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2019年05月

  • 2018年夏期セミナー特別教本『仏教・ヨーガの根幹の思想と実践 ポスト平成の思想と神秘体験の科学』第2章公開 (2019年05月26日)


    第2章 仏教とヨーガの思想の根幹と実践の基本


    1.ヨーガの本来の意味

    「ヨーガ」の原意は、体操ではなく、心のコントロールである。ヨーガの根本経典とされる『ヨーガ・スートラ』には、厳密な表現で「心の作用の静止・制御」とされており、「(日常的な)心の働きを止滅すること」などと解釈される。すなわち、(日常的な)思考や感情といった心の働きを静止させた状態であり、それは、究極的な心の安定と集中の状態である。
    ヨーガは、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、普通は自分の思いのままにならずに動き続ける心を牛馬に例えて、牛馬を御するように、心を制御するということを示唆している言葉である。


    2.ヨーガの本来の目的

    ヨーガの本来の目的について、『ヨーガ・スートラ』では、「ヨーガとは心の作用を止滅することである 」(『ヨーガ・スートラ』1-2)」、「その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」 (『ヨーガ・スートラ』1-3)」と説いている。こうして、ヨーガは、心の作用を止滅して、「真我」の本来の姿に至ろうとするものである。
    ここで「真我」とは何かというと、サンスクリット原語はアートマン(Ātman)であり、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。これは「最も内側 (Inner most)」を意味する サンスクリット語のアートマ(Atma)を語源としている。
    よって、真我は、個の中心にあって、認識をするものであるが、知るもの(主体)と知られるもの(客体)の二元性を超えている。すなわち、主体と客体、自と他の区別を超えた意識である。ヨーガは、心の作用を止滅して、この真我の意識状態に至ろうというものである。
    そして、この状態は、インド哲学が説く人生の究極の目的とされる輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」を果たした状態でもある。よって、心の働きを止滅して、解脱を果たすことが、ヨーガの目的であるということができる。
    また、真我(アートマン)は、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ))。ウパニシャッドと呼ばれる経典では、アートマンは不滅であり、生存中は人の体の心臓のところに宿るとされている。


    3.ヨーガの古典的修行体系:八段階の修行

    『ヨーガ・スートラ』に示された古典ヨーガは、主に観想法(瞑想)によるヨーガである。そのため、体操を含んだ後期のヨーガに比較すれば、静的なヨーガである。そして、その具体的な実践方法は、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、以下の通りである。

    ①ヤマ(禁戒) してはならないことを示した戒律
    ②ニヤマ(勧戒) するべきことを示した戒律
    ③アーサナ(座法・体位法) ヨーガ体操と瞑想座法
    ④プラーナーヤーマ(調息法・調気法) 呼吸法による気(プラーナ)の制御
    ⑤プラティヤーハーラ(制感) 感覚・五感の制御
    ⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)) 一点に対する精神集中
    ⑦ディアーナ(静慮) 集中の拡大
    ⑧サマディ(三昧) 超集中状態(主体と客体の合一)

    仏教では瞑想のことを「禅定」というが、禅定とは、「禅」と「定」の複合語であって、禅が、上記のディアーナ(静慮)に由来する言葉で、ディアーナが音訳されて、ゼンナとなり、禅になったものである。定は、上記のサマディ(三昧)に由来する言葉で、サマディが音訳されて三昧となり、それを意訳して定となったものである。
    そして、禅=ディアーナは、静慮と訳され、定=サマディは、三昧=超集中などと訳されるので、心が静まった深い集中状態を意味するが、仏教でも、禅定は、瞑想による心の安定・集中を意味する。そして、これは、心の働きの静止・制御を意味するヨーガの本来の意味とも非常に近い。


    4.仏教の本来の意味:仏陀とは目覚めた人

    仏教とは、文字通り、仏=仏陀・ブッダの教えである。ブッダとはサンスクリット原語で、目覚めた人、覚醒者、覚者といった意味がある。これを言い換えると、智慧を得た人という意味である。仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で、この教えは、目を開かせ、智慧を生じさせ、心の寂静、涅槃(悟りの境地)などを与えるとした。
    智慧とは、物事をありのままに見る認識力であり、仏教用語でいえば、縁起や空の道理を理解することである。縁起とは、一切の事物が他から独立しては存在せず、相互に依存しあって存在していること(万物相互依存)であり、空とは、一切の事物が他から独立した固定した実体を持たないことを意味する。縁起と空は本質的には一体の概念であり、相互に依存しあって存在しているから、一方が変われば他方も変わり、固定した実体がないということである。
    縁起や空といった難しい概念を使わずに、智慧を分かりやすく表現するならば、物事の全体を認識する力、物事を俯(ふ)瞰(かん)する力とでも表現することができる。それは、自分だけではなく、自分と他人のつながり・相互依存を把握する力であり、物事の今現在だけではなく、それが移り変わっていく未来まで把握する力などを含む。よって、智慧とは、仏陀の無我の教え(他から独立した私・私のもの・私の本質といったものはない)や、無常の教え(物事は移り変わる)を理解する力とも表現できる。
    よって、完全な智慧を得た仏陀は、世界の全時空間に合一しているなどとも説かれることがある。意識・心の視野が広大無辺に拡大した状態である。よって、この智慧は、仏陀の広大無辺な愛の心である大慈悲・四無量心と一体である。智慧と慈悲は、仏陀の二大徳性ともいわれる。


    5.智慧の対極の無智

    一方、仏陀ではない普通の人(凡夫)は、精神的に目覚めていない者(夢者)ということになる。そして、普通の人は、智慧を獲得しておらず、物事をありのままに見る力がない。これを無智(痴)という。よって、無智とは、智慧がない、縁起や空の道理を理解していない、万物の相互依存性・固定した実体の欠如を理解していない、物事の全体を把握する、俯瞰する力がない、無我や無常の教えを理解していない状態ということができる。
    結果として、無智によって、自分と他人のつながりと物事の無常性を理解しないがゆえに、自と他を区別して自己を偏愛し、自分と自分の物を際限なく欲求して(貪り)、それを阻むものに対して怒ることになる。これが無智から貪りと怒りが生じるプロセスであり、無智・貪り・怒りを心の三毒(貪・瞋・痴)という。
    こうして智慧と慈悲、無智・貪り・怒りがセットである。


    6.初期仏教の修行の目的:苦しみを取り除く

    仏教の修行の目的は、仏陀の最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))に説かれている四(し)諦(たい)の教えに明らかである。四諦とは以下のとおりである。

    ①苦(く)諦(たい):この世は苦である。一切は苦である。
    ②集諦(じったい):苦は煩悩によって生起する。
    ③滅諦(めったい):煩悩を滅すれば苦は滅する。
    ④道(どう)諦(たい):煩悩と苦しみを滅する道は八正道である。

    ここで、この世は苦である、ないし一切は苦である(一切皆苦・一切行苦)という教えの中の「苦」の原語であるドゥッカは、単純に苦痛という意味ではない(仮にそうだとしたら、この世には明らかに苦痛と快楽の双方がある以上、この教えは合理的ではないことになる)。それは、不安定な、困難な、望ましくないといった意味がある言葉である。よって、このドゥッカという言葉は、どんな喜びも時とともに変化する不安定なものであり、自分の思いのままにすることは困難であり、それにとらわれることは望ましくないといったほどの意味があると思われる。
    そして、この四諦の教えから明らかなように、仏陀の教え・修行の目的は、苦しみの原因を明らかにした上で、苦しみを取り除くことである。


    7.苦しみの原因は煩悩であり、その根源は無智である

    そして、苦しみを取り除くために、苦しみの原因を見ると、それは煩悩であると仏陀は説く。この苦と煩悩の心理的な因果関係が、仏陀が説いた最初の「縁起の法」である。後に縁起の法の概念が複雑化・拡大したため、この最初期の縁起の法を「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」と呼ぶことがある(一方、先ほど述べた万物が相互依存であることを意味する縁起の法は相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)と呼ばれる)。
    そして、先ほど述べた通り、仏陀によれば、煩悩の根源は無智であり、無智から始まって、貪りや怒りをはじめとする様々な煩悩が生じる。そして、無智を根本として、貪りや怒りといった様々な煩悩、様々な執着・とらわれが生じると、それによって様々な苦しみに至る。そのプロセスを十二の段階に分けて詳しく説いた教えが「十二縁起の法」と呼ばれるが、ここではその詳細は省略する。


    8.人間の苦しみ:四苦八苦・三苦

    そして、仏陀・仏教が説いた人間の苦しみとは、四苦八苦や三苦という教えに説き明かされている。四苦八苦とは、①生・②老・③病・④死と、⑤求(ぐ)不(ふ)得(とく)苦(く)(求めても得られない苦)・⑥愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)(愛する者と別れる苦)・⑦怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)(憎しみの対象と会う苦しみ)・⑧五(ご)蘊(うん)盛(じょう)苦(く)ないし五(ご)取(しゅ)蘊(うん)苦(く)(一切にとらわれることの苦しみ)である。
    ここで、生老病死の中の「生」の苦しみとは、出産は母子ともに危険で大きな苦しみを伴い、またどのような子供が生まれるか定かでないといった苦しみを指している。そして、そうして生まれても、必ず老い・病み・死ぬという苦しみがある。残りの四つに関しては、何かにとらわれて求めても得られない苦しみがあり、得て執着したものを失う苦しみがあり、求める限りは奪い合い憎み合う苦しみがあり、よって、一切のとらわれは苦しみであるといった意味がある。
    また、三苦という教えは、苦(く)苦(く)・壊(え)苦(く)・行(ぎょう)苦(く)であり、苦苦とは、心身の苦痛そのものである苦しみであり、壊苦とは、喜びであるものが壊れる時の苦しみである。行苦については、この「行」は(一切の)存在という意味であるから、一切の存在がドゥッカである(不安定で、困難で、望ましくない)という意味であり、一切の存在の無常性による苦しみを意味する。
    以上をまとめれば、仏陀は、①苦しみの原因は煩悩であり、②それを詳しくいえば、無智によって貪り・怒りといった煩悩が生じて、様々なとらわれが生じる結果として、四苦八苦や三苦といった苦しみが生じるから、③無智を解消するための智慧を培う修行をすべきであると説いたのである。


    9.智慧を得る道程:三学・八正道

    そして、智慧を得る具体的な実践法として説かれたのが八正道であるが、その要点は「三学」という教えに集約される。この三学とは、仏教の要となる三つの学習修行の実践項目であって、①戒(戒律を守る)、②定(禅定=瞑想の実践)、③慧(智慧)である。すなわち、戒律を守って、瞑想を行い、智慧(悟り)を得るということである。
    これは、仏教の最も基本的な修行の体系である。そして、三学の教えよりも、より細かく修行の実践課題を表しているものが八正道や、それを含めた七科(しちか)三十七(さんじゅうしち)道品(どうぼん)と呼ばれる修行体系であるが、それらすべてに共通する基本的な修行体系が三学である。


