使われることがある。世間に広く知れ渡っている医学的俗説の中には、医学的な正当性がないにもかかわらず医師がこれを信奉しているものもあるため、不適切な医療行為の原因になる恐れが指摘されている。

       そして、これは、宗教団体・精神世界関連団体でも批判される霊感商法と構造は同じだろうと思われる。どちらも、例えば、健康問題や悪霊憑依など、何かの実在しない危険性を訴え、それに対して、必要のない解決策(健康食品・健康機器・悪霊払いの儀式)を勧める。


    23.宗教界と科学界の類似性質

       こうして、科学界も宗教界も、双方とも人間が行うことであるから、そのグループの中の最高権威(教祖)や主流の考え方(教義)になびく集団心理、個々人の名誉欲・権力欲、さらには金銭欲といったものが、宗教と科学の区別を問わずに、働いている。

       そのために、宗教と科学は、双方が、「真理の探究を本来の目的としている」と主張し、そして、お互いがお互いに関して批判的な主張をする場合が少なくないにもかかわらず、客観的に見ると、そうした主張に矛盾して、様々な共通の問題を抱えている現実がある。


    24.違いとつながり:二分化していないが違いはある

       しかし、当然のことであるが、明らかに科学的であるものと、明らかに非科学的であるものの区別は当然可能である。すなわち、両者の違いは明確だが、両者にはつながりがあると言えばいいだろうか。

       これは、宗教と哲学の区別についても、同様であって、両者の境界を定めることは困難だが、理性を重視して宗教の盲信に対抗する哲学に対して、人間の理性を否定しても神を信じようとする宗教があるように、両者の違いは明確である。

       哲学と科学、哲学と宗教、科学と宗教といった、一見して対極的な両者の関係は、実際には、白と黒に全く二分化してはいないが、当然全く同じものなのではなく、イメージ的に表現すれば、(完全に白ではないが)限りなく白いものから、(完全に黒ではないが)限りなく黒いものまで、その間に灰色を挟みながら、途切れることなく連続的に変化している。

       そして、これは、哲学と科学と宗教の違いと類似性に限らず、この世界の万物・森羅万象に当てはまる根本的な原理ではないかと考える。東洋思想でいえば、道教の陰陽の思想などにも見ることができるものだ。


    25.現代の科学の構造的な問題

       現代社会は、中世・近代に比較して、科学技術が非常に大きなウェートをしめる。各国の経済力・軍事力その他の力は、科学技術の開発に大きく依存する。その結果、以前よりはるかに多くの人々が、そして、巨額の資金が、そのために使われる。

       そうすると、科学者の活動が、昔のように純粋に、真実の発見への関心によるものばかりではありえなくなった。昔は皆、科学者はアマチュアであって、職業科学者はいなかった。自己の科学的な探究と、自分の経済的な利益や社会的な名誉は必ずしも直結してはいなかった。

       しかし、今や、科学者のほとんどは、それを職業とし、企業や公的な研究機関の中で、研究成果をあげて名誉を得る、ないしは経済的な利益を得る、という圧力の中で活動している。それは、他の職業と全く違いはない。

       そして、私見では、初期の純粋さを失った、大きくなった後の宗教団体にも同じ現象が起こる。


    26.STAP細胞問題の背景

       その結果として、本当に真実発見のみを目的にして科学しているのではなく、自分の社会的な存在意義や生活の手段として活動している面も多くなっていく。場合によっては、それほど科学が好きではないのに、職業としては他の分野よりも自分に向いているだろうといったくらいの動機で入る人も少なくないだろう(いや過半数がこうかもしれない)。

       そうした中で、論文を多く出せば、その成果が十分に確認される前でも、学会では尊敬されるから、論文の捏造などの科学者の不正が生じる。予算の獲得のためには、自分の研究分野・研究所の将来の可能性を強調する必要があるから、事実上、誇大宣伝・嘘をつく場合もある。そこまでいかなくても、相当に先走ってしまうこともある。昨今の理研のSTAP騒動も、そうした科学の世界の人間的な現象から生じていると思う。

       こうして、「宗教と科学」という、一見して対極的な両者の間にも、同じ人間世界の活動として、多くのつながり・類似性があると思う。


    27.言葉の問題と無知の知の大切さ

       最後に、これまで述べてきたことから、人類の叡智としての哲学・科学・宗教を考えるとしても、言葉とその意味について、よく考えなければならないことがわかる。

       第一に、その日本語は、近年の訳語にすぎない。第二に、原語の外国語も今と昔では大きくその意味が変わっている。そして、第三に、今の意味も昔の意味も、そのだいたいのイメージはあるが、明確な定義できない、ということである。

       そして、明確に定義できないということは、言い変えるならば、それとそうでないものの区別(例えば哲学と哲学でないものの区別)が明確ではないのである。

       さらに言い換えれば、私たちは、言葉があって、それを何となく日常的に用いていても、その言葉の本当の意味となると、それをほとんど理解していないということが非常に多い。そして、本当はほとんど理解していないのに、あたかも理解しているかのように錯覚しながら、それを使っているのである。

       だからこそ、哲学にしても、科学にしても、宗教にしても、何が何だかわからない面があると理解しておくことは、なんとなくわかったつもりになって、(極端に宗教ないし科学を)信頼したり、(極端に宗教ないし科学を)否定したりするよりも、より深い智恵を得る土台となると思う。

      これは、よく言う「無知の知」ということである。この心境に立つことが、逆に、哲学・科学・宗教といったものを以前より正確に理解する扉を開くことになる。


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  • 親子問題の克服と仏陀の智慧

    以下のテキストは、2012年夏期セミナー特別教本『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


    1 親子問題は諸問題の根源

       現代社会のさまざまな問題の原因を探っていくと、親子問題に行き着くという見方がある。人にとって、親子関係は初めての人間関係である。そして、「三つ子の魂百まで」というように、幼少期・青年期の体験が人生全体に及ぼす影響は大きい。よって、親子関係のあり方が、他の人間関係にも大きな影響を与える可能性がある。よって、親子関係における心の問題・課題があれば、それを解決・改善することは非常に重要である。

       特に、親子関係は、最初の上下関係である。よって、人生における他の上下関係、すなわち学校の教師、会社の上司、一部の妻の夫との関係、そして、自分が所属するあらゆる組織・集団のトップ・上層部との関係、宗教団体の信者と教祖の関係、市民・国民としての政府・政治家との関係にまで、影響を及ぼしている(投影されている)と考えられる。


    2 真に大人になる過程

       さて、親子関係の問題を考える前に、どのように変化していくのが健全な親子関係なのかを考えてみたい。もちろん、そのパターンに当てはまらないものが、不健全であると解釈するのは適切ではない。人は、親子関係における不備を、人生の中で、他の方法によって埋め合わせる能力を持っているからである。よって、それを踏まえながら、分析してみよう。

       親子関係の変化とは、言い換えれば、子供が大人になっていくプロセスであろう。乳幼児のころは、子供は親に絶対的に近い依存状態にある。子供は親なしでは生きることができず、自分と親が中心である「狭い世界」を体験している。ある心理学の理論では、この段階の子供は、親と自己を、神と神の子のように絶対視しているとする。自分が何か欲すると、すぐにそれを満たしてくれる万能の存在(親)が現れるように見え、3歳前後で自我意識(他人とは別の自分)が芽生える前までは、その親と自分の区別さえ定かにはついていない。

       その後、自我意識が芽生えて、第一反抗期を迎える。親と自分の区別が生じ、親とは違った存在である自分=自我が確立されていく。さらに十代に入って、第二反抗期を迎える。親に対してさまざまに依存していた状態から、親以外の人々との交わりの中で、親とは違った自分の考え方・価値観・生き方が生じ、第一反抗期で芽生えた自我が、第二反抗期では、確立に向かう。

       ただし、いつまでも単純に親に反抗しているならば、真に成熟した大人になったということができるかは疑問である。十分に成熟した大人になるには、親も自分も、同じ多くの人間の一人であり、長所も欠点もある不完全な存在だと認識することである。

       そうすると、親の良いところには感謝しつつ、親の過ちについても、不完全な人間の一人として許しやすくなる。親が自分を傷つけたとして恨みを持つばかりではなく、親の過ちの背景にあるものが、親の人間としての苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると洞察していく。そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づく。

       さらに、自分も、親と対等の一人の人間として、いつまでも親ばかりに負担をかけずに、自立して生きていくべきだと自覚が生じる。そして、自立ができると、その後は、自分が親側に回って、他を育む責任があると自覚する段階に至る。子供から親側に回るのである。なお、他を育むとは、一般的には、自分の子供を生み育てることだが、そうでない場合は、縁のある次世代やなんらかの自分の後進、年齢に関係なく未成熟な人たちの育成を担う。

       そして、この自覚の背景には、理想としては、親に対する感謝に基づく恩返しの心がある。自分が親に辛抱強く育ててもらったことに対する感謝に基づき、自分も同じように、子供や次世代を辛抱強く育むという恩返しの心である。

       こうして、今までのプロセスをまとめると、①親への依存(親と自分の絶対視)→②親への反抗(自我の芽生えと進化)→③親と自分の相対化→④感謝や許しを伴う自立→⑤親側に回って恩返しというプロセスがあると思うのである。


    3 現代社会の親子問題:親への感謝・尊敬の減少

       しかし、ここで、「理想としては」と書いたのは、現代の社会では、親に対する感謝・尊敬が、著しく低いという問題があるからである。特にこの日本においては、そうである。世論調査によると、子供の半数以上が親を尊敬・信頼しておらず、しているのは三割強であるという結果もあり、諸外国に比べても低い。この場合は、親への感謝に基づいて、その恩返しとして、自分も親と同じ他者の養育の義務・責任を担うという意識が不足する可能性がある。

       この点に関連して、他者への感謝と、他者への愛(慈愛)は深い関係があるという考え方がある。自分が他に支えてもらっている、愛してもらっているという自覚=感謝は、自分の他者に対する愛につながり、その恩返しとして、他者に奉仕する心を作るものだろう。なお、ここでの愛は、親が子供の養育に要する愛であるから、「長期間の忍耐を伴う無償の愛」である。

       これは、宗教的に言えば、仏陀の慈悲、神の博愛などと性質がよく似ている。実際に、大乗仏教の教えでは、仏陀がすべての衆生を救おうとする大慈悲の心を説くが、その心に近づくためには、親の子供への愛をモデルにする場合が多い。具体的には、自分の親が、いかに自分を愛してくれたかを思い起こした上で、今生では親ではない者たちも、無数の過去世では自分の親だった生があると考えて、すべての者たちを過去世の親としての恩人であると瞑想するのである。こうして、すべての者を恩人と見て、その恩を思って、すべての者への愛を育み、その恩に報いようと考え、すべての者を苦しみから救う利他行(菩薩道)の実践をすることを決心する。

       こうして、大乗仏教が説く衆生済度の菩薩道・利他行の修行においても、「感謝と恩返し」という構図が明確である。よって、他者の愛の恩に感謝して、その恩返しとして、今度は自分が他者に奉仕していく、というパターンは、人間としての人格の成熟・向上の上で、極めて基本的・根源的・普遍的な道理ではないかと思われる。

       これをわかりやすく言えば、父親としてか母親としてかは別にして、自分が柱になる(大黒柱になる)という決意であろう。こうして、人類は、親から子供に、前世代から次世代にと、この感謝と恩返しの心の連鎖を経て、愛と奉仕というものを伝播してきたのである。


    4 親子問題が少子化の一因では

       しかし、この21世紀の現代社会において、少なからず、この愛と奉仕のリレーが弱体化しているのではとも思われる。少子化の問題がいわれるが、この原因は、マスコミでよくいわれるように、将来の経済的な不安によるものだけなのであろうか。20年前までの高度成長期やバブル期などと比較するならば、そうかもしれないが、明治以降の日本の近代全体から見れば、今よりも経済的な困難や将来不安が大きかった時期もあったことは明らかだ。

       しかし、そうした発展途上国でさえあった時期にさえ、出生率は今より高かったであろう。もちろん、諸条件が大きく違うので、単純な比較はできない。しかし、根本的な問題として、子供・次世代を辛抱強く育むことへの責任や、価値の自覚が乏しくなったのではないか。そして、さらにいえば、そうする自信が乏しくなったのではないだろうか、というのが私の仮説である。

       この視点に基づいて、親などへの感謝と、それに基づく恩返しの実践が、現代社会において、どのように損なわれているのかについて、考察してみたいと思う。


    5 親への感謝を妨げる要因:戦後社会の心の隙間

       次に、親への感謝を妨げる要因を考えてみよう。第一に考えられることは、戦後日本社会の基本的な価値観である。まず、その前に、戦前・戦中の思想を考えてみよう。

       その時代は、大日本帝国・国家神道の体制の下で、日本は神の国で、国父たる天皇は神の末裔の現人神(あらひとがみ)であり、それにならって、家長である父親や学校の教師・校長先生には強い権威があった。子供たちは、その思想の下で、天皇のみならず、自分を生み育んだ親、教師、国を尊び、自らもその神の国の臣民・子孫としての自尊心を形成した。

       このタイプの思想の場合、自分を生み出したものへの尊重と、自分自身の価値が完全にセットになっている。自分を生み出したものは、神の国とその王と臣民であり、よって、生み出された自分も、神の国の臣民であるとなる。よって、人が本質的に欲求する自分の価値=自尊心に基づいて、親・教師・社会・国家への尊重が自動的に形成されるのである。

       こういった仕組みは、神の化身を自称する宗教団体と、それに帰属・帰依する信者の間にも見られる精神的な構造である。いったん、自分たちの教祖と集団が、神の集団であると妄信してしまうならば、自分が、選ばれた神の民(選民)として自尊心(厳密には虚栄心)を非常に強く充足できるために、あとは、その自尊心(虚栄心)の充足を維持するために、その教団(ないしは宗教国家)の立派な信者(臣民)として必要とされる行動を求められれば、それが客観的には相当に苦行的なことであっても、選民たるに必要なこととして、それに励む仕組みができあがるのである。

       とはいえ、こうした仕組みには大きな弊害があることは、第二次世界大戦の結末や、こうしたタイプの新興宗教・カルト宗教の状態を見れば、一目瞭然である。自分たちだけを神の集団と信じるのは、根拠なき妄信であるばかりか、外部社会を尊重せず、その価値を強く否定することになり、排他的・攻撃的にもなる。神の集団と摩擦するものは、必然的に悪魔の集団となるからだ。

       よって、我々は、こうした妄信・選民思想ではなく、自分を生み出した親や社会に対する感謝と、虚栄心ではなく健全な自尊心を見出すための、「新しい道」を見出さなければならないだろう。


    6 戦後社会の競争主義の弊害

       しかし、戦後日本社会は、この新しい道を十分に見出せていない。大日本帝国の虚栄心の充足が完全に崩壊し、その代わりに導入された価値観は、個人主義、自由主義、資本主義、競争主義、経済主義、会社主義などである。国家のために、個人の自由を抑圧する全体主義的な体制に替わって、個人の自由が尊重される社会になったのは良かったが、その中には、自分を生み育む者たちへの感謝・尊敬を培うための土台となる思想は見あたらない。

       その代わり、資本主義・競争主義の価値観の中では、現状に不満を抱き、「今よりも、もっと」と求め、自分と他人を比較し、「他人よりも、もっと」と求めることが重視される。この不満と競争は、まさに感謝と逆行する思考の枠組みである。感謝は、与えられているものの大きさを見ることによって生じるが、不満は、与えられているものは当然のこととして、与えられていないもの、得ていないものを見て生じる意識である。

       さらに競争主義は、自他を比較して、他に勝ってこそ価値があるという価値観である。よって、自分の親と他人の親を比較したり、自分の親を一般的な親の基準・イメージなどと比較したりして、評価することにもなる。これは、親や教師の方が、それぞれの子供の評価を他の子供との比較=偏差値によって行うのだから、自業自得といえなくもないが、子が親を、親が子を比較=偏差値で評価する時代だ。

       この場合、たいていの親がなしている養育上の莫大な自己犠牲は、「親だから当然」の一言で、評価されない可能性がある。そして、子供が親を評価するのは、何か特別なことをしてもらったという印象がある時のみとなり、親なりに精一杯やっていても、例えば他の親と比較して、それを下回る場合には、恨みさえ抱くという結果になりかねない。

       偏差値・相対評価を超えて、親が子になすことを見れば、死の危険さえはらむ出産から、乳幼児の際の24時間の拘束への忍耐、そして、20年以上にもわたる体調の良い時も悪い時も含めた、年中無休で毎日提供される衣・食・住や、教育・学習・娯楽の機会、そして、精神的なケアを含めた、物心両面の無条件・無償の奉仕など、本当に膨大なものがある。これは、偏差値・相対評価には馴染まないことは明らかだろう。

    しかし、競争社会、偏差値・相対評価の世界では、子供も親も、それぞれが「自分なりに精一杯努力したか」ではなくて、他との比較や、一般的な基準・イメージとの比較で、評価される。子供も親も、自分たちで気づかないうちに、競争社会の価値観に犯されて、努力が評価されるのではなく、他と比較して優位であるかどうか、すなわち「勝利という結果」が求められているのではないか。

       しかし、他と比較して、良い子・悪い子、良い親・悪い親と評価することは、本来の親子関係には馴染まないものだろう。なぜならば、親子関係は、基本的に、条件付きの愛ではなく、「無条件の愛」「無償の愛」の典型であるべきだと思うからである。親は、自分の子供というだけで、他の子供との比較なしに、子供を愛し、子供も自分の親というだけで、他の親と比較せずに、親に感謝するのが自然であろう。この無条件の愛の原則に基づいて、親が子供に無償の奉仕をなし、その後、子から親に、それが恩返しされるのである。

    こうして、「今よりも、もっと」「他人よりも、もっと」という、資本主義・競争主義の価値観が、親子関係を脅かしているのではないかと懸念される。その中では、当然のこととして、多くのものに感謝せず、他と比較して少なければ、逆に恨むことさえある。

       さらには、感謝よりも不満・怒りが多い意識状態の中で、仮に親に叱られるなどすれば、それを愛の鞭と解釈する智慧や忍耐力は働かずに、自己を否定されたとばかり思い込んで、長らく恨むという可能性も増えていくだろう。


    7 親側の問題を考える前に

       これまでは、子供の親に対する感謝の不足の問題を取り上げてきたが、次に、親側の問題を取り上げたい。子供が親になっていくのだから、子供にゆがみがあって、そのまま親になれば、親側にも問題があることは疑いない。ただし、その前に、何が親側の過ちで、何が子側の過ちではあるかを慎重に検討する必要がある。

       ゆがんだ視点で親を見ていると、感謝すべきことを恨んでいる場合もある。自分の家の経済状態を考えず、「他の親と比較して、おこづかいが少なかった」と恨みを持つ人もいれば、客観的に見れば、親が怒るのが当たり前のことをしているのに、自分の過ちは思い出したくないために、すっかり忘れてしまって、親にひどく叱られたことだけを根に持っている等の事例がある。

       そして、幼少期・青年期は、多分に記憶が不正確である。主観的な印象ばかりが残って、客観的な事実と一致していない場合も少なくない。そういったことには十分注意するべきである。


    8 自分の親への感情が、親になった自分に跳ね返る

       さて、次に、親側の問題について考えてみよう。まず、自分が子供として親に持った感情が、親になろうとする自分、ないしは親になった自分に跳ね返ってくる可能性があることである。自分が親に対する十分な感謝がなければ、感謝に基づく恩返しの気持ちも弱いということになる。親が自分を育てるために、いかほどの困難に耐えたか、という認識がなければ、自分が自分の子育てに忍耐する気持ちが十分に持てるだろうか。

       人の能力というのは、気持ち次第の部分が相当にあると思う。客観的には相当につらいことでも、皆がやっていること、やれていることは、たいてい自分もやるものだが、皆がやっていなければ、なかなかできるものではない。よって、「自分の親が自分自身にこうしてくれた」という認識は、自分も同様にする責任があり、「そうできた親の子供として、同じようにできるはずだ」という気持ちが、無意識的にであっても生じるものではないだろうか。こうして、親に対して正しく感謝することは、自分が親として子供を育てるときの目に見えない力になるのではないだろうかと思う。


    9 親の過ちをいかにして許すか

       次に、親側に問題がある場合に、子供としてどうしたらよいかについて考えたい。まず、先ほど言ったように、子供の認識が偏っているのではなくて、本当に親側の問題であることを確認する必要がある。しかし、そうした上で残る、明らかな親の過ちについては、それを許す智慧を持つのが、自分自身が大人になることであろう。

       そのためには、第一に、自分も親も、多くの不完全な人間の一人であるという客観的な事実を受け入れることである。すなわち、親も自分も、長所も短所もあり、功も罪もなし、親に完全は期待できず、親に間違いがあっても仕方がない(人間の家族として自然な)のだという認識である。これは決して親を否定したり、見下したりすることではなく、親にしてもらったことには正しく感謝しつつ、親の過ちを許すことである。

       これは、親という人間をより深く理解することでもある。それまでのように、「親はこうしてくれなかった、自分を傷つけた」として恨みを持つばかりではなくなって、「親も一人の欠点もある人間」と位置づける中で、親の過ちの背景にあるものが、自分に対する根拠のない悪意ではなくて、ないしは表面的には自分への怒り・不満があるにしても、根本的には、親の中の苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると気づく。

       そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づき、その意味では、親への感謝を保ちつつも、親の人格の一部は反面教師となる。その子供である自分が、同じ問題を潜在的に共有する可能性があるからである。

       こうして、子供の頃は、前に述べた心理学によれば、あたかも親が絶対神で、自分を神の子と位置づけ、親と自分を平等に見てはいないが、大人になる中で、親と自分を平等に見るようになる。そして、親という存在を正しく理解する中で、感謝と許しとともに、親の長所や欠点が、その子供である自分の潜在的な長所や欠点である可能性に気づき、親と自分のつながりを正しく悟るのである。

       そして、親と自分を特別視・絶対視する意識から、親も自分も多くの不完全な人間の一人と気づく。親と自分を相対化することは、自己中心的な意識から抜けることでもある。その意味でも、これは本当に大人になることであろう。よって、親の過ちを許すことができない場合は、依然として、親と自分を特別視する、未成熟な意識が隠れている可能性がある。

       客観的に見れば、過ちをなすのは、自分の親だけではない。世界の中には、自分の親以上の過ちをなしている親が無数に存在する。にもかかわらず、自分の親の過ちは許せないというのは、その背景に、気づかないうちに、自己中心的な甘えがあるからではないか、ということである。


    10 誇大自己症候群という心理学理論

       心理学の理論に、誇大自己症候群という人格障害のタイプがある。通常、幼少期の子供は、親と自分を絶対視しているが、その後、大人になるプロセスで、徐々に、自分も親も相対化していく。しかし、子供の時に親に依存する経験が不足していると、このプロセスがうまく進まずに、大人になっても、自分を相対化できず、特別視する場合があるという。これを誇大自己症候群という。いわゆる自分を特別視する誇大妄想の精神状態である。

       この理論では、望ましい発育のプロセスは、幼少期に親にほどよく依存し、自己特別視の願望を満たすことができた上で、大人になる過程で、徐々にそれを脱却していくことらしい。それができずに、親への依存と自己特別視の欲求を満たせないままに大人になると、その欲求の渇きが残ってしまうというのである。


    11 競争社会やメディアが作る自己特別視の願望

       私は、この心理学の理論をすべて信じているのではない。私の経験からは、この理論とは違う理由でも、自己特別視の欲求が生じることがあると思う。例えば、子供の時に親の無条件・無償の愛を得ることができずに育つと、自分を無条件に愛することができず、そのために、競争社会の中では、もっぱら他と比較して自分が特別である場合だけ、自分に価値を感じる可能性がある。

       また、メディアの影響も大きいように思う。特に、40年から50年ほど前から、漫画やテレビのアニメや特撮番組などで、選ばれた若者が、超人に変身したり、超能力を発揮したりして、壮大な悪との戦いにおいて、特別な活躍をする内容のものが流行した。その中には、ウルトラマン・仮面ライダー・ヤマト・ガンダム・エヴァンゲリオンなどのように、社会現象になったものも少なくない。これらはフィクションであるとはいえ、明らかに誇大妄想的であり、かつ闘争的な内容であることは間違いない。

       さらに、精神世界系の雑誌や一般の書籍やテレビ番組などで、超能力、UFO等の神秘現象、世界を支配する陰謀、世紀末のハルマゲドン・世界戦争の危機の予言などが、大々的に宣伝された。その中でも、ユリ・ゲラーやノストラダムスの大予言などは、これまた社会現象になったものが少なくないが、超能力者になるとか、宇宙人にコンタクトするとか、世紀末を救う存在になるといった願望は皆、妄想的であることは間違いない。

       そして、私自身の場合を分析するならば、小学生の時に、父親が浮気で別居した前後から、学業において競争に勝つことに相当の精力を注ぐようになった。それとともに、超能力やUFOといった精神世界に関心を持って、先ほどのようなアニメや書籍を好むようになったのである。よって、無償の愛を感じられない家庭の現実の中で、競争やフィクションの世界に没入し、自己特別視の願望の充足を求めたのかもしれないと思う。


    12 誇大妄想と被害妄想のセット

       もちろん、「この世界で特別な存在でありたい」という気持ちは、誰もが持っている。しかし、誇大自己症候群が問題になるのは、それが現実的な願望ではなくて、明らかな誇大妄想を形成する場合である。また、誇大妄想は、セットで被害妄想も発生しやすい。本来は偉大な自分を認めない周囲の方が極めて不当であるという認識である。

       そして、オウム真理教の麻原教祖は、この誇大自己症候群の典型であろう。麻原の場合は、自分がキリストであるのに、それを認めず否定する社会はキリストを弾圧する悪業多き魂であり、戦わなければ教団はつぶされる運命であり、戦うならば一教団にもかかわらずキリストの集団であるがゆえに勝てる(可能性がある)という誇大妄想と被害妄想に陥ったのである。

       麻原のように重篤なケースは、特に幼少期の親子関係に特に深い傷があるのかもしれない。実際に麻原は視覚障害者であり、自分の意に反して、親元から離されて全寮制の盲学校に入れられるなどして、親への恨みが強かったといわれている。

       それに加えて、本人に通常とは違った認識・体験が多いことが、その原因になる場合もあると思う。すなわち、精神世界的にいえば、神秘体験・霊的体験である。客観的に見れば、それは(すべてではないにせよ)幻想・幻覚・幻聴を含む精神病理の体験である。しかし、本人(や本人の信者)にとっては、それを通して、自己(や教祖の)絶対性を信じ込んでしまうような体験である。

       そして、この誇大自己症候群の場合は、自分を特別な存在にしてくれる対象があると、それに絶対服従するが、そうでないと見ると、誰も尊敬しないという極端な傾向を持つ。自分が特別だという欲求を満たしてくれる(ように見える)存在にしか、価値を見出さないからである。麻原は、自分を救世主と予言するシヴァ大神(という自分の中の妄想体験)に帰依した。インドやチベットの宗教指導者については、自分を特別視しないと知ると、尊敬をやめてしまった。そして、親については、地獄や餓鬼の世界に落ちる低い存在と位置づけたのである。


    13 苦しみを喜びに転換する智慧

       これまでは、親の過ちを許す上で、親と自分を相対化して、親も不完全な人間の一人であり、過ちの背景には、親なりの苦しみ・弱さがあって、自分も潜在的にはそれを共有していると気づくことについて述べた。とはいえ、親との傷が大きい場合には、この許しの考え方だけでは、なかなか前向きになれない場合もあるだろう。そこで、仏陀の智慧から、もう一つ別の智慧を紹介したい。

       それはまさに、伝統的な仏陀の智慧であって、苦しみを喜びに変えていくというものである。どんな苦しみにも裏には恩恵がある。それに気づくことができれば、苦しみが減り、苦しみを与えた存在への恨みも和らぐ。例えば、親のせいで自分は不幸になったという、親への恨みや被害者的な感情と、自分に関する卑屈を引きずることを避けることができる。

       では、苦しみにはどんな恩恵があると考えるのだろうか。これは、智慧の分だけ恩恵があり、言い換えれば、無限である。しかし、多くの場合に当てはまるいくつかの公式をあげれば、例えば以下の通りである。


    14 苦しみは自分を鍛える愛の鞭

       第一に、苦しみは多くの場合、その人の進歩・鍛錬のための試練となる。何の苦しみもなければ、温室育ちとなり、社会に出ると潰れる人間になりかねない。

       例えば、親に、自分や自分の考え・生き方を否定・批判される人は少なくない。しかし、それを乗り越えてこそ、自分の成長もあり、強い自分、大人の自分になることができる。そして、社会に出た後にこそ頻繁に訪れる、自分が否定される状況にも耐える準備ができる。

       逆に、最近の若年層の中に、子供の時に親から全く叱られたことがないため(親が子供を叱ることができない)、忍耐力が極めて乏しく、ちょっとしたプレッシャーでうつになるケース(新型うつとも)が多発しているという。これでは一生、親のすねをかじるか、社会福祉に依存するしかなくなる。言い換えれば、自分でも気づかないうちに、過去の苦しみが、今の自分の忍耐力を形成しているのである。

       なお、否定・批判には、およそ二種類のものがあって、一つ目は正しい批判、すなわち、自分の問題点の適切な指摘である。これは、「今の自分を誉めてほしい」という欲求には辛いものだが、未来の自分をより良くするためには絶対に必要である。そこで、「どんな人間も不完全なのだから、全く批判をされないことは、逆に恐ろしいことだ」と考えれば、批判を恩恵と感じることができるだろう。すなわち、今誉められることよりも、成長して未来に真の評価を得ることの方が大切だと考え、今の賞賛ばかりにとらわれているから、味方を敵と錯覚するのだと気づくことである。

       これは一つの例であるが、仏陀の教えでは、人のすべての苦しみは、自分や自分のものに対する執着・とらわれによって生じていると説く。そして、とらわれのために行き詰まって苦しむと、ある段階で、とらわれの不利益に気づき、それを放棄できるようになって、苦しみから解放されると説く。こうして、苦しみは、とらわれを超える智恵(智慧)につながるものなのである。

       二つ目は、間違った批判・否定である。これは相手が無智であり、そのために否定している場合である。しかし、これも自分の見方一つで、恩恵と考えることができる。

       というのは、親・先輩・他人に否定されても、それに負けずに進んでいく経験をしてこそ、本当の意味で、正しく強く生きていくために必要な精神力や智慧を培うことができるからである。その意味では、たとえ自分が正しかったとしても、それを否定される経験がないことは、長い人生を考えれば、逆に恐ろしいことではないだろうか。

       そもそも、人類の歴史の中で、どんな時代も完全ではなく、あらゆる時代で、新しい世代は、何かしら古い世代と闘って、それを乗り越えて、新しい時代を作ってきた。前世代は、最初からは、次世代の新しい道を認めない(認めることができない)のが普通であり、新しい世代は、それに負けずに乗り越えなければならない。

     

    15 苦しみがとらわれを解消する源になる

       これに関連して、再びとらわれを超える智慧について述べたい。それは、何か重要なことを達成するには、辛抱・忍耐・継続的な努力が必要であり、「すぐに成功したい、認められたい」というのは、間違ったとらわれだということだ。本当の幸福は、苦しみを超えたところにあるということである。

       例えば、「ローマは一日にして成らず」、「失敗は成功のもと」、「急がば回れ」、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」といったさまざまな格言は、皆これを表していると思う。

       過去の偉人の話でも、これはよく出てくる教訓だ。ナチス・ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦の英雄である英国首相チャーチルは、「真に成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次へと失敗を経験する能力である」と語り、彼の有名な言葉は、「決して、決して、決して諦めない」であった。

       発明王エジソンは、1000回目の実験で白熱電球を発明したとされるが、エジソンは、その前の999回の失敗については、「失敗ではなく、これでは成功しないと知った成功へのステップだった」と語った。本田技研の本田宗一郎も、「人はすぐ成功を求めたがるが、私にとっては、99%が失敗と自己反省であり、成功は残りの1%である」という趣旨のことを語っている。自動車王のフォードは、成功するまで4回倒産、5回失敗した。ディズニーランドの創業者も、創業する前に、自分の考えを妄想的だと否定され、その後、3回倒産した後に成功した。大統領になったリンカーンも、最初は選挙に8回連続落選したという。

       逆に、すぐにできたこと、すぐに成功したこと、すぐに認められることの延長上に、真の達成や幸福があったためしがあるだろうか。世の中には、すぐに成功したように見える人もいるが、それを長く維持するとなれば、その過程には、人知れず、相当な困難があるものだろう。また、「すぐに認められたい」と考えて、常に親が敷いたレールの上を歩こうとしても、実際にそうできるわけでもないし、それで親が幸福を保証できるわけでもなく、後悔が残るだろう。

       これを仏教的に表現すると、人は皆、不完全であり、最初は何が正しい道かがわからないという無智の悪業があり、これに対して、エジソンが言ったように、いろいろな困難・失敗・苦しみを経験することで、無智の悪業を清算すると、智慧が生じて、真の幸福・達成の道を悟るのである。よって、苦しみは、まさに幸福へのステップなのである。


    16 苦しみの経験こそが慈悲の源

       第二に、自己の苦しみがあってこそ、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことができるということがある。自分に苦しみのない人は、実体験がない分だけ、どうしたって他の苦しみを理解する上では劣る。そして、この慈悲の心は、仏教では、真の幸福をもたらす最高の宝とされ、仏の心とされる。実際に、前章で述べたように、真の幸福は、今以上に求めたり、他に勝ったりすることばかりではなくて、他と分かち合い、他を愛することで得られるものであり、その意味でも、慈悲の心こそ、幸福への最大の宝だろう。

       逆に、苦しみの経験が乏しいと、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことはできない。それは、現実の人間関係をいろいろな意味で損ない、場合によっては、破滅を招く場合さえある。典型的な例が、フランスの民衆がパンさえなくて飢えていた時に「パンがないならケーキを食べればいいのに」という暴言を吐き、殺されたという王妃のマリー・アントワネットである。彼女は、名誉・血筋・美貌・才能・財産・権力などの一切に恵まれていたために、逆に、人として最も重要である慈悲の心を欠いていたのである。

       この意味で、苦しみに負けずに、それを慈悲の源として逆活用できるならば、苦しみが多いほど、慈悲深い、本当の意味で幸福な人間になることができる。実際に、大乗仏教で最も篤い信仰を集めている観音菩薩は、慈悲の化身ともされているが、苦しみの連続の生涯の果てに、「この苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決心した結果として、生まれたとされる。

       これは、親子関係での傷も同じである。親にひどく人格を否定されたとか、暴力を振るわれたという一般的な事例から、最近では、虐待、ネグレクト、近親姦といった、犯罪ともいうべき事例までよく聞かれるが、自分の苦しみを通して、同じような経験をした他の苦しみを理解し、その苦しみを和らげようとする慈悲の心を培うことができるという視点からは、いかなる傷も、自分の慈悲の心という宝に転換できる道である。よって、仏典では、「苦しみに感謝しよう、私を真理に導いてくれた苦しみに、敵対者に感謝しよう、私を真理に導いてくれた敵対者に」という聖句もある。


    17 反面教師は貴重な学びの対象

       第三に、苦しみを与えた親を反面教師と見る智慧である。親に過ちを見て、「自分は決してこうならない」と決心するケースは少なくない。これは、親と自分は別の人間だという視点からではなく、その親の子として、自分も一つ間違えば同じ過ちをする可能性があることを無意識的にも感じ取っているからこそ、強く決心するのだろう。

       そして、親でなくても、人間は誰しも皆、無智で弱い一面があるから、身近に何かの悪行をなす反面教師を見て、他人に迷惑をかけ、自分を不幸にするさまをよく知ることができる場合と、身近には反面教師がおらず、自分が初めて、ある悪に誘惑された場合では、同じ悪を回避する力は、相当に違ってくるのではないだろうか。

       いや、謙虚になって考えてみるならば、反面教師がいることによって、かろうじて同じ悪を回避することができるのが、人間というものではないだろうか。実際に、人類は、過去の歴史の過ちを教訓=反面教師として、現在を生きている。古代から現代まで、人間は実に多くの過ちをなしてきたが、今でこそ極悪とされていることも、過去には皆がやっていた時代があるのだ。

       こう考えると、見方によっては、親の過ちは、親が自分に身をもって、悪行の不利益を教えているとも解釈でき、それによって親への怒りを静めることができるだろうし、場合によっては感謝さえわいてくるのではないだろうか。

       そして、大きな目で見るならば、親子を含めた人間・人類とは、感情面でいえば、否定・軽蔑して争うことも多いが、その一方で、実際には、互いの良い点と悪い点を互いの教師・反面教師として学び合って、一体となって、進化・成長してきた面が多々あると思う。古代と現代を比べれば、人類は、特定の民族に限らず、全体として、大きく進化しているのである。こうして、親子を含め、人々は、一体となって成長するというのが真実なのである。

       「万人が一体として成長する」という人間観を含めて、「万物は本質的につながって一体である」という世界観は、第一章で解説したように「一元の思想」と呼ばれ、ひかりの輪では、これを「輪の法則」とも呼んでいる(輪が、万物が一体・平等の象徴だから)。これは、「万物が相互に依存し合って存在する」と説く仏教の縁起の法などにも通じる。その仏教では、仏陀や仏法のシンボルが法輪(法の車輪)である。


    18 親からの苦しみを超えて真の自立へ

       さて、苦しみを喜びに変える智慧をいくつか述べてきたが、この苦しみを喜びに変える智慧とは、親からの完全な自立を意味する。すなわち、親が間違った行為をしようが、自分は不幸にはならないという人生を作るからである。親の間違いで、自分が一生不幸になるのであれば、それは、まだ親の影響下である。親の被害者であると主張はできるが、人生の敗者にほかならず、幸福ではない。

       そして、仏陀の智慧から見れば、いつまでも「親のせいで自分が不幸である」と考えることは、自分の努力を怠っていることを隠すものであって、怠惰・甘えにほかならない。それは、まだ親の影響下にあって、真に自立した大人になっていない。真に大人になるとは、「自分の幸福は、自分の智慧と努力で得る」という意志が確立することであり、親の被害者として人生の敗者にならずに、自分の人生を自分で決める智慧者になることだ。

       そして、これは、親との関係に限らず、自分の人生の不幸や幸福、成功も失敗も、本質的には、他人ではなく、自分の努力で決まる(決めることができる)という考えである。そして、私が思うに、仏教などのインド思想が説く自業自得という言葉の本当の解釈ではないかと思う。

       では、これまで述べた、親に関係する苦しみを乗り越えて、智慧や慈悲に転換していく術についてまとめておこう。

    ① その苦しみは、親の愛に基づくもの(愛の鞭)ではなかったか。

       子に(快)楽を与えるだけが親の愛ではない。
       苦しみを与える親の方がもっと辛いのでは。

    ② 親の過ちだったとしても、親も不完全な人間の一人であるならば、それを許すべきではないか。

       親が、一人の人間として、その時に抱えていた苦しみがあったのではないか。
       その苦しみ・弱さは、子供である自分の中にも存在する要素なのではないか

    ③ 親からの苦しみは、視点を変えれば、自分を鍛え、智慧と慈悲の源となるものでないか。

       親の否定・批判は、自分を改善したり、強くしたりしたのではないか。
       親の過ちも、自分の反面教師ではないのか。
       親のせいで不幸になるのではなく、自分の努力で幸福になるのではないか。


    19 親子関係の問題の類型について

       次に、今まで述べてきたことを含め、親子関係の問題に関して、それをいくつかの側面・ケースに分けて、まとめてみたい。これは、すべての問題を網羅したのでなく、その一部であろうが、ある程度の整理にはなるかと思う。

       第一に、依存の対象の親がいなかったケースである。これは、親が他界したというだけでなく、なんらかの理由で親元を離された場合もある。また、片親がいない場合、ないしは親が離婚したので片親に育てられた場合というのも、このケースに含まれる可能性がある。さらに、実際に親はいても、自分が思う通りには依存できなかった印象がある場合も、広い意味では、このケースに含まれる可能性がある。

       この場合、親に対する不満・恨みが生じる可能性がある。しかし、前に述べたように、親への感謝の実践は、それに努めようとすれば、視点を変えることで、いかようにも可能なものである。例えば、親が他界した場合は、子を残したままこの世を去ることになった親の無念を思い、親代わりとして育ててくれた人の労苦に感謝することができる。また、他界していなかったとすれば、子供を手放さざるを得なかった実の親の苦しみを理解することが重要だろう。

       また、片親がいるケースでは、養育の苦労を一手に引き受けた片親の労苦に感謝することや、離婚だった場合では、自分のもとを去った方の親も養育費の支払い等の労苦を背負っていれば、それをよく考え、感謝の心を持つことに努めたい。

       そして、前に述べたが、このケースの中で、場合によっては、自分を特別視する意識が、大人になっても修正されない可能性があるという。この問題を克服するためには、自己を多くの人間の中の一人として相対化する必要がある。そのためには、自分を支えたさまざまな存在への感謝などを通して、万人が助け合って存在していることを理解し、万人を平等に尊重していく訓練が必要であろう。

       第二に、親に対する反発・怒り・恨みが、大人になっても残るケースである。これには、いろいろなパターンがあるだろうが、子供の時から親に酷く傷つけられた場合や、反抗期以来、考え方の違いなどから親との敵対的な関係が続く場合などがあるだろう。

       また、逆に長らく親に従順だったのが、ある時から一転して反発に転じる暴発的なケースが少なからず見られる。これは、支配的傾向の強い親のもとで、子供側の親によく見られたい欲求などから、長い間、子供が自分の欲求を抑圧する中で、徐々に蓄積された親に対する恨みが、一気に爆発する場合などとされる。

       そして、こうした場合は、自分も親も多くの不完全な人間の一人と理解する、成熟したものの見方によって、親にしてもらったことには感謝しつつ、親の過ちについては許すことができる。その中で、親の人としての苦しみを理解し、それが自分にもある要素だと理解すれば、親の過ちを自己の反面教師として生かすことさえできる。また、親に傷つけられたことは、必ずしも自分の価値を損なうものではなく、さまざまな意味で自分を鍛えたり、智慧や慈悲を深めたりする機会となるといった恩恵があると気づくことも有効である。こうして、親に感じた苦しみによる怒り・恨みの影響を超えるならば、本当の意味で自立した大人となることができる。

       第三に、親への依存が継続する場合である。これは、親の支配欲と子供の依存心が強く、子供が体は大人になっても、依然として、親への精神的・物質的な依存を続ける場合である。すなわち、子離れせぬ親の支配欲と、親離れせぬ子供の依存・甘えにより、不健全な相互依存=共依存の関係が形成されている。なお、これは、宗教の教祖と信者に似ており、実の親に依存できなかったり、反発したりした結果として、宗教の教祖のような他者を理想の依存対象として、親代わりに求める構造がある。

       この場合は、人は誰もが神の化身ではなく、親も教祖も自分も皆が、長所も短所もある人であって、万人が皆等しく尊いことを学ばなければならない。そのように親や教祖から自立して、支配されていた間に関して、してもらったことへの感謝と親の過ちへの許しに努めるのである。

       ただし、最近の問題としては、親への依存が継続するケースの中で、親が子供を適切に訓練できず、親子が友達同士のような関係でしかなく、親への尊敬が非常に乏しく(同様に教師等への尊敬も乏しい)、子供が自立して生きるに十分な強さを獲得できないままになって、親に精神的・経済的に依存し続ける場合がある。

       この場合は、まず親自身が、どのように教育してよいかわからない、基本的な指針がない問題や、(自分自身の体験などを通して)子供を叱ることで嫌われることを嫌がる傾向などがあれば、そういった問題を解消する必要があると思われる。


    20 親子問題はすべての人間関係の問題の源

       前にも述べたが、親子関係の問題は、すべての人間関係の問題の源だとも考えられる。親子関係は、人にとって最初の人間関係であり、最初に接した人間に対して、自分が形成した心の働きや見方というものは、他の人間を見る場合にも、相当な影響を与える可能性がある。いわゆる「三つ子の魂百まで」ということである。

       これまで見てきたことからまとめるならば、例えば、他に対する感謝が多いか少ないか、感謝に基づく奉仕(恩返し)の意識が強いか弱いか、怒り・恨みが多いか少ないか(他者への理解が深いか浅いか)、迷惑をかけたという反省の心が深いか浅いか、自己を特別視している=自己中心的か、自他を平等につながった存在として、自己を相対化しているかなどである。

       そして、前にも述べたように、子供の時に親に対する依存の機会が乏しかったり、親に対する反抗・反発から抜けきっていなかったりして、感謝と許しによる自立が果たされていないままだと、その人は、親代わりに、他の人に依存する場合がある。自立していない意識が、親の代わりに依存の対象とするのは、例えば、学校の教師や、女性の場合は結婚した夫、社員として会社の上長、信者として宗教の教祖、国民として国家・政治家などだろう。

       この場合の課題は、依存と反抗を超えて、感謝や許しの心を持って、自立することである。そして、感謝に基づく恩返しの心を持ち、他を育む側に回っていくことである。そして、現在の社会では、こうした人格的な成長の不足が、親子・家庭問題から、会社・宗教・国家の問題までにわたって、非常に重要な問題の根底にあると思われる。


    21 内観法:親などへの感謝を深める自己内省法

       ここでは、ひかりの輪が、親など他者に関する健全な感謝の心をはぐくむ自己内省法として導入している「内観」についてご紹介したい。ひかりの輪では、その外部監査委員のお一人が、この内観法の権威の大学教授であり、各支部で内観セミナーを開き、ご指導いただいている。なお、内観は、その源は、日本の伝統仏教宗派にあるとされるが、その後一切の宗教色を脱して、わが国発祥の科学的な自己内省法となり、学会もあり、国際的にも普及しているものである。

       なお、内観の詳細としては、一般のものとしては、例えば、前記の外部監査委員の方が書かれた冊子『内観への誘い』を参照されたい(ひかりの輪の各支部で頒布または閲覧に供している)。また、ひかりの輪のテキストとしては、過去に『内観、唯識、縁起のエッセンス』(2009年ゴールデンウィークセミナー特別教本)があるので、あわせて参照されたい。

       ここでは、そのあらましをざっと説明すると、内観とは、親をはじめとする家族・親族・近しい友人知人の一人一人について、幼少の頃から今現在に至るまで、だいたい数年単位の期間に区切って、(親などに)してもらったこと、してかえしたこと、迷惑をかけたことについて、なるべく正確に思い出していくという訓練である。

       この内観法の意味合いは、親に対する感謝・理解(許し)を増大させることなどがあるが、その背景として、人は、このようにしっかりとした内省の機会を持たなければ、どうしても自己中心的な、偏った、不正確な視点から、これまでの自分と親の関係をとらえている問題がある。

       すなわち、してもらっていることは、親として当然のことだと一切感謝せず、して返したことは非常に少ないにもかかわらず、自分の主観で相当にしたつもりになっており、迷惑をかけたことについては、相当にあるのに(相手が親だからとして)忘れて反省していない。

       特に、幼少期・青年期は、やはり知的・精神的な能力が未成熟であるから、その当時の(親に対する)認識・印象・判断は、非常に不正確であったり、偏っていたりする場合が少なくない。よって、大人になった今の時点で、落ち着いて見つめ直して見ることが、バランスを取り戻す上で役に立つ。

       また、前にも述べたが、「今よりもっと、他人よりももっと」といった、現代社会の資本主義・競争主義の影響を受けて、「親だから当然」とか、「他の親もしていること」として、多大な恵みがあっても感謝せずに、してもらっていないことばかりを見て不満を抱くことが多い。また、他の親と比較して、自分の親がしてくれたことが少なければ、親の抱える事情・困難は考えずに、恨みさえする場合もある。

       一方、自分では、「親のために、こういったことをしてあげたはず」と思っていても、客観的には、それは自分のためにしていることも多い(例えば親の言うことを聞いて勉学に励んだことなど)。また、迷惑をかけたことは非常に多いが、それも「親だから」として自覚がないことが多いものである。

       しかし、こうした親の労苦は、実際に自分が親側の立場に立って見るならば、相当なものであることが、容易にわかるものばかりである。一般に、出産=死の危険、乳幼児期の24時間の拘束、20年にもわたり、休日がなく年中無休で、毎日の衣・食・住や、勉学・教育の機会から、精神的なフォローまで、物心両面にわたる無償の奉仕など、そのすべてが大変な労苦である。

       よって、内観では、「親だから」という固定観念や、他の親と比較するといったことを排除して、偏差値・相対評価ではなく、絶対値で、事実として、親にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出すのである。

       言い換えれば、人は、現代社会の風潮の中で、親をはじめとする他人について、気づかないうちに、偏った甘えた自己中心的な視点から見ている可能性が高い。そして、親以外の他人にも同様の精神的な傾向が生じる。そこで、内観は、そういった偏り・ゆがみを排除し、公正公平な視点から、親をはじめとする他人を評価する訓練ということができると思う。

     

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  • 総合解説:感謝の瞑想・仏陀の覚醒の扉

    以下のテキストは2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成:長寿社会の新しい生き方 感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1.仏陀=目覚めた人とは?

