動画[講義]
上祐史浩の仏教・心理学等の講義の動画をご紹介します。

2010年01月

  • 2017~18年年末年始セミナー代表講義特別教本1月1日(中継/1月1日)12:00より) (2010年01月01日)

       2017~18年年末年始セミナーにて、1月1日 12:00から行われる、上祐代表講話のネット生中継で使用されるテキストです。

     

    ネット公開生中継はこちらからご覧いただけます。

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    12/29~1/2までの夏期セミナー期間中の講話中継の日程>>>こちら 

     

      第4章 仏教思想が説く幸福の奥儀:智慧・慈悲・精進

    ※第4章の途中「18.仏陀・菩薩の心:大慈悲・四無量心」から掲載しています。


    18.仏陀・菩薩の心:大慈悲・四無量心

    仏陀・菩薩の心である大慈悲・四無量心の基本的な部分に関しては、すでに前章の仏教の瞑想の解説の所で言及しており、それを参照されたい。
    ざっと復習すれば、四無量心とは、四つの計り知れない利他の心といった意味であり、その四つとは、慈・悲・喜・捨である。また、無量(ないし計り知れない)という言葉は、具体的には、遍満無量という意味で、遍く(あまねく)全ての衆生を完全な幸福(=仏陀の境地)に導いて完全に満たすという意味がある。
    そして、この四無量心は、先ほど述べたように、自と他を一体と見る智慧、自と他の幸福を一体と見る智慧、苦と楽を一体表裏と見る智慧などに基づいていることが、非常に重要である。
    まず、智慧を有する者は、他の幸福=自己の幸福と見て、社会(衆生)全体の幸福=自分の真の幸福と見る。よって、自ずと大慈悲・四無量心が生じるのである。その四無量心に基づいて、「全ての衆生を仏陀の境地に導くために、自らが仏陀の境地に至ろう」とする心を「菩薩心」(菩薩の心)といい、その決心をすることを「発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん)」といい、その修行の道を「菩薩道」という。
    また、この菩提心は、自と他を一体と見る智慧に基づいているから、自分の今の幸福が他者・万物に支えられたものであると認識している。すなわち、今まで自分が生きて修行ができたことについて、それを支えてきた全ての衆生を自己の恩人と見て、その恩に報いようとする心が、大慈悲・四無量心・菩提心の背景になるのである。この衆生に恩を思うことを、知恩の修行ともいい、衆生の恩に報いようとすることを報恩ともいう。
    こうして、四無量心・菩提心は、衆生に対する感謝に基づく恩返しの側面があり、それゆえに、自分が他者の上に立つ慢心・見下しの意識を超えている。あくまでも自他一体の境地なのである。そして、感謝に基づく恩返しとして、利他の実践をすることが、すなわち自分自身の利益にもなるのである。
    では以下に、慈・悲・喜・捨という利他の心と実践の一つ一つが、いかに自と他の双方を利するものであるかという視点から解説する。


    19.慈(マイトリー)

