仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

輪の思想・一元思想:究極の真理

輪の思想・法則

以下のテキストは、2013~14年 年末年始セミナー特別教本 『輪の思想と目覚めの教え』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 

   本書の本題に入る前に、その前提として、ひかりの輪の中核の思想である「輪の思想」と、それに基づく「輪の法則」について、前回のセミナーまでの特別教本と講義で述べたことを簡潔に復習しておきたい。


1 輪の思想と輪の法則


(1)輪の思想とは

   まず、「輪の思想」とは、大雑把に言えば、この世界の万物はバラバラのように見えて、実は輪のように一体であるという思想である。さらに、それから派生して、万物を平等に尊重し、調和を重視する思想でもある。言い換えると、一元的な世界観の思想である。

   この詳細は、過去に発刊したひかりの輪の特別教本である2013年夏期セミナー特別教本、2012年GWセミナー特別教本、2011年夏期セミナー特別教本、2011年GWセミナー特別教本などを参照されたい。

   それらの教本で解説したように、この思想は、最新科学が解明した宇宙の実相と一致し、大乗仏教を含めたさまざまな古来の思想にも共通する真理である。よって、これを学んで修習することは、仏教的な悟り・真の幸福に近づく実践と、本質的に同じ効果があると考えている。

   さらに、最新科学の発見は、時間差をもって未来の社会の思想・価値観に反映されるので、輪の思想は、未来社会の思想だと考えている。

   この思想は、諸宗教の思想・哲学、近代科学や心理学などの研究と、聖地・自然でのさまざまな体験・学びから育んできたものである。そして、それは、結果として、日本の根本精神である聖徳太子の「和の思想」や、仏教・道教等の東洋思想と本質的に通じるものとなった。


(2)輪の法則(一元の法則)とは

   万物を一体と見る「輪の思想」に基づいて、それを噛み砕いたさまざまな法則を「輪の法則」ないしは「一元の法則」と呼んでいる。

   これまでに、主に、①「三悟の輪の法則」、②「三縁の輪の法則」、③「三性の輪の法則」という三つの法則を紹介してきた。これらの詳細は、先ほど紹介した2012年GWセミナー特別教本をはじめとする特別教本を参照されたい。なお、多くの宗教が、自分の教義・思想を唯一絶対と説くが、ひかりの輪は、いかなる教義や思想も、絶対ではないと考えている。そもそも、法則を現す言葉自体が、意思を伝達するには不完全な道具であるし、すべての人に適した唯一の法則があるわけでもない。それは、輪の法則も同様である。

   その中で、輪の法則の目的は、「今よりもっと、他人よりもっと」とお金や名誉を求める現代主流の幸福だけではなく、万物を一体・平等と見る東洋思想の智恵による幸福を体得し、心身の苦しみを和らげ、幸福に生きることである。この延長上には、大慈悲とか、博愛と呼ばれる、万人・万物を愛する心に近づくことがある。

   よって、西洋的な幸福観だけでよいという人や、悪人を憎んで滅ぼすことが善・正義であるという価値観の人などには、輪の法則は、場合によっては、煩わしく感じられ、好まれないかもしれないし、少なくとも、今の時点では縁がないものであろう。

   輪の思想は、そういった人たちを否定しないが、同時に、現代主流の価値観・常識とは必ずしも一致しない。そして、だからこそ、現代社会に不足や行き詰まりを感じる人には、利益があるものだと自負している。

  また、輪の思想・法則は、前に述べたように、未来社会の思想の一部となり得ると考えており、この意味でも、現在主流の価値観と必ずしも一致しないのは自然である。歴史を見れば、人類の思想は絶えず進歩してきたのである。


(3)輪の法則に関する読経瞑想

   先ほど述べた三つの輪の法則の詳細は、過去の特別教本に委ねるが、その概略は説明しておこう。そのために紹介するのが、輪の法則の要点をわかりやすく簡潔に表現した短い言葉であり、具体的には、「三(さん)悟(ご)心(しん)経」、「三(さん)悟(ご)智(ち)経」、「三(さん)縁起(えんぎ)経」、「三性(さんしょう)理(り)経」、「十二(じゅうに)宝(ほう)経」の五種類がある。

