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2014年08月

  • 2014年夏期セミナー特別教本『仏教思想の幸福の智慧  智慧と慈悲、縁起と空、苦楽表裏』第1章公開 (2014年08月15日)

    第1章 仏教が説く無智と智慧とは何か


    1.無智とは


      仏教では、すべての苦しみの原因を無智(無明)などの言葉で表す。無智とはいろいろな解釈があるが、わかりやすくいえば、現象をありのままに見る・感じることができない状態をいう。しかし、以下では、この無智に関して、興味深いいくつかの具体的な見解を紹介して、仏教が説く幸福の智慧(智恵)を学びたいと思う。


    2.縁起・空を理解しない状態

      無智が現象をありのままに見ることができない状態だとして、逆に現象をありのままに見ることができる状態=智慧とは何なのか。これについては、よく縁起ないし空という言葉を用いて説明される場合が多い。
      縁起とは、因縁(いんねん)生起(しょうき)の略であるが、縁が条件、起が生起という意味なので、全体として、「条件によって生起する」といった意味になる。よって、縁起の法とは、「この世界の事物が条件によって生起している」という教えである。そして、これを理解できている状態が智慧の状態であり、逆にいえば、理解できない状態が無智の状態である。
      では、「条件によって生起する」とは、どういう意味かというと、わかりやすくいえば、「あらゆる事物は、無条件では生起しない」、「何か他に依存して生起している」という意味である。よって、さらにわかりやすくいえば、「この世界の事物はすべて、相互依存によって存在し、他から独立してそのものだけで存在するものはない」という程の意味になる。これは、言い換えれば、「万物は何かしらつながっており、本質的には一体である」という意味になる。
      そして、縁起と結びつくのが「空」という概念である。空とは、「実体がない」といった程の意味である。より詳しく表現すると、「固定した実体がない」、「他から独立した固定した実体がない」といった程の意味になる。
      そして、縁起しているものは空である、と仏教は説く。すなわち、「相互依存しているものは、(他から独立した固定した)実体がない」、という意味である。なぜそうかというと、相互依存し、他に依存しているものは、他が変化すれば、自分も変化するからである。
      そして、特に大乗仏教では、この世の一切は実体がないと考え、「一切皆空」という思想がある。なお、縁起と空の関係については、ほかにも深い意味があるが、それは後に説明する。
      そして、この世界は縁起しており空である、という認識がある意識状態が、智慧が生じている状態であり、そうでない意識状態が、無智の状態ということである。


    3.根本無智:本来の状態を見失っている状態

      仏教の宗派の一つには、無智の中で、根本無智という概念を説くものがある。この場合の根本無智とは、表現が難しい。それでもあえて表現すると、「本当の自分の意識が、自分自身を見失っている状態」とも表現することができるだろう。
      ただし、この表現は多分に、皆さんのイメージ的な理解を促すための方便の一面がある。
    例えば、ここでの本当の自分、本来の自分とは、ヒンドゥー・ヨーガが説く永久不変の自分の本質とか、真実の自分といった意味を持つ「真我」という概念とは異なる。真我とは、わかりやすくいえば、自分の永久不変の霊魂のようなものである。
      仏教では、真我は説かずに、その存在を否定することが多い。先ほど述べたように、この世界の万物は、縁起=相互依存しており、空=固定した実体がない。よって、私の中にも、他者・万物から独立しており(=相互依存していない)、永久不変な(=固定した実体がある)存在はないと考える。
      難しいことはともかくとして、本当の自分の意識が自分自身を見失っている状態だという以上、根本無智とは、わかりやすくいえば、本当の自分自身を知らない、本当の自分自身に対する無智という意味合いを持つ。私たちは、本当の私たち自身を見失っているというのだから、これは、ある意味では驚くべき思想である。
      では、本当の自分を見失っているというのはどういうことなのかについて説明することにする。それは、いくつかの喩えによって説明する。


    4.夢や映画の喩え:本来の自分を見失った状態

      現実の世界と同じように、夢の中でも、私たちは、私たち自身と他人を経験する。しかし、それが夢だと気づくならば、それまで私だと思っていた夢の中の私は、本当の私ではないことに気づく。夢の中の私から自分の意識が遠のき、同時に、夢全体が自分が作ったものだという認識が生じる。
      これは、夢だと気づく前は、本当の私が夢の中の私と一体となっていたところ、夢だと気づいた段階で、その二つが分離し始めたということもできる。本当の私が、本当の私ではないものに執着し、一体化していたところ、それが解消されたとも表現できるだろう。
      そして、これは、仏教が説く悟りの状態と似通っている一面がある。仏教の悟りとは、私たちが「私」と呼んでいるものに対する過剰な執着(自我執着)を弱め、自と他がつながっていることを悟り、万物を愛することだとも表現できる。「私」だけを偏愛せず、「私」と他者・万物が一体であると悟って、万物を愛する状態である。

