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特別教本:一部特別公開

2015~16年 年末年始セミナー特別教本 『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』第1章公開
(2015年12月19日)

2015~16年 年末年始セミナー特別教本

『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』


目次      購入はこちらから

教本の中の、「宗教」や「宗教的な内容」に関するご注意 ............ 4

第一章 仏陀の一元の智慧............ 5

1.悟りの智慧:常識の中の錯覚を超える............ 5
2.言葉にはデメリットがある............ 5
3.言葉を重視する西洋思想............ 5
4.仏教が説く言葉のメリットとデメリット............ 6
5.言葉によって名前が与えられた場合............ 7
6.感覚器官による区別の問題............ 8
7.人の五感と意識は錯覚を起こす............ 8
8.良し悪しの感じ方にも過剰な区別がある............ 8
9.良し悪し・苦楽も繋がっている:苦楽表裏............ 9
10.仏陀の智慧:二つのものは実は一つ............ 10
11.比較で生じる良し悪し・苦楽も、同時に生じる............ 10
12.比較による良し悪しの変化について............ 11
13.一元の思想・哲学............ 11
14.仏道修行の手印や座法が象徴するもの............ 12
15.一元思想の象徴である「輪」............ 12
16.一元思想と、仏教の「縁起の思想」との関係............ 13
17.一元思想と仏教の「空の思想」との関係............ 13

第二章 一元の智慧に基づく幸福の道............ 14

1.無智が不幸を、智慧が幸福をもたらす............ 14
2.無智について............ 14
3.無智と貪りと怒り............ 14
4.仏教の心理学:唯識思想............ 15
5.我愛(自我執着)と我慢(慢心)............ 15
6.我愛がもたらす様々な苦しみ............ 16
7.体の苦しみに関する考え方............ 16
8.苦楽表裏の教えの詳細............ 17
9.苦楽を表裏一体と悟る智慧がもたらす幸福とは............ 17
10.苦しみの裏側にある喜び............ 18
11.苦しみを和らげ、喜びを増やす具体的な実践............ 19
12.知足と慈悲・感謝と分かち合いによる幸福............ 19
13.我慢(慢心)のもたらす様々な苦しみ............ 20
14.優劣も表裏一体と悟る智慧による幸福............ 21
15.優れているとされる者が自戒すべきこと............21
16.自他一体の一元の智慧............ 22
17.智慧・慈悲と、無智・貪り・怒り............ 22

第三章 思考の叡智と無思考の叡智............ 24

1.言葉による思考のメリットとデメリット............ 24
2.言葉のメリット:差異の理解・分析・分別............ 24
3.言葉のデメリット:繋がりを見失う............ 24
4.実際より固定的な存在だと錯覚する............ 25
5.私などへの執着・嫌悪............ 26
6.良し悪し・善悪を表す言葉の悪影響............ 26
7.現代の問題点:言葉による思考のデメリット............ 27
8.西洋のロゴス・分析・自我の文明............ 27
9.東洋の無思考・無分別・無我の文化............ 28
10 言葉のデメリットを解く仏教............ 28
11.仏陀の教え:言葉・象徴・以心伝心............ 29
12.違いと繋がりの叡智の融合:智慧の本当の意味............ 29
13.思考と無思考の循環・バランス............ 30
14.陰陽のバランスの思想............ 30
15.いったん心を静めた上で考える............ 31
16.現代に広がる鬱病にも有効............ 31
17.心を静める修行法............ 32


第四章 最新:読経瞑想の解説............ 33

1.ひかりの輪の読経瞑想............ 33
2.「苦楽一体」について:苦楽は縁起............ 34
3.「苦楽一体」の二つ目の意味:苦楽は同根............ 34
4.「苦楽一体」の三つ目の意味:苦楽は循環............ 35
5.「万物感謝」について............ 36
6.この世界を仏の母胎の中、仏の道場と見る思想............ 36
7.「優劣一体・万物尊重」について............ 37
8.「優劣一体」の二つ目の意味:優劣は同根............ 37
9.他を教師および反面教師として学ぶ............ 38
10.「優劣一体」の三つ目の意味:優劣の循環............ 39
11.「自他一体・万物愛す」............ 40
12.自と他の真の幸福・真の価値も一体である............ 40


