オウム真理教の清算
オウム真理教時代の清算についてのコーナーです

ひかりの輪がオウムではない事実〈裁判資料から〉

【1】オウム脱却から「ひかりの輪」設立の経緯(総論)
(2019年2月28日)

前の記事に引き続き、ひかりの輪が観察処分取り消しを求めて裁判所に提出した書類を、以下に掲載します(読みやすさやプライバシー等を考慮して、一部、削除したり伏字にしたりしている箇所があります)。

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【1】オウム脱却から「ひかりの輪」設立の経緯

1.総論

(1)現実的・合理的・合法的性質を有する上祐の言動

上祐ら「ひかりの輪」が、アレフ(現Aleph)に在籍していた時代に、麻原の家族を初めとする当時の反上祐派(いわゆる「A派」=現在Alephのメンバー)との決定的対立を招いた決定的相違点とは、端的にいうと、麻原を盲信しない現実的・合理的な考え方に基づく合法的な活動(ひかりの輪)か、麻原への盲信・狂信に基づいて違法行為をも容認する面のある活動(現Aleph)か、ということである。

換言すれば、団体活動において、現実的・合理的な考え方によって、徹底的に違法性を排除し「合法」を志向するのが「ひかりの輪」である一方、麻原の意思であればむろん、麻原を盲信し、違法的な活動をも容認する傾向を有するのがAlephということである。

結論を先にいえば、現実的・合理的な考えと合法性を求める「ひかりの輪」は、狂信・盲信と違法性を容認するAlephとは、共に活動をすることができないと考えた上祐ら構成員が、Alephを脱会して、結成されたということである。

そもそも上祐自身は、オウム真理教時代から、現実的・合理的な性格を有し、例えば、選挙の惨敗が国家の陰謀であるとする麻原の主張をただ一人否定したことなどは、一般にもよく知られており、時に触れて麻原の非現実的・非合理的な指示や、それに基づく違法行為に反対してきた。そのため、一般にも「麻原に対して唯一ノーといえる男」ともいわれる。

そのような上祐ではあったが、オウム真理教時代は、自著で述べる様々な精神的な要因による麻原とその教義への盲信のために、麻原に強く迫られると抗しきれずに、炭疽菌散布実験など、武装化計画にも一部荷担したことがあるし、サリン事件の後も教団を擁護する広報活動を行った。

しかし、他の幹部信者に比べて、自分の頭で考えて、その現実的・合理的な視点から、麻原に異論を述べることが多く、最終的に従う場合にも、他の幹部信者と違って二つ返事ではいかない性格のために、結果として、麻原に疎まれ、1994年にロシアに派遣されることになった(=日本から追い出された)ともいわれている。

ところが、1995年の麻原逮捕後は、現実として麻原の武力路線が破綻したため、上祐の中で、本来の合理的・合法的な傾向が強まり、麻原逮捕後に教団の運営を主導すると、現実的・合法的な方向に導いた(いわゆる上祐の「ソフト路線」と呼ばれる社会融和的な教団運営)。その一環として、麻原に要請して、信者にこれ以上の破壊活動を禁じる指示を出させ、出頭しない逃亡犯を教団は匿わない意思を明確にするために除名するなどした。

獄中の麻原は、その上祐の方針を破防法対策として、しばらく容認していたが、やはりついには嫌がることになり、上祐が1995年10月に国土利用計画法違反事件に絡む偽証の罪で逮捕されると、麻原は、上祐のとった路線を強く否定し、上祐に教団運営に関与しないように命じ、教団には、「上祐色を一切なくし、路線転換するように」と強く指示した。

また、1996年には、麻原は再び従来の予言を繰り返し、神のような身体(いわゆる「陽身」)を得るとして、死刑にならず復活することを示唆したため、その影響を受けた獄中の上祐は、一時的に再び麻原に対する盲信を深め、1996年の自らの公判などで、麻原への帰依を表明するなどした。

しかし、1997年以降に、麻原のハルマゲドン予言が外れ、さらには麻原が不規則発言や奇行を始めて連絡がなくなったことなどから、上祐の中で、再び麻原の相対化が進み始め、1999年末に出所するまでには、麻原の教えの危険性の一角を形成しているハルマゲドン予言は外れたと出家信者に明言するほどになっていた。

(2)Alephでの上祐の合理的・合法的運営に反発した松本家

1999年末に上祐は釈放され、教団に復帰した。2000年2月には、上祐が主導する形で、オウム真理教を改称したAleph(当時はアレフ。その後アーレフと改称しAlephに至るが、以下Alephで統一する)の体制を発足させた。