    10.ヨーガと仏教の修行体系・目的の違い

    ヨーガと仏教の修行の体系や目的の違いは、ここまで見てきたことからわかるように、ヨーガは禅定(=瞑想による心の安定と集中)に終わるが、仏教はそれに終わらず、禅定によって、物事をありのままに見る智慧を得ようとする点である。
    この禅定と智慧は、仏教の要となる概念であり、別の表現では、止と観(サマタとヴィパッサナー)という。心が静止すれば、物事をありのままに見る(観る)ことができるという意味である。そして、禅定と智慧、止と観は、相互依存の関係にあって循環しており、①瞑想による心の安定と集中(禅定・止)を努めて深めれば、物事をありのままに見る力(智慧・観)が深まり、②同様に、物事をありのままに見ることに努めれば(智慧・観)、禅定・止も深まる。
    一方、ヨーガには、アーサナ(座法・体位法)やプラーナーヤーマ(調気法)といった身体行法が瞑想の準備段階として説かれている点が、仏教と比較した場合の特徴となっている。ただし、仏教の中でも密教の宗派は、ヨーガとの交流・混合が進み、ヨーガの身体行法が多分に取り入れられているものがある。
    そして、日常の行動をコントロールする戒律が、瞑想の土台になっている点は、ヨーガと仏教の共通点である。


    11.ひかりの輪の修行の四つの柱

    さて、初期仏教・ヨーガの修行の重要な目的が、前にも述べた通り「心のコントロール」であるが、そのための手段に関して、ひかりの輪は、初期仏教・大乗仏教・ヨーガなどの古今東西の修行法を総覧して、以下の四つにまとめあげている。

    ①教学:教えを学ぶ→思考・想念の浄化
    ②功徳:戒律の実践→日常の行動の浄化
    ③行法:身体行法→身体の浄化
    ④聖地:自分の身を置く環境の浄化

    この教学・功徳・行法・聖地は、上に示した通り、思考・行動・身体・環境の浄化を意味する。そして、心は自分の意思では、直ちにコントロールすることはできないものだが、この四つは心と深くつながっており、この四つを浄化・コントロールすることで、間接的に心を浄化・コントロールすることができるのである。


    12.環境の浄化:自分の体の外側の要素の浄化

    (1)住環境:自分の身を置く環境

    ①自室:整理整頓・掃除・換気、心が落ち着く視覚・聴覚・嗅覚の情報。
    仏画・自然写真、クラシック・瞑想音楽・聖音、瞑想香・アロマ
    ②野外の自然に親しむ:理想は特段浄化された気の場所(パワースポット)

     

    (2)飲食物

    ①バランスがとれた自分の体質に合ったもの:極端な食養学は盲信しない。
    ②避けるべきもの:食べすぎと冷たい物の取りすぎ。

    (3)衣服

    ①体を締め付けず、気の流れを阻害しないもの。
    ②伝統的な瞑想補助ツール:①貴石(個人に合ったもの)②仏教法具

    (4)人間関係

    ①何事も学びは個人よりも、切磋琢磨する集団の方が進みやすい。
    ②他人の言葉・行動から学び、さらには心から以心伝心で学ぶという思想。
    ③釈迦の教え:①良き友と交わる ②サンガ:仏道修行者の集いの重視
    仏教の三宝:ブッダ(仏)・ダルマ(仏の教え)・サンガ


    13.日常の言動の浄化

    (1)心が安定する言動を選択し、不安定にする言動を避ける。

    心理学の選択理論:感情は選択できないが、行動・思考は選択できる。

    (2)仏教をはじめとする各宗教には、日常行動を規定する戒律がある。

    三学の教え(戒・定・慧)が説くように、戒律を守る生活が、心の安定と集中をもたらす瞑想の土台となる。
    心の安定をもたらす行為が善行(功徳)、その逆の行為を悪行(罪)と解釈される。

    (3)健康的な生活習慣も、日常の言動の浄化(戒律)の一部である

    ①住環境を整える(上記の通り)
    ②適度な運動をする(有酸素運動。ヨーガのアーサナ・プラーナーヤーマなど)
    ③適切な飲食(上記の通り)
    ④規則的な睡眠(夜更かしを避ける)
    ⑤入浴(下記の通り)
    ⑥良い姿勢・呼吸(下記の通り)
    ⑦気の流れを阻害しない服装(上記の通り)

    良い生活習慣は、生活習慣病や精神的な病気を回避し、健康・長寿・若さを保つことにも役立つ。


    14.身体の浄化

    (1)仏教・ヨーガ・気功などの身体行法

    ①アーサナ(体位法・座法):体をほぐし、気の流れを改善、座法を安定化。
    ②プラーナーヤーマ(調気法):気の流れを改善し、心の安定・集中力を高める。
    ③その他:クリヤヨーガ、気功法、歩行禅(歩行瞑想)

    (2)入浴:体をほぐし、血流・気の流れを改善する

    入りすぎは禁物、温泉は古来仏教僧の聖地(その後大衆化された)。
    時間がなくシャワーの場合、多少熱めで十分に浴びる。

    (3)真言(マントラ):心が安定する言葉を唱える

    これに関連して、巻末の参考資料の「身体心理学」の研究結果が示す通り、体の使い方と心の状態には、深い関係があることがわかっている。その一部は以下のとおりである。

    ①筋肉の状態:筋肉を弛緩させると、リラックスし、ストレスが減少し、免疫力が増大する。
    ②呼吸の状態:腹式呼吸で長く息を吐くと、心拍・血圧が低下、ストレスが減少する。
    ③姿勢:うつむきの姿勢はネガティブな気分、背筋を伸ばすと前向きになる。
    ④発声:アー音は開放的な気分、ウーン音はゆったりした気分、ウン音は温かい気分をもたらす。

    15.思考の浄化

    (1)思考と感情・心は深く連動しており、習慣化・自動化している。

    心理学の認知療法が説くように、否定的な思考とそれに連動する否定的な感情の習慣がある。
    自動思考・自動感情。

    (2)心が安定するものの見方(=仏陀の教え)を体得することが重要である(仏陀の智慧=正見を得る)。

    止と観の教え:心が静まると物事が正しく見える。正しくものを見れば心が静まる。

    (3)仏陀の教えを学ぶ際の注意

    単に知識として吸収せずに、その是非をよく吟味して、論理的に十分に納得した上で修習する。
    そして、絶えず法則を思念する(正念の教え)。

    (4)思考の浄化=智慧の獲得の3つの段階

    ①知識の学習:教えを学んでいるが確信していない。
    ②論理的な理解(推理智):教えの正しさを論理的に確信。
    ③瞑想による直観:教えを瞑想による直接体験で体得。


    16.瞑想直前の準備

    瞑想を行う場合、いきなり行うのではなく、以下の準備を心がける。

    (1)環境の浄化:瞑想する場の掃除・整理整頓・換気により、気の流れをよくする。

    加えて、心が静まるような仏画・聖音・瞑想香を用いた霊的な浄化が望ましい。

    (2)適度な運動を行う(例えば上記のアーサナなど)。

    (3)姿勢を整える。以下の三つの点に注意する。

    ①座法:安定した座り方(できればヨーガの座法)。
    背筋を真っ直ぐにして、肩などの体の力を抜く。
    ②手印:手の組み方。合掌・定(じょう)印(いん)など各種ある。
    緊張しているか眠気があるかなどによって選択。
    ③目・視線:しっかり開ける、半眼、目を閉じるなど各種ある。
    緊張しているか眠気があるかで選択する。顔は下を向きすぎないように。

    (4)呼吸法を行う。


    17.瞑想の際の注意点

    (1)真言瞑想や読経瞑想の時の注意点

    三密加持といわれ、①身(身体)、②口(言葉)、③意(意識)の3点において、仏陀に近づくようにする。身体においては、上記の通り、座法、手印、目・視線などにおいて正しい姿勢を保ち、言葉においては、真言・読経をしっかり唱え、意識においては、仏陀・仏陀の教えなどを思念する。

    (2)瞑想のタイミング

    朝起床後に瞑想すれば、1日全体の心や行動が、エゴ・煩悩から離れた、よいものとなりやすい。「初めよければ」ということ。普通の人は、寝ている間は意思が働かないから、朝起きた直後は、エゴ・煩悩が生じている。
    また、夜眠る前に瞑想すれば、その日の心や行動の汚れを、その後の睡眠や翌日に持ち越さずに済み、よい睡眠状態(=瞑想)を得ることができる。その日1日を反省する機会にも。

    (3)瞑想による智慧と煩悩の解消

    瞑想による心の安定と集中は、物事をありのままに見る力=智慧・悟りを与える。そして、この智慧が強まるほど、無智・貪り・怒りという3つの根本煩悩が和らぎ、他の煩悩も和らいで、苦しみが解消していく。
    人の苦しみの根本原因である根本的な煩悩(三毒)は、無智・貪り・怒りである。これを言い換えれば、智慧が生じると、自分の苦しみが、①貪り(欲張りすぎ)、②怒り(嫌がりすぎ)、③無智(間違った見方・今の自分さえよければという怠惰など)が原因であることに気づいて、それを解決・解消することができる。

    (4)感謝の瞑想は覚醒の扉となる

    感謝の瞑想を深めて広げていくならば、①自分の得ている恵みの膨大さ、②自分の苦しみの裏にある恩恵、③自分の慢心・罪、④恩返しとしての利他の実践の重要性、⑤万物が一体である真理などに目覚める(気付く・悟る)ことができる。この詳細に関しては、2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成の新しい生き方・感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』を参照されたい。


    18.心のコントロールの様々な恩恵

    (1)精神的な苦しみの解消、心の安定・幸福、苦しみに対する強さを得る

    究極的には、苦しみを喜びに変える生き方を体得し、仏陀の智慧・慈悲に近づく。

    (2)健康・長寿・若さ(仏教・ヨーガの修行と健康長寿の深い関係は第1章を参照)

    究極的には、強く良い気の流れによる身体的な快感を得る(仏陀の至福の身体・内的歓喜)。

    (3)知性の向上:感情に流されない合理的な判断力

    究極的には、静まった心に生じる直感力・インスピレーション(仏陀の智慧)を得る。

    (4)人間関係の改善:感情の暴走・奪い合い・憎み合いの解消

    究極的には、広く深い感謝と恩返しの心に基づく仏陀の利他心・慈悲・菩薩道の体得。

    (5)長期的な有意義な自己実現

    ①上記の心の安定・高い知性・健康・良い人間関係は、幸福の資源とされる。
    これによって、長期的な自己実現:時(=天)を味方に付けた生き方ができる。
    ②人生の前半は、学力・体力・容姿・財力などで負け組でも、心身の健康長寿を得て、
    後半は逆転して、最後は悟り(老年的超越)に至る人生が可能となる。

     

  • 2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成:長寿社会の新しい生き方 感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』第2章特別公開 (2019年05月26日)


    第2章 総合解説:感謝の瞑想・仏陀の覚醒の扉


    1.仏陀=目覚めた人とは?