「ひかりの輪」基本理念 ............... 42

1,思想・哲学の学習・実践を通じて、社会への奉仕に努める ... 42
2,宗教ではなく、「宗教哲学」を探求していく ... 42
3,自己を絶対視せず、「未完の求道者」の心構えを持つ ... 43
4,感謝・尊重・愛の実践で、すべての存在に神性を見いだす ... 43
5,過去の反省に基づき、特定の存在を絶対視しない ... 44
6,善悪二元論の妄想を超えた、叡智・思想に基づく実践を行なう ... 44
7,諸宗教の神仏は、人に内在する神性を引き出す存在として尊重する ... 44
8,「輪の思想」で、すべての調和のために奉仕する ... 45


基本理念付帯文--オウム真理教の総括と反省 ............... 46

(1)人を神として盲信した過ち ... 46
(2)架空の終末予言、善悪二元論の世界観を盲信した過ち ... 47
(3)仏教・密教の誤った解釈・実践をした過ち ... 47
(4)この過ちの宗教的な責任の一端は、私たちにもあること ... 47
(5)一般社会に対して ... 47

 

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第一章 仏陀の一元の智慧


1.悟りの智慧:常識の中の錯覚を超える

   仏教が説く悟りの智慧(智恵)は、私たちの日常の観念を超えている面がある。これを言い換えれば、仏教の教えは、悟っていない人がなぜ頻繁に苦しむかというと、日常の常識的な観念の中に多くの錯覚があるからと説くのである。
   この錯覚を無智、すなわち、事物をありのままに理解できない意識の状態としている。一方、悟った人(仏陀)は、無智を滅して、智慧を得た者である。
   そのため、本稿では、皆さんが、これまでの学校教育や社会生活などの日常の中では、考えたこともなかった思想を紹介することになる。


2.言葉にはデメリットがある

   まず、言葉の功罪に関してである。私たちは、日常生活において、言葉を使って考え、言葉を使って他人と意思疎通を行っている。こうして、言葉は、私たちの思考と意思伝達の手段として、必要不可欠なものである。
   そして、ほとんどの人は、この言葉にメリットとデメリットの双方があることを考えることがない。言い換えれば、言葉を、必要不可欠であるだけでなく、気づかないうちに、デメリットのない完全無欠なものであるかのように信じている。
   さらに言えば、言葉による思考は、まさに自分自身となっている。気づかないうちに、絶対善であって、自分自身になっているのである。
   しかし、仏教思想は、言葉に功罪があるとする。言葉は、社会生活を送る上では必要不可欠であって、仏陀の智慧の一部でもあるが、しかし同時に、それはデメリットもあり、絶対善ではなく、盲信すべきではなく、自分自身だと考えるべきではないと言うのである。


3.言葉を重視する西洋思想

   常識的には、言葉と言葉による思考は、私たち人間と動物との、最も大きな違いの一つとされるものである。例えば、「人間は考える葦である」というパスカルの言葉は非常に有名である。
   そして、ご存じのように、現代の人類社会の常識は、西洋の近代思想の影響が非常に大きい。近代哲学の祖とされるデカルトは「我思う、故に我あり」と語った。彼は、ニュートンらと共に、キリスト教が中心のヨーロッパ社会から近代科学思想が生み出される上で、大きな役割を果たした。
   そして、デカルトは、理性を重視する哲学者らしく、いろいろなものを理性に基づいて疑うことを重視したが、「我思う、故に我あり」という言葉は、「今考えている私があることだけは疑えない」という意味があるという(そう解釈もできるという)。言い換えれば、「思考」と「思考する私」という存在を、絶対的な存在と見たとも解釈できる。
   しかし、後に述べるように、仏教の思想では、言葉、言葉による思考、私という存在も、絶対視しないのである。代わりに、思考や感情が静まった状態も重視し、私という存在は相対的なものであると説く。
   さて、西洋の文化の根底にある聖書を見ると、言葉の重視は際立っている。例えば、「はじめに言葉ありき」「言葉は神と共にあった」「言葉は神であった」などと述べられている。実際に、聖書には、神が言葉によって世界を創っていく様子が描かれている。こうして、言葉は、神格化さえされているのである。