上祐の合理的・合法的性質は、Aleph体制に如実に反映されていた。麻原自身が裁判でも自分の事件への関与をほとんど認めず、獄中から予言や復活を説いていたために、上祐が復帰した教団の信者の中には、麻原の事件関与を認めず、その予言や復活を信じている者が少なくなかった。しかし、上祐は、麻原の一連の事件への関与を明言し、現実的な視点から麻原の予言や復活を否定し、麻原の死刑は不可避だと主張し、現実的な教団運営を主張した。

そして、破防法対策としても麻原が許可したことがないのに、教団内部の反発・反対を抑え込んで、2000年(平成12年)の2月に、麻原をはじめとする教団の事件への関与を公に認めて謝罪した。それとともに、教団の名称を「アレフ」と改名し、麻原の公の位置づけを、優れた瞑想家であるが、その事件は間違いとして相対化した新体制を敷いた。

さらに、これもまた破防法対策としても麻原が許可したことがないのに、教団内部の反発・反対を抑え込んで、被害者への賠償を開始し、同年7月には、被害者賠償契約を締結した(なお、上祐らの脱会後、Alephは被害者賠償契約の更改に応じず、被害者団体と裁判所で調停に至るも不調に終わっているが、それはそもそも被害者賠償契約の締結に対する麻原の指示・許可がないからである)。

さらに、教材においては、ヴァジラヤーナなどの危険な教義を廃止するだけでなく、これまた破防法対策としても麻原が許可したことがないのに、麻原を最終解脱者とする記載をなくし、特に2003年には、麻原を前面に出した従来の体制を弱める教団改革に着手した。

ところが、こうして進む改革に対して、麻原の教え・指示を絶対とする、麻原の妻(松本知子あらため明香里)や三女(松本麗華)が激しく反発するようになり、麻原の家族を全ての信者の上に置く麻原の指示を使うなどして、Aleph教団内で多数派工作を行った挙げ句、上祐を失脚させ、2003年6月以降、「修行入り」と称する軟禁状態に置き、一般信者から隔離した。

その上で、麻原の家族・松本家主導のもとで、教団は、麻原への絶対的帰依を強める方向へ「原点回帰」していった。

(3)A派(現Aleph)の麻原絶対視・違法性に反発したM派(上祐派・代表派)

そのような原点回帰・麻原絶対視は、自然と、教団の反社会的な性格を強め、団体活動の違法性を容認する傾向を帯びることになった。現に、松本家は、後述のように、上祐が教団に復帰した1999年末以降、上祐の軟禁後に至るまで、少なくとも以下の4つの事件において、明らかに違法または違法性の高い行動をした。

①2000年1月:旭村事件 麻原の長女と、次女・三女との間で争いが起き、次女・三女が長女の住居に不法侵入した容疑で逮捕された事件。このため、松本家は、表面上は教団運営から離れることになった。

②2000年7月:シガチョフ事件 ロシア人元オウム信者シガチョフが、武器を用いて麻原の奪還を計画した事件。それを知った三女が、シガチョフについて「帰依がある」と賞賛したため、シガチョフの犯行を心理的に後押しする結果を招いた。

③2004年~2006年:三女ら麻原家族の訴訟詐欺疑惑 和光大学から入学を拒否された三女は、自分は教団とは無関係であると嘘の主張をして、2004年に同大学に損害賠償請求訴訟を提起し、2006年2月に30万円の賠償金の支払いを得たが、この三女の行動は詐欺の可能性があるとして捜査当局が注視し、オウム事件の被害者の弁護士も批判した。 さらに、2006年4月には、次男の入学拒否に関して5000万円もの多額の賠償金を求めた訴訟を提起した。これが、この2006年4月前後に、合法的な教団運営を追及する上祐らが、Alephから脱会し、新団体を設立する必要性を議論する一つの理由となった。

④2004年9月:ケロヨン事件 Alephを脱会した、麻原への過激な個人崇拝を行う信者らのグループ・ケロヨンクラブが、他の信者を竹刀で叩く等の過激な修行を行った結果、信者を死に至らしめた傷害致死事件。 同事件発生直後、直ちに教団側に情報が入ったものの、松本家側は、事件を明るみにすることを極力避ける傾向にあり、逆に事件を明るみにした上祐等を批判した。このケロヨン事件の問題が、上祐が家族に強いられた幽閉から自分の意思で脱出し、2004年11月に、上祐派(M派)を形成する一つの理由となった。

