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特別教本:目次公開

2013年GWセミナー特別教本 『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』
(2013年09月17日)

《改訂版》2013年GWセミナー特別教本
『現世幸福と悟りの集中修行 不動心・人間関係・健康・自己実現』

■目次 ★第1章をご紹介              購入はこちらから


第1章 現世幸福の教え


1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心  .................................... 5

(1)私の人生体験について .............................................................................. 5
(2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵 ...................................................... 8
(3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵 ....................................... 10
(4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵 .................................... 10
(5)無我と直感:静まった意識に生じる直感 ...................................................... 11
(6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り ................................................ 12
(7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント ................................. 12


2 人間関係の法:円滑な人間関係のために ................................................ 13

(1)基本的な考察:感謝の重要性 ..................................................................... 13
(2)親子関係における感謝の重要性 .................................................................. 15
(3)夫婦円満における感謝の重要性 .................................................................. 16
(4)会社等の集団の中での感謝の重要性 ............................................................ 16
(5)恋愛成就のための智恵 .............................................................................. 17


3 健康・長寿・若さの法 ........................................................................... 19

(1)健康・長寿・若さは、現世幸福の土台 ......................................................... 19
(2)心と体と環境という三要素 ........................................................................ 19
(3)心と体と「気」の関係 .............................................................................. 19
(4)心と体と環境を整える具体的な実践:ひかりの輪での修行実践........................... 20

 


4 不敗必勝の法:卑屈・慢心を越えた自己価値の実現 .............................. 21

(1)勝ち組・負け組という固定観念 .................................................................. 21
(2)勝ち組・負け組の二分化をすれば、必ず負け組になる .................................... 22
(3)真の不敗の法、真の勝利の法とは ............................................................... 22
(4)必勝の法:長期的な粘り強い努力 ............................................................... 23
参考:徳川家康の遺訓 .................................................................................... 224


5 願望成就・祈願の法 .............................................................................. 24

(1)神仏への祈願における依存の問題と、ひかりの輪の誓願の思想........................... 24
(2)感謝することの重要性 .............................................................................. 25
(3)自分の中に神仏がいるという思想 ............................................................... 26
(4)守護符、お守りについて ........................................................................... 27


6 選択と説得の法:適切な意志決定と論理的な説得力 .............................. 28

(1)正しい意志決定 ....................................................................................... 28
(2)合理的な意志決定の方法(アカデミック・ディベートから) ........................... 28

 

第2章 現世幸福を司る神仏 ............................................................... 30

1 聖地巡りでよく出会う現世幸福の神仏 ................................................... 30

2 神仏の由来・特徴など.............................................................................. 31

(1)弁才天 ................................................................................................... 31
(2)毘沙門天 ................................................................................................ 33
(3)薬師如来 ................................................................................................ 34
(4)観音菩薩 ................................................................................................ 35

 

第3章 ひかりの輪・指導員の修行実践体験談集................................. 38

1「悟り集中修行」全般について

「悟り集中修行のもたらす恩恵」広末晃敏(副代表・広報法務担当).............................. 38

2 万物に対する感謝・尊重・愛について

「心の錯覚を取り除けば、幸せな世界が現れる」宗形真紀子(聖地巡礼・広報担当)......... 40
「父とのつながりの気づきにより起こった変化 」細川美香(副代表・東京本部教室担当)... 43
「万物との縁によってもたらされた気づき」山口雅彦(名古屋支部教室担当).................. 45

3 煩悩の分析について

「煩悩の分析により他への理解が深まり静まった心」水野愛子(副代表・代表秘書室担当) ...49
「自業自得や批判を受け入れ静まった心」吉田惠子(福岡支部教室担当)........................ 51
「心の苦しみを引き起こす原因への分析」田渕智子(大阪支部教室担当)........................ 55

  以下第1章をご紹介します。

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第1章 現世幸福の教え

 

ここでは、私が、現世幸福に関する宗教的な智恵と考えるものを、いくつか紹介したいと思う。これは、巷にあふれるお金儲けや成功術のノウハウを紹介する書籍などとは大きく違い、あくまでも宗教的な智恵の枠組みの中から、現世を幸福に健やかに生きていくための教えを紹介するというものである。

よって、現世の幸福の智恵といっても、際限なく欲楽を貪ることをよしとする価値観に基づいたものではない。ひかりの輪が、その中核の思想として説いている、万人・万物を一体・平等と見る輪の思想や、それに基づく万人・万物への感謝・尊重・愛といった価値観に矛盾しないものであることを、前もってご理解いただきたい。

 

※「精神的・宗教的な智恵」という言葉についての補足
ここでいう「精神的・宗教的な智恵」とは、盲信の危険をはらむ宗教の信仰の話ではないことを補足しておきたい。智恵という言葉は、正に叡智・知性・理性に通じるものであることからわかるように、「宗教的な智恵」とは、宗教の思想の中で理性によって納得することできるもの、理性に基づいて再解釈したものである、「宗教哲学」と同じ意味合いで使っている。
特に、ここでは、仏教の中の悟りの思想哲学に関する話である。悟りの思想は、人の多くの苦しみは、自己に対する過剰な愛着に原因があり、瞑想その他の修行により、過剰な愛着を弱めることで、苦しみを弱めることである。これは一種の高度な心理療法ということもできる。
たとえば、鬱病やストレスに対する最新の心理療法の一つである「マインドフルネス心理療法」は、仏教の念(=マインドフルネス)の瞑想法の応用であることからも、仏教の苦しみ・ストレスを和らげ、悟りに近づく思想と実践は、理性による批判を許さない盲信とは違う、幸福の人生哲学である。

 

 

1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心

 

人生は、山あり谷ありで、喜びもあるが、同時にさまざまな苦しみがある。それは、毎日のさまざまな苦しみから、学業・仕事・事業での失敗・挫折・敗北や、失業・倒産・病気・事故を含めた人生の危機まで、さまざまである。

特に近年の日本は、高度成長期が終わり、バブル崩壊後の停滞する経済の時代となった。リストラ・失業・鬱病等の精神疾患・自殺者は増大した。市場原理主義の導入による競争の激化により、厳しさを増す労働環境の中でのストレスが増大し、勝ち組・負け組といわれる貧富格差の拡大や、若者のワーキングプアといった問題も起こっている。

. 今後の社会全体を見ても、東日本大震災・原発事故・地球温暖化に見られる自然災害や環境問題や、少子高齢化・消費増税・巨額の国家債務による財政破綻の危機、さらには、近隣諸国との外交領土問題・安全保障問題など、さまざまな不安要素も抱えている。

こうしたさまざまな問題に対しては、その解消のために、絶えず個々人から政府までが努力しているが、全てを解消することは、到底できそうもない。よって、こうした問題が起こったとしても、それに対していかに絶望することなく、強くて安定した前向きな心を保ちながら生きていくかという智恵が、非常に重要なものとなる。ここでは、そうした不動心を得るための宗教的な智恵を紹介したいと思う。

 

 

(1)私の人生体験について

 

まず、その前提として、私自身の人生体験について多少述べたいと思う。一言で言えば、私は、よく「地獄体験」といわれるものを繰り返してきた。

オウム真理教の時代から、私は、仏教的な智恵を学び、不動心を追い求めてきた。87年に出家した私は、ストイックな戒律の下での生活と極限的に厳しい修行、慣れない海外生活と教祖の与える宗教的な試練の連続に耐え、88~89年頃になると、不動心を得ることに、一定の結果を感じ始めていた。

ところが、その前後から、教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。

その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。その中で、事件の直前にロシアに赴任した私は、紙一重でその難を逃れることとなったが、教団の破綻は、痛烈な精神的な打撃であったし、近しい同僚が刺殺されるという生命の危機や、社会的に四面楚歌の状況を生み出した。

さらには、自分も、偽証という比較的軽微な罪であったが、逮捕・起訴され、数年にわたる独居房での勾留・受刑を経験した。受刑中に、麻原の中心の教義だった予言が外れるとともに、麻原自身が奇行・不規則発言を始め、精神的に深く麻原に依存していた私は、独居房の孤独の中で、精神的にも追い詰められていった。

さらに、99年の出所近くになると、外の信者と地域住民との摩擦が非常に激しくなり、団体を監視する新しい法律が、最高幹部の私の出所を警戒するものとして「上祐新法」とも呼ばれるなどしたために、相当の精神的なプレッシャー・葛藤が生じた。ただ、このプレッシャーに対して、麻原とは関係なく、自分自身の仏教的な思考・瞑想で、自己愛・我執を弱めることで、非常に深く静まった精神状態を体験した。これは以後の自分の精神の安定の土台となった。

99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。

しかし、2003年頃になると、自分なりの思想が芽生えて、オウム時代を反省して、教団を改革しようとしたが、麻原やその家族を絶対視する保守的な人々の激しい反対を受け、結果として、自室に事実上幽閉され、再び勾留同然の状態となった。その中で、自分の今後の方向性に関して深く葛藤・逡巡(しゅんじゅん)した。