4.仏教が説く言葉のメリットとデメリット

   一方、仏教を含めた東洋思想の中には、言葉と言葉による思考を絶対視しない思想がある。ではいったい、どんなデメリットが言葉にはあるというのだろう。
   そこで、仏教が説く言葉の功罪を私なりに表現すると、言葉によるデメリットは、言葉によるメリットの裏側にあり、それとセットなのである。
   まず、言葉のメリットとは、言葉によって、人は、この世界にある様々な「違い」を理解することができることである。この世界は多様であって、均一ではない。実に様々なものがあり、時とともに変化している。
   そして、この世界にある様々な差異を認識する上で、言葉は非常に重要である。言葉によって、私たちは、あるものと他のものを区別して認識する。例えば、自分と他人・他者、良いものと悪いものなど。
   そして、差異を認識することは、極めて重要な叡智である。近代の科学の発展も、まさに、この差異の認識=分析に基づいている。何が何の原因であって、何がそうではないか、何を変えれば何が変わり、何がそうではないか、という分析があってこそ、科学は成立する。
   また、高度な都市社会であればあるほど、多くの人が協調・共同して生きていくために、倫理的な視点からの物事の区別、すなわち、善悪の区別・分別が重視される。
   では、デメリットとは何か。それは、言葉を注意せずに使えば、色々なものが違うというだけではなく、「全く別のものである」という錯覚が生じて、事物の間の「繋がり」が理解できなくなるというのである。


5.言葉によって名前が与えられた場合

   例えば、言葉によって名前が与えられたものは、別の名前が与えられたものとは全く別のものと感じられ、その間の繋がりがわからなくなることは非常に多い。
   例えば、「自分」と「他人・他者」についても、そうである。注意深く観察すれば、自分の体は、外部の空気・水・食べ物によってできており、食べ物とは、他の生き物の体であったものである。その意味で、自分と他者は、全く別のものではない。
   科学的に見れば、他人の体を構成していた分子が、呼吸を通して外部に排出されて、同じ場にいる自分の体の中に入り、自分の体を構成するようになる。その逆もそうである。それが絶えず起こっている。
   人の体の分子は、数年ですべて外のものと入れ替わるとされており、その意味で、自分の体を構成する分子のすべては、他の人や生き物を含めた地球の環境と、完全に共有・交換している。
   その意味で、厳密には、自分だけの体などはない。どこまでが「私」で、どこからは「私ではない」という明確な境界も存在しない。「私」と「私以外のもの」は、全く繋がっているのである。
   しかし、日常の私たちは、自分と他人を強く区別して、自分を特別に愛している。これは、いわゆる、過剰な自己愛・エゴイズムの問題を生じさせる。これを言い換えれば、自分と他人を一体と悟る仏陀は、そのために、万人を(一体として平等に)愛することができるのである。
   そして、言葉による過剰な区別の問題は、すべての事柄に及んでいる。山と平地と言っても、両者の間に明確な境界はない。川と岸、海と陸、大地と空、地球と宇宙もそうである。
   生と死の境界も、本来は区別しがたい。どの状態までが生であり、どの状態から死かというのは厳密には区別できない。そのために、心臓死や脳死などの議論があって、あえて人工的に死の定義をしなければならない(そうしないと何が殺人罪かも定義できず、実際に問題が生じることがある)。
   生物と無生物の区分も難しい。一応、生物と無生物を区分する基準は色々と挙げられるが、なぜそれが妥当な基準なのかの根拠は不明確である。そもそも生物は、無生物から生まれたものである。だから、そうした基準は満たさないが、明らかに生物との関連性が深い、中間的な存在がある。
   こうして、私たちが日常、別々だと思っていたものは、言葉による思考の結果として、そう錯覚していただけにすぎず、よく考えれば、両者の間に境界はなく、本質的には繋がったもの、一体のものであることがわかる。