    仏陀とは、サンスクリット原語で目覚めた人という意味である。仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))において、自分の教えは、人の眼を開き、理解を生じさせ、正しい智慧、心の静けさ、涅槃、悟りの境地などを与えるとした。こうして、仏陀とその教えの本質は、人の精神的な覚醒と深く結びついているのである。

    さて、この仏陀の言葉にも出てくる智慧とは、仏陀の極めて重要な特性であり、物事を正しく見る力という意味がある。正しく見るとは何かといえば、仏陀の説いた縁起や空の道理に基づいて物事・世界を見る高度な認識力などと解説される。これをわかりやすく言い換えれば、物事の全体を見ること、心の視野を拡大することともいうことができる。

    これと関連して、仏典には、仏陀の意識は、世界の全ての時空間と合一しているという表現もある。また、有名な観音菩薩の別名を観自在菩薩ともいい、観察が自在という意味であり、特に千手観音とは、無数の手を持ち、その全ての手には目があって、世界全体を自在に観察することができる存在であることを示している。

    物事の全体を見て、心の視野が拡大し、究極的には、意識が世界の全時空間に合一した結果として、仏陀は、全ての存在が無常であること(諸行無常)、全ての事物が無我であること(諸法無我)、万物が相互に依存しあっていること(縁起・相(そう)依(え)性(しょう)縁起)、万物が固定した実体を持たないこと(一切皆空)、万物が自分だけで他から独立して存在しないこと(無(む)自(じ)性(しょう))といった法則を見出し、万物を愛する大慈悲に目覚めたという。そして、こうした目覚めに至る一つの具体的な道・瞑想法が、以下で述べる感謝の瞑想である。


    2.心の視野を拡大すると、自分の幸福と他者への愛に目覚める

    普段の我々は、心の視野・視点が、今の自分を中心とした世界に限定されている。これを先ほど述べたように、大きく広げてみるとどうなるか。自分だけでなく、日本全体、世界全体に広げ、さらには、人間だけでなく全ての生き物・自然に広げて地球全体、宇宙全体に広げてみる。

    また、今だけでなく、自分が生まれた時、近代・中世・古代に遡り、数万年といわれる現生人類の歴史、39億年前に遡る生命全体の歴史、46億年の地球の歴史、130億年を超える宇宙全体の歴史を遡ってみる。

    すると、全ての生命体の中から、人間に生まれたこと、しかも、21世紀の人間に生まれたこと、さらには、安全・長寿・豊かさの三拍子そろった先進国の日本に生まれたことは、とてつもなく幸運であったことに気付く。世界の全時空間の全ての生命体の中から、21世紀に日本人に生まれる偶然の確率は、とてつもなく僅かであり、全く奇跡的なことである。

    普段の我々は、「自分がすでに得ているものは当然である」という思い込みがあって、意識が今の自分の近くだけに制限されていて、世界全体の視野・視点から自分を見ることがないために、自分たちが得ている大変な幸福・幸運に気づいていないのである。

    しかし、人間以外の生き物は、衣・食・住が確保されておらず、天敵がいるために絶えず脅かされており、家畜のように人に殺されるために育てられるものもいる。そして、様々な苦しみがあっても、その原因と解決法を考えることができず、生まれてから死ぬまで同じような苦しみを、ただただ繰り返し経験して、死んでいかなければいけない。すなわち進歩することがない。仮に、人間がこうした状態に陥るならば、それは絶望的な人生として認識され、自殺に至る可能性も高いだろう。

    にもかかわらず、実際を見れば、人間に比較して、他の生き物の数は圧倒的に多い。仏陀が、人間に生まれる者の数と、他の生き物に生まれる者の数を比較して、後者を夜空に見える星の数、前者を昼間の空に見えるか見えないかの星の数にたとえた有名な説法がある。

    さらに我々は、多くの人類の中で、21世紀の人類という、人類史上もっとも恵まれた人類の社会に生きている。現生人類は数万年の歴史があって、これまでに数百億人~数千億人が生まれたといわれているが、現在の21世紀の人類の総人口は70億人とされ、先進国の人口となると10億人前後となる。

    しかし、現在、私たちが自分の部屋の中と外で目にする様々な文明の利器のほとんどは、近代の科学技術や産業革命によるものであり、それ以前には存在していなかった。厳密にいえば、100年前にも存在したものも、ごく一部である。インターネットの大衆化やスマホの普及などと言えば、10年から20年の歴史しかない。こうして、我々が今、自分の周囲、あたり一面に目にするものは、人類数万年の長きにわたった先人たちの血と汗の結晶の産物であって、大変な恩恵といわなければならないのではないだろうか。

    さらに、それらは、先人からの恵みであるだけでない。我々の毎日は、現在を生きる多くの人々、他の生き物、空気や水を含めた地球の生命圏と、それを支える太陽系・銀河系といった宇宙のシステムに基づいて存在している。こうして、我々の得ている大きな幸運と恩恵は、宇宙の万物に支えられているものだということができる。

    こうして、心の視野を広げるならば、自分たちの得ている膨大な幸運・恩恵・幸福と、それを支える万物への感謝=愛に目覚めることができる。言い換えるならば、仏陀とは、自分が非常に幸福である事実と、それを支える万物に対する感謝に目覚めた者ということができる。


    3.苦しみの恩恵にも目覚める

    さらに、自分たちの得ている膨大な恩恵に気付くならば、普段経験して嫌がっている様々な苦しみにも、貴重な恩恵があることに気付く。普段の我々は、膨大な恩恵に気付かず、感謝もない。そればかりが、まだ得ていないものや、少し前に得ていたものを失ったことに対する不満・怒り・後悔などが多い。そして、自分より持っている者への妬み・怒り、自分より恵まれていない者への驕り・蔑みなどもある。これは、自分たちが得ている膨大な恵みに気付いて感謝して足るを知ることがなく、際限のない欲求=貪りに陥っていることによるものである。

    そして、重要なことに、こうした心の働きが、逆に自分たちを不幸にしている。「もっともっと」と求めても得られずに苦しむ、得ていたものを失って苦しむ、求めて奪い合うことによって苦しむといったことである。

    こうして見るならば、我々が普段経験している苦しみというものは、我々の際限のない欲求・貪りの過ちに気付くことを促すものと考えることができる。たとえていえば、貪りのもたらす苦しみは、貪りから離れる愛のムチ、口に苦い良薬であり、脱却のための試練である。酷い悪夢にうなされている者の目を覚ますために、その顔を叩くようなものである。

    仏陀の教えには、苦しみの経験があってこそ正しい教えに心が向かうという趣旨のものがある。仏陀と自分の父母に加えて、苦しみを与える敵対者を含めた三者に対して礼拝するように説く教えもある。さらにいえば、自分の経験する苦しみこそが、同じような苦しみを経験する他者に対する優しさ・慈悲の心の源にもなる。こうして苦しみは、我欲を離れて慈悲を持つことに導く側面がある。仏陀の教えでいえば、苦の裏に楽があるという、苦楽表裏の教えである。


    4.他者への慈悲、自分の罪に目覚め、慢心を和らげる

    また、こうして心の視野が広がって、感謝の心が広がり深まるならば、自分よりもはるかに恵まれておらず苦しみの多い者が無数に存在する事実も、認識するようになるだろう。自分が際限のない欲求・貪りに陥っている間は、不満と妬みばかりが生じて、他者の苦しみなどは気に留めることはできないが、それから解放されるならば、苦しむ多くの者の存在に気付くことになる。

    さらには、自分の毎日が、そうした他の生き物の苦しみ・犠牲の上に成り立っていることも理解される。例えば、私たちは、毎日の糧を得るために、動物にしても植物にしても、他の生き物を殺さなければならない。仏教では、これを人間が避けることができない悪業として宿業(宿命(しゅくみょう)の業)などということがある。人間の世界で、どんなに偉そうにしている者であっても、自分たちよりも苦しみの多い生き物を犠牲にしなければ、一日たりとも生きていくことができない存在なのである。

    これに関連して、「感謝」という言葉が、偶然にも「謝罪を感じる」と書くものであることは意味があると思う。感謝とは、自分の幸福が全て、なにかしらの他者の労苦・犠牲に支えられたものであることを認識することであるとするならば、その意味で自分の罪の事実を感じることを含んでいるものだろう。

    また、普段は、非常に簡単に他人を嫌悪して批判するが、実際には自分が嫌うタイプの人たちにも支えられながら、私たちは生きている。現在の非常に便利な都市社会は、非常に高度な分業によって成り立っている。それはグローバル経済の中で、地球の隅々の国々・人々まで巻き込んで存在している。その中には、自分が嫌悪したり見下したり馬鹿にしたりしている人たちも含まれている。こうして、自分が好きな人、嫌いな人の双方を含めて、実際には、全ての人が、全ての人と支えあっている。どんな人間も、自分だけの力で生きることや、自分が好きな人間だけの間で生きることなど到底できていないのである。

    突き詰めれば、自分自身という存在自体が、自分で作ったものではなく、父母をはじめとする先祖・先人、他の親族、学校の教師・友人、会社の先輩・同僚を含めた友人知人の労苦・犠牲によって支えられて育まれてきたものである。自分に何か良いところがあったとしても、それが全て自分の努力のみで得られたということはあり得ず、他者の労苦・犠牲を伴う幸運に支えられたものであることに気付く。万物は相互依存であることに気付く。

    こうした気づき・目覚めは、慢心を解消する。また、慢心とともに、自と他を区別して、優劣を比較することによって生じる卑屈・妬みといった心の働きも、和らげることになる。


    5.恩返しの心に基づく真の慈悲に目覚める

    さて、大乗仏教の教義においては、こうして万物への感謝・愛を深めて、その恩に報いるために、全ての生き物を利する実践=菩薩道に入ることを説く。すなわち、仏陀・菩薩の利他心とは、自分を悟った者として、上から目線で、他の人々・生き物を救ってやろうという心の働きではなく、全ての人々や生き物を自分の恩人と見て、その恩に報いるための恩返しとして行われる純粋性を有している。

    そのために「因果の七つの秘訣」などの大乗仏教の瞑想では、①全ての生き物を恩人であると瞑想し(知恩)、②その恩に報いようとする心を培い(報恩)、③恩人が苦しんでいることに慈悲を持ち、④その苦しみの解消のために、自分が仏陀の境地に到るための菩薩道の修行に入ることを決意する(発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん))といった瞑想を行う。


    6.万物一体の悟りに目覚める

    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別して自分だけに愛着する心の働き(自我執着)が和らぐと、怒りなどを含めた全ての煩悩の根源が和らぐことになる。安定して静まった広がった心の働き(大慈悲)が生じることになる。

    こうして、以上をまとめてみると、心の視野を拡大して感謝の瞑想をするならば、①自分の膨大な幸福に目覚め、②それを支える他者・万物への愛に目覚め、③自分の苦しみの裏側にある恩恵にも目覚め、④自分より遙かに恵まれない無数の他者への慈悲に目覚め、⑤自分の幸福が他者の犠牲・労苦に基づいているという自分の罪に目覚めて慢心が和らぎ、⑥謙虚な恩返しの心に基づく真の利他行に目覚め、⑦万物一体の悟りに目覚めて、全ての煩悩の根源である自他の区別・自我執着が和らぐことになる。

    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別する心が和らぐと、怒りなどを含めた、全ての煩悩の根源が和らぐことになる。


    7.感謝がもたらす様々な幸福

    感謝の瞑想は、これまでに述べたように、心の幸福・浄化・安定・広がり・愛をもたらすが、他にもさまざまな恩恵がある。

    まず、安定した広い心が得られれば、物事を正しく見る智慧が生じる。心の安定とそれによる集中こそが、物事を正しく見る力をもたらすからである。これは、仏教の「止観」と呼ばれる教義である。止観とは、心が静まって静止するならば、物事を正しく見る(観る)ことができるというものである。

    そして、逆もまた真であり、物事を正しく見るならば、心は静まるということでもある。止が観をもたらし、観が止をもたらす、循環する。なお、止観の別の表現は、禅定と智慧である。禅定(瞑想による心の安定)によって、智慧(物事を正しく見る高度な認識力)が生じるといわれる。
    さらに、感謝の瞑想は、心身の健康を増進する。すでに多くの医学的な調査・研究において、感謝をはじめとする前向きな感情が、免疫力の向上に役立つことが確認されている。一方、ストレスが免疫力を弱めることをはじめとして、感謝とは反対に、不満・怒り・焦り・争いといった否定的な心の働きや行動は、免疫力を弱め、健康を損なう。

    また、感謝と恩返しの心の働きと行動は、当然であるが、人間関係を改善することは疑いがない。意識して感謝の瞑想と実践をしなければ、我々の日常は、際限なき欲求によって、感謝よりも不満が多く、愛・恩返し・分かち合いよりも、怒り・憎しみ・奪い合いが多いかもしれない。

    そして、昭和の稀代の実業家の松下幸之助は、少人数を動かす場合は、支配・命令・処罰などでも可能だが、大勢の人を動かす場合は、感謝・尊重の心が必要だと述べている。すなわち、感謝は、感謝された人の意欲を増大させ、活性化するのである。


    8.日常生活の感謝の瞑想① 朝の瞑想

    感謝の瞑想に限らないが、日常生活の中で瞑想を組み込む上では、朝起きた後と、夜寝る前の瞑想は有効である。朝起きた時は、人はどうしても、それまでに培った精神的な傾向として、際限なく求める心の働きと、それによる不満・怒りが生じやすい状態にある。よって、その日の仕事や勉強を始める前に、感謝の瞑想によって、そうした心の働きを和らげ、その日をより良い心の働きと行動をもって過ごすことができるようにすることが望ましい。

    もちろん、仏陀の教えを絶えず思念することを説く仏教の正念の教えからすれば、一日中絶えず感謝の瞑想をするべきであるが、それは現実には不可能であるから、まず朝に行って、その日一日のために、良い流れを作るということである。そして、その後も、仕事や勉強の合間を見て、ごく短い間でも、感謝の瞑想をすることができれば理想ではないかと思う。


    9.日常生活の感謝の瞑想② 夜の瞑想

    夜寝る前の瞑想は、心理学的にも効果が高いというデータがある。夜寝る前に、感謝の瞑想などで、不満・怒り・妬み・不安などを和らげておけば、心が落ち着き、心身がリラックスして、熟睡する助けになる。

    現在、睡眠不足・睡眠障害に悩む人が増えている。不安や緊張が強かったり、運動不足だったりすると、睡眠を妨げる。そこで、夜寝る前に、例えば、適度なヨーガ体操などの運動をした後に、感謝の瞑想をして心を静めることは、良い睡眠の助けとなり、疲労回復などをもたらし、健康のためにも重要である。

    また、睡眠の時間は、人生の3分の1から4分の1を占めるものである。よって、その質を高めることは、仏教・ヨーガの悟りの視点からも重要であり、夢を活用した瞑想修行もある。具体的には、睡眠の前に、一定の身体行法や感謝などの瞑想で、心身を浄化するならば、煩悩が静まった状態で睡眠に入ることができ、それ自体が良い瞑想状態ということができる。


    10.食事での感謝の瞑想

    食事とは、前に述べたように、他の生き物の犠牲であるから、感謝の瞑想を行う上で非常に重要な時である。具体的には、食事を始める前に、簡単に感謝の瞑想を行う。手を合わせて「いただきます」と言う時には、犠牲となった生き物に対して、その身の供養を感謝をもっていただくと考える。

    そして、感謝に基づく恩返しとして、その食事で得た栄養・エネルギーを無駄にせずに、なるべく良いことをすることを誓う(誓願する)。これは、前に述べたように、人が生きていく上では、他の生き物を犠牲にするという宿業があるが、それを相殺するように善行を積むという意味合いがある。こうした瞑想は、感謝の心とともに、謙虚な心と善行を行う精神を培うことを助けることになる。最後に、天寿を全うして死ぬことは、これまで他者からいただいたもので作っていた自分の身体を他者・自然に返して、それまでのお返しをする意味合いがあることを考えるとよいだろう。
    さらにいえば、人が生きるということは、他者の死とセットであり、他者から生命・体をもらうこと、他者の体が自分の体になることである。また人が死ぬということは、他者の生とセットであり、自分の体が他者の体になっていくことである。

    こうして、自己の生と他者の死はセットであり、自己の死と他者の生はセットであり、この地球の生命圏においては、生と死はセットであり、死ぬ者がいるから生きる者がいて、その意味でも万物が相互に依存し合って一体となって存在しているのである。こうしたことを瞑想することは、感謝に加えて、万物相互依存・万物一体の悟りを深めていくことになるだろう。


    11.ひかりの輪の三悟心経の感謝の読経瞑想

    ひかりの輪では、現代人のための仏教的な悟りを促す読経瞑想(三悟心経)がある。具体的には、

    ①万物を恩恵と見て万物に感謝する(万物恩恵・万物感謝)
    ②万物を仏と見て万物を尊重する(万物仏・万物尊重)
    ③万物を一体と見て万物を愛す(万物一体・万物愛す)

    というものである。

    一つ目の「万物恩恵・万物感謝」の瞑想に関しては、すでに詳しく説明したとおりである。二つ目の「万物仏・万物尊重」の瞑想は、慢心を避けて謙虚さを培う瞑想である。前に述べた通り、人は、他の生き物の命の犠牲がなければ生きることさえできないのに、感謝の心を忘れているどころか、無意識的に人間として他の生き物を見下している。

    しかし、人間は、他の生き物の上に立っているようで、多くの場合において、他の生き物よりもはるかに悪いことをする場合がある。すなわち、人間は他の生き物より、力は上であるが、行いにおいて優っているとは必ずしもいえない。

    多くの動植物が自然の摂理の中で調和を保って存在しているのに、人間は、際限のない欲求による資源消費や自然破壊を行い、飢えてもいないのに戦争という同じ種の間での大量の殺し合い・共食いを行うことさえあり、見方によっては、地球生命圏における害悪の一面さえある。

    よって、意識して慢心に陥ることを避けるように努めて、自分の周りの他の生き物、他の人々、他者・万物を見るならば、それらが様々な意味で教師・反面教師として学びの対象に見えてくる。これが万物を学びの対象・導き手と見る謙虚さを培い、慢心を乗り越える、万物仏・万物尊重の瞑想である。

    三つの目の「万物一体・万物愛す」の瞑想に関しては、食事の瞑想のところでも話したように、この世界の万物が相互に依存し合って一体となって存在しているという視点に基づいている。自と他を区別して、自己だけに過剰に執着するのではなく、自他を含めた万物を一体とみなして、万物を愛する大きな心を培うということである。


    12.瞑想を助けるヨーガ・仏教の基本的な教え

    さて、感謝の瞑想を含めて、瞑想を行う前の準備について述べたいと思う。もちろんこれは、時間がある場合であって、時間のない場合は、こうした準備をすることなく、瞑想をして構わないと思う。

    まずは、瞑想の際に自分の身を置く環境を浄化して整えることである。自宅ではなく、豊かな自然・神聖な波動を持つ聖地などに行くことができれば理想であるが、自宅で行う場合の工夫に関して述べる。

    まず基本は、部屋の整理整頓をして換気を行う。ヨーガや道教の思想でいえば、自分の体の外の「気」(目に見えないエネルギー)を整えることになる(外気を整える)。この際、部屋に、見ると心が静まる仏画や自然の写真、聞くと心が穏やかで前向きになる類の瞑想音楽や、ある種の仏教の法具が奏でる聖音、ストレス解消やリラックス効果がある瞑想用のお香などがあれば、理想である。

    次に、適度な運動を行って体をほぐす。例えば、ヨーガの体操(アーサナ)や気功法がある。これは、体の筋肉や関節をほぐして、血流や気の流れを改善する効果があり、それによって精神状態の安定にも繋がる。

    次に、正しい姿勢と呼吸法である。姿勢は原則として、背筋を伸ばして肩の力は抜く。こうすれば、血流がよくなり、精神に深く関係する脳や腹部の血流も改善する。足の組み方(座法)は、蓮華座や達人座のようなヨーガ・仏教の専門の座法が組めなくても、安定したものであればよい。
    なお、手は、様々な組み方(手印)があるので機会を改めて解説するが、左手の上に右手を乗せるのが、定印といわれる仏陀の瞑想を象徴する手印であり、心を安定させ、気の流れを整えるために有効だと思われる。

    最後に、呼吸法に関しては、基本的に腹式呼吸で行い、息の出し入れは、口ではなく鼻から行う。ヨーガの呼吸法は、体操(アーサナ)とともに様々なものがあるので、その詳細については、ひかりの輪で発刊している『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。


    13.読経瞑想時の3つのポイント:三密加持

    さて、瞑想を行う際には、姿勢と言葉と意識の3つに注意することが重要である。まず姿勢は、先ほど述べた通り、背筋を伸ばして肩の力を抜き、安定した座法で座って、手印を組む。言葉の修行とは、読経や真言の念誦のことである。

    そして、非常に重要なことが、その際の心の持ち方である。単純に読経・真言念誦をしても、その教えの意味を考えたり、それに関するイメージを持ったりするように努めなければ、効果は薄くなる。場合によっては「馬の耳に念仏」というように、口で唱えてはいるものの、その教えが心・頭には入っていかないことになりかねない。例えば、前に述べた「三悟心経」の場合は、その経文が説く世界観を実感できるような思索・イメージを行うことが望ましい。

     

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  • 人類社会の周期説の総合解説:歴史は繰り返すか

    以下のテキストは、2020年夏期セミナー特別教本『新型コロナ問題と免疫力の強化 文明周期説と循環の法則』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.はじめに

    本章では、一部の社会学者・歴史学者が主張する人類社会の周期説に関して、なるべく総合的に解説したい。ここでの周期説は、いわゆる「歴史は(形を変えつつも)繰り返す」という類のものである。

    広くいえば、周期説は、毎日昼夜を繰り返す、毎年四季を繰り返すといった、天体現象による科学的な根拠が明確なものもあるが、ここで扱う、主に社会学・歴史学の周期説は、そうした根拠は不明ないしは不十分なものであり、科学的な根拠のない経験則の範囲を出ない。

    しかしながら、過去の体験から未来を予想して備えるのは人間の常であるから、人類社会を理解し、未来に備える手助けになる可能性があると考えて紹介する。

      

    2.日本社会の大変動の80年周期説

    第5代気象庁長官だった高橋浩一郎氏(1913~91)は、その著書『気候変動は歴史を変える』(1994年刊、共著、丸善)のなかで、日本は80年ごとに大変動に見舞われると指摘した(※参考文献1)。例えば、1620年の江戸幕府の確立を起点と考えるなら、1700年は享保の改革、1780年は寛政(かんせい)の改革、1860年は幕末、1940年の戦争の時代ということであり、詳細は下記の通りである。

    なお、参考文献1は、2018年に公表されたもので、2020年の大変動を予期しているが、当然新型コロナ問題を予見はしていない。

     

    中心年

    日本

    海外

    1620年

    1615年:大坂夏の陣→豊臣家が滅び江戸幕府が固まる

    1620年:宗主国スペインの金融危機で伊ジェノアの低金利が終焉

    1700年

    1703年:江戸大地震

    1707年:イングランドとスコットランドが合併

    1707年:宝永大地震、富士山噴火→元禄時代の終わり、享保の改革へ

    1780年

    1783年:浅間山噴火、天明の大飢饉→寛政の改革(1787年)へ

    1775年~83年:米国独立戦争

    1783年:アイスランド・ラキ山噴火、1789年:フランス革命

    1860年

    1853年:黒船来航、1854年:安政東南海地震、1855年:安政江戸地震

    1853~56年:クリミア戦争→ロシア農奴解放など近代化

    1868年:明治維新

    1861~70年:イタリア統一戦争

    1861~65年:南北戦争→奴隷制廃止

    1870~71年:普仏戦争→ドイツ統一、フランス第三共和政に

    1940年

    1931年:満州事変、1937年:日華事変、1941~45年:太平洋戦争

    1933年:ルーズベルト政権、ヒトラー政権が誕生

    1939~45年:第二次大戦

    1950~53年:朝鮮戦争

    2020年?

    2011年:東日本大震災

     

     

    80年周期といっても、実際にはプラスマイナス10年くらいの幅・期間があり、80年とは、その中心くらいと考えるべきという見解がある。

    また、享保の改革(1716年)、寛政の改革(1787年)、幕末も、天変地異が関係している。享保の改革では、富士山の噴火と宝永地震(ともに1707年)、寛政の改革では天明の大飢饉(1783年)が、災害の影響で逼迫した幕府財政を再建する政策に結び付いた。幕末も、1854年に安政東海地震と安政南海地震、その翌年に安政江戸地震が発生し、これに黒船来航が加わって、同様に幕府の財政も破綻している。

    なお、1460年代の応仁の乱(1467年)、1540年代のポルトガル商人の種子島漂着と鉄砲伝来(1543年)も付け加えると、「80年周期の大変動」はさらに遡ることができるという見方もある。

     

    ※参考文献1

    https://business.nikkei.com/atcl/report/15/226265/092600296/

      

    3.米国でも注目される80年周期説

    さらに、この80年周期説は、日本のみならず海外にも当てはまるように見える。米国では、1780年の前後に独立戦争(1775~83年)があり、その約80年後の1861年~65年に南北戦争があり、そのちょうど60年後に日本等と戦った第二次世界大戦があり、今年2020年は新型コロナパンデミックが発生した。そして、新型コロナでは、米国が最大の被害国となり、トランプ大統領らは、ウイルスとの戦い、第三次世界大戦などと解釈し、国防省は戦時体制を取っているともいわれる。

    そうした中で、米国でも、今80年周期説が注目を集めている(※参考文献2)。米国の80年周期説も、日本と同じように以前から唱えられていたそうである。そして、トランプ政権を初期に支えたスティーブ・バノン氏や、共和党有力政治家のニート・ギングリッチ氏が傾倒していたという。それが、今年になってコロナパンデミックが起こって、有力メディアで再び注目されることになった。

    米国の80年周期説の支持者の中では、今回2020年は、合衆国の4回目の大転機「4th Turning」と呼ばれているという。それは、国難を伴う転機なので、今年になるまでは、不吉で非合理的な予言として、忌み嫌う人が多かったという。

    すなわち、1780年代の独立戦争(日本は「寛政の改革」)、1860年代の南北戦争(日本は幕末明治維新)、1940年代の第二次大戦、そして、今年2020年のコロナパンデミック以降というように、ほぼ80年周期で大きな転機・国難と、その後の大きな発展があるというのである。そして、バノン氏などによれば、今度は中国を打ち破って、米国がさらなる発展を遂げる転機と解釈するらしい。

    また、2020年の大統領選は、非常に重要な意味を持つらしい。ここで大統領を出した政党が、過去の歴史・周期説によれば、向こう50年ほど支配的になると推測されるからだそうだ。例えば、第二次世界大戦以来の民主党や、南北戦争以来の共和党のように。

    なお、今はトランプ大統領をはじめ、白人優先の共和党だが、実は黒人奴隷解放のために南北戦争を戦ったリンカーン時代の共和党は、黒人解放を掲げたリベラルな政党であり、米国を主導したが、第二次大戦後は民主党に主導権を奪われる形となったという。

    このように、どの集団・どの国が一時、統治者・主導者となろうと、時代とともにその性質は変わり、そして統治者・主導者も変わる。仏陀の説いた諸行無常・盛者必衰は、どの国にも当てはまる不変の法則・道理であり、社会学の周期説も、無常の法則の一環だと思う。

     

    ※参考文献2

    https://toyokeizai.net/articles/-/356585

    https://www.nytimes.com/2020/05/28/us/politics/coronavirus-republicans-trump.html

      

    4.欧州にも80年周期があるか

    欧州でも、1780年前後に、世界史上の一大転機であるフランス革命(1789年)と、その一因となったアイスランドのラキ火山の噴火(1783年)による飢饉があった。

    1860年前後は、1853年にクリミア戦争(敗れたロシアは農奴解放などの近代化に着手)、1861年にはイタリアが、国家統一を果たし、1870~71年の普(ふ)仏(ふつ)戦争では、勝利したプロシア主導でドイツは、国家統一を果たし、破れたフランスは、ナポレオン3世が失脚して帝政から共和制に移行した。こうして、1860年を挟んだ前後10年の間に、多くの欧州国家が近代国家に脱皮したが、米国も同時期の南北戦争を経て奴隷制が廃止となっている。

    次の1940年を挟んだ前後10年間は、1937年に始まった日中戦争と、ナチス・ドイツのポーランド侵攻が口火を切った1939年からの欧州の戦争があった。これは当初、別々の戦争であったが、最終的には、米国をも巻き込んだ世界大戦となった。

      

    5.2020年と80年周期説

    こうして80年周期説を知っている人は、今年2020年の大変動を以前から予想していたのであるが、実際に新型コロナのパンデミックが発生する事態に至った。80年前の1940年は第二次世界大戦の直前・前年である。そして、安倍首相は、新型コロナ問題の発生に伴い、ジャーナリストの田原総一朗氏に「第三次世界大戦は核戦争だと思っていたが、この新型コロナウイルスが第三次世界大戦だった」と漏らしたという。

    また、新型コロナの陰に隠れているが、東京五輪の延期も、80年周期の現象ということができる面がある。というのは、80年前の1940年にも、東京五輪が日中戦争の膠着(こうちゃく)のために中止(日本政府が返上)になっている(※参考文献3)。

    しかも、その日中戦争の膠着の原因は、1938年の「武漢」での作戦とされる(※参考文献4)。80年の時を経て、同じ武漢での出来事で東京五輪が中止ないし延期になったということならば、偶然であっても、あまりにも不幸な繰り返しである。なお、この東京五輪の延期も、80年周期説の視点から、今年になる前から一部でその可能性が指摘されていた(※参考文献5)。

     

    ※参考文献3:東京五輪
    https://ja.wikipedia.org/wiki/1940%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

    ※参考文献4:武漢作戦
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E4%BD%9C%E6%88%A6

    ※参考文献5:2020年の東京五輪の延期・中止の予言

    https://lite-ra.com/i/2015/09/post-1456-entry.html

    https://ameblo.jp/takejiro100/entry-12541051596.html

      

    6.近代日本社会の80年周期説

    そして、この80年周期説に関しては、中心年の2020年、1940年、1860年などの前後だけでなく、日本の近代の歴史の全期間において80年の周期が見られるという見解もある(※参考文献6)。その一部を紹介すると以下のとおりである。 

    1868年:明治維新 → 1945年:第二次世界大戦敗戦

    1877年:西南戦争・官僚制開始 → 1955年:自民党政権発足 

    1912年:大正に改元 → 1989年:平成に改元

    1914年:桜島が破壊的大噴火 → 1991年:雲仙普賢岳で大噴火 

    1915~1919年:第1次大戦バブル → 1985~1989年:平成バブル

    1920年~:大正バブル崩壊~昭和金融恐慌 → 1990年~:平成バブル崩壊~金融不安 

    1923年:関東大震災 → 1995年:阪神淡路大震災

    1929年:世界恐慌 → 2008年:リーマンショック 

    1933年:昭和三陸地震の津波 → 2011年:東日本大震災による津波

    1940年:東京五輪の中止 → 2020年:東京五輪の延期  

    1941年:太平洋戦争開始 → 2020年:新型コロナパンデミック

     

    ※参考文献6

    https://ameblo.jp/takejiro100/entry-12342950675.html

    https://ameblo.jp/takejiro100/image-12598900551-14762857139.html

    http://www.fukkatu-nagoya.com/book/80nensyuki-mokuji.html

    http://www.fukkatu-nagoya.com/book/80nensyuki-mokuji_files/80nen-shuki.pdf

     

    7.80年周期説の背景にある社会構造 

    米国では、80年周期説の背景に、軍事専門家で評論家でもあるマイケル・ホプフ氏が著書で紹介した「人間社会の4サイクル」が内包されているという。その4サイクルとは、以下のとおりである(前出の※参考文献2参照)。

    1 HARDTIMES CREATE STRONG MEN(苦しい時代は強い人間を生む)

    2 STRONG MEN CREATE GOOD TIMES(強い人間は楽な時代を生む)

    3 GOOD TIMES CREATE WEAK MEN(楽な時代は弱い人間を生む)

    4 WEAK MEN CREATE HARD TIME(弱い人間は苦しい時代を生む)

     

    この4つのサイクルの1つの期間が、人間が成人する20年であり、1つの世代の傾向を形成する期間だとすると、4サイクルで合計80年の周期になる。

    なお、日本の80年周期説の支持者も、似たようなことを主張する人がいる。その場合は、親子三代のサイクルが80年というものである。初代が苦労して大成し、二代目がそれを維持するが、甘やかされて育った三代目でつぶれるという経験則である。これが社会全体にも当てはまるだろうというのである。

    また、日本にも、この80年周期を4つのサイクルに分けて、それぞれ20年単位の社会の再生・成長・停滞・破壊の循環があると説くものもある。

     

    8.もう一つの近代日本の周期説:60年周期説 

    哲学者の柄谷(からたに)行人(こうじん)氏(元法政大学教授)などが、近代日本社会の60年周期説を唱えた(例えば「歴史と反復」『定本 柄谷行人集5』)。その後、社会学者の大澤真(ま)幸(さち)氏(元京都大学教授)なども同様の主張をしている(※参考文献7)。

    そして、下記の表は、柄谷氏の60年周期説に基づいて、日露戦争後の「明治」と「昭和」の反復構造を再整理したものであり、同氏と対談した際に高澤秀次氏(現苫小牧駒澤大学教授)が2008年6月に作成したものである(※参考文献8)。

     

    明治日本と昭和戦後の歴史的反復(60年周期の再現前) 

    1905:日露戦争終結(ポーツマス条約) → 1965:日韓条約調印(韓国進出の契機)

    1906:満鉄設立(金融資本大陸進出) → 1967:資本自由化・GNP世界3位 

    1907:足尾銅山・暴動罷業 → 1960年代後半:公害社会問題化(水俣)

    1908~11:第二次桂太郎内閣とアナキズム → 1967~70

    第二次佐藤内閣と全共闘運 

    1909:自由劇場起こる(新劇) → 1969:アングラ演劇運動全盛

    1911:大逆事件・関税自主権の確立 → 1971:三島由紀夫自決・変動相場制に移行 

    1912:明治アナキズムの敗北と啄木の死 → 1971:全共闘運動終息と高橋和巳の死

    1917:石井・ランシング協定  → 1977:日中平和条約・米中国交正常化

    (中国の領土保全・門戸開放)

     

    ※参考文献7

    https://bookmeter.com/books/515246

    ※参考文献8

    http://web.nagaike-lecture.com/?eid=911119

      

    9.オウム事件と9・11テロ事件で再び注目された60年周期説

    そして、この60年周期説は、1995年のオウム真理教事件と、2001年の9・11テロ事件で、あらためて注目されることになった。その事情は、以下のとおりである。

    1935年に、大本教という宗教団体に対する激しい刑事捜査・弾圧事件が起こり、翌年の1936年に、2・26事件という武力革命のテロ事件が起こっている。そして、この2つを合わせて考えてみると、そのちょうど60年後の1995年に、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こっている。なお、2・26事件を起こした青年将校の中には、大本教のシンパが多かったとされ、大本教教祖出口王仁三郎は、天皇に対する不敬罪で逮捕されている。

    また、1941年に第二次世界大戦が始まったが、ちょうどその60年後の2001年に、9・11同時多発テロ事件が起こっている。9・11テロが発生した直後の米国メディアは「2回目の真珠湾攻撃」と騒いだ。これは、イスラム原理主義者の宗教的動機に基づく航空機による自爆テロが、60年前の大日本帝国による真珠湾に対する航空機による奇襲攻撃や神風特攻隊と重複したからだと思われる。

    なお、ジャーナリストの立花隆氏は、9・11テロに結び付くイスラム原理主義者の自爆テロは、元をたどれば、日本赤軍が中東地域で行った自爆テロを、イスラム教徒が見たことがきっかけであるとしている。さらに、9・11テロでは、早朝の大都市で複数の公共交通機関を使用した同時多発のテロが行われたが、その形態が地下鉄サリン事件の形態と酷似していることから、そこから影響を受けた可能性も指摘されており、大日本帝国の対米戦争も合わせて、9・11テロに対する日本の影響が指摘されている。

     

    ※付記 

    柄谷氏は60年周期説を唱えたが、近年は60年周期説を放棄し、120年周期説へと転回したという。その理由として、同氏は、オウム真理教が同氏の60年周期説を見て20世紀末に対米戦争が起こると考えたことが、そのテロ事件につながったという噂を聞き、さらには、そのことを元オウム幹部がHPに書いてあるのを見て、単なる噂ではないと考えたからだとしている(※参考文献9)。

    この元オウム幹部とは、上祐のことだと推察されるが、私たち元オウム信者が柄谷氏や大澤氏の60年周期説を知ったのは、オウム事件の前ではない。オウム事件より後に、オウム事件の反省・総括をした過程の中であり、この点に関する同氏の推測・理解は、誤りである。また、上祐が最初に60年の周期に関心を持ったのは、オウム事件の後に、麻原の世紀末予言が大日本帝国の歴史の60年周期の反復であると自分の中で気づいた時であって、その時もまだ、柄谷氏の60年周期説を知るには至っていない。

     

    ※参考文献9

    http://www.webchikuma.jp/articles/-/486

    「私は90年代になって、徐々に60年周期説を疑い始めたが、それをはっきり放棄するにいたったのは、オウム真理教の事件があったからだ。私はつぎのような噂を聞いた。オウムが事件を起こしたのは、私の反復説を読んだからだ。私の示した明治と昭和の年表を未来に延長すると、1999年には日米戦争が起こる。ゆえに、その前に、行動に移らねばならない。オウムが蜂起を考えたのは、そのためだというのだ(のちに、オウムの元幹部がそのことをウェブ上に書いていたので、たんなる噂でなかったことを知った)。したがって、私は60年周期説を放棄したのだが、そのとき、たんに120年周期で考えればよいのだ、ということに気づいた。その意味で、現在を新自由主義=新帝国主義としてとらえる私の見方も、95年に始まったといえる。」

    (『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』に関する柄谷行人氏の自著解題をPR誌「ちくま」2月号より掲載したもの)

      

    10.60年周期説の背景となった文化や社会構造

    60年周期説には、いろいろな背景がいわれている。そもそも日本・中国の文化には、干支60年の伝統文化がある。また、60年は明治などの近代日本人の平均寿命に近い。よって、一世代を経て、過去と似た過ちと成功を繰り返すのではないかという説もある。

    なお、干支60年は、古来中国において、木星の公転が約12年であることが知られており(正確には11.86155年)、古代中国の天球分割法である「十二次」を司る最も尊い星として「歳星」と呼ばれていたことと関係があるという説もある。12の倍数が60であるからだ。古代バビロニアでも、木星は神マルドゥクと同一視され、木星の黄道に沿う約12年の周期を用いて黄道十二星座の各星座を定めていた。こうして、12は占星学の基本数になっている(※参考文献10)。また、前述の120年周期説も、まさに12の倍数である。

    また、木星に次いで太陽系の中で大きな惑星の土星は、公転周期が約30年(正確には29.53216年)であり、木星の12年と土星の30年の最小公倍数が、60年であることが関係しているという説もある。一部の占星学では、木星と土星という太陽系の中の最大の惑星の影響を重視する思想がある。なお、一部には60年周期説の半分の30年周期説や、80年周期説の半分の40年周期説を主張する人もいる。

    なお、中国には「中国が2020年にひどい目に遭うのは天命だ」という説があるという(※参考文献11)。2020年は干支60年の中の庚子(かのえね)の年であり、庚子の年には、中国には大乱が起こるという。具体的に庚子の年の中国に、過去に何があったかというと以下の通りである。

     

    1840年 アヘン戦争(イギリスにひどい目に遭わされた)

    1900年 列強8カ国による北京進撃(列強にひどい目に遭わされた)

    1960年 毛沢東の大躍進運動による大飢饉(毛沢東にひどい目に遭わされた)

    2020年 新型コロナのパンデミックの武漢での発生、及び大洪水

     

    ※参考文献10

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%98%9F

    ※参考文献11

    https://money1.jp/archives/18612

      

    11.複数の周期の存在は矛盾ではなく、波のように重なり合うという考え

    ここで80年や60年といった複数の周期があるのは、矛盾ではないかという見方があるかもしれない。しかし、この周期説は、定期的に繰り返される波と同じように考えることができて、物理的な波と同じように、複数の波を総合して見ることができるのではないかという考え方がある。

    すなわち、2つの異なる周期の波がある場合は、その両者の波が共に高くなったり低くなったりする時を「両者の波が共振する」というが、その時は、波はいっそう高くなったり低くなったりする。よって、共振する時は、現象がより明確に起き、逆に両者の波が相反する時は、現象は不明確になると考えるのである。

    そして、物理的な波だけではなく、経済学の分野でも、好景気・不景気の周期的な循環が複数あるとされている。古典的な景気循環論として、キチン循環(40カ月)、ジュグラー循環(10年)、クズネッツ循環(20年)、コンドラチェフ循環(50年)という4つの周期的な循環があるとされ、ここでも循環は波とも呼ばれる(※参考文献12)。

    この視点から、最後に東京五輪の行方に関して加えておきたい。80年周期説に従うと、2020年東京五輪は、1940年と同じく中止となる。一方、60年周期説に従うと、2024年の60年前の1964年に東京五輪開催に成功している。

    そして、実際に一部の政治家、例えば、古川元国家戦略相(自民党)や、小野泰輔元福岡県副知事・東京都知事選候補者(維新の会)などが、2020年の東京五輪の中止と、2024年への順延を主張している(※参考文献13)。今のところ、安倍政権は、何とか2021年に東京五輪を開催したい意向だと思われるが、今後を注視していきたい。

     

    ※参考文献12

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%B0%97%E5%BE%AA%E7%92%B0

    ※参考文献13

    https://news.yahoo.co.jp/byline/goharanobuo/20200618-00183928/

    https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200608/pol/00m/010/002000c

      