一年半ほどして、2004年の末になると、自分に賛同する人々が増えたことに意を強くして、自分の考えを貫くため、麻原の家族に反旗を翻し、その幽閉状態を破り、独自の活動を始め、教団を割ることになった。その後も、麻原を絶対視する人々からの激しい批判・拒絶・妨害・追放を経験し、2006年には二つのグループを施設や経済の面で完全に分離することになった。

その後、2007年になると、私たちのグループは、精神的な進化を深め、麻原信仰を払拭して、アレフを集団で脱会し、ひかりの輪として独立した。しかし、その後も、様々な人たちの理解・協力・支援によって、徐々に改善されつつあるが、依然として、社会からの誤解・批判・圧力が続いてきた。

また、今はすでに収まっているが、この過程においては、団体内部においても、過去の信仰を放棄するという一種の自己破壊のプロセスや、従来の団体の財務を支える仕組みの放棄のために、さまざまな精神的なストレス・動揺・混乱・摩擦・失敗が発生し、一部ではあるが、鬱病にかかる者も現れた。さらに高齢化のために、認知症や身体障害を患った高齢者の介護の問題も生じた。こうして、厳しい財務状態の中で、オウム事件の被害者賠償の履行に四苦八苦した。

そうした中で、昨年2012年に至って、オウムの逃亡犯全員が逮捕・収監されたことを一つのきっかけとして、テレビ・週刊誌などのメディアに復帰し始め、年末に大手出版社から、オウム時代の総括本を出版した。

その後は、今年2013年は、トークショー・ネット番組・講演会に招かれることが多くなり、東京や大阪ではすでにさまざまな方々や団体にご招待いただき、福岡・札幌・熊本・沖縄などでもご招待いただいている。最近は、宗教関係の著名な映画・書籍の批評の依頼を受けることもままあり、去年に引き続き、間もなく対談本を発刊する予定となっている。こうして、ようやくではあるが、社会復帰の途に着くに至りつつある。

こうしたわけで、過去20年以上、一種の地獄体験の連続であったが、その中で結果として殺されもせず死刑にもならず、ノイローゼにもならず、賠償負担を負って厳しい中で、何とかではあるが、一団体の代表を務めてきたことは、自分の力ではとうていなく、厳しい社会環境の中でも、さまざまな人々の貴重な手助けがあったからこそであり、さらには、人智を超えたさまざまな幸運のおかげであった。

そして、以下に私が述べることは、こうした地獄体験の連続を通ってきた者による、実体験・実感に基づいたものである。

 

 

 

(2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵

 

先ほど述べたさまざまな苦境において、私を精神的に助けた大きな要素が、苦の裏に楽があるという考え方だった。これは、仏教開祖の釈迦牟尼の思想でもあり、苦楽表裏などといわれる。快楽の裏には苦しみがあるが、苦しみの裏にも喜びがある。特に、苦しみによって、正法に対する信仰が芽生えると説く。それほど苦しみがない状態では、人は、自らの間違った執着などを反省しないというのだ。苦しみがあってこそ、その原因となっている過剰な執着を反省するという。

また、受刑中に、昭和の希代の実業家となった松下幸之助(パナソニック・松下電器の創始者)の著書を読んだ。その中には、彼が苦境にあった時に、「この苦しみは、将来の幸福のために必ず役立つ」と自分に言い聞かせてきた体験が切々と書かれていた。そして、彼は、病弱だったから他に頼む術を憶え、学歴がなかったから他から素直に学べ、お金が無かったから丁稚奉公に行って商人の機微を学んだとして、「自分の不遇・苦しみを、逆に活かしてきた」と語っていた。

そんな中で、私も、オウム真理教の深刻な失敗・挫折に対し、それを重要な教訓として活かし、それを完全に乗り越えた新しい思想、新しい知恵の学びの場を創造することを志すことにしたのである。それは、最初は理解されにくくても、長期的には社会の役に立つはずだと考えた。

なぜならば、オウム真理教の問題は、オウム真理教に限らない。世界全体の原理主義的な宗教の問題であるし、さらには自己の教祖や教団を絶対視する従来型の宗教に広く当てはまる問題である。そして突き詰めれば、オウム真理教を生んだ戦後日本社会が、依然として乗り越えていない、敗戦までの自国を絶対視した大日本帝国体制にも共通した問題である。

それがゆえに、この問題を完全に乗り越えた思想を創造することは、オウム真理教的なさまざまな問題を解決するために役立ち、他のカルト教団・原理主義組織に限らず、日本社会全体が過去の過ちを繰り返さない方向にも役に立つと考えた。そして、今そのためにさまざまな取り組みを行い、それが徐々に、前に述べたように、社会の一部に受け入れられ始めている。

こうして、苦しみの裏に喜びがある。苦しみは、宗教的には執着を捨てる悟りへの道だし、世俗的にも失敗・挫折・批判は、反省と改善を通して成功・脱皮・称賛の始まりとなる。失敗は成功へ、挫折は脱皮に、批判は称賛につながる。

逆に、苦しみ少なく、楽が多すぎれば、自分を鍛える機会を得にくい。成功の体験ばかりで失敗・挫折の体験がないと、失敗・挫折に対して精神的にもろくなったり、過去の成功体験によるプライドにとらわれたりして、失敗・挫折を直視できずに失敗する。称賛に慢心を起こせば、ゆくゆく批判されるようになる。成功・称賛が、失敗・批判につながる。

こうして、苦境にある時には、その苦しみばかりに目を向けずに、なるべくその裏にある利点を捜すべきである。必ず何かの利点があると考えるのだ。格言で言えば、人間万事塞翁が馬、ピンチの裏にチャンスあり、死中に活を求めるである。

この際、苦しみから逃げてばかりいて、例えば自分の失敗を認められなかったりすると、その苦の裏にある利点は見つからないし、失敗を成功の元にする道は見いだすことができない。死中に活という視点では、これまでの自分の死を恐れていては、新たな生=脱皮・進化はできない。人の脱皮・進化とは、死と再生、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。

なお、日常生活でよく経験する失敗・挫折・批判・病気・経済苦といったさまざまな苦しみの裏側に、一般論として、どんな喜びがあるかについては、例えば、前回のセミナーの特別教本(2012年~2013年 年末年始セミナー特別教本)などでも述べているので、その一部を下記に引用しておく。

 

「個々別々の苦しみを恩恵とみる事例」

 

病気の苦しみ

病を得て、生活習慣を改め、体を労(いた)われば、健康・長寿を得る機会に変えることができる(いわゆる一病息災)。また、病気になって初めて、自分を支える人の恩恵に気づくことも多い。

経済の不安(最近よく聞かれる日本人の苦しみ)

そもそもが、恵まれている日本人という視点を持てば、貪りや浪費を反省し、質素倹約を培う機会であり、途上国の貧しい人たちへの慈悲を培う機会ともなる。

さらには、自己の所有物ではなくて、大自然など、皆が共有しているものが、真の宝であると悟る機会ともなる。

 

批判・誹謗

正しい批判は、自分を改善し、自分の未来のためになるものである。その意味で批判されなければ、自分に良き未来はない。間違った批判は忍耐力を養い、それに動じなければ、長期的には自分の評価を高める機会となる。すなわち、批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」という欲求が作り出すものである。

 

④失敗・挫折

その裏に恩恵がある。努力を続ける限りは、それは、成功・成長へのステップである。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれる。失敗は、これでは成功しないことを知るという成功へのステップだ。すなわち、失敗、挫折の苦しみは、すぐに成功を望む欲求が作り出すものである。

 

⑤怒り・軽蔑の対象

悪行をなしている他人も、謙虚な心で見れば、自分の反面教師であり、その意味で、助力者である。仮に、全く反面教師なく、自力だけで間違いを避けることができるかを考えるとよい。

自分の幸福を邪魔するように感じられる妬みの対象も、「感謝の法則①」で述べたように、よく考えれば、実際には、自分よりも必ずしも幸福ではないことがわかる。また、優れた他人に対する妬みの場合は、実際には、その人たちは、自分の見本であり、貴重な切磋琢磨の対象である。そうした存在なく、自分だけの力で向上することができるかを考えるとよい。

 

(3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵

 

また、苦境に強い人の性格として、そういった状況でも、依然として自分が得ている恵みを意識できることがある。たとえば、失業しても、健康な体と愛する家族がいることに感謝して、絶望せず、それを土台として再び立ち上がっていくとか、病気になっても、支えてくれる家族や知人がいることに感謝して、人間の幅を広げて再び立ち上がっていくなどである。

しかし、苦境に弱い人は、そういった状況になると、全てを失ったかのように錯覚し、「自分はもうだめだ、おしまいだ」と考えてしまうことがある。しかし、実際に、私たち日本人は、安全・長寿・豊かと三拍子揃った社会に住んでおり、いかなる苦境であろうと、視点を変えれば、大変な恵みにある。