   これらは、必ずしも仏教に限った思想を表したものではない。しかし、仏教の有名な経典である般若心経のように繰り返し唱える(=読経する)ために作ったので、輪の法則の「読経瞑想」と呼んでいる。四字熟語などの連続で構成され、リズミカルな読経となるように工夫されている。では、以下に、各々の読経瞑想を紹介する。


2 三悟心経:三つの悟りの輪の法則から

  万(ばん)物(ぶつ)恩(おん)恵(けい)、万(ばん)物(ぶつ)感(かん)謝(しゃ)
  万(ばん)物(ぶつ)仏(ほとけ)、万(ばん)物(ぶつ)尊(そん)重(ちょう)
  万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛す(あいす)

   三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りの心のこと。「三悟心経」とは、三つの悟りの心の教えという意味。この三悟心経は、先ほど述べた「三悟の輪の法則」のポイントを簡潔に表現した読経瞑想である。それでは、一行ずつ、その意味を説明する。


(1)「万物恩恵・万物感謝」

   これは、「万物を恩恵と見て、万物に感謝する」という意味である。しかし、前にも述べたとおり、この考えが唯一の真理であり、「誰もが、万物を恩恵と考え、万物に感謝すべきだ」と主張しているのではない。

   これは、森羅万象・万物は、見方によっては、恩恵と見ることができ、感謝の対象にすることができることを意味する。よって、万物を愛する心(大慈悲・博愛)に近づきたいならば、この考え方が役に立つ。では、次に、具体的に、万物を恩恵と見て、感謝するものの考え方を例示する。

①自分の恵みの大きさに気づき、それを支える万物に感謝する

   人の楽を求める欲求には際限がない。どんな楽を得ても、もっと欲しくなって満ち足りることがない。また、多くの楽を得るほど、逆に、少しのことが苦しみに感じられるようになる。求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、他と奪いあう苦しみも強くなっていく。

   こうして、苦楽の本質として、これを得たならば永久・完全に満足できるという絶対的な楽はなく、そのために果てしなく楽を求め続ける中で、その裏側にさまざまな苦しみが生じるという構造になっている。なお、慈悲による幸福は、裏側に苦しみをもたらさない「真の楽」であるが、ここで扱っている楽とは、あくまでも一般に人が求める、自分のための快楽のことである。

   この際限のない欲求のために、私たちは普段、自分がすでに得ている恵みが、実は膨大であることに気づかなくなっている。これに気づいて、さらに、その恵みを世界の万物が支えていることに気づくならば、万物を恩恵と見て感謝する心境に近づくことができる。

   例えば、古代人が、現代社会にタイムトラベルしたならば、楽園のように感じるだろう。まさに万物恩恵、万物感謝の心境になるに違いない。また、現代社会に限っても、飢餓・戦争・貧困に絶えず悩む途上国の人から見れば、長寿・安全・豊かさの三拍子揃った日本社会は、まさに楽園に感じられるだろう。

   数十万年の人類の歴史の最先端の21世紀に生き、その70億の人間の中でも、三拍子がそろった日本社会に住む者は、客観的に見れば、膨大な恩みを得ている。その恵みは、無数の先人の努力と、今現在の地球の万物が、支えているのである。

②苦の裏の恩恵に気づき、苦楽双方の森羅万象に感謝する

   苦しみの裏にも、視点を変えれば、さまざまな恩恵がある。例えば、苦しみの原因である過剰な貪り・執着を弱める契機になったり、自分の苦しみを通して、他の苦しみを理解する心(慈悲)を養ったりと、苦しみは、自分を成長させる愛の鞭の側面がある。

   そして、究極的には、苦しみは、真の幸福に至るための愛の鞭だとも考えられる。仏陀の教えでは、人は自己に過剰にとらわれるがゆえに苦しみ、真の幸福は、自己に過剰にとらわれずに、万人・万物を愛する慈悲によって得られるとする。

   先ほど述べたように、自分の楽を果てしなく求めれば、得られない苦しみ、失う苦しみ、奪いあう苦しみなど、さまざまな苦しみが生じる。それをやめて、万人・万物を愛する慈悲を持てば、苦しみは和らぎ、心は静まり、慈悲による温かい心や他との良い関係・助け合う幸福を得ることできる。だとすれば、自分にとらわれるために生じる苦しみは、この真の幸福の道に入ることを促す「愛の鞭」とも解釈できる。