    仏陀とは、サンスクリット原語で目覚めた人という意味である。仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))において、自分の教えは、人の眼を開き、理解を生じさせ、正しい智慧、心の静けさ、涅槃、悟りの境地などを与えるとした。こうして、仏陀とその教えの本質は、人の精神的な覚醒と深く結びついているのである。
    さて、この仏陀の言葉にも出てくる智慧とは、仏陀の極めて重要な特性であり、物事を正しく見る力という意味がある。正しく見るとは何かといえば、仏陀の説いた縁起や空の道理に基づいて物事・世界を見る高度な認識力などと解説される。これをわかりやすく言い換えれば、物事の全体を見ること、心の視野を拡大することともいうことができる。
    これと関連して、仏典には、仏陀の意識は、世界の全ての時空間と合一しているという表現もある。また、有名な観音菩薩の別名を観自在菩薩ともいい、観察が自在という意味であり、特に千手観音とは、無数の手を持ち、その全ての手には目があって、世界全体を自在に観察することができる存在であることを示している。
    物事の全体を見て、心の視野が拡大し、究極的には、意識が世界の全時空間に合一した結果として、仏陀は、全ての存在が無常であること(諸行無常)、全ての事物が無我であること(諸法無我)、万物が相互に依存しあっていること(縁起・相(そう)依(え)性(しょう)縁起)、万物が固定した実体を持たないこと(一切皆空)、万物が自分だけで他から独立して存在しないこと(無(む)自(じ)性(しょう))といった法則を見出し、万物を愛する大慈悲に目覚めたという。そして、こうした目覚めに至る一つの具体的な道・瞑想法が、以下で述べる感謝の瞑想である。


    2.心の視野を拡大すると、自分の幸福と他者への愛に目覚める

    普段の我々は、心の視野・視点が、今の自分を中心とした世界に限定されている。これを先ほど述べたように、大きく広げてみるとどうなるか。自分だけでなく、日本全体、世界全体に広げ、さらには、人間だけでなく全ての生き物・自然に広げて地球全体、宇宙全体に広げてみる。
    また、今だけでなく、自分が生まれた時、近代・中世・古代に遡り、数万年といわれる現生人類の歴史、39億年前に遡る生命全体の歴史、46億年の地球の歴史、130億年を超える宇宙全体の歴史を遡ってみる。
    すると、全ての生命体の中から、人間に生まれたこと、しかも、21世紀の人間に生まれたこと、さらには、安全・長寿・豊かさの三拍子そろった先進国の日本に生まれたことは、とてつもなく幸運であったことに気付く。世界の全時空間の全ての生命体の中から、21世紀に日本人に生まれる偶然の確率は、とてつもなく僅かであり、全く奇跡的なことである。
    普段の我々は、「自分がすでに得ているものは当然である」という思い込みがあって、意識が今の自分の近くだけに制限されていて、世界全体の視野・視点から自分を見ることがないために、自分たちが得ている大変な幸福・幸運に気づいていないのである。
    しかし、人間以外の生き物は、衣・食・住が確保されておらず、天敵がいるために絶えず脅かされており、家畜のように人に殺されるために育てられるものもいる。そして、様々な苦しみがあっても、その原因と解決法を考えることができず、生まれてから死ぬまで同じような苦しみを、ただただ繰り返し経験して、死んでいかなければいけない。すなわち進歩することがない。仮に、人間がこうした状態に陥るならば、それは絶望的な人生として認識され、自殺に至る可能性も高いだろう。
    にもかかわらず、実際を見れば、人間に比較して、他の生き物の数は圧倒的に多い。仏陀が、人間に生まれる者の数と、他の生き物に生まれる者の数を比較して、後者を夜空に見える星の数、前者を昼間の空に見えるか見えないかの星の数にたとえた有名な説法がある。
    さらに我々は、多くの人類の中で、21世紀の人類という、人類史上もっとも恵まれた人類の社会に生きている。現生人類は数万年の歴史があって、これまでに数百億人~数千億人が生まれたといわれているが、現在の21世紀の人類の総人口は70億人とされ、先進国の人口となると10億人前後となる。
    しかし、現在、私たちが自分の部屋の中と外で目にする様々な文明の利器のほとんどは、近代の科学技術や産業革命によるものであり、それ以前には存在していなかった。厳密にいえば、100年前にも存在したものも、ごく一部である。インターネットの大衆化やスマホの普及などと言えば、10年から20年の歴史しかない。こうして、我々が今、自分の周囲、あたり一面に目にするものは、人類数万年の長きにわたった先人たちの血と汗の結晶の産物であって、大変な恩恵といわなければならないのではないだろうか。
    さらに、それらは、先人からの恵みであるだけでない。我々の毎日は、現在を生きる多くの人々、他の生き物、空気や水を含めた地球の生命圏と、それを支える太陽系・銀河系といった宇宙のシステムに基づいて存在している。こうして、我々の得ている大きな幸運と恩恵は、宇宙の万物に支えられているものだということができる。
    こうして、心の視野を広げるならば、自分たちの得ている膨大な幸運・恩恵・幸福と、それを支える万物への感謝=愛に目覚めることができる。言い換えるならば、仏陀とは、自分が非常に幸福である事実と、それを支える万物に対する感謝に目覚めた者ということができる。


    3.苦しみの恩恵にも目覚める

    さらに、自分たちの得ている膨大な恩恵に気付くならば、普段経験して嫌がっている様々な苦しみにも、貴重な恩恵があることに気付く。普段の我々は、膨大な恩恵に気付かず、感謝もない。そればかりが、まだ得ていないものや、少し前に得ていたものを失ったことに対する不満・怒り・後悔などが多い。そして、自分より持っている者への妬み・怒り、自分より恵まれていない者への驕り・蔑みなどもある。これは、自分たちが得ている膨大な恵みに気付いて感謝して足るを知ることがなく、際限のない欲求=貪りに陥っていることによるものである。
    そして、重要なことに、こうした心の働きが、逆に自分たちを不幸にしている。「もっともっと」と求めても得られずに苦しむ、得ていたものを失って苦しむ、求めて奪い合うことによって苦しむといったことである。
    こうして見るならば、我々が普段経験している苦しみというものは、我々の際限のない欲求・貪りの過ちに気付くことを促すものと考えることができる。たとえていえば、貪りのもたらす苦しみは、貪りから離れる愛のムチ、口に苦い良薬であり、脱却のための試練である。酷い悪夢にうなされている者の目を覚ますために、その顔を叩くようなものである。
    仏陀の教えには、苦しみの経験があってこそ正しい教えに心が向かうという趣旨のものがある。仏陀と自分の父母に加えて、苦しみを与える敵対者を含めた三者に対して礼拝するように説く教えもある。さらにいえば、自分の経験する苦しみこそが、同じような苦しみを経験する他者に対する優しさ・慈悲の心の源にもなる。こうして苦しみは、我欲を離れて慈悲を持つことに導く側面がある。仏陀の教えでいえば、苦の裏に楽があるという、苦楽表裏の教えである。


    4.他者への慈悲、自分の罪に目覚め、慢心を和らげる

    また、こうして心の視野が広がって、感謝の心が広がり深まるならば、自分よりもはるかに恵まれておらず苦しみの多い者が無数に存在する事実も、認識するようになるだろう。自分が際限のない欲求・貪りに陥っている間は、不満と妬みばかりが生じて、他者の苦しみなどは気に留めることはできないが、それから解放されるならば、苦しむ多くの者の存在に気付くことになる。
    さらには、自分の毎日が、そうした他の生き物の苦しみ・犠牲の上に成り立っていることも理解される。例えば、私たちは、毎日の糧を得るために、動物にしても植物にしても、他の生き物を殺さなければならない。仏教では、これを人間が避けることができない悪業として宿業(宿命(しゅくみょう)の業)などということがある。人間の世界で、どんなに偉そうにしている者であっても、自分たちよりも苦しみの多い生き物を犠牲にしなければ、一日たりとも生きていくことができない存在なのである。
    これに関連して、「感謝」という言葉が、偶然にも「謝罪を感じる」と書くものであることは意味があると思う。感謝とは、自分の幸福が全て、なにかしらの他者の労苦・犠牲に支えられたものであることを認識することであるとするならば、その意味で自分の罪の事実を感じることを含んでいるものだろう。
    また、普段は、非常に簡単に他人を嫌悪して批判するが、実際には自分が嫌うタイプの人たちにも支えられながら、私たちは生きている。現在の非常に便利な都市社会は、非常に高度な分業によって成り立っている。それはグローバル経済の中で、地球の隅々の国々・人々まで巻き込んで存在している。その中には、自分が嫌悪したり見下したり馬鹿にしたりしている人たちも含まれている。こうして、自分が好きな人、嫌いな人の双方を含めて、実際には、全ての人が、全ての人と支えあっている。どんな人間も、自分だけの力で生きることや、自分が好きな人間だけの間で生きることなど到底できていないのである。
    突き詰めれば、自分自身という存在自体が、自分で作ったものではなく、父母をはじめとする先祖・先人、他の親族、学校の教師・友人、会社の先輩・同僚を含めた友人知人の労苦・犠牲によって支えられて育まれてきたものである。自分に何か良いところがあったとしても、それが全て自分の努力のみで得られたということはあり得ず、他者の労苦・犠牲を伴う幸運に支えられたものであることに気付く。万物は相互依存であることに気付く。
    こうした気づき・目覚めは、慢心を解消する。また、慢心とともに、自と他を区別して、優劣を比較することによって生じる卑屈・妬みといった心の働きも、和らげることになる。


    5.恩返しの心に基づく真の慈悲に目覚める

    さて、大乗仏教の教義においては、こうして万物への感謝・愛を深めて、その恩に報いるために、全ての生き物を利する実践=菩薩道に入ることを説く。すなわち、仏陀・菩薩の利他心とは、自分を悟った者として、上から目線で、他の人々・生き物を救ってやろうという心の働きではなく、全ての人々や生き物を自分の恩人と見て、その恩に報いるための恩返しとして行われる純粋性を有している。
    そのために「因果の七つの秘訣」などの大乗仏教の瞑想では、①全ての生き物を恩人であると瞑想し(知恩)、②その恩に報いようとする心を培い(報恩)、③恩人が苦しんでいることに慈悲を持ち、④その苦しみの解消のために、自分が仏陀の境地に到るための菩薩道の修行に入ることを決意する(発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん))といった瞑想を行う。