例えば、民族紛争・感染症・飢餓貧困に悩む途上国の人から見れば、王侯貴族である。途上国では、常に水も電気も燃料も不自由なところもあり、毎日が東日本大震災の被災地のような環境条件である。百年・二百年前の日本の人々から見れば、天国のような恵みに恵まれている。

この意味では、苦しみ・苦境とは、実際には、比較の問題であって、途上国や昔の人から見れば、私たちが苦境と考えるものは、苦境とは感じられないだろう。あまりに恵まれた私たちが、その恵みに慣れ過ぎて感謝を失っているがゆえに、苦境と感じられるともいうことができるのだ。

こうしたことを考え、苦境に立ったときに、依然として自分には、さまざまな恵みがあることや、この世界には、はるかに苦境にある人たちが無数に存在することを考えるならば、苦境に強くなることができるのではないだろうか。

 

 

(4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵

 

さて、仏陀の教えでは、全ての苦しみの根本的な原因は、過剰な自己愛である。自と他を区別して、自己を偏愛する心の働き。自我執着ともいう。これは、自分自身(心や身体など)に対する執着(我執(がしゅう))と、自分のもの(財物・地位・名誉)に対する執着(我所執(がしょのしゅう))がある。

これをわかりやすくいえば、人は、他者よりも自分を愛し、死を恐れ、天寿を無視して、永久に生きていきたいと思うことが多い。だから、自分が老い、病み、死ぬことを恐れる。しかし、自分が生きるには、他の生き物が食べ物などとなって犠牲になる(自分の生の裏に他の死がある)。多くの生命体が死ぬからこそ、多くの生命体が生まれても、地球の生命圏のバランスが取れる。人間が不死となれば、人口が爆発し、飢餓や戦争が起こる。

さらに、人は、他人よりも、自分の財物・名誉・地位を増やそうとし、その欲望には際限がないことが多い。しかし、それを言い換えれば、いくら得ても満ち足りることがなく、さらには、得られない時の苦しみ、得たものを失う時の苦しみ、他と奪い合う苦しみが生じる。実際に、これまでの人類の歴史の一面は、貪り・争い・戦争の歴史であった。

このように考えていくと、自分と他人を区別し、自分だけ過剰に愛する自我執着が、苦しみの根本原因であることがわかる。そして、仏陀の教えでは、この自我執着を弱めるためのさまざまな教えがある。その典型が、釈迦牟尼の直説とされる無我(アナートマン)という教えである。

これは、私たちが通常「これが私である」と思い込んで執着する自己の心身について、実際には、身体は老い・病み死ぬものであり、心も絶えず移り変わっていく、無常で実体がないものであることを考え、それらが、本当の意味で私ではなく、私のものではなく、私の本質ではないなどと瞑想するものである。また、これとほぼ同様の四(し)念処(ねんじょ)・五蘊(ごうん)無我といった教義・瞑想がある。

この瞑想の目的は、自我執着を和らげることであり、一言で言えば、自我執着に基づく思考を減少させることだ。自分のことばかりを過剰に愛して、それゆえに悩み続ける思考を弱め静めていくことである。ようするに、自分のことばかり考えるのを止めてしまうのである。

こう言えば、何か簡単なことに思えるかもしれない。しかし、それは単純なことではあっても、簡単ではない。この単純なこと、自分のことばかり考えないようにすることを阻んでいるのが、自分に深く執着してきた長い習慣であって、そのために、自分のことばかり考えないようにしようとすると、不安・恐怖などが襲ってくることが多い。

それゆえに、この境地を体得するには、従前から仏教的な思想を学び、無我の瞑想の練習をした上で、自分のことを考えることをやめないことによる苦しみが、自分のことを考えることをやめる不安や恐怖をしのぐような状況、すなわち、一種の試練・苦境を体験する場合が多いと思う。

私の場合は、前に述べたとおり、オウム時代の初期に、こうした仏教的な考え方の学習や訓練がある程度なされていたので、それに馴染んでいった時期があって、その後、オウムが破綻した後に、元教祖から離れて、獄中で独りで苦悩する中で、あらためて無我の瞑想を行って、それを体得していった経緯がある。それ以来、たいていのことでは動じないようになり、今もそれを訓練し続けようと努めている。

この瞑想を体得するならば、非常に静かな、静まった意識状態を体験する。不要な思考は停止している。それは、オカルト的な霊的体験とは違った意味で、神聖な感じさえする状態である。

 

(5)無我と直感:静まった意識に生じる直感

 

そして、この静まった意識状態においては、現実の問題を突破するアイディア・直感・インスピレーションが浮かびやすい。

苦境にあって、自我執着が強すぎると、例えば、「失いたくない」という不安ばかりが先立って、いろいろと考えてはいても、悩んでいるだけで、エネルギーを消耗するばかり、空回りすることが多い。さらに、不安・焦りなどで混乱・狼狽した精神状態から、さらに苦境を深めるような過ちを犯す場合も少なくない。

一方、無我の静まった意識状態では、こうした精神的な混乱はなく、落ち着いて物事を見ることができる。また、こだわりがないゆえに、こだわりによって見えなかった突破口も見えてくる。さらに、不思議なことだが、こうした意識状態においてこそ、直感・インスピレーションが生じやすい。仏教の経典の一部も神通力を説くものがあるが、それは煩悩・欲望が静まった人間の精神に生じる、高度な智恵のことを意味するのではないかと思う。

 

 

(6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り

 

輪の法則は、無我の法則をさらに推し進めたものだ。先ほど述べたように、自我執着の根本には、自と他を区別する心の働きがある。自と他を区別して、自己を偏愛するのが自我執着だ。

一方、輪の法則とは、万物が一体平等という思想であり、私たちが日常的になしている自と他の区別とは、厳密には錯覚であって、実際には自と他を含む宇宙の万物は一体であるという真理を示している。

これは科学的に、自分や他人、自分と外界を観察すればわかる事実・現実である。どんな人間も一人だけで生きることなどできず、絶えず空気・水・食べ物などを外部から取り入れ、排出して、外界と一体となって生きている。人は宇宙の一部であり、「私」とは他から独立した存在ではなく、いわば、宇宙の中に「私」と名付けられた場所があるようなものである。しかも、その場所の範囲は、絶えず変化しており、その内と外に明確な境界はない。

この真理を悟るならば、単に心が静まるだけでなく、自と他の区別を超えた、広く温かな意識が生まれてくる。それは、万物との一体感であり、万物に支えられていることを認識した万物への感謝・尊重を伴う意識である。私は、これが大乗仏教の説く悟りの境地だと考えている。この境地を垣間見るようになれば、自と他の区別に基づく自我執着は相当に弱まっており、さまざまな苦しみも同時に減少する。

 

 

(7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント

 

さて、これらの法則を言葉で言ってしまうと簡単な面もあるが、実際に体得・実践するのは、一筋縄ではいかない場合もある。それが容易であれば、ある意味では、誰もが苦しみを容易に脱却できているだろう。しかし、苦しみは苦しみ、喜びは喜びと見て区別する、これまでの習慣によって、なかなか苦しみの裏側に、喜びが見いだせない場合もある。

実際に、苦しみの裏に喜びがあるといっても、こうした法則は、いわば一般論、公式であって、自分の苦しみ・苦難に具体的に当てはめて、自分の場合は、どのような喜び・利点が、その裏にあるかを見いだすことは、また別である。すなわち公式の応用力・適用力の問題があるのだ。

また、世間一般は、苦しみの裏に喜びを見いだすことがない中で、そのように信じて見いだす努力をすること自体に、本当にそうなのだろうか、本当にそう考えられる自分になれるのだろうか、という心細さを感じることもあるだろう。

そこで、仏陀が説いたのは、同じ志を持った者が集まり、助け合ったり、切磋琢磨したりすることの重要性ではないかと思う。仏陀の教えは、仏・法・僧と訳される三宝を尊重することを説いた。サンスクリット語では、ブッダ・ダルマ・サンガといわれる。

ブッダ(仏)は道理・法則に目覚めた人であり、ダルマ(法)はブッダの教え・法則である。そして、サンガは、僧伽(そうぎゃ)・僧と音訳される。その意味を表す漢訳は、「衆(しゅ)」、「和合(わごう)衆(しゅ)」などである。すなわち、サンガの元の意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。

こうして、仏教では、サンガは、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重された。サンガは、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。なお、狭い意味では、サンガは仏教の出家者の教団を指す。

ところが、中国や日本では、出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じた。そのため、僧という言葉が、集団・集会を意味する本来のサンガ(僧伽)とは、大きく違った意味で用いられるようになった。

それはともかく、学業や武道をはじめ、どのような習い事も、同じ志を持つ者たちが、道場や教室などを場として集い、先輩後輩の間で助け合ったり、互いに切磋琢磨したりすることは、大きな効用がある。

