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特別教本:一部特別公開

2009年2月セミナー特別教本「大乗仏教の思想 正観、唯識、内観、願望成就」第1章公開
(2009年2月28日)

第1章 正観の瞑想:仏教の基本

1.すべては無常である

  ※諸行無常、苦楽表裏、四苦八苦(大乗仏教で説かれる教え「三法印」の3つ)

  生まれたものはすべて滅する。すべての生き物は、生まれても、必ず老い病み死ぬ。幸福・不幸も無常である。
  すべての煩悩による楽も、苦しみに変わる。求めて得られたら、もっと欲しくなり、際限がなく、得られなければ苦であり、失うときも苦であり、奪い合う敵と会うのも苦である。すなわち、苦楽表裏、四苦八苦である。
  また、すべては無常であるがゆえに、すべては平等である、すべての生き物、すべての幸福・不幸は、無常であるという点において変わらず、その意味で、すべては大差なく、平等である。


2.すべては空である

  ※三法印の諸法無我、十二支縁起、大乗の一切皆空、唯識の阿頼耶(あらや)識(しき)縁起(えんぎ)

  私たちが現実と呼ぶものはすべて、五感や言葉による思考が作り出した幻影である。私たちと違った五感や思考を持っている生き物には、同じ世界がまったく違って見えるし、電子顕微鏡には世界はすべて原子・分子の渦と見え、赤外線をとらえる眼には夜空が明るく見える。
  こうして、現実とは、外部に存在するものを感じた結果ではなく、それぞれの生き物が、それぞれの五感や思考に基づいて、さまざまに体験する、自分の脳内のデータにすぎない。
  自分の脳内のデータの体験にすぎないから、時には、夢の中でも、起きている時と同じような現実的な体験をする。起きている時と違って、五感は外界をとらえていないが、起きている時と同じように脳内のデータを体験するならば、同じような現実的な体験が現れる。これは夢見のヨーガの悟りである。
  言いかえれば、そこにはスクリーンしかないのに、映し出された映画の情景が実在すると錯覚したり、そこに水しかないのに、湖面に映る景色が実在すると錯覚したりするように、脳内に映し出された三次元立体映画の映像を実在するものと錯覚しているのである。
  こうして、私たちが経験する現実とは、十二支縁起が説くように、無明に基づく五感と意識(=六処・六識)に依存して生起している(縁起している)ものにすぎず、実体がない(空である)。ないしは、唯識が説くように、阿頼耶識に基づく五感と意識(前五識と意識・六識)に縁起しており、空なのである。
  そして、無智・無明とは、五感と言葉による思考の結果、実際には心の中の(脳内の)データに過ぎないものを外部にあって実在するものだと錯覚することであり、それに執着して、貪り・怒りをはじめとする煩悩を生起させることである。


3.存在の真実は、そして真の幸福は、涅槃の寂静、空性にある

  ※三法印の涅槃寂静、大乗仏教の空性・唯識の阿摩羅識、原始仏教の無我・非我

  諸行無常や諸法無我を修習し、外界・対象に実体を錯覚する無智を滅して、貪り・怒りが静まり、三毒を滅すると、涅槃の寂静の境地に至る。
  瞑想によって、五感と思考の動きを止めて、深い意識に入るならば、そこには、いかなる姿形も現れず、自と他・内と外の区別もなく、時間感覚も消えた、寂静の無限の空間がある。
  これが釈迦牟尼の説いた涅槃、仏教が説く空性の体験・仏陀の境地と言われるものであり、本当の楽、涅槃の真楽と言われるものである。


4.すべては相互に関連している

  ※重々無尽縁起(法界縁起)、如来蔵縁起(真如縁起)