    12.世界文明の800年(1600年)周期説

    日本の文明研究家の村山節(みさお)氏(故人)は、世界史年表を作成する過程で、様々な地域・時代の歴史に共通する、文明の盛衰の周期を発見したと主張し、これを文明法則史学、人類文明800年周期説などと呼んだ(※参考文献14)。

    それによると、①世界各地の文明史には1600年の盛衰周期が存在し、②800年の低調期と800年の高調期に大別でき、両者は文明創造力や社会の活力において大きな差をもち、③1600年を周期として準備→開花→成熟→崩壊の過程を繰り返し、あたかも1600年周期の四季をもつように振る舞っているという。

    さらに、この周期は、東洋と西洋の2系統に大別される二極構造をもっており、両系統は互いに逆位相の関係にあり、一方が低調期の時に他方が高調期となり、世界史は800年毎に文明の交代期を迎える。西の文明は、古代エジプト系統・ヨーロッパ系統であり、東の文明は、西アジア系統・インド系統・中国系統・日本系統を含むという。

    そして、 過去の周期性がそのまま再現されると、21世紀は西の文明が崩壊し、代わって東の文明が夜明けを迎える文明交代期となる。

     

    ※参考文献14:文明法則史学

    http://bunmeihousoku.com/bunmei

       

    13.400年周期説:日本史・大地震や水害・仏教

    また、文明法則史観では、この1600年の周期の下部構造として、より小さな盛衰の周期が、おおむね4回(3~5回)現れ、より細かな周期が並んで登場する場合もあるという。そして、実際に歴史学者の酒井信彦氏(元東大史料編纂所教授)や中西輝政氏(京大名誉教授)は、日本史の400年周期説を唱えている(※参考文献15・16)。

    具体的には、①西暦1600年頃に、関が原の戦い・徳川幕府の開始があり、近代~現代の流れが始まり(首都は江戸・東京である)、②西暦1200年前後に、鎌倉幕府という武家政権が初めて成立して中世が始まり、朝廷や寺社などの勢力が衰え、③西暦800年頃に、平安京に遷都されて、平安時代が始まり、④西暦400年頃に、大和政権が成立したというものである。

    この説の場合も、800年周期説と同じように、21世紀は、時代の変わり目ということになる。加えて、800年が400年のちょうど2倍数であることもあって、400年周期説と800年周期説とを結びつけて解釈する人たちがいる(※前出の参考文献15)。

    さらに、自然科学の分野でも、400年周期説を唱える識者がいる。国立の地球総合研究所の中塚武教授は、大地震・洪水の連鎖が、400年周期で起きるとの調査結果を発表している(※参考文献17)。

    最後に、この400年周期説を、日本の仏教史に当てはめると、①400年頃に、朝鮮等を通して日本に私的に仏教が伝来したと思われ(中国では大乗仏教の翻訳・解釈が盛んになり)、②800年頃に、空海・最澄による密教の導入という仏教改革が起こり、③1200年頃は、鎌倉新仏教が起こり、④1600年以降の江戸時代に、今も続く仏教の檀家制度が導入されたという流れになっている。

    そして、現在の2000年代においては、その檀家制度や葬式仏教が崩壊する兆しが出てきている。そして、それを加速させる可能性があるのが、新型コロナパンデミックである。疫病退散などの信仰を集めていた以前とは変わって、今回のパンデミックにおいて、人々の中に、寺社が何もしてくれなかったという認識が広まり、寺社離れが加速するのではないかと、多くの寺社の関係者が考えているという。

    このように、現在、日本の仏教及び宗教全体においても、歴史的な変革の時が訪れようとしているのかもしれない。

     

    ※参考文献15:酒井元教授の見解

    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=228969

    ※参考文献16:中村名誉教授の見解

    https://sessendo.blogspot.com/2017/11/400.html

    ※参考文献17:中塚教授の調査

    https://tocana.jp/2017/10/post_14676_entry.html

     

    14.世界の文明の中心地が800年周期で交替する説

    村山氏の文明法則史学と同じ800年周期説をとりながら、作家の千賀一生氏は、スピリチュアルな体験をきっかけとした歴史分析に基づいて、以下の主張をしている(※参考文献18)。

     

    ①人類の文明の中心地が、800年周期で東西に交替して現れる

    ②各中心地は、経度にして22・5度の間隔をあけて存在する

    ③今現在は欧米を中心とした文明の最中で、中心地はロンドンで、副中心がワシントン

    ④21世紀に始まる新しい800年の文明は、東経135度(=日本・明石・淡路他)上に、中心が来る

    ⑤それは、精神性・一元性・女性原理を重視した文明である

     

    これに基づいて、千賀氏は「わの舞」という踊りを提唱して普及活動をしている(※参考文献19)。

    この説は、歴史学・歴史分析に加え、多分にスピリチュアルな要素を含んでおり、なぜ800年周期かというと、回転する駒が首を振るように地球の地軸が25800年ほどの周期で歳差運動をしている結果であるという(25800年の32分の1がおよそ800年となる。また360度の16分の1が上記の22・5度である)。

    なお、千賀氏は、惑星直列の周期である9年を重視し、9年周期説も説いているが、9年周期といえば、日本の伝統文化の中では九星気学がある。また、その倍数である18年周期説、72年周期もあるとしている。18年の周期に関しては、千賀氏以外にも、近年の経済問題が1973年オイルショック→1991年バブル崩壊→2008年リーマンショックと、ほぼ18年ないし17年周期だと見る人がいる。また、72年周期に関しては、1923年関東大震災→1995年阪神淡路大震災、1929年大恐慌→2001年9・11同時多発テロ事件などである。


    ※参考文献18

    https://taocode.jimdofree.com/ https://chiga.jimdofree.com/

    ※参考文献19:

    https://chiga.jimdofree.com/%E3%82%8F%E3%81%AE%E8%88%9E%E3%81%A8%E3%81%AF/

      

    15.精神世界の周期説:占星学と周期説

    上記のガイアの法則が、天体運動の歳差運動を重視するところは、実は占星学と似ている。占星学は、複雑な周期説の総合ということもできる。というのは、天体の運動は、全く周期的であり、それゆえに太陽や月や惑星の地上から見た位置(天球上の位置)も周期的である。

    そして、占星学は、星の天球上の位置と、地球上の人間や国の状態がシンクロしていることを前提としたものであり、それを前提として、過去の天体配置と似た天体配置が、未来に周期的にやってくる中で、ある天体配置の時に起こったある出来事が、未来の似た天体配置の時にも起こると考えるものである。

    なお、星の天球上の位置と、地球上の人間や国の状態とのシンクロニシティに関しては、統計学的な手法による科学的な検証が試みられたことは乏しい。

    その中で、ソルボンヌ大学の心理学者・統計学者ミッシェル・ゴークランは、人の誕生時の火星の位置と、その人の職業の膨大な統計をとり、両者には相関関係があると結論づける論文を発表した。これに対して、疑似科学に対して科学的な調査・批判を行う米国の国際的非営利団体CSIは、この論文を否定できると決めつけて活動したものの、調査して得た結果は予想に反して、この論文を不本意ながら追認せざるを得ない結果になったという(※参考文献20)。

    とはいえ、このゴークラン氏の研究では、検証範囲が著しく限定されており(火星に限定)、占星学が前提にするシンクロニシティ全体を検証するには、全く質量とも不十分なものであり、それは今のところ科学的に証明されたということはできないだろう。

    また、科学の研究で、この天体現象と地上の現象のシンクロニシティを扱うものがわずかではあるが存在する。例えば、太陽活動は周期的に強くなったり弱くなったりしているが、その結果として、地上にも周期的な現象が生じることである。

    例えば、太陽活動が減少すると、太陽の磁力線が弱り、その磁力線が妨げていた地球への宇宙線の放射が増大する。すると、地球上の雲が増大して寒冷化するとか、因果関係は不明であるが、地震や火山噴火の増大と時期的に非常に濃厚な相関関係があることがわかっている。

    この逆に、地球や他の惑星の引力が、太陽の表面の流体の動きに影響を与えることがある可能性があるという研究報告もある。その結果、地球等が引き起こした太陽活動の変化が、今度は地球等の惑星に影響を与える可能性があるから、太陽と地球を含めた惑星は相互に影響を与え合っており、その意味で、私たちが知る以上に、両者はシンクロしている可能性がある。

     

    ※参考文献20:占星学の科学的な検証事例

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93#%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6

     

    16.2020年に関するインド占星学の予見 

    シンクロニシティの存在は別にして、それを前提とするならば、占星学は、統計学的な色彩を持つことになる。占星学が社会的に高く評価されているインドでは、インド占星学(ジョーティシュ占星学)の大学、教授、学会誌などがあり(※参考文献21)、統計学的な手法で研究されている。

    2020年関係では、インド占星学の最高権威のK・N・ラオ氏が、2013年に「2020年にインドは東京五輪には行けないだろう」と予言している(※参考文献22)。また、インドの14才の天才少年アビギャ・アナンダ君が、2019年に「2019年末から2020年前半にかけてウイルスパンデミックが起こる」と予言した(※参考文献23)。

    2020年に入って、これらの予言が的中したのではないかと一部で注目を集めている。そこで、私の方で厳密に検証してみると、当たっている部分とそうでない部分の双方があった。ラオ氏の予言に関しては、五輪に行けない原因が、国際的な緊張とされており、またインドが五輪に行けないとしているが、五輪自体の延期には言及がない。

    また、アビギャ・アナンダ君の予言は、パンデミックの発生時期は的中したように思われるが、終息の時期を2020年5月末から7月と予言していたものの、今現在の時点でこれは的中しなかったと言わざるを得ない(インドを含めた世界全体で依然として拡大・再拡大しているため)。

     

    ※参考文献21:インド占星学の学会誌HP

    http://www.jyotishajournal.com/

    ※参考文献22

    https://ジョーティシュ.com/current/india-not-participate-in-tokyo-olympic

    ※参考文献23

    https://tocana.jp/2020/04/post_151308_entry.html

     

    17.終末を否定して希望ある未来を展望する占星学の未来観 

    さて、占星学にも、歳差運動の25800年周期に基づく周期説がある。これは、天球上の春分点にある星座に基づくシンクロニシティの周期説である。今現在は、春分点に位置する星座は、魚座であり、魚座の特徴とシンクロした人類の文明となっているが、間もなく水瓶座に変わるので、人類の文明も変わるという。

    その結果は、一部の精神世界が主張する終末・ハルマゲドンなどとは異なって、人類は黄金時代を迎えるというものである。そして、この水瓶座の新時代・ニューエージの到来を期待する精神世界の潮流が、ニューエージ・ムーブメントと呼ばれている。

    なお、一説によれば、水瓶座の時代が本格的に到来するのは、24~25世紀とされているが、それは800年周期説において、21世紀から始まる東洋(ないし135度線上)を中心とした文明の絶頂期と、偶然にもほぼ時期が重なる。

    なお、地球の歳差運動が25800年であり、天球には12星座があるので、一つの星座の期間は、だいたい2000年ほどとなる。現在の魚座時代は、ちょうど紀元前後に始まったとされる(キリスト教の時代とシンクロ)。各時代の間には、明確な境界線はなく移行期があり、20世紀末から21世紀に、次の水瓶座の時代の影響が現れ始めて、24世紀ごろまでに完全に水瓶座の時代となるという説がある(※付記1参照)。

    なお、最近流行った盲説として、マヤ歴が終焉する2012年頃に、人類がフォトンベルトなるものに突入して大破局・終末と意識次元の上昇(アセンション)が起こるというものがあった。この説は、歳差運動の周期にあたる26000年弱の周期を説きながら、それを太陽系の銀河の公転周期と取り違えるという間違いを犯したため、科学的には、全く不合理な説となっていたが、一部の人の間でそのまま広まってしまったようである(※付記2参照)。

    なお、初めて米国に定着してヨーガを広く広めたヨーガ行者であるパラマハンサ・ヨガナンダの師匠である、高名なスリ・ユクテスワも、インド占星学を扱い、天体運動に基づく計算から、人類文明の2万4千年ほどの周期説に基づいて、人類社会の未来を予見したことで知られる(その科学的な根拠はよく理解できないが、事実上、歳差運動とつながっていると私は理解している)。

    そのスリ・ユクテスワの人類文明には、12000年の上昇期と12000年の下降期があるとするが、今は上昇期であり、さらには終末や崩壊にはほど遠く、そのような心配は全くないという(※付記3・※参考文献24)。

     

    ※付記1:春分点にある星座 

    春分点とは、天球において、黄道(太陽の見かけの通り道)と天の赤道との2つの交点のうち、黄道が、南から北へ交わる方の点=昇交点のことであり、この点を太陽が通過する瞬間が、春分となる。この春分点の位置は、地球の歳差運動によって西向きに移動し、その周期は、約25800年である。そして、春分点の存する星座がその時代(1つの星座で約2千年)を象徴するという説がある。

    春分点は、紀元後1世紀から20世紀までは「うお座」にあり、20世紀末ごろに「みずがめ座」に入ったとか、現在移行中という説がある。うお座の時代の次は「水瓶座の時代 (the age of Aquarius)」と呼ばれ、変革を象徴しているなどと考えられ、何らかの世界的変革があると主張される。実際に春分点が「みずがめ座」に入り込むのは、500年以上後のことである。

    なお、十二宮と違って、星座の領域は不均等なので、「~座の時代」の期間は、2千年とは限らない。なお、カール・ユングは、独自の計算で水瓶座の時代の影響の開始を1997年としたという。

     

    ※付記2:2012年のフォトンベルト・マヤ歴終焉に伴う終末説の盲説 

    この説は、地球が太陽とともに公転する銀河系には、それを横断するフォトンベルトという帯状の領域が存在し、公転周期が2万数千年であるから、その半分の1万数千年に1度の周期で、それに入ると主張した。しかし、太陽系の銀河系の公転周期は、実際は10億年程度であって、科学的に全く間違っている。恐らくは、地球の地軸の歳差運動と太陽系の銀河系の周りの公転運動を、取り違えてしまったと思われるが、それに気づかない一部の人たちが、妄信してブームとなった。

     

    ※付記3:スリ・ユクテスワの人類文明の24000年周期説 

    ※参考文献24:

    https://www.morikita.co.jp/books/book/2621、https://www.morikita.co.jp/books/book/2623

    スリ・ユクテスワの人類文明の周期説は、12000年の上昇期と12000年の下降期によって構成され、より詳しくは以下の4つの期間に分かれているという。

    ①カリ・ユガ=鉄の時代:西暦500年~1700年の1200年:

    唯物主義

    ②ドワパラユガ=青銅の時代:西暦1700年~4100年の2400年

    電気と原子力の発達=空間を克服する技術:

    ③トレータユガ=銀の時代:西暦4100年~7700年の3600年

    精神感応の能力発達=時間を克服する技術

    ④サティヤユガ=黄金の時代:西暦7700年~12500年の4800年

    高度な知性・神のみ心にかなった行動

    なお、上記の周期は歳差運動に近いものの、ユクテスワは(天文学が未発達な時代に生きたためか)太陽系が天体Xの周りを公転していると想定して、その周期と考えた。

    また、終末思想のインド聖典の「カリ・ユガ」は上記の周期のものとは異なり、それよりはるかに大規模な43億56万年周期のものであり(聖書の創造のみわざの1日)、宇宙の寿命は314兆1590億年であって、これがブラッマの一時代となる。よって、地球にまだ多くの上昇・下降の周期を繰り返す寿命が残っており、まだ崩壊する時期には来ていないという。



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  • 宗教の大転換期:既存の宗教の衰退と新たな潮流

    以下のテキストは、2020~21年 年末年始セミナー特別教本『ヨーガ・仏教の修行と科学 人類社会と宗教の大転換期』第6章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.はじめに

    今、日本および世界の宗教界には、大きな変化が起きている。日本では、伝統宗教も新興宗教も大きく衰退している。ヨーロッパのキリスト教も同様である。米国は地域によって変化があるが、全体としては同様に無宗教の人が増えている。宗教学者の島田裕巳氏は「日本を含め、先進国においては、宗教は捨てられようとしている。信者が激減し、危機的な事態に陥っているのだ」と言う。

     

    2.平成の時代に大きく衰退した日本の宗教

    まず、日本について見れば、文化庁公表『宗教年鑑』には、各宗教法人が自己報告した信者数(いわば表向きの数字)が記載されているが、それを見ただけでも衰退の実態は十分に明らかである。

    平成の期間を見ると、昭和の実質最後の年の63年版では、神道系の信者の数は、約9618万人だが、令和元年版では約8009万人と、1600万人以上減っている。仏教系は、約8667万人から約4724万人と、4000万人近く減っている。ただし、この中には創価学会の会員(約1684万人)が日蓮正宗から大量に抜けた分があるから、それを差し引くと、仏教系の減少は約2300万人となる。高野山真言宗は、最近は信者数を全く報告していないが、激減の状況を公にしたくないとの推測がある。高野山の宿坊の宿泊者数は、1973年が92万人に対して、2014年は27万人に減少している。

    新宗教はより深刻で、戦前は最大の新宗教だった天理教は、平成の30年間に、約175万人が約120万人になり、55万人減っている。立正佼成会は、625万人が237万人と6割以上減り、最近でも、毎年全体の1割程度が減っている。霊友会も、315万人が122万人と200万人近く減り、PL教団も、220万人が72万人と、3分の1に減っている(PL学園の野球部が消滅した背景とされる)。

    最大の新宗教である創価学会の会員数は、『宗教年鑑』に記載されていないが、大阪商業大学の毎年の世論調査では、調査対象者に対する創価学会の会員の比率が、2001年は1.7%だったが、2018年には1.4%と激減していたという。創価学会は、他の宗教団体に比較すれば、子孫への信仰の継承に成功しているとはいわれるが、2016年の参院選では、創価学会が支持する公明党の得票数は、前回に比べて約104万票も減っている。創価学会で熱心に選挙活動を行ってきたのは、婦人部の会員たちだが、すでに高齢化しているか亡くなっている。他の新宗教も高度成長期に信者数を飛躍的に伸ばしたが、今は激減している。

      

    3.ヨーロッパのキリスト教を含めた先進国共通の現象か

    この現象は、ヨーロッパのキリスト教を含めて、世界に広がっている。ヨーロッパでは教会離れが深刻化しているという。日曜日のミサに集まる信者は高齢化して激減し、教会の経営が成り立たなくなり、売却される教会も出てきているという。売却先として多いのは、ヨーロッパにはイスラム圏からの移民が多いため、イスラム教のモスクである(イスラム教の人口が、各国平均で総人口の5%にまで達している)。

    なお、中南米では伝統のカトリックが大幅に減少し、代わってプロテスタントの中でも、伝統的な宗派ではなく、ペンテコステ派が大幅に増えているという。これは霊的な体験を重視し、日本の新宗教のような性格を持っているという。そして、このペンテコステ派と、後で述べる福音派、そして、日本の新宗教は、経済成長による都市化を背景として伸長し、より都市部で信者が増加する(した)という共通点があるという。韓国や中国でも、福音派やペンテコステ派が伸びている。ただし韓国では、その伸びが止まり始めたという。

      

    4.宗教が根強い米国でも無宗教が増大

    一方で、キリスト教の力がまだ強いのが、アメリカ合衆国である。2018年のPew Research Centerの調査では、プロテスタントが43%、カトリックが20%、無宗教・無神論・不可知論が26%。しかし、正確に言えば、米国は、大統領選挙で社会の分断が話題になったように、宗教情勢も分断されている。東部や西部では、都市を中心として、無宗教・無神論・不可知論を唱える人たちが26%と、増えている。反対に、バイブルベルトと呼ばれる南部では、依然として、プロテスタントの福音派が強い力を持っている。そして、全体としては、無宗教が増えており、2007年の17%から、先ほど述べた通り、2018年には26%に達している。

    米国では、大統領選挙のたびに、プロテスタントの福音派が話題になる。福音派はアメリカ人全体の4分の1を占め、聖書の教えを文字通りに信仰し、進化論や人工妊娠中絶に強硬に反対する。そして政治的には、トランプ大統領をはじめ、共和党の大統領候補を強く支持する。その一部には、第5章で述べた陰謀論の流布に関与している人達もいることが指摘されている。福音派は、強い力を持っているが、移民・少数民族の増大や無宗教者の増大とともに、将来的には米社会の中で少数派となる恐れを抱いているかもしれない。実際にトランプ大統領は、2016年の前回の大統領選挙で、今回負けたならば、今後共和党からは大統領は出なくなるだろうと主張し、彼らの危機感を煽ったという。

     

    5.日本などで宗教が捨てられつつある原因:人生観・死生観の根本的転換か? 

    なぜ日本やヨーロッパの先進国で宗教が捨てられる事態が起こっているのかというと、島田氏によれば、人々の人生観・死生観の根本的な転換が原因ではないかという。もちろん、平成の時代の宗教衰退の一因としては、私自身の反省の課題であるオウム真理教の事件もあるし、宗教勢力のテロといえば、欧米の一部のキリスト教右派系宗教団体やイスラム原理主義のテロがあった。しかし、これらの出来事は、この長期的で世界的な、宗教の衰退の主たる原因ではないという。

    では、人生観・死生観の根本的な転換とは何か。まだ平均寿命が短かった時代には、社会的な環境も医療も十分に発達しておらず、病にかかる確率は高く、重い病にかかれば、回復が難しかった。災害や飢饉や貧困や戦争で死ぬ可能性も高かった。このように現世が苦しく、そのために人々は、「自分はいつまで生きられるかわからない」と思いながら生活していた。

    こうして、現世の暮らしが苦しく、死は常に身近で、人生の将来は不確かだったため、苦しく不確かな現世の将来より、来世に期待をかけ、天国や極楽に生まれ変わることを望んで、宗教を信じ、それが説く善行を積むことに努めた。そうする動機・意欲があり、そうすることができた。

    しかし、最近は、先進国の長寿社会をはじめとして、社会環境や医療が整って、平均寿命も大きく延びた。特に日本人の平均寿命は、1890年代は40歳台前半だったが、約100年後の1989年は、男性75.91歳、女性81.77歳と倍近く延び、さらに平成の終わり頃の2018年には、男性81.25歳、女性87.32歳とさらに延びて、男女平均で84歳代となって、世界第1位である。

    また、この数十年で、若くして死ぬ人も大幅に減少した。さらに、平均余命を見てみると、現在60歳の女性であれば、平均して90歳まで生きるとされ、医療経済学者の永田宏氏の推計によれば、その半分の人は95歳、4分の1の人は100歳以上生きるという。また、男性も、今40歳の男性であれば、半分は95歳以上、4分の1が102歳以上まで生きる。今40歳の女性ならば、半分が102歳、4分の1が107歳まで生きるという。最近メディアでも、人生100年、110年時代といわれる所以である。

    こうして、今や現世の苦しみや、若くして死ぬ可能性は大幅に減り、長く生きることが相当に確からしくなった。こうして苦しみが減り、死は遠のいて人生が長くなると、苦しく不確かな現世の将来よりも、来世に期待して宗教を実践する動機は薄れるのではないか。来世への期待よりも、老後までの長い人生を、経済的にも精神的にも乗り切ることの方に関心が向くのではないか。また、医療の発達で、病気治しのために宗教に頼る必要がなくなるとともに、今回の新型コロナ問題では、宗教は無力どころか、集会を伴う活動が多いために、逆に被害を拡大さえする立場となった。

    なお、日本の新興宗教は、戦後に急速に進んだ都市化の中で、農村から都市に移動した大量の人々を吸収したが、その求心力は、貧(ひん)・病(びょう)・争(そう)(貧困・病気治し・人間関係のトラブル)の解決だといわれた。しかし、今や高度成長期が終わって、都市への人口移動も収まり、少子化で若者が減り、人口が減少し始めた。そして、病気は医療で、貧困は社会福祉制度で対処できるようになった。なお、新興宗教の急拡大の時代の人間関係のトラブルは、まだ都会でも同居が多かった嫁と姑の問題が主だったようだが、価値観や居住形態が変わるとともに、晩婚化・単身者が増大した。また、宗教で逆に人間関係のトラブルが起こることもある。

     

    6.人類が初めて経験する大きな意識変化が起こっている可能性

    島田氏によれば、かつては死後に天国や極楽に生まれ変わることを説くことが、宗教にとって最大の武器だった。そして、それに人々がすがった一つの理由は、それだけ現世での暮らしが苦しいものだったからだという。言い換えれば、現世の苦しみの反動として、来世の幸福への期待と信仰があったということができるかもしれない。

    しかし、現世の暮らしが、それほど辛くなくなれば、来世の幸福に期待する動機も薄れていく。その結果として、幸福な来世の存在を信じることが(でき)なくなってきているのではないか。島田氏は「私たちは今、自分たちが生きている現世よりも素晴らしい来世を想像することができるのだろうか。浄土教信仰を説く僧侶でさえ、浄土の実在を信じてはいない。もう信じることができないのだ」と述べている。

    私自身も、浄土真宗を含めて、多くの浄土教の僧侶と対話したことがある。彼らは皆、若者をはじめとして人々が自分達の宗教に惹かれることがなくなり、数十年後には消滅してしまうのではないかという懸念を持っていた。その中で、彼らの一人が言ったことが、「国民がもっと来世を信じなければ、このまま衰退していくだろう」ということだった。

    こうしてみると、伝統宗派も新興宗教も、少なくとも日本の既存の宗教に関していえば、大幅にニーズが減少し、島田氏が言うように、今や「捨てられることとなった」のかもしれない。

    そして、こうした人生観・死生観の転換は、人類が誕生以来、初めて経験することかもしれない。言い換えれば、人類はその誕生以来これまで、宗教と共にあったといっても過言ではないだろう。それが、今この21世紀に至って、日本をはじめとする長寿社会で、(少なくとも既存の)宗教が消滅的な衰退を始めているかもしれない。だとすれば、これは、人類史上において、極めて大きな意識変化が生じている時代であるのかもしれない。

     

    7.新型コロナが宗教の衰退にだめ押しとなる可能性 

    そして、新型コロナウイルスの流行は、捨てられつつある宗教に致命傷を与えた。というのも、宗教は、信者が集まることによって成り立つものであり、密集を回避しなければならない状況では、その活動に大幅な制限が加えられるからである。感染拡大を恐れて、葬式さえ挙げることが難しくなった。

    そもそもかつての宗教は、疫病に対する対処法として、人々の信仰を集めてきた。キリスト教は、2世紀の天然痘流行の際に、爆発的に拡大したという。患者を隔離・介護したが、信者の死亡率が低かったのだ(これは集団免疫の作用ではないかという説があるが、私は初期キリスト教会の信者の自然免疫が高かった可能性を感じる)。

    また、16世紀に、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出した時は、天然痘の免疫を持つヨーロッパ人に対して、天然痘で多数の死亡者を出したアメリカの原住民族(インカ帝国・アステカ帝国)は、その違いを信仰の違いととらえ、キリスト教に改宗したという。

    中国や日本に仏教が広がっていった時代も、感染症の被害が多かった。昔の人は、疫病は(疫病(やくびょう))神(がみ)の仕業と考え、「疫病神を祀って祈れば、許してもらえて、収まる」と考えた。感染症の流行は、永続することはなく、集団免疫の形成等により収束する時期が来るものだが、昔の人々には、祭り祈った後に収束するのを見て、「信仰の力で収まった」と思ったのだという。そして、あの名高い奈良の東大寺の大仏も、天然痘を鎮める祈りを込めて作られたものであり、日本三大祭りの京都・八坂神社の祇園祭は、疫病退散を疫病神に祈るものだ。

    しかし、新型コロナの結果、韓国の宗教団体(新天地イエス教会など)は、その集会によって集団感染が発生し、教祖は土下座して謝罪し、殺人・殺人未遂罪などで刑事告訴までされた。日本の寺社の関係者は、それを見て、「次は自分達がそうなるのではないか」と震え上がったという。シーク教の導師は、説法を続けて感染を拡大し、スーパースプレッダーとなり、自分自身が死亡した。イタリアでは、ローマ教皇が聖職者に、新型コロナ患者に積極的に会いに行く勇気を求めた結果、多くの死者を出した。

    こうして、宗教は、疫病から人を救うどころか、逆に被害者を増やす存在にさえなってしまった。世界各国の宗教で集団礼拝や集会が禁じられ、自粛が行われた。日本でも、各宗教団体が、施設を閉鎖したり、集会を伴う様々な行事を中止せざるをえなくなったりした。東大寺も参拝を一時停止し、今年の祇園祭は中止となった。こうして、歴史的に宗教を後押しすることが多かった感染症が、医学・科学の発達を背景として、今年の新型コロナでは、宗教に対して大きな逆風に変わったのである。

    そして、「いったん人々が宗教の世界から遠ざかれば、ウイルスの流行がたとえ終息しても、元の状態に戻ることは難しいのではないか」と島田氏は言う。確かに、新型コロナの問題が一時的なものであればよかったが、2020年末の時点で、感染拡大の最大の山場は、今後やってくる状況にあり、専門家の間でも、三密回避の行動変容は少なくとも2021年の間は必要だという見解があり、2022年まで続くという見解もある。

    人の主要な活動は、何事も(以前からの)習慣の力が大きい。よって、これだけ長い期間、宗教から遠ざかると、以前からすでにうすうす感じていた「もはや宗教がなくても生活は成り立つのではないか」ということを、人々が実感するのではないか。それを一度実感してしまえば、宗教の必要性を再び感じることはできなくなるのではないか。こうした危惧を寺社の関係者が現在抱いているという。

    ある関係者は、「感染終息後になって、人々は、一番苦しい時に宗教は何もしてくれなかったと思うのではないか。私たちは社会に居場所を失うのではないか」と言う。こうして、新型コロナは、以前からの宗教の衰退の流れに対して、いわばダメ押しのように作用しつつあるかもしれない。

    新型コロナは、医療も依然として万能ではないことを示したが、既存の宗教に関しては、その全くの無力さを印象付け、一般人と全く同じように、感染症から人々を救う側ではなく、救われる側になった感がある。このことは宗教離れを加速させる可能性があるだろう。

    だとすれば、今後の宗教は、従来の形・内容に留まることなく、大きく変化している環境に適応し、新たに進化する必要があるように思われる。さもなければ、島田氏が言うように、「人類の歴史とともに歩んできた宗教は(少なくとも従来の形のままに留まるのであれば)、今や過去のものになろうとしている」のかもしれない。

     

    8.各国ごとの平均寿命と宗教事情の違い:韓国 

    これまでは日本やヨーロッパなどの長寿の先進国社会を見てきたが、次に日本から一歩遅れて急速な経済発展を遂げた韓国について述べる。

    韓国は、日本の高度成長期に新興宗教が急拡大したのと同じように、キリスト教のペンテコステ派や福音派が急伸した。キリスト教信者は1950年の160万人が、2000年には1470万人と、人口の31%にまで増大した。

    しかし、驚異的な経済成長にブレーキがかかると、その後2020年には人口の33%と、2%の伸びに留まった。一方で、無宗教の割合は、2005年の46%から2015年は56%と、10%も増えた。韓国の平均寿命は現在80歳を超えてきた。若者の教会離れが始まっており、これ以上は伸びないとも指摘されているという。

     

    9.米国社会は、政治に限らず、宗教事情も分断されている 

    最後に現在、新型コロナの被害と大統領選挙などで世界的に関心を集めている米国は、非常に興味深い状況がある。まず、世界一の経済・軍事力を持ち、世界をリードする先進国である米国だが、その平均寿命は、2016年で78.6歳であり、世界34位で、日本よりも6歳弱短いのである。

    1950年代は世界最高の寿命だったが、日本等ほとんどの国で平均寿命が延び続けている中で、米国は2014年の平均寿命が最高で、その後は減少し、伸びが止まってしまった(なお、他には英国(だけ)で似た現象が起こっている)。

    その原因は、社会的な不平等と経済的困難を背景として、薬物の過剰摂取、自殺、アルコール関連疾患などで、25歳から60歳までの生産年齢人口の死亡率が上がっているからだという。さらに、数年前はインフルエンザの大流行で年間6万人が死亡し、今年は新型コロナで30万人以上の死亡者を出して、さらに平均寿命を押し下げることが予想されるが、その背景にも社会・経済的な要因があるのだろう(同様に寿命の延びが止まった英国でも新型コロナの死亡者は多い)。

    次に、社会が分断されているというように、米国は宗教事情も地域差が大きく、さらにいえば、宗教的信仰の強い人が多い州が、そうでない州に比べて、平均寿命が短いのではないかと思われる状況がある、逆にいえば、平均寿命が長い州において、宗教的信仰が衰えているということである。

    まず、聖書の教えを文字通りに信仰して熱心に活動する福音派が多い州は、テネシー州(52%)、ケンタッキー、アラバマ、オクラホマ、アーカンソー、ミシシッピーなどで、いずれもアメリカの南東部にある州である。この地域は一般に南部、バイブルベルトとも呼ばれる。

    逆に、福音派が少ないのは、モルモン教が多く例外的な存在であるユタ州を除くと、マサチューセッツ、ニューヨーク、ニュー・ジャージー、ニューハンプシャー、コネチカットなどで、全て北東部に位置する(最初に植民地が作られたニュー・イングランドの地方)。

    また、州別の教会出席率は、2014年のギャラップの調査では、ユタ州を除けば、南部の州はほとんど40%を超えており、逆にニュー・イングランドの各州は出席率が低く、20%台前半が多い。そして、州別の平均寿命を見ると、ハワイ州81.5歳を最高とし、長い順からカリフォルニア、ミネソタ、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、コネチカットの各州が80歳を超えている。

    逆に平均寿命が最も短いのは、ミシシッピー州の74.5歳で、ウェスト・ヴァージニア、アラバマ、ケンタッキー、ルイジアナ、オクラホマ、アーカンソー、テネシーと続き、75~76歳前後である。このように、南部の信仰熱心な地域は、日本よりも平均寿命が10歳近く短いのである。なお、平均寿命が最長のハワイ州の教会出席率も25%と低い。

    そして、こうした米国内での地域による経済状態・平均寿命・宗教事情の違いが、昨今大きな注目を集めている政治の分野での社会の分断の一つの背景であることは、容易に推察できるだろう。

    ちなみに、衰退が激しいとされるヨーロッパのキリスト教徒の教会出席率は、米国のピュー・リサーチ・センターの調査(2008~2017年)によれば、スウェーデン6%、ノルウェー7%、英国8%、ドイツ10%、フランス12%、スペイン15%、ギリシャ16%という。

     

    10.イスラム教の今後に関して

    最後に、イスラム教国について見る。まず、世界の宗教別人口で見るならば、イスラム教徒が多い国は出席率が高く、今後も人口の大幅な増加が予測されることから、米調査機関ピュー・リサーチ・センターの予測によれば、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年にはイスラム教徒が最大勢力になると予測している。これは人類史上初めてのことであり、向こう40年間のイスラム教徒の増加率は73%で、キリスト教徒やヒンドゥー教徒の増加率の2倍以上に達するという。

    ただし、この統計は、イスラム教徒の多い国の人口の増大による教徒数の増大の予測であって、そうした国の人々が本質的な意味で、今よりもイスラム教の信仰により熱心になるとか、イスラム教が他宗教からの多数の改宗者を獲得するという意味ではなく、人口比で、その国のイスラム教徒の割合が無宗教の割合と比較して増えるという意味でもない。

    次に、イスラム教徒が多い国々の平均寿命を見ると、インドネシアが69.3歳、インドが68.3歳(インドはヒンドゥー教が優位の国だが、総人口が多いためイスラム教徒の総数も多い)、パキスタンが66.5歳、バングラディッシュが72.7歳と、いずれも短い。

    しかし、イスラム教国も、平均寿命は急速に延びているから、将来的には日本と同じ現象が起こる可能性がある。よって、彼らが、日本のように経済発展して、寿命が延びて、現世の苦しみと死が遠のいた後も、死後に天国に召されるために、1日5回の礼拝を行うイスラム教の生活を維持できるか(維持するだけの動機が残るか)ということが注目される。

    ただし、イスラム教は、仏教やキリスト教と異なって、そもそも修行という側面が弱く、生活規範としての性格が強い。キリスト教や仏教のような原罪や業の観念が薄く、出家者と世俗者を分けるといった聖俗の区別も薄い。そのため信仰を継続する負担は少ないかもしれない(ただ、その場合は、何が信仰・宗教であり、何が文化的な生活規範であるかの区別が問題になるかもしれないが)。

      

    11.日本は、人類社会における宗教の変化を真っ先に経験しているのか?

    以上をまとめると、イスラム教世界については今後の状況を見る必要があるが、それ以外の世界の状況をあわせて考えてみれば、経済成長・平均寿命の延びとともに、カトリックや仏教などの伝統的な信仰から、福音派・新興宗教といった新しい宗教に移り、その後に無宗教化が起こるとも考えられるだろう。

    そして、日本は、高度成長を経験して経済大国となって、その後のバブル崩壊から低成長に移り、平均寿命が世界最長となったという意味で、日本の宗教事情は、人類社会の中で(その善悪は別にして)ある意味で最も先を行っており、日本の変化を見れば、今後の世界の変化を予想することができるかもしれない。

    これに関連して、経済の分野に関して一歩先に、世界が日本化しているといわれている(ジャパニフィケーション)。リーマンショック以降、先進国をはじめとする世界全体において、日本と同じように経済の低成長が目立ち始めた。

    さらに、新型コロナによる経済停滞・財政支出の増大・中央銀行の金融緩和や低金利政策が進んで、ますます世界の経済状態が日本化するという見解が聞かれるようになった。そして、宗教も経済をはじめとする社会状況と連動するものであるから、経済面で世界の日本化が進むのであれば、宗教面でも日本化が進む可能性があるだろう。

    ちなみに、WHOが発表した2020年版の世界保健統計によれば、平均寿命が最も長い国は、日本で84.2歳、 2位はスイス83.3歳、平均寿命80歳以上の国は28カ国で欧州の国が多く、アジアでは日本の他、シンガポールと韓国であり、最も短い国は、レソトで52.9歳である(以下の表を参照)。

    そして島田氏によれば、平均寿命が80歳を超えると、「現世が苦しく死が身近なゆえに来世に期待して宗教を信じる」という従来の人生観・死生観に留まることは難しいと思われるという。

     

    1 日本              84.2

    2 スイス            83.3

    3 スペイン          83.0

    4 オーストラリア 82.9

    4 フランス           82.9

    4 シンガポール   82.9

    7 カナダ             82.8

    8 イタリア           82.7

    8 韓国              82.7

    10 ルクセンブルク 82.5

    10 ノルウェー      82.5

    12 アイスランド   82.4

    13 イスラエル      82.3

    13 スウェーデン   82.3

    16 オーストリア   81.8

    17 オランダ         81.6

    18 アイルランド   81.5

    19 フィンランド   81.4

    19 マルタ           81.4

    19 ポルトガル     81.4

    19 イギリス        81.4

    23 デンマーク     81.2

    24 ベルギー        81.1

    24 ギリシャ        81.1

    25 デンマーク     81.2

    26 ドイツ           80.9

    26 スロベニア     80.9

    28 キプロス        80.7

    ------------

    34 アメリカ        78.6

    ------------

    50 中国             76.4

    ------------

    100ロシア         72.0

     

    12.長寿社会にこそ現れる仏教思想の新たな役割 

    さて、長寿社会は、仏教をはじめとする宗教が衰退していくばかりだとは私は考えていない。見方によっては、仏教開祖のゴータマ・シッダッタ(釈迦牟尼)が説いた悟りの思想(初期仏教)は、逆にその価値を取り戻す可能性があると考えている。

    ただし、その初期仏教の思想は、一般に現代人が、宗教や信仰と見なしているものではなく、心理療法・実践哲学の性格が強く、その意味で、宗教学者の中には、釈迦牟尼を偉大な心理学者とし、その思想を高度な心理療法と評価する人もいることは、他の特別教本でも述べた通りである。

    さて、長寿社会に見られる現象として、仏教に関連して重要だと私が考えていることは、『2018年GWセミナー特別教本「ポスト平成:長寿社会の新しい生き方」』の第1章で紹介している。その要点を簡潔に以下にまとめて述べたいと思う。

      

    13.長くつらい老後の可能性:精神疾患・生きがいのなさ

    長寿社会といっても、それは高齢者が幸福に長生きできるということではなく、長くつらい老後を生きることになる可能性がある。医療の発達によって、肉体的には死なないが、全ての病気がなくなるわけではない。結果として、死にはしないが、様々な心身の苦しみが増え、長くつらい老後になる可能性がある。

    そして、身体的な不自由は仕方がないとしても、現在の傾向を見ると、高齢者の認知症・うつ・感情の暴走といった、様々な精神疾患や精神的な問題が増大しており、高齢期に、人間として精神的に退化してしまう可能性がある。

    その大きな要因が、心理学者が「第二の思春期」とも呼び始めた、70歳代における様々な「喪失体験」である。この年代になると、様々な身体の機能が衰え、今まであった自分の能力を失い、会社は退職して社会的な立場や人間関係を失う。

    子供はとうに自立して離れているだけでなく、配偶者に先立たれる場合もあるし、長生きするほど、同年代の友人・知人は鬼籍に入り、人間付き合いが減って孤独が深まる。

    健康であれば何かの仕事はできるが、退職前とは異なって、たいていが単純作業のようであり、十分な生きがいにはなりにくい(そもそも若い時からフリーターの人もいるだろうが)。自尊感情を満たせるような社会的な立場はなくなり、逆に周囲に疎んじられ、お荷物扱い、邪魔者扱いされているとも思う。

    そもそも、少子化・晩婚化・独身・高齢離婚が増えており、退職などで人付き合いが全くなくなる人も少なくないという。しばらく前に、「無縁社会」という言葉が流行った。現在、日本の人口の3割以上が単身者(一人住まい)であり、まもなく4割にも達するという(ドイツはすでに4割)。

    その中で15%の人が、1週間や2週間は全く他人と話すことがない孤独状態にあるというデータもあり、この孤独状態は、生活習慣病よりも心身の健康に有害であるという研究結果がある。そして、最近よくいわれているように、その中から年間3万人以上の孤独死が発生している。無縁社会の無縁仏である。

    身体機能が落ちて、1人で生きていくことが危険であるとなれば、老人ホームに入らざるをえないが、その場合は、住み慣れた自宅・環境を失うことになる。こうして、長寿社会の高齢者は、自分の従来の能力、社会的な立場や人間関係、住み慣れた環境といった、様々なものを失う。

    これは、肉体的な死ではないが、いわゆる「社会的な死」といわれるものに相当するのではないかと思われる。多少大げさにいえば、死後の来世ではないが、これまでとは別の世界に、別の自分が住むのと近いかもしれない。

    そう考えると、死後の来世の幸福に期待して宗教に入る人が減っていることと、不思議に通じてくるように思われる。いつ死ぬかわからない時代の来世は、死後のものだったが、長く生きる時代は、社会的な死を経験する老後が、来世のようなものかもしれない。

    そして、喪失体験は、老化を加速して、うつ・認知症・感情の暴走などの様々な精神的問題を引き起こす。というのは、最新の高齢者心理学では、老化こそが気持ちからという見方がある。体は死ななくても、生きがい=前向きに生きる意欲を失うと、体や頭を使って鍛えることがなくなって、それによって老化が加速するというのである。「病は気から」ならぬ、「老化は気から」ということである。

    意欲がなくなり、体や頭を使わなければ、必然的に、認知症やうつが増大するだろう。また、自分の喪失体験による失意・自己嫌悪は、他者への怒りに転じることが多く、自分の感情を制御する能力も失って、感情が暴走するようになる。すぐに怒り、いったん怒り出したら止められない老人が増えているという。こうした問題が大きくなれば、人によっては生き地獄となるかもしれない。極楽とともに来世の一つとされた地獄も、長寿社会では、高齢期に経験する精神的な体験かもしれない。

      

    14.長寿社会に現れた「老年的超越」という希望・第二の心理的な発達

    しかし、そうした長寿社会の高齢者の精神的な問題とは対極的な現象が一部の高齢者には起こっている。それを「老年的超越」という。

    老年的超越とは、1990年代にスウェーデンの社会学者であるトルンスタムが最初に提唱したものであるが、超高齢者があたかも仏教の悟りの境地のような状態に至ることである。

    トルンスタムによれば、2割くらいの高齢者がそうなると主張するが、老年的超越の現象に関しては、研究が始まってからまだ日が浅く、その定義自体も明確ではなく、各国・民族の超高齢者によって、具体的な心境も異なる部分があるため、現段階では割合に関する議論は難しいだろう。日本の心理学者によれば、超高齢者の5パーセント前後が体験しているという。

    老年的超越の心境を一言で言うのは難しいが、主観的に非常に幸福な状態であり、「今が人生で一番幸せだ」と言う人もいるという。トルンスタムによれば、①自己概念が変容し(自分にこだわらず、利他的になり、苦難をも前向きにとらえる)、②社会と個人の関係が変容し(社会的な地位・表面的な人間関係・友人の数・財物等にこだわらず、孤独に強く一人の時間を大切にし、善悪の固定観念が和らぐ)、③宇宙意識の獲得(時空間を超えた他者・万物との一体感を感じ、神秘性の感受性が高まり、死の恐怖が消滅するなど)といった境地が生じるという。

    日本の研究者によれば、日本の高齢者の場合は、上記の心境に加えて、①ありがたさ・感謝の念が強まり、②無為自然・あるがままの状態を受け入れる姿勢(余計なことを考えない、気にしないでいられる)といった特徴があるという(これは、日本の文化的な要因によると推測されている)。