    6.万物一体の悟りに目覚める

    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別して自分だけに愛着する心の働き(自我執着)が和らぐと、怒りなどを含めた全ての煩悩の根源が和らぐことになる。安定して静まった広がった心の働き(大慈悲)が生じることになる。
    こうして、以上をまとめてみると、心の視野を拡大して感謝の瞑想をするならば、①自分の膨大な幸福に目覚め、②それを支える他者・万物への愛に目覚め、③自分の苦しみの裏側にある恩恵にも目覚め、④自分より遙かに恵まれない無数の他者への慈悲に目覚め、⑤自分の幸福が他者の犠牲・労苦に基づいているという自分の罪に目覚めて慢心が和らぎ、⑥謙虚な恩返しの心に基づく真の利他行に目覚め、⑦万物一体の悟りに目覚めて、全ての煩悩の根源である自他の区別・自我執着が和らぐことになる。
    また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別する心が和らぐと、怒りなどを含めた、全ての煩悩の根源が和らぐことになる。


    7.感謝がもたらす様々な幸福

    感謝の瞑想は、これまでに述べたように、心の幸福・浄化・安定・広がり・愛をもたらすが、他にもさまざまな恩恵がある。
    まず、安定した広い心が得られれば、物事を正しく見る智慧が生じる。心の安定とそれによる集中こそが、物事を正しく見る力をもたらすからである。これは、仏教の「止観」と呼ばれる教義である。止観とは、心が静まって静止するならば、物事を正しく見る(観る)ことができるというものである。
    そして、逆もまた真であり、物事を正しく見るならば、心は静まるということでもある。止が観をもたらし、観が止をもたらす、循環する。なお、止観の別の表現は、禅定と智慧である。禅定(瞑想による心の安定)によって、智慧(物事を正しく見る高度な認識力)が生じるといわれる。
    さらに、感謝の瞑想は、心身の健康を増進する。すでに多くの医学的な調査・研究において、感謝をはじめとする前向きな感情が、免疫力の向上に役立つことが確認されている。一方、ストレスが免疫力を弱めることをはじめとして、感謝とは反対に、不満・怒り・焦り・争いといった否定的な心の働きや行動は、免疫力を弱め、健康を損なう。
    また、感謝と恩返しの心の働きと行動は、当然であるが、人間関係を改善することは疑いがない。意識して感謝の瞑想と実践をしなければ、我々の日常は、際限なき欲求によって、感謝よりも不満が多く、愛・恩返し・分かち合いよりも、怒り・憎しみ・奪い合いが多いかもしれない。
    そして、昭和の稀代の実業家の松下幸之助は、少人数を動かす場合は、支配・命令・処罰などでも可能だが、大勢の人を動かす場合は、感謝・尊重の心が必要だと述べている。すなわち、感謝は、感謝された人の意欲を増大させ、活性化するのである。


    8.日常生活の感謝の瞑想① 朝の瞑想

    感謝の瞑想に限らないが、日常生活の中で瞑想を組み込む上では、朝起きた後と、夜寝る前の瞑想は有効である。朝起きた時は、人はどうしても、それまでに培った精神的な傾向として、際限なく求める心の働きと、それによる不満・怒りが生じやすい状態にある。よって、その日の仕事や勉強を始める前に、感謝の瞑想によって、そうした心の働きを和らげ、その日をより良い心の働きと行動をもって過ごすことができるようにすることが望ましい。
    もちろん、仏陀の教えを絶えず思念することを説く仏教の正念の教えからすれば、一日中絶えず感謝の瞑想をするべきであるが、それは現実には不可能であるから、まず朝に行って、その日一日のために、良い流れを作るということである。そして、その後も、仕事や勉強の合間を見て、ごく短い間でも、感謝の瞑想をすることができれば理想ではないかと思う。


    9.日常生活の感謝の瞑想② 夜の瞑想

    夜寝る前の瞑想は、心理学的にも効果が高いというデータがある。夜寝る前に、感謝の瞑想などで、不満・怒り・妬み・不安などを和らげておけば、心が落ち着き、心身がリラックスして、熟睡する助けになる。
    現在、睡眠不足・睡眠障害に悩む人が増えている。不安や緊張が強かったり、運動不足だったりすると、睡眠を妨げる。そこで、夜寝る前に、例えば、適度なヨーガ体操などの運動をした後に、感謝の瞑想をして心を静めることは、良い睡眠の助けとなり、疲労回復などをもたらし、健康のためにも重要である。
    また、睡眠の時間は、人生の3分の1から4分の1を占めるものである。よって、その質を高めることは、仏教・ヨーガの悟りの視点からも重要であり、夢を活用した瞑想修行もある。具体的には、睡眠の前に、一定の身体行法や感謝などの瞑想で、心身を浄化するならば、煩悩が静まった状態で睡眠に入ることができ、それ自体が良い瞑想状態ということができる。


    10.食事での感謝の瞑想

    食事とは、前に述べたように、他の生き物の犠牲であるから、感謝の瞑想を行う上で非常に重要な時である。具体的には、食事を始める前に、簡単に感謝の瞑想を行う。手を合わせて「いただきます」と言う時には、犠牲となった生き物に対して、その身の供養を感謝をもっていただくと考える。
    そして、感謝に基づく恩返しとして、その食事で得た栄養・エネルギーを無駄にせずに、なるべく良いことをすることを誓う(誓願する)。これは、前に述べたように、人が生きていく上では、他の生き物を犠牲にするという宿業があるが、それを相殺するように善行を積むという意味合いがある。こうした瞑想は、感謝の心とともに、謙虚な心と善行を行う精神を培うことを助けることになる。最後に、天寿を全うして死ぬことは、これまで他者からいただいたもので作っていた自分の身体を他者・自然に返して、それまでのお返しをする意味合いがあることを考えるとよいだろう。
    さらにいえば、人が生きるということは、他者の死とセットであり、他者から生命・体をもらうこと、他者の体が自分の体になることである。また人が死ぬということは、他者の生とセットであり、自分の体が他者の体になっていくことである。
    こうして、自己の生と他者の死はセットであり、自己の死と他者の生はセットであり、この地球の生命圏においては、生と死はセットであり、死ぬ者がいるから生きる者がいて、その意味でも万物が相互に依存し合って一体となって存在しているのである。こうしたことを瞑想することは、感謝に加えて、万物相互依存・万物一体の悟りを深めていくことになるだろう。


    11.ひかりの輪の三悟心経の感謝の読経瞑想

    ひかりの輪では、現代人のための仏教的な悟りを促す読経瞑想(三悟心経)がある。具体的には、

    ①万物を恩恵と見て万物に感謝する(万物恩恵・万物感謝)
    ②万物を仏と見て万物を尊重する(万物仏・万物尊重)
    ③万物を一体と見て万物を愛す(万物一体・万物愛す)

    というものである。

    一つ目の「万物恩恵・万物感謝」の瞑想に関しては、すでに詳しく説明したとおりである。二つ目の「万物仏・万物尊重」の瞑想は、慢心を避けて謙虚さを培う瞑想である。前に述べた通り、人は、他の生き物の命の犠牲がなければ生きることさえできないのに、感謝の心を忘れているどころか、無意識的に人間として他の生き物を見下している。
    しかし、人間は、他の生き物の上に立っているようで、多くの場合において、他の生き物よりもはるかに悪いことをする場合がある。すなわち、人間は他の生き物より、力は上であるが、行いにおいて優っているとは必ずしもいえない。
    多くの動植物が自然の摂理の中で調和を保って存在しているのに、人間は、際限のない欲求による資源消費や自然破壊を行い、飢えてもいないのに戦争という同じ種の間での大量の殺し合い・共食いを行うことさえあり、見方によっては、地球生命圏における害悪の一面さえある。
    よって、意識して慢心に陥ることを避けるように努めて、自分の周りの他の生き物、他の人々、他者・万物を見るならば、それらが様々な意味で教師・反面教師として学びの対象に見えてくる。これが万物を学びの対象・導き手と見る謙虚さを培い、慢心を乗り越える、万物仏・万物尊重の瞑想である。
    三つの目の「万物一体・万物愛す」の瞑想に関しては、食事の瞑想のところでも話したように、この世界の万物が相互に依存し合って一体となって存在しているという視点に基づいている。自と他を区別して、自己だけに過剰に執着するのではなく、自他を含めた万物を一体とみなして、万物を愛する大きな心を培うということである。


    12.瞑想を助けるヨーガ・仏教の基本的な教え

    さて、感謝の瞑想を含めて、瞑想を行う前の準備について述べたいと思う。もちろんこれは、時間がある場合であって、時間のない場合は、こうした準備をすることなく、瞑想をして構わないと思う。
    まずは、瞑想の際に自分の身を置く環境を浄化して整えることである。自宅ではなく、豊かな自然・神聖な波動を持つ聖地などに行くことができれば理想であるが、自宅で行う場合の工夫に関して述べる。
    まず基本は、部屋の整理整頓をして換気を行う。ヨーガや道教の思想でいえば、自分の体の外の「気」(目に見えないエネルギー)を整えることになる(外気を整える)。この際、部屋に、見ると心が静まる仏画や自然の写真、聞くと心が穏やかで前向きになる類の瞑想音楽や、ある種の仏教の法具が奏でる聖音、ストレス解消やリラックス効果がある瞑想用のお香などがあれば、理想である。
    次に、適度な運動を行って体をほぐす。例えば、ヨーガの体操(アーサナ)や気功法がある。これは、体の筋肉や関節をほぐして、血流や気の流れを改善する効果があり、それによって精神状態の安定にも繋がる。
    次に、正しい姿勢と呼吸法である。姿勢は原則として、背筋を伸ばして肩の力は抜く。こうすれば、血流がよくなり、精神に深く関係する脳や腹部の血流も改善する。足の組み方(座法)は、蓮華座や達人座のようなヨーガ・仏教の専門の座法が組めなくても、安定したものであればよい。
    なお、手は、様々な組み方(手印)があるので機会を改めて解説するが、左手の上に右手を乗せるのが、定印といわれる仏陀の瞑想を象徴する手印であり、心を安定させ、気の流れを整えるために有効だと思われる。
    最後に、呼吸法に関しては、基本的に腹式呼吸で行い、息の出し入れは、口ではなく鼻から行う。ヨーガの呼吸法は、体操(アーサナ)とともに様々なものがあるので、その詳細については、ひかりの輪で発刊している『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。


    13.読経瞑想時の3つのポイント:三密加持

    さて、瞑想を行う際には、姿勢と言葉と意識の3つに注意することが重要である。まず姿勢は、先ほど述べた通り、背筋を伸ばして肩の力を抜き、安定した座法で座って、手印を組む。言葉の修行とは、読経や真言の念誦のことである。
    そして、非常に重要なことが、その際の心の持ち方である。単純に読経・真言念誦をしても、その教えの意味を考えたり、それに関するイメージを持ったりするように努めなければ、効果は薄くなる。場合によっては「馬の耳に念仏」というように、口で唱えてはいるものの、その教えが心・頭には入っていかないことになりかねない。例えば、前に述べた「三悟心経」の場合は、その経文が説く世界観を実感できるような思索・イメージを行うことが望ましい。

  • 2017~18年年末年始セミナー特別教本『仏陀の智慧・慈悲・精進の教え 立ち直る力と願望成就の法則』第2章公開 (2019年05月26日)