法則も、単に頭から知識として学ぶのではなく、それを長く深く実践してきた先輩などと直に接して感化を受け、肌から学ぶ、心と体から学ぶ部分があるのは、いうまでもない。

これによって、独りでは、なかなか法則を体得できず、それどころか、疑問も多々わいて、心細くもあるといった問題を和らげることができる。ひかりの輪も、各地に教室を設け、専従スタッフが運営し、それが良きサンガとなることを志している。

さらに、ひかりの輪は、サンガの良さをフルに生かしたものとして、「悟り集中修行」というものを行っている。それは、ひかりの輪の支部教室にて、法則を学び体得する者が集い、丸一日ないし数日の間、集中した修行実践をするものである。

皆がよく集中できるように、一人一人のために一定の個別の空間を作り、その中で、他の用事・雑務を排除して、集中的に法則の学習を行い、法則に基づいた思索を深め(法則を自分の問題に当てはめる)、法則に基づいた思考を修習・瞑想する。

これは、浄化された空間、同じ志を持った者が集うことによる目に見えない相乗効果、先輩の助言・助力といった環境と、各人が他の用事を排除して法則の体得に一定の長時間の間、専念・集中するといった条件が相まって、法則の体得に、大きな効果を発揮する。

 

 

2 人間関係の法:円滑な人間関係のために

 

(1)基本的な考察:感謝の重要性

 

先進国の社会は、事実上、社会福祉制度によって、飢餓や絶対的な貧困の苦しみが解消されている。こうした社会では、人の幸福不幸を左右する最大の条件の一つが、日々の人間関係になっている。これが、人間関係を良好にするための術を、仏教的な智恵の見地からも検討したいと考えた理由である。

まず、その前提として、人間は、他者に深く支えられながら生きるという特性がある。人間は、「人」という文字の形が示す通り、互いに支え合いながら生きる。さらに、人間とは「人の間」と書くが、これもまた同様の趣旨だろう。生物学的に見ても、人間は、成人になるのが遅く、親などの他者に育てられる期間が長い。さらに、現代社会は高度な分業で成り立っており、無数の他者と相互に依存し合っている。こうして、深く広い人間関係なしには、人間は存在できない生き物なのである。これは後に述べる感謝の重要性とも関係してくる。

次に、人間関係の善し悪しの条件を考えるために、人が他者との関係に求めるものは何かを考えてみよう。それは大まかに、自分の生存(と子孫を残す)という本能的な欲求と、集団の中で自分に重要な価値があると認めてもらいたいという社会的な欲求であろう。

そして、冒頭に述べたとおり、先進国社会では、社会福祉制度を含め、生存欲求はある程度満たされているために、後者の、自己の社会的な価値の認知を求める欲求が満たされるかが、重要なポイントとなる。具体的には、他の称賛や感謝を受けること、集団・社会の中での名誉・地位・権力を得ること、異性に愛されることなど、さまざまな形がある。

そして、この欲求が大きく、それが満たされない場合は、人間関係に不満・怒りが生じる。欲求が少なく、満たされている場合は、不満・怒りは少ないことになる。しかし、人の欲求・欲望には際限がないために、多くの場合は、他への欲求が過剰となって、それが満たされずに、不満・怒りを持ちがちで、場合によっては、恨み・憎しみ・妬みにもつながり、他を傷つけたり、無理に奪おうとしたりすることもある。

こうした傾向を解消するためには、この欲求・欲望に際限がないことを考え、日頃から足るを知る訓練が必要である。そのためには、他がしてくれないことばかりを考えて不満を持つのではなく、逆に他がしてくれたことに気づくように努めて、それに対する感謝をなすように心がけることが重要となる。

この訓練を始めると、実際に、実に多くの人々が、実に多くのことを自分にしてくれていることに気づく。その結果、過剰な欲求のために、渇いていた心が潤い、心が静まってくる。すると、自分を客観的に見る力も強まり、自分が他にお返ししたことが乏しいことや、他に迷惑をかけたことが多いことにも気づくようになる。すると、感謝に基づいて、他にお返しすること(支え合い・分かち合い)に努めるようになっていき、これが人間関係をさらに良好なものとする。

この訓練をしていくと、許しの心も強まっていく。自分の反省が深まると、それまでに自分が他に対して抱いていた不満や怒りの原因となっていたものと似た要素が、自分の中にも多かれ少なかれあることに気づくことがある。今現在は、似た要素が表面化していなくても、潜在的には自分にも似た要素があり、仮に、自分も同じ立場・条件に置かれれば、似たことをする可能性を感じ、他が自分の反面教師であったことに気づくのである。

このような訓練を続けていくと、自分も他人も、お互い不完全な人間同士であるという事実がよく認識され、他人に、際限なく求めたり完全を求めたりして、不満や怒りを抱くのではなく、他を許すことの必要性を理解することができる。

これは、言い換えれば、本当の意味で大人になることである。自分が他人に際限なく求める背景には、自分では気づかないうちに、客観的に見れば、子どものように自己中心的であり(自分を特別視しており)、自分が求める対象としている他人をも(自分のために)あたかも特別視しているかのような心理がある。こうした未成熟な人格を越え、足るを知り、他に感謝し、他を許すことが、まさに大人になることだ。

ここまでまとめるならば、人間関係を良くするものは、「感謝と支え合い(分かち合い)」であり、その逆に悪くするものは、「不満と奪い合い」ということになる。そして、良好な人間関係を築くということは、自己中心的で妄想的な未成熟な人格を脱皮し、公平で地に足の着いた成熟した人格を育むことであり、本当の意味での大人になる人生の修行ということができる。

では、次に、個別の人間関係について考えてみたい。

 

 

(2)親子関係における感謝の重要性

 

親子関係では、親の子どもへの奉仕は、親だから当然と考えて、子どもが、十分な感謝の心を持たずに、逆に、不満を抱く場合がある。親にしてもらったことではなく、してもらえなかったことや、傷つけられたと思うことばかりを意識する。これによって、子どもの親に対する見方が否定的なものに偏り、歪むことになる。

そして、自分を生み育んだ親をはじめとする親族・教師・友人・知人に対する感謝の心が持てないと、他者への愛が持てないだけでなく、自分自身の価値が認識できず、自分自身も愛しにくくなる。すなわち、健全な自尊心が育ちにくい。

そうすると、他者への不満と、自己嫌悪・卑屈が強い性格的な傾向が、青年期に生じる可能性があり、これは親子関係以外の人間関係にも影響を与えることになる。親は子どもにとって初めての人間関係であり、「三つ子の魂百まで」という言葉のあるとおり、その人の人格形成・人間関係を左右する面があるので、重要である。

逆に、親をはじめとする大勢の他者が、いかに自分を支えてきたかを認識すれば、自分が大勢の人たちに支えられた存在であることを実感し、他者への愛とともに、健全な自己への愛=自尊心を育てることができる。

一方、親に深刻な問題がある場合もある。それでも、客観的に見れば、親の恩は皆無でなく依然として多々あるだろうし、前に述べたように、感謝の訓練をしていけば、自分も自分の親も、多くの不完全な人間の一人であることを受け入れて、許す気持ちを持ちやすくなる。

現実には、社会には、問題のある親は少なくなく、自分の親だけではないのだが、自己愛が強いと、気づかないうちに、自分の親だけはそうあってほしくないとばかり考えて、現実を冷静に受け入れられないのである。

なお、カルト教団の問題について、その信者の親子関係に根本原因があるという見方がある。それは、親子関係の歪みで健全な形で自尊心が充足されなかったために、自分たちを妄想的に特別視する集団に所属して、歪んだ形で(妄想・盲信で)自尊心を満たそうとするのである。

具体的には、親が不在であったり、見本にならない存在だったりすると、帰依する限りは自分の価値を特別に高く認めてくれる、カルトの教祖・教団を盲信する危険性が高まる。

なお、教祖・教団側も、実は似た性格的な傾向を持っており、自分の満たされなかった自尊心を、信者の上に君臨・支配する形で満たそうとするのである。教祖と信者の共依存である。

この、親をはじめとする自分を支えきた人々への感謝を培うために、ひかりの輪では「内観」という特別な自己反省法を実践している。これは、自分と親の関係について、偏りのない視点で幼少期から今までを丁寧に振り返り、感謝・反省・恩返しの心を培うことである。その詳細については過去の特別教本(2009年ひかりの輪GWセミナー特別教本)を参照されたい。

 

 

(3)夫婦円満における感謝の重要性

 

夫婦関係の悪化の原因の一つが、お互いに対する感謝の不足だと思う。夫婦は、それぞれが相手を通して、自己の価値を感じたいという欲求がある。ところが、夫婦であると、相手が自分を支えるのは当然だという観念があるために、感謝を言葉で表現することが少ない。