    そして、重要なことに、トルンスタムの研究によれば、この老年的超越が生じやすい人の特徴として(すなわち老年的超越の関連要因としては)、より高齢であるほど老年的超越の割合が高くなること以外には、順風満帆の人生ではなく、自分や身近な人の病気、死別・離別といった人生の危機を多く体験しているという(そして、その試練を乗り越えて前向きに生きているということである)。他の研究でも、病気・死別に加え、経済的な問題、争いの経験が多いとか、活動の多さに関連するという研究結果がある。

    こうした研究を踏まえ、老年的超越を研究する日本の心理学者の中には、人生はおよそ70歳代を中心として、様々な喪失体験(社会的な死)に揺れる第二の思春期ともいうべき時期があり(それに対処できなければ心身の病気につながるが)、思春期を通じて子供が大人になるという大きな心理的発達を遂げるように、第二の思春期を通じて、第二の心理的な発達(老年的超越・悟り)を遂げる可能性があるという説を提唱している人もいる。

      

    15.落下型と上昇型の生き方、長寿社会の人々は二つの人生を生きる

    そして、これまで述べてきたことをまとめるならば、長寿社会の長い高齢期においては、第二の思春期ともいうべき様々な喪失体験=社会的な死を境として、二極化する可能性があるということになる。一つは、残念ながら今のところの多数派であるが、社会的な死の苦しみに負ける形となり、心身の苦しみが増し、うつ・認知症・感情の暴走といった精神的な病にも陥るケース。もう一つは、それまでの人生上の困難な体験などを活かして、それを乗り越え、仏教の悟りのごとき老年的な超越を得て、人生最高の内面の幸福を得る。

    前者のケースは、たとえ高齢期前に恵まれていても、高齢期以降は苦しみが増え、最後に人生最大の苦しみを味わう。この場合は、終わってみれば、いわば落下型の人生ではないだろうか。後者のケースは、たとえ人生前半が普通の意味で低迷しているように見えても、その困難の経験を活かして、人生終盤に最大の幸福を得る上昇型の人生であるし、見方によっては、人生の本当の目的の達成ではないだろうか。

    人生は長い。別のたとえを使えば、人生はスプリント(短距離走)ではなく、マラソンのようなものだと思う。前半に先頭に飛び出して、一時的に気持ちよかったとしても、後半に、息が切れてリタイアする場合もある。気持ちよく前半を生きることばかり考えるのではなく、最後にトップでゴールを切ることを本来の目的だとするならば、人生やその快楽や苦しみに関するものの考え方を変える必要もあるだろう。

    さらにいえば、人生100年、110年ともいわれる長寿社会の人々には、70歳代の社会的な死を境として、二つの人生(=今生と来世)を生きるとも表現できるかもしれない。高齢期前の人生が、第一の人生(=今生)であり、高齢期の社会的な死を経て、その後も直ぐには終わらない第二の人生(来世)がある。

    生き方によって、第二の人生は、人生最大の苦しみ=「生き地獄」を経験することにもなれば、老年的超越を得て「生き天国」・「生き浄土」を経験することにもなる。これまで宗教が説いてきた「来世」というものが、あたかも、今生の後半に生きたままで現れてくるのが、長寿社会の人生といえるかもしれない。

      

    16.長寿社会における仏教思想の有用性

    仏教思想から見れば、長寿社会の高齢期の喪失体験=社会的な死と、困難の多い人生を乗り越えた人が、それを乗り越えて老年的な超越を果たすという現象は、仏道修行の思想・実践とまさに合致する。

    仏教では、そもそも人は、老い、病み、死ぬ無常なものであるとする。その中で、人の様々な苦しみの原因は煩悩であり、すなわち間違ったとらわれ、過剰な自我執着であると説く。そして、修行を通してそれを弱め、無智を超えて、自我執着を超えた無我の智慧に目覚めて、利他・慈悲の心を獲得して苦しみを超え、真の幸福を得ることを説く。

    そして、重要なこととして、その修行の過程においては、たとえば失脚や亡命といった、まさに社会的な死ともいうべき試練があることを、経典や仏教の指導者はたびたび強調してきた。実際に、開祖の釈迦牟尼自身が、修行を始める際に、出家して王子という社会的な地位を含めた世俗の生活を放棄したことはよく知られている。

    さらに、釈迦牟尼は、悟りを得る直前に、当時最高の善とされて長年耐えてきた苦行には真の悟りの道がないと気づくや、苦行者としての誇りや周囲からの評価さえも捨て去って、脱落者という罵りを受けながら、自分の信じる探求を貫いて、ついに悟りを得たという経緯がある。世俗の社会的な地位に加え、修行者・苦行者としての立場・評価も捨て去るという社会的な死の連続の果てに掴んだ真の幸福だったのではないか。

    そして、21世紀の長寿社会の長い高齢期の中で、自分を仏道修行者と自覚している人であろうとなかろうと、ある意味で否応なしに、誰しもが社会的な死を経験する。それが悟り(=老年的超越)の機会となり、人生のまさに終盤・最期に、人間としての究極的な心理的発達を遂げて、人生の最大の幸福の時となるか否かは、それぞれが今後歩む人生のあり方にかかっている。

    その状態に仏教の思想を学ばずに、高齢期前から多くの試練を経験して、その試練の体験が仏教の教えや指導者に代わる教師となって、老年的超越を果たす人もいるようだ。

    しかし、理想としては、高齢期前から、仏教の思想を学び、人生全体にわたって、苦しみ・試練に強く安定した心身を培い、高齢期の喪失体験をスムーズに乗り越えて悟りに至ることだと思う。

    もちろん、仏道修行者としての最高の理想は、高齢期の前に若くして、人生全体のいかなる試練にも動じない不動心・悟りを得ることであろうが。

      

    17.そもそも長寿社会を生きてきたのが仏教の僧侶である

    そして最後に指摘しておきたい事実が、昔から長寿社会を生きてきたのが仏教の僧侶であるという事実である。すなわち、僧侶は、昔から突出して長寿であった。

    現在の職業別ランキングでも、僧侶・宗教家は1位である。郡山女子大学の森一教授の調査研究によれば、トップが宗教家、それに続いて、実業家、政治家、医師・医学者、大学教授、俳人、歌人、芸術家、小説家、詩人の順であった。

    さらに、同じく森教授によれば、西暦700年から1945年までの1250年間に亡くなった僧侶の平均寿命は、なんと70歳前後であった。戦前の平均寿命が40歳前後であることを考えると、非常に長寿である。森氏は、現在の政治家にあたる公卿に関しても同様に調べたが、830年から1892年の1063年の間の公卿の平均寿命は53.6歳であり、1600年から1719年までの藩主の平均寿命が53歳であった。

    実際に、著名な僧侶の寿命も長く、開祖の釈迦牟尼自身が、2500年前に80歳の超高齢まで生き、奈良の大仏の建立に尽くした行基が82歳、浄土宗を開いた法然は80歳、浄土真宗を開いた親鸞は90歳、江戸幕府・将軍を支えた天海はなんと108歳。他にも、明(みょう)菴(あん)栄(えい)西(さい)禅師(75歳)、一休宗(いっきゅうそう)純(じゅん)禅師(88歳)、白(はく)隠(いん)慧(え)鶴(かく)禅師(84歳)などがいる。また、明治以降の主な高僧の例としては、山(やま)田無(だむ)文(もん)師(89歳)、大西良慶(おおにしりょうけい)師(109歳)、山(やま)田(だ)恵(え)諦(たい)師(100歳)、松原(まつばら)泰道(たいどう)師(103歳)、宮(みや)崎(ざき)奕(えき)保(ほ)師(108歳)など。

    なお、僧侶は単に長生きなのではなく、釈迦牟尼が死の直前まで説法したことに象徴されるように、健康で生き生きとした意欲と知性を保った長生きである。

    そして、島田氏は、僧侶が長生きする理由の推測として、①睡眠や適度な運動など、生活が規則正しいこと、②読経や座禅と呼吸法が精神を安定させること、③精進料理や茶などの質素な(低カロリーの)食事、④よく歩くことによる強靭な足腰が健康につながる、⑤高齢になっても、老いてますます尊敬されて居場所・役割・生きがいがあること、⑥悟りという目的が人生の最後まであり、全てを委ねる精神が、安心感と長生きを助けること--などを指摘している。

     

    ※第6章参考文献

    ・『疫病vs神』 (島田裕巳著・中公新書ラクレ)

    ・『捨てられる宗教 葬式・戒名・墓を捨てた日本人の末路 』(島田裕巳著・SB新書)


輪の思想・一元思想:究極の真理

  • 仏陀の一元の智慧

    以下のテキストは、2015~16年 年末年始セミナー特別教本 『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     


    1.悟りの智慧:常識の中の錯覚を超える

       仏教が説く悟りの智慧(智恵)は、私たちの日常の観念を超えている面がある。これを言い換えれば、仏教の教えは、悟っていない人がなぜ頻繁に苦しむかというと、日常の常識的な観念の中に多くの錯覚があるからと説くのである。

       この錯覚を無智、すなわち、事物をありのままに理解できない意識の状態としている。一方、悟った人(仏陀)は、無智を滅して、智慧を得た者である。

       そのため、本稿では、皆さんが、これまでの学校教育や社会生活などの日常の中では、考えたこともなかった思想を紹介することになる。


    2.言葉にはデメリットがある

       まず、言葉の功罪に関してである。私たちは、日常生活において、言葉を使って考え、言葉を使って他人と意思疎通を行っている。こうして、言葉は、私たちの思考と意思伝達の手段として、必要不可欠なものである。

       そして、ほとんどの人は、この言葉にメリットとデメリットの双方があることを考えることがない。言い換えれば、言葉を、必要不可欠であるだけでなく、気づかないうちに、デメリットのない完全無欠なものであるかのように信じている。

       さらに言えば、言葉による思考は、まさに自分自身となっている。気づかないうちに、絶対善であって、自分自身になっているのである。

       しかし、仏教思想は、言葉に功罪があるとする。言葉は、社会生活を送る上では必要不可欠であって、仏陀の智慧の一部でもあるが、しかし同時に、それはデメリットもあり、絶対善ではなく、盲信すべきではなく、自分自身だと考えるべきではないと言うのである。


    3.言葉を重視する西洋思想

       常識的には、言葉と言葉による思考は、私たち人間と動物との、最も大きな違いの一つとされるものである。例えば、「人間は考える葦である」というパスカルの言葉は非常に有名である。

       そして、ご存じのように、現代の人類社会の常識は、西洋の近代思想の影響が非常に大きい。近代哲学の祖とされるデカルトは「我思う、故に我あり」と語った。彼は、ニュートンらと共に、キリスト教が中心のヨーロッパ社会から近代科学思想が生み出される上で、大きな役割を果たした。

       そして、デカルトは、理性を重視する哲学者らしく、いろいろなものを理性に基づいて疑うことを重視したが、「我思う、故に我あり」という言葉は、「今考えている私があることだけは疑えない」という意味があるという(そう解釈もできるという)。言い換えれば、「思考」と「思考する私」という存在を、絶対的な存在と見たとも解釈できる。

       しかし、後に述べるように、仏教の思想では、言葉、言葉による思考、私という存在も、絶対視しないのである。代わりに、思考や感情が静まった状態も重視し、私という存在は相対的なものであると説く。

       さて、西洋の文化の根底にある聖書を見ると、言葉の重視は際立っている。例えば、「はじめに言葉ありき」「言葉は神と共にあった」「言葉は神であった」などと述べられている。実際に、聖書には、神が言葉によって世界を創っていく様子が描かれている。こうして、言葉は、神格化さえされているのである。


    4.仏教が説く言葉のメリットとデメリット

       一方、仏教を含めた東洋思想の中には、言葉と言葉による思考を絶対視しない思想がある。ではいったい、どんなデメリットが言葉にはあるというのだろう。

       そこで、仏教が説く言葉の功罪を私なりに表現すると、言葉によるデメリットは、言葉によるメリットの裏側にあり、それとセットなのである。

       まず、言葉のメリットとは、言葉によって、人は、この世界にある様々な「違い」を理解することができることである。この世界は多様であって、均一ではない。実に様々なものがあり、時とともに変化している。

       そして、この世界にある様々な差異を認識する上で、言葉は非常に重要である。言葉によって、私たちは、あるものと他のものを区別して認識する。例えば、自分と他人・他者、良いものと悪いものなど。

       そして、差異を認識することは、極めて重要な叡智である。近代の科学の発展も、まさに、この差異の認識=分析に基づいている。何が何の原因であって、何がそうではないか、何を変えれば何が変わり、何がそうではないか、という分析があってこそ、科学は成立する。

       また、高度な都市社会であればあるほど、多くの人が協調・共同して生きていくために、倫理的な視点からの物事の区別、すなわち、善悪の区別・分別が重視される。

       では、デメリットとは何か。それは、言葉を注意せずに使えば、色々なものが違うというだけではなく、「全く別のものである」という錯覚が生じて、事物の間の「繋がり」が理解できなくなるというのである。


    5.言葉によって名前が与えられた場合

       例えば、言葉によって名前が与えられたものは、別の名前が与えられたものとは全く別のものと感じられ、その間の繋がりがわからなくなることは非常に多い。

       例えば、「自分」と「他人・他者」についても、そうである。注意深く観察すれば、自分の体は、外部の空気・水・食べ物によってできており、食べ物とは、他の生き物の体であったものである。その意味で、自分と他者は、全く別のものではない。

       科学的に見れば、他人の体を構成していた分子が、呼吸を通して外部に排出されて、同じ場にいる自分の体の中に入り、自分の体を構成するようになる。その逆もそうである。それが絶えず起こっている。

       人の体の分子は、数年ですべて外のものと入れ替わるとされており、その意味で、自分の体を構成する分子のすべては、他の人や生き物を含めた地球の環境と、完全に共有・交換している。

       その意味で、厳密には、自分だけの体などはない。どこまでが「私」で、どこからは「私ではない」という明確な境界も存在しない。「私」と「私以外のもの」は、全く繋がっているのである。

       しかし、日常の私たちは、自分と他人を強く区別して、自分を特別に愛している。これは、いわゆる、過剰な自己愛・エゴイズムの問題を生じさせる。これを言い換えれば、自分と他人を一体と悟る仏陀は、そのために、万人を(一体として平等に)愛することができるのである。

       そして、言葉による過剰な区別の問題は、すべての事柄に及んでいる。山と平地と言っても、両者の間に明確な境界はない。川と岸、海と陸、大地と空、地球と宇宙もそうである。

       生と死の境界も、本来は区別しがたい。どの状態までが生であり、どの状態から死かというのは厳密には区別できない。そのために、心臓死や脳死などの議論があって、あえて人工的に死の定義をしなければならない(そうしないと何が殺人罪かも定義できず、実際に問題が生じることがある)。

       生物と無生物の区分も難しい。一応、生物と無生物を区分する基準は色々と挙げられるが、なぜそれが妥当な基準なのかの根拠は不明確である。そもそも生物は、無生物から生まれたものである。だから、そうした基準は満たさないが、明らかに生物との関連性が深い、中間的な存在がある。

       こうして、私たちが日常、別々だと思っていたものは、言葉による思考の結果として、そう錯覚していただけにすぎず、よく考えれば、両者の間に境界はなく、本質的には繋がったもの、一体のものであることがわかる。


    6.感覚器官による区別の問題

       こうして、言葉によって名前が与えられると、色々なものを別のものだと錯覚するが、この問題の原因は、言葉とそれによる思考だけではない。それに加えて、私たちの感覚器官が、色々な物事を、実際よりも区別して感じさせる面もある。

       例えば、視覚である。私たち人間の視覚は、現代の科学技術に比べると、物事を極めて大雑把にしか映し出さない。同じ場所にいる自分と他人が交換する、空気の分子の流れなどは全く見えない。そもそも、古代は、空気というものがあること自体が、明確には認識されていなかっただろう。

       自分の体の中に入った空気・水・食べ物が、自分の体の細胞を構成していく様子もわからない。口に入れようとする食べ物が、少し前に他の生き物の体だったことは、頭ではわかっているが、視覚的に全く見えない(過去は見えない)。

       こうして、人間の五感は、現代の科学技術のようには、物事を厳密に観察することができるものではなく、そのために、私たちの日常の感覚は、物事を実際以上に区別することを含め、様々な誤った認識をしているのである。


    7.人の五感と意識は錯覚を起こす

       よって、仏教では、五感と言葉による思考をする意識によって、人は世界をありのままに認識することができなくなっていると説く。私たちが普段ほとんど疑っていない、私たちの五感と言葉による思考をする意識が感じているものが、実際の物事の在り方とは異なるということである。

       すなわち、「人の世界の感じ方」と、「世界の実際の在り方」は、別だと言うのである。強く言えば、人は、実際には存在しないものを感じているということになる。そのため、仏教では、人が、その意識(脳)で感じている世界は、マーヤ(幻影)だとも表現されることがある。

       実際にないものを意識(脳)が感じているならば、それは、意識(脳)の中にしか存在しない夢・幻とも似た性質を持つことになる(なお、実際には、夢・幻と同じではなく、一面において似ているということにすぎないので、この点は注意を要する)。


    8.良し悪しの感じ方にも過剰な区別がある

       さて、人が、実際以上に物事を区別する、別物だと感じるという問題は、言葉で名前が与えられる場合だけではない。

       それは、良い悪いなど価値の判断、楽しい・苦しいの苦楽の感覚などもそうである。言葉で言えば、名詞だけではなく、形容詞に関係する事柄である。

       私たちは、日常生活において、良い人・物、悪い人・物という区別をよくしている。しかし、よく考えてみれば、良し悪しに明確な区別はない。

       実際に、辞書を見れば、「良い」とは、「物事が質的に他よりすぐれまさっている」などと定義されている(『広辞苑』第4版・岩波書店)。すなわち、人が何かの良し悪しを決めているのは、他の何かとの比較の結果なのである。

       これは、人によって、同じ対象の評価が異なる理由の一つであり、また、同じ一人の人の中で、時とともに、同じ対象の評価が変化する理由の一つでもある。

       例えば、毎月20万円の給料を良い給料と感じるか、悪い給料と感じるかは、例えば、それまでに自分がもらっていた給料や、自分に近い人たちの給料と比較して、それよりも多いか少ないかによることが多いだろう。

       だから、人によって、20万円の給料が、悪い給料にも、良い給料にも、良くも悪くもない給料にもなる。

       また、同じ一人の人の中でも、給料が15万円から20万円に上がった時には、良いと思うだろうが、その後しばらくして慣れてくると、良くも悪くもないと感じるようになって、25万円に上がって慣れた後に20万円に下がれば、前とは違って、悪いと思うだろう。


    9.良し悪し・苦楽も繋がっている:苦楽表裏

       これは、良し悪しも全く別のものではなく、繋がっていることを示している。なぜならば、20万円から25万円に上がった時に、それを良いと感じる(喜ぶ)からこそ、その後に20万円に下がった時には、それが悪いと感じる(苦しむ)からである。そもそも25万円に上がることがなかったならば、同じ20万円を悪いと感じることはない。

       言い換えれば、良い(楽しい)と思った時に、将来に悪い(苦しい)と思う原因が作られている。これは、お金に限らず、名誉・地位・異性など、すべてにあてはまることだ。わかりやすく言えば、1階から2階に上がれば、見晴らしは良くなり気分は良いだろうが、落ちれば怪我をする可能性があるのと同じである。

       そして、喜びを感じている時に、気づかないうちに、その裏側で苦しみの原因が作られているという理由は、何かを得た後に、それを失う可能性があるからだけではない。

       何かを得て喜んだ後には、それに慣れてしまうと何も感じなくなるので、「もっと得よう」という欲求が生じる。つまり、欲求には際限がないのである。しかし、実際には、それが得られない場合があるから、それが苦しみとなる。

       さらに、際限なく求めれば、必然的に他との奪い合いが深まることになって、それによっても苦しむことがある。こうして、何かを得て喜ぶ裏側には、得たものを失う苦しみや、求めて得られない苦しみや、奪い合いの苦しみがある。このことを仏教では、苦楽表裏と説く。

       ところが、普段の日常の私たちは、良いもの・悪いもの、楽しいもの・苦しいものが、全く別のものだと感じており、その間の繋がりを十分に感じていない。そのために、先ほど述べたように、際限のない欲求、貪りが生じて、他と奪い合い、苦しむのである。

       そして、これも、人の世界の感じ方が、実際の世界の在り方と異なるという教えの一部である。


    10.仏陀の智慧:二つのものは実は一つ

       仏教では、仏陀の智慧は、普通の人には二つの別のものに見えるものが、実は一つであり、同時に生じるものであることを理解すると説く。これは、仏教の教え、その悟りの哲学の、まさに中核である。

       先ほど述べたように、自分と他人を含め、世界の中で、全く別々のものは存在せず、何事にも明確な境界はなく、物事の間には、何かしらの繋がりがある。その意味で、世界は、実際には、一体であるということもできる。

       しかし、私たちが、「自分」という言葉を使って思考すると同時に、私たちの意識の中には、「自分」と「自分以外のもの」の両者が現れる。こうして、「自分」と「自分以外のもの」は、実は一つであり、両者が現れるのは、同時である。


    11.比較で生じる良し悪し・苦楽も、同時に生じる

      また、良し悪し、苦楽も同じである。

       前に述べたように、良し悪し、苦楽は、比較で生じる。だから、比較の対象がなければ、生じない。実際に、人は、一つしかないものに、良し悪しは言わない。「良い地球・宇宙」とか、「悪い地球・宇宙」とは言わない。二つ以上あるものにしか、良し悪しは言わない。

       そして、給料に関して検討したように、何かを良いと感じた時に、そうではないものを悪いと感じる原因が生じ、逆に何かを悪いと感じた時に、そうではないものを良いと感じる原因が生じる。

       言い換えれば、二つだけしかないものに関しては、その一方を良いとしながら、他方を良くも悪くもない(ないし普通のもの)とすることは通常はない。三つあれば、良い、悪い、普通と区別することがあるが、二つだけしかなければ、たいてい良い・悪いの区別となる。

       こうして、良し悪しや苦楽も、セットで生じていることがわかる。この意味で、両者は本質的に一体であり、同時に生じているのである。


    12.比較による良し悪しの変化について

       こうして、良し悪しは、比較によって生じるため、今、何かを悪いと感じていても、それ以上に悪いと感じるものと比較するようになれば、良いと感じることになる。今、悪いと感じていなくても、それ以上に悪くはないものと比較するようになれば、悪く感じる。

       ある私の知人は、最近、職場で、以前は悪いと感じなかった人を悪いと感じるようになった。相手は何も変わっていない。変わったのは、その人以上に悪いと感じていた人が、退社していなくなったことであった。

    同じように、何かを良いと感じていていも、それ以上に良いと感じるものと比較するようになれば、悪く感じる。良いと感じていなくても、それ以上に良くないものと比較するようになれば、良いものと感じる。
      

    ある私の知人は、高校時代からある女性と同級生だったが、高校時代は美人とされていなかった彼女が、同じ大学に進学した後は、美人としてもてはやされることを経験した。

       こうして、良し悪しは比較で生じているので、厳密に言えば、絶対的に良いものとか、絶対的に悪いものというものは、存在しないことになる。


    13.一元の思想・哲学

       こうして、私たちが日常では別と感じている二つのものが、本質的には一体であり、同時に生じていることがある。こうした世界観を「一元」「一元の哲学・思想」など呼ぶことがある。

       なお、注意すべきは、これは、世界は皆同一である、という思想ではない。よって、単純に、自と他や、良し悪し、善・悪、苦・楽などがない、というだけの暴論では決してない。仮にそうした思想があれば、それは一元ではなく、「同一論・均一論」とも言うべきものだろう。

       ここで言う「一元論」とは、世界は多様であって、様々な差異があるものの、同時に繋がりがあって、本質が一つである、ないしは根源が一つである、といったほどの意味である。言い換えれば、世界の中の様々な差異を理解しながら、同時に、その間の繋がり・一体性をも理解することである。


    14.仏道修行の手印や座法が象徴するもの

       さて、これまで述べてきた仏陀の智慧、一元の智慧に基づいて、手印について述べておきたい。

       手印とは、仏陀の悟りを象徴する手の印といったほどの意味で、手によって、仏陀の悟りの内容を象徴したものである。

       例えば、皆さんがお寺の仏様(仏像)を前にして合掌するが、これも手印の一つである。合掌は、指を伸ばして、手のひらを合わせるが、指を組んで、掌を合わせる手印もある。

       また、禅でよく見られるように、両手を重ねて、足の上に置くものもある(仏陀の禅定=瞑想の印として、定印(じょういん)ともいわれる)。

       これらの手印は、二つの手を一つにしていることが多い。そうではなくても、指で輪を作っていることが多い。

       私の解釈では、これは、仏陀の悟りの境地、悟りの智慧が、先ほどから述べているように、二つのものが本質的には一つであることを悟った一元の智慧であることを象徴するものだと考えている。

       右手と左手をそれぞれ、苦と楽、善と悪(良し悪し)、自と他を象徴すると考えれば、合掌は、まさにそれらが表裏一体であることを示している。仏教が説く、苦楽表裏の教えを見事に象徴している。

       さらに、瞑想のための座法も、たいていは、両足を一つにまとめている。蓮華座(パドマアーサナ)は、両足が交差する形で、完全に一体化しているし、達人座(シッダアーサナ)も両足を重ねて一つにしたものである。

       これもまた、手印とともに、対極的な二者が、実は一つのものであることを象徴しているのではないかと思う。


    15.一元思想の象徴である「輪」

       そして、手を合わせると、両腕が輪を作ることになる。特に、両手を重ねて脚の上におけば、前から見れば、両手が見事に輪を作っている。

       このように、二つのものが一つであるという一元の思想の重要な象徴が「輪」である。これが、「ひかりの輪」の団体名の由来の一つである。

       ひかりの輪では、輪は、「万物・森羅万象が、輪のように本質的に一体であり、皆等しく尊いこと」を象徴するものだと考えている。

       さらに、輪は、単純に、二つが一つ、万物が一つ、という意味ではない。輪には、車輪という意味もあり、循環という意味がある。すなわち、二つのものが、循環しているという意味がある。これらの詳細については、後に述べることにしたい。

     
    16.一元思想と、仏教の「縁起の思想」との関係

       これまで述べてきたことは、実は、仏教の中核の思想とされる「縁起」と「空」の思想と、本質的に同じことである。これについて多少説明する。
     

      縁起の法とは、事物が「条件によって生じる」という意味である。「縁」が条件という意味で、「起」は生起という意味である。
     

      「条件によって生じる」とは、「無条件では生じない」、「(条件となる)他に依存して生じる」ということだから、「自分だけでは存在しない」「他から独立して存在しない」という意味になる。
     

      そして、万物が、他に依存して生じていることを言い換えると、万物は、相互に依存し合って存在しており、繋がっている、一体である、ということになる。こうして、縁起の法は、万物が一体であるという一元思想であることがわかる。
     

      例えば、良し悪し、苦・楽は、縁起しているものである。すでに述べたように、それは、比較によって生じ、比較する対象が変わると感じ方が変わり、さらに突き詰めれば、両者はセットで生じているのである。
     

      よって、良し悪し、苦・楽は、条件によって生じ、両者は相互に依存し合っているということができる。


    17.一元思想と仏教の「空の思想」との関係

       次に、仏教が説く「空の思想」との関係である。空の思想とは、事物に「(固定した)実体がない」という意味である。
     

      これは、縁起の思想と不可分である。事物が、条件によって生じるならば、条件が変われば、生じていたものがなくなる、変わることになる。すなわち、固定した実体はないのである。
     

      そして、良し悪し、苦・楽も、空である(固定した実体がない)ということができる。先ほど述べたように、比較の対象が変われば、良いと感じたものが、悪いと感じるようになり、その逆もまたあるからである。
     

      これを理解することで、苦しみを和らげたり、喜びを増やしたりすることができる。この点に関しては、次の章で詳しく検討することにする。



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  • 輪の思想・法則

    以下のテキストは、2013~14年 年末年始セミナー特別教本 『輪の思想と目覚めの教え』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

       本書の本題に入る前に、その前提として、ひかりの輪の中核の思想である「輪の思想」と、それに基づく「輪の法則」について、前回のセミナーまでの特別教本と講義で述べたことを簡潔に復習しておきたい。


    1 輪の思想と輪の法則


    (1)輪の思想とは

       まず、「輪の思想」とは、大雑把に言えば、この世界の万物はバラバラのように見えて、実は輪のように一体であるという思想である。さらに、それから派生して、万物を平等に尊重し、調和を重視する思想でもある。言い換えると、一元的な世界観の思想である。

       この詳細は、過去に発刊したひかりの輪の特別教本である2013年夏期セミナー特別教本、2012年GWセミナー特別教本、2011年夏期セミナー特別教本、2011年GWセミナー特別教本などを参照されたい。

       それらの教本で解説したように、この思想は、最新科学が解明した宇宙の実相と一致し、大乗仏教を含めたさまざまな古来の思想にも共通する真理である。よって、これを学んで修習することは、仏教的な悟り・真の幸福に近づく実践と、本質的に同じ効果があると考えている。

       さらに、最新科学の発見は、時間差をもって未来の社会の思想・価値観に反映されるので、輪の思想は、未来社会の思想だと考えている。

       この思想は、諸宗教の思想・哲学、近代科学や心理学などの研究と、聖地・自然でのさまざまな体験・学びから育んできたものである。そして、それは、結果として、日本の根本精神である聖徳太子の「和の思想」や、仏教・道教等の東洋思想と本質的に通じるものとなった。


    (2)輪の法則(一元の法則)とは

       万物を一体と見る「輪の思想」に基づいて、それを噛み砕いたさまざまな法則を「輪の法則」ないしは「一元の法則」と呼んでいる。

       これまでに、主に、①「三悟の輪の法則」、②「三縁の輪の法則」、③「三性の輪の法則」という三つの法則を紹介してきた。これらの詳細は、先ほど紹介した2012年GWセミナー特別教本をはじめとする特別教本を参照されたい。なお、多くの宗教が、自分の教義・思想を唯一絶対と説くが、ひかりの輪は、いかなる教義や思想も、絶対ではないと考えている。そもそも、法則を現す言葉自体が、意思を伝達するには不完全な道具であるし、すべての人に適した唯一の法則があるわけでもない。それは、輪の法則も同様である。

       その中で、輪の法則の目的は、「今よりもっと、他人よりもっと」とお金や名誉を求める現代主流の幸福だけではなく、万物を一体・平等と見る東洋思想の智恵による幸福を体得し、心身の苦しみを和らげ、幸福に生きることである。この延長上には、大慈悲とか、博愛と呼ばれる、万人・万物を愛する心に近づくことがある。

       よって、西洋的な幸福観だけでよいという人や、悪人を憎んで滅ぼすことが善・正義であるという価値観の人などには、輪の法則は、場合によっては、煩わしく感じられ、好まれないかもしれないし、少なくとも、今の時点では縁がないものであろう。

       輪の思想は、そういった人たちを否定しないが、同時に、現代主流の価値観・常識とは必ずしも一致しない。そして、だからこそ、現代社会に不足や行き詰まりを感じる人には、利益があるものだと自負している。

      また、輪の思想・法則は、前に述べたように、未来社会の思想の一部となり得ると考えており、この意味でも、現在主流の価値観と必ずしも一致しないのは自然である。歴史を見れば、人類の思想は絶えず進歩してきたのである。


    (3)輪の法則に関する読経瞑想

       先ほど述べた三つの輪の法則の詳細は、過去の特別教本に委ねるが、その概略は説明しておこう。そのために紹介するのが、輪の法則の要点をわかりやすく簡潔に表現した短い言葉であり、具体的には、「三(さん)悟(ご)心(しん)経」、「三(さん)悟(ご)智(ち)経」、「三(さん)縁起(えんぎ)経」、「三性(さんしょう)理(り)経」、「十二(じゅうに)宝(ほう)経」の五種類がある。

       これらは、必ずしも仏教に限った思想を表したものではない。しかし、仏教の有名な経典である般若心経のように繰り返し唱える(=読経する)ために作ったので、輪の法則の「読経瞑想」と呼んでいる。四字熟語などの連続で構成され、リズミカルな読経となるように工夫されている。では、以下に、各々の読経瞑想を紹介する。


    2 三悟心経:三つの悟りの輪の法則から

      万(ばん)物(ぶつ)恩(おん)恵(けい)、万(ばん)物(ぶつ)感(かん)謝(しゃ)
      万(ばん)物(ぶつ)仏(ほとけ)、万(ばん)物(ぶつ)尊(そん)重(ちょう)
      万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛す(あいす)

       三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りの心のこと。「三悟心経」とは、三つの悟りの心の教えという意味。この三悟心経は、先ほど述べた「三悟の輪の法則」のポイントを簡潔に表現した読経瞑想である。それでは、一行ずつ、その意味を説明する。


    (1)「万物恩恵・万物感謝」

       これは、「万物を恩恵と見て、万物に感謝する」という意味である。しかし、前にも述べたとおり、この考えが唯一の真理であり、「誰もが、万物を恩恵と考え、万物に感謝すべきだ」と主張しているのではない。

       これは、森羅万象・万物は、見方によっては、恩恵と見ることができ、感謝の対象にすることができることを意味する。よって、万物を愛する心(大慈悲・博愛)に近づきたいならば、この考え方が役に立つ。では、次に、具体的に、万物を恩恵と見て、感謝するものの考え方を例示する。

    ①自分の恵みの大きさに気づき、それを支える万物に感謝する

       人の楽を求める欲求には際限がない。どんな楽を得ても、もっと欲しくなって満ち足りることがない。また、多くの楽を得るほど、逆に、少しのことが苦しみに感じられるようになる。求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、他と奪いあう苦しみも強くなっていく。

       こうして、苦楽の本質として、これを得たならば永久・完全に満足できるという絶対的な楽はなく、そのために果てしなく楽を求め続ける中で、その裏側にさまざまな苦しみが生じるという構造になっている。なお、慈悲による幸福は、裏側に苦しみをもたらさない「真の楽」であるが、ここで扱っている楽とは、あくまでも一般に人が求める、自分のための快楽のことである。

       この際限のない欲求のために、私たちは普段、自分がすでに得ている恵みが、実は膨大であることに気づかなくなっている。これに気づいて、さらに、その恵みを世界の万物が支えていることに気づくならば、万物を恩恵と見て感謝する心境に近づくことができる。

       例えば、古代人が、現代社会にタイムトラベルしたならば、楽園のように感じるだろう。まさに万物恩恵、万物感謝の心境になるに違いない。また、現代社会に限っても、飢餓・戦争・貧困に絶えず悩む途上国の人から見れば、長寿・安全・豊かさの三拍子揃った日本社会は、まさに楽園に感じられるだろう。

       数十万年の人類の歴史の最先端の21世紀に生き、その70億の人間の中でも、三拍子がそろった日本社会に住む者は、客観的に見れば、膨大な恩みを得ている。その恵みは、無数の先人の努力と、今現在の地球の万物が、支えているのである。

    ②苦の裏の恩恵に気づき、苦楽双方の森羅万象に感謝する

       苦しみの裏にも、視点を変えれば、さまざまな恩恵がある。例えば、苦しみの原因である過剰な貪り・執着を弱める契機になったり、自分の苦しみを通して、他の苦しみを理解する心(慈悲)を養ったりと、苦しみは、自分を成長させる愛の鞭の側面がある。

       そして、究極的には、苦しみは、真の幸福に至るための愛の鞭だとも考えられる。仏陀の教えでは、人は自己に過剰にとらわれるがゆえに苦しみ、真の幸福は、自己に過剰にとらわれずに、万人・万物を愛する慈悲によって得られるとする。

       先ほど述べたように、自分の楽を果てしなく求めれば、得られない苦しみ、失う苦しみ、奪いあう苦しみなど、さまざまな苦しみが生じる。それをやめて、万人・万物を愛する慈悲を持てば、苦しみは和らぎ、心は静まり、慈悲による温かい心や他との良い関係・助け合う幸福を得ることできる。だとすれば、自分にとらわれるために生じる苦しみは、この真の幸福の道に入ることを促す「愛の鞭」とも解釈できる。

       こうしたことに気づいて、楽に限らず、苦しみも恩恵と考えるならば、苦楽の双方をもたらす森羅万象=万物を恩恵と見て、感謝することができるだろう。

    ③宇宙・万物こそが最大の恩恵だと気づいて感謝する

       上記の①や②の思索をしていくと、本当の幸福を得るためには、自分のものを果てしなく求めるばかりではなく、自分の得ている多くの恵みに感謝して、足るを知って、他と苦楽を分かち合う慈悲の心を持つことが重要だと気づく。

       この延長上として、自分だけのもの(例えば自分のお金や名誉)ではなく、万人が共有している大自然・万物こそが、最大の宝・最大の恩恵ではないかという気づきがある。これに気づくならば、この意味でも、万物を恩恵と見て、万物に感謝する心境が生じる。

       これは、自分・自分のものに対する過剰な執着を脱却することである。究極的には、わずか百年足らずに終わる「私」に過剰にとらわれることなく、延々と続く人類全体・世界全体を大切にする境地(慈悲・博愛)や、それと連動して、世界全体こそが「真の自己」であるという認識につながるものである。


    (2)「万物仏・万物尊重」

       これは、万人・万物を仏と見て、尊重する心を培うものである。先ほどと同様に、誰もが万人・万物を仏と考えるべきであると主張しているのではなく、見方によっては、万人・万物を仏のようにとらえて、尊重する心を培うことができるという意味である。

       これは、善い人も悪い人もいると考える現代の常識から見るならば、違和感があるだろう。しかし、大乗仏教では、万人・万物の優劣を比較しない思想を有している。万人・万物を平等な仏性の顕現と考える(仏性とは、未来に仏陀になる可能性のこと)。

       さらに、悟りの境地に至ると、この世界が仏の浄土であり、すべての人・生き物が仏に見えるという教えもある。この大乗仏教の思想にヒントを得たのが、「万物仏・万物尊重」である。では、具体的にどのように考えるかについて以下に述べる。

    ①万人が未来の仏

       先ほども述べたが、イエスや仏陀の時代の人々が、突然、現代の日本社会にタイムトラベルしたならば、仏の浄土(仏の集う理想の世界)に見えるのではないだろうか。人々は、原則として人種・階級・宗教・男女・民族で差別をせず、個人の基本的な人権・自由を認め合っている。イエスや仏陀が初めて説いた人間の平等性を子供さえが当然の倫理として理解している。

       また、原子から宇宙までのさまざまな科学的な知識、衣・食・住・医療・交通機関の先進技術がある。イエスや仏陀さえ知らなかった宇宙の真相を子供すら理解し、イエスや仏陀さえできなかった治療や奇跡を、科学技術によって誰もがなしている。

       ところが、現代社会の中では、これらの倫理感・道徳・知識・能力は、当たり前のことになっているので、この社会が仏の浄土だとは感じられない。先ほど、苦楽は相対的で、比較で生じると述べたが、人の善悪・優劣も、比較に基づいて判断されるからだ。善い人でも、同じように善い人ばかりの集団の中では普通の人に見えるし、悪い人でも、同じように悪い人ばかりの集団の中では普通の人に見える。

       しかし、古代と現代を比較すれば、人類は全体として大いに進歩してきたということができるだろう。そして、この視点は、人類全体に対する尊重・愛の心を培うことを助けるだろう。そして、人と人との優劣の比較ばかりせずに、万人・万物を尊重する大乗仏教の思想の価値も、少しはわかるのではないだろうか。

       これに関連するのが、大乗仏教が説く、万人が未来に仏陀になる(可能性を有する)という思想である。万人が、何生も生まれ変わる中で、未来に仏となる(可能性がある)という思想である。輪廻転生を信じない人でも、私たちの来世とは、私たちの次世代であると考えれば、この思想は、人類が徐々に進歩し、未来のいつか、仏の集いの如き社会を形成することを意味するとも解釈できるから、必ずしも非合理的な迷信ではないだろう。

       最後に、仏教では、人は未来に仏になる存在だから、今は仏の子・胎児と考える。そして、人間の子が人間であるように、仏の子は仏だと考えれば、未来に仏になる人類全体を今も仏と見ることもできる。すると、万人を仏として尊重する見方に至るのである。

    ②万人・万物が(仏のように)学びの対象・教師

       この社会には、善いことをしている人もいれば、悪いことをしている人もいる。しかし、見方を変えれば、善いことをしているならば、それは、自分の見習うべき教師であり、悪いことをしていれば、それは自分の反面教師であるとも見ることができる。

       ただし、慢心が強く、謙虚さに乏しいと、他の問題を自分の反面教師にすることはできず、単に他を軽蔑するだけとなる。また、優れた人には妬みの心が生じ、その人さえいなければとさえ考え、優れた人がいてこそ、自分が成長できることが理解できない。

       しかし、慢心や妬みを超えて、謙虚な心を持つならば、万人は、仏と同様に、自分にとって、貴重な学びの対象と考えることができる。そして、この延長上に、万物を仏と見て、万物を尊重する心境に至る道がある。

       謙虚になれば、自分が他に教えている場合さえ、自分が多くを学んでいる事実に気づく。生徒がよく理解できない場合は、自分の教え方にも不足があり、自分自身の理解の不足が、生徒の問題につながっている場合が少なくない。これは、生徒が、自分の問題を知る鏡となっているのだ。

       そして、生徒がよりよく理解できるように努力を続ける中で、自分自身の理解が改善し、生徒の理解も改善することを経験することも多い。これは、ある意味で、生徒が自分の教師を果たしている。こうして、突き詰めると、教師と生徒は、お互いに助け合って、一体となって学んでおり、教えている側と学んでいる側に完全に二分化されてはいない。

       さらに、敵対する者からも、私たちは多くを学んでいる。敵対関係から、お互いの悪いところを責めてつぶし合い、良いところを盗み合うことが多くある。見方を変えれば、敵対者は、切磋琢磨の対象=好敵手と見ることもできる場合が多いだろう。

       究極的には、自己を傷つける者に対しても、先ほど述べた仏陀の教えに基づいて考えれば、自己に対するとらわれを乗り越える手助け・愛の鞭だと考えれば、イエスが「汝の敵を愛せ」と説き、仏陀が「敵こそ教師」と説いた意味もわかってくる。

       こうして、人々・人類は、互いに学び合って、一体となって成長する存在だということができるのではないだろうか。


    (3)「万物一体・万物愛す」

       これは、万物を一体と見ることで、自分だけではなく、他者・万物を自分と同じように愛する心を培う考え方である。より具体的にいえば、例えば、万人・万物と苦楽を分かち合い、共に最高の幸福(解脱・仏陀の境地)に至ろうとする考え方だ。なお、場合によっては、万物こそ真の自己とも考える。

       ここで、万物を一体と見る考え方については、後で述べる「三縁の輪の法則」・「三縁起経」において、具体的に述べる。簡単に概略を説明するならば、①万物が相互に関連していること、②万物が同根であること、③万物が循環していること、である。

     


    3 三悟智経

       次に、「三悟智経」の経文を示す。

      苦楽一体、万物感謝

      優劣一体、万物尊重
      自他一体、万物愛す

       「三悟智経」とは、「三つの悟りの智慧の教え」という意味である。この三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛の三つの悟りのことであり、この三つの悟りの根拠になる三つの智慧の法則(三つの一元法則、三つの輪の法則)を意味する。

       具体的には、苦と楽・優と劣・自と他は、別々のように見えて、実際には輪のように一体であり、それゆえに、万物を感謝・尊重・愛すべきであるという教えである。

       なお、これは、先ほど解説した「三悟心経」と本質的に同じ法則である。どちらも、苦楽・優劣・自他が一体であることを前提にした法則である。両者の違いは、「三悟心経」が、万物に対する心の持ち方を重視し、「三悟智経」は、苦楽・優劣・自他が一体という世界観を強調していることである。

       そのため、両者の教えには共通点が多いが、以下には、これまでに述べなかった内容に限って述べることにする。


    (1)「苦楽一体・万物感謝」

       これは、先ほど述べたが、苦と楽が輪のように一体であることを考え、楽に限らず苦を含めて、万物に感謝する教えである。

       まず、楽は、苦に輪のようにつながっている。楽を際限なく貪れば、求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、楽を奪いあう苦しみなどに陥って、さまざまな苦が生じる。

       そこで、足るを知ることが重要になるが、そのためには、自分がすでに得ている楽が、実際には膨大であることに気づいて感謝し、さらに、その恵みを支えているのは、この世界の万物だと気づいて万物に感謝する。

       次に、苦の裏にも楽がある。苦の経験で、苦の原因となっている楽の貪り・とらわれ・執着を弱めたり、他の苦しみを理解する慈悲を培ったりすることができる。これに気づいて、楽に限らず、苦しみを含めた万物に感謝するのである。

       こうして、楽と苦が、輪のように一体と気づくと、真の幸福とは、楽を貪り苦を厭うことではなく、自分の恵みに感謝して足るを知り、他に自分の楽を分け与え、他の苦しみを分かち合うこと、すなわち、慈悲の心と実践であると気づくようになる。言い換えるならば、真実は、自と他の幸福は一体であり、自と他双方の幸福を一体として求めることが真の幸福の道である。


    (2)「優劣一体・万物尊重」

       この「優劣一体」という教えは、二つの側面がある。一つ目は、先ほど述べたことで、優れているとされる者も、劣っているとされる者も、その間にはつながりがあって、人と人は、互いが互いの教師・反面教師の関係にあって、互いが学びの対象であるということがある。

       二つ目は、人の長所と短所は裏表であって、その意味で、優劣は、輪のように一体であり、それを踏まえ、人を優劣に二分化しすぎず、万人・万物を尊重するというものである。

    ①長所の裏に短所

       第一に、長所の裏には、短所がある。例えば、何かの長所を有するということは、その長所を持っていない人の苦しみを、体験上は理解できないという短所でもある。仏陀の教えでは、本当の幸福の道は、慈悲の実践であり、他の苦しみを理解して、取り除く手助けをする。これを考えれば、何かの長所の裏には、必ず短所があることがわかるだろう。