    第2章 願望成就・目的達成の智恵


    1.はじめに

    第一章では、苦しみに強くなる智恵について探求したが、本章では、視点を変えて、願望成就・目的達成の智恵について述べたいと思う。ただし、苦しみを取り除くことと、願望の成就や目的の達成は、裏表の側面があり、共通項も多いことに留意されたい。


    2.一般的な願望成就のノウハウ:意志・自信

    一般的に願望成就・目的達成のノウハウとして、第一によくいわれていることは、願望を成就させる明確な意志を持つことであろう。具体的には、「自分はやる」という意志を持ち、それとセットで、「できる」という気持ちを持つことである。
    そして、自分が自覚した意識(表層意識)においてだけではなく、自覚していない深層意識(潜在意識・無意識)にも、その意志を浸透させるという考えがある。例えば、一部で使われる手法として、「(これから)する」という未来形の意志ではなく、「できた」という過去完了形のイメージをすることがある。これは、未来形である意志の場合は、その裏側の潜在意識では、逆に「今はまだできていない」という意識が残るが、過去完了形ならばそれがなく、潜在意識まで意志統一できるという考えであろう。
    しかし、そもそも否定的な想念が絶えず強く、自信がない人の場合は、なかなかこれが難しい。よって、その前に、第一章では、否定的な想念を止める「気分転換・リセット」や「自己を客観視する瞑想や内省」、さらには、「自分に自信をつける」ための基礎的な訓練などを紹介した。


    3.目的達成の手段を具体化する上でのポイント

    そして、目的達成の意志は、その達成の手段と深く結びついている。達成の手段が明確でなければ、そもそも具体的には何をしたらいいかわからないから、実際の具体的な行動に結びつかず、そのため、意志自体が不明瞭のままとなって、何も達成することができない。そもそも、ある目的があった場合、それを達成する手段を実現することが、その下位の目的となる。つまり、目的の手段の達成が、第二の目的となり、第二の目的の手段の達成が、第三の目的となる。
    さて、達成の手段を具体化するためには、普通は、そのために役立つ情報を収集する。例えば、自分がやろうとしていることが先例のないものでない限りは、似たような目的を実現した他者が提供する情報・成功例などを収集する。ただし、前章で述べたとおり、妬みが強い人は、他者の成功例を吸収せずに否定してしまう傾向がある。そのために自分自身も自信を持つことができず、達成のための手段を失う場合もあることに留意すべきである。
    さて、先例がないような場合は、暗中模索することになるが、そうした場合でも、目的達成の手段をつかむための鍵の一つとなるものが、安定した心である。安定した心は、主観・感情に左右されず、物事を偏りなく、客観的に合理的に正しく判断する知性を与えてくれる。また、心が静まっている時こそ、突破口を得るためのひらめき・インスピレーションが生じやすくなる。これは、仏教では智慧(智恵)とされるものである。こうした、いわゆる創造性といったものも、安定した前向きな心の働きから生まれやすい。
    また、心の安定や知性・智慧と連動して、目的達成の突破口を開いていく土台となるものが、健康・長寿や良い人間関係といった基本的な力であろう。健康は、長期間の継続的な努力を可能とするし、良い人間関係は、目的達成のために、他人が自分にはない智恵や力を与えてくれることになる。この心の安定・知性・健康・人間関係は、心理学においても、人の幸福のための四つの重要な資源といわれている。


    4.失敗の苦しみを超えて、努力を継続する重要性

    また、何事も一直線に成功するものではないから、失敗を嫌がる心の働きは、最終的な達成を阻むものとなる。
    諺(ことわざ)にも、「失敗は成功のもと」というが、努力を続ける限り、成功に限らず、失敗も、その人の貴重な経験となり、成功のための材料・ステップになるという考え方が重要である。すなわち失敗の苦しみは、成功のもとであると考えて、喜びにしていくことである。
    例えば、1000回の実験を経た果てに白熱電球を発明したとされるエジソンは、それ以前の999回の失敗に関して問われた時に、「それは失敗ではなく、成功のためのステップであった」と答えたという。
    失敗は、確かに苦しいものであるが、視点を変えてみれば、失敗とは、それが成功の道ではないことを知ったということでもあるから、その意味で、成功に一歩近づいた、成功へのステップである。よって、そのように前向きに解釈して、失敗を成功へのステップとして前向きにとらえ、努力を続けるのである。
    そして、ウィンストン・チャーチル(元英国首相)は、第二次世界大戦で、破竹の勢いで領土を拡大していたナチス・ドイツの侵略を食い止め、最終的に打倒した英雄であるが、彼は、「成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次に失敗を経験する能力である」と語っている。
    チャーチルは、幼い頃の言語障害を克服し、陸軍士官学校の入学試験にも繰り返し失敗した上で3度目に合格、首相になったのも2度の落選の後であり、まさに「失敗は成功のもと」を体現した人物である。そして、ナチス・ドイツがヨーロッパ大陸全体を支配し、自国が危うい状況にあった時も、「決して、決して、決して、諦めない」という有名な言葉を残した。
    こうして、諦めない者には「失敗は成功のもと」となる。一方、継続的な努力をしない性格の者が、最初に成功すると、慢心に陥って、その成功体験にいつまでも固執して、失敗する場合がある。これは、継続的な努力がなければ、「成功が失敗のもと」になるケースである。
    こうして、絶対的な失敗と絶対的な成功というものはなく、失敗と成功は、長期的には、移り変わる、入れ替わる性質がある。そして、努力する者には、成功と、成功のもととなる失敗があり、努力しない者には、失敗と、失敗のもととなる成功がある。努力は、全てを成功に変え、怠惰は、成功さえも失敗の原因にする。
    エジソンやチャーチル以外にも、人生前半に何度も繰り返し失敗しながら、継続的な努力を通して、後に大きな達成をした事例は数多く存在する。例えば、英国ではなく、米国の大統領においても、奴隷解放などで名高いリンカーンの政治生活は、8回連続の選挙での落選から始まっている。これは、まさに七転び八起きの人生である。
    エジソンが創業者であるゼネラル・エレクトリックス(GE)に限らず、米国の世界的な企業に関していえば、ビッグスリー(米国三大自動車会社)のフォードも、初期には4回の倒産を経験している。あのディズニーも、当初は3回の倒産を経験し、そのアイディアはバカにされていたという。彼らが、前半の失敗で諦めてしまっていれば、歴史に名高い大統領も、現在の世界的な企業も、存在しなかったことになる。


    5.結果にとらわれすぎると、逆にうまくいかない場合がある

    次に、前章で述べたこととも関係するが、願望をかなえる手段に集中するのではなく、願望がかなうかどうかの結果にばかりにとらわれると、様々な心の問題が生じて、逆にうまくいかないという仕組みがある。
    第一に、願望が成就しない=失敗することをひどく恐れるあまり、何事にもチャレンジができなくなるのである。この場合は、成功も失敗も何の経験も得られずに、智恵が深まらず、成功から遠のくことになる。また、この変形として、失敗した結果を受け入れられずに、それをもっぱら他人のせいにして責任転嫁をする場合がある。この場合も、必要な反省と改善の努力ができないので、成功から遠のくことになる。
    そして、チャレンジできなくなる状態がひどくなると、いわゆる引きこもり状態となる。また、責任転嫁がひどくなると、自己愛型人格障害や被害妄想などを呈する。こうして、結果を気にするあまり、心の安定・バランスを損なうと、他との人間関係を失ったり、損なったりするとともに、自身の健康をも害してしまい、これでは、何事も達成できない。健康と良い人間関係は、願望成就の土台であることはいうまでもない。
    第二に、結果を気にするあまり、不安その他によって、心が不安定になると、物事を正しく合理的に判断することができなくなることである。
    前章で述べた通り、悪い結果に対する不安を感じること自体は、問題を事前に把握して防止したり、備えたりすることにつながるので、むしろ必要なことである。しかし、結果を気にしすぎて、悪い結果に対する不安が強くなりすぎると、焦るがあまりに物事を正しく判断できず、逆の目に出る自滅的な選択をする場合が少なくない。企業の倒産なども、辛抱が効かずに、自滅する事例がある。
    また、これとは逆のケースとして、慢心に陥るなどして、膨れた自己愛から、「悪い結果となる可能性を見たくない」という心の働きが強くなると、問題を未然に防止することができなくなる場合がある。こうして結果にとらわれすぎない、バランスのとれた心の状態が重要である。
    第三に、結果を得ようと、自己中心的な考えに陥って、不正な手段を用いる場合である。これは、自分の実力を高めるどころか、自分を甘やかして堕落させるものである。さらに、いうまでもないが、最初はごまかせても、いずれは発覚し、他者の信頼・人間関係を損なって、長期的には失敗に終わることになる。これも、願望成就の土台となる良好な人間関係を損なうことになるし、不正手段を用いている場合は、その発覚を恐れた内面のストレスも非常に強いであろうから、それで健康を害する可能性も高くなる。
    逆に、結果にとらわれすぎることなく、今なすべき手段の実行に集中するなどして、安定した心を保つならば、物事を正しく判断する能力を高めることができ、健康と他者との人間関係も損なうことがない。よって、安定した継続的な努力を長期間にわたって積み重ねることができるから、願望を成就しやすくなる。これを諺の経験則を借りて表現するならば、「果報は寝て待て」、「勝つと思うな、思えば負けよ」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」「急がば回れ」などであろう。


    6.心を静めると、願望達成の道をより正しく理解できる

    これまで述べたことと関連するのが、前章でも述べた、心が静まると物事を正しく見ることができるという法則である。これは、仏教の止と観(禅定と智慧)の教えに通じる。すなわち、「心が静まる(止) ⇔ 物事がありのままに見える(観)」というものである。
    逆に、前項でも述べたとおり、心が不安定な時は、物事を正しく見ることができずに、錯覚を起こして間違った行動をして失敗しやすい。そして、そうした失敗は、心の波のトップとボトムの時に、言い換えれば、躁(そう)状態と鬱(うつ)状態の時に起こりやすい。心が喜びに浮ついている時と、心が苦しみで乱れたり、落ち込んだりしている時である。
    まず、苦しい時は、苦しみを実際以上に過大視する傾向がある。例えば、実際に何かの苦しい経験をする前にも、絶えず不安を抱き、苦しい経験をした後も延々と後悔するケースがある。この場合は、恐怖と強い焦りにつながって、間違った行動をとって、逆に苦しみが増大する場合がある。よって、厳しい時こそ、逆に、努めて冷静さ・平静・心の安定を取り戻すことが重要となる。
    次に、喜びによって心が浮ついている(舞い上がっている)時は、喜びを実際以上に過大視することで、落とし穴にはまる可能性が高まる。心が、喜びに没入・執着してしまい、その裏側に隠れ潜んでいる苦しみ・問題点が見えない(見たくない)状態である。良い面しか見ず、悪い面を見ない。これは、慢心・過信・油断につながり、後に悪い現象が起きることになる。すなわち、「好事魔多し」ということである。
    よって、仏教では、何事も苦楽表裏であり、心の落ち込みと浮つきを超えて、絶えず平静な心を培うことを重視している。特に仏陀・菩薩の心とされる四無量心の教えでは、常に平静で万事に平等な心の働き(捨〈ウペクシャー〉)が重要だとされているので、別の章に詳しく述べることにする。
    これらのことを諺で言うならば、苦しい時も、「万事塞翁が馬」の精神であり、喜びの時も、「好事魔多し」、「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」という心構えであろう。