    「慈」とは、他の幸福を願う心と、他に幸福を与える実践である。そして、これは以下の通り、自他双方を利して、自他双方の幸福を増大させる実践である。
    第一に、前章で紹介した釈迦牟尼の実子ラーフラへの説法にあるように、自己の煩悩によって、自己の苦しみが強くなることを回避・予防することに役立つ。他と幸福を奪い合うことが、逆に様々な苦しみを招くことは、四苦八苦の教えなどで示した通りである。一方、他と幸福を分かち合うならば、この奪い合いの苦しみを防止・予防することができる。貪りと、貪りを背景とした怒りによる苦しみの回避・解消である。
    第二に、一般的にいっても、他に幸福を与えた者は、他から幸福を与えられる人間関係を作ることができる。その意味で、幸福を与え合う循環が形成される。そもそも自分の幸福は、自分だけの力ではなく、他者に支えられている。その意味で、自分だけの幸福ではないと考えて、その幸福を他と分かち合う義務があるが、そうして自分を支えている他が幸福になるならば、自分も他の支えを得続けることが容易になり、自分の幸福も続いていく。これは、幸福の与え合いの循環である。
    第三に、幸福になるための資源は、前に述べたように、心の安定・知性(智慧)・健康・良い人間関係などであるが、他と幸福を奪い合わずに足るを知って、他と幸福を分かち合えば、心が安定し、広く温かくなるという精神的な幸福が得られる。さらには、そうした安定した心は、ストレスなどが少なく健康を改善し、奪い合いがないために人間関係が良好となる。さらには、安定した心がもたらす物事を正しく理解・判断する智慧も得て、幸福になる資源を得ることができる。
    最後に、「万物が同根であり、一体である」という一元的な悟りの境地を得ようとする視点から見てみる。宇宙の全てはビッグバンの一点から始まり、全ては同根であるから、自分の幸福・恵みは、根本的・本質的には、幸運によるものであって、自分と同根である他者が不幸であるということは、意図せずにではあっても、他が自分に幸運を譲ったともいうことができる。よって、そうした他と自分の幸福を分かち合うことによって、自分の一元(万物同根)の悟りが深まることになる。


    20.悲(カルナー)

    「悲」とは、他の苦しみを悲しむ心と、他の苦しみを取り除く実践である。そして、これも以下の通り、自と他の双方を利して、自他双方の苦しみを和らげる実践である。
    第一に、これも、釈迦牟尼の説法にあるように、自己の煩悩とそれによる苦しみを回避することにつながる。他と幸福を奪い合って、他と苦しみを押し付け合うことが、逆に苦しみを招くことは、四苦八苦の教えにおいて述べた通りである。一方、他の苦しみを分かち合うならば、この押し付け合いによる苦しみを、防止・予防することができる。その結果、怒り・憎しみ・恨み・妬み・残虐な心による苦しみの回避・解消につながる。
    第二に、他の苦しみを取り除けば、他から自分の苦しみを取り除いてもらう人間関係を得ることができる。これは、苦しみを分かち合う循環である。そもそも、他の苦しみは、未来に自分に生じる可能性があり、今、他の苦しみを取り除く手伝いをすることは、未来の自己の苦しみを予防することになる。他の苦しみの原因を理解すれば、自分はその原因を作らないように努めることができるし、たとえ自分に生じたとしても、他のそれを取り除いた経験から、それに対処することができる。
    第三に、他の苦しみを気づかう習慣が深まり、世界には自分と同じように、または自分以上に苦しんでいる人が無数に存在することが、視界に入ってくるならば、自分の苦しみは小さく感じられるようになり、この意味で苦しみに強くなることができるだろう。


    21.慈悲の化身・観音菩薩:苦しみは慈悲の源

    第四に、自分の苦しみに尊い貴重な価値を見出すことができるのも、この、他の苦しみを取り除く慈悲の実践を行う場合である。これを表すものが、観音菩薩の誕生の説話である。観音菩薩は、観音菩薩として転生する前に、子供の時に親に死に別れ、悪い人間に騙され、一生奴隷としての苦しみ・苦役ばかりの人生を経験したという。
    しかし、その死の間際において、観音菩薩は、「それらの様々な苦しみの経験を通して、自分は人の世界の様々な苦しみを知った」と考えた。そして、さらに、「それを逆に縁として、来世は同じ苦しみに嘆く人たちを救っていこう」と決心したのである。その結果として誕生したのが、慈悲の化身、慈悲から生まれたともいわれる観音菩薩である。
    観音菩薩は、苦しみばかりの薄幸の人生には、人の世の苦しみを知り、慈悲という最も尊い心を培うための宝が隠されており、他の苦しみ取り除く慈悲の心と実践が、自分の苦しみをも取り除くと悟ったのだと思われる。
    一般にも、人生はなかなか思いのままにならず、自殺を考える人も少なくない。しかし、この苦しみ多い人生であっても、慈悲の心で生きようとすれば、生きるための力・勇気を得ることができるということである。実際に、自分が苦しんでいる時に、誰かがそれを分かち合ってくれれば、苦しみが和らぐことは誰しも経験していることだろう。逆に自殺する人は、孤立した人が多いという。
    だとすれば、自分の苦しみの経験を活かして、他の苦しみを取り除くという新しい生き方に目覚めることが、生き抜くための力・勇気・智慧を与えてくれるのではないだろうか。普通の人が経験しないほどの苦しみを経験したのだから、普通は「二度と人の世界には生まれ変わりたくない」と思ってもよいはずの観音菩薩が、あえて再び苦しみ多き世界に生まれ変わる力・勇気を与えたのが、この慈悲の智慧だったのである。