⑤上祐に毒を盛る議論をした疑惑 2003年に、二ノ宮と麻原の家族の中で、上祐に毒を盛ることが議論されたことがある。その事実を上祐が知ったのも、ケロヨンと同じく、2014年に、上祐がM派を形成し始める少し前のことである。

上記①②は上祐軟禁前のことであるが、上記③④⑤は上祐の軟禁中に発生したことである。

こうした違法性の高い行動がまた繰り返されようとしていることに危機感を抱いた上祐や、上祐を支持する者達が、2004年11月に、M派(上祐派・代表派)を結成した。一方、そうした上祐らの行動を封じ込めようとする者達が、A派(反上祐派・三女アーチャリー〈三女の宗教名〉支持派)と呼ばれるようになり、激しく対立するようになっていった。
この両派の結成と対立については、2017年東京地裁判決も認定しているところである。

(4)両派対立の最大の争点「合理的・合法的な運営か、帰依と違法性の容認か」

この両派対立の最大の争点は、頭書の通り、①麻原の事件関与・刑死を直視し、その予言・復活を否定した現実的・合理的な視点による「合法的」な団体活動か、②麻原の事件関与を直視せず、国家権力による陰謀論(国家権力の陰謀によって無実の教団が陥れられたとの論)を保持し、麻原の予言・復活を信じて、麻原への絶対的な帰依(盲信)を保ち、違法性をも容認するか(違法か)ということであった。ある意味で、イスラム教(やキリスト教などで言われる)穏健派と原理主義派とよく似ている。

合法性に関して、さらに言えば、M派は、教団信者の違法行為を防止・排除するためならば、あえて警察とも協力するということであった。しかし、麻原は、警察・マスコミ・国家権力を強く敵視し、悪魔の手先と説いていたので、上祐は、麻原と同じく警察を敵視・悪魔視するA派からの激しい反発を招くことになり、「公安のスパイ」呼ばわりされるようになったのである。

M派は、麻原を盲信し、上記①~④のような明白な違法性を有するA派の団体運営に対して、強く異を唱えた。M派は、その主張内容を繰り返し文書にして、A派を含む教団内部に配布し、周知に努め、時にはA派に直接要請書を突きつける等の取り組みを行ったが、それらはいずれも、合法的な教団運営を第一に求める内容であった。

それは、決して言葉だけのものではなく、確たる行動をともなうものであった。

現に、上祐は、上記②のシガチョフ事件においては、情報を真っ先に日本とロシアの公安当局に伝え、シガチョフの逮捕に結びつけ、当局との共同作業によって、事件の早期解決を導いた。

上祐およびM派は、上記④のケロヨン事件においては、一度はケロヨン関係者によって事件の隠蔽が図られ、捜査当局も騙されていたところを、真っ先に公安当局に情報を提供し、事件を再捜査させ、関係者を出頭させる等して、当局との共同作業によって、事件の解決に貢献した。

上記①③については、M派はたびたび教団内で問題提起し、三女の行動を批判した。

以上のことから、M派の行動は、松本家率いるA派の違法な言動に対する抗議の念から生じていたもので、そのためならば国家権力・公安当局とも協同するものだったのである。

なお、合法的な活動を追求する上で、上祐らは、ハルマゲドンが起こって麻原がキリスト(王)になるという麻原の予言を完全に否定し、麻原の死刑による死を前提に活動した。これは本件観察処分で、麻原を武力行使により日本の専制君主とするオウム真理教の政治上の主義とされるものを完全に否定したものである。しかし、麻原自身は、獄中からも予言をし、麻原が神のような身体を得る(ゆえに死刑にならない)ことを示唆しており、上祐らはこれに逆らったことになる。

(5)識者も認める「教祖(麻原)を使った宗教の穏健化のプロセス」

なお、M派が教団運営の合法性・社会性を訴えて作成した当時(2005年・平成17年頃)の文書やブログには、「合法的な教団運営こそが麻原(グル)の意思である」旨が、繰り返し説かれ、「麻原の意思」が強調されている。

公安調査庁等は、こうした点をとらえて、「ひかりの輪」についても「麻原の意思」を実践することを「特定の共同目的」としていると主張しているのであるが、その見立ては完全に誤っている。