       さらに、慢心によって、長所が短所に変わる場合がある。人は、何かの長所のために優れていると評価されると、慢心を抱いて傲慢となり、他に対しては、見下して軽蔑しがちになる。しかし、自分の長所は、自分だけの力ではなく、他者・万物に支えられたものである。慢心・過信に陥ると、これが見えず、感謝は弱り、油断を招き、努力は鈍り、思わぬ落とし穴にはまって失敗したり、堕落したりして苦しむ。

       なお、優れた他人に対しては、依存心などによって、絶対視する場合があるが、長所と短所は表裏だから、完全無欠な人間などは存在しない。さらに、その人が慢心を抱けば、悪く変わる恐れがあるが、他人に依存されている場合は、慢心を抱く可能性が高くなる。

       重要なことだが、「優劣一体・万物尊重」という教えは、特定の人を絶対視することと矛盾する。特定の人を絶対視すれば、それ以外の人の価値は、否定される場合が多い。例えば、神の化身として信者に絶対視された教祖がいれば、その教祖に敵対する者は、信者には、悪魔に見えてしまう。

       こうして、万物への尊重とは、特定の対象の絶対視・過大視の否定でもある。

    ②短所の裏に長所

       次に、短所の裏にある長所について考えてみよう。前に述べたとおり、慈悲の体得が本当の幸福の道であるという視点からは、何かの短所を有することは、同じ短所を持っている人の苦しみが理解できるという長所でもある。また、その短所を乗り越える地道な努力をすれば、同じ短所を持つ人々が、それを乗り越える手助けをする能力も生じる。

       こう考えれば、自己の短所を見て、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、優れた他人を見て、妬ましく思ったりすることを避けることができるだろう。また、逆に、他の短所を見て、安直に軽蔑する心も乗り越えることができる。軽蔑している者が、自分が理解できない他人の苦しみを理解する力があって、さらには、見下しているうちに成長して、自分ができないような人助けを行う力を得る可能性もあるのだ。

       なお、妬みを取り除くには、妬みの対象は、実際には自分が思うほどには幸福ではないことを考えるのも良い方法だ。人は、他から見て恵まれていても、本人は、もっと欲しいと思っており、満ち足りてはいない。さらに、恵まれているほど、得たものを失う、落ち目になる不安や苦しみや、他と争う苦しみが強くなる。妬みがあると気づきにくいが、持つ者の苦しみ、持たない者の幸福がある。

       こうして、短所と長所は表裏、優劣は一体という視点に立って、慢心、過剰な依存、妬み、卑屈、軽蔑などに陥ることを避け、万人・万物を尊重する心を持つのである。

    ③他と共に、成長し幸福になるという考え方

       さて、こうして、優劣が一体だと考えると、真に優れた者になる道とは、他に勝とうとばかりすることではなくて、万人・万物を教師として学ぶこと、さらに言えば、他と互いに学び教え合って、他と共に成長しようとすることであると気づく。

       具体的に言えば、他と、互いの長所・短所を分かち合うこと、すなわち、相手の長所を学び合い、自分の長所を与え合い、相手の短所を反面教師として学び合って、他と共に成長しようとすることである。

       これを言い換えれば、真実は、自と他の成長は一体となって進むものであって、他に勝とうとばかりするのではなく、他と共に成長しようとする者こそが、真に優れた者である。

       逆に、プライドなどで、自と他を区別する限りは、自分の成長は止まって、堕落していく。なお、他と共に成長しようとする精神は、仏教が説く大慈悲・四無量心の実践に通じる。この意味でも、私たちは、万人・万物を学びの対象として尊重すべきであろう。

       最後に、この点に関連して、現代社会が重視する「競争」について検討する。競争とは、本来は、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を分けるものではなく、全体の向上のために、互いの長所を学び合い、短所をつぶし合う、切磋琢磨の過程であるべきだろう。

       さらに、個々人が自分の個性を見いだし、自分なりの道を見いだす過程とも解釈できるだろう。そうした競争は、慈悲の一形態とも解釈できるだろう。


    (3)「自他一体・万物愛す」

       自と他が一体であるという見方は、①自と他は相互に関連しており、②自と他は同根であり、③自と他は循環している、ということである。なお、次の三縁起経で、自と他に限らず、万物について、相互に関連していること、同根であること、循環していることについて詳しく述べるので、それを参照していただきたい。

       まず、自と他が相互に関連していることは、明白である。自分も他人も、空気・水・食べ物・他の人々や生き物・大自然・大宇宙といった万物の支えがなければ、生きることさえできない。

       次に、宇宙物理学による宇宙の歴史によれば、自と他を含めたこの世界の万物が、ビッグバンから生じた同根のものであるし、また、地球上のすべての生物は、この地球生命圏という一つのものから生じた同根のものだということもできる。

    ①自と他が輪のように一体:他が自分に、自分が他に

       さらに、自と他が循環していることについては、まず、自分の身体を構成する分子は、呼吸・飲食・排泄・発汗などを通して、絶えず外界のものと循環・交換し合っており、この意味で、自と他の構成分子は循環・交換し合っている。

       さらに、自分が生きるためには、他の生き物の体が、食べ物として自分の体の一部となり、自分が死んだ後は、その体を構成する分子は他の生き物の体の一部となる。生き物の体を構成する有機物は、死後、そのほとんどが他の生き物にリサイクルされるという。こうして、自分が生きている間は、他の生き物が自分になり、自分が死んだら、自分が他の生き物になる。こうして、他が自分に、自分が他になり、自と他が輪のように一体となっている。

       これを言い換えると、生と死が輪のように一体であるとも表現できる。自分の生は、必然的に他の死・犠牲を伴い、自分の死は、他の生に活かされる。こうして、自と他の間で生命のやりとり=分かち合いがあり、そのために、この地球生命圏では、生きる者は必ず死ぬ宿命にある。何ものも自分だけが永久に生きることはできず、死ぬこと=他の生に貢献することを前提条件として、生きている。

       そして、人間の思考・精神に関しても、自と他のそれは別々のものではなく、輪のように一体である。何人も、自分だけで作った自分の思考などはない。思考の土台の言語を、親をはじめとする他者から習い、膨大な知識・思考を他者から吸収し、その結果として自分の考えができている。また、逆に、自分の言動が、絶えず他者に影響を与え、他者の思考・精神を作っている。こうして、自分と他人は、物心両面で一体である。

    ②万物こそ真の自己と考え、万物を愛する

       こうして、自分が他になり、他が自分になるというのであれば、真の自分・自己とは何か。それが、万物こそ真の自己であるということになる。そして、それに基づいて、万物を愛することが幸福の道である。

       実際に、自と他が一体だと気づくならば、自分だけでなく、他を含めた万物を、自分と同じように愛する心を持ちやすくなる。より具体的には、他と苦楽を分かち合って、共に幸福になろうとすることである。その究極として、共に解脱・仏陀の境地に至ろうとすることがある。

       なお、自と他が一体であるという考えをより深めるならば、①先ほど述べたように、自と他は物心両面で一体であることに加えて、②「万物恩恵・万物感謝」の教えで述べたように、「自と他の真の幸福が一体であること」や、③「万物仏・万物尊重」の教えで述べたように、「自と他の真の成長が一体であること」という視点を含むことがわかる。

     


    4 三縁起経

       次に、三縁起経について述べる。

      万物関連、万物一体
      万物同(どう)根(こん)、万物一体
      万物循環、万物一体

       「三縁起経」とは、三つの縁起の教えという意味である。「三つの縁起の輪の法則」とは、仏教に見られる、万物が一体であると主張する法則を意味する。

       この三つの縁起の教えの詳細は、別の特別教本を参照していただき、ここでは、要点を簡潔に述べることにする。

       仏教が説く「縁起の法」は、万物が相互に依存し合って存在し、互いに関連し合っていると説くものである。また、大乗仏典の中には、例えば、毘慮(びる)遮那仏(しゃなぶつ)を宇宙万物の根源と説く経典や、万物の根元として阿頼耶(あらや)識(しき)という根本意識があると説く「唯識思想」の教えがある。これは、世界の万物が同根であるという思想である。さらに、大乗経典の中には、宇宙の根本原理を周期的な運動・循環と説いているものがある。

       これらは皆、万物が一体であるという世界観の根拠となり、万物が一体であることを深く理解する手助けとなる。

       そして、これらの思想に対して、最新の科学の理論が、同じような世界観を主張している。詳細は、別の特別教本に述べているので、ここでは、簡潔に述べておく。

       まず、万物が相互に関連しているという世界観としては、主に量子力学・分子生物学などの世界観がある。また、万物が同根であることを説く世界観としては、宇宙の万物が一つの火の固まりから生まれたとする「ビッグバン宇宙論」がある。

       さらに、万物が循環していることを説く世界観としては、分子生物学の世界観がある。生き物の体を構成する分子は、絶えず外界のものと入れ替わって循環しており、さらに死んだ生き物の有機物は、ほとんど他の生き物の体に使われ、リサイクル=循環しているという。

       また、人体とよく似た現象が、宇宙物理学が説く星々の生成と消滅である。人の体と似て、星が寿命を迎えて消滅すると、それを構成していた物質が、新たに生まれる星の材料となって循環するのである。

       次に、万物を一体と見て、万物を愛する心を強めようとする際には、次の三つの意味で、万物が一体であることに注意すると、効果的である。

       第一に、「万人が物心において一体」であることである。万物が物理的に関連しあっているとともに、人と人の精神も関連しあっていること。

       第二に、「万人の幸福は一体」であることである。真の幸福は、他とのお金や名誉の奪い合いによるものではなく、他との苦楽の分かち合い(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)によって得られるものである。また、万人が共有している宇宙の万物・大自然こそが、万人にとって、最大の恩恵・幸福という考え方もある。

       第三に、「万人の成長は一体」であることである。前に述べたが、真の成長の道は、他に勝とうとばかりすることではなく、互いの長所短所を分かち合うこと、すなわち、お互いの長所を学び合い、短所を反面教師として学び合い、他と共に成長しようとすることである。

       この考え方の延長上として、人類を一つの大いなる生命体と見て、それこそが最も偉大な生命体と見ることもできるだろう。


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  • ひかりの輪の「輪の法則」とは

    以下のテキストは《改訂版》2011年GWセミナー特別教本『 ひかりの輪と日本と輪の思想』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。
  • 新年号「令和」と十七条憲法:和と輪の思想

    以下のテキストは、2019年GWセミナー特別教本『仏陀の覚醒の思想と脳科学 「令和」の和と輪の思想』第3章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.新年号「令和」は、十七条憲法の和の思想を重視した結果

    新年号「令和」の考案者とされる国文学者の中西進氏によれば、新年号は、日本の精神的な支柱ともいうべき聖徳太子の十七条憲法の和の思想を重視した結果であるという。

    読売新聞(2019年4月17日)によれば、以下の通りである。

    新元号「令和」を考案したと有力視されている国文学者の中西進氏は(中略)「元号の根幹にあるのは文化目標」とした上で、令和の「和」について「『和をもって貴しとせよ』を思い浮かべる」と述べ、十七条憲法の精神が流れているとの考えを語った。 

    中西氏は、自ら考案者だとは明言しなかった。しかし、「元号は文化」と考える中西氏は、604年に聖徳太子が制定したと伝えられる十七条憲法の平和精神を重視。「大和の心」は万葉にも流れ、平和憲法にもつながるものだとした。 

    政府は「令和」や他の元号案の考案者を明らかにしていないが、関係者の間では、令和の考案者は中西氏だとの見方で一致している。

    さらに、読売新聞のインタビューの中で、中西氏は、以下のように語っている。

    (令和の「和」は)聖徳太子が作った十七条憲法の第一条「和をもって貴しとせよ」を思い浮かべます。(中略)(十七条憲法は)1400年前くらいにできた平和憲法です。604年に制定される前まで、あの当時の日本は、朝鮮半島で泥沼の戦争をしていた。その戦いを停止した時期にできたのが、十七条の憲法です。 

    だから、「安部さん、あなたも十七条の憲法の一部を年号にしなさいと」とも、考案者の一人はひそかに思っていた。僕の名前に限りなく近い人間が考えた(笑)。

    「令」とは何か。辞書で引くと、善いという意味です。(中略)善は、まず言葉として美しいし、儒教の最高の理念でもあります。そして、第二に、令は律なりという定義がある。法律の律です。

     

    2.太子の和の思想は、輪の人間観に立脚:十七条憲法から

    さて、聖徳太子の十七条憲法における和の思想は、ひかりの輪が重視する「輪の思想」に立脚し、分かちがたく結びついたものである。

    まず、十七条憲法では、最初の第一条で「和をもって貴しとなせ」と説いて、仲良くすること、争いのないことを強調している。そして、重要なことは、この和の精神の根拠として、第十条に、万人平等主義的な人間観・思想が説かれており、それを「輪」という言葉で喩えているのである。

    具体的には、

    「自分だけが聖人で、他が愚かであるということはない」、

    「人は皆賢くも愚かでもあり、それは、耳の『輪』に端がないようなものである」、

    「(他に)憤ってはならない」

    などとしている。

    そして、最後の第十七条に、重要なことを決める際に皆で話し合う衆議の重要性を説いている。これもまた、輪に象徴された平等主義的な人間観に基づく民主主義的な思想である。

    こうして、十七条憲法は、全体として、輪の人間観に基づいて、慢心や自我執着と、それによる他者への軽蔑・怒りを捨てて他を尊重し、和や衆議を重視せよという内容になっているのである。

    そして、この聖徳太子の「ワ」(輪と和)の思想は、ひかりの輪の思想と非常によく似ている。特に、この第十条の教えは、後で詳しく述べるひかりの輪の提唱する「輪の思想」の一部であり平等主義的な世界観である「優劣の輪の教え」そのものである。

    また、ひかりの輪が重視する大乗仏教の世界観は、優劣の比較が強い現代の競争社会と違って、万人平等主義的な思想である。聖徳太子も、仏教を篤く信仰し、十七条憲法の第二条で「篤く三宝を敬え」と説き、大乗仏教の経典を解釈している。

    その思想には、全ての人々・生き物が仏性(未来に仏陀になる可能性)を有するという平等主義の思想がある。また、偶然の一致であろうが、古くから仏教の教えの象徴は、法輪(法の車輪・ダルマチャクラ)とされており、輪は仏教の教えの象徴でもあるのだ。

    いや、より正確に表現すれば、そもそも日本には、仏教伝来よりはるか以前の太古から、平等主義的な人間観・世界観である「輪」というものが根本的な精神としてあって、それが太子にも染み込んでいて、外来の思想である仏教は、その日本伝統の思想との共通点があったから、日本文化の中に溶け込むことができたのではないだろうか。よって、太子は、仏教の言葉ではなくて、日本古来の万人平等の思想の象徴である「和」と「輪」という言葉を用いたのではないか。

    また、中西氏は、新年号において、「和」を修飾する「令」という言葉の意味として、「辞書で引くと、善いという意味です。(中略)善は、まず言葉として美しいし、儒教の最高の理念でもあります。そして、第二に、令は律なりという定義がある。法律の律です。」と述べている。だとすれば、令には「善法」という意味があるとも解釈できるのではないだろうか。

    そして、太子にとっては、輪に象徴される日本古来の思想であって、仏教の思想でもある平等主義的な人間観に基づく平和・調和の思想こそが、まさに「善法」であっただろうし、その意味で、令和の真の意味は、「善い法に基づく平和・調和の実現」と解釈できるのではないだろうか。

    また、日本に仏教を導入した聖徳太子は、日本の伝統的な思想を無視して仏教を導入したのではなく、両者をマッチングさせて、両者の共通点を強調して、それを導入したのではないかと思う。いわゆる和魂漢才(和魂洋才)・和洋折衷である。

    そして、その後も、この傾向は続き、日本の仏教は、万人平等主義の輪・和の思想に合わせて、すべての生きものに仏性(未来の仏陀になる可能性)を認める大乗仏教の考え方が主流となった(これを「一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」などという)。

    さらには、インドの大乗仏教さえも超えてしまって、生きもの以外の万物・山や川や草や木にまで、仏性を認める日本独自の解釈を生むことになった(山川草木悉(さんせんそうもくしつ)有(う)仏性(ぶっしょう)〔悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)〕)。これは、八百万(やおよろず)の神などとして、大自然すべてに神性を認める神道にも見られる。

    そして、その源は、仏教や神道の歴史をはるかに超えて遡り、縄文時代の輪の精神や、それに基づく精霊信仰などの原初的信仰にあると思われる。

     

    3.ひかりの輪と聖徳太子の輪の思想

    なお、聖徳太子は観音菩薩の化身とされているが、さまざまな形態を有する観音菩薩の中で、「輪」を象徴とした「如意輪」観音菩薩の化身とされている。こうして、輪を象徴とする観音菩薩の化身である太子が説いた「輪」の教えが、偶然にも、ひかりの輪の「優劣の輪」の教えと同じ内容だったのである。

    また、繰り返しになるが、十七条憲法が、その全体として、第十条の「輪」の平等主義的な人間観・世界観に基づいて、第一条の「和」を重視する構成となっていることも、ひかりの輪の活動目的と全く同じ表現となっている。

    具体的には、ひかりの輪の公式サイトには、「新団体『ひかりの輪』では、...すべての人々...の間には、...輪のような繋がりがあり、皆が助け合って生きることが、大切だという...ことを『輪』という言葉で表現したのです。...こうして、新団体『ひかりの輪』は、21世紀の社会で、...人と人の和合・助け合いが進み、...さらには、人類と大自然・地球との調和が深まることを願っています。」と明記されている。

    これらは意図的に一致させようとしたのではまったくなく、ひかりの輪発足から4年を経た2011年になって聖徳太子の十七条憲法を精査して気づいたことである。不思議なことであるが、日本民族として共有するDNAの影響であろうか。

     

    4.日本の「和の思想」は、縄文の「輪の思想」から

    さらに、「輪」は、日本民族の根本思想でもある。繰り返しになるが、日本の文化の根本には、和の思想があるが、実は、この和の思想の源が、輪の思想であり、それは縄文時代まで遡るという識者の見解がある。

    その前に、まず、日本人は、自分たちのことを「ワ」と呼び続けてきた。『魏志倭人伝』には、日本人・日本国が、倭人、倭の国と表現されている。これは、当時の日本人が自分たちを「ワ」と呼び、それを聞いた中国人が、それに漢字の倭を当てたというのが有力である。

    そして、日本人は一人称に、同じように、我、我々、私など、ワという言葉を当てている。これはどうやら日本語のルーツとなった言語から来たようである。

    ワは、日本を表す言葉として今も残っている。国の名前は、倭から大和(やまと)に変わったが、「やまと」に当てられた漢字には、和=ワが入った。さらに、和洋、和食、和室と、日本のものを和=ワという音・言葉で表し続けている。

    そして、冒頭に述べたように、この倭・我・和などの漢字が当てられたワという言葉の語源は何かというと、一説に、「輪」・「環」ではないかという。それは、縄文時代の集落の形状が輪であったことから来るということである。

    いわゆる、環状集落、環状列石(ストーンサークル)と呼ばれる縄文時代の居住形態である。輪の中に広場があり、集会その他の共同活動が行われたのではないかと推察されている。

    そして、この輪の居住形態は、単に集落の物理的な形態を意味するだけではなく、万人が平等で一体という共同体の運営理念の現れであり、ここに、今現在も依然として根強く残っている、和を重んじる日本文化の源があるという説である。ここからは、日本のワの文化の源流は、聖徳太子の十七条憲法が始まりではなく、縄文時代の輪状の集団生活に源があるということになる。

     

    5.「和の国」は「輪の山」から、大和政権の発祥地は三(み)輪(わ)山(やま)

    さて、ここで参考までに、もう一つ不思議な、輪と和の合体がある。それは、倭の後に、日本の国の名前となった「やまと(大和)」についてであるが、この語源にも、なんと、輪が関係している。

    やまと(大和)や、やまたい(邪馬台)の語源は、山の麓(ふもと)であるという説があるが、具体的には、大和政権の発祥地になった奈良県の三輪山の麓とされているのである。こうして大和は、三輪山から生まれ、和の国が、輪の山から生まれたことになる。

    また、この付近は、学問的に大和政権の発祥の地とされているが、最近は、当地にある纒(まき)向(むく)遺跡の発掘による新発見が相次ぎ、それをさらに遡って、卑弥呼の邪馬台国の地としても非常に有力になりつつある(すなわち、邪馬台国畿内説=大和朝廷の前身がそのまま邪馬台国であるという説)。

     

    《関連資料1》縄文時代の輪の思想

    1「『わ』の思想の源流-十七条憲法以前の和の思想-佐倉哲」

    http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/origin_of_wa.html

    2「環状集落に見る円の思想」(武光誠氏『一冊でつかむ天皇と古代信仰』〔平凡社〕)

    3「森の思想」「循環の思想」(梅原猛氏の著書『「森の思想」が人類を救う』〔小学館〕、

    梅原猛氏、稲森和夫氏『人類を救う哲学』〔PHP研究所〕など)

     

    《関連資料2》 聖徳太子「十七条憲法」(第一条、第十条、第十七条)

    ■第一条:和の重要性

    一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

    〔現代語訳〕

    一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。

    ■第二条:仏教・三宝の尊重

    二に曰わく、篤(あつ)く(あつく)三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、即ち(すなわち)四生(ししょう)の終帰(しゅうき)万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れ(いずれ)の世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く(よく)教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってかまがれるを直(なお)くせん。

    〔現代語訳〕

    心から三宝を敬いなさい。三宝とは仏と法理と僧侶のことです。生きとし生けるもの最後に行き着くところは、どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪い者は少ない。良く教えれば正道に従う。仏教に帰依しないで、何で曲がった心を正すことができようか。

    ■第十条:平等主義的人間観--人は皆賢くかつ愚か=万人に仏性あり、万人は皆凡夫

    十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖 (いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙 (おこな)え。

    〔現代語訳〕

    十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

    ■第十七条:衆議の必要性

    十七に曰わく、それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もし失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

    〔現代語訳〕

    十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

     

    6.「大和魂」の真の意味--和魂洋才(和魂漢才)

    ここでは、「輪(和)」の思想に関連して、「大和魂」という言葉と、その本来の意味について述べたい。

    今現在の大和魂という言葉のイメージは、第二次世界大戦の軍国主義、突撃精神、無理な精神主義などであろう(その象徴の敗北した軍艦が戦艦大和)。しかし、大和魂の本来の意味は、外国の文化等をそのまま受け入れるのではなく、日本の実情に合わせて応用する力などを意味するものだった。歴史的には、源氏物語にある「和魂漢才」という言葉が始まりとされる。漢才とは中国からの才能などを意味して、これが、後には「和魂洋才」となったのである。

    そもそも、和という言葉には、①おだやかなこと、②なかよくすること、あらそいのないこと、という意味に加えて、③(二つのものを)調和させること(二つを混ぜ合わせること)といった意味がある。そして、この調和は、中庸・バランスと深く結びついており、この点においても、中道・中庸を重視する仏教の思想と通じるものがある。

     

    7.「十七条憲法」に見られる和魂漢才

    そして、輪と和の思想を表現した聖徳太子の「十七条憲法」は、まさに和魂漢才の精神に基づくものだと私は考えている。

    まず、太子の時代に至るまでの日本の歴史的流れは、縄文時代は、前にも述べたとおり、輪と和の時代(平等的な共同体と戦争のない平和な社会)であった。しかし、弥生時代から、大陸の文化が入り、それは、上下の区別=王権と戦争の文化が特徴となった。

    そして、その結果として、太子の十七条憲法は、縄文以来の日本列島の民族の伝統である輪と和の文化と、大陸から来た王権と戦争の文化の折衷=和魂漢才であった。

    具体的にいうと、前に紹介したように、第一条・第十条・第十七条では、和・輪・衆議の重視などが説かれている。これは縄文時代以来の伝統的な輪の思想である。

    しかし、その一方で、第二条は、渡来文化の仏教を重視し、仏・法・僧の三宝を敬うことを説き、第三条は、日本の王である天皇に従うことを説いている。三宝の中で、仏と法は別にしても、僧を敬うことや、天皇に従うことは、万人平等主義の輪の思想とは異なった、渡来の文化であろう。

     

    8.日本の天皇の特異な性質

    こうした、和魂漢才・和洋折衷の思想の結果として、日本の天皇は、中国の皇帝と違って、(宗教的)権威・象徴ではあっても、権力者では必ずしもなかった。権威と権力の両方を兼ねた絶対権力者ではなく、その意味で、天皇による独裁色は弱く、王の平等性が高かった。

    実際に、聖徳太子の時代自体が、実務権力者が摂政である聖徳太子や蘇我馬子などであり、天皇は推古天皇という女帝であった。そして、卑弥呼を含めて、日本が女帝を受け入れたのは、女性が男性と違って権力者になりにくいという安心からではないかという説もある。

    その後も、日本の歴史では、天皇・朝廷という宗教的な権威は維持されたまま、貴族や将軍が実際の権力を有する状態が続いた。天皇・朝廷も絶対権力者ではないが、時の権力者である貴族・将軍も、なるべく独裁を避ける傾向があった。

    明治体制になり、天皇が憲法上は宗教と政治の双方の権力を有しても、実際の政治の実務に関与せず、「君臨すれども統治せず」という原則があった。そして、昭和以降はまさに象徴天皇制の時代となった。

    この日本の天皇のあり方が、他の国の王室と違って、約2千年もの間、同じ王室が続いた背景だともいわれている。他の国では、統治者・権力者が変わる際には、従来の王室は滅ぼされる必要があったが、日本には、それがなかった。

    なお、思想家の吉本隆明が述べているが、日本の歴史上、単に権力者ではなく、天皇を打倒して、自分がこの国の宗教的な権威=現人神になろうとした人物は、ほとんど見られず、オウム真理教の麻原彰晃は極めてまれな例である(自分が日本のキリストになる予言をし、自らを神聖法皇と名付け、天皇・皇居に対するテロ構想も有していた)。あとは、可能性として、織田信長に、その傾向があったのではないかという説がある。

     

    9.真の大和魂・真の和魂洋才が必要な21世紀の日本

    さて、こうして大和魂という言葉は、本来は和魂漢才・和魂洋才の意味を持っていたが、第二次世界大戦を通して、そのイメージがひどく歪められた。戦後は、大和魂という言葉は非常に誤解され、日本の主流思想ではなくなってしまった。

    そして、それと同時に、その本来の意味である和魂漢才・和魂洋才の精神も、戦後の日本社会では、徐々に失われつつあるのではないかと思う。すなわち、時代を追うにつれて、日本は、欧米文化(特にアメリカの文化)を自国に合わせて咀嚼することなく、そのまま輸入しつつあるのではないか。これは、現在の21世紀の日本に住む私たちの心身に、多大な影響を与えている。

    その例として、戦後の昭和期の日本の社会には、平等主義である輪・和の思想の反映ともいうことができる経済体制があったが、今は市場原理主義の導入の下で、崩壊しつつあるということがある。

    いわゆる、戦後の昭和期の、終身雇用制・年功序列という平等な雇用体制が、平成に入って、米英中心の弱肉強食・市場原理主義の経済体制の導入などによって、なくなった。そして、勝ち組・負け組という言葉に見られるように、人々の間に、競争とそれによる優劣の区別・貧富の差が強まり、幸福な勝ち組と不幸な負け組という社会の分断が深まりつつある。

    それは心の問題に繋がり、負け組の自己否定・絶望からの自殺・欝病の増大を作り出している。そして、勝ち組の方もじつは同様で、慢心・独善からの突然の没落(例えばバブルの崩壊など)などの問題を作り出していると思う。

    ここで、私は、現代社会に必要な和魂洋才という意味での、本来の大和魂の実践が必要ではないかと考えている。欧米の競争原理が世界規模で展開されて、日本社会にも浸透する中で、なおかつ日本独自の文化である「輪と和の思想」、すなわち万人を平等に尊重して和合する精神を維持する智慧を見いだすことである。

    社会主義の試みが失敗に終わって、資本主義という競争原理に基づく社会を否定することが、少なくとも直ちには非現実的であったとしても、その中で、人の精神と社会の調和を守るために、私たちなりに十分な工夫をして、それに対処するのである。

     

    10.競争社会を愛で生きる--和魂洋才の実践

    その一つの例として、私は、「競争社会を愛で生きる」という日記エッセイを書いたことがある。それは、仏教的な、一元的な思考に基づいて、どういったものの考え方をして、どういった実践をすれば、競争社会の中で、万人への尊重や愛を失わずに生きることができるかについて述べたものである。それによって、社会の分断を和らげることも意図している。

    その要点をいえば、まず、競争の本来の意味とは、互いの切磋琢磨を通じて、全体の幸福・成長を実現する手段であって、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を選別することではないということである。しかし、現在は、全体の成長・幸福という目的を忘れ、本来は手段である勝ち負けというものが目的化してしまっている。

    これを改めるならば、勝った者は、自分が今あるのは、負けた者との切磋琢磨を含めた、全体の支えによってであって、決して自分だけの力によってではないことを絶えず謙虚に認識するべきである。

    そして、慢心に陥らないようにして、全体への感謝を忘れず、その恩返しとして、負けた者を含めた全体を慈しみ、苦楽を分かち合うことである。そうせずに、慢心に陥れば、自分を支えていたものが崩れて、中東の独裁者やバブルが崩壊した際の金融エリートのように、没落することになる。

    また、負けた者も、競争の本来の意味は、全体の成長・幸福であり、勝者と敗者というのは形上のことであると考えるべきである。そして、真の勝者は、切磋琢磨によって向上した全体であること、すなわち勝者と敗者を含めた全体であると認識することである。

    そして、勝者に対して、彼らが先頭に立って全体を引っ張り上げた面があることを認識し、素直にその価値を認めて称賛しつつ、同時に、勝って上に立つことばかりに人の価値や役割があると錯覚してはならない。

    勝者の立場にとらわれずに、優れた他人を支えるという立場・役割や、自分の敗者としての経験を活かして、他の敗者の苦しみを理解して、正しく助ける(ともに勝者を妬み憎むという堕落をするのではなく)といった役割にも、勝者と同じだけの価値があることに気づくべきである。

    こうして、他を活かすこと、他を助けることができるようになれば、それは集団・組織・国の中で非常に貴重な存在となる。今の世の中では、皆が他に勝とうとし、実際に勝つ人も少なくないが、他を活かす、支える資質を持つ人は、逆に少ないからである。

    その結果として、そういった人たちこそ、将来において、真に人の上に立つ存在(真の勝者)となる可能性がある。「分裂すればできることはほとんどなく、団結すればできないことはほとんどない」という言葉があるが、人は勝者であっても、自分一人の力でできることは実際にはほとんどなく、逆に他を活かして支えるなどして団結すれば、できないことはほとんどない。

    これとは逆に、単に勝った者を妬み、自らは卑屈になって努力をやめるならば、せっかくの自分の役割・価値を見失ってしまい、その結果として、全体がレベルダウンすることになる。こういった人は、妬みや卑屈の内奥に、じつは努力を嫌がる怠惰を抱えている場合が少なくない。

     

    11.大日本帝国の間違った大和魂

    さて、オウム真理教も、『宇宙戦艦ヤマト』などのパロディを使ったりして、「ヤマト」という言葉に縁があった。しかし、その教えと活動は、大日本帝国と類似していた。

    オウム真理教の「グルへの帰依」に基づく一連の事件への突っ込みも、大日本帝国で用いられた誤った大和魂の精神と似ている。それは、天皇を現人神として、日本は神国だと信じ、軍国主義で、排外的で、合理的ではない無理な精神主義や突撃精神である。戦艦大和の特攻などは、オウム真理教の突っ込みと似た感じがする。

    そして、このオウムに投影された大日本帝国の誤った大和魂に対して、オウムを乗り越えんとするひかりの輪の立場から見るならば、日本人が、真の大和魂の精神をよく理解することが、大日本帝国の過去を十分に乗り越えることだと感じられる。

    真の大和魂とは、大日本帝国の戦艦大和のイメージではなく、大和=大いなる和という漢字が表すとおり、日本の本来の思想である、和と輪の精神を中核としたものでなければならない。それは、万人・万国の尊重と、それに基づく平和の実現である。

    宗教・思想的にいえば、日本だけが神の国なのではなく、日本が神の国ならば、世界万国も同じように神の国として尊重するといった精神である。それが、本来の日本の輪の精神であり、それを失わずに、外国文化を摂取するのが、真の大和魂であろう。

    言い換えれば、明治から第二次世界大戦の日本の思想は、日清戦争・日露戦争などの成功による慢心のためか、日本だけが神の国といった側面が強くなり、気づかないうちに、欧米の思想の模倣になってしまったのではないかと思うのである。

    具体的にいえば、欧米は、キリスト教的な思想に基づいて、植民地侵略を神の明白なる天命として正当化し、侵略対象を自分たちと同じ平等な人間と見なさなかった。これと同じように、明治政府は、欧米の強さが、その植民地侵略を正当化するキリスト教の信仰にあると考えて、日本にも同じものを欲し、天皇を絶対神・現人神とする国家神道の体制を作り上げていったとされる。

    しかし、欧米の植民地支配は、日本の敗戦とともに、戦後まもなく崩壊したのであって、決して優れたものでも、強い文化でもなかった。第二次大戦は、連合国であろうと、枢軸国であろうと、キリスト教や国家神道やナチズムといった宗教・思想によって、自国を特別視して侵略を正当化し、結果としては自滅・敗北したのである。

    これは、万人平等主義の和・輪の思想を根底に持った、聖徳太子や天武天皇以来の日本本来の天皇の意味合いとは違ったものである。輪の思想とは、日本だけが神の国というのではなく、世界のすべての国が神の国という思想のはずである。

     

    12.東洋と西洋などの二極をバランスさせる思想

    さて、和魂洋才・和洋折衷などで表される真の大和魂のものの考え方は、競争原理などの西洋の思想にそのまま染まることでもなければ、完全に拒絶するものでもない。それは、東洋と西洋の適切な融合・折衷・バランスを重視する思想である。例えば、その一例が、先に述べた、競争原理を否定せずに、いかに万物の尊重・平等の原理を守るかということである。

    この二極をバランスさせる思想が、仏教にはある。まず、釈迦牟尼の中核の教えが、「中道」という教えである。それは欲楽にふけるのでもなく、無理な苦行にも陥らず、楽にも苦にも偏らないという思想である。

    さらに、大乗仏教における「智慧と方便」という思想がある。智慧と方便は、大乗仏教において、仏陀の境地に到るための二つの重要な要素であるとされている。そして、両者のバランスが重要であり、仏陀はこの二つを同時に一体として体得しているとされる。

    まず、智慧とは、万物が他から独立した固定した実体を持たず(空であり)、一体であるという悟りの境地(空の悟り)のことである。これは現世から離れる(現世を超越する)精神的な傾向である。

    一方、方便とは、智慧の境地に近づくための修行法であり、特に、利他の手段、功徳を積む手段のことを指している。これは現実の生活の中で行う実践であるから、現世に近づく精神的な傾向である。方便とは手段という意味がある。

    そして、この智慧と方便の考え方は、先ほど述べた「競争社会を愛で生きる教え」に活かされている。本来は、社会全体の幸福は一体であり、皆が幸福になったときに一人一人も本当に幸福になるのが真実(=智慧)である。そして、勝者と敗者を分ける競争のシステムとは、その全体の幸福を実現するための「方便・手段」であって、それ自体が目的ではない。

    こうして、東洋思想(輪・和)と西洋思想(区別・競争)や、智慧と方便といった、二つの原理の融合は、ユング心理学などにも見られる。その中では、男性原理と女性原理が、それぞれ善悪を分けて悪を浄化する機能と、善悪無差別にすべてを受容する機能とに位置づけられて、その両者の融合が、最高の精神的な発達段階としている。これをわかりやすくいえば、厳しさと優しさの双方があって、真に人を育てる愛となるといってもよいだろう。

    また、道教にも、「陽と陰」という二極があって、その両者のバランス・融合を重視する思想がある。陰陽とは、火と水、男性と女性、西洋と東洋、光と闇、浄化と受容、厳しさと優しさなどである。

     

    13.「二極一元論」

    さて、この二極を本質的に一体と見て、両者のバランス・融合を重視する思想をひかりの輪では、「二極一元論」と呼んでいる。そして、この二極は、陽と陰、男性原理と女性原理といった二極の思想と関係している、

    そして、「輪」というものも、「円い」という意味だけではなく、「車輪」という意味があり、この車輪をパーツに分解すれば、軸と輪の部分に分かれるが、軸が男性原理(男性性器)、それを包む形となる輪が女性原理(女性性器)であって、両者が合体した姿ということもできる。

    この男性原理と女性原理のシンボルは、様々な宗教・文化に見られる。智慧と方便を象徴する大乗仏教の法具である金剛杵と金剛鈴や、縄文時代の環状列石(ストーンサークル)の形状にも共通して現れている。

    そして、環状列石などの遺跡は、日本の縄文時代に限らず、環太平洋文明全体に広がっているという説もある。その意味で、「輪」の思想とは、日本の根本思想 であるとともに、まだ戦争のなかった頃の太古の人類の共通の財産ではないだろうか。それが、極めてよく保存されているのが、日本という国ではないかと思う。

     

    14.日本に期待したい精神的な向上・進化

    最後に、ひかりの輪が、日本の国土に触れつつ再発見してきた輪の思想に基づいて、21世紀の日本には期待したい、精神・思想・国家理念といった面での再生・向上・進化とは何かと問われるならば、以下のようなものだと言ってもよいだろう。

    第一に、正しい意味での和の国(輪の国)、大いなる和の国(大和国)としての再生。和=輪の思想に基づく国家観は、ナショナリズム・国粋主義ではなく、万国・万人が平等に尊く一体という思想であり、外交領土問題・集団的自衛権などの安全保障問題が言われる昨今、非常に重要ではないかと思われる。
    第二に、正しい意味での大和魂(和魂洋才)の再生である。真の大和魂とは、和魂洋才=東洋と西洋の融合などに本質がある。例えば、欧米の市場原理主義の競争社会を単に輸入するのではなく、輪(和)の思想(=慈悲)を維持しつつ、それを活かしていく能力が重要ではないか。
    第三に、宗教界の再生である。日本の仏教や神道の伝統宗派は、形骸化したといわれて久しい。また哲学の世界も、哲学の歴史の研究・学習が中心となり、現在の社会のための新たな思想を創造する力が失われていると言われる。
    そこで、日本伝統の和・輪の思想の再生を含め、心・精神の豊かさ・向上に資するような、思想哲学・宗教の分野の再生・改革を期待したい。また、仏教界においては、鎌倉新仏教の展開以来、本質的な改革はなされなかったと思われるので、令和新仏教・21世紀新仏教といったものの展開を期待したい。

     

    15.ひかりの輪の「輪の思想」とは

    ひかりの輪は、仏教思想や心理学をはじめとする、東西の思想哲学の学習教室であり、その学習・研究に基づいて、「輪の思想・法則」ないしは「一元の思想・法則」と呼ぶ思想を提唱している。輪の思想とは、一言で言うならば、万物・森羅万象が、輪の如く繋がっていて一体である(かつ等しく尊い)と見る思想・世界観である。
    そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人や、人と自然の調和を促進して、より幸福な未来社会を作ることに貢献することを目的としている。一言で言えば、輪の思想などによって、様々なレベルでの調和を広げていこうとする団体である。
    前に述べたように、この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡(さかのぼ)り、和(輪)を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。

    なお、「ひかりの輪」という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。

     

    16.ひかりの輪の「輪の法則」とは

    ひかりの輪が提唱する「輪の法則」とは、万物が輪のように繋がって一体であるという輪の思想に基づいた、さまざまな教え・法則の総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味(単一論)ではない。

    ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三悟の(一元)法則」と呼ばれている。それは、万物に感謝する教え、万物を尊重する教え、万物を愛する教えである。それに次いで、「三縁の(一元)法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し(縁起)、同根であり、循環しているという三法のことをいう。

     

    17.三悟の一元法則とは 

    三つの悟り(三悟)とは、万物に感謝する、万物を尊重する、万物を愛するという三つのことである。その三悟の一元法則は、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。この三悟の一元法則については、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を以下に一つずつ、簡潔にまとめておく。

    (1)万物に感謝する教え--苦楽の輪を悟る 

    万物に感謝する教えを簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。

    まず、人は、自分だけの喜び(欲楽)を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。

    一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。

    また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。

    こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。

    さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽(真楽)と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。

    この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。

    また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ(未来の苦しみ)であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。

    よって、仏教思想は、真の幸福(真楽)に到る道として、万物を一体と見る智慧(智恵)に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲(四無量心)の実践を説くのである。

    以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。

    ①欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。

    ②苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。

    ③感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う(=大慈悲の)実践をする。 

    以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い(知足と大慈悲)の実践ということもできるだろう。

    これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに(自我執着を滅し)、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心(四無量心)を体得するということになる。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。

    この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは仏教で説かれる高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行実践の延長上にある。

    とはいえ、仏教思想は、生を軽視することはない。むしろ人間としての生は、宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。そして、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。

     

    (2)万物を尊重する教え--善人・悪人の輪を悟る

    万物を尊重する教えを簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。

    今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。

    こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環(輪廻)してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環(輪廻)していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性(仏性)を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。

    なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。

    また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。

    こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。

    よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在=反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。

    そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。

    こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教思想の説く大慈悲の実践である(大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである)。

    以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。

    ① 万物を平等に(未来に仏陀になる可能性を有する存在として)尊重する。

    ② 万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。

    ③ 感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。

    まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人(=仏教的には菩薩という)となっていく。

     

    (3)万物を愛する教え--自と他の輪を悟る

    万物を愛する教えを簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。

    まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。

    体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。

    また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。

    さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、(今生の)自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。なお、大乗仏教は基本として、何度も生まれ変わる中で、遠い未来ではあるが釈迦牟尼のようにすべての生き物は悟るという輪廻の思想を持つ(なお、釈迦牟尼は輪廻を絶対視しなかったと言われるが、その後にできた大乗仏教は、ヒンドゥー教の思想の影響も受けて、輪廻が中心教義の一つとなった)。

    これらの思想に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。 

    ① 自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。

    ② 他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。

    ③ 老い、病み、死ぬ無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る(宇宙意識)。

    まとめていえば、万物が一体であると見て、分かち合い、万物と同化する実践である。

    さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「此(これ=煩悩)があれば、彼(かれ=苦)があり、此がなければ、彼がない、此が生ずれば、彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。

    そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。

    この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これを梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)ともいう(自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること)。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。

    なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪(ダルマチャクラ、法則の車輪の意味)というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。

    また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。

     

    18.「輪」が象徴するさまざまな重要な事柄

    さて、ひかりの輪において、「輪」という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な実践体系までを示している。

    まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。

    ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。

    また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、大乗仏教の経典では、宇宙の根本原理を「時の輪」=周期的な運動・循環であるとした。

    さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし(『広辞苑』など参照のこと)、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。

    そして、この車輪は、それをパーツに分解すれば、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体であり、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。

    例えば、縄文時代のストーンサークル(環状列石)などである。この世の万物は、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪が象徴する男性原理と女性原理の合体によって創造されたとし、その両者が本質的に一体であると解釈する宗派もある。

    なお、道教でも、「陰陽」と呼ばれる男性原理・女性原理が万物を展開しており、両者は同根であるとする(両者の根元は「太極」と呼ばれる)。ただし、道教では、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体物ではなく、円の形をした太極図によって、その思想を象徴する(円の中に、陰と陽を組み合わせて表現している)。

    最後に、大乗仏教においては、この両者が「智慧(智恵)」と「方便」という、仏陀の境地に到るための二大要素を象徴している。具体的には、方便を男性原理と見て、棒状の法具(金剛(こんごう)杵(しょ))で表す。智慧を女性原理と見て、輪状の法具(金剛(こんごう)鈴(れい))で表す。

    ここで、女性原理である智慧は、空の悟りを示している。男性原理である方便は、手段という意味である。これは、空の悟り=智慧を得るための手段である。言い換えると、実践法、特に、利他の手段、功徳を積む手段を中心とした実践法を意味する。よって、車輪=棒状の軸とそれを包んだ形となる輪は、悟りの境地と、悟りを得る手段・実践法を象徴している。

    そして、智慧と方便は不離一体とされる。方便=修行法の実践が深まると、智慧が深まるだけでなく、智慧が深まれば、また、方便=修行法の実践が深まるということである。そして、智慧と方便の同時一体の体得が、仏陀の境地とされる。

    こうして、輪とは、円・車輪・循環などに通じ、①私たちが学ぶべき一元の法則と、それを体得したときの悟りの境地に加えて、②この宇宙全体やその根本原理、③さらには宇宙の創造原理としての男性原理・女性原理(陰陽)、さらには、④悟りとそれに到る修行法の関係という根本的な修行実践の体系まで、さまざまな重要な概念を包み込んでいるのである。

     

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  • 大乗仏教の瞑想:シンボル瞑想

    以下のテキストは、2022年GWセミナー特別教本 『瞑想法の総合解説 心身の健康から悟りの境地まで』第4章として収録されているものの一部です。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.はじめに(省略)

     