  私たちの日常の意識には、自と他は区別されて現れる。しかし、これは、私たちの五感と日常の思考が作り出している錯覚にすぎない。五感には、自と他が別のように映し出されて、それに対して、日常の思考が、そのおのおのに別々の名前をつけて、区別しているので、自と他が別のものだと錯覚しているにすぎない。
  しかし、実際には、この宇宙の一切は、相互に深く結びついており、一体である。これは、最新の科学である量子力学が説いている真実である。すべての物質は波動を有し(物質波)、その波動は宇宙全体に広がっており、さらに、物質の最も微細なレベル=量子は、人が観測する前は波動であるのに、観測しようとすると、波動から粒子に収縮するとされる。よって、宇宙のすべての存在は、波動として宇宙全体に存在し、一体である。
  量子力学よりも粗雑なレベルでも同様である。分子生物学は、私たちの肉体の内と外の間には、絶えず分子の出入り・循環があり、自分だけの体の分子などまったくなく、年単位ですべての分子が入れ替わり、肉体が地球の生命圏と不離一体であることを示している。空気、水、食べ物などの分子が、肺や皮膚の呼吸、飲食、発汗、排泄等の作用によって、出入りしているのである。
  こうして、すべての生き物は、宇宙・地球という巨大な生命体の細胞のようなものであり、万物とともに生存している。万物に支えられ、万物のおかげで、生存している。よって、私たちは、すべての衆生に、万物に感謝するべきである。
  また、分子に限らず、人の精神も、個々人でバラバラではない。現代では、言語による絶え間ない情報の交換がなされており、自分だけの考えや、他人だけの考えなどあり得ないし、言語を超えて、以心伝心、社会の空気などと言うように、精神が直接的に連動することも起こっている。
  そして、万物は、仏陀とつながっている。釈迦牟尼のような諸仏も、すべての生き物とつながって生き、その体の一部だった分子は、今も地球の全体を循環しており、いかなる者も諸仏とつながっている。
  さらに、仏陀の本体が法であるならば、法に基づきすべての現象が生じる大宇宙は、すべて仏陀の現れであって、こうして、大宇宙を仏の現れと見るならば、すべての生き物は、その仏陀の一部であり、その本質は仏陀であり、皆が未来の仏陀である、と説く仏性・如来像の思想が導き出される。


5.すべては心の現れである

  ※縁起の法・因果応報・自業自得、唯識思想

  自分の体験する現実は、自分の六識(五感と意識)が作り出す体験であり、その意味で、心の現れであり、実体がない。

  次に、自分が感じる幸福・不幸も、三毒(貪り・怒り・無智)に縁起した、心の現れであり、実体がない。同じ条件でも、欲求の強い人には、苦しみとなり、欲求が少なければ、喜びとなるように、苦楽は心の現れである。
  また、以前より良い条件を得れば、喜びを感じるが、慣れると喜びは感じなくなり、逆に、もっと欲しいという苦しみが生じ、ましてや慣れたものを失えば、以前に戻っただけにすぎないのに、大いに苦しむ。こうして、苦楽は、心の現れであり、実体がない。
  ここで欲求が強いとは、善行が少なく悪行が多い結果であり、その場合、喜びが少なく苦しみが多くなり、欲求が少ないとは、善行が多く悪行が少ない結果であり、その場合、喜びが多く苦しみが少ない。これが、因果応報・自業自得の法である。

  そして、他人と自分の関係においても、お互いがお互いの心の現れ=鏡である。私たちの日常の意識では、自分と他人は大きな差異があるように感じている。しかし、それは、無智によって、現実に実体を錯覚しているからである。
無智を超えた仏陀の視点から見れば、衆生はすべて、現実とは虚像のように実体がない幻影なのに、それに引きずられ、輪廻の鎖の輪を浮沈しており、その無智においては、人間の間はおろか、人間と他の生き物の間にも大差はない。無智の中のすべての衆生は、皆が、大差ない盲目の亀にすぎず、すべては仏陀の手のひらの存在なのである。
  ましてや、私たちが見る身の回りの人たちは、同じ人間の五感を持ち、同じ言語で思考しており、その五感と思考が映し出す、非常に似通った現実という幻影にとらわれているのだから、それだけで、非常に似通っているのである。
  そして、私たちが、十分に内省すれば、他人の悪行・善行が、自分の顕在的ないし潜在的な悪行・善行の投影であることがわかる。すなわち、カルマ・ヨーガ、すべての衆生は、自分の鏡であり、仏・法の現れである。
  この理解を阻むものは、現実に実体を錯覚する無智を根本として、自と他の区別をなして、プライド・闘争心・嫉妬心にとらわれた結果、自分の悪行を見ることを避けたりすることを含め、自分と他人をありのままに見ることができない意識の状態である。よって、これを努めて乗り越えるならば、他人が自分の鏡であることが理解される。

 

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