結婚前は、互いが互いの好意をさまざまな形で表現し合って、関係を深めようと努力することが多いが、結婚により二人の関係が安定したと錯覚すると、そうすることは乏しくなる。お互いに、相手への欲求と不満が強くなり、感謝・尊重が乏しくなる。

その結果、このストレスを解消するためや、自己の価値を別の手段で感じるために、望ましくない行動に走る場合がある。例えば、ギャンブル・アルコールや、自分を認めてくれるタイプの異性との浮気や、同様の効果を持つカルト宗教への入信、ゲーム・アニメなどのフィクションの世界に没入して、その主人公と同一化する空想の中で、自己の価値を充足させるなどである。

私の、夫婦問題に関する個人相談の経験などによれば、妻の方から夫に対する感謝の表現を回復することで、夫婦関係が修復するという事例が見られた。

 

 

(4)会社等の集団の中での感謝の重要性

 

前に述べた通り、人間関係一般において、感謝・お返し・許しの重要性を述べたが、親子や夫婦といった親族間だけでなく、自分が所属する会社等の組織・集団にも同様に当てはまる。そこでは、一つの事例として、集団の中で、自分が称賛を受ける場合についての感謝の重要性を述べる。

まず、称賛を受けたとしても、そのようになった原因は、決して自分だけの力によるものではなく、多くの人の支えによるものである。そもそも、自分は、生まれ育つことも自分の力だけではできず、集団・組織での活動も全く同様である。

よって、称賛を受けたならば、自分を支えてくれている他者にあらためて感謝し、称賛を返す=称賛を分かち合うことが重要である。そうせずに、称賛に興奮し、あたかも自分だけの力で得たかのように錯覚すると、慢心をいだくことになる。これは、称賛の独り占めである。慢心は将来の失敗に結びつく。思い上がりから努力を怠ったり、他の協力が得られなくなったりするからだ。

逆に、称賛に対して、支えてくれた他に心から感謝して、称賛を返すならば、慢心に陥らずに努力を続けることや、他の協力も得続けることがしやすくなるだろう。その結果、称賛が継続することになる。すなわち、称賛を独り占めすれば、将来の批判につながり、称賛を分かち合えば、称賛が循環して継続する。

これは称賛・名誉に限らず、財物から仏陀の智恵・法則に至るまで、人は、何かの幸福を得た時に、それを支えてくれた他者に感謝をし、その幸福を分かち合うことで、他との与え合い・支え合いによって、長期的に安定した幸福を得ることができる。これは同時に、際限の無い欲望を抑制し、足るを知ることでもある。

一方、他者に感謝せずに、幸福を独占する場合は、その人の心が、際限のない欲望(貪り)にとらわれている場合が多い。「もっともっと、自分が欲しい」とばかり考え、他を妬み憎み恨み、他と奪い合う関係になる。こうして、独占すると、最初はよいようでも、長期的な安定した幸福を得ることはできない。

 

 

(5)恋愛成就のための智恵

 

私は、巷に溢れる「恋愛成就の××のテクニック」的なものは解説できないから、私が馴染んだ精神的・宗教的な智恵と恋愛成就の関係について述べることにしたい。

まず、恋愛成就や恋愛関係の維持のためにも、良好な人間関係のための一般論としてすでに述べた「足るを知って感謝して分かち合う」という精神は重要だと思う。逆に、際限のない欲求(貪り)のために、不満・怒りを抱くならば、恋愛関係も損なわれるだろう。

特に恋愛感情とは、相当に強い感情であり、心理学的に見れば、一種の躁欝状態ともいうべき面もある。ユニークな解説で知られる新明解国語辞典(三省堂)は、恋愛とは、「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい(中略)と願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」(第5版)とされている。

その中で、自分では相手のことを思っているつもりでいろいろやっていても、実際には、それは自分が相手の愛を求めるための手段である場合が多い。相手の立場に立って相手本意では考えてはいない場合が少なくない。恋愛感情の中の「相手を独占したい」という欲求は、一種の支配欲求である。それが強すぎると、相手を惹き付けるために本来必要な、相手本意で考えることが、逆にできなくなる。

例えば、相手を過剰に自分に縛りつける失敗を犯す場合もある。相手のことを何でも聞き出そうとするとか、相手の他の異性との関係に過敏になりすぎたりなど。恋愛関係であっても、相手は自分とは別の一人の人間であるから、過度に自由を束縛すれば、息苦しさを感じて相手は逆に離れてしまう。

全く束縛しようとしなければ、恋愛にはならないが、過剰に束縛すれば、また逆効果であり、バランス感覚、いわば「ベストな車間距離ならぬ人間距離」が重要となる。この意味でも、足るを知って感謝し分かち合う精神は重要である。

理想としては、相手が求める人間距離を理解して、それに自分が合わせることだろう。これは自分の欲求をある程度コントロールしなければならないから難しいが、これができる人は、相手の異性にとって、女性ならば母性、男性ならば父性を感じさせて、心地よいものとなる。

また、相手が自分から距離を置くかのように感じると、非常に不安になることもある。前掲の新明解国語辞典の第六版でも、恋愛とは「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」とされている。

こういった疑念が生じた場合には、なるべく冷静さを取り戻して、落ち着いて相手を見ることが望ましい。そうすれば、実際には問題ではないことに気づく場合も多い。いわゆる被害妄想の状態であるが、その状態で相手に対応すれば、相手にとっては煩わしく、それこそが嫌われる原因になる可能性もある。これは男女関係以外の人間関係にもよくあることだ。

仮に、相手の心に何かの変化が生じていたとしても、不安・疑念・怒りに駆られて無理なアプローチをすれば、いっそう相手の心が離れる結果になる。この意味でも、貪り・不満・怒りを抑制し、足るを知る感謝の精神による心の落ち着きを持つことが、利益になる。

また、恋愛の中では、被害妄想とは逆に、誇大妄想を抱いて失敗することもある。恋愛が上手くいって見える時に、何の根拠もなく、自分勝手に「二人の出会いは運命的だ」と思い込んで興奮しすぎると、冷静に自分と相手のことを考えられなくなり、すれ違いを始める場合もある。

もちろん、男女の出会いを含め、人の出会いの縁というものは、頭で計画して自分の力でできるものではない。男女の縁でも、事業の縁でも、上手くいく場合は、不思議なものである。そのため、縁結びの御利益を求め、神社仏閣に参拝する人は、今も後を絶たない。

しかし、宗教でも重要なように、そうした不思議な、神秘的な、直感的なものが、実際の自分や他人の現実と十分にかみ合うかを、絶えず合理的な思考で確認しなければ、バランスを崩して、誇大妄想に陥ってしまう。これは、女性原理と男性原理、右脳と左脳、直感と論理性、霊性と合理性の統合・バランスという重要な思想である。

なお、この誇大妄想の問題は、前に述べた「自己中心的な妄想的な未成熟な人格から脱皮」することに関係してくる。また、カルト教団の教祖と弟子は、双方が、運命的な出会いだと信じる場合があり、たとえれば、一種の誇大妄想的な恋愛関係が成立した状態ともいうことができる。しかし、それは、自分たちを特別視・神格化し、外部社会との壁・摩擦につながる可能性もはらみ、智恵を育んで安定した幸福を得ることにはつながらないだろう。

 

 

 

 

 

 

3 健康・長寿・若さの法

 

(1)健康・長寿・若さは、現世幸福の土台

 

今回のテーマである現世幸福において、その土台となるのが、健康・長寿・若さを得ることである。これまで述べてきた苦境に打ち勝つ忍耐力や、恋愛成就から仕事・社会での成功に至るまで、さまざまな現世の幸福の土台が、健康・長寿・若さであることはいうまでもない。

そして、私は、昨年末に50歳になったが、たいてい10歳ほど若く見られることが多い。また、ひかりの輪のスタッフも、普通よりも若く見られることが多い。こうした自分たちの経験と、精神的・宗教的な智恵に基づきながら、健康・長寿を得て、若さを保つ教えに関して述べたいと思う。

 

 

(2)心と体と環境という三要素

 

まず、私が考えるに、健康・長寿・若さを得るポイントは、心と体と環境の三つを整えることだとまとめることができると思う。そして、この三つは相互に関連しているというのが、精神的・宗教的な智恵が指摘する重要なポイントである。

心と体、精神と肉体が、深く関係しているということは、東洋医学などの東洋思想に限らず、最近は、現代医学でも広く認められるようになった。例えば、心療内科の診療もそうである。また、体は、空気・水・食べ物を絶えず外部環境から取り入れるから、心と体と環境は、密接不可分であることも明らかだ。

 

 

(3)心と体と「気」の関係

 

これに加えて、ヨーガ・仏教・仙道などの東洋思想では、心と体と環境をつなぐものとして、身体を流れる目に見えないエネルギーの流れである「気」というものを説く。

この「気」とは仙道での言葉であるが、チベット仏教では風(ルン)、ヨーガではヴァーユなどと呼ぶ。また、東洋医学が説く経絡とは、気の流れる道筋のことである。ヨーガでは、クンダリニーというエネルギーの覚醒を訓練する場合もある。