   こうしたことに気づいて、楽に限らず、苦しみも恩恵と考えるならば、苦楽の双方をもたらす森羅万象=万物を恩恵と見て、感謝することができるだろう。

③宇宙・万物こそが最大の恩恵だと気づいて感謝する

   上記の①や②の思索をしていくと、本当の幸福を得るためには、自分のものを果てしなく求めるばかりではなく、自分の得ている多くの恵みに感謝して、足るを知って、他と苦楽を分かち合う慈悲の心を持つことが重要だと気づく。

   この延長上として、自分だけのもの(例えば自分のお金や名誉)ではなく、万人が共有している大自然・万物こそが、最大の宝・最大の恩恵ではないかという気づきがある。これに気づくならば、この意味でも、万物を恩恵と見て、万物に感謝する心境が生じる。

   これは、自分・自分のものに対する過剰な執着を脱却することである。究極的には、わずか百年足らずに終わる「私」に過剰にとらわれることなく、延々と続く人類全体・世界全体を大切にする境地(慈悲・博愛)や、それと連動して、世界全体こそが「真の自己」であるという認識につながるものである。


(2)「万物仏・万物尊重」

   これは、万人・万物を仏と見て、尊重する心を培うものである。先ほどと同様に、誰もが万人・万物を仏と考えるべきであると主張しているのではなく、見方によっては、万人・万物を仏のようにとらえて、尊重する心を培うことができるという意味である。

   これは、善い人も悪い人もいると考える現代の常識から見るならば、違和感があるだろう。しかし、大乗仏教では、万人・万物の優劣を比較しない思想を有している。万人・万物を平等な仏性の顕現と考える(仏性とは、未来に仏陀になる可能性のこと)。

   さらに、悟りの境地に至ると、この世界が仏の浄土であり、すべての人・生き物が仏に見えるという教えもある。この大乗仏教の思想にヒントを得たのが、「万物仏・万物尊重」である。では、具体的にどのように考えるかについて以下に述べる。

①万人が未来の仏

   先ほども述べたが、イエスや仏陀の時代の人々が、突然、現代の日本社会にタイムトラベルしたならば、仏の浄土(仏の集う理想の世界)に見えるのではないだろうか。人々は、原則として人種・階級・宗教・男女・民族で差別をせず、個人の基本的な人権・自由を認め合っている。イエスや仏陀が初めて説いた人間の平等性を子供さえが当然の倫理として理解している。

   また、原子から宇宙までのさまざまな科学的な知識、衣・食・住・医療・交通機関の先進技術がある。イエスや仏陀さえ知らなかった宇宙の真相を子供すら理解し、イエスや仏陀さえできなかった治療や奇跡を、科学技術によって誰もがなしている。

   ところが、現代社会の中では、これらの倫理感・道徳・知識・能力は、当たり前のことになっているので、この社会が仏の浄土だとは感じられない。先ほど、苦楽は相対的で、比較で生じると述べたが、人の善悪・優劣も、比較に基づいて判断されるからだ。善い人でも、同じように善い人ばかりの集団の中では普通の人に見えるし、悪い人でも、同じように悪い人ばかりの集団の中では普通の人に見える。

   しかし、古代と現代を比較すれば、人類は全体として大いに進歩してきたということができるだろう。そして、この視点は、人類全体に対する尊重・愛の心を培うことを助けるだろう。そして、人と人との優劣の比較ばかりせずに、万人・万物を尊重する大乗仏教の思想の価値も、少しはわかるのではないだろうか。

   これに関連するのが、大乗仏教が説く、万人が未来に仏陀になる(可能性を有する)という思想である。万人が、何生も生まれ変わる中で、未来に仏となる(可能性がある)という思想である。輪廻転生を信じない人でも、私たちの来世とは、私たちの次世代であると考えれば、この思想は、人類が徐々に進歩し、未来のいつか、仏の集いの如き社会を形成することを意味するとも解釈できるから、必ずしも非合理的な迷信ではないだろう。