    2.シンボル瞑想という概念

    シンボル瞑想とは、真言瞑想などの瞑想の本質を踏まえた上での、ひかりの輪オリジナルの概念である。ここでの(聖なる)シンボルとは、悟りの境地に近い意識状態を引き出すようなもので、主に五感の対象となるものである。その主なものとして、視覚的なシンボル・聴覚的なシンボルなどがある。また、五感の対象に加えて、体の形・姿勢にも一部、シンボルがあると解釈している。

    さて、シンボルは必ずしも仏教に限らず、すべての宗教において、その宗教の聖なるシンボルがあるということができる。その中で、例えば、拝んで心が静まるような仏像・仏画は、視覚的なシンボルであり、密教で用いられる曼荼羅もそうであろう。

    自ら唱えることで心が静まる効果のある言葉(仏教・ヨーガのマントラ・真言)は、聴覚的な(字音の)シンボルである。また、嗅ぐことで心が静まる効果のある瞑想用のお香があれば、それも嗅覚的なシンボルということになる。

    こうして、シンボルは、宗教芸術と結びついている面がある。特に仏教の密教などは、その瞑想・悟りのために密教芸術を発展させ、さまざまな仏画・仏像・曼荼羅・金剛(こんごう)杵(しょ)や金剛(こんごう)鈴(れい)といった法具を生み出したことで知られる。


    3.シンボルは決して崇拝対象ではない(宗教的な概念ではない)

    しかし、ここで特に強調しておきたいことは、ひかりの輪の「シンボル」という概念は、仏教やその他の宗教における崇拝の対象と、異なる概念である。シンボルは、あくまで、それに人間が触れることによって、その人間の中に、より高い意識、より悟りの境地に近い、静まった広がった意識などを生じさせるものであって、それ自体は、神や仏ではない。

    仏画・仏像・曼荼羅は、神や仏ではなく、宗教芸術品であって、木や金属や紙にすぎない。しかし、それが感覚器官等の身体を通して人の心身に好ましい影響を与えるものである。いかに優れたシンボルとしての効果を発揮する仏像があったとしても、その仏像自体を、仏として崇拝することは、一種の偶像崇拝の宗教・信仰であって、ひかりの輪の思想と異なるものである。


    4.人類共通の普遍的なシンボル

    こうして各宗教には、それぞれの聖なるシンボルがあるが、精神科医・深層心理学者のカール・ユングは、人類普遍の聖なるシンボルがあると主張した。ユングは、人類が民族・人種によらず、共有している集合的無意識や元型(アーキタイプ)といった概念を提唱した。

    この元型とは、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在であり、集合的無意識の中で仮定されたものである。元型の像(イメージ)は神話的で、人類の太古の歴史や種族の記憶に遡るように考えられる。

    主な元型としては、①意識の中心の自我(Ego)の元型、②心(魂)全体の中心として仮定される「自己」(Selbst)の元型(宗教的には「神の刻印」などと見なされる)、③女性の心の中の理性的な要素の元型で、男性のイメージでよく認識される「アニムス」、④男性の心の中の生命的な要素の元型で、受容的特徴を持ち、女性のイメージでよく認識される「アニマ」、⑤全てを受容し包容する大地の母としての生命的原理を表す「太(たい)母(ぼ)」(グレートマザー)、⑥太母と対比的で、理性的な智慧の原理を表す「老賢者」などがある。


    5.人類普遍の聖なるシンボル:円・輪・マンダラ

    そして、ユングは、世界の諸宗教・諸文化を調査研究する中で、人類普遍の聖なるシンボルの一つとして、円・輪・マンダラという概念を見出した。マンダラは、丸いという意味で、ユングがマンダラと見なすものは、輪の形状を持っている。

    そして、ユングの研究を見ると、マンダラ・シンボルの中に、光の輪があることがわかる。光の輪というのは、ユングの主張をだいぶ簡略化した表現であるが、中心に太陽・月・星などがあって、その周囲に輪が描かれ、中心からはスポーク上の光なども描かれたものである(詳細は参考資料を参照)。


    6.不変のシンボル:光の輪

    さらに、ユングも発見したように、仏像・仏画やキリスト教美術などで、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現した光輪(光背・後光ともいう)がある。そして、これは、宗教全体で普遍的なものであると考えられており、仏教以前のゾロアスター教のミスラ神などにも見られ、ネイティブアメリカンの権威者や戦士が頭に着ける羽根冠も、元来は放射光状の光背を表していると伝わっている。

    これに関連して、光の輪の形をとる大気光学現象の一つとして、太陽の周りに現れる虹色の光の輪があり、英語ではハロと呼ばれる。このハロは、キリスト教美術などで、イエス・マリア・十二使途・天使と共に描かれる光の輪を指す言葉と同じである。また、ひかりの輪の団体名の由来の一つが、その創設メンバーが、聖地を巡って瞑想する中で、重要な気づきとともに、この太陽の周りの虹の光の輪を見ることが不思議と多かったという経緯である。

    もう一つの光の輪の形をとる大気光学現象としては、太陽等の光が背後から差し込み、影の側にある雲粒(くもつぶ)や霧粒(きりつぶ)で光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪が現れるものがある。よくブロッケン現象といわれるが、英語では、光輪を意味するgloryともいわれる。そして、日本では、これを御(ご)来(らい)迎(ごう)などと呼び、影を阿弥陀如来、周りの光の輪を仏の後光として、聖なるイメージをもって解釈された。


    7.太陽とその光は、人類普遍の根元的な聖なるシンボル

    そもそも、光自体が、さまざまな思想や宗教において、超越的な存在者のシンボルであった。古くから宗教に光は登場し、より具体的には、太陽と結びつけられることが多かった。古代エジプトの神のアメン・ラー、太陽神があり、プラトンは、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけた。

    『新約聖書』では、イエスが「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語り、キリスト教世界の思想にさまざまな形で影響を与え、しばしば光が正義、闇が悪のたとえとして用いられた(グノーシス主義などでも)。

    仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされた。また多くの主要な仏陀・菩薩が、太陽・光と結び付けられている。釈迦牟尼は太陽族の末裔とされ、大日如来はまさに太陽の仏であり、弥勒菩薩はその由来がミトラ教の太陽神であり、阿弥陀如来も別名を無(む)量(りょう)光(こう)仏(ぶつ)、薬師如来も正式な名称は薬(やく)師(し)瑠(る)璃(り)光(こう)如来といい、その脇侍は日光菩薩である。観音菩薩も光(こう)世(ぜ)音(おん)菩薩という別名があり、光に結び付けられている。

    さらに、神道でも天界の総帥であり、皇祖神として最も重要な位置づけを持つ天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)も太陽の女神である。そもそも、どの宗教の思想ということなく、日本人は、太陽をお日様と呼び、お日様を拝むと言い、太陽に向かって手を合わせる伝統的な習慣がある。


    8.太陽信仰やシンボルとしての太陽の背景

    この背景としては、古代から人類全体にとって、太陽とその光は、自分達が経験する自然の中で圧倒的なエネルギーと運動を持った最大の現象であるとともに、自分達の生命・生活を支えるこの世界の中で最も重要な存在であるから、太陽とその光に対する信仰があったと思われる(いわゆる太陽信仰)。

    その圧倒的な存在感は、世界の中心・絶対者・神・王というイメージを形成したであろう。加えて、古代人にとっては、自分たちに生命を与えるものが神と認識されるのが自然だろうと思われる。日本語でも、「命」という文字は、神棚の前で神のお告げを聞く人をかたどったものだという。命とは神が与えるものという解釈である。

    なお、地動説を発見した近代の人類にとっては、太陽の位置づけは、古代よりもさらに大きく増して、地球は、太陽を中心として、その周りを周っている多くの惑星・無数の天体の一つにすぎず、直径にして、その約100分の1の大きさの天体となったことはご存じのとおりである。

    そして、神や仏の重要な属性である万物への愛と大いなる叡智が太陽とその光に象徴されることも、同じく、ごく自然なことだったと思われる。万物に降り注ぐ陽光は、すべての生き物を温めてその命を支えるから、自ずと神や仏の万物への愛・博愛・大慈悲の象徴となる。

    また、人は、その光によって、世界の万物を目で見て、よく知ることができるから、自ずと神や仏の全知・智慧の象徴となったのだろう。なお、太陽・光・火と、陰陽のセットで信仰されたのが、太陽が沈んだ後に夜空を照らす月、そして水ではないかと思われる。日本語の神=カミは、火と水に由来するとの説もある。


    《参考資料1》円の象徴(『人間と象徴』C.G.ユング著 河出書房新社より引用)

    円はいろいろと多面的な心の全体性をあらわしており、そこには人間と自然全体とのあいだの関係まで包含されるのである。原始人の太陽崇拝や近代宗教、あるいは神話や夢、さらにはチベットの僧が描いたマンダラや都市計画図といったものにみられる円の象徴であれ、(中略)常に、円は、生命の唯一の至上の重要な側面--つまり生命の究極的な全体性を指し示している。(中略)

    インドや極東の美術のなかで、4つまたは8つの方向性を持つ円は、一般的に宗教的なイメージとして、瞑想に役立つ道具でもある。(中略)これらのマンダラは、聖なる力と関係を有している宇宙を表現したものである。(中略)円形のマンダラが持つ意味(中略)これらは、意識と無意識とを大きくそのなかに含み持つ心の全体性、すなわち自己をあらわしている。(中略)

    抽象的な円は、禅の絵図にも描かれている。有名な禅僧の仙厓が描いた「円」と題する絵について、ある禅の老師は次のように述べる。"禅宗では、円は悟りをあらわす。円は人間の極致の状態を象徴しているのだ。"

    抽象的なマンダラは、ヨーロッパのキリスト教芸術にも見られる。そのなかで最もすばらしいものに、教会の大会堂の円(えん)花(か)窓(まど)がある。円花窓は、人間の自己を、言わば宇宙の平面に移しかえたものだ。(中略)その他、宗教画にあるキリストの後光や、キリスト教の聖者たちもマンダラとみなすことができる。(中略)

    非キリスト教系の芸術では、こうした円は"太陽の輪(sun-wheels)"と呼ばれている。この太陽の輪は、車輪がまだ発明されていない新石器時代の岩壁の彫刻にまでさかのぼってみられる。


    《参考資料3》マンダラ・シンボルの形態的要素
                                            (『個性化とマンダラ』 C.G.ユング著 みすず書房より引用)

    1.円ないし球、または卵の形。
    2.円の形は花(薔薇、水蓮--サンスクリット語ではパドマ)あるいは輪として描かれる。
    3.中心は太陽・星・十字形によって表現され、たいていは四本、八本ないし一二本の光線を放っている。
    4.円、球、十字形はしばしば回転しているもの(卍)として描かれる。
    5.円は中心を取り巻く蛇によって、円状に(ウロボロス)または渦巻き状に(オルフェスの卵)描かれる。
    6.四角と円の組み合わせ。すなわち四角のなかの円、またはその反対。
    7.四角または円形の城・町・中庭(聖域)。
    8.眼(瞳孔や虹彩)。
    9.四角の(および四の倍数の)形姿のほかに、きわめて稀ではあるが、三角や五角の形姿が現れる。それは以下に見るように「歪んだ」全体像と考えられる。


    《参考資料4》光背(光輪)(ウィキペディアより)

    光背(こうはい)とは、仏像、仏画などの仏教美術や、キリスト教美術などにおいて、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものである。後光とも呼ばれる。仏教美術における光背は、インド仏教では頭部の背後にある頭光(ずこう)に始まり、その後体全体を覆う挙(きょ)身(しん)光(こう)が生まれた。仏教が東伝するにつれて、頭と身体のそれぞれに光背を表す二重円光があらわれ、中国仏教や日本仏教において様々な形状が発達した。日本では胴体部の背後の光背を身光と呼んでいる。

    形状による分類として、光を輪であらわした円光(輪光)、二重の輪で表した二重円光、またそれら円光から線が放たれている放射光、蓮華の花びらを表した舟形(ふながた)光背(舟(ふな)御(ご)光(こう))や唐草光、宝珠の形をした宝珠光、飛天が配せられているものを飛天光、多数の化(け)仏(ぶつ)を配置した千仏光、不動明王などのように炎を表した火焔光などがある。

    これらの「光輪」は、仏教に限らずキリスト教の聖人図画などにも見受けられ、宗教全体で普遍的なものであると考えられており、仏教以前のゾロアスター教のミスラ神の頭部にはすでに放射状の光が表現されている。ネイティブアメリカンの権威ある者や戦士が頭に着ける羽根冠(ウォーボンネット)も元来は放射光状の光背を表していると伝わっている。


    《参考資料5》ブロッケン現象・光輪・御来迎(ウィキペディアより)

    太陽などの光が背後から差し込み、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。光輪(グローリー、英語: glory)、ブロッケンの妖怪(または怪物、お化け)などともいう。ブロッケン(Brocken)の由来はドイツのハルツ山地の最高峰ブロッケン山(標高1,142m)でよく見られたことに由来する。

    その一方で、日本では御来迎(ごらいごう)、山の後(御)光、仏の後(御)光、あるいは単に御光とも呼ばれ、如来と結びつけられた聖なる現象と解釈された。具体的には、日本では、この現象で出現する影は、阿弥陀如来と捉えられ、『観無量寿経』などで説かれる空中(くうちゅう)住(じゅう)立(りゅう)の姿を現したと考えられていた。前田直己山形大学客員教授は、この現象に世界で初めて名前(来迎)を付けたのは出羽三山の修験者であるとの説を2017年に発表している。御来迎については槍ヶ岳開山を果たした僧播(ばん)隆(りゅう)の前に出現した話が有名である。


    《参考資料6》光(ウィキペディアより)

    光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である(太陽神も参照)。プラトンの有名な「洞窟の比喩」では、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけている。

    新プラトン主義では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、哲学と神秘主義が融合している。例えばプロティノスは「一者」「叡智(ヌース)」「魂」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり、太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は魔術、ヘルメス主義、グノーシス主義にまで影響を及ぼした、とも言われている。

    『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。しばしば光=正義、闇=悪の二元対立としてたとえて語られた。

    グノーシス主義では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。


    《参考資料7》太陽神(ウィキペディアより)

    太陽神とは、太陽を信仰の対象とみなし神格化したもの。古代より世界各地で太陽は崇められ、崇拝と伝承は信仰を形成した。(中略)主な世界の太陽神の事例は以下の通り。

    アイヌ神話 -トカプチュプカムイ
    インカ神話 - インティ
    エスキモー・イヌイット神話 - マリナ
    エジプト神話 - アテン、アトゥム、アメン、ケプリ、ホルス、ラー、ハトホル、セクメト
    ギリシア神話 - アポローン、ヘーリオス
    ケルト神話 - ベレヌス、ルー
    スラブ神話 - ダジボーグ、ベロボーグ
    中国神話 - 東君、金烏(三足烏)、羲和、日主、太陽星君
    日本神話 - 天照大神、天道、天火明命、天之菩卑能命、稚日女尊、八咫烏、饒速日命
    ペルシア神話 - フワル・フシャエータ、ミスラ
    北欧神話(ゲルマン神話) - ソール
    リトアニア神話 - サウレー
    メソポタミア神話 - シャマシュ
    ヴェーダ神話 - インドラ、ヴィヴァスヴァット、ダクシャ、バガ、ミトラ、サヴィトリ、プーシャン、ヴィシュヌ
    ローマ神話 - アポロ、ソル、エル・ガバル
    ヒンドゥー教神話 - ヴィシュヌ、スーリヤ、サヴィトリ
    仏教 - 大日如来、日天、日光菩薩
    フェニキア神話 - バアル、シャプシュ
    メキシコ神話(マヤ・アステカ) - ウィツィロポチトリ、ケツァルコアトル、トナティウ、キニチ・アハウ、イツァムナー

     

     

仏教・ヨーガを科学する

  • 死後世界の科学的研究と仏教の転生思想

    1.臨死体験とは

      臨死体験(Near Death Experience)とは、事故などで重傷に遭い、昔なら死んでいた心停止の状態などから、現代の蘇生技術の発展などによって蘇生し、死の淵から生還した人が蘇生した後に語る、驚くべきあの世的な体験のことです。

      その医師などの科学者による研究は、1975年に医師のエリザベス・キューブラー=ロスと、医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで著書を出版して注目されました。その後、統計的・科学的な調査が行われ、1982年には、医師のマイクル・セイボムが調査結果を出版し、1977年には、臨死現象研究会が発足し、後に国際臨死体験研究会(IANDS)に発展し、国際会議が開かれています。

      1982年のギャラップ調査では、米国の臨死体験者は、数百万人に及ぶと推測されています。1988年には、オランダで、344名の心停止患者を対象とした調査が行われ、18%にあたる62名が臨死体験を報告しました。2001年の英国における63名の心停止患者を対象とした調査では、11%の人々が心停止中の記憶を有していました。2008年には英国で、過去最大規模の調査が開始され、2060名の心停止患者が対象となり、そのうち330名の心停止から生き帰った患者の中の140名(約40%)が、心停止中に意識があったことを報告しました。

     

    2.臨死体験のパターンと経験者の変化

      臨死体験には個人差がありますが、一定のパターンがあるとされます。それは、①心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる、②心の安らぎと静けさ、③ブーンという耳障りな音、④暗いトンネルのような筒状の中を通る、⑤物理的な肉体を離れる(体外離脱)、⑥他者との出会い(死んだ親族や他の人物など)、⑦光の生命に出会う(神や自然光など)、⑧人生回顧(自分の人生全体を走馬灯のように見る(ライフレビュー))、⑨死後の世界との境目を見る、⑩蘇生する(生き返る)などです。

      臨死体験は、その人の属する文化圏・宗教などの影響が見られる内容が含まれます。その中で、比較的に文化圏の影響が少ないと考えられる子供の臨死体験では、①「体外離脱」②「トンネル」③「光」という三つの要素が見られ、大人よりもシンプルなものであるという報告があります。

     

    3.体外離脱

      全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと、天井に浮かび上がり、ベッドの上の自分の身体を見下ろしたり、手術中の様子を客観的に眺めたりしている鮮明な意識を持った自分に気付くという体験があります。幻覚的な体験も起こりますが、現実の出来事をその五感では知覚できないはずであるにもかかわらず、きわめて正確・詳細に認識し、後に描写できる事例もあります。それは、病室から健常者でさえ知覚できないものも含まれます。また、全盲の者が、視覚を取り戻したかのように体験したという情報もあります。さらに、その間に「天的な世界に入った」とか、「何らかの境界線を感じ引き返した」とする証言も多くあります。

     

    4.光体験

      臨死体験が起こると、まず、暗いトンネルの中に浮かんでいる自分に気付き、その次に「光」を見るという体験をする者が多いということです。この「光」は、死んだ肉親の姿や宗教的人物の形をとることもあります(→死者のお迎えの現象)。体験者の多くは、この光が自分を包み込み保護していると感じ、恋人や家族から感じるものとは比較にならないほどの愛情を持っていると感じる場合もあり、体験後に精神的な変容を遂げる者も多くいます。ただし、文化圏が異なると、体験の質が異なるというデータもあります。

     

    5.人生回顧 (ライフレビュー)

      自分の人生の全ての瞬間が、忘れていた過去を含め、強い感情を伴って一瞬のうちにパノラマとなって目の前に再現されます(俗にいう「パノラマ体験」)。臨死体験者の約25~30%が経験しているといいます。

      ただし、集団意識が強く、個人的なモラル観念が薄い少数民族では経験されないとした研究もあります。また、このとき「光の存在」が現れ、一切批判も称賛もせずに、回顧体験を見守り続けるという報告もあり、神による裁きや審判を信じる宗教との間で、激しい議論の対象ともなりました。

      なお、臨死による人生回顧体験を記述していると思われる歴史的な文献としては、パタンジャリの2000年前のヨーガ文献、「チベット死者の書」、「エジプト死者の書」、プラトンによる、エルの彼岸への世界の旅の話などが挙げられます。

     

    6.臨死体験後に起きる変化

      何割かの臨死体験者は、体験後に人格上の変化を経験することが少なくありません。ケネス・リングやレイモンド・ムーディが報告をしている変化は、

    ①日々の生活にある当たり前のものを評価するようになる、

    ②他者からの評価を気にせずに、ありのままの自分を認められるようになる、

    ③他者への思いやりが増大する、

    ④特に環境問題や生態系への関心が強まる、

    ⑤社会的な成功のための競争への関心が弱まる、

    ⑥物質的な報酬への興味は薄れ、臨死体験で起きた精神的変容へ関心が移行する、

    ⑦精神的な知識への強烈な渇きを覚えるようになる、

    ⑧人生は意味に満ち、全ての人生には神聖な目的があると考えようになる、

    ⑨死への恐怖が克服される(ただし死の過程への恐怖は残る傾向も)、

    ⑩死後の世界や生まれ変わりを信じるようになる、

    ⑪自殺を否定する、

    ⑫光への信頼が生じる、

    ⑬小さな自己という殻を破り、宇宙全体へと開かれた心の成長をのぞむ、

    ⑭ヒーリング・予知・テレパシー・透視などの体験が起こる などです。

     

    7.死者の「お迎え」現象

      死んだ親族などの姿が現れる現象です。すでに死んだ者、生きている者、神話的人物(イエスなど)の3つパターンがありますが、大半は「死者・宗教者」の姿を見ます。死者の目的は、患者を別の存在界に移行させること=お迎えのように見え、患者には、安らぎや歓喜、宗教的な感情が起こり、その中には、あの世的な光景を見る者もいます。こうした傾向は健常者の見る幻覚とは正反対です。また、この死者の幻(げん)姿(し)が、臨死体験者ではなく、看護中の親族などの第三者に目撃される事例があり、臨死共有体験といいます。

      鮮明なヴィジョンを見た直後に死亡する者が特に多く、幻覚性の疾患や薬物の影響、脳の機能異常といった要因との関連性はほぼ見られず、自分が死ぬと思っていなかった(そう診断されていた)が、実際は死の間際にいたという無自覚な患者にも起きることが判っています。

      日本では欧米ほどの調査が行われておらず、体外離脱やトンネル体験などは、欧米と同様の内容でしたが、三途の川やお花畑に出会う確率が高く、光体験に出会う確率は比較的低いという結果が出ました。インドの調査も、欧米の体験との共通点がありますが、相違点もあり、「ヤムラージ」と呼ばれるヒンドゥー教の神が現れる体験が多くを占めました。

      こうした文化による体験の違いは、長く議論されており、前に述べたように、文化的影響の少ない子供を対象とした研究から、「体外離脱」「トンネル」「光」の3つが普遍的な「コア体験」で、残りは文化的な条件付けを受けた体験と考える研究者がいます。

     

    8.ネガティブな(地獄的な)臨死体験

      臨死体験の調査結果では、ネガティブな体験(例えば地獄的な体験)は少ないとされますが、いろいろな疑問が呈されています。第一に、世の中に知られるようになった臨死体験のイメージがポジティブなため、ネガティブな体験をした者は、打ち明けにくいこと(特に地獄的な体験は、罪深い人がするという宗教的な観念がある)、第二に、ネガティブな体験が、忘却される可能性があることです。

      臨死体験の調査は、蘇生直後ではなく、相当後で行われますが、医師のモーリスは、自分の患者が地獄的な体験を報告した後に、それを全く忘却したという体験をしたので、蘇生直後の臨死体験の調査を開始しました。その結果、その調査が進むにつれ、地獄を体験していたとわかった人が増え、今現在は36%にのぼり、50%に近づいており、多くの地獄の体験者は恐怖ゆえに、それを事実上、自らの意識から遮断していると主張しています。

      また、ケネス・リングの調査によれば、自殺による臨死体験では、「光の世界に入る」などの現象はほとんど見られず、体験は中途で途切れたものとなっていて、ネガティブな体験となるといいます(ただし、自殺により、地獄的な体験が起こるという研究結果はない)。そして、こうした事例は、自殺予防のカウンセリングに有効であるといいます。また、自殺で臨死体験をした者は、体験のなかった者に比べ、再び自殺を試みる割合が極端に減少するということです。

      なお、この議論は、実際に地獄があるかないかという議論とは、直接的には関係がありません。例えば、宗教界側の主張としては、臨死体験者とは、境界(日本でいえば三途の川)を越えずに戻ってきた人であり、その境界前で良い体験をしても、境界の向こうで、裁きがないとか地獄がない、というのとは別問題であるといいます。実際に、チベット仏教の死後の世界に関する経典でも、死後の意識は、最初に光の体験をする場合があるが、それは過ぎ去り、死から49日間の間に、地獄を含めた苦しみの世界のヴィジョンが見えてきて、そこに転生するという過程があると説きます。

     

    9.臨死体験は幻覚か否か

      臨死体験には、様々な解釈や仮説があります。臨死体験を、霊魂による死後世界の体験などではなく、従来の科学的な枠組みの中で説明するものが「脳内現象説」「心理的逃避説」です。

      脳内現象説とは、脳に生理学的・化学的な変化が起きた結果の幻覚が臨死体験であるというものです。脳内麻薬物質であるエンドルフィン説、酸素欠乏説、Gロック説、高炭酸症説、薬物説、脳内幻覚物質説、レム睡眠侵入説、出生時記憶説、側頭葉てんかん説などがあります。

      しかし、いずれも、臨死体験を、十分合理的に説明することはできないという批判があります。特に、体外離脱の存在が、脳内現象説を否定するために使われます。1つは、体外離脱中に、通常の手段では知りえない情報を知覚できたケースが多々あることです。体外離脱中に面識のない者と出会い、意識回復後にそれが自分の親族であったことが判明するケースや、体験者本人が知らない情報を死んだ親族から伝えられるケースなどがこれに当たります。もう1つは、心拍停止や全身麻酔で意識不明下にある者が、「意識が身体から抜け出した」最中に見た光景を(意識回復後に)詳細に描写できる、ということがあります。

      さらに、臨死共有体験による反論があります。臨死体験は死にかけた者のみならず、周りにいる健康な人々にも共有されるという「臨死共有体験」が存在します。看護している者に限らず、複数人に共有される場合もあり、「光体験」、「体外離脱体験」、「人生回顧体験」など、臨死体験とほぼ同様の現象が起きるといいます。病気も怪我もない健常者に起こるため、脳内現象説では説明が難しい現象です。

      また、死に直面した心が生み出す心理的な逃避による幻想が、臨死体験だとする説や、これと似た解釈として解離性障害説があります。しかし、死を予期していなかった人や、自覚する間もなく事故や発病が起こり、瞬時に無意識状態に落ちた人にも臨死体験は起こることや、心理的危機が起こす解離性障害の場合は、不安やパニック、現実感の喪失など、臨死体験の性質とは正反対です。こうして、既存の科学的な枠組みで、臨死体験の全てを十分に説明することは、今のところできていないと思われます。

     

    10.通説の科学とは異なる科学的仮説による説明:ユング心理学

      以下は、既存の科学を超えた説明です。まず、臨死体験で起こるイメージと、ユング心理学の元型の概念の類似性を指摘する声があります。ユングの元型理論は、臨死体験の生理学的説明とも超常的説明とも矛盾しません。

      また、ユングは、集合的無意識と個人的無意識に明確に線を引くことはできないと述べていますが、これは臨死体験において、普遍的・客観的と思われる体験と、個人の経験に基づく体験が混在していることの説明となります。

      臨死体験に限らず、変性意識の研究でも、個人的・幻覚的なヴィジョンと、個人性を超えたヴィジョンが、しばしば共に現れます。よって、臨死体験は、魂が、個人的無意識の領域を通り抜け、集合的無意識に至ることによって起こるという主張があります。なお、ユング自身が臨死体験者であり、東洋の宗教的な思想に深い関心を示したことで知られます。

     

    11.超心理学・超能力における霊魂説への反論

      臨死体験者は、ESP・超能力で、通常は知りえない情報を知覚したとする仮説があります。これは、霊魂や体外離脱現象を否定する対立仮説として唱えられています。しかし、超能力が発揮されるメカニズムや、なぜ臨死体験の際に発現するのかが明確でなければ、その超能力が、霊魂が体外に出ることによる能力ではないという反証ができません。

     

    12.量子脳理論

      アリゾナ大学のスチュワート・ハメロフによれば、意識は、ニューロン細胞によって生じるのではなく、脳内の微小管と呼ばれる量子によって生じていて、量子から成る人間の意識は、普段は微小管に詰まっている。しかし、心停止で壊れることで、量子力学で量子もつれと呼ばれる現象が起き、意識が宇宙に拡散する。そして蘇生した場合は、意識は再び脳の中に戻るという新しい脳理論を主張しています。

       これは、いわゆる脳と意識は独立しているという実体二元論です。意識がニューロン細胞によって生じる場合は、死によって意識は消滅しますが(心脳一元論)、量子が意識を担っている場合、死後も量子は存続するため、死後の意識の可能性も肯定されます。

       こうして、従来の科学の潮流は、「意識は脳が生み出すもの」という唯物論的な「心脳一元論」に傾いてきましたが、臨死体験などの研究を背景に、疑問が呈されるようになりました。意識と脳を別のものだと考える思想は、New Dualism(新二元論)とか、実体二元論とも呼ばれますが、まだ仮説にすぎないとの指摘・批判があります。

      例えば、サム・パーニアは、脳波がフラットな状態での臨死体験例は、心や意識が、脳とは独立に存在するという事実を示唆していると述べています。ヴァン・ロンメルは、意識は、本来は時空を超えた場所にあると考え、「脳が意識を作りだすのではなくて、脳により意識が知覚される」のではないかと述べ、意識と脳の関係を、放送局とTVの関係に例えています。

      ケネス・リングやエベン・アレグザンダーは、脳は、意識の加工処理器官であるとし、脳の機能は、本来の意識の働きを制限して、選別するものだと主張しています。これは、臨死体験のときは、脳による意識の制限が、ある意味で解除された状態であると解釈できます。

      これは、仏教やヨーガが、人の意識が、肉体を得ている生存中は、狭い自我意識の中に閉じ込められやすいが、死の際には解放されて、そのため解脱しやすいとする点と類似性があるように思われます。

      また、臨死体験の関連研究として、前世退行催眠を含め、前世記憶の研究があります。仮に人間が前世の記憶を保持しているとすれば、それは肉体の死により意識が消滅せずに、記憶が持ち越されたと考えられるため、心身二元論の根拠となります。

      そして、前世記憶の研究者であるヴァージニア大学のイアン・スティーブンソンは、幼い子供が前世の記憶を持っていたとする事例を2000例ほど集め、様々な対抗仮説(虚偽記憶説や作話説など)を含めて検証した結果として、「生まれ変わり説」を主張しています。

     

    13.スピリチュアル・宗教的な解釈:霊魂説・死後世界説

      臨死体験が、霊魂が体から離れ、死後の世界を体験したとする説には、次のような根拠があります。第一に、臨死体験者たちの多くは、自らの体験を「肉体から魂が離れ、死後の世界を垣間見た」ものであったと考えている(感じている)ことです。

      第二に、古今東西に見られる臨死体験(神秘体験)には、個人の主観・幻想と思われない共通性が見られます。『チベット死者の書』、エジプトの『死者の書』、プラトンによる『国家論』、ベーダによる『英国の教会と人々の歴史』、日本でも『日(に)本(ほん)霊(りょう)異(い)記(き)』『今昔(こんじゃく)物語』『宇治(うじ)拾遺(しゅうい)物語』『扶(ふ)桑(そう)略(りゃく)記(き)』『日本往生極楽記』、柳田邦男の『遠野物語』など。

      歴史家のフィリップ・アリエスは、西暦1000年以前の人々は、死に瀕した時に、神の幻を見たことや、すでに亡くなった人々と会ったことを、普通に語っていたといいます。また、宗教学者のキャロル・ザレスキーは、中世の文献は、臨死体験の記述であふれていると指摘しています。

      第三に、体外離脱現象を最も素朴に(素直に)理解する方法は、人体から何らかの意識が離脱するという解釈です。マイケル・セイボムは体外離脱を検証した結果、こうした仮説に傾いていると述べています。

      第四に、臨死体験で起こる現象が、前世退行催眠の体験者にも起こることがあるというものです。前世退行催眠を施した結果、その被験者が、「トンネルの通過」や「かつての死者・ガイドとの出会い」「光体験」「人生回顧体験」「思考により創造される物体」など、臨死体験者が語る世界観と、ほぼ同一の内容を語り始めたという調査結果があります。

      第五に、臨死体験の内容が、霊魂を説く宗教・スピリチュアリズムの伝統的な思想と合致することです。

      ヨーガや神智学などでは、人間は、肉体の他に微細な身体を持つとされ、「肉体を捨てて別の身体に移行する」という臨死体験と共通点があります。また、体外離脱体験者は、自分の思考がすぐに形となる体験をすることがありますが、宗教には、アストラル界のように、人間の思考が形を取る世界の思想があります。

      また、平安期の僧・源信による『往生要集』は、臨終の時に、光り輝く阿弥陀如来を心に念ずることを説いていますが、大乗経典には、阿弥陀如来の浄土は空間的に無限であり、限りない光に照らされ、個人の想念が叶う世界として描かれています。『チベット死者の書』には、人間の死から再生までの間の描写がありますが、死者は、まず、目も眩む程の光明に出会うといいます。

      また、アボリジニ文化の「ドリームタイム(夢時間)」という概念が、臨死体験に類似しています。世界中のシャーマンの文化のほとんどすべてに、人生の回想、教え導く役割を果たす教師的な存在、想念によって現れる物質、美しい光景といった言及があるともいいます。

      しかし、この霊魂説に対しては、通常の科学の基準から見れば、そもそも反証ができない説であるという批判(欠点)や、臨死体験や前世体験は、一部の人のみに起こっており、普遍性・再現性がないという批判があります。

     

    14.ヨーガ・仏教の修行者の瞑想による体外離脱や前世体験

      さて、研究者によると、臨死体験と非常によく似た体験が、クンダリニー・ヨーガの修行者の体験であるといいます。また、臨死体験者の一部が、クンダリニーの覚醒を体験するという報告もあります。さらに、クンダリニー・ヨーガなどの修行が深まって、サマディという深い瞑想状態に入ると、呼吸が非常にわずかとなり、ついには仮死的な状態に至るとされています。

      これを言い換えれば、ヨーガの高僧は、自分の意思によって自在に瞑想による臨死体験をすることができるということです。私たちひかりの輪のスタッフの中にも、瞑想において、そのような体験をした者がいます。

      すなわち、従来は仏教・ヨーガの瞑想によって、病気・事故などを伴わない臨死状態を体験していた人類が、現代になって、医学の蘇生技術の発展のために、病気・事故による病室での臨死体験をするようになったということができます。だとすれば、このまま蘇生技術が発展すれば、以前とは比較にならない数の人が臨死体験をする可能性があるでしょう。

      そこで、長年ヨーガの修行をしてきたひかりの輪の教室で指導をしている専従スタッフを調査してみると、そのほとんどが、体外離脱、ないしは前世と感じる体験をしていることがわかったので、その一部を紹介します。

     スタッフの男性Yは、19歳の時にトンネル体験をしたといいます。

    「うたた寝をしていると、亡くなって数ヶ月した母の声が聞こえ、ハッと気がつくと、ゴーッという凄い轟音とともに、意識が、暗いトンネルのような中をもの凄いスピードで進んで行きました。それは凄い恐怖でした。やっとの思いで目を開けると、いつもの自分の部屋でした。」

      また、Yは、前世かもしれない不思議な体験をしている。

    「私は、15年ほど前に、心理療法の一つである前世退行催眠(ヒプノセラピー)を学び、その中で、思い出した自分の前世と感じた体験があったのですが、それが不思議にも、その後に私が初めて会った人が記憶していた前世と一致していたのです。

    その中で、私は、明治時代の日本で、女性でした。20代後半の自分が着物を着て、15~6歳の少年が剣道をしているのを見ており、母親ではありませんが、少年の保護者的な立場で、微笑ましく眺めているという場面を思い出しました。

      そして、それから数年後、私が、ヒプノセラピーを含めた教室を開いていると、1人の若い女性が教室にやってきて、いきなり私に、『Yさんとは前にも会ってますよね』、『前世で会ってます』と言うのです。

      その女性の話を聞くと、彼女は前世、男性で、少年時代に私と会っているといいます。前世の私は女性でよく着物を着ていて、教室にやってきたその女性は剣道をやっていて、時代は明治時代で、少年であった彼女は、私のことを姉のように慕っていたと言いました。これには驚きました。私がヒプノセラピーで思い出し、他の誰にも話したことがなかった前世と見事に一致するではありませんか。」

     

     また、スタッフの男性Hも、幼少の頃から、肉体から別の身体が抜け出したとリアルに感じられる体験を頻繁にしていたといいます。意識は、寝ぼけたりしているのではなく、常に鮮明であり、臨死体験の研究で報告される金属音のような不思議な音も聞こえたということです。

    そして、これが日常的に繰り返されたので、幼少期に、肉体以外に別の身体があると自然に思うようになっていったそうですが、このような離脱体験は、大人になってからも、ヨーガの修行の中でも特に強めの呼吸法などを集中的に行っている期間にも、よく体験したといいます。

    なお、前世を記憶していると主張する子供たちの科学的な調査で有名な米国のイアン・スティーブンソン博士によると、200人以上の子供が、身体のどこかに痣(あざ)を持つとともに、それと関連していると思われる前世と思う記憶を持っているといいますが、Hもまた同様です。

      具体的には、その過去世の記憶の中で、今生の痣と同じ箇所に弾丸や刀剣などの武器が貫通して殺されたという証言ですが、Hの場合は、左の腰に、十数センチ四方の大きさの黒っぽい痣があり、以下のような体験をしています。

    「そんな子供の頃、私はよく夢を見ました。私が、軍人として銃を取り、戦場で敵と戦っている夢です。恐ろしい戦場の夢を数え切れないくらい見ましたが、その中の何度かの夢で、必ず私の左腰に銃弾か砲弾のような非常に熱いものが命中して、戦死してしまうのです。どこの時代のどの国の戦場かはわかりませんし、それが自分の前世だという確信があるわけではないのですが、子供の頃に繰り返し見た、この戦場と戦死の夢が、詳細は機会を改めますが、その後の私の人生にも、大きな影響を与えることになりました。」

     

      スタッフの女性Mにも、「真っ暗なトンネル」の体験があります。

      「その時、自分の意識は、真っ暗な空間に放りだされていました。左右、上下も何もわかりませんが、ものすごく大きい筒(=トンネル)の中にいることは認識していて、五感が全く働かず、体があるのかもわからない状態でした。『そこから出たい』と思いました。何も見えないのですが、筒の片側には出口があるのがわかっていて、そこに向かっていこうとしました。そうした瞬間に、私の意識は、自分の体に戻りました。」

      また、Mにも前生と思われる不思議な体験があります。複数あるのですが、その一つは以下のとおりです。

      「私は、江戸時代に、女の隠密(忍者)だったという前世だと感じるヴィジョンを見たことがあります。普段は普通の女性の着物姿で生活しながら、小さい頃から師匠について剣術などを徹底的に教え込まれており、自分が仕える主人に、一人で情報を秘密裏に集めて提供するのです。

      そして、不思議なことに、それが、私の今生の知り合いの男性が見た前世のヴィジョンと一致していたのです。私は、その男性に、自分が見た女の隠密のヴィジョンのことを話したことはありませんでした。にもかかわらず、ある日に何かの拍子に、彼が『私たちは前世でいろいろと縁があったと思う』と言い始めて、彼が見た前世のヴィジョンを話し始めたのです。

      彼の見たヴィジョンも江戸時代であり、私は一般人に見せかけた女の隠密であり、彼も同じように隠密であり、私たちには情報交換のために集まる旅籠屋がありました。そしてその旅籠屋の主人も、私たちの共通の今生の知り合いだったのです」

     

      スタッフの女性Hは、死期が間近な母親と関連したトンネル体験がありますが、これは「チベット死者の書」が描く死後の世界の記載と一致していて興味深いものです。

      「その日、私はたいへん疲れ、寝ていました。気づいてみると、トンネルの中にいて、ものすごい風が吹いており、その強い風に煽られて、抗うことができませんでした。

      私は、チベット仏教などの経典が説く『バルド(死後の中間状態)』に関する知識があったので、『これはバルドだ!』と思いました。チベット死者の書では、死後、私たちは生前の業(カルマン)の風に追い立てられ、なすすべもなくさまようと説かれています。

    そして、『このまま風に流されてしまったら、死ぬのではないか、戻って来られないのではないか』という恐怖が生じ、『死にたくない!』と強く思いました。その一方で、この状況を冷静に見ている自分もおり、『このように魂は流転していくのだな』と思い、仮に死後の世界・転生があれば、コントロールするのは容易ではなく、生前の善い行いや瞑想体験が必要だと感じました。そして、死にたくないと強く思った次の瞬間に、私の意識は、体に戻っていました。

    これは、実は、末期ガンで死期が迫った母親と病院で面会した直後のことでした。母親は、『死にたくない』、『死ぬのが怖い』、『さみしい』と繰り返して言っていました。その母の意識が、私に伝わってきた結果の体験ではないかと感じました。末期の患者とそれを看護する人の双方が臨死体験を共有するという事例(臨死共有体験)があるそうですが、もしかすると、私の体験も母との連動があったかもしれません。」

     

      スタッフの女性Yも、次のような体外離脱の体験があります。

      「その時、私は瞑想していました。ふと気がつくと、私の意識は、宙に浮いており、なぜか『行かなきゃ!』と思い、瞬時にある家の前に立っていました。家の中をぐるっと回ると、コンクリートでできたお店のような様子でした。

    白髪の男性がいて顔を見ると、ある知人によく似ていました。これは、その知人の親族の家(実家)ではと思いました。もう一人いて、年齢的に、その知人のお兄さんではないかと思いましたが、知人とは似ていませんでした。その家の庭には木がたくさんありました。

    この体験が終わった後に、私が見た家の図面を書いて、知人の実家と同じかどうかを知人に確かめてみました。すると、彼の実家は、私が書いた図面の通りでした。それだけでなく、コンクリート造りで酒屋をやっていることや、知人のお父さんは知人そっくりで、髪型も私の見たものと同じでした。さらには、彼が、盆栽が好きで庭には木がたくさんあることや、その家には知人のお兄さんもいるが顔立ちは知人とは似ていないことなどまで、私がその体験の中で見てきたことと、全てが一致していました。」

     

      スタッフの女性Mも、繰り返し体外離脱を体験しています。

      体外離脱の体験は寝入りばなで、たいへん疲れているときが多いといいます。そして、体外離脱体験が起こる場合は、眠ろうと横になると同時に眠気はやってこずに、意識が身体と分かれて、体外に抜けだし、上から自分の身体を見ており、さらには、壁や天井や窓をすり抜けることができるといいます。

    「ある時は、運転中に、疲れてとても眠くなったので、車を停め、シートを倒して横になると、すぐに意識が体外に離脱したと感じる体験が起こりました。頭から車の天井を通り抜け、外の車の天井の上から、自分の車を見ている私がいました。『それだったらもっと空のほうへ飛んで行ってみよう』と思い立ち、星空に向かってどんどん上に飛んでいくことができました。

    しばらく飛んだ後、自然と車のほうへ戻っていき、また同じように、車の天井を通り抜け、自分の身体に戻ると同時に、目がぱちりと開き、息を吐き出して、身体も目覚めました。そのため、意識が体外に離脱している間は息が止まっていて、身体に戻った後に息を吐き出したのかもしれないと思いました。そして、全体が、普通の夢とは異なり、大変リアルでクリアな体験でした。」

     

      スタッフの女性Kも、前生と感じる不思議な体験をしています。

      「これは、私が、中学生のころに見たヴィジョンです。それは、もうすぐ大変なことが起こるということで、私は、潜水艦に乗って脱出することになりました。並んで潜水艦に乗り込んでいる人は、同じグループの人たちでした。そして、その時に、潜水艦へ誘導していた人は、今生でも私の知人でした。潜水艦は黒っぽい円形であり、その入口がハッチのように開いて、階段で登っていきました。潜水艦の中には大きな部屋があって、偉い人の話があるので皆が集まっていました。

      さて、私が、このヴィジョンを見てからずっと後、成人した後に、Aさんと知り合いになりました。そして、とても不思議なことに、彼女は私が見たヴィジョンと全く同じヴィジョンを見ていたことを知り、大変驚きました。彼女も、やはり子どもの頃に、潜水艦に乗って脱出するヴィジョンを見ていて、その潜水艦の形や色などが、私が見たものと同じだったのです。さらに、皆が潜水艦に乗って脱出するために、潜水艦に誘導していた人も、私が見た人と全く同じで、その人は、私だけでなく、彼女の今生の知人でもあったのです。」

     

    15.仏教の生まれ変わりの思想:六道輪廻

      輪廻転生の思想は、仏教以前からインドにおいて存在していました。原始仏典では、基本的に、五道輪廻が説かれました。五道とは、天界・人間界・畜生界(動物)・餓鬼界・地獄界の五つであり、後の大乗仏教になると、阿修羅界も加え、六道輪廻が説かれました。

      これは、私たち人間を含めたすべての生き物は、この六つの世界を生まれ変わり続けており、私たちは前世で動物だったこともあれば、今生で人間だからといって、来世もまた人間に生まれ変わるという保証もないということです。仏教では、この六道の世界を苦しみの世界と捉え、六道からの脱却=転生しない状態=解脱を求めました。

      また、生前での生き方、為したこと(業)の結果で、生まれ変わる世界が決まると説きます。善行によって善い世界へ、悪行によって悪い世界へ生まれ変わります。そして、六道の各世界に転生する原因は、下の世界から順に、以下の通りです。

     