    22.慈悲こそが生きる力・勇気・智慧

    そういった意味では、慈悲は、生きるための力、生命力自体ということもできる。よって、慈悲を長所とする仏陀は、生命そのものであるという思想もある。慈悲の化身とされる観音菩薩の本体とされる阿弥陀如来は、極楽浄土の教主であるとともに、無量寿仏ともいわれ、無限の生命を生み出す力を持っているというが、その力の源は、慈悲の心なのではないだろうか。
    これを言い換えれば、苦しみが多い環境条件であっても、自分だけの幸福を考えることが、苦しみの根本原因としてあるということである。これは蜘蛛の糸の説話ともつながる。その説話では、地獄という最大の苦しみの原因は、自分の幸福ばかり考える無慈悲な心であることを示している。
    なお、この観音説話の詳細は、2016~17年の年末年始セミナー特別教本『四無量心と六つの完成』(ひかりの輪刊)に記載してあるので、是非参照されたい。
    さて、悲の実践は、幸福になるための資源である心の安定・知性(智慧)・健康・良い人間関係を培うという視点から見ても、他と苦しみを押し付け合わずに、逆に他の苦しみを取り除くことで、嫌悪から解放され、心が安定し、広く温かくなるという精神的な幸福を得られることになる。さらには、そうした安定した心は、ストレスなどが少なく健康をもたらし、奪い合いがないために人間関係が良好となり、安定した心がもたらす、物事を正しく理解・判断する智慧も得ることになる。
    そして、「万物が同根であり、一体である」という一元的な悟りの境地を得ようとする視点から見るならば、宇宙の全てが同根である以上、自分よりも他者の苦しみが多いということは、意図せずにであっても、他が、自分に幸運を譲ったという一面があるのだから、そうした他の苦しみを分かち合うことは、自分がなすべき実践であり、そうすることで、一元(万物同根)の悟りも深まることになる。


    23.喜(ムディター)

    「喜」とは、他の幸福を喜び、妬まない実践である。さらには、他の善行を称賛して見習うことも含まれる。これは、自と他双方の幸福・喜び・善行を増大させるものである。
    第一に、釈迦牟尼の説法にあるように、自己の煩悩による自己の苦しみを回避することにつながる。他の幸福を妬み奪い合うことは、逆に苦しみを招くものである(四苦八苦の教え)。一方、他の幸福を妬まずに喜ぶことで、奪い合いによる苦しみを防止・予防する。これは、妬みや、妬みの背景にある貪り・不満・独占欲などの解消につながる。
    第二に、他の幸福を喜ぶことで、自分の幸福も他から喜んでもらえる人間関係を作ることができる。実際に、他の幸福は、自分の幸福の邪魔ではなく、自分や全体の幸福の見本や手助けとして活かすことができるものである。特に、他人の幸福の源である善行を称賛して見習うことで、自分の善行を増やすことができる。これは、他に勝って幸福になるのではなく、他を活かして幸福になる道である。
    第三に、幸福になるための資源--心の安定・健康・人間関係・知性(智慧)を得るという視点からも、他の幸福を妬まずに喜ぶならば、妬みから解放された心は、安定し、広く温かくなるという精神的な幸福が得られる。さらには、そうした安定した心は、ストレスなどが少なく健康を改善し、奪い合いがないために人間関係が良好となり、安定した心がもたらす、物事を正しく理解・判断する智慧も得ることができる。
    最後に、「万物が同根であり、一体である」という一元的な悟りの境地を得ようとする視点から見るならば、宇宙の全てが同根である以上、全ての他者は自分の家族・同胞ともいうべき存在であって、その幸福・才能は自分の家族のそれのように自分の誉れでもあると考えて喜ぶことが、一元の悟りを深めることになる。