そして、この「気」のエネルギーは、その漢字が表しているように、精神状態である「気持ち」と、身体現象である「病気」の双方に深く関係していると考えるのである。

まず、「気」のエネルギーが身体の中をスムーズに流れている場合は、良い精神状態が現れる。すなわち、「気」と「気持ち」が連動していると考え、そのため、気のエネルギーをコントロールすることが、悟りを得るための重要な補助手段となると考えるのが、チベット仏教の究竟次第やクンダリニー・ヨーガと呼ばれる修行実践である。

そして、気のエネルギーが、身体の中をスムーズに流れず停滞している場合は、良い精神状態が阻まれるが、それだけでなくて、気の流れが停滞している身体の部分には、将来的に病気が発生する可能性がある。病気が、「病の気」と書かれるのは、流れが停滞した気=病の気が病気の原因となるという、東洋医学的な思想を表したものではないかと思う。

 

 

(4)心と体と環境を整える具体的な実践:ひかりの輪での学習実践

 

ひかりの輪では、心と体と環境を総合的に整えるように努めている。その中には、先ほど述べた気の流れを整えることも含まれている。

まず、心・精神面からのアプローチとしては、仏陀の智恵などを学習して、自分の日常生活に適用し、心を浄化して、ストレスを和らげる訓練をしている。具体的には、仏陀の智恵にも共通する普遍的な道理だと思われる思想として、万物を一体平等と見る「輪の思想」を掲げ、それに基づいて、万物への感謝・尊重・愛を育む訓練をしている。これらの学習と実践は、精神的な苦しみ・ストレスを和らげるとともに、気の流れを整える効能を持っている。

また、身体面からのアプローチとしては、ヨーガ・気功の身体行法を行っている。これは普通の意味での健康法にもなるが、同時に気の流れを整える意味がある。ヨーガの呼吸法は、本来はプラーナーヤーマ(調気法)と呼ばれ、気を調御する術である。

これらの詳細については、ひかりの輪の公式HPの「気功・ヨーガ」の部分に、実際の行法の動画を含めて掲示してあるので参照されたい。また、気功法のDVD(流体循環気功)や各種のヨーガのDVDも販売されている。また、ヨーガの思想・人間観・修行の概略について解説したものを、本書の付録として提供する予定である。

気功・ヨーガ以外にも、ひかりの輪では、歩行瞑想という修行がある。自然環境の良いところで、歩行しながら、瞑想したり三悟心経を唱えたり、呼吸法を行ったりするものである。歩行の健康上の効果は一般にもいわれているが、適度に足腰や体全体の筋肉を鍛え、血液循環を促進し、体を温め、気の流れを整え、脳機能を改善し、良い思索をするにも効能がある。また、歩行瞑想と似た効能を持つものとして、入浴によるヒーリングも行っている。

環境面からのアプローチとしては、ひかりの輪では、まず自室・自宅の浄化を推奨している。浄化とは、まず、掃除し、整理整頓することである。掃除や整理整頓が、精神状態と関係するという経験則はよくいわれる。松下幸之助も、整理整頓が上手い社員は仕事もできると語っている。風水という中国思想では、環境にも「気」の流れがあると説き、掃除こそが、部屋の気の流れを良くする最も基本的な風水術としている。

さらに、ひかりの輪では、五感からの浄化を推奨している。五感からの情報は、精神に深い影響があることは医学的にも知られている。その中で、精神が落ち着くものとして、①仏画や自然の写真などの視覚的なシンボル、②瞑想音楽や仏教の法具の奏でる聖音やその波動、③チベットやブータンの瞑想香や他のアロマセラピー、④ハーブティーなどを、有用と考えて利用している。

これらを自宅・自室に用いることで、自宅・自室を掃除によって物理的に浄化するだけでなく、精神的・霊的にも浄化することを推奨している。また、こうしたアイテムをフルに活用した空間が、ひかりの輪の各地の支部教室であり、教室への来訪を推奨している。

その教室には、仏教の法具の聖音と波動を活かした特別の音響システムを設置しており、それによる特別なヒーリングも行っている。これらの詳細は、ひかりの輪の公式HPの「仏教の法具と瞑想」のコーナーに開設されているので参照されたい。

環境面からのアプローチの最後に、聖地巡りに言及しておく。聖地巡りは、その純粋な自然の霊気によって心身を浄化するとともに、その自然や、その地に縁のある過去の偉人から学び、究極的には、自然・宇宙と一体になる悟りの境地に近づくために有用である。

 

 

4 不敗必勝の法:卑屈・慢心を越えた自己価値の実現

 

(1)勝ち組・負け組という固定観念

 

ここでは、悪い意味で今流行している「勝ち組・負け組」という考え方は錯覚であること、そして、真の勝者とは何か、どうすれば、真の勝者となれるかについて考察したい。

まず、21世紀になって、バブルが崩壊して経済が低迷した日本において、市場原理主義が強まり、勝ち組・負け組といった言葉が流行るようになった。年功序列・終身雇用制などの平等主義的な雇用体制が弱り、能力主義・非正規雇用などの競争が激化し、所得の格差・貧富の格差が拡大し、失業者・鬱病・自殺者も増大した。

しかし、仏陀の智恵から見れば、こうした経済的な意味での勝ち組・負け組とは、真の意味での勝ち組・負け組を意味しない。仏陀の智恵では、真に幸福かどうかは、その人の所得ではなく、智恵と慈悲の豊かさによって決まる。

単なる勝ち組では、競争で他を押しのけることを厭わなかったという意味で、慈悲に乏しい人となりかねない。お金や名誉や地位のために、最も大切な慈悲の心を失ってしまった愚か者かもしれない。一方、経済的には負け組でも、自己の苦しみの経験を通して他者への思いやりを培った人は、慈悲においては豊かであるし、卑屈や妬みを越えて自分の上に立つ人を支える心を持った人も、同様であろう。

そもそも、人の幸福は、最終的には心が感じるものであり、お金の量では決まらない。ある意識調査によると、年間所得が1万5000ドル(日本円で150万円弱)以上になると、所得が増えても、幸福を感じる人の割合は増えないというデータもある。これが正しいとすると、日本のような先進国の生活水準に達すると、お金では今以上の幸福は買えないということになる。

これは、仏陀の教えと合致している面がある。仏陀の教えでは、人の財物等の貪りには、際限がなく、得ても得ても満ち足りることがなく、貪りが続く。その中で、求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、奪い合う苦しみが生じる。

こうして、得た者は、際限のない貪りに巻き込まれれば、得たがゆえにさまざまな苦しみを被り、得ていない者は、それに巻き込まれない気楽さがあるということもできる。言い換えると、自分より勝ち組で妬ましい対象も、自分が思うほどには幸福ではないということである。

これらを理解して、今いわれている「勝ち組・負け組」というのは、所得の大小で幸福感が決まるという、間違った思い込み・錯覚の面があるのではないかと考えれば、勝ち組という慢心や、負け組という卑屈に、安直に陥ることを避けることができるだろう。

 

 

(2)勝ち組・負け組の二分化をすれば、必ず負け組になる

 

仏陀の智恵から見て、より本質的な話をすれば、勝ち組・負け組の区別をする人は、どんなに勝ち組になろうと努力しても、負け組の苦しみから解放されない。

なぜかというと、まず、上には上が必ずいる。他人に勝つことばかり考えている人は、常に自分より上の人を見て、それを追い抜こうとするが、上には上が必ずいるので、絶えず妬みを抱えている。その意味で、負け組の意識から解放されていない。

第二に、どんな人にも落ち目が来る。仮に、ある分野でトップに立ったとしても、それは永久には続かない。トップに立った瞬間から、落ち目(=負け組)になる時を絶えず恐れねばならない。そして、老いに勝てる者は誰もおらず、必ず落ち目になる。この意味でも、誰も負け組になることを避けることはできない。

こうして、勝ち組と負け組を区別する以上は、負ける苦しみから解放されない。勝利の喜びと敗北の苦しみ、慢心・優越感と卑屈・妬みは裏表であり、一体なのである。勝つと思うな、思えば負けよ、という言葉通りである。

 

 

(3)真の不敗の法、真の勝利の法とは

 

以上に基づいて言えば、仏陀の智恵から見れば、「不敗の法」とは、勝ち負けの区別を越えること、すなわち、自分と他人の優劣を比較せずに、慢心・優越感と妬み・卑屈の双方を越えることである。

言い換えれば、「真の勝利の法」とは、他に勝てば幸福になるという錯覚・無智に打ち勝つことであり、智恵と慈悲の心を培うことである。真に打ち勝つべき敵は、他者ではなく、自分の内側にある、他に勝てば幸福になるという間違った幸福観なのである。