6.感覚器官による区別の問題

   こうして、言葉によって名前が与えられると、色々なものを別のものだと錯覚するが、この問題の原因は、言葉とそれによる思考だけではない。それに加えて、私たちの感覚器官が、色々な物事を、実際よりも区別して感じさせる面もある。
   例えば、視覚である。私たち人間の視覚は、現代の科学技術に比べると、物事を極めて大雑把にしか映し出さない。同じ場所にいる自分と他人が交換する、空気の分子の流れなどは全く見えない。そもそも、古代は、空気というものがあること自体が、明確には認識されていなかっただろう。
   自分の体の中に入った空気・水・食べ物が、自分の体の細胞を構成していく様子もわからない。口に入れようとする食べ物が、少し前に他の生き物の体だったことは、頭ではわかっているが、視覚的に全く見えない(過去は見えない)。
   こうして、人間の五感は、現代の科学技術のようには、物事を厳密に観察することができるものではなく、そのために、私たちの日常の感覚は、物事を実際以上に区別することを含め、様々な誤った認識をしているのである。


7.人の五感と意識は錯覚を起こす

   よって、仏教では、五感と言葉による思考をする意識によって、人は世界をありのままに認識することができなくなっていると説く。私たちが普段ほとんど疑っていない、私たちの五感と言葉による思考をする意識が感じているものが、実際の物事の在り方とは異なるということである。
   すなわち、「人の世界の感じ方」と、「世界の実際の在り方」は、別だと言うのである。強く言えば、人は、実際には存在しないものを感じているということになる。そのため、仏教では、人が、その意識(脳)で感じている世界は、マーヤ(幻影)だとも表現されることがある。
   実際にないものを意識(脳)が感じているならば、それは、意識(脳)の中にしか存在しない夢・幻とも似た性質を持つことになる(なお、実際には、夢・幻と同じではなく、一面において似ているということにすぎないので、この点は注意を要する)。


8.良し悪しの感じ方にも過剰な区別がある

   さて、人が、実際以上に物事を区別する、別物だと感じるという問題は、言葉で名前が与えられる場合だけではない。
   それは、良い悪いなど価値の判断、楽しい・苦しいの苦楽の感覚などもそうである。言葉で言えば、名詞だけではなく、形容詞に関係する事柄である。
   私たちは、日常生活において、良い人・物、悪い人・物という区別をよくしている。しかし、よく考えてみれば、良し悪しに明確な区別はない。
   実際に、辞書を見れば、「良い」とは、「物事が質的に他よりすぐれまさっている」などと定義されている(『広辞苑』第4版・岩波書店)。すなわち、人が何かの良し悪しを決めているのは、他の何かとの比較の結果なのである。
   これは、人によって、同じ対象の評価が異なる理由の一つであり、また、同じ一人の人の中で、時とともに、同じ対象の評価が変化する理由の一つでもある。
   例えば、毎月20万円の給料を良い給料と感じるか、悪い給料と感じるかは、例えば、それまでに自分がもらっていた給料や、自分に近い人たちの給料と比較して、それよりも多いか少ないかによることが多いだろう。
   だから、人によって、20万円の給料が、悪い給料にも、良い給料にも、良くも悪くもない給料にもなる。
   また、同じ一人の人の中でも、給料が15万円から20万円に上がった時には、良いと思うだろうが、その後しばらくして慣れてくると、良くも悪くもないと感じるようになって、25万円に上がって慣れた後に20万円に下がれば、前とは違って、悪いと思うだろう。


9.良し悪し・苦楽も繋がっている:苦楽表裏

   これは、良し悪しも全く別のものではなく、繋がっていることを示している。なぜならば、20万円から25万円に上がった時に、それを良いと感じる(喜ぶ)からこそ、その後に20万円に下がった時には、それが悪いと感じる(苦しむ)からである。そもそも25万円に上がることがなかったならば、同じ20万円を悪いと感じることはない。
   言い換えれば、良い(楽しい)と思った時に、将来に悪い(苦しい)と思う原因が作られている。これは、お金に限らず、名誉・地位・異性など、すべてにあてはまることだ。わかりやすく言えば、1階から2階に上がれば、見晴らしは良くなり気分は良いだろうが、落ちれば怪我をする可能性があるのと同じである。
   そして、喜びを感じている時に、気づかないうちに、その裏側で苦しみの原因が作られているという理由は、何かを得た後に、それを失う可能性があるからだけではない。
   何かを得て喜んだ後には、それに慣れてしまうと何も感じなくなるので、「もっと得よう」という欲求が生じる。つまり、欲求には際限がないのである。しかし、実際には、それが得られない場合があるから、それが苦しみとなる。
   さらに、際限なく求めれば、必然的に他との奪い合いが深まることになって、それによっても苦しむことがある。こうして、何かを得て喜ぶ裏側には、得たものを失う苦しみや、求めて得られない苦しみや、奪い合いの苦しみがある。このことを仏教では、苦楽表裏と説く。
   ところが、普段の日常の私たちは、良いもの・悪いもの、楽しいもの・苦しいものが、全く別のものだと感じており、その間の繋がりを十分に感じていない。そのために、先ほど述べたように、際限のない欲求、貪りが生じて、他と奪い合い、苦しむのである。
   そして、これも、人の世界の感じ方が、実際の世界の在り方と異なるという教えの一部である。