    7.気の強化・浄化が、願望成就の力をもたらす

    さて、前章で述べた通り、心の不安定を解消し、心の安定と智慧を得るための仏教・ヨーガの東洋思想の修行は、思考・行動・身体・環境の4つの浄化にまとめることができる。ここでは、その中で、気の浄化・強化という要素について述べたいと思う。
    「気」とは、前章でも述べた通り、中国哲学(道教)からインドの仏教・ヨーガの思想まで、東洋思想で広く説かれる、人の体の内外にあるとされる目に見えないエネルギーである。そして、これが人の元気・体力・意志力・集中力などに関係し、さらには、他人・周囲の場にも影響を与える。
    そして、気を改善するという場合、気の強化と気の浄化という二つの側面がある。ここで、気の強化とは、このエネルギーを強化すること、エネルギーの量を増やすことである。一方、気の浄化とは、気の性質を清らかなものすること、ならびに、気が流れる道(気道)の詰まりをなくして、浄化することである。
    気の強化=エネルギーの強化によって、元気になり、強い意志の力などを得ることができる。そして、気を浄化することで、煩悩・欲望・雑念が減少する。そして、気の強化と浄化を合わせることで、安定した心と高い集中力を得ることができる。これがまさに仏教で「禅定」と呼ばれる状態である。
    この気の強化と浄化は、お互いに相乗効果があるので、ごく大雑把にいえば、共に進めることが望ましいが、厳密にいえば、ケースバイケースの部分が少なくないので、気を浄化・強化する修行を実際に行う場合は、繊細・緻密な理解と経験が必要となる。
    よって、その詳細は、2017年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学とヨーガの歴史と体系』、2016年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学と人類の可能性』、『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)などを参照されたい。
    そして、安定した心と高い集中力を実現したならば、それを活かして、重要な目的の実現を図ることができる。それは、物事を正しく判断し、実行する力、現象を動かす力を持っている。


    8.気の浄化・教化の具体的な方法

    次に、気・エネルギーを強めて浄化する具体的な方法について述べる。第一に、善行(ぜんぎょう)を行い、悪行(あくぎょう)を減らすと、気のエネルギーは増大するとされている。その意味では、気のエネルギーは、仏教の用語でいえば「功徳」にもつながる面があるということもできるだろう。
    実際に、人が利他の行為など良いことをすると、心が明るく軽く温かくなると感じるのは、気のエネルギーが増大して上昇しているからだと解釈できる。気のエネルギーは、光・熱の性質があり、それが強まると、身体の中を上昇する傾向があるからである。逆に自己中心で他を傷つけるような悪いことをすると、逆に心が暗く重たく冷たくなると感じるのは、気のエネルギーが減少し、光・熱が減少し、エネルギーが下降するからであると解釈できるだろう。
    なお、善行とは、繰り返しになるが、利他の行為であり、①積極的な利他の行為に加え、②煩悩的・自己中心的な行為=悪行を避けて他を害さないようにする行為も、仏教においては、消極的な利他の行為と解釈される場合がある。
    初期仏教では、殺生・偸盗(ちゅうとう)(盗み)・邪淫(不倫)などの「十の悪行」をなさない「十戒」の実践や、その逆に命を助ける、他に施すなどの「十の善」をなす実践が説かれた。大乗仏教では、布施(施し)・持戒(十戒を守ること)・忍辱(にんにく)(苦しみに耐えること)などの功徳が説かれる。
    第二に、気のエネルギーは、物理的な方法によって強化することができる。いわゆる身体行法である。典型的な方法が、ヨーガの呼吸法であるプラーナーヤーマである。これは、実際には「調気法」と訳され、気を調御するための特殊な呼吸法である。これによって、体の外側の気(外気)を内側に取り込むことができる。
    また、外気は、飲食によっても取り込むことができるが、例えば、食べすぎれば、取り込んだ気を消化作業のために消耗してしまう。また、冷たいものを取りすぎれば、熱エネルギーである気は減少することに注意を要する。食べすぎと冷たいものの摂りすぎは、普通の意味での健康にも良くないので控えるべきである。
    なお、善行によって気・エネルギーを高める場合と、調気法などの物理的な方法によってエネルギーを高める場合には、多少の違いがある。前者は、質の高い、清らかなエネルギーを得ることができるとされる(ヨーガで「善性のエネルギー」といわれる場合もある)。
    後者はエネルギーには違いがないが、その質に関していえば、エネルギーを取り込む先の環境条件などに左右されることがある(ヨーガでは「動的なエネルギー」といわれる場合もある)。よって、調気法は、理想をいえば、清らかな外気の場所で行うことが望ましい。また、これと同じ原理で、食べ物を通しても、人は外気を取り込むので、食事の内容に気を配ることも重要である。
    ただし、都市社会に住むたいていの人は、聖地などで呼吸法を行う機会は乏しく、自宅で行うことが多いので、その場合は、自室をきちんと整理整頓をし、換気をするなどして、気の流れを良くしておく。加えて、何らかの宗教的・霊的な手法によって浄化することが望ましい。ひかりの輪では、仏画・仏像などの象徴物の設置や、仏教の法具の聖音、瞑想用のお香などを推奨している。


    9.利他心に基づく願望は、表層意識と深層意識を統合し、大きな力を得ることができる

    願望をかなえるために、表層意識だけではなく、深層意識にもその意志を浸透させるという考えがあり、例えば、未来形の意志ではなくて「できた」という過去完了形のイメージをする手法があることなどを冒頭で述べたが、次からは、さらに深層心理と願望成就の関係について述べたいと思う。
    まず、繰り返しになるが、心理学でも仏教思想(の中の心理学)においても、人には、「自分が自覚している意識=表層意識(顕在意識)」と、「自覚していない意識=深層意識(無意識・潜在意識)」があるとされている。
    そして、深層心理学者のカール・ユングなどが主張した通り、通常の人の場合は、エゴ・自己中心的な意識によって、表層意識と深層意識は分裂した状態にある。具体的にいえば、例えば、人は、自分の自己中心的で身勝手な行為は、「忘れたい、見たくない」ので、その事実の記憶は、表層意識から排除され、深層意識の中に抑圧され、普段は自覚されていない。
    その結果として、ほとんど忘れてしまう場合さえあるが、何かをきっかけにして、蘇ってくることがある。死の危険が迫った際や、臨死体験の際に、人生全体の記憶が走馬灯のように駆け巡る人生回顧(ライブレビュー)などの事実は、表層意識では忘れている記憶が深層意識の中に保存されていることを示している。
    こうして、人の意識は、表層意識と深層意識の間で分裂しているが、人の意識全体の95パーセントは、表層意識ではなく深層意識であるといわれており、私たちが自覚しないうちに、それが私たちの行動に与える影響力は非常に大きいとされている。言い換えれば、人の心・行動は、自覚されていない深層意識によって大きく左右されているということになる。
    そこで、普通は分裂している表層意識と深層意識に対して、自己中心的な心・エゴを弱めることで、それらを統合し、意識全体を統一して、何かの願望・目的を実現しようとしたならば、意識全体の力を使うことができることになる。これは、わかりやすくいえば、迷いがない状態ということができるだろう。
    一方で、表層意識と深層意識が分裂したままで、何かの願望を実現しようとする場合には、ケースバイケースではあるが、表層意識の願望を、深層意識が阻もうとする場合も考えられる。すると、それは、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものであって、願望は実現しにくくなると考えられる。
    さらに、心理学者ユングの深層心理学では、深層心理の中に、表層意識と深層意識を含めた人の意識全体の中心として、普通は自覚されない「自己」という「内なる神」のような意識が存在しており、それは、表層意識と深層意識を統合しようとしていると主張している。
    その統合を果たすためには、それまで何らかの心の歪み・自己中心的な心の働きのために、表層意識が自覚を避けてきた自分の深層心理にある、暗部をよく自覚して内省し、自己中心的な心の働き、すなわち自分と他人の(幸福の)区別を和らげることが必要になってくる。すなわち自他(の幸福)を区別する二元的な意識から、自他(の幸福)のつながりを踏まえた一元的な意識への精神的な向上である。
    これは、仏教が説く利他心・慈悲の心の実現と通じるものがある。そして、言い換えれば、自分のためだけではなく、自他双方の全体の利益を追求する願望・目的は、表層意識と深層意識を統合し、心の全体の力を使うことができるということになる。
    これに関連して、仏教には「如意宝珠」という法具があるが、これは、意のままに願望をかなえる仏の法力の象徴であるとされる。これは、慈悲心に基づく仏の正しい願いは、自在にかなうことを意味しているが、これは表層意識と深層意識の統合された力を意味するとも考えられる。なお、如意宝珠には、その形状からして、表層意識と深層意識が統合された心の状態を象徴するという見方もあるという。