これは、一言で言えば、M派は、自分達が望む現実的・合理的・合法的な活動の実現のために、その主張に沿う麻原の発言を用いた(いわば利用した)にすぎない。

M派の主張を伝えたい相手であるA派や大多数のAleph信者は、麻原に対して強く帰依しており、その発言を金科玉条のごとく奉っていた。特に、麻原がすべての信者の上に置くとし、本来は上祐らが従わなければならない麻原の家族が、麻原を盲信しており、違法行為を容認する一面があった。そのような相手に対して、教団運営の合法性を訴え、教団を穏健化させることを説くためには、教祖・麻原の言葉を使うことが、現実として唯一の方法であった。

ただし、上祐らM派自身も、麻原の過ちやオウム事件を直視する勉強会を通じて、麻原を相対化して、麻原への絶対的な帰依は消失していたとは言え、その当時は、依然として麻原への一定の依存が残存していたために、自分達のためにも、麻原の言葉に頼らざるをえなかった面があることも事実である。

また、こうして現実的・合法的な路線のために、それを助ける麻原の言葉を用いたのであるが、麻原の教え・指示・言葉の全体をよく見るならば、そもそもの麻原の妄想的・非合法的な性格・性質のために、上祐らの麻原の言葉の使い方には無理な一面があり、しかも、麻原がすべての信者の上に置いた麻原の家族に従わなかった。そのため、麻原を絶対とし、その言葉通りの実践=麻原への絶対的な帰依をする者たち(A派)は、上祐らが麻原に帰依していない、(社会対策のために)麻原を隠しているのではなく、実質的に麻原を外して否定し相対化(グル外し・グル否定)しており、代わりに上祐がグルになろうとしているとされた。

しかし、こうした麻原の言葉を用いた行動は、あくまで麻原を相対化はしつつも一定の依存が残存していた初期の対応であり、その後は、2006年から2007年にかけて、麻原から完全に脱却する過程を歩み、2006年11月には、麻原への依存を完全に脱却するため、その教えと教材も全て破棄する決定をした。

上祐も、違法行為に繋がるような場合は、麻原の教えを文字通りに、言葉通りに解釈してはならないと明確に説き、それまでの麻原の危険な教えや指示を事実上、無に等しいものとし、麻原の絶対性を否定した。なお、原審の原告準備書面(1)・第5で詳述したように、麻原への絶対的帰依とは、まさに麻原の言葉通りに実践することであるから、これは上祐やM派が、麻原への絶対的帰依から離れていったことを物語っている。

そして、ついには、麻原を否定・批判し、麻原の言葉に頼る必要もなくなっていき、M派はAlephを脱会、「ひかりの輪」「ひかりの輪」の設立に至るのである。

以上のとおり、上祐及びM派、そして「ひかりの輪」がたどったプロセスは、

①麻原を否定せず、麻原の言葉を用いながら、麻原の危険な教えを排除して、信者・教団の違法行為を防止して、事実上、麻原を相対化する②違法行為に繋がる「麻原の言葉」に関しては、その言葉通りの実践を否定して、直接的に麻原への絶対的な帰依を否定して麻原を相対化し、違法行為を否定・防止し、③麻原を明確に全面的に否定・批判することで、違法行為を否定する
というものであった。

また、M派や「ひかりの輪」に生じたこのようなプロセスは、麻原の説法や言葉に限ったことではなく、その崇拝対象についても生じたのである。すなわち、オウム時代やAleph時代の初期は、崇拝対象は麻原だったものの、その後は、以下の順に変化していった。

①麻原を維持しつつも、麻原の絶対性をなくして相対化する(2006年までのAleph時代)②麻原を含めた特定の人物の絶対視を否定しながら、シヴァ神、大黒天、一般的な三仏を宗教的なシンボルとする(ここでのシンボルは崇拝対象とは異なる意味を持つ)(2007年の「ひかりの輪」発足から2013年頃まで)③特定の何者をも崇拝しない哲学教室へと改編(2014年の哲学教室への改編の開始から現在まで)

このように、過激な宗教が穏健化するプロセスとして、その初期においては、かつての絶対者・権威者の言葉や、それに関連する象徴を用いるなどして段階的に変化・変革し、最後には完全な脱却を果たすということは、一般的なものであり、さらに言えば、唯一現実的な過程ともいうことができる。

それは、キリスト教の過激派に自ら接し、イスラム過激派を含めた国際テロリズムの調査にあたった元公安調査官のN氏や、同じくキリスト教の反社会的・異端的勢力の歴史の研究にあたった宗教学者の大田俊寛氏の見解からも明らかであり、両氏とも、公安調査庁等の見解を早計・先入観であるとして、以下の通り、誤りと批判している。