      もう一つ別の喩えがある。それは映画を見る人である。映画を見ている時、人は、その映画の主人公に感情移入し、一体化して、主人公とともに一喜一憂することがある。あたかも、自分が映画の主人公になったかのように喜び悲しむ。しかし、映画が終われば、我に返り、主人公から意識が離れて、本来の自分自身に戻る。場合によっては、映画の最中に、何らかの理由で、我に返る場合もある。
      そして、インドの思想家の中で、この世界を神の作った三次元立体映画のようなものだと説く人がいる。その中には、私や彼など、さまざまな登場人物がいる。そして、私たちは、本来は、その映画を見ているだけの存在なのに、その映画の中の「私」という登場人物と一体化し、「私」を偏愛しているというのである。

      もちろん、これらは喩えである。現実の世界は、夢や映画とまったく同じではない。しかし、現実の世界が、夢と似た一面を持っているというのである。それは、現実の世界でも、私たちの本来の意識は、私たちが普段「私」と呼んでいる「私の心や体」とまったく同じものではないというのである。
      これを言葉で表現するのは難しいが、本来の私たちの意識とは、普段の私たちの意識・心とは違って、「私」だけを偏愛し、欲張ったり怒ったりするものではなく、静まった、広がった、温かい意識である。言い換えれば、「私」を偏愛した意識、自我執着に基づく思考や感情ではなく、自と他を区別しない、静まった、広がった、温かい意識である。


    5.仏教と心理学の一致点:
    普段の自分の思考と感情は、本当の自分ではない

      さて、少し脱線するが、心理学の心理療法の分野においても、自分の思考や感情を本当の自分とせずに、それを冷静・客観的に見つめることで、鬱やストレスが解消するという見解がある。マインドフルネス認知療法というものである。
      認知療法では、ストレスや鬱の強い人の原因が、その人の思考が極端に否定的であることにあると考える。そして、その思考をバランスのとれたものに修正していくことが重要だが、普段、いろいろな体験をした時の私たちの思考と感情は、私たちの合理的な判断によって生じるのではなく、過去の習慣などによって自動的に生じるものであり、多くの場合、私たちの意識は、その思考や感情と一体になって、それに巻き込まれている。
      よって、マインドフルネス認知療法では、一定の手法によって、心を鎮める訓練を行い、その後、自分の思考や感情を冷静・客観的な視点から観察すること、すなわちよく気づく訓練をする(=マインドフルネス)。これは自分の思考や感情を観察する自分を作ることであり、自分の認知を観察するメタ認知ともいわれる。言い換えれば、自分自身と、自分の思考と感情が一体化していたところに対して、両者の脱一体化を図るのである。そして、この脱一体化が始まると、心理療法の経験では、症状が和らぐという。
      そして、普段の自分の思考や感情を本当にあるべき自分の意識ではないと考える思想は、仏教の無我・非我の思想・瞑想や、四念処・五蘊無我の瞑想などにある。実際に、マインドフルネスという言葉は、仏教の「念」という言葉から来ている。西洋現代の心理学者が、仏教思想に心の問題の解決のヒントを見出したのである。彼らにとっては、仏教の教えの一部は心理学・心理療法であり、ブッダは心理療法家とも位置付けられているという。
      それでは、再び話を元に戻し、本来の自分の意識が、自分自身を見失ってしまった結果、どういうことになるかについて述べる。


    6.根本無智から派生した無智:自と他を区別する意識

      その本来の意識が自分を見失ってしまうと、私たちの心には自と他の区別が生じ、他よりも自己を偏愛する状態(自我執着)が生じる。この「自と他を区別する意識」は、あらゆる煩悩の源になるので、これを無智と呼ぶ場合も少なくない。
      自と他を区別する無智の意識状態は、どういったものか。それは、自分と他者が別物であり、なおかつ自と他それぞれが固定的なものに感じられている。すなわち、縁起や空の理解が失われている。
      縁起や空を理解する智慧とは、万物が相互依存であり、固定した実体を持たない、というものであった。自と他は相互依存でつながっており、自と他双方とも、必ず死ぬように、固定した実体はない。こうして、自と他が一体であり、両者とも固定した実体がないと悟っている場合は、人は、自分だけを過剰に偏愛したり、自分のために(他と争って)多くのものを得たりしようとはしない。よって、欲や怒りが生じない。
      なぜならば、自分には実体がないと感じているから、自分だけを過剰に偏愛しないし、さらには、自分は他者と別のものではなく一体であると感じている。また、自分だけではなく、他者万物に実体を感じなければ、自分のために何かを得ようとする意識も生じない。