10.仏陀の智慧:二つのものは実は一つ

   仏教では、仏陀の智慧は、普通の人には二つの別のものに見えるものが、実は一つであり、同時に生じるものであることを理解すると説く。これは、仏教の教え、その悟りの哲学の、まさに中核である。
   先ほど述べたように、自分と他人を含め、世界の中で、全く別々のものは存在せず、何事にも明確な境界はなく、物事の間には、何かしらの繋がりがある。その意味で、世界は、実際には、一体であるということもできる。
   しかし、私たちが、「自分」という言葉を使って思考すると同時に、私たちの意識の中には、「自分」と「自分以外のもの」の両者が現れる。こうして、「自分」と「自分以外のもの」は、実は一つであり、両者が現れるのは、同時である。


11.比較で生じる良し悪し・苦楽も、同時に生じる

  また、良し悪し、苦楽も同じである。
   前に述べたように、良し悪し、苦楽は、比較で生じる。だから、比較の対象がなければ、生じない。実際に、人は、一つしかないものに、良し悪しは言わない。「良い地球・宇宙」とか、「悪い地球・宇宙」とは言わない。二つ以上あるものにしか、良し悪しは言わない。
   そして、給料に関して検討したように、何かを良いと感じた時に、そうではないものを悪いと感じる原因が生じ、逆に何かを悪いと感じた時に、そうではないものを良いと感じる原因が生じる。
   言い換えれば、二つだけしかないものに関しては、その一方を良いとしながら、他方を良くも悪くもない(ないし普通のもの)とすることは通常はない。三つあれば、良い、悪い、普通と区別することがあるが、二つだけしかなければ、たいてい良い・悪いの区別となる。
   こうして、良し悪しや苦楽も、セットで生じていることがわかる。この意味で、両者は本質的に一体であり、同時に生じているのである。


12.比較による良し悪しの変化について

   こうして、良し悪しは、比較によって生じるため、今、何かを悪いと感じていても、それ以上に悪いと感じるものと比較するようになれば、良いと感じることになる。今、悪いと感じていなくても、それ以上に悪くはないものと比較するようになれば、悪く感じる。
   ある私の知人は、最近、職場で、以前は悪いと感じなかった人を悪いと感じるようになった。相手は何も変わっていない。変わったのは、その人以上に悪いと感じていた人が、退社していなくなったことであった。
同じように、何かを良いと感じていていも、それ以上に良いと感じるものと比較するようになれば、悪く感じる。良いと感じていなくても、それ以上に良くないものと比較するようになれば、良いものと感じる。
   ある私の知人は、高校時代からある女性と同級生だったが、高校時代は美人とされていなかった彼女が、同じ大学に進学した後は、美人としてもてはやされることを経験した。
   こうして、良し悪しは比較で生じているので、厳密に言えば、絶対的に良いものとか、絶対的に悪いものというものは、存在しないことになる。


13.一元の思想・哲学

   こうして、私たちが日常では別と感じている二つのものが、本質的には一体であり、同時に生じていることがある。こうした世界観を「一元」「一元の哲学・思想」など呼ぶことがある。
   なお、注意すべきは、これは、世界は皆同一である、という思想ではない。よって、単純に、自と他や、良し悪し、善・悪、苦・楽などがない、というだけの暴論では決してない。仮にそうした思想があれば、それは一元ではなく、「同一論・均一論」とも言うべきものだろう。
   ここで言う「一元論」とは、世界は多様であって、様々な差異があるものの、同時に繋がりがあって、本質が一つである、ないしは根源が一つである、といったほどの意味である。言い換えれば、世界の中の様々な差異を理解しながら、同時に、その間の繋がり・一体性をも理解することである。