逆に言えば、他に勝とうとすれば幸福になるという間違った考えに陥っている人は、世間で勝ち組だといわれようが、負け組といわれようが、仏陀の智恵から見れば、皆が、「本質的には負け組」である。「仏の手のひらの上」「ドングリの背比べ」であって、真の幸福をもたらす智恵と慈悲という最大の宝を失っている。

より詳しく言えば、真の負け組とは、競争に負けた者ではなく、勝ち負けにとらわれた結果として、真の自己の個性・役割を見失っている者である。また、真の勝ち組とは、競争に勝った者ではなく、真の自己の個性・役割を見いだして実現した者である。

これは、人と人の違いは、本質的には優劣はなく、個性・役割の違いであるという考え方に基づいている。学力・体力・財力・容姿に優れている者も劣っている者も、それは、それぞれの個性であり役割である。先ほど述べたように、松下幸之助は、学力・体力・財力に劣った自分を逆に生かして、他の力を生かすことを覚えて、それを自分の個性として、昭和の希代の実業家となった。

すなわち、前に述べた逆転の法の智恵を使えば、負け組とされても、その状態を逆活用して、自分の個性を見いだし、真の勝ち組になる道がある。松下幸之助のように、負け組だからこそ、自分の力ではなく、他の力を生かす道があるし、また、負け組だからこそ、他の苦しんでいる人の気持ちを理解することもできる。

こうして見ると、短所の裏に長所、長所の裏に短所があり、長短表裏・優劣表裏・善悪表裏という道理があることがわかる。これを理解して、自分の個性を良い意味で発揮し、悪い意味で表現しないように抑制することが重要である。

悪い意味で表現しないためには、例えば、勝ち組とされても、自分の成功は、自分の力だけで得たのではなく、負け組となった他者との切磋琢磨を含めて、さまざまな人々・全体のさまざまな支えがあってこそのものであると、正しく理解することが重要である。

前にも述べたが、そのように理解し、慢心に陥らずに、謙虚さを保って努力を続け、自分を支えた人々・全体に感謝をし、自分の得た称賛や幸福を独り占めせずに、皆と分かち合うならば、安定して幸福になることができる。

しかし、慢心に陥るならば、他への感謝ができず、他の支え・協力を徐々に失っていくし、それに加え、慢心によって、自分の努力も怠るようになるから、そのうち失敗することになる。この場合は、自分の個性を、悪い意味で表現してしまっているのである。

 

 

(4)必勝の法:長期的な粘り強い努力

 

こうして、自分の真の個性を発揮して、真の勝者になるためには、長期的な粘り強い努力が必要であることがわかる。負け組が、それを逆に生かして、真の勝ち組になるためには、その短所を長所に変えていく地道な努力が必要だ。また、勝ち組が、それに溺れずに、真の勝ち組になるためには、慢心に陥らず、感謝とともに、継続的な努力をする必要がある。その意味で、長期的な粘り強い努力こそが、人生必勝の道ということになる。

この法則の正しさを証明する端的な事例が、戦国の覇者である徳川家康である。「泣かぬならば泣くまで待とう」の言葉通り、その忍耐力・長期的な継続的な努力が、家康を天下人にした原動力である。

また、長期的な継続的な努力の土台が、健康・長寿である。家康は長寿でもあった。信長が50歳、秀吉が62歳で没する中で、76歳を生きた。松下幸之助は94歳を生きた。この健康長寿のための法は別項を参照されたい。

実際に、他人よりも長く健やかに生きることができれば、意図して無理に他に勝とうとしなくても、自ずといろいろな意味で、他に秀でることは明らかである。5年、10年、20年の経験の差は、非常に大きいからである。特に、中高齢期を長く健やかに生きることができるのは、まさに必勝の道だということができるだろう。

人の心の変化・進歩には、一定の時間がかかる。そのスピードは、単純に、速ければ善であり、遅ければ悪なのではない。よって、自分が、時の流れに合わせて、長い時間をかけ、辛抱強く努力する必要がある。

以下に、参考として、徳川家康の遺訓を紹介する。

 

 

(参考)徳川家康の遺訓

 

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。

急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。

こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 

人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。

急いではいけない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。

心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。

がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。

勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。

自分の行動について反省し、人の責任を責めてはいけない。

足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。

 

 

 

5 願望成就・祈願の法

 

(1)神仏への祈願における依存の問題と、ひかりの輪の誓願の思想

 

さて、次に、現世の幸福に関連して、世間一般で行われている神仏への祈願の問題に関して述べたい。ある意味では残念なことだが、これは、宗教と現世幸福の最大の接点である。現世幸福を得るために、精神的・宗教的な智恵を学んで実践するというよりも、宗教が説く神仏に祈願して、それをかなえようというものだ。

これが自分の努力を伴わずに行われれば、安直な神仏・宗教への依存ということになる。宗教が、弱い人間のものだという批判にもつながる。宗教団体ではなく、思想哲学の学習教室であるひかりの輪も、この問題意識を持っている。しかし、逆に、何事も自分の力だけでかなえることができるという考えも問題がある。

それは依存ではなく、慢心の問題である。依存ではなく、慢心でもなく、バランスのとれた願望成就の考え方は何だろうか。まず、依存を避けるためには、自分の努力を行い、人事を尽くした上のものであるべきだろう。それをせずに、神仏に過剰に依存したり、甘えたりすることではないだろう。

同時に、自分の努力は重要ではあっても、何ごとも自分一人の力だけで達成できるものではないというのも、繰り返しになるが、また重要なことである。何ごとも、さまざまな人々の助けがあってこそであり、さらには人だけではなく、他の生き物を含めた大自然の万物の支えがあってこそである。何かの物事を達成することはおろか、毎日を生きることにさえ、万物の支えが必要である。

ここで出てくる思想が、いわゆる多くの宗教が説く、何か特定の存在や宇宙を超越した神(超越者・絶対神)を神仏と見る思想ではなく、宇宙の万物を神仏と見る思想である。これは汎神論とも言われる。ひかりの輪は、特定の人・神を崇拝・信仰することはなく、宗教団体ではないので、この汎神論的な思想哲学を評価している面がある。

自分が万物に支えらていると考えて、万物を神仏と見なして尊重するという謙虚な心構えは、神仏に過剰に依存しないことと同じくらいに重要だと思う。

 

 

(2)感謝することの重要性

 

何が望みをかなえたくて、神仏に祈願する人が多いが、神仏に感謝する人はあまりいないのではないか。神仏への祈願とは、ある意味では、現状にはないものを与えてくださるように求めるものである。よって、それは、必要以上のものを求める=貪りの過ちを犯す危険性をはらんでいる。そして、これを防ぐためには、今すでに与えられている恵みに対して、十分に感謝する実践が必要である。

  仮にあなたが、神仏であったとしたらどうか、という想像をしてみてほしい。神仏であるあなたは、ある人が欲張って何かを求めても、それを与えることはないだろう。なぜならば、財物や地位や名誉など、この世のあらゆるものには限りがある。世の中のお金が無限ではなく、天下の回りものである以上、自分がお金を得ることは、誰かが失うことである。

ある人が、必要以上のものを欲張って神仏に願うならば、それは、神仏に他人から奪って自分に与えることを求めていることになる。万人に対して公平な愛を持つ神仏が、そうした願いをかなえるわけがない。また、前に述べたように、なすべき努力をしないのに、願いをかなえれば、その人の怠惰を助長することになる。それはその人の成長を損なうから、そうした願いをかなえるわけはないと考えられるだろう。

こうしたことを考えると、神仏に何かをお願いするよりも、まず、与えられているものに感謝する必要があるだろう。その感謝の中で、自分の得ている恵みを考えながら、必要以上のものを求める貪りの心を静めるのである。

そして、その感謝の対象は、やはり万物である。私たちの得ている恵みのすべては、突き詰めるならば、この世界の万物がお互いに助け合って存在している(縁起・相互依存)以上は、誰か特定の存在だけに支えらえているのではなく、万物に支えられているからである。そこで、再び、万物を神仏と見なす思想が出てくる。万物を神仏と見なして感謝するという実践である。

このように、まず十分に感謝をして、そのうえで、本当に必要と思われるものだけを求めるのである。その際の願いの対象も、やはり万物である。何事も万物と繋がり、万物の支えによるものだからだ。

なお、この実践は、「神仏への祈願」と表現するのは不適切だろう。これは、「誓願」と表現したい。なぜならば、祈願というと、やはり何か特定の神仏に祈っているというイメージになる。一方、誓願と言えば、まず、「誓う」ことと、「願う」ことの2つに分かれる。

ここでの誓いとは、自分ができる努力は、それをなす決意を(自分の中で、ないしは万物に対して)することである。そして、願いとは、自分の努力をしながらも、何事も自分だけの力だけでは成ることはないという謙虚な視点を忘れないために、本当に必要と思われることに限って、その実現に向けて、万物の支えを願うことである。