      しかし、自と他が別物であり、それぞれに実体があると感じ、自分を偏愛する意識が生じると、その自分のために、他者・外界の中で、好ましいと感じるものが生じて、それを欲し、好ましくないと感じるものが生じて、それを嫌う心が生じる。
      これは、夢や映画の喩えを逆のプロセスで考えるとわかる。夢の中で、それが夢だと気づいていた人が、再び夢であることを忘れてしまうと、どうなるか。するとやはり、夢の中の私と一体化し、夢の中の私を過剰に偏愛し、場合によっては、夢の中の他者と相争う(という内容の夢を見ることになる)。
      しかし、それが夢だと気づいていた時には、夢の中の私と他者は、別々のものではなく、すべては自分の夢の一部として一体である。そして、そのどちらにも実体は感じないから、自分だけを偏愛したり、その夢の中の何かに強く執着したり、嫌悪したりすることはない。


    7.現実と夢や映画の喩えとの違い

      なお、現実と、夢や映画の類似性を指摘したが、当然異なる部分がある。それは、夢を見ている人は、それが夢だと気づいた後まもなく、夢から覚める。すなわち、夢を見ることをやめる。映画も同様である。
      しかし、悟りによって現実が夢に似た側面があると気づき、本当の自分の意識が目覚めたとしても、現実の体験をやめることはできない。厳密にいえば、それをやめるのは死を迎える時である。その意味で、現実は長い夢のようなものだという人もいる。
      しかし、それも長い夢と似ているというだけであって、長い夢と同じではない。自分の夢は、自分が目覚めればなくなるし、なくなってもよい。しかし、現実世界で悟り目覚めたとしても、現実世界がなくなれば、悟り目覚めた自分自身も同時になくなってしまう。
      先ほど真我との違いの所で述べたように、ここでの本当の自分の意識とは、この世界と別に存在している絶対的な存在ではなくて、あくまでもこの世界と共に、相互依存しあって存在するものである。
      また、夢の世界は、自分が目覚めれば消えてなくなるが、現実の世界は、自分が死んでも、他に生き続ける人がいて、延々と続いていく(こう考えるのが普通である)。



    8.自我執着を弱めるとともに慈悲を培う

      ここで、仏教などの教えが、現実と、夢や映画との類似性を説く目的は、執着を弱めるためである。特に、「私」と「私のもの」に対する過剰な執着である。私と私のものへの執着を、仏教では、それぞれ「我執(がしゅう)」や「我(が)所(しょの)執(しゅう)」ともいう。
      私に過剰に執着し、私のものを過剰に増やそうとすれば、その裏側にさまざまな苦しみが生じる。この点については、後にあらためて検討するが、苦しみが生じるゆえに、私や私のものへの過剰な執着を弱めようとして、夢との類似性を説くのである。
      そして、重要なこととして、仏教が説くのは、過剰な自我執着を弱めるだけではなく、万人・万物への愛、すなわち慈悲を説くということである。「私」だけに執着せずに、「万人」を愛しましょう、ということである。こうして、この世界は夢のようなものであるからといっても、この世界が無価値であるとか、空しいとか、否定したり、破壊したりしてよいということではないのである。
      そのため、仏教の修行では、①無智を乗り越えて縁起や空を理解した智慧と、②大慈悲(四無量心)の二つの実践が重要だといわれることが多い。


    9.ブッダとは目覚めた人という意味

      これらの教えを理解すると、サンスクリット語のブッダという言葉が、目覚めた人という意味を持つことが理解しやすいだろう。というのは、悟りというものの本質が、現実の世界に、夢との類似性があることに気づくことを含んでいるからである。
      ないしは、夢から目覚めるのと似たように、悟りの状態にも、見失っていた本来の自分自身を取り戻すといった意味合いがあるからである。
      さらには、悟りとは、新しい意識の目覚めではあるが、それは、そもそも存在しているにもかかわらず、悟るまでは見失っていたものであると考えるので、その意味でも、目覚めた、という言葉がよく合っているということができる。

     

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