   最後に、仏教では、人は未来に仏になる存在だから、今は仏の子・胎児と考える。そして、人間の子が人間であるように、仏の子は仏だと考えれば、未来に仏になる人類全体を今も仏と見ることもできる。すると、万人を仏として尊重する見方に至るのである。

②万人・万物が(仏のように)学びの対象・教師

   この社会には、善いことをしている人もいれば、悪いことをしている人もいる。しかし、見方を変えれば、善いことをしているならば、それは、自分の見習うべき教師であり、悪いことをしていれば、それは自分の反面教師であるとも見ることができる。

   ただし、慢心が強く、謙虚さに乏しいと、他の問題を自分の反面教師にすることはできず、単に他を軽蔑するだけとなる。また、優れた人には妬みの心が生じ、その人さえいなければとさえ考え、優れた人がいてこそ、自分が成長できることが理解できない。

   しかし、慢心や妬みを超えて、謙虚な心を持つならば、万人は、仏と同様に、自分にとって、貴重な学びの対象と考えることができる。そして、この延長上に、万物を仏と見て、万物を尊重する心境に至る道がある。

   謙虚になれば、自分が他に教えている場合さえ、自分が多くを学んでいる事実に気づく。生徒がよく理解できない場合は、自分の教え方にも不足があり、自分自身の理解の不足が、生徒の問題につながっている場合が少なくない。これは、生徒が、自分の問題を知る鏡となっているのだ。

   そして、生徒がよりよく理解できるように努力を続ける中で、自分自身の理解が改善し、生徒の理解も改善することを経験することも多い。これは、ある意味で、生徒が自分の教師を果たしている。こうして、突き詰めると、教師と生徒は、お互いに助け合って、一体となって学んでおり、教えている側と学んでいる側に完全に二分化されてはいない。

   さらに、敵対する者からも、私たちは多くを学んでいる。敵対関係から、お互いの悪いところを責めてつぶし合い、良いところを盗み合うことが多くある。見方を変えれば、敵対者は、切磋琢磨の対象=好敵手と見ることもできる場合が多いだろう。

   究極的には、自己を傷つける者に対しても、先ほど述べた仏陀の教えに基づいて考えれば、自己に対するとらわれを乗り越える手助け・愛の鞭だと考えれば、イエスが「汝の敵を愛せ」と説き、仏陀が「敵こそ教師」と説いた意味もわかってくる。

   こうして、人々・人類は、互いに学び合って、一体となって成長する存在だということができるのではないだろうか。


(3)「万物一体・万物愛す」

   これは、万物を一体と見ることで、自分だけではなく、他者・万物を自分と同じように愛する心を培う考え方である。より具体的にいえば、例えば、万人・万物と苦楽を分かち合い、共に最高の幸福(解脱・仏陀の境地)に至ろうとする考え方だ。なお、場合によっては、万物こそ真の自己とも考える。

   ここで、万物を一体と見る考え方については、後で述べる「三縁の輪の法則」・「三縁起経」において、具体的に述べる。簡単に概略を説明するならば、①万物が相互に関連していること、②万物が同根であること、③万物が循環していること、である。

 


3 三悟智経

   次に、「三悟智経」の経文を示す。

  苦楽一体、万物感謝

  優劣一体、万物尊重
  自他一体、万物愛す

   「三悟智経」とは、「三つの悟りの智慧の教え」という意味である。この三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛の三つの悟りのことであり、この三つの悟りの根拠になる三つの智慧の法則(三つの一元法則、三つの輪の法則)を意味する。

   具体的には、苦と楽・優と劣・自と他は、別々のように見えて、実際には輪のように一体であり、それゆえに、万物を感謝・尊重・愛すべきであるという教えである。

   なお、これは、先ほど解説した「三悟心経」と本質的に同じ法則である。どちらも、苦楽・優劣・自他が一体であることを前提にした法則である。両者の違いは、「三悟心経」が、万物に対する心の持ち方を重視し、「三悟智経」は、苦楽・優劣・自他が一体という世界観を強調していることである。