    地獄界: 憎しみ、怒り、嫌悪の心を持ち、他の生き物を殺傷するなど。

    餓鬼界: 欲が深く、必要以上に物を欲しがり蓄える、他の物を盗む・奪うなど。

    動物界: 無智、愚かさ、目先の楽しみ・遊びに耽るなど。

    阿修羅界: 他に対する妬み・嫉妬・闘争。

    人間界: 親子・夫婦、友人・恋人などに対する強い執着など。

    天界: 今の心地よい境遇に慢心し、自己満足している状態

     

    16.仏教の世界観の全体

      正確に言えば、仏教の輪廻転生の思想は、六道輪廻に限りません。六道をまとめて「欲界」(ないし欲六界)と呼び、その上の世界である「色界(しきかい)」「無(む)色(しき)界(かい)」と合わせて、3つの世界(三界(さんがい))を説き、これが生死を繰り返して輪廻する世界全体です。

      ただし、色界・無色界は、私たち人間の精神レベルから見れば、すでに非常に高い世界なので、欲界から脱却することを(色界・無色界から脱却していなくても)解脱という場合があります。

      なお、仏陀は、この三界全ての輪廻から解脱しており、それを「涅槃」の状態といいます。涅槃は、煩悩が完全に止滅した状態です。それでは以下に、三界と涅槃についてまとめておきます。

     

    ① 欲界: 上記に説明した地獄界から天界までの六道で構成された欲望の強い世界。

    ② 色界: 欲望を離れた清浄な世界。色(しき)とは、物質ないし身体という意味。
       色界に住 む天人は、食欲と淫欲(性欲)を断じ、男女の区別がなく、光明を食とするが、身体
       への執着・プライドはある。

    ③ 無色界:欲望も、身体・物質的欲求も超越し、ただ意識だけが存在する世界。

    ④ 涅槃(ニルヴァーナ): 完全に煩悩が止滅し、想念さえない状態。
        この状態になると、いかなる世界にも輪廻再生しないことが可能である。

     

    17.チベット死者の書:死から再生までの中間状態での救済を説く経典

      チベットには、『バルド・トドル』(チベット死者の書)という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。成立は14世紀頃で、バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことで、中(ちゅう)有(う)・中(ちゅう)陰(いん)とも言い、最長49日間で転生していくとされます。

      『バルド・トドル』とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味であり、死者にこの経典を読み聞かせることで、迷いの世界に転生せず、解脱するように導くためのものです。中間状態のありさまが描写されており、死を解脱のチャンスととらえています。すなわち、バルドは、再びこの世に転生するか、解脱するかの分かれ道です。なお、聴覚は、死後も機能し続け、死体の中の意識に大きな影響を与えると考えています。

      死者の書によると、死後のバルド(中有)は3つあります。それは、①「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)、②「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)、③「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)です。

     

    18.「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)

     【第一の光明の体験】

      息を引き取って間もなく現れるバルドで、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。この光こそ、生命の大本である原初の光・根源の光であり、私たちの「心の本性」です。その光は、実体も、色も、形も、汚れもなく、空であり、輝きに満ちています。その光に飛び込み、溶け合えば、解脱するといいます。

      しかし、そのことを死者に呼びかけますが、ほとんどの魂は、このチャンスを生かすことができません。まず、ほとんどの人々は、死後に、この根源の光明を認識できずに、気絶したままであり、その気絶は、3日半~4日半続くと記載されています。

      気絶していなくても、光明が現れる時間の問題があります。生前に修行・善行を積んだか、悪行をなしたかで光明の現れる時間は大きく異なります。瞑想の訓練で、気道(ナーディ)を清めた人には、この光はいつまでも見えるのですが、そうしていない大部分の人々には、指を鳴らす瞬間で終わったり、数十分しか続かなかったりするといわれています。

      さらに、大半の人々は、生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでおらず、光明が現れても、それに対して強い恐怖を感じ、溶け込むことができないといいます。

     【第二の光明の体験】

      第一の光明である根源の光に溶け込めなかった者の前には、第二の光明が現われます。この際、死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。しかし、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、気絶していてこの状態を認識できない死者も多く、この光にも、溶け込める者は少ないといいます。

     

    19.「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)

      続いて【第三の光明】が現れます。この時期、死者は、親族たちを見ることができますが、親族たちは、死者を見ることはできません。そして、第三の光明は、すさまじい音響と色彩とともに現れ、死者は恐怖と戦慄と驚愕によって失神してしまいます。

      『バルド・トドル』では、このバルドの初めに「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」と死者に語りかけます。第三の光明も、その後の神仏も自分の心の現われであるので、怖れることはないと説きます。

      4日後には、死者は失神から覚めます。このバルドは、光と波動、イメージの世界であり、光が様々な大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。48の寂(じゃく)静(じょう)尊(そん)と58の忿(ふん)怒(ぬ)尊(そん)がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、最も純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できます。

      寂静尊とは、穏やかな仏陀や菩薩方。忿怒尊とは怒りの表情をした神仏。日本でいえば不動明王などの怖い形相の神仏と似ています。忿怒の相でも、人を解脱に導く神仏です。しかし、ここでも、溶け込むことはできず、解脱できない者の方が多く、その者たちは、次のバルドへと向かいます。

     

    20.「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)

       シパ・バルドでは、生前における業(カルマン)がイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化します。生前、善い行ないが多ければ、至福と幸福感が入り混じったものになり、生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、恐怖や苦渋に満ちたものになります。そして、これも自己の心の投影であると説かれます。

      また、物理的には、私たちの意識は、カルマンが作る激しい風に追い立てられ、恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、薄暗がりの中で為すすべもなくさまようといいます。

      さらに、有名な閻魔様による裁きは、このバルドで行われ、自分の生前の業に応じて六道のどれかに生まれ変わっていくということです。

     

    21.心理学者ユングによる『チベット死者の書』の解説

     著名な心理学者のユングは、人間の深層心理に関する自らの理論と『チベット死者の書』との類似点に驚愕しました。そして、同書は、人間の魂を神性の光であるとし、死者に自分の本来の価値を気づかせる深い意義を持っているとして高く評価しました。また、死後のバルドは、人間が生まれた時から見失っていた自分の「魂の神性」を回復する試練のプロセスであるいいました。

      そこでまず、人間の深層心理に関するユングの理論を説明します。ユングは、意識を階層構造でとらえましたたが、それを図で表すと以下のようになります。

     

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      ここで、表層意識とは、通常私たちが自覚している意識です。意識全体の5~7%くらいといわれています。

      個人的無意識とは、私たちが自覚していない、忘却している意識です。人生で経験した全情報が蓄積されています。忘れていたことを思い出すのは、その情報が、ここから表層意識に上っていくことということです。

      集合的無意識とは、人類が共通して持っている無意識であす。ユングは世界中の宗教的象徴、神話、昔話、芸術の研究により、人間の無意識に人類共通の象徴が存在することを見出しました。

      元型とは、集合的無意識の内容・中身であり、人類共通の原初的な普遍的な思考形態・感情・生来の行動の様式のひな形です。元型がイメージ化したものが「元型イメージ」ですが、このイメージ自体を元型という場合も多くあります。

      例として、母性は、元型の一つであり、他者を大きく優しく包み育む心の働きですが、これをユングは「グレートマザー」と名づけました。日本語では、慈母・聖母といったイメージでしょうか。また、「賢い老人」も元型の一つで、白い髭の仙人のようなイメージです。

      そして、「自己」とは、後に詳しく述べますが、「私」という意味ではなく、ユング心理学の特別な用語です。それは、全ての元型を包括する元型の精髄であり、意識と無意識の双方を含んだ心全体の中心であって、人の持つ神性の象徴、内なる神のような存在です。

       

    22.ユングによるバルドの解釈:シパ・バルドは個人的無意識の作る世界

      次に、ユング心理学の理論と『チベット死者の書』のバルドの類似点について述べます。まず、ユングは、「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)は、個人的無意識の世界を表しているとしました。

      通常私たちは、自分をいい人であると思いたいために、自分の汚い部分、強欲さや自分勝手なところは、表層意識から閉め出して、この個人的無意識の中に押し込め、見なくてすむようにして忘れてしまっています。そのため、個人的無意識には、修行で浄化しない限りは、エゴの心から生じる汚れた要素がたくさん存在しています。

      このエゴの心は、先に述べた通り、六道に生まれ変わる心であり、シパ・バルドは、個人的無意識が作る世界であるといえます。具体的にいえば、個人的無意識の中にある六道に生まれ変わるエゴの心の働きが、バルドにおいて幻影のヴィジョンとして現れ、それをきっかけとして六道に転生するという仕組みです。

      なお、個人的無意識の理論を打ち立てたのは、フロイトという著名な精神科医・心理学者です。精神的な病を負った患者を診ることで、人間の無意識領域には、反道徳的な欲求や感情、自分勝手なエゴの心が押し込められていると考えました。

      そして、『チベット死者の書』のシパ・バルドの記載には、フロイトの主張した無意識の中に存在する「エディプス・コンプレックス」と非常によく似た記載があります。エディプス・コンプレックスとは、人間は、乳幼児から性愛衝動を持っており、無意識に異性の親の愛情を得ようとし、同性の親に嫉妬する衝動のことをいいます。この衝動は抑圧されており、個人的無意識の中にあります。

      一方、『チベット死者の書』においても、人が「もしも男性として生まれる時は、自分自身が男性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の父に対しては激しい敵意を生じ、母に対しては嫉妬と愛着を生ずる思いを持つであろう。もしも女性として生まれる時は、自分自身が女性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の母に対して激しい羨望と嫉妬を生じ、父に対しては激しい愛着と渇仰の気持ちが生ずるであろう。」と説かれています(『原典版 チベットの死者の書』川崎信定訳 筑摩書房)。

       

    23.チョエニ・バルドは、集合的無意識が作る世界

      前に述べたように、集合的無意識は、人類(ないしは、ある民族全体)に共通するモチーフがイメージとして現れる世界です。チョエニ・バルドで現れる寂静尊・忿怒尊は、死者に共通に現れるヴィジョン(イメージ)であることから、集合的無意識の領域ということができます。

      チョエニ・バルドでは、五色の光、および五つの仏が現れる。チベット仏教では、この五仏を中央と東西南北の四方に配置したマンダラを描き、瞑想に用います(金剛界五仏のマンダラ)。そして、この五色の光は、死者本人から発しているものとされ、五仏は、自身の魂(心の本性)の投影されたイメージと説かれています。

      これは、チベット仏教の特徴です。すなわち、様々な仏陀をイメージする瞑想と、心の本性は仏陀という教えです。よって、このチョエニ・バルドは、チベット仏教の中心部分と関係すると、ユングは述べています。

      このマンダラの語源には、「丸い」という意味があり、円には完全・円満という意味があります。仏教のマンダラは、仏陀・菩薩が円形(ないし方形)に集(しゅう)会(え)する様子を表す図像です。そして、ユングは、このマンダラを「自己」の象徴ととらえました。

      この「自己」とは、先ほど述べたように、意識と無意識の総体(=心の全体)の中心ですが、相反するものを統合する働き、意識・魂が分裂することを防いで統合させる働きがあります。

      実際にユング自身が、自分の師であったフロイトと決別し、その影響などもあって、統合失調症的な精神状態の際に、繰り返し円形の図画=マンダラを書いて、精神の統合を図ったという経験があり、彼の患者にも同じ行動が見られたといいます。こうして、マンダラは、統合作用を持つ自己の象徴なのです。

      なお、「自己」は、前に述べたように、「自分」という意味ではありません。普通の意味の「自分」=自我は、表層意識の中心です。しかし、「自己」は、表層意識と無意識の総体(=心の全体)の中心です。

      通常私たちは、自分という場合、表層意識(=意識)の部分だけを自分と思っています。この状態を、表層意識と無意識の分裂といいます。過去の出来事などは、表層意識にはなくても、無意識に記憶として留まっています。よって、自分とは、表層意識に限定されたものではありません。しかし、表層意識を自分だと限定してしまっているのです。

      そして、これを超えて、真の自分(自分の全体)を認識すること、意識と無意識の統合された状態=「自己」に立ち返ることこそが、人間の成長の最高段階であり、人生の意味であるとユングは考えました。これは、仏教の悟りと同じか類似したものと考えられます。

      さらに、この「自己」は、その最高の成長に導く働きがあるとユングは考えました。すなわち、私たちの根源である「自己」は、「自己」に至らせようとする働きがあるというのです。いわば、内なる神のお導きのようなものです。

      そして、その「自己」の象徴であるマンダラは、チベット仏教の悟りのための瞑想修行のイメージに使われるものです。この意味でも、ユングの「自己」の実現と、仏教の悟りは同じか類似したものと考えられます。

       

    24.チカエ・バルドの光明は「自己」そのもの:光は神仏・神性の象徴

      チカエ・バルドは、前に述べた通り、私たちの意識の根源・心の本性の世界であり、それは、色も形もない純粋な透明な光明です。ユングは、この光明を彼の説く「自己」そのものであり、私たちの魂は、光り輝く神性そのものであるといいます。

      ここで、なぜユングは、人間の根源・原初の意識(=「自己」)を光としたのでしょうか。それは、東洋思想に傾斜した彼の瞑想体験もあったのかもしれませんが、そもそも、自己が、内なる神の性質を持つとすれば、神仏を光で象徴することは、人類に共通しています。

      古来、光は、様々な思想や宗教において、超越的存在者・神・仏を示すものとされてきました。古くから宗教には、光が登場しており、より具体的には、太陽と結びつけられることも多かったです(太陽神)。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例です。

      哲学においても、プラトンが、光の源である太陽と、最高原理「善のイデア」とを結びつけています。それは、新プラトン主義にも引き継がれ、魔術、ヘルメス思想、グノーシス思想にまで影響を及ぼしたといいます。

      新約聖書でも、イエスが「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語っており、キリスト教の神学では、父なる神が光源で、光がイエスという解釈があるといいます。

      仏教でも、光は、しばしば仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされます。智慧の智は見ての通り、日を含んでいます。対極的に煩悩の根本である無智は無明(明かりがないこと)と表現されました。大乗仏教の中心の仏は大日如来(太陽の仏)であり、奈良の大仏(毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ))もそうです。また、日本の神道の神の総帥も天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)(太陽の女神)であす。

      また、キリスト教と仏教の絵画の双方で、神・イエスや仏・菩薩の後ろに、いわゆる後光(輪の形の光)が描かれることが多くあります。前に述べた通り、仏教では、極楽浄土に導くという阿弥陀仏は、無量の光の仏陀(無量光仏)という別名を持ちます。

      そして、実際に、ユングは、世界の諸民族の文化・宗教・神話・昔話・芸術などの調査・研究をして、人類全体に共通する神聖なシンボルとして、光や、円・輪・環があると考えるに至っています。この点に関しては別に詳しく述べますが、ここで、円・輪・環は、チョエニ・バルドの解釈において、ユングが「自己」のもう一つの象徴としたマンダラ(原意は丸い・円)に通じるものです。

      後光の光の輪や、大乗仏教の輪の形のマンダラに限らず、仏陀・仏法の最初期からの象徴である「法輪」、禅宗の悟りや真理の象徴である「円相」、さらには、道教の円形の太極図や、古代遺跡のストーンサークルなど、輪は、普遍的な神聖なシンボルとなっています。

      こうして、人の心の中心に、内なる神のような存在(「自己」)が存在すると考えたユングは、その根源的な象徴を神性の光と考えたのでしょう。

        

    25.ひかりの輪の象徴:太陽の周りの虹の光の輪

      こうして、『チベット死者の書』とユング心理学を見ていくと、その中で、人の心の本性・意識の根源であって、内側の神・仏である何かの象徴として、光や円(輪・環)があることがわかりました。これはまさに、ひかりの輪の団体名に通じるものです。

      ひかりの輪の団体名は、聖地巡りなどにおける、太陽の周りの虹の光の輪の体験などに由来しています。それは、過去の宗教・教祖の問題に葛藤する中で、事物・万物の一体性・一元性を気づいて心が静まって、悟りの境地に近づいた時などに、不思議と現れたものでした。そして、その体験に後押しされながら、過去の宗教・教祖を乗り越えて自立に至っています。

      これは、自分の師のフロイトと決別し、統合失調症に悩んだ自分の精神を統合するために、ユングが円形のマンダラを描いたことと類似点があるように思われます。いずれも、師からの自立の過程の葛藤を超えて精神を統合していく上で、(光の)輪がシンボルとなっているからです。

      さて、最後に、最初に述べた仏教の三界と涅槃と三つのバルドの対応関係に言及しておきます。しかし、これは確定・確信できない部分もあるので、注意していただきたい。

      まず、欲界は、すでに述べた通り、シパ・バルドに対応します。次に、色界は、チョエニ・バルドに対応します。すなわち、第三の光明(様々な色・音響を伴う光)や、その後に現れる仏(寂静尊・憤怒尊)に溶け込めば、色界に転生すると思われます。

      無色界は、疑問もありますが、チカエ・バルドの第二の光明に溶け込んだ場合に転生する世界ではないかと思われます。この第二の光明には詳しい記載がありませんが、第一の光明と異なって、透明光ではないと思われます。

      最後に、涅槃は、チカエ・バルドの第一の光明(透明光・クリアーライト)に対応すると思われます。すなわち、涅槃=意識の根源・心の本性=色も形もない純粋透明な光の世界=「自己」です。そして、これは、ヨーガの真我や、大乗仏教が説く空とも同じ状態だと思われます。

       

    26.死後世界・転生に関する基本的な考え方

      さて、最初に戻って、科学的には、死後世界・転生は、通常の科学の基準では、十分な証明もなければ、その可能性を否定する十分な反証もないという事実に基づいて、私たちが、死・死後世界・転生に関して、どのように考えることができるかについて述べます。

      第一に、死後の世界があろうとなかろうと、死ぬ十分前に、死の過程や死後世界についてよく調べて、自分なりに十分に考えることはメリットが多く、賢明なことではないかと思われます。

      というのは、死ぬ直前に慌てて考える場合は、臨死体験の研究でも有名なキューブラー・ロス博士が提唱したように、末期患者には5段階の苦痛があります。

      具体的には、

    ①  否定: 死ぬことが信じられず否定する

    ②  怒り: なぜ自分が死ななければならないかと怒る

    ③  取引: 善をなすから生き続けたいという無理な願いを持つ

    ④  絶望: 死は避けられないと知って絶望する

    ⑤  抵抗の停止: 絶望状態によって酷く消耗して思考停止

      しかし、死ぬ十分前から、突然に死の宣告を受けたらこうした苦しみを経験することになるとあらかじめ知っておけば、それに対して自分なりに考え、備えることができるでしょう。

      第二に、死後の世界があるか否か、科学的に結論が出ない中で、死後世界の可能性を無視するか、死後の世界がある場合に備えて、一種の保険をかけるかという視点・選択があると思われます。

      人は、災害・病気・事故など、必ず起こるわけではないことに関しても、起こる可能性があれば、保険などをかけて、それに備えようとする場合と、その可能性を無視する場合があります。

      そして、備えない(保険をかけない)場合とは、可能性が乏しく重大ではないと考えたり、備え・保険のコストがあまりに高かったりする場合でしょう。一方、可能性をある程度感じ、それが重大であって、備え・保険の負担はなんとか賄えると考えるならば、保険をかけるでしょう。

       

    27.妄信せず、宗教哲学・人生哲学として、転生思想を考え活かす考え方

      第三に、転生を前提にして生きる方がよいか否かという視点・選択肢があります。これは、死後の世界があった場合(ある可能性)に備えるか否かという視点ではなく、死後の世界・転生を前提にしたほうが、今生を(すなわち死ぬまでを)よりよく生きることができるか否かという視点です。

      チベットの聖者であるミラレパも、死を見つめてこそ本当の生き方がわかるという趣旨のことを説いています。これは、そもそも生と死はセットであり、切り離して考えるべきものではなく、死を本当に考えてこそ本当に生きることができるという視点です。

      この視点から見ると、死後の世界・転生・因果応報がないと考えて生きる場合、悪行の報いも善行の果報もなくなるから、悪いことをしても見つからなければいい、皆がやっていればいい、自分の中の後ろめたさも忘れてしまえばいい、ということになります。

      これは、まさに、物質的な享楽や、競争・勝利至上主義の中で、自己中心・エゴイズムによる不正行為が広がっている現代社会の傾向でもあります。実際に、連日、国を代表する企業や政治家の、様々な不正が報道されています。

      そして、釈迦牟尼の時代にも、死後の世界はないという思想(断滅論)を説く教祖がおり、それは道徳不要論ともいわれました。米国などで近年、キリスト教の保守主義者が増えているといいます。彼らの気持ちとして、現代の米国は、キリスト教・聖書の真理を信じなければ、ドラッグ・セックス・バイオレンスの流れに圧倒されてしまうと感じているということが新聞で報道されていました。キリスト教も、六道輪廻ではありませんが、今生の行いによって死後に裁きを受けるという思想は共通しています。

      現在、弱肉強食ともいわれる市場原理主義経済が広がり、貧富の格差が増大する中で、政治も、米国ファーストを掲げるトランプ政権をはじめ、EU離脱を図る英国ファースト、さらには日本ファーストという名称の政党ができ、世界をリードしてきた先進国が、人類全体の平等主義よりも、自国優先主義を大っぴらに強調して、各地域で国家や民族間の対立が目立ち始めています。そうした中で、倫理観の核となるものをどこに求めるかというのは、無視できない課題ではないかと思われます。

      こうした視点からは、死後の世界・転生・因果応報を前提にした方が、自己中心を抑制して、より正しく利他の精神をもって生きることができるという考えがあるでしょう。しかし、人によっては、自分は欲望のままに自由に生きたいと考える人もいるでしょう。その場合は、死後の世界・転生・因果応報の考えは、自分の自由を束縛する不自由と感じられると思われます。

      一方、欲望に自由に生きることを、本当の幸福だとは感じない人も多いでしょう。そもそも、ユング心理学に関連して述べた通り、欲望のままに生きるということは、自分の悪事・暗部・後ろめたい部分は、他人に見つからないように、そして、自分でも見ないで忘れるようにして生きていくことにもなります。そこには本質的な緊張があって、真の安らぎはないのではないでしょうか。

      そうではなく、自己中心の欲望を抑制し、利他の心で生きるならば、自分の全体を直視して生きることができます。さらには、自分がつながり支え合っている他者・万物も直視して、彼らとつながりながら生きることができます。こうした方が、本当の意味で幸福になることだと考える(感じる)人は、死後世界・転生・因果応報は自由への束縛ではなく、自分の欲望を制御して本当の意味で幸福になる有力な手助けだと解釈できるでしょう。

      ただし、仮にそのように考える場合でも、ここで一つ落とし穴に注意しなければなりません。それは、転生思想を誤解すると、差別や生命の軽視を招く場合があるということです。

      例えば、インドの階級制度であるカーストや、江戸時代の士農工商は、ヒンドゥー教の輪廻転生思想によって正当化された面があります。ある人が今生、下層階級で苦しんでいても、それは前世の悪業が原因(自業自得)だとして放置するのです。これは、近代民主国家の「法の下の平等」や、万人に健康で文化的な生活を保障する福祉制度と対立することになります。

      これは、仏教思想において、何が善行で、悪行かを正しく理解していないことを原因とした過ち、転生思想の誤用・悪用だと考えられます。釈迦牟尼の教団は、カーストを否定し、当時の教団としてはいち早く女性の出家者を認めるなど、当時の社会の基準からすれば、平等性が高い集団でした(現代社会のような男女の平等性はないが)。

      そして、釈迦牟尼が、最大の穢れ(汚れ)と説いているのが、痴(無智)という根本煩悩であり、これは、自と他を区別し、自我に執着し、慢心などを抱くことが含まれています。しかし、自分が過去の善行によって幸福であり、他者は過去の悪行によって不幸であると考えた段階で、自分と他人を区別し、慢心に陥っていることになります。

      実際には、自と他を含めた万物が相互依存であると説く仏教の思想(縁起の法・相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)など)に照らしてみれば、自分という存在は、他者・万物の支えのもとに存在しており、自分の善行も他者・万物の支えのもとになされたことですから、他と別の自分や、他とは別の自分の善行などは存在しないのです。

      さらに、もう一つの死後世界・転生の問題としては、特殊な宗教的な教義によって、自殺や他殺が正当化されてしまう場合です。これは、イスラム国などのイスラム原理主義において、米国やユダヤ人との聖戦のための自爆テロを行って自殺すれば、その結果として天界に生まれ変わることができるという思想や、解脱者の指示があれば他者を殺したとしても、その者が良い転生を得ることができるから良いと考える、オウム真理教や密教のポアや度(ど)脱(だつ)の思想があります。

      この背景には、自分たちを善・聖なる存在とし、他者を悪・邪と見る、自と他の区別、独善的な善悪二元論、慢心といった問題があるでしょう。また特定の宗教・宗派・教祖に対する過剰な依存も原因の一つです。

      よって、自分がよりよく生きるために、死後世界・転生・因果応報を前提にして生きようとする場合は、こうした転生思想の誤解・悪用や、特定の宗派・教祖の妄信に陥らないようにすべきです。よって、安直に転生思想を妄信したり、特定の宗教・教祖を妄信したりするのではなく、自分の理性で転生思想を熟考し、本当に自分と他者のためになるように、正しく解釈する努力を自ら行うべきです。

      こうして、宗教・教祖の教義を妄信せず、理性によって熟考し、再解釈して、自分と他者の幸福のために活かして用いる姿勢を「宗教哲学」といいますが、これが、仏教などの宗教思想に対する、ひかりの輪の基本的な姿勢となっています。

       

    28.転生を前提とした死への備え

      さて、仮に、死後世界・転生がある場合に備えて保険をかけておこうとする場合や、自分がよりよく生きるために、転生思想を前提に生きようとする場合のために、特定の宗教・宗派・教祖のみが説く思想ではなく、各宗教・宗派に広く共通する普遍的な良い来世・転生の条件について考えてみましょう。

      するとそれは、自己中心の利己的な行為を悪行と考えて離れて、利他の行為=善行をなるべくなすこと、ということに集約されるのではないでしょうか。そして、これは、死ぬまでの苦しみを和らげる効果もあります。なぜならば、自己愛が強いほど、死ぬことに対する恐怖・不安・苦しみは強いからです。死は、執着している自己を失うことだからです。

      もう一つ、死後世界に備えるという意味では、前に述べたように、ひかりの輪のスタッフのように、ヨーガ・仏教の修行による瞑想体験によって、死後世界・転生のシミュレーション(事前体験)をしておくということが考えられます。

      これは、本格的なヨーガ修行ができれば最善ですが、そうした霊的な体験を素早くもたらす特殊な行法も一部にはあるので、それを体験してみることもできるでしょう。また、前世体験に関しては、前世退行催眠を受講することもできるでしょう。

     

    ※参考文献

    ◎エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』 中央公論新社(中公文庫)

    ◎エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』 中央公論新社(中公文庫)

    ◎立花 隆『臨死体験〈上・下〉』 文藝春秋(文春文庫)

    ◎立花 隆『証言・臨死体験』 文藝春秋(文春文庫)

    ◎サム・パーニア『科学は臨死体験をどこまで説明できるか』 三交社

    ◎ケネス・リング『いまわのきわに見る死後の世界』 講談社、1981

    ◎ケネス・リング『オメガ・プロジェクト』 春秋社

    ◎レイモンド・ムーディ『かいま見た死後の世界』『続かいま見た死後の世界』 評論社、

    ◎レイモンド・ムーディ『光の彼方に』 TBSブリタニカ、1990

    ◎レイモンド・ムーディ『臨死共有体験』 ヒカルランド

    ◎カーリス・オシス『人は死ぬとき何を見るのか -臨死体験1000人の証言』 日本教文社、1991

    ◎マイクル・B. セイボム『あの世からの帰還』 『続・あの世からの帰還』日本教文社

    ◎マイケル・タルボット『投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』春秋社、2005

    ◎石井登『臨死体験研究読本 脳内幻覚説を徹底検証』 アルファポリス、2002

    ◎カール・ベッカー『死の体験 臨死現象の研究』法蔵館

    ◎ブルース・グレイソン『臨死(ニアデス)体験 生と死の境界で人は何を見るのか』春秋社

    ◎スーザン・ブラックモア『生と死の境界 臨死体験を科学する』読売新聞社

    ◎ケヴィン・ネルソン『死と神秘と夢のボーダーランド: 死ぬとき、脳はなにを感じるか』 インターシフト


     

  • 宗教と科学の統合に向けて

     1.宗教と科学の統合に向けて

     宗教と科学の統合というテーマは、今、人類において大きな課題となっているのではないでしょうか。

     ひかりの輪の提唱する一元思想は、この宗教と科学の統合にもつながってきます。これまでの宗教と科学は別のものであるいう二元的な考えは、いままでも検討されてきており、さらに今後も改善されていくものと予想されます。

     科学研究はますます発達し、従来のニュートン・デカルトの二元論をくつがえすような結果が生じています。特に量子力学の世界では、ノーベル賞をとった優秀な物理学者が何人も、 東洋思想や西洋の一元的思想に傾倒していることは特筆に値します。ミクロの世界では物心二元論が通用しなくなったのです。そこは一元の世界でした。

     詳細は別の機会に譲りますが、多くの科学者が全一性を唱え始めました。

     すべてはつながっていると、一つであると。

     これは2600年前、仏陀釈迦牟尼が説いた教えと驚くほど一致するのです。すべてはつながっていて、何一つ独立して存在するものは何もないという縁起の法や諸法無我と同じことをいっています。

     

    2.二元論の生み出したもの

     従来のニュートン・デカルト的思想においては、心と物質は別のものであり、そこにつながりなどないものとされていました。いわゆる二元論です。

     そして宗教と科学は相反するものであり、科学は宗教をうさんくさいものとしてなかなか受け入れようとしませんでした。

     ある種の科学は発達しましたが、心がないがしろにされ、人間の欲望をますます満たすためのものとなりました。そのため環境破壊や、軍事兵器の発達による戦争の多大な被害、物質文明の弊害など様々な問題を生じさせているのが現状です。科学の発達に比べて心の成熟が遅れている時代ともいえます。

     そして実際、物質文明にあきた人々は、精神的なものや霊的なものに興味を持ち始めました。1960年代に盛んだったニューエイジムーブメントはその発端だったといえましょう。

     その後アメリカで発達したトランスパーソナル心理学でもその傾向はみられ、ヨガ、仏教、禅などの宗教や霊性というものに注目するようになりました。その背景には日本から禅を広めにいった鈴木俊隆がいたり、ラジニーシ、ムクタナンダ、マハリシのTM瞑想などの影響も大きいでしょう。

     また、中国共産党の侵攻によりチベットの僧が亡命し、世界にちらばり、チベット密教を世界各地に広めたことによる影響も大きいといえます。

     こうした流れの中で東洋系の宗教がたくさん西洋に入り、多くの人が瞑想修行をするようになりました。

     日本でも最近、ヨーガやヒーリングなどが巷で流行っています。書店でも癒しとか精神世界やスピリチャルなものに関する書籍は増加し、人々がいかに心や精神や霊的なものに関心をもってきているかうかがえます。今後この傾向はますます強くなっていくことでしょう。

     物質文明だけでは、心の安定や豊かさや幸福は得られないということを感じている人が増え、物質世界に飽きだしている人は心の安定や本当の幸福をもとめ、自分とは一体何だろうかと考え始めているのです。21世紀はそうした人々が増え、しだいに宗教とか精神とか霊性などに興味を持つようになると思われます。

     

    3.トランスパーソナル学会

     トランスパーソナル心理学の創始者の一人でもあるスタニスラフ・グロフは、1982年にインドで開かれた第7回トランスパーソナル学会で次のように述べています。

     「現代の西洋科学---天文学、物理学、生物学、医学、情報理論、システム理論、深層心理学、超心理学、意識研究---における革命的な発展で最も興味深い点は、宇宙や人間の本性に関する新しいイメージが、古代や東洋の霊的哲学---さまざまなヨーガの体系、チベットの金剛乗、カシミールのシャイヴィズム、禅仏教、道教、カバラ、キリスト教神秘主義、グノーシス主義---のイメージとしだいに類似してくる傾向があるということである。

    われわれは古代と現代の驚くべき総合、そしてまた、この惑星上の生命に甚大な影響を及ぼすにちがいない、東洋と西洋の偉大な業績のとてつもない統合に向かっているように思われる。」(「個を超えるパラダイム」スタニスラフ・グロフ編 吉福伸逸編訳)

     わかりやすくいえば、ここで述べている現代科学とは、これまでの物質主義的機械論的科学、いわゆるニュートン・デカルト的科学とはうってかわり、70年代に登場した、ニューサイエンスといわれる、より東洋哲学の考えに近い科学を指しているのです。

     そしてそれは一元的な宗教といわれるものと、一致し合一する方向に向かっていると言うのです。ここではキリスト教ではなく、キリスト神秘主義とあるように、ここに提示されている宗教は一元思想の宗教を指しているのです。

     今後、新しい科学と一元思想の宗教が合一するであろうと、ひとりの心理学者が提唱し、 そして、トランスパーソナル学会という、科学と宗教の統合、西洋と東洋の統合を象徴する学会を、すでに20年以上も前に開催していたのです。

     

    4.ユネスコ主催の国際会議「科学と文化の対話」

     また、服部英二氏は1979年、フランス文化放送がコルドバで開いたセミナー「科学と人間の意識」に衝撃をうけました。当時ユネスコに所属していた服部氏は20世紀にはいってますます顕著になってきた科学と精神文化の乖離は現代が克服すべき課題だと思っていましたが、このコルドバセミナーで、「量子力学」の新しい世界観に大きな期待が寄せられると感じたのです。

     ここに参加したF・カプラ、D・ボーム、カール・プリムラム等々はタオ、ヴェーダ、ウパニシャッド、仏教の世界に科学との相似点を見出していました。

     しかし、古典的科学者からの批判も強かったようです。新しい考えがでるときは当然のことですが、この領域で全世界の人々が納得するだけの国際会議を開くのはユネスコの使命ではなかろうかと考え、服部氏は「科学と文化の対話」セミナーを開くことを考えたのです。

     ユネスコの名で行う限りは、学的な批判に耐えられるだけの普遍性と学際性を取り入れる必要がありました。

    そして以下のようにセミナーは開催されました。

    第1回 1986年 ヴェニス(ヨーロッパ)

    第2回 1989年 ヴァンクーヴァー(北米)

    第3回 1992年 ベレン(南米)

    第4回 1995年9月  東京(アジア)

     そして、ヴェニスから12年、東京で開催されたこの知的フォーラムは、遂にその両者が対峙するのではなく融合することを認めるに至ったのです。

     カール・プリムラブとヘンリー・スタップが、最終日に満場一致で提示したメッセージは、「科学と文化の対話」の最先端の認識の総決算といえるものでした。

     このときに発表した「東京からのメッセージ」の内容の中では

     「17世紀に始まり19世紀にピークに達する機械論的科学が、300年にわたり、主・客を峻別し、自然を征服すべき客体とみなすことにより、盲目的な<進歩>の概念を生み出し、画一的な物質文明を作り出した。」

     とあり、この思想によって、科学は伝統文化と本質的に相容れないものとなったと指摘されました。

     しかし、実は、デカルトやニュートンに象徴されるこの科学主義は、西欧本来の伝統ではなく、人類の発生からの時間を考えると、実に「1万分の1の時間帯」に起こった特殊な出来事にすぎなかったと説明されているのです。人類の歴史3万年のうちのわずか300年に起こった出来事なのです。

     そして

     「20世紀の新しい科学は、量子物理学を初めとし、宇宙にはかつて古代の智恵が抱いていた自然観に近い<全一性>Wholenessの秩序が存在することを発見した」

     という報告があり、「全は個(部分)に、個は全に返照する」というこの理論は、カール・H・プリムラムやヘンリー・P・スタップの「主客未分」の量子論的宇宙観の中核をなすもので、それは日本から参加した三人、河合隼雄・鶴見和子・中村雄二郎が取り上げた大乗仏教の哲理に対応することを、この会に集った世界の有識者が認めたのです。

     これは一宗教名をださないことを原則とする国際機関主催による会議としては極めて異例のことでした。

     「東京からのメッセージ」の最後の部分には以下のように書かれています。

     「しかし科学は現在、宇宙のまったく違った全一的な様相の存在を明らかにした。

     この新しい全一論はその「部分」の中に全体が包含され、「部分」が全体に分散されているという認識なのである。

     したがって我々のメッセージは、自然の中の人類の未来について強力な全一的ヴィジョンを持つ、大乗仏教の概念を反映したものである。」(『科学と文化の対話 知の収斂』 服部英二 監修 出版会)

     新しい科学と大乗仏教の概念がここで歩みよったのです。

     ユネスコという国際的な機関で、「科学と文化の対話」というような、国際会議が開かれたということは、非常に世界的に大きな時代の変化を感じます。

     そして東京からのメッセージでは、新しい科学というのは、現在全一論をとり、それは大乗仏教の概念を反映したものとなっていると主張しています。

     これは今後の科学と仏教が融合するきざしを予感させます。実に今から20年以上も前に、国際的にこのような動きがあったのです。

     21世紀の今、まだまだ20年前のこのメッセージを知る人は少ないといえます。世の中の人々は依然として物心ニ元論に陥っている人々が多数です。しかし、いずれこの新しい考え方は世の中に広まっていくことでしょう。それに伴い、仏教というものが新たに見直されていくことでしょう。

     

    5.21世紀は仏教の時代

     21世紀は仏教の時代だと唱える有識者は多いのです。

     ユング派の心理学者、河合隼雄氏も21世紀は仏教の時代であるといっています。河合氏は心理療法をやっていると、自分のやっていることが仏教のようになってしまっているといっているのです。

     また、アメリカの比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろうと語っています。

     科学の発達により、仏教の世界観が科学的にも証明され、仏教と科学の統合がなされることによってそれは確固たるものとなるでしょう。

     意識や精神や心が科学的に解明され、物心一元論の時代がまた新たにやって来るということを予感させます。

     それはひかりの輪が提唱する一元論にもつながります。

     英米で活躍する医療のトップジャーナリスト、リン・マクタガートは、新しい科学を取材した結果を綴ったその著書、『フィールド響き合う生命・意識・宇宙』(2001年発行)の中で次のように述べています。

     「来るべき科学革命は、あらゆる意味で二元論の終焉を告げていた。神を破壊するのではなく、科学は初めて--より高次の集合的意識の存在を示すことによって--神の存在を証明しようとしていた。もはや、科学の真実と宗教の真実という、二つの真実は必要ない。そこにあるのは、統一されたただひとつの世界観だけのはずだ。」

     

     

     

     

  • 人の煩悩(=過剰な執着・嫌悪)を生む脳の神経伝達物質の理論(脳科学)

    1.脳の感情制御システム

    本来は生命維持のためにあった脳の感情制御システムが、現代社会には適応できずに、下記の通り、様々な意味で、暴走・麻痺・機能不全を起こしているとも解釈できます。

    感情制御システムは3つあります。

    (1)脅威システム

    生物にとって生命の危険・脅威に対処・反応する仕組みです。脳内物質のアドレナリンと関係しています。
    脅威に基づく主な感情は、不安、怒り、嫌悪です。不安を感じることで身をかがめたり逃げたりします。怒りを感じることで闘います。嫌悪によりその物事を回避したりします。危険から逃れるためには迅速な行動が必要ですからこれらの反応は素早いです。

    ★脅威システムのマイナスの側面
    脅威システムはそれ自体で過剰反応するようなシステムであり、他のシステムとの相互関係でコントロールされるものです。

    ①過大評価
    脳が特定の状況での脅威や危険を過大評価します。危険から身を守るシステムですから、ちょっとしたことでも過剰に反応するように設計されています。非常に用心深いというか、些細なことで臨戦態勢をとってしまうということです。料理のためにコンロに火をつけたるたびに火災報知器がなるようなものです。

    ②肯定的なものを却下してしまう
    肯定的な出来事よりも否定的な出来事に注意を向かわせる。
    10のうち9肯定的な評価があっても。1つの否定的な評価に意識が集中し思い悩むということなどがそうです。

    ③否定的なことについて繰り返し考え心配する傾向
    解決を得るための思考ではなく、ただ不安を強めるだけの繰り返しの思考。

    これらの3つは、認知療法における「認知の歪み(心のくせ)」のパターンにあげられているものの一部であることに気づきます。脅威システムという脳の仕組みによって否定的な認知(ものの捉え方)が生じているということになります。

    現代においては生命の脅威ではなくて、批判・否定される時にも(過剰に)分泌され、不安・嫌悪・怒り・ストレスが強くなる傾向があります。


    (2)動因と資源獲得のシステム

    このシステムはドーパミンという脳のホルモンと関係しています。目標を達成したときに心地よい興奮を与えてくれるホルモンです。
    本来、生きるために必要な衣食住を獲得するためにあるシステムですが、現代社会では、「必要」が獲得の理由ではなく、欲望を刺激し、このシステムを過剰に働かせています。また、生存欲求以上の欲求(承認欲求など)を際限なく求めるようになっています。

    もっと多くの興奮、もっと多くの物を求めることで、なかなか満足することができない状況になっています。ですから、このシステムが過剰に活性化して、欲求が充足されない時に不満足感、欲求不満を感じ、自分にも不満を感じる状態になります。

    もっと多くの強い興奮を得るためにはドーパミンの分泌が増える必要があります。そうして、繰り返しドーパミンの分泌が増えると、ドーパミン神経の感受性が鈍くなり、ドーパミンの分泌が減ります。さらに強い刺激でないと多くのドーパミンは分泌されませんから、満足を感じるだけのドーパミンが出にくくなり、その結果、欲求不満、不快を感じることが多くなります。

    自己否定的な自信喪失につながることはわかると思います。ですから、自信をつけるためには、脅威システムが発動されていることに気づき、適切に鎮静化させること。過剰にこのシステムが暴走することをコントロールすることが必要になります。


    (3)充足とスージングのシステム  ※スージングの意味:沈静・鎮める

    動物は、安全な状態、敵の攻撃の危険性のないとき、平安と充足の状態にあります。人間も例外ではありません。このとき脳ではエンドルフィンという物質が分泌されているということです。エンドルフィンは、平穏な充足感を促進し、「脅威システム」と「動因と資源獲得のシステム」のスイッチを切った状態にします。

    エンドルフィンは、食欲・睡眠欲・生存欲などの本能的な欲求が満たされる時に分泌され、モルヒネと似た鎮痛・沈静効果があって、喜びを与えるドーパミンを分泌する神経伝達物質でが、(承認欲求が強くて満たされない現代では)これがなかなか出ず、上記のアドレナリンの過剰な分泌(過剰な不安・嫌悪・怒り)を防いだり、ドーパミンの分泌を促進したりできず、心の平安・充足が得られません。


    2.対処法

    心理学が説く対処法・心理療法は、仏教の修行と酷似しています。
    例えば、認知行動療法の流れであるコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)(英国の心理学者のポール・ギルバート博士が開発)では以下の訓練を提唱しています。

    (1)仏教のマインドフルネス瞑想

    過剰な執着と嫌悪を和らげ、心を平静にする効果がある。

    (2)ヨーガとよく似た呼吸法

    呼吸・気の流れを整え、心の安定・エネルギーの充実を図る。

    (3)美しい自然や暖かい家などの理想の空間をイメージする瞑想

    自分の内側・イメージによって充足感を作り出す。
    仏教・ヨーガでも、心の安定・充足を得る象徴物・シンボルの瞑想がある。

    (4)自と他双方に対する慈愛の心・行動をイメージする瞑想

    他に勝つ・評価を得るのではなく、他に感謝し、他を愛する幸福・喜びの訓練をする(勝利ではなく、感謝と愛による幸福)。

  • 身体の心理学 ~動きが心を作る~

    心の問題に取り組む場合、直接心にアプローチする心理療法や脳に作用を及ぼす薬物という手段がとるのが一般的であるが、身体・身体の動き・心の相互作用の視点から心に取り組む身体心理学というものが、早稲田大学名誉教授である春木豊博士によって提唱されている。春木博士は行動主義心理学、健康心理学を研究し、ヨガ、気功、禅などの実践もするなかで「身体心理学」を提唱した。

    東洋においては、ヨガや気功など体と体の動きと心の関係が古くから知られ、心身一如という言葉もある。心身医学や健康心理学で心身の相関性は指摘されるが、身体心理学は、そこに「体の動き」というものを加え、より体と心の関係を明確にした。
    そして、身体心理学が目指すところは、ストレスへの耐性を高めること、心身のウェルビーイング(良好な状態)である。


    1.動きと心の関係

    (1)心は動きから生じた
    心の研究である心理学では基礎分野において、知覚,記憶,理解など対象を認識する作用を研究する認知心理学が盛んである。これは、脳科学の発展と関連している。心は脳の働きによって理解出来るという風潮が広がっているが、身体心理学では、はたしてそれだけで心が理解出来るのかという視点に立っている。もちろん、脳と心の関係を否定しているのではなく、それだけでは足りないのではという視点である。

    ここに興味深い研究がある。漢字を思い出すのに、多くの人が手を動かすということをもとに行われた。漢字を思い出すときに、手を動かすのを禁じられたグループと自由に手を動かすことを許されたグループとで、漢字を思い出せることに違いがあるかの実験を行った。結果は、手を動かせた方が明らかに成績がよかった。

    このことは、記憶を想起するという知的な働きが単に脳の働きだけでなく、末梢である手の動きが関与していることを示すものである。

    脳は進化の後半に生まれたものである。はじめに末梢の四肢の活動の経験があり、その経験の蓄積によって形成されたのが脳という器官であるということだ。このことから、身体心理学は、「心は身体の動きから生まれた」という主張をする。