    10.大乗仏教の菩薩道・六波羅蜜から学ぶ目的達成の奥儀

    ここで、願望成就・目的達成の奥儀として、大乗仏教の菩薩道と、その修行法である六波羅蜜に関して述べたいと思う。というのは、菩薩道は、仏教の修行であるが、一人俗世から離れていく道ではなく、全ての生き物を救う実践であり、その意味では、極めて壮大な事業である。そして、その壮大な目的・壮大な事業を達成しようとする場合に、どのような修行を行うかを学ぶことは、願望成就・目的達成の奥儀を学ぶことにつながると考えられる。
    まず、菩薩道とは、全ての人々・生き物を救う(仏陀の境地に導く)ことを求めて行う修行である。そして、全ての生き物を救うために、自らが仏陀の境地に至るための修行を行う心を菩提心という。それは全ての衆生を恩人と見なす感謝の心(知恩)に基づいて、その恩に報いようとする心(報恩)によって、いまだに苦しんでいる全ての生き物を救おうとする慈悲の心を生じさせた結果であるという。
    そして、この菩提心を持った者が行う修行課題が、「六波羅蜜」と呼ばれる六つの修行である。六波羅蜜とは、「六つの完成」という意味であり、その六つとは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧であって、その六つの実践を完成させることが、六波羅蜜の修行である。
    「布施」とは、主に、他者への財物・安らぎ・教えの施しである。「持戒」は、戒律を護持して、他を傷つける悪行を避け、他を利する善行をなすことである。「忍辱(忍耐)」は、経済的な困難、誹謗中傷、教えを理解・体得する上での困難に耐え、それを喜びに変えていく忍耐の実践である。
    「精進」は、こうした修行実践を勇気をもって始め、毎日継続し、ひたすら続ける努力である。「禅定」は、瞑想による心の安定と集中であり、「智慧」は、縁起や空の道理・理法を悟り、物事を正しく見る高度な認識力であり、禅定によってもたらされる。
    そして、六波羅蜜の各実践をよく見れば、それが、これまで述べてきた願望成就のためのポイントと、非常によく合致していることがわかるだろう。
    まず、布施と持戒の実践は、利他心を培い、良好な人間関係を形成する。さらに、それによる善行の増大と悪行の減少は、その人の気のエネルギーを浄化・強化し、強いエネルギー・意志力・集中力を与える。こうして、利他心、良好な人間関係、強いエネルギーといった、願望をかなえるための重要な要素を得ることになる。
    忍辱(忍耐)は、いろいろな困難・挫折・失敗といった苦しみに逃げることなく耐えて、それを喜びに変えていく実践であるから、願望をかなえる過程での失敗の苦しみに負けずに、それを成功へのステップに変えていく実践に通じる。そして、これによって、強い意志力を培いつつ、次の精進による継続的な努力に結び付けるのである。
    精進の実践は、焦らずたゆまず努力を続けることであり、これは、過程での成功に過信して努力を緩めることなく続けることや、忍辱(忍耐)の実践とともに、過程での失敗にめげずに、それを成功のもとに変える努力を継続することにつながる。
    最後に、禅定は、願望成就・目的達成の要となる心の安定と集中をもたらすものである。そして、それによる智慧は、物事を正しく見る力・ひらめきを与え、目的達成のために正しい道を歩む力、突破口を得る力となる。

     

  • 2017年夏期セミナー特別教本『気の霊的科学とヨーガの歴史と体系 転生思想と大乗仏教の哲学』第2章公開 (2019年05月26日)


    第2章 ヨーガの歴史と全体系

    1.ヨーガを生んだインドの古代宗教

    ヨーガを生んだインドの古代宗教の源として、ヴェーダと呼ばれる宗教文書がある。これは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称である。なお、「ヴェーダ」は 「知識」の意である。
    ヴェーダは、バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも、多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けてきたものが後世になって書き留められ、記録されたものである。
    ヴェーダは、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれ、特定の作者によって作られたものではなく、永遠の過去から存在していたとされ、霊感に優れた聖者達が神から受け取って顕現したと考えられている。
    そして、口伝でのみ伝承され、長らく文字にすることを避けられ、師から弟子へと口頭で伝えられたが、後になってごく一部が文字に記されたとされる(ヴェーダ、特にサンヒターの言語は、サンスクリット語とは異なる点が多く、ヴェーダ語と呼ばれる)。

    広義でのヴェーダは、

    ①サンヒター(本集)
    ヴェーダの中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)で構成
    ②ブラーフマナ(祭儀書・梵書)
    紀元前800年頃を中心に成立、散文形式で記述、祭式の手順や神学的意味を説明
    ③アーラニヤカ(森林書)
    人里離れた森林で語られる秘技、祭式の説明と哲学的な説明
    ④ウパニシャッド(奥義書)
    哲学的な部分、インド哲学の源流、紀元前500年頃を中心に成立、ヴェーダーンタ(「ヴェーダの最後」の意)を含む。

    狭義では、サンヒターだけをヴェーダといい、①リグ・ヴェーダ、②サーマ・ヴェーダ、③ヤジュル・ヴェーダ、④アタルヴァ・ヴェーダ、という4種類がある。ヴェーダは一大叢書(そうしょ)であり、現存するものだけでも相当に多いが、失われた文献をあわせると、さらに膨大なものになると考えられている。


    2.バラモン教とは

    バラモン教は、『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、バラモンと呼ばれる司祭階級が行う祭式を中心とする。
    バラモンは特殊階級であり、祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われ、生贄などの儀式を行うことができる。なお、バラモンは、正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」のために、日本ではバラモンと呼ばれる。
    バラモン教の最高神は一定しておらず、儀式ごとに、その崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。また、バラモン教では、人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命が決まるとされ、悲惨な状態に生まれ変わることに不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。
    バラモン教では、階級制度である四姓制があり、それは、①司祭階級バラモンが最上位で、②クシャトリヤ(戦士・王族階級)、③ヴァイシャ(庶民階級)、④シュードラ(奴隷階級)によりなる。これらのカーストに収まらない人々は、それ以下の階級パンチャマ(不可触民)とされた。カーストの移動は不可能であり、異なるカースト間の結婚はできない。
    バラモン教の起源は、紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程で作られたとされる。紀元前10世紀頃に、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まった。
    そして、紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成された。そして、紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して、宗教としての形がまとめられ、バラモン階級の特権がはっきりと示されるに至った。


    3.バラモン教からヒンドゥー教へ

    しかし、これに反発して、今も残る仏教やジャイナ教を含めた、多くの新しい宗教や思想が生まれた。これらの新宗教は、バラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持された。こうして、1世紀頃には、バラモン教は、仏教に押されて衰退した。
    しかし、4世紀頃にバラモン教を中心に、インドの各民族宗教が再構成されて、ヒンドゥー教に発展し、継承された。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わったが、バラモン教やヴェーダでは、シヴァやヴィシュヌは脇役であった。このため、バラモン教は、古代のヒンドゥー教と解釈してもよいだろう。
    なお、バラモン教(英:Brahmanism、ブラフミンの宗教)という言葉自体が、実は英国人が作った造語である。それは、先ほど述べたように、仏教以前に存在した、ヴェーダに説かれる祭祀を行うバラモンと呼ばれる祭祀階級の人々を中心とした宗教のことを指す。
    また、英国人は、バラモン教の中で、ヴェーダが編纂された時代の宗教思想を「ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)」と呼んだ。これは、バラモン教とほぼ同じ意味だが、バラモン教の方が一般的によく使われる。
    そして、ヒンドゥー教(英:Hinduism)も、英国人が作った造語であり、すでに述べたように、インドにおいて、バラモン教が、民間宗教を取り込んで発展的に消滅して出来た後の宗教を指す。なお、インド人の中では、特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前はなかった。
    なお、ヒンドゥー教という言葉が、広い意味で使われる場合には、インドにあった宗教の一切が含まれ、インダス文明まで遡るものである。ただし、一般的には、アーリア人のインド定住以後、現代まで連続するインド的な伝統を指す。
    そして、バラモン教の思想は、必ずしもヒンドゥー教と一致していない。たとえば、バラモン教では、中心となる神はインドラ、ヴァルナ、アグニなどであった。ヒンドゥー教では、バラモン教では脇役であったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
    また、ヒンドゥー教でも、バラモン教と同様にヴェーダを聖典とするものの、二大叙事詩の『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』、プラーナ聖典、法典(ダルマ・シャーストラ)があり、さらには、諸派の聖典がある。


    4.仏教・ジャイナ教

    紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、バラモンを否定した新宗教が誕生するが、現在まで続いているのは仏教とジャイナ教だけである。
    仏教は、バラモン教の基本であるカースト制度を否定し、司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性を否定したが、釈迦牟尼(ゴータマ)の死後は、バラモン自身が、仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込み、バラモンの地位を確保しようした。
    同じように、仏教も、釈迦牟尼の死後は、バラモン・ヒンドゥー教の神を、仏法の守護神などとして取り込んで行った。こうして、仏教とバラモン・ヒンドゥー教は混合していった面がある。なお、その後の仏教は、イスラム教の侵入で、インド国内では完全に消滅したが、現代において、アンチ・カースト活動を背景として再興している。


    5.ヨーガの起源・原始ヨーガ

    ヨーガの起源には不明な点が多く、成立時期を確定することは難しい。紀元前2500年~1800年のインダス文明に起源があるとの見解もあるが、十分な証拠はない(遺跡の図画をヨーガの坐法と解釈した)。
    紀元前8世紀から5世紀には、ヨーガの行法体系が確立したと思われるが、ヨーガの説明が確認される最古の文献は、紀元前350年から300年頃に成立したと推定されるヴェーダ聖典の『カタ・ウパニシャッド』である。
    ヨーガは、解脱を目指した実践哲学体系・修行法である。心身の修行により、輪廻転生からの解脱(モークシャ)に至ろうとする。森林に入って樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは、紀元前に遡る古い時代から行われていたという。
    ヨーガの語源は、「牛馬に軛(くびき)をかけて車につなぐ」という意味の言葉(ユジュ)から派生した名詞である。ヨーガの根本経典として有名な『ヨーガ・スートラ』は、「ヨーガとは心の作用のニローダ(静止・制御)である」と定義しているから、牛馬に軛をかけてその奔放な動きを制御するように、人の身体・感覚器官・心の作用を制御・止滅するという意味であろう。
    さて、前に述べた通り、ウパニシャッドにも、ヨーガの行法がしばしば言及され、正統バラモン教では、六派哲学のヨーガ学派に限られずに行われた。祭儀をつかさどる司祭(バラモン)たちが、神々と交信するための神通力を得ようとしたともいわれる。そして、4~5世紀頃に、ヨーガ学派の経典『ヨーガ・スートラ』として、現在の形にまとめられたと考えられている。
    なお、この六派哲学とは、バラモン教において、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称であり、①ミーマーンサー学派(祭祀の解釈)、②ヴェーダーンタ学派(宇宙原理との一体化を説く神秘主義)、③サーンキャ学派(精神原理と非精神原理の二元論を説く)、④ヨーガ学派(身心の訓練で解脱を目指す)、⑤ニヤーヤ学派(論理学)、⑥ヴァイシェーシカ学派(自然哲学)である。
    なお、ヒンドゥー教では、これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカ(正統派、有神論者)と呼び、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などをナースティカ(非正統派、無神論者)として区別する。
    しかし、ヨーガの行法体系は、ヨーガ学派だけにとどまらず、正統学派全体さえも超え、インドの諸宗教と深く結びつき、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教の修行法ともなった。仏教に取り入れられたヨーガの行法は、中国・日本にも伝えられ、坐禅となった。仏教での漢訳語は瑜伽(ゆが)という。