   そのため、両者の教えには共通点が多いが、以下には、これまでに述べなかった内容に限って述べることにする。


(1)「苦楽一体・万物感謝」

   これは、先ほど述べたが、苦と楽が輪のように一体であることを考え、楽に限らず苦を含めて、万物に感謝する教えである。

   まず、楽は、苦に輪のようにつながっている。楽を際限なく貪れば、求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、楽を奪いあう苦しみなどに陥って、さまざまな苦が生じる。

   そこで、足るを知ることが重要になるが、そのためには、自分がすでに得ている楽が、実際には膨大であることに気づいて感謝し、さらに、その恵みを支えているのは、この世界の万物だと気づいて万物に感謝する。

   次に、苦の裏にも楽がある。苦の経験で、苦の原因となっている楽の貪り・とらわれ・執着を弱めたり、他の苦しみを理解する慈悲を培ったりすることができる。これに気づいて、楽に限らず、苦しみを含めた万物に感謝するのである。

   こうして、楽と苦が、輪のように一体と気づくと、真の幸福とは、楽を貪り苦を厭うことではなく、自分の恵みに感謝して足るを知り、他に自分の楽を分け与え、他の苦しみを分かち合うこと、すなわち、慈悲の心と実践であると気づくようになる。言い換えるならば、真実は、自と他の幸福は一体であり、自と他双方の幸福を一体として求めることが真の幸福の道である。


(2)「優劣一体・万物尊重」

   この「優劣一体」という教えは、二つの側面がある。一つ目は、先ほど述べたことで、優れているとされる者も、劣っているとされる者も、その間にはつながりがあって、人と人は、互いが互いの教師・反面教師の関係にあって、互いが学びの対象であるということがある。

   二つ目は、人の長所と短所は裏表であって、その意味で、優劣は、輪のように一体であり、それを踏まえ、人を優劣に二分化しすぎず、万人・万物を尊重するというものである。

①長所の裏に短所

   第一に、長所の裏には、短所がある。例えば、何かの長所を有するということは、その長所を持っていない人の苦しみを、体験上は理解できないという短所でもある。仏陀の教えでは、本当の幸福の道は、慈悲の実践であり、他の苦しみを理解して、取り除く手助けをする。これを考えれば、何かの長所の裏には、必ず短所があることがわかるだろう。

   さらに、慢心によって、長所が短所に変わる場合がある。人は、何かの長所のために優れていると評価されると、慢心を抱いて傲慢となり、他に対しては、見下して軽蔑しがちになる。しかし、自分の長所は、自分だけの力ではなく、他者・万物に支えられたものである。慢心・過信に陥ると、これが見えず、感謝は弱り、油断を招き、努力は鈍り、思わぬ落とし穴にはまって失敗したり、堕落したりして苦しむ。

   なお、優れた他人に対しては、依存心などによって、絶対視する場合があるが、長所と短所は表裏だから、完全無欠な人間などは存在しない。さらに、その人が慢心を抱けば、悪く変わる恐れがあるが、他人に依存されている場合は、慢心を抱く可能性が高くなる。

   重要なことだが、「優劣一体・万物尊重」という教えは、特定の人を絶対視することと矛盾する。特定の人を絶対視すれば、それ以外の人の価値は、否定される場合が多い。例えば、神の化身として信者に絶対視された教祖がいれば、その教祖に敵対する者は、信者には、悪魔に見えてしまう。

   こうして、万物への尊重とは、特定の対象の絶対視・過大視の否定でもある。

②短所の裏に長所

   次に、短所の裏にある長所について考えてみよう。前に述べたとおり、慈悲の体得が本当の幸福の道であるという視点からは、何かの短所を有することは、同じ短所を持っている人の苦しみが理解できるという長所でもある。また、その短所を乗り越える地道な努力をすれば、同じ短所を持つ人々が、それを乗り越える手助けをする能力も生じる。

   こう考えれば、自己の短所を見て、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、優れた他人を見て、妬ましく思ったりすることを避けることができるだろう。また、逆に、他の短所を見て、安直に軽蔑する心も乗り越えることができる。軽蔑している者が、自分が理解できない他人の苦しみを理解する力があって、さらには、見下しているうちに成長して、自分ができないような人助けを行う力を得る可能性もあるのだ。