    (2)心の始まりは感覚にある
    心には知の働きと情の働きがある。情には、感情、情動、気分など微妙な違いがあるが、情は感動や実感をもたらす。そして、この感情、気分というものは、体の動きから生じる感覚と関連している。快-不快、緊張-弛緩など、感覚と気分・感情は結びついている。


    2.動きについて

    (1)身体心理学が扱う動きとは、以下の2つに分類される

    ①体動:体表の筋肉の微細な動きである表情、目線、姿勢などの動きで、かなり反射的な動きである。
    ②動作:体全体の動き。生活のなかでのあらゆる動きはこの動作である。

    (2)意志(意識)的動きと無意志(無意識)的動き
    動きには、生理的な反射の反応(レスポンデント反応)と意志的反応(オペラント反応)
    がある。そして、生理的な無意識的な反射と意志的意識的な反応の両面を合わせ持った反応もあり、それをレスペラント反応と呼ぶことにする。

    レスペラント反応は、体 (レスポンデント反応)と心(オペラント反応)の両方にまたがったものであるため、体と心に影響を及ぼすことができるものであるため、身体心理学ではレスペラント反応に焦点を当てて研究する。

    (3)レスペラント反応の種類
    ①呼吸反応
    ②筋反応:筋肉の緊張と弛緩の反応
    ③表情
    ④発声
    ⑤姿勢反応
    ⑥歩行反応


    3.レスペラント反応と生理・心理との関係

    (1)呼吸反応
    ①心の状態が呼吸に及ぼす影響
    被験者にストレスとなる作業をしてもらい、そのときの呼吸の状態を見るという実験を行った。具体的には、やさしい加算作業→難しい加算作業(ストレス)→やさしい加算作業→交通マナー教育の映画を見る→交通事故の映画を見る(ストレス)→交通マナー教育の映画を見る→二〇度の水に手を入れる→四度の水に手を入れる(ストレス)という作業である(『動きが心をつくる』春木豊著 講談社新書)。

    各課題作業の間には安静時間を設けた。呼吸の変化状況は、作業の時と安静で比較した。呼吸は、呼吸の時間、吸気の時間、呼気の時間、呼気から吸気に転じるまでの間の時間について観測した。
    結果は、作業時は安静時より呼吸の時間が短くなる傾向が見られた。冷たい水に手を入
    れるストレス刺激において、呼気が長くなり、呼気後の吸気に入るまでの間が短くなった。

    呼気後の間が短くなったのは、加算作業においても顕著であった。これはストレス状況(緊
    張)では、ゆったりした呼吸ができないということを表している。

    このことから、仮に逆もまた真であるならば、心理的緊張状態になったときに、ゆっくりとした呼吸、特に呼気から吸気に転じるときに間を長くすることで、落ち着きを取り戻せるだろうことが推察される。

    ②呼吸が生理に及ぼす影響
    呼吸と血圧、心拍との関係を示す研究を紹介する。3つの呼吸法で実験を行った。1.腹式呼吸で呼気を長く行う 2.腹式呼吸で呼気を短く行う 3.深呼吸 である。

    実験前に血圧、心拍数を測り、気分評定表のチェックをした。実験直後に血圧、心拍数
    の測定をし、5分休憩後に再度測定をした。その結果、いずれの呼吸法でも血圧は下がっ
    たが、呼気を長く行った呼吸法(長息)が最も下がり方が大きかった。長息は血圧が下が
    った状態が持続したが、他の呼吸法は時間とともに元に戻った。心拍数はどの呼吸法でも
    実験後上昇し、5分の休憩で急速に低下した。

    このことから、長い呼気が血圧を下げるのに効果的であること、副交感神経を優位にし生理的安定をもたらすことがわかる。また、ゆっくりした呼吸と速い呼吸で、心拍数と呼気終末二酸化炭素(PetCO2:PetCO2は呼吸によって吐き出された気体中のCO2の分圧(割合))の量を比較した実験では、ゆっくりした呼吸では、心拍数が下がり、呼気終末二酸化炭素の値が上がった。呼気終末二酸化炭素はストレスがあるときは値が下がるので、ゆっくりした呼吸によって生理的緊張状態が改善できることを示している。

    ③呼吸が心理に及ぼす影響
    腹式呼吸の実験において、気分の調査を行った。「落ち着いた-興奮した」「くつろいだ
    -緊張した」など気分を表す対になった言葉を示し、その間を10段階で評価してもらっ
    た。その結果、長い呼気では、短い呼気や深呼吸よりも、落ち着いた気分、くつろいだ気
    分になる傾向が大きかった。腹式呼吸で長い呼気をするとリラックス効果がもたらされる
    ことを示している。

    また、意識的に呼気を長くすることで、「タイプA性格」という怒りやすい、焦りやすい
    という性格の人たちに効果があることがわかっている。長い呼気を行うと、「時間的切迫感」
    「焦りを感じて落ち着かない」というタイプAの傾向が低くなることがわかった。

    (2)筋反応
    筋反応は筋肉の緊張と弛緩の反応である。

    ① 弛緩法の心理、生理に及ぼす影響
    健常者にジェイコブソンの漸進的弛緩法(体の各部位を順次弛緩させていく方法。一度緊張させて緩めるという手順をとる)を行い実験をした。事前に、不安尺度、ストレス状態を調べる尺度に回答してもらい、そのときのリラクゼーションの程度も10段階でチェックし、生理的検査として心拍数を測り、唾液を採取した。

    この後、被験者は筋弛緩法を20~25分行った。事後に事前に行った検査を行った。比較対象として、筋弛緩法をやらないで静かに座っている被験者も同じように検査した。

    その結果、筋弛緩法を行った被験者は、不安、ストレスの程度が下がり、リラクゼーションの程度が上がった。筋弛緩法をやらないで静かに座っている被験者には変化がなかった。筋弛緩が心理的緊張を下げることがわかった。

    心拍数は筋弛緩法を行った被験者は低下し、行わなかった被験者は変化がなかった。また、唾液から抽出されたコルチゾールは筋弛緩法を行った被験者は低下し、行わなかった被験者は変化がなかった。コルチゾールはストレスが高まると値が大きくなるので、筋弛緩法はストレスを下げたと言える。また、唾液からの免疫グロブリンが筋弛緩法を行った被験者は増えていて、行わなかった被験者は変化がなかった。このことから、筋弛緩が免疫力を高めたと言える。

    弛緩法が恐怖心を弱めることができるという実験結果もある。恐怖心と筋緊張が密接に関連していることを示していて、心の緊張と体の緊張は同義であるといえる。

    (3)表情
    ①表情と心理の関係
    被験者に前歯でペンを噛んでマンガを読む、このときの顔面反応は笑顔のときとほぼ同じになる。ペンを唇で押さえてくわえてマンガを読むことも行った。結果は、前歯でペンを噛んだ被験者の方が面白さを感じたという結果が出た。笑顔の時の口角が上がる表情が快感情を起こしたと考えられる。

    別の実験では、「イー」(口が横に広がる)という発声と「ムー」(唇がとんがる)という発声をしてもらい、気分に与える影響を調べた。結果は、快-不快の気分では「イー」の方が「ムー」より快であるとの回答が多かった。緊張-弛緩では「イー」の方が弛緩する。興奮-鎮静では「イー」の方が鎮静の気分になるという回答が多かった。

    また、楽しい映画を見てもらうが、顔面反応(表情)を禁止した被験者と自然に反応してもらった被験者にわけて行った。結果は、自然な反応ができる被験者の方が面白さを感じやすかった。このことは、顔面反応を抑制すると感情も抑制されるということを表していると思われる。

    (4)発声
    ①発声が心理に及ぼす影響
    被験者に「アー イー ウ~ン エー オー」を発声してもらい、それぞれの発音に感情評定してもらった。「ウン」は温かい、ゆったりしたという回答が多かった。「ウ~ン」は落ち着いた気分、「アー」は開放的な気分をもたらした。

    (5)姿勢
    ①姿勢が心理に及ぼす影響
    顔の方向が上向き・正面・下向きで、それぞれについて背骨を直立と曲げたものの計6種類の姿勢をとってもらい、それぞれどのような気分を感じるかを17の形容詞対で評定してもらった(「生き生きした-生気がない」「自信がある-自信がない」「明るい-暗い」など)。首を下向きにすると他の向きよりネガティブな気分になる、背骨を曲げるとネガティブな気分になることがわかった。最もネガティブな気分になるのは、首を下向きにして、背骨を曲げる姿勢である。この姿勢はうつと関係がある。うつ気分になるとうつむき姿勢になるが、うつむき姿勢でうつ気分にもなるといえる。

    ②姿勢が知覚に及ぼす影響
    音楽を聴くときの姿勢が音楽の知覚にどのように影響するかという実験では、仰向けの姿勢、背筋を立てて正面を向く姿勢、背骨を曲げてうつむく姿勢の3つの姿勢で行進曲風の明るい曲を聴いてもらった。うつむき姿勢で聴くと他の姿勢よりネガティブな感じに聞こえるという結果であった。姿勢は環境からの情報を受け取る場合に影響を与えるということが示唆される。

    姿勢と前頭葉との関係を調べた。直立姿勢とうつむき姿勢で「さ」「み」などからはじまる名詞をたくさん言ってもらう知的作業を行った。そのときの前頭葉の活性度を調べた。その結果、直立姿勢のときは前頭葉は活性化したが、うつむき姿勢のときは活性化しなかった。うつ状態の人は知的作業をするとき、前頭葉が不活発であるという研究もある。うつむく姿勢はうつ気分と関係し、知的活動も低下することがわかった。

    ③姿勢の教育
    小学校、中学校で、しっかり座ると腰が立つ椅子を使うことで、従来の椅子と比べ「落ち着く」「生き生きした感じ」「くつろぐ」との評価があった。この椅子を半年間使って、姿勢への意識や学校生活に対する意識がどのように変わったか観察した結果、「授業中に姿勢を気にするようになり」「自分の姿勢はよい」という意識が高まり、「いらいらすること」が少なくなり、代わりに「落ち着いて勉強できる」ようになった。教師たちも従来より生徒たちのやる気、集中力が増したと評価している。

    また、姿勢に対する意識が高まった生徒では、物事に飽きるということが減少し、頭がすっきりする程度も高まった、自己統制力が高まった。そうでない生徒では、そのような結果はなかった。

    (6)歩行
    ①歩行と感情の関係
    怒り、喜び、悲しみの感情のときの歩行動作の特徴にもとづいた歩行を被験者にしてもらい、そのときの感情についての回答をしてもらった。被験者がその歩行の仕方が感情と関係があることは知らされていなかった。結果は、怒りの歩行では怒りの感情、喜びの歩行では喜びの感情、悲しみの歩行では悲しみの感情がそれぞれ多く回答された。ある程度、歩き方と感情が対応していることがわかった。

    また、短い歩幅で歩くと地味で、自信がなく、抑圧された気分になること、歩幅が長くなるほど、派手で、自信があり、開放された、外向的な気分になった、という研究もある。

    さらに、遅いテンポで歩くと、活動性が低くなり、速いテンポで歩くと活動性が高まったという実験結果もある。


    4.心身のウェルビーイングを得る

    ウェルビーイングとは、心身ともに「良い状態である」、「健やかに存在している」ということである。ウェルビーイングに寄与するものとして、気分/感覚のバランスをとり、充実させることが必要であると身体心理学ではいう。つまり、心身のウェルビーイングを実現することが身体心理学の目的である。そのためには、気分/感覚のコントロールが必要であるということである。

    (1)気分/感覚
    気分/感覚はレスペラント反応と関係している。レスペラント反応を操作することで、気分/感覚をコントロールする。

    以下でどのレスペラント反応と気分/感覚が対応しているか示す。

    気分/感覚
    呼吸:興奮-沈静、
    筋反応:緊張-弛緩、
    表情:快-不快、
    発声:開放-閉鎖、
    姿勢:覚醒-まどろみ、
    歩行:活発-不活発

    このレスペラント反応と気分/感覚の対応は上記のように1対1対応ではなく、実際は、どのレスペラント反応を実践してみても、様々な気分/感覚が生じる。例えば、呼吸反応は興奮-沈静が主たる体験であるが、同時に緊張-弛緩の体験もある。したがって、この対応関係の表記は多分に単純化された便宜的なものであると考える必要がある。

    (2)レスペラント反応の操作による気分/感覚のコントロールする実践法
    ①ヨガ体操、気功
    ②呼吸法:腹式呼吸:呼気を長く、また、呼気から吸気に転じるときの間を長くする。
    ③姿勢:背筋を伸ばし正面をむく
    ④歩行:マインドフルネス・ウォーキング
    呼吸のテンポを整える。歩幅は自分の足の長さに合わせて無理のないように行う。
    姿勢は背筋を伸ばす。視線は下向きにならないようにする。
    姿勢を正し、呼吸のテンポと歩行のテンポを同期させ、下腹部と足の感覚に注意を集中し、下腹を前進させてゆくイメージで、体や感覚を感じながら歩く。

     

  • 宗教体験を科学する ~脳神経学の知見~

    この内容は、ペンシルバニア大学教授のアンドリュー・ニューバーグ氏とペンシルバニア大学精神医学の助教授ユージーン・ダギリ氏の宗教体験・神秘体験の神経学的研究をもとにしたものである。


    1.神秘体験は科学的に観測できる生物学的な過程

    SPECT装置という画像診断装置によって脳の神経活動を調べるという実験がある。脳の血流の分布が写され、脳の活性化のレベルがわかる。血流が増大していれば、その領域がさかんに活動していることになり、血流が減少していれば、活動も低下しているということである。

    この装置を使い、瞑想状態の脳の活動を調べた。チベット仏教徒である瞑想者が瞑想のピークに近づいたら、そのことを合図で観察者に知らせることで、深い瞑想状態のときの脳の活動を計測する。

    その結果、上頭頂葉の後部(頭頂連合野)の活動が低下していることがわかった。このことは、たいへん興味深いことだという。なぜなら、頭頂連合野はいかなるときも活動を続けているということがわかっているからだ。そこの活動が低下したのである。また、前頭前野の活動が活性化したこともわかった。宗教的体験において、前頭前野の活動が高まっていることは多くの研究で明らかにされている。前頭前野は、思考、計画、意志(意思)に関与する。

    また、頭頂連合野の活動の低下が大きいほど、前頭前野の活性化も著しいという相関関係があることもわかった。このことは重要である。その説明は後ほどおこなう。

    頭頂連合野の主な働きは、空間の中で自分自身の位置づけをすることで、自分と自分以外のものに境界線を引き、自分と自分以外のものを区別するというものである。この働きが低下するということは、自分と自分以外のものを区別する感覚が弱まるということである。

    このことは、瞑想者たちが語るそのときの意識状態の表現と一致している。それは、「自分が、存在するすべての人、全てのものの一部になったように感じる」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という言葉からわかる。意識が静まって、不安、恐怖、欲望など日常に心を占めている雑念を捨て去った後に残る何かこそ、本来の自分であり、これは孤立した存在でなく、万物と分かちがたく結ばれているという直観であるという。

    この実験は8名のチベット仏教徒に行い、その後、フランシスコ修道会の修道女が祈りをささげているときの状態を同じ方法で調べた。その結果、祈りによって深い宗教的境地に達したときの脳には、瞑想中の仏教徒と同じ変化が起きていた。仏教徒との違いは、「触れられるほど近いところに神がおられる」「神との合一」などと表現することだ。仏教徒は、自他の区別がなくなる体験であり、修道女たちは、人格神のイメージや表象は残っている。この違いはどういうことなのかは、瞑想の種類の違いと神経学的脳の働きの違いであるということに留めておく。

    被験者は頭頂連合野が損傷を受けたり、機能不全を起こしたりしているわけでもないということだ。

    この実験は、古くから神秘家たちが語ってきた体験が脳の活動と結びついていることを示唆する。神秘体験は、観察できる脳の神経学的な過程であると言えそうだ。

    瞑想体験が観察可能な神経活動と関連づけられるからといって、その体験がリアルでないことの証拠にはならない。体験はすべて脳の中の体験だが、私たちの日常生活の体験もすべて脳内の体験であり、それは同じである。脳内の体験イコール外界に何も存在しないということではない。ご飯を食べるとき、味の感覚、美味しいという感覚も脳内での体験である。ではご飯は存在しないかと言えば、ちゃんと外界に存在する。しかし、外界に存在するものをどう感じるかは脳内の体験であって、生き物によっては、それを「ご飯」だとは感じない場合もある。よって、神との合一という体験が脳内の体験であるからと言って、それは、神の存在を否定するものでも肯定するものでも、いずれでもない。


    2.宗教的体験に関係する脳の器官

    (1)脳の構造

    ヒトの脳の表面は、大脳皮質と言い、高次の認識機能を司っている。大脳皮質は左右の半球に分かれている。そして、前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉という4つの部分からなっている。前頭葉は意志や思考などに、頭頂葉は視覚による位置の弁別、身体定位、後頭葉は視覚、側頭葉は言語や概念思考に関わっている。

    大脳より内側には、視床、視床下部、海馬、扁桃体などの大脳辺縁系がある。これらは動物として生存していくために必要な古くからの機能を担っている。それぞれの機能は以下のとおりである。
    ① 視床:嗅覚以外の感覚入力を大脳皮質に中継する役割
    ② 視床下部:自律神経系や内分泌系を全体として総合的に調節する
    ③ 海馬:短期記憶や情報の制御する
    ④ 扁桃体:感覚刺激の重要性の価値判断を行う。
    ※各器官の詳しい説明は後ほどする。

    (2)宗教的体験に関係する連合野

    連合野とは、大脳皮質の運動野、視覚・聴覚・味覚・嗅覚などの感覚野の周辺にあって、関係のある他の神経中枢と連絡をとって種々の情報を統合し、より高次な精神機能を営む神経中枢の総称をいう。

    頭頂葉の後部にある頭頂連合野、前頭葉の前部には前頭連合野、側頭葉の真ん中には側頭連合野、後頭葉の下部に後頭連合野がある。

    これらの連合野のなかで頭頂連合野、前頭連合野、後頭連合野の働きと、神秘体験との関連をみてみる。

    ①頭頂連合野
    視覚、聴覚、触覚などの感覚情報を受け取り、それらの情報にもとづいて身体感覚を作り、空間内での体の位置づけを行う。左脳の頭頂連合野は、物理的身体の感覚を生成し、右脳の頭頂連合野は、身体を位置づける土台となる空間の感覚を生成する。自分の身体感覚を得、空間内で自分の体を位置づけることで、自分と自分以外のものに線引きをし、自分と自分以外を区別することになる。

    神秘体験において、自己や自我、時間や空間の変容をともなうことが多いことから、頭頂連合野がそれらの体験に関与していると考えられる。先に紹介した、チベット仏教徒たちの瞑想と修道女たちの祈りの実験結果もその事例である。

    ②前頭連合野(前頭前野)
    複雑な身体運動の統合、目的を達成するための行動の制御に関して重要な役割をしている。意図的な行動を行ううえで、前頭連合野の役割は大きい。何かをやろうとするときに集中できるのは、この連合野が余計な感覚入力を排除し、目的に集中させているからであることがわかっている。また、前頭葉は大脳辺縁系と関連して情動の処理や制御に関わっていて、複数の相互作用があることもわかっている。

    一定の瞑想状態のときの脳では前頭前野の活動が高まっていることが多くの研究でわかっている。

    ③後頭連合野
    視覚情報を処理し、他の部位からきた情報と関係づける働きをしている。この領域に損傷を負うと、友人や家族を認識できなくなったり、鏡に映った自分の顔もわからなくなる人もいる。ものを見る能力には問題がないが、視覚情報を情動や記憶と照合し、意味の中に位置づける能力が損なわれているのだ。

    神秘体験におけるヴィジョンやイメージに関係していると思われる。その根拠の1つとして、後頭連合野に電気刺激を加えると、被験者はさまざまな視覚体験をするということがある。この連合野は記憶貯蔵庫と密接に結びついているので、神秘体験のときには貯蔵されているヴィジョンが想起されているのかもしれない。

    (3)大脳辺縁系

    大脳辺縁系は、喜怒哀楽などの情動を司っている。この部分は多くの動物にもあり、原始的な恐怖、攻撃性、怒り、喜びなどの情動が喚起される。人間では、この原始的な情動は大脳皮質の高次の認知機構と統合され、多彩な感情として表現される。

    大脳辺縁系は神秘体験とも関係しているようだ。大脳辺縁系に電気刺激を与えると、幻覚、体外離脱体験、デジャブ、錯覚などを引き起こすことが確認されている。また、大脳辺縁系へ神経インパルスの流入が遮断されたときにも幻視を引き起こす場合があることも確認されている。このような大脳辺縁系は「神への伝達装置」とも呼ばれることがある。

    大脳辺縁系の主なものは、視床下部、扁桃体、海馬である。では、順に説明していく。

    ①視床
    視覚、聴覚、体性感覚などの感覚入力を大脳新皮質へ中継する機能を司る。

    ②視床下部
    自律神経系には重要な役割が多くある。自律神経を制御する働き、生殖・生存に関わる各種ホルモンの調節、怒り、恐怖、喜び、恍惚状態などの情動の喚起などの働きがある。視床下部を経由して脳と自律神経は情報を相互に伝え合って身体の機能を調節している。

    宗教的体験と視床下部との関連は、瞑想時に確認されているホルモンの分泌の変化から推測できる。瞑想によって、バソプレシン(血圧の調節に関わるホルモン)、甲状腺刺激ホルモン、成長ホルモン、テストステロン(男性ホルモン)などの分泌が変化することが確認されている。これらのホルモンは、視床下部が調節に関わっていることがわかっている。このことから、宗教的体験をするときに視床下部が関わりをもっていると考えられる。

    ③扁桃体
    情動反応の処理と短期的記憶に主要な役割をしている。交感神経に関与していて、興奮状態の時は扁桃体が活性化していることが確認されている。

    扁桃体は、ニューロンのネットワークにより脳の他の領域と密接に結ばれていて脳全体の感覚刺激を監視している。脳が受け取る膨大な感覚刺激が重要なものであるか、ないかの判断をし、生存に関わると思われる感覚刺激に対して注意を向け行動を起こす準備をする。つまり、身に危険があると判断すれば、視床下部を経由して交感神経に伝え、闘争・逃走反応を引き起こす。

    ④海馬
    扁桃体と相補的に活動し、興味ある感覚刺激に注意を向けさせたりしている。また、視床と協働し、大脳皮質への感覚入力の流入を遮断することができる(求心路遮断)。自律神経が喚起した抑制系や興奮系の反応を調節したり、脳の他の部位を調節して精神状態に影響を与えている。脳の安定を維持する海馬は、興奮系や抑制系の偏りを調整しようとする。そのとき起こるのが、求心路遮断である。求心路遮断して(感覚情報の流入を遮断して)偏りを調節するのだ。

    求心路遮断の影響は、頭頂連合野においては、入ってきた感覚情報から自分の身体感覚を得、空間内で自分の体を位置づけ、自分と自分以外のものに線引きをし、自分と自分以外を区別するという頭頂連合野の働きが損なわれるということである。自我が消滅し、大きな存在の一部であるという神秘的体験を神経学的に説明するうえで、頭頂連合野が受ける求心路遮断の影響は重要だ。

    情動を司る大脳辺縁系は、脳の他の部分と密接に相互作用し、高次の精神状態に影響を与えている。宗教的体験による畏敬の念、歓喜、慈しみなどに関与していると考えられる。

     

  • 科学的検証:感情と心身の健康とのつながり

    下記のテキストは、ひかりの輪が発刊した2021年夏期セミナー特別教本『知足と感謝の瞑想 感情と健康の科学 縄文の精神性と進化心理学』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

     

    1.脳科学等の発展と、感情と健康との関係の解明

    最近の脳科学の著しい発達の中で、感情と心身の健康との関係が、科学的に解明されてきた。そこでは、後に詳しく述べるが、脳の組織に加えて、脳内物質・脳内神経伝達物質・ホルモンなどといわれるさまざまな物質と、その作用が発見され、確認されている。

    例えば、"癒しのホルモン"のエンドルフィン、"親切と安心のホルモン"のオキシトシン、"闘争と逃走のホルモン"のアドレナリン、"ストレスのホルモン"のコルチゾールや、さらには、交感神経と副交感神経からなる自律神経の働きなどが関係してくることがわかっている。本稿では、これについて解説したい。

     

    2.思い込み効果には科学的な根拠がある

    病気に関して、薬の効き目に対する肯定的な思い込みが、心身の状態を良くし(プラセボ効果)、逆に、否定的な思い込みが、心身の状態を悪くするということがある(ノセボ効果)。例えば、患者に「薬である」と偽って、単なる水を飲ませると、病気の症状が緩和するなどである。

    この効果は、以前は、単なる思い込みによる効果だと考えられていた(すなわち、実際には体の状態は改善していないが、患者が改善したと思い込んでいる)。しかし、最近の研究では、プラセボ効果が起こる場合は、オキシトシン、内因性オピオイド、ドーパミン、バソプレシンなどの分泌が観察されているという。

    これらは高い鎮痛効果があるため、痛みや苦痛を緩和するという効果が実際に表れるのだという。「これを飲めば治る」などという、「安心」や「期待」の感情は、単なる思い込みではなく、病気を実際に緩和するホルモンや物質の分泌を促し、実際に、免疫力・治癒力を高めているのだという。

    一方、ノセボ効果とは、薬に対する不信感が強いと副作用の出現率がアップし、さらには、医者に対する不信感が強いと薬の効果が減じるという。そのため、同じ薬を飲むのなら、「必ず効く」と思って飲むべきだと主張する医師もいるという。

    だとすれば、プラセボ効果やノセボ効果は、新型コロナのワクチンにも作用するのだろうか。ワクチンを強く肯定している人の方が、その効果が高く表れ(免疫力が高まり)、副作用・副反応が少ないという可能性があるかもしれない。

     

    3.闘う意識が分泌させるアドレナリンやコルチゾール

    人の脳は、何かの脅威を感じると、それに対して、闘うか逃げるか(闘争か逃走か)という反応をするが、この際に、短期的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、長期的には、副腎皮質からコルチゾールなどのホルモンが分泌されるという。

    アドレナリンは、心拍や血圧、呼吸数の増大、骨格筋への血流の増加、発汗などの反応を引き起こし、身体機能をアップさせ、闘う状態をサポートする。問題は、これが長時間ないしは1日に何度も繰り返されると、①身体機能を酷使することになり、②心拍・血圧の上昇から血管の収縮や血流の悪化が生じ、全身の細胞に栄養が行きわたらなくなる。

    さらに、アドレナリンは血小板の働きを活性化させて、血液が固まりやすくなる作用があるため、それが分泌過剰となると、③血液がドロドロの状態となって血管が老化し、心筋梗塞や脳卒中などの心血管系疾患になるリスクを高めるという。

    アドレナリンは、闘争や逃走に関係すると述べたが、より具体的には、不安、恐怖、闘争、怒り、興奮といった感情を抱いている時に分泌されている。まとめて言えば、何かの存在に対して嫌悪し、その受け入れを拒絶し、それを排除しようとする感情である。

    本来は、こうした感情は、自分の身を守るために必要なものとして存在していると解釈できる。例えば、原始人の脳は、野獣を見た時にアドレナリンが出て、それによって自分の身を守ってきた。しかし、現代の人々に関しては、こうした感情が、不必要に過剰となっている問題が指摘されている。例えば、人から少しでも批判されると、それを受け入れられずに強い拒絶感が生じ、恐怖・不安を感じるなどである。そういう場合は、アドレナリンの分泌過剰となって、逆に、心身を痛めてしまうことになる。

     

    4.交感神経の過剰優位の問題

    他者に対する受け入れの拒絶、恐怖、不安、闘争、怒りなどの感情が強すぎると、交感神経と副交感神経からなる自律神経のうち、交感神経が過剰に優位となる問題が生じる。交感神経は、活動・興奮をもたらし、いわゆる昼の神経であり、心拍数、呼吸数、体温を上昇させ、活発な活動を支える。

    副交感神経は、休息・睡眠・リラックス・回復をもたらす、いわゆる夜の神経であり、(夜間を中心に)睡眠を誘導し、身体を回復させ、細胞を修復し、免疫力をアップする。よって、昼は交感神経、夜は副交感神経が、交互に優位になることが健康な状態である。

    しかし、昼間に嫌なことがあり、夜になっても、その不安・恐怖・怒り・嫌悪といった感情が残ると、アドレナリンが分泌され、交感神経優位の状態が続き、睡眠を誘導する副交感神経の働きを妨げて、眠れなくなってしまい、不眠の症状が出てくる。

    そして、不眠になると、がんのリスクは6倍、脳卒中は4倍、心筋梗塞は3倍、高血圧は2倍、糖尿病は3倍となるという。その意味では、夜間におけるこうした感情をコントロールして睡眠を確保することが、健康の1つの鍵となる。

     

    5.長期的・継続的なストレスはコルチゾール過剰の状態をもたらす

    ストレスは、人生のスパイスともいうべきものであって、必ずしも悪いものではない。しかし、私たちの身体の作りは、短期間であれば大きなストレスに耐えられるが、長期にわたる継続的なストレスは、心身をむしばむという。

    例えば、毎日過度に頑張ることを、長期的に継続的に続ける人の場合は、前に述べた通り、副腎皮質からコルチゾールというホルモンが分泌される。このコルチゾールは、身体を活発に動かし、生命の維持に必要な活動を担っており、気つけ薬のようなホルモンである。

    主に朝に出るので、目覚めのホルモンともいえるかもしれない。具体的には、血糖値・血圧を高め、エネルギーを生み出し、精神的・肉体的なストレスに対抗し、炎症・アレルギーを抑える(抗炎症効果)。よって、コルチゾールの分泌が不足する病気がある。

    しかし、先ほど述べた長期的・継続的で慢性的なストレスが続くと、コルチゾールの分泌が過剰となり、夜間も、その血中濃度が高止まりする。すると、夜間も身体が休まらないことになる。また、コルチゾールには、免疫抑制作用もあるので、免疫力が低下する。

    さらに(夜間の)コルチゾールの高(こう)値(ち)が続くと、高血圧・糖尿病・感染症などの原因となり、脳の海馬の萎縮が起こるために、記憶力も低下する。そして、うつ病や各種メンタル疾患の患者においても、夜間のコルチゾールの高値が観察されており、メンタル疾患の原因にもなる。こうして、慢性的なストレスは、各種の病気の原因となり、病気の予防のための免疫力、病気を治す自然治癒力の低下をもたらすとされる。

     

    6.不安や恐怖は脳の扁桃体の異常興奮

    人は、強い不安や恐怖に直面すると、大脳辺縁系の「扁桃体」が興奮し、ノルアドレナリンという脳内物質を分泌するという。これはアドレナリンと非常に似通っており、闘争か逃走かの行動をもたらす。

    ノルアドレナリンは、脳と神経系に働き、闘うか逃げるかの選択・決断を促し、アドレナリンは、脳以外の心臓・筋肉・各臓器に働き、闘うか逃げるかの状態に体をもっていく。双方とも、(危険に対する)不安・恐怖といった感情に関連して分泌され、怒りや興奮が高まると、アドレナリンは、より分泌されるという。

    不安や恐怖にとらわれると、人は、それから反射的に逃げ出したくなるが、この反射的に発動する感情のシステムを、情動反射と呼ぶ。情動反射は、前に述べた扁桃体が司り、条件反射のようなもので、知性・理性によってコントロールされない原始的なシステムであり、魚類や爬虫類にも備わっているという。

    これに対して、理性的・論理的な判断は、大脳新皮質の前頭前野が司り、これが通常の私たちの脳の主導権を握って支配している。しかし、危機的な緊急事態に直面した際は、のんびり考えている暇はなく、前頭前野の思考や理性が働く前に、先ほど述べた扁桃体などによる情動反射が、心と身体を瞬時に支配する。その後、危機が去れば、前頭前野が支配権を取り戻し、扁桃体は沈静して不安は解消する。

    そして、情動反射の中枢である扁桃体は、暴れ馬のような面があり、理性・論理的思考を司る前頭前野は、その暴れ馬をコントロールする手綱のようなものであるが、不安が強い状態では、その手綱が外れて、扁桃体が暴走する面があるのである。

     

    7.扁桃体の暴走と時間を置くこと

    野獣に襲われるなどの危機的な緊急事態においては、扁桃体を中枢とする情動反射が必要である。しかし、そうした緊急対応が必要でないときも、不安や恐怖によって扁桃体が暴走することが、人間には少なからず起こる。そして、現代社会では、慢性的なストレス・不安・恐怖・怒りの感情によって、この問題が増えている可能性があると思う。

    これは、感情・情動が、理性・論理的思考の制御を受けずに、暴走して冷静さを欠いた状態であるから、その感情のままに行動すると、後から後悔する行動をとることが多い。よって、緊急対応が必要でない時にも、不安・恐怖にかられた時には、それを自分の本当の考えだと思って、その感情のままにすぐさま行動するのではなく、時間を置くことが望ましい。時間を置くことによって、待つことによって、扁桃体の興奮による情動反射が静まってくるからである。

     

    8.脳に言語情報を入れると扁桃体の興奮が抑制される

    また、最近の脳科学研究によれば、不安・恐怖をもたらす扁桃体の興奮を抑制するには、言語情報を入れることが有効であることがわかっている。例えば、「少し待ってみよう」と、言葉にして声に出して言うことなどによって、扁桃体の興奮を抑制することができるという。そして、言語情報を脳に入れるには、「話す・聞く・読む・書く」の方法がある。

    第一に、言葉に出して言うことである。独り言でもよいので「大丈夫」などといったポジティブな言葉を声に出す方法がある。言葉にせずに、黙って感情に対して我慢をしていると、逆効果という見解がある。

    第二に、他人に話すことである。(落ち着いている)友人や知人に、自分の心配・不安を話すこと。話すだけでも、不安・ストレスを和らげる効果があるといわれる。

    ここで、単に、自分の不安を話す相手ではなく、不安を解決する方法を相談できる人(専門家など)がいれば、なおのことよいだろう。他人に相談しても何も解決しないという人もいるかもしれないが、この場合も、相談する行為によって、不安の感情が言葉に置換されて、扁桃体が抑制され、不安が解消するというメリットがある。そして、前頭前野による理性的・合理的な問題解決のための判断がしやすくなるのである。

    第三に、書くことである。自分の不安などの感情を、ノートに書いて吐き出すなど。この応用として、日記を書くことがある(心理学では日記療法というものがあるという)。

     

    9.他者の拒絶・孤独が心身の不健康を作る

    何らかの問題のために、恐怖や不安といった感情が強く表れると、他者の受け入れを拒絶し、心を閉ざして、孤独な状態に至ることがある。そして、それが日常生活で慢性的になり、慢性的な孤独感が生じると、深刻な影響があるという。

    シカゴ大学の心理学者のジョン・カシオポ氏によれば、慢性的な孤独感は、人を不安定にさせ、他者に対する被害観を抱かせ、自虐的・自滅的な思考や行動に陥らせるという。さらに、孤独は、身体にも大きな影響を与え、脳血管、循環器、がん、呼吸器や胃腸の疾患で死ぬリスクを高めて、高血圧や肥満、運動不足、喫煙などに匹敵する悪影響があるという。

    米オハイオ大学の研究では、孤独感は、免疫力低下と関係があり、身体の不調を招く原因となることを明らかにしたという。米プリガムヤング大学の研究によると、社会的なつながりを持たない人は、持つ人に比べて、早期死亡リスクが50%高いという。

    孤独の健康への悪影響は、1日15本の喫煙に匹敵し、運動不足や肥満の3倍であり、うつ病のリスクは2.7倍、アルツハイマー病のリスクを2.1倍増やすという。免疫力を低下させ、多くの心身の病気のリスクを増やすのである。

     

    10.悪口の健康への悪影響

    過剰な恐怖・不安・怒りといった、他者の受け入れを拒絶する心の働きが強くなると、それに伴い、悪口が多くなると思われる。しかし、精神科医の樺(かば)沢(さわ)紫(し)苑(おん)氏は、「病気の治らない患者さんの特徴を一つ言えと言われたら、私は『悪口が多い』を挙げます。本人は悪口を言うことでストレス発散が出来ていると思っているかもしれませんが、これは完全に間違いです。悪口は病気を悪化させるし、そもそも病気の原因にもなるのです」と言う。

    フィンランドの脳神経学者のトルパネン博士の研究チームは、1449人を調査して、悪口や批判が多い人は、そうでない人に比べて、認知症になる危険性が、3倍も高いことがわかったという。他の研究によれば、悪口の多い人は、そうでない人に比べて、寿命が約5年も短いというものもあるという。

    この1つの原因として、悪口を言うと、ストレスホルモンであるコルチゾールが分泌される。よって、頻繁に悪口を言う悪習慣のために、長期にコルチゾールの高値が続くとするならば、前に述べた通り、免疫力が低下し、さまざまな病気の原因になると思われる。

     

    11.他人の否定と自分の否定は区別できない

    また、扁桃体などの大脳辺縁系といわれる脳の部分は、主語が理解できないために、自分の他人への悪口も、他人の自分への悪口も、区別することができず、悪口を言っても、悪口を言われた時と同じように、扁桃体は興奮し、不安と恐怖を感じるという。すなわち、悪口を言うと、悪口を言われた場合と同じストレスが生じるということになる。

    さらに、他人への悪口・怒りが強い人は、それとセットで、自分への怒り・自己嫌悪も強い傾向がある。何かを理由として、他人を強く否定するならば、その他人と同じ要素を自分に見た時には、自分を強く否定することになる。

    また、自分と関係がある他人を否定するならば、その他人と関係を持った自分の過去を後悔して、自分を否定することが少なくなく、言い換えれば、自分と他人(の否定)は、完全に区別できないのである。

     

    12.過剰な怒りによる心身の健康への弊害

    そして、怒りは、前に述べたように、アドレナリンが大量に分泌されている状態であるから、これが長期にわたって分泌される状況となると、高血圧、動脈硬化、心筋梗塞、脳卒中などの心血管系疾患になるリスクを大幅に高めるのだという。ある研究では、激しく怒った後には、心筋梗塞や心臓発作を起こす危険性が4.7倍に上昇するという。

    また、ある研究データによれば、一度怒って自律神経が乱れると、それが正常化するには、3時間程度を要するという。アドレナリンの分泌が長期で続くと、前に述べた通り、コルチゾールも過剰に分泌されるようになり、記憶力の低下、免疫力の低下、体と心の双方の健康を損なうことになる。こうして、昔から「人を呪わば穴二つ」というが、この諺には、今や科学的な根拠があるということができるのではないだろうか。

     

    13.医学的な視点からの怒りの制御

    ここでは、前出の精神科医の樺沢紫苑氏が提案する、怒りの制御の方法を紹介する。なお、私たちがこれまでに学んできた仏教思想には、人間の、怒りを含めた煩悩の心理の根本的な洞察に基づいて、怒りを制御するさまざまな修行法が説かれている。同氏の見解は、その仏教の思想・瞑想と一致する部分も一部にあるが、一致しない部分もあるので、参考として紹介したい。

    第一に、同氏は、吐く息を長くした深呼吸を提唱する。それは、腹式呼吸による20秒の深呼吸であり、まず、5秒かけてゆっくり鼻から息を吸い、次に、15秒かけて口から息をすべて吐き切り、これを3回繰り返すというものである(合計で1分)。

    これは、自律神経の権威である順天堂大学の小林弘幸教授が提唱する、長生き呼吸法に通じる。小林氏の呼吸法は、4秒で鼻から吸い、8秒で口から出すものであり、いずれも吐く息(呼気)の長い深呼吸である。こうすることで、自律神経の中の副交感神経が活性化し、リラクセーションが促進される。なお、樺沢氏によれば、吸気と呼気が1対1の場合は、逆に、交感神経が活性化してしまうので、逆効果だという。

    次に、同氏は、怒りが生じてカッとした時には、ゆっくり話すことを勧める。怒っている人は、ほとんど早口であり、逆に、ゆっくり話すように努めると、気分が落ち着くという。これは、人間は、興奮すると早口になり、交感神経が優位になり、さらに興奮が進むからだという。

    第三に、怒りをノートに書き出してみることである。前に述べたように、怒りを悪口として他人にぶつけるのはよくない一方で、無理に我慢してため込むのもよくない場合には、その怒りの内容をノートに書き出すと、誰にも迷惑をかけることなく、すっきりするという。

    しかし、これだけを繰り返すと、ネガティブな思考パターン・記憶が強化されてしまうので、それを防ぐために、しばらくした後で、第三者の客観的な視点から、ノートに書き出された自分の怒りの内容を見て、賢者の視点から、自分自身への助言を書くのである。自分のネガティブな感情をノートの左側に書いて、右側に、それに対する賢者の見解を書くとよいかもしれない。

    最後に、他人への怒り・攻撃的な行為の背景には、なにかしらの不安や恐怖があり、その際は、扁桃体の興奮が生じていることを知っておくことである。そう知っておくことで、不安や恐怖から怒りが生じた時に、冷静に対処しやすくなるという。

     

    14.笑いがもたらす心身への望ましい効果

    「人を呪わば穴二つ」とともに、「笑う門には福来る」という諺がある。これもまた、最近は、科学的に証明されつつある。

    笑うことで、①幸福の神経伝達物質とされるドーパミン、②鎮痛効果があり快楽物質(脳内麻薬)ともいわれるエンドルフィン、③精神安定をもたらすセロトニン、④安心をもたらす効果があるオキシトシンといった、心身に良い脳内物質が分泌されるという。

    その逆に、コルチゾールのようなストレスホルモンが抑制され、ストレスが緩和され、結果として、笑いによって、免疫力が向上し、痛みが緩和され、各種疾患の改善をもたらし、記憶力が改善するという。

    加えて、当然のことであるが、笑顔の人の方が、他人との人間関係もうまくいく。笑顔により、自分だけでなく、他人にもオキシトシンが分泌され、他人を癒すことができるという。

    なお、意識的に笑顔を増やすこと、すなわち、作り笑顔であったり、割り箸を口にくわえるなど口角を物理的に上げたりするだけの場合でも、前出の幸福をもたらす脳内物質の分泌が確認されているという(ただし、無理にやれば効果がないという報告もある)。

     

    15.慈善・利他の活動は心身を健康にする

    一般に、ヘルパーズ・ハイという言葉があるが、人助けをする人は、非常に活動的で、テンションが高いという。メアリー・メリル博士の研究は、慈善活動をする人は、そうでない人に比べ、モチベーションが高く、活動的で、達成感や幸福感を強く感じ、心臓疾患の罹患率が低く、平均寿命が長く、健康で長生きしていることを明らかにしたという。

    英国のエクセター大学の研究では、慈善活動をする人の死亡リスクは、しない人に比べて20%低いという科学的な根拠を見出したという。また、抑うつレベルが低く、生活満足度、幸福度も高いという。

    米テキサス大学の3617人を対象とした調査では、慈善活動をした人は、うつ状態が少なく、その傾向は65歳以上でさらに顕著だったという。米ミシガン大学の研究でも、死亡リスクが低いという結果が得られているという。

    そして、こうした慈善活動・ボランティア活動をする人たちの特徴として、次の項目で述べる通り、感謝が多いという。

     

    16.科学的に証明された感謝の効果

    最近の目覚ましい脳科学の進歩によって、感謝の重要性が、多数報告されるようになったという。感謝する人は、病気になりにくく、長生きし、病気の回復が早いなどである。感謝とうつの関係の研究によれば、うつ傾向の強い人はあまり感謝せず、うつ傾向が弱い人は、感謝する傾向が強いという。

    カリフォルニアのサンルイス病院の研究によると、明確な原因がないのに痛みが続く患者に、深く感謝する瞑想を、4週間実践してもらったところ、明らかに痛みが減ったという。また、感謝の実践によって、幸福感が増す、病気の症状が少なくなる、より運動をして活動的になるという研究結果がある。さらに、同じ研究結果の中で、より人助けをするようになり、他人からも「優しくなった」と言われるようになったという。

    こうして、感謝と親切・利他には関係があるようだが、これは、すでに第1章で述べたように、感謝の心が深まれば、当然、恩返しとしての利他・親切の実践に結び付くことが考えられる。

     

    17.エンドルフィンとオキシトシン

    感謝によって分泌される重要な物質として、エンドルフィンとオキシトシンがある。エンドルフィンは、脳内麻薬ともいわれ、モルフィネの6.5倍ほどの鎮痛効果がある。これは、感謝される時、感謝する時に分泌されるという。走っている時、激痛を感じている時などにも分泌されるが、そうした場合と比較しても、感謝される時の分泌量が圧倒的に多いという。

    そして、エンドルフィンは、免疫力や身体の修復力を高め、がんとも戦う免疫機構のNK活性を高め、抗がん作用も確認されており、さらには活性酸素を撃退し、体調・健康の改善、若さを保つという。その意味で、エンドルフィンは、心身の癒しのホルモンである。

    オキシトシンは、親切・感謝・思いやり・慈しみ・赦しといった感情や行為と関連して分泌され、親切のホルモンとも呼ばれ、ストレスが解消し、幸福感が増え、血圧の上昇を抑制し、心臓機能を改善し、長寿になるといった効果があるという。

    また、オキシトシンは、ドイツのユスタスリービッヒ大学の研究において、不安の原因である扁桃体の興奮を鎮静化し、さらには扁桃体が脳幹に送る緊急警報の信号を低減することが発見されたという。こうしてオキシトシンは、安心をもたらすホルモンということができるだろう。また、交感神経にブレーキをかけて、副交感神経を活性化する作用もあり、そのため、免疫力の向上、休息と回復を促進する効