    6.古典ヨーガ・ヨーガ学派

    そして、紀元後4~5世紀頃には、今日よくヨーガの根本経典・基本経典といわれる『ヨーガ・スートラ』が編纂された。紀元後3世紀以前という説もあるが、文献学的な証拠は不十分だという。編纂者は、ヨーガ学派の開祖ともされるパタンジャリといわれるが、実際には誰なのかはまだよくわかっていない。
    ヨーガ・スートラは、インドの六派哲学の一つである「ヨーガ学派」の経典であり、サーンキャ・ヨーガの経典であるが、四無量心などの仏教思想の影響も大きく受けた内容となっている。また、ヨーガの基本経典といっても、当時は多くの経典があったが、この経典だけが現存しているにすぎない。
    なお、ヨーガ学派は、ヨーガを初めて明確に定義した。サーンキャ学派と兄弟学派であって、ヨーガ学派は、その世界観の大部分をサーンキャ学派の思想に依拠している。すなわち、ヨーガ学派の行法実践を、サーンキャ学派の世界観が裏付ける形になっている。
    その経典が説く実践の内容は、主に、瞑想によって解脱を目指す静的なヨーガである。個々人の永久不変の本体である「真我」が、世界の万物から独立して存在する本来の状態(真我独存の状態)に戻って、解脱するとしている。
    具体的な修行実践としては、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、①ヤマ(禁戒・してはならないこと)、②ニヤマ(勧戒・すべきこと)、③アーサナ(座法・瞑想時の座り方)、④プラーナーヤーマ(調気法・呼吸法を伴った気の制御)、⑤プラティヤーハーラ(制感・感覚の制御)、⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)・精神の一点集中)、⑦ディヤーナ(静慮(じょうりょ)・集中の拡大)、⑧サマーディ(三昧・主客合一の精神状態)の8つの段階で構成される。
    この『ヨーガ・スートラ』に示される古典ヨーガは、今日では「ラージャ・ヨーガ」(王のヨーガという意味)とほぼ同義であるとされ、ラージャ・ヨーガが、古典ヨーガの流れを継承している。なお、この古典ヨーガ、八階梯のヨーガ、ラージャ・ヨーガの詳細に関しては、『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)に解説したので、それを参照されたい。


    7.サーンキャ学派とサーンキャ二元論

    サーンキャ学派の開祖は、紀元前4~3世紀のカピラとされる。その教義が体系化されたのは、3世紀頃の「シャシュティ・タントラ」とされるが、この文献は現存しない。サーンキャとは、知識によって解脱する道を意味している。これに対して、ヨーガは、行為の実習という位置づけがあり、サーンキャ(知識の実習)とヨーガ(行為の実習)を、共に解脱の道として、両者が結びついてセットとなった一面があったと思われる。
    サーンキャ学派の中心思想は、世界の根源として、プルシャ(精神原理・神我)とプラクリティ(根本原質・自性・物質原理)があるとする厳密な二元論である。
    プルシャは、本来は物質的要素を全く離れた純粋精神であり、永遠に変化することのない実体である。アートマン(我・真我)と同義と考えられる。プラクリティは、この現象世界の根源的物質であり、すべての現象は、プラクリティが変異したものとされる。
    そして、世界の全ては、プルシャがプラクリティを観照することを契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。具体的には、プラクリティには、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つのグナがあり、最初は平衡しており変化しないが、プルシャがプラクリティ=3グナを観照(関心をもって観察)すると、その平衡が破れて、プラクリティから様々な原理が展開し、意識、感覚器官、その対象など、世界が作られていくとする。
    そして、輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福は、プルシャ(自己)が、プラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(独存)だと考えた。
    前に述べたように、サーンキャ学派は、ヨーガ学派と対になっており、サーンキャ学派の思想は、ヨーガの行法実践を理論面から裏付ける役割を果たしている。ただし、両学の思想は異なる面もあり、ヨーガ学派は、最高神イーシュヴァラの存在を認める点が、サーンキャ学派と異なる。


    8.後期ヨーガ

    古典ヨーガが成立した後、ヨーガの中に様々な流派が成立した。主なものは、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、ハタ・ヨーガなどである。
    この中で、ラージャ・ヨーガが、サーンキャ・ヨーガ、古典ヨーガの系統をひくものである。それぞれのヨーガの流派の概略は、以下のとおりである。

    ①ラージャ・ヨーガ:
    古典ヨーガの流れを汲んだ、心理操作を中心とする瞑想ヨーガである。

    ②カルマ・ヨーガ:無私の行為・利他の奉仕を実践するヨーガ
    日常生活を修行の場ととらえ、見返りを要求しない無私の行為・利他の奉仕を行うヨーガである。

    ③バクティ・ヨーガ:神への信愛のヨーガ
    (人格)神を信じ愛する信仰のヨーガ。この実践者をバクタという。

    ④ジュニャーナ・ヨーガ:哲学的・思索のヨーガ
    高度な論理的な熟考・分析・思索によって、真我を悟るヨーガである。
    一般的に難易度が高いヨーガとされるが、うまく実践することができれば、最も高度なヨーガになり得るという見解がある。

    ⑤マントラ・ヨーガ:真言のヨーガ
    マントラ(聖なる言葉・真言)を唱えるヨーガである。
    主にサンスクリット語のマントラが広く用いられている。
    ⑥ハタ・ヨーガ:身体操作を用いる動的なヨーガ
    身体生理的操作から心理操作に入るヨーガであるが、後に詳述する。


    9.ハタ・ヨーガ

    この中でも、ハタ・ヨーガは最も新しいものであり、12~13世紀には出現したとされる。ハタ・ヨーガは、力のヨーガという意味であり、ヨーガの密教版ともいうべき内容のもので、12~13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータ(ヒンディー語でゴーラクナート)を祖とする。
    ただし、ハタ・ヨーガの経典となると、16~17世紀に出現した著名な『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』や、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』が最初のものとされる。
    このハタ・ヨーガは、サーンキャ・ヨーガとは大きく異なる性格をもっている。サーンキャ・ヨーガの修行は、主に心理的な作業が中心であるが、ハタ・ヨーガは、身体的な修行を心理的な修行の準備段階として重視し、その修練が中心となる。さらに「クンダリニー」という原理を重んじており、体内を流れるプラーナ(気・生命エネルギー)を重視する特徴を持っている。
    具体的には、アーサナ(体位法・体操)、プラーナーヤーマ(調息法・調気法・呼吸法)、ムドラー(印相(いんぞう)・クンダリニーを覚醒させる高度な行法)、シャットカルマ(浄化法)など重視し、サマディ(三昧、深い瞑想状態)を目指し、その過程で、超能力を追求する傾向もある。
    なお、ハタ・ヨーガの思想は、ヒンドゥー教のシヴァ派や、タントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説などと共通点が多い。具体的には、プラーナ(生命の風、気)、ナーディ(脈管)、チャクラ(ナーディの叢)が重要な概念となっている。
    このハタ・ヨーガの詳細に関しては、『ヨーガ・気功教本』(ひかりの輪刊)に解説したので参照されたい。
    なお、近代インドでは、ハタ・ヨーガは避けられてきた面があり、ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシらの指導者たちは、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガのみを語ったという。
    その背景の一つとしては、これは単なる推察ではあるが、ハタ・ヨーガの体系の中に、男女の性的な交わりを活用する、いわゆるタントラ・ヨーガ、仏教でいう左道密教・タントラ密教が含まれていることがあるかもしれない。ただし、ハタ・ヨーガの実践は、性的行為を不可欠とするものでは全くなく、先ほど述べた行法のみを実践することができる。
    一方、現在、「ヨーガ」として世界に広がっているのは、ハタ・ヨーガである。ただし、それは、20世紀に、インドにおいて、近代の西洋の体操を取り入れてアレンジしたものを「ハタ・ヨーガ」の名で世界中に普及させた結果という一面がある。このため、ハタ・ヨーガという名前自体は復権することとなったが、このハタ・ヨーガは、伝統のハタ・ヨーガとは似て非なるものである(場合がある)。


    10.クンダリニー・ヨーガ:ハタ・ヨーガの奥義

    さらに、ハタ・ヨーガの奥義とされるのが、クンダリニー・ヨーガである。クンダリニー・ヨーガの行法は、ハタ・ヨーガからタントラ・ヨーガの諸流派が派生していくなかで発達した。
    ムーラダーラという尾てい骨に位置するチャクラ(霊的なセンター)に眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中のナーディやチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガである。チベット仏教のトゥンモ(内なる火)などのゾクリム(究(く)竟(きょう)次(し)第(だい))のヨーガとも内容的に非常に近い。
    クンダリニー・ヨーガの効果は、他のヨーガに比較しても劇的な面があり、神秘的・超常的な体験・現象や身体的な変調・不調も経験することがある。よって、クンダリニー・ヨーガの実践は、自己流または単独実践は避け、師に就いて実践すべきであるとされている。師とは、単に知識豊富で多少の呼吸法ができる師のことではなく、自身がクンダリニーの上昇経験を持ち、かつそれを制御できる師のことである。


    11.ヴェーダーンタ哲学と結びつくヨーガ

    ヨーガの流派の増大は、ハタ・ヨーガをもってだいたい終息し、独創的な思想の展開は衰え、様々な流派・思想の折衷・調和が多くなり、流派的個性が薄れていった。
    そして、哲学においては、ヴェーダーンタ哲学が、インドの本流となり、ヨーガ行法も、ヴェーダーンタ哲学と結びつくようになり、古典ヨーガの哲学であったサーンキャ哲学からは離れていった。ハタ・ヨーガも、ヴェーダーンタ哲学に基づいたものとなっている。
    ヴェーダーンタ哲学は、前に述べた六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派の哲学のことである。この学派は、ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う哲学派であり、古代よりインド哲学の主流である。なお、「ヴェーダーンタ」は、「ヴェーダの最終的な教説」を意味し、ウパニシャッドの別名でもある。
    開祖は、ヴァーダラーヤナで、『ブラフマ・スートラ』『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を三大経典とする。そして、ヴェーダーンタ学派における最も著名な学者は、8世紀インドで活躍したシャンカラである。そして、彼が説いたアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)は、最も影響力のある学説となっている。


    12.梵我一如・不二一元論という思想

    不二一元論とは、ウパニシャッドの「梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)」の思想を徹底した思想である。この「梵我一如」の思想とは、梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想である。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。
    ブラフマンとは、ヒンドゥー教・インド哲学における宇宙の根本原理である。そして、これが自己の中心であるアートマンと同一であるとされるのが梵我一如の思想である。
    ヴェーダーンタ学派では、ブラフマンは、全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の真実、宇宙の源、神聖な知性として見なされ、全ての存在に浸透しているとされる。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は、ブラフマンの現われであり、ヴェーダの聖典において、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされている。
    そして、梵我一如を徹底する不二一元論では、世界のすべてはブラフマンであり、ブラフマンのみが実在すると説く。他の存在は、ブラフマンが「仮現」したものであり、実在はせず、そのように見えている(錯覚されている)にすぎないとする。
    アートマンとは、ヴェーダの宗教において、意識の最も深い内側にある個の根源を意味し、真我とも訳される。身体の中で、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)と考えられる。それは、主体と客体の二元性を超えており、そのため、アートマン自身は、認識の対象にはならないともいわれる。そして、ヴェーダの一部であるウパニシャッドでは、アートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。
    一方、仏教では、アートマン(我・真我)の存在は認めず、無我を説き、無我を悟ることが、悟りの道とされる。また、仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、これまで述べたように、本来のインド思想では、宇宙の根本原理であり、その後に特定の神の名前となったのである。