14.仏道修行の手印や座法が象徴するもの

   さて、これまで述べてきた仏陀の智慧、一元の智慧に基づいて、手印について述べておきたい。
   手印とは、仏陀の悟りを象徴する手の印といったほどの意味で、手によって、仏陀の悟りの内容を象徴したものである。
   例えば、皆さんがお寺の仏様(仏像)を前にして合掌するが、これも手印の一つである。合掌は、指を伸ばして、手のひらを合わせるが、指を組んで、掌を合わせる手印もある。
   また、禅でよく見られるように、両手を重ねて、足の上に置くものもある(仏陀の禅定=瞑想の印として、定印(じょういん)ともいわれる)。
   これらの手印は、二つの手を一つにしていることが多い。そうではなくても、指で輪を作っていることが多い。
   私の解釈では、これは、仏陀の悟りの境地、悟りの智慧が、先ほどから述べているように、二つのものが本質的には一つであることを悟った一元の智慧であることを象徴するものだと考えている。
   右手と左手をそれぞれ、苦と楽、善と悪(良し悪し)、自と他を象徴すると考えれば、合掌は、まさにそれらが表裏一体であることを示している。仏教が説く、苦楽表裏の教えを見事に象徴している。
   さらに、瞑想のための座法も、たいていは、両足を一つにまとめている。蓮華座(パドマアーサナ)は、両足が交差する形で、完全に一体化しているし、達人座(シッダアーサナ)も両足を重ねて一つにしたものである。
   これもまた、手印とともに、対極的な二者が、実は一つのものであることを象徴しているのではないかと思う。


15.一元思想の象徴である「輪」

   そして、手を合わせると、両腕が輪を作ることになる。特に、両手を重ねて脚の上におけば、前から見れば、両手が見事に輪を作っている。
   このように、二つのものが一つであるという一元の思想の重要な象徴が「輪」である。これが、「ひかりの輪」の団体名の由来の一つである。
   ひかりの輪では、輪は、「万物・森羅万象が、輪のように本質的に一体であり、皆等しく尊いこと」を象徴するものだと考えている。
   さらに、輪は、単純に、二つが一つ、万物が一つ、という意味ではない。輪には、車輪という意味もあり、循環という意味がある。すなわち、二つのものが、循環しているという意味がある。これらの詳細については、後に述べることにしたい。


16.一元思想と、仏教の「縁起の思想」との関係

   これまで述べてきたことは、実は、仏教の中核の思想とされる「縁起」と「空」の思想と、本質的に同じことである。これについて多少説明する。
   縁起の法とは、事物が「条件によって生じる」という意味である。「縁」が条件という意味で、「起」は生起という意味である。
   「条件によって生じる」とは、「無条件では生じない」、「(条件となる)他に依存して生じる」ということだから、「自分だけでは存在しない」「他から独立して存在しない」という意味になる。
   そして、万物が、他に依存して生じていることを言い換えると、万物は、相互に依存し合って存在しており、繋がっている、一体である、ということになる。こうして、縁起の法は、万物が一体であるという一元思想であることがわかる。
   例えば、良し悪し、苦・楽は、縁起しているものである。すでに述べたように、それは、比較によって生じ、比較する対象が変わると感じ方が変わり、さらに突き詰めれば、両者はセットで生じているのである。
   よって、良し悪し、苦・楽は、条件によって生じ、両者は相互に依存し合っているということができる。


17.一元思想と仏教の「空の思想」との関係

   次に、仏教が説く「空の思想」との関係である。空の思想とは、事物に「(固定した)実体がない」という意味である。
   これは、縁起の思想と不可分である。事物が、条件によって生じるならば、条件が変われば、生じていたものがなくなる、変わることになる。すなわち、固定した実体はないのである。
   そして、良し悪し、苦・楽も、空である(固定した実体がない)ということができる。先ほど述べたように、比較の対象が変われば、良いと感じたものが、悪いと感じるようになり、その逆もまたあるからである。
   これを理解することで、苦しみを和らげたり、喜びを増やしたりすることができる。この点に関しては、次の章で詳しく検討することにする。

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