そして、私の経験の中では、こうした本当に必要な誓願をした場合には、何らかの形で、それが必ず実現したと感じている。2007年のひかりの輪の発足以来、バブルの崩壊やリーマンショックによる低迷する経済や東日本大震災の被害もあった社会の中で、私は、団体の代表として、賠償金支払いや、高齢者や病人を含めた当初数十名いたスタッフの生活を維持する義務を背負ってきた。その義務を果たすために、経済面を含めて、必要最低限のものを求めた誓願をしたとがあるが、それは全て実現した(かなった)と考えている。

もちろん、貪りを排除して、必要最低限のものに限り、しかも、自分の努力をした上での誓願であるから、そう度々したわけではない。経済面でいえば、10回未満である。しかし、そうして誓願をした際には、かなわなかったことはなく、これまで何とかやってこられたのである。

なお、ここで、一つ興味深いことは、これまで生きてこられたことを含めた様々な恵みに対する感謝をせず、必要以上を欲張る心で何かを願っても、そういった願いはかなわないのではないか。そういう人は、感謝もなく、願ってもかなわないから、願いの力を信じなくなると思う。逆に、感謝をし、必要な誓願をする人は、かなうから、誓願の力を信じる傾向に行くと思う。

 

 

(3)自分の中に神仏がいるという思想

 

この点を心理学的に説明することもできると私は思う。それは、表層意識と潜在意識の理論である。火事場の馬鹿力というように、本当に集中したときには、人の心や体は、大変な力を発揮する。しかし、その力は通常の状態では発揮されない。

特に、邪(よこしま)な願いを持っている場合は、自分の心の奥底の良心が、それに反発して、後ろめたさを感じている。これは、いわば心が分裂している状態である。表層意識と潜在意識が分裂しているのである。よって、自分の心全体の力で、願いを実現することはできない。

これは、言い換えれば、「良心」という「自分の中の神仏」が、その願いをかなえようとしていない状態だと表現することもできる。この「自分の中の神仏」という考え方は、大乗仏教が説く、すべての人が、自分の(心の)中に「仏の胎児」を宿しており、未来に仏になる可能性を有するとする思想にも通じるのではないか。また、これは、自分なりに正しい生き方に努めておれば、真に必要なものは与えられるという思想にもつながると思う。

また、ひかりの輪自体は宗教団体ではないので、これは既存の宗教への意見となるが、自分の中の神仏=良心の力を信じる、ないしは、自分の心が統一されたときの、大きな力を信じるということが、「自分たちの宗教の神様はご利益がある」と主張するよりも、宗教が本来説くべき、神仏を信じることではないかとも思う。

最後に、この点に関連するかもしれない仏教の思想の紹介をしたい。正しい願いであればあらゆる願いを叶えるとされる仏の法力の象徴として、仏教では、観音菩薩などが手に持つ「如意宝珠」という法具があるとされる。そして、この法具の突起をもった球形の形状が、表層意識=個人と、潜在意識=宇宙が、統一された状態を象徴するという解釈があるのである(突起=表層意識=個人、球形部分=潜在意識・宇宙)。この観音菩薩は、悟りに加え、(最終的に悟りに導くまでの)当面の方便として、現世の幸福を与える菩薩として、広く信仰されてきた仏様である。

 

 

(4)守護符、お守りについて

 

神社仏閣では、除災招福のために、守護符やお守りなどの神具・法具が提供されており、その御利益を信じて、多くの人が買い求めている。このお守りの効能に関しては、当然だが、科学的な証明はない。(逆にいえば科学的な反証もないが)。しかし、他人の幸福を願うためにお守りを買う行為などは、科学的ではないからといって悪いことではないだろうし、我が国に根付いた文化の一部であることは確かであり、科学的な視点ばかりで、その是非を問うべきものではないだろう。

しかし、せっかくお守りを買うならば、先ほど述べたように、何かを願うばかりではなく、日頃の恵みに対する万物への感謝を込めて、貪りの心を和らげ、願う時は本当に必要なものに限って願うことが重要ではないだろうか。その一方で、単にお金を払ってお守りを買えば、それで幸福になると考えるのであれば、それは多少安直ではないかとも思う。

さらに言えば、お守りを見る度に、貪りを静め、万物への感謝と分かち合いといった良い心を持つようにするならば、自分の心を貪りなどの悪い考えから守ることになるから、結果として、本当の意味での「お守り」になるのではないか。

なお、インドのヨーガの伝統の一部などでは、そういったお守りは、事前に清らかな波動が込められるように浄化され、それを持つ者が、清らかな心を持つことを助けることが期待されている。また、インド占星学の思想では、その人に応じた霊的な守護物があり、一部の純粋な金属や貴石や植物が、その人の良い心の働きが現象化することを助け、悪い心の働きを現象化させることを防ぐという考え方である。そして、インドのヨーガの行者は、これを霊的な科学だと主張している。よく知られるようなったパワーストーンにも通じる考え方である。
こうしたものにも、日本のお守りと同様に、科学的な証明はないが、日本のお守りと同様に、インドにはそうしたものが大切にされている文化があるのもまた事実である。そうした中で、先ほども述べたが、それを持つ人の心構えが重要になるのではないか。その心構え次第で、本当のお守りになるかが決まるのではないだろうか。

 

 

6 選択と説得の法:適切な意志決定と論理的な説得力

 

(1)正しい意志決定

 

人生には、プライベートにおいても、仕事においても、さまざまな選択、意志決定をしなければならない時がある。私なりに考えると、適切な選択や意志決定のために必要なことは、二つの要素があると思う。

一つ目は、道理にかなった、筋の通った、合理的な意志決定である。これは正確な情報の収集と、それに基づいた論理的な思考力による。もう一つは、直感力である。正確な情報に基づいて論理的・合理的な意志決定をしようとしても、情報収集が不可能であるなど、それができない場合もある。

そして、この二つのタイプの智恵は、双方とも、心が静まっているときに最善の力を発揮する。心が乱れていると、論理的な思考は妨げられるし、直感力は働かない。この点については、無我の悟りと直感との関係で述べた通りである。

なお、この二つのタイプの智恵は、右脳と左脳、女性原理と男性原理、智恵と方便などに通じるものである。前者が直感力、後者が論理的思考力・分析力である。

 

 

(2)合理的な意志決定の方法(アカデミック・ディベートから)

 

私は、大学時代に、英語会に所属し、米国の大学などでの学生の教育訓練の一環とされているアカデミック・ディベートを行った。一般にディベートとは、議論・討論と訳されるが、アカデミック・ディベートは、「理にかなった意志決定のプロセス」である。世間には誤解もあるが、これは、白を黒、黒を白と見せかける弁論術のことでは決してない。

米国の大学などでは、討論学(フォーレンシックス)として研究されており、卒業後に政治家や弁護士などになる者のための学生の教育訓練である。政府の政策決定のプロセスや、裁判での判決のプロセスといった、重要な意志決定のプロセスを模したものである。

よって、ディベートでは、討論のテーマとなる事柄に関する、広範で正確な情報を収集することが第一の作業となる。正確な情報に基づかないディベートは、単なる口げんかであって、意味をなさない。

ディベートの思考は、煩悩を抑制しようとする仏教的な思索・修行と通じるところがある。それは、どんな物事にも、利益と不利益、苦楽、善悪、裏表があるという思想である。仏陀の智恵の一つが、苦楽表裏という教えであり、煩悩は喜びももたらすが、その裏側にさまざまな苦しみをもたらすと説く。ディベートも、ある行為・選択・意志決定には、利益と不利益の双方があると考える。よって、ディベート的な思考訓練は、煩悩を抑制する思索に通じるのだ。

 

 

以上を前提として、ざっとではあるが、ディベートのプロセスの一例を紹介する。

紹介する事例は、現状を変える何らかの改革案がある際に、それを選択するか否かの意志決定を合理的に行うプロセスである。

 

1 改革案を肯定する論拠を検討する。

 

①改革案の内容を十分に書き出す。意味の曖昧な言葉は定義する。

②改革案の主な利益を検討する。利益は複数存在することが多い。

③改革案の利益の重要性・現実性を検討する。

※これらを検討するには、通常は自分の知識では全く不足であり、

関連する情報収集・調査・研究が不可欠である。

 

2 改革案を否定する論拠を検討する。

 

①全ての物事には両面があるから、改革案を否定する視点に立って考える。

②改革案の利益の重要性や現実性に対する反論を検討する。

③改革案の不利益を検討する。

※この際にも、関連する情報収集・調査・研究が不可欠である。

 

 

3 改革案と現状維持の案をぶつけ合って、総合的な優劣を判断する。

双方の利益と不利益、その重要性や現実性を比較衡量し、総合的な優劣を判断する。

 

4 以上の検討に基づいて、自分の意志決定を他者に発表する際の注意

 

①内容を十分に整理・分類・構成して、わかりやすく伝える

②反対意見には、事前の検討を活かし、総合的な優劣を示す。

 

 

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