◎元公安調査官・N氏の見解

ところで、国は、上祐氏ら「ひかりの輪」の幹部が、Alephからの脱会直前に麻原の言葉を用いてAleph構成員に話をしていたことを根拠に、「ひかりの輪」にも麻原の教義を広める「特定の共同目的」があり、Alephと同一団体であると主張しています。 しかし、それらの事実を指して、「ひかりの輪」が麻原に帰依していると見るのは早計に感じます。 たとえば、キリスト教の教団の中には、神の命令に基づく「聖戦」を主張し、核戦争の到来を待望する過激派があります。いわゆるキリスト教過激派です。そのような彼らを穏健な方向に変わるよう説得するために、その信仰の土台となる用語--たとえばイエスや聖書の言葉を用いるのは、別段おかしなことではありません。それだからといって、説得する側が過激思想を有しているというわけではないのは当然です。
これは、そのようなキリスト教過激派にも接してきたことがある私自身の体験からも言うことができます。 国は、今いちど、上祐氏らの過去の発言について、先入観をなくして、その意図するところを一つ一つ慎重に調べ直す必要があると思います。 昨年9月の東京地裁判決は、その点について、十分に時間をかけて慎重に調べた結果として導き出されたものであると私は見ています。

         ◎宗教学者・大田博士の意見書

加えて、しばらく前まで「ひかりの輪」は、「大黒天」や「三仏(釈迦・弥勒・観音)」を宗教的シンボルとして用いていたのだが、公安調査庁はこれらを、麻原彰晃に対する崇拝が形を変えて(偽装されて)維持されているものと見なした。確かに、このような解釈を引き寄せてしまう余地が少なからずあったとはいえ、「ひかりの輪」の宗教的見解の変遷をアレフ時代まで遡って時系列的に振り返ってみると、そうした主張もまた、事実を正確に捉えたものとはいい難い。
(中略)

2000年から「ひかりの輪」設立前年の2006年まで、上祐氏とその支持者(「代表派」や「M派」と呼ばれていた)のあいだでは、未だ麻原=シヴァ大神信仰の呪縛が強く残存しながらも、そこから離脱するための道が模索されることになる。2002年頃から教団では、現在も続く日本の「聖地巡礼」が開始されるのだが、宗形真紀子氏はその体験から、シヴァ神に対する理解が少しずつ変容していったということを記している。

(中略)

すなわち、シヴァ神信仰の世界的広がりや多様性を実感するにつれ、それを麻原崇拝や終末論に局限して理解する方法が次第に相対化されていった、ということになるだろうか。 上祐氏もまた、「聖地巡礼」の過程で、オウム時代とは異なる神観念を獲得していった。

(中略)

2009年には、オウム時代のヒンドゥー教的シヴァ神からの脱却の象徴、すなわち、「シヴァ神に由来しつつも、シヴァを降伏した仏教の護法神」という位置づけが与えられるようになる

(中略)

以上のような仕方で上祐氏は、「シヴァ神」や「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」に対する意義づけを、オウムにおけるそれから根本的に更新していった。こうした一連の流れは、公安調査庁を始めとする外部の人間からは、オウム時代の信仰から依然として連続性を保つもの(「麻原隠し」)と見なされた一方、アレフの主流派からは、教団にとってもっとも重要な麻原への信仰を骨抜きにするもの(「麻原外し」)であると捉えられた。

(中略)

「ひかりの輪」の設立以降も、オウムからの完全な脱却を目指した改革は進められていった。その初期においては、上祐氏の体験したヴィジョンに基づき、「大黒天」や「弥勒菩薩」を含む諸神仏が信仰の対象とされたが、個人の神秘体験を過剰に重視するべきではないこと、神聖なものは外部の対象にではなく一人一人の心に存在していることが説かれるようになり、2013年12月に実施された基本理念の改訂においては、特定の崇拝対象を持たない「宗教哲学」的なスタンスで探求を行うこと、また、自己を絶対視せず、「未完の求道者」の心構えを持ち続けることが明記された。

(中略)
要約すれば、オウム時代以降の崇拝対象の変遷は、大枠として以下のように整理されるだろう。

麻原彰晃=シヴァ大神→ シヴァ神→ 大黒天や弥勒菩薩(三仏) → 崇拝対象は持たない

確かに外部の人間からすれば、オウムはあれほどの惨劇を引き起こしたのだから、どうして一挙に麻原信仰から抜け出せないのかと、苛立たしく感じられる点もあるかもしれない。しかしながら教団内においては、先述したように、麻原による終末予言の呪縛、陰謀論の残存、アレフ主流派の反発、宗教的求道心の迷走等の諸要因があり、麻原信仰からの脱却は現実には、暗中模索の状態で一歩一歩なされざるを得なかった。ゆえにわれわれは、経緯の一部を取り出して早急に判断するのではなく、それら一連の経緯の全体を視野に入れた上で、「ひかりの輪」の現状に対する評価や批判を行う必要があると思われる。