   なお、妬みを取り除くには、妬みの対象は、実際には自分が思うほどには幸福ではないことを考えるのも良い方法だ。人は、他から見て恵まれていても、本人は、もっと欲しいと思っており、満ち足りてはいない。さらに、恵まれているほど、得たものを失う、落ち目になる不安や苦しみや、他と争う苦しみが強くなる。妬みがあると気づきにくいが、持つ者の苦しみ、持たない者の幸福がある。

   こうして、短所と長所は表裏、優劣は一体という視点に立って、慢心、過剰な依存、妬み、卑屈、軽蔑などに陥ることを避け、万人・万物を尊重する心を持つのである。

③他と共に、成長し幸福になるという考え方

   さて、こうして、優劣が一体だと考えると、真に優れた者になる道とは、他に勝とうとばかりすることではなくて、万人・万物を教師として学ぶこと、さらに言えば、他と互いに学び教え合って、他と共に成長しようとすることであると気づく。

   具体的に言えば、他と、互いの長所・短所を分かち合うこと、すなわち、相手の長所を学び合い、自分の長所を与え合い、相手の短所を反面教師として学び合って、他と共に成長しようとすることである。

   これを言い換えれば、真実は、自と他の成長は一体となって進むものであって、他に勝とうとばかりするのではなく、他と共に成長しようとする者こそが、真に優れた者である。

   逆に、プライドなどで、自と他を区別する限りは、自分の成長は止まって、堕落していく。なお、他と共に成長しようとする精神は、仏教が説く大慈悲・四無量心の実践に通じる。この意味でも、私たちは、万人・万物を学びの対象として尊重すべきであろう。

   最後に、この点に関連して、現代社会が重視する「競争」について検討する。競争とは、本来は、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を分けるものではなく、全体の向上のために、互いの長所を学び合い、短所をつぶし合う、切磋琢磨の過程であるべきだろう。

   さらに、個々人が自分の個性を見いだし、自分なりの道を見いだす過程とも解釈できるだろう。そうした競争は、慈悲の一形態とも解釈できるだろう。


(3)「自他一体・万物愛す」

   自と他が一体であるという見方は、①自と他は相互に関連しており、②自と他は同根であり、③自と他は循環している、ということである。なお、次の三縁起経で、自と他に限らず、万物について、相互に関連していること、同根であること、循環していることについて詳しく述べるので、それを参照していただきたい。

   まず、自と他が相互に関連していることは、明白である。自分も他人も、空気・水・食べ物・他の人々や生き物・大自然・大宇宙といった万物の支えがなければ、生きることさえできない。

   次に、宇宙物理学による宇宙の歴史によれば、自と他を含めたこの世界の万物が、ビッグバンから生じた同根のものであるし、また、地球上のすべての生物は、この地球生命圏という一つのものから生じた同根のものだということもできる。

①自と他が輪のように一体:他が自分に、自分が他に

   さらに、自と他が循環していることについては、まず、自分の身体を構成する分子は、呼吸・飲食・排泄・発汗などを通して、絶えず外界のものと循環・交換し合っており、この意味で、自と他の構成分子は循環・交換し合っている。

   さらに、自分が生きるためには、他の生き物の体が、食べ物として自分の体の一部となり、自分が死んだ後は、その体を構成する分子は他の生き物の体の一部となる。生き物の体を構成する有機物は、死後、そのほとんどが他の生き物にリサイクルされるという。こうして、自分が生きている間は、他の生き物が自分になり、自分が死んだら、自分が他の生き物になる。こうして、他が自分に、自分が他になり、自と他が輪のように一体となっている。

   これを言い換えると、生と死が輪のように一体であるとも表現できる。自分の生は、必然的に他の死・犠牲を伴い、自分の死は、他の生に活かされる。こうして、自と他の間で生命のやりとり=分かち合いがあり、そのために、この地球生命圏では、生きる者は必ず死ぬ宿命にある。何ものも自分だけが永久に生きることはできず、死ぬこと=他の生に貢献することを前提条件として、生きている。