(6)2017年東京地裁判決も政治上の主義の消失と、M派とA派の帰依に対する解釈の違いを認めていること

なお、前記の通り、Aleph時代の早期において、上祐ら「ひかりの輪」(当時のM派)は、前記ないし後記2(40)記載の通り、麻原の予言・復活を信じず、その刑死を受け入れた講話や活動を繰り返しており、本件処分上の政治上の主義である、麻原を独裁的主権者とする政治上の主義の実現など全く考えておらず、麻原が主導した時代のオウム真理教と異なり、無差別大量殺人行為を繰り返す目的・動機が消失しており、それゆえに危険性が消失していたことは明白である。この点に鑑み、2017年東京地裁判決も、

(一連の事件の原因となった)本件の政治上の主義についても、両サリン事件当時には、これがオウム真理教の教義と密接不可分に結びついていたとしても、松本が死刑確定者として長期にわたり収容されている本件更新決定時においても、なおオウム真理教の教義と密接不可分に結びついているとは言い難い。仮に同時点において、本件政治上の主義が存続しているとしても、松本を王ないし独裁者とする祭政一致の専制国家体制を構築するために構成員がどのような行動をとるのかは不明確と言わざるを得ない。そうすると、仮に、原告(ひかりの輪)が、オウム真理教の教義を広め、これを実現する目的を有するものと認められたとしても、そのことから直ちに本件更新決定時における原告とAlephが一つの組織体ないし団体と認められるということはできず(後略)(p94~95)

と述べて、本団体全体においても、無差別大量殺人行為に至る危険性が漸減していることを判示し、さらには構成員によって行動が異なること(例えば当時のM派とA派)を示唆しているのであるから、ましてや「ひかりの輪」においては、その危険性が完全に消失していることは明らかである。

また、2017年東京地裁判決は、初期において現実的・合法的な教団の実現のために麻原の言葉を用いる中で麻原への帰依を表現していたM派と、麻原が説いた通りに麻原への帰依を解釈して麻原の言葉を文字通り実践し違法行為をも容認するA派では、麻原への帰依の解釈が異なり、そのために取る行動が異なってくることを認め、以下のように述べている。

団体において無差別大量殺人行為に及ぶ危険性を内包するものとしても、個々の構成員が行う団体としての行動を一義的に特定する程度に具体的で明確であるとは認めがたい。むしろ、原告が設立される前のAleph内においても、どのような団体運営が松本に対する真の帰依であるかについて上祐派とA派の対立があったのであり、松本に対する絶対的な帰依というオウム真理教の教義の本質的部分でさえ、多義的であり、個々の構成員によって異なる解釈が存在するものであるから、これが構成員としての行動として具現化されるには、組織体として独自の意思を決定し得ることが前提とならざるを得ない。(p94)


(7)まとめ

以上のとおり、上祐及びM派は、初期は、麻原の言葉を用いながら、違法性のない教団運営を実現しながら、徐々に麻原を相対化して、最後には麻原を否定・批判し、麻原・オウムの違法性を完全に否定するに至ったことが、全体を通して見れば、明らかとなるのである。

よって、ある一時期における上祐及びM派の「言葉のみ」をいたずらにとらえて、「ひかりの輪」がAlephと一体となって「麻原の意思」を実現しようとしているという公安調査庁の主張は失当なのである。

一方、上祐及びM派の「実際の行動」を見るならば、公安調査庁等の主張とは正反対に、「ひかりの輪」は、違法行為に関しては、麻原に準ずる存在である松本家の者さえ批判し、公安当局に通報・告発することはおろか、時には協同捜査さえして、信者の違法行為を封じ込め、逮捕・受刑に追い込むことを繰り返してきた。麻原時代の教団から見れば、教団側ではなく、国家・社会側の立場に立って行動してきたために、A派からは「公安のスパイ」とまで噂される状態になったという、揺るがぬ事実が存在する。そして、それは、今後も同様であることが明らかである

それを証明するために、以下に、時系列を追って、上祐及びM派の言動を見ていくこととする。
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