   そして、人間の思考・精神に関しても、自と他のそれは別々のものではなく、輪のように一体である。何人も、自分だけで作った自分の思考などはない。思考の土台の言語を、親をはじめとする他者から習い、膨大な知識・思考を他者から吸収し、その結果として自分の考えができている。また、逆に、自分の言動が、絶えず他者に影響を与え、他者の思考・精神を作っている。こうして、自分と他人は、物心両面で一体である。

②万物こそ真の自己と考え、万物を愛する

   こうして、自分が他になり、他が自分になるというのであれば、真の自分・自己とは何か。それが、万物こそ真の自己であるということになる。そして、それに基づいて、万物を愛することが幸福の道である。

   実際に、自と他が一体だと気づくならば、自分だけでなく、他を含めた万物を、自分と同じように愛する心を持ちやすくなる。より具体的には、他と苦楽を分かち合って、共に幸福になろうとすることである。その究極として、共に解脱・仏陀の境地に至ろうとすることがある。

   なお、自と他が一体であるという考えをより深めるならば、①先ほど述べたように、自と他は物心両面で一体であることに加えて、②「万物恩恵・万物感謝」の教えで述べたように、「自と他の真の幸福が一体であること」や、③「万物仏・万物尊重」の教えで述べたように、「自と他の真の成長が一体であること」という視点を含むことがわかる。

 


4 三縁起経

   次に、三縁起経について述べる。

  万物関連、万物一体
  万物同(どう)根(こん)、万物一体
  万物循環、万物一体

   「三縁起経」とは、三つの縁起の教えという意味である。「三つの縁起の輪の法則」とは、仏教に見られる、万物が一体であると主張する法則を意味する。

   この三つの縁起の教えの詳細は、別の特別教本を参照していただき、ここでは、要点を簡潔に述べることにする。

   仏教が説く「縁起の法」は、万物が相互に依存し合って存在し、互いに関連し合っていると説くものである。また、大乗仏典の中には、例えば、毘慮(びる)遮那仏(しゃなぶつ)を宇宙万物の根源と説く経典や、万物の根元として阿頼耶(あらや)識(しき)という根本意識があると説く「唯識思想」の教えがある。これは、世界の万物が同根であるという思想である。さらに、大乗経典の中には、宇宙の根本原理を周期的な運動・循環と説いているものがある。

   これらは皆、万物が一体であるという世界観の根拠となり、万物が一体であることを深く理解する手助けとなる。

   そして、これらの思想に対して、最新の科学の理論が、同じような世界観を主張している。詳細は、別の特別教本に述べているので、ここでは、簡潔に述べておく。

   まず、万物が相互に関連しているという世界観としては、主に量子力学・分子生物学などの世界観がある。また、万物が同根であることを説く世界観としては、宇宙の万物が一つの火の固まりから生まれたとする「ビッグバン宇宙論」がある。

   さらに、万物が循環していることを説く世界観としては、分子生物学の世界観がある。生き物の体を構成する分子は、絶えず外界のものと入れ替わって循環しており、さらに死んだ生き物の有機物は、ほとんど他の生き物の体に使われ、リサイクル=循環しているという。

   また、人体とよく似た現象が、宇宙物理学が説く星々の生成と消滅である。人の体と似て、星が寿命を迎えて消滅すると、それを構成していた物質が、新たに生まれる星の材料となって循環するのである。

   次に、万物を一体と見て、万物を愛する心を強めようとする際には、次の三つの意味で、万物が一体であることに注意すると、効果的である。

   第一に、「万人が物心において一体」であることである。万物が物理的に関連しあっているとともに、人と人の精神も関連しあっていること。

   第二に、「万人の幸福は一体」であることである。真の幸福は、他とのお金や名誉の奪い合いによるものではなく、他との苦楽の分かち合い(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)によって得られるものである。また、万人が共有している宇宙の万物・大自然こそが、万人にとって、最大の恩恵・幸福という考え方もある。

   第三に、「万人の成長は一体」であることである。前に述べたが、真の成長の道は、他に勝とうとばかりすることではなく、互いの長所短所を分かち合うこと、すなわち、お互いの長所を学び合い、短所を反面教師として学び合い、他と共に成長しようとすることである。

   この考え方の延長上として、人類を一つの大いなる生命体と見て、それこそが最も偉大な生命体と見ることもできるだろう。


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