    24.捨(ウペクシャー)

    「捨」とは、万物に対して平静で平等な心であり、他の悪行に対して怒り・憎しみを持たない心とも解釈される実践である。これは、自と他双方の怒り・悪行を減少させるものである。
    第一に、釈迦牟尼の説法にあるように、自己の煩悩による自己の苦しみを回避することにつながる。他への怒り・憎しみは、相手の怒りをも呼び、逆に苦しみを招く。他に怒り・憎しみを持たずに、平静を保つことで、怒り・憎しみの応酬を防止・予防することができる。
    第二に、他の悪行に怒り・憎しみを持たずに、平静な心を保って、他の悪行の原因を理解するならば、他の悪行を取りのぞくことができる。怒りは、他の悪行の原因をまだ理解できておらず、他と自分のつながりを認識できていない無智によって生じている面がある。
    第三に、他の悪行に怒り・憎しみを持たず、平静を保ち、それを自己の反面教師でもあると気づいて、内省と自己改善に活かせば、自分の悪行とそれによる苦しみを解消できる。実際に、他の悪行は、自分と全く無関係なものではない。例えば、自分の自我執着が強ければ強いほど、他の悪行で苦しむ度合いが大きくなり、自我執着を弱めれば、苦しみも少なくすることが出来るから、それを内省すれば、悟りが深まり、執着と苦しみが減る。
    また、怒りの心の背景には、相手を「ずるい」と思うような妬みに近い心がある場合もあるし、「他に優位でありたい」という慢心を背景として、他を反面教師として学ぶことを避けようとする怠惰な心がある場合もある。それに気づいて反省すれば、自分の潜在的な悪行と、それによる苦しみを取り除くことができる。
    第四に、幸福になるための資源である心の安定・健康・良い人間関係・知性(智慧)を得るという視点からは、他の悪行を自分と区別して怒らずに、自分の内省に用いるならば、怒りから解放された心は安定し、広く温かくなるという精神的な幸福が得られる。さらには、そうした安定した心は、ストレスなどが少なく健康を改善し、奪い合い・憎しみ合いなどがないために、人間関係が良好となり、安定した心がもたらす、物事を正しく理解・判断する智慧も得ることができる。
    最後に、「万物が同根であり、一体である」という一元的な悟りの境地を得ようとする視点から見てみる。宇宙の全てが同根である以上、自分よりも、他人の悪行とそれによる苦しみが多ければ、自分の方がそうした他人よりも幸運だったともいうことができるから、そうした他の悪行を怒らずに受け止めることで、一元の悟りを深めることができる。

    最後に、慈・悲・喜・捨は、自分と他人の楽・苦・善・悪に対応しているということができる。すなわち、「慈」は、他に楽を与えて自分を楽にし、「悲」は、他の苦しみを取り除いて自分の苦しみをも取り除く。「喜」は、他の善行を称賛して、自分の善行も増大させ、「捨」は、他の悪行に怒らずに取り除いて、自分の悪行も防止するものである。


    25.慈悲=苦楽の分かち合いが、幸福な世界を作る理由

    これまでの四無量心の教えを背景として、一つ付け加えておきたい。仏陀の住まう極楽浄土などの高次元の世界に苦しみが少なく幸福が多いとされる理由は、そこに住む人たちの慈悲が強いからということである。
    すなわち、人の幸福は、それを喜ぶ他人がいれば倍になり、妬む人によって半減する。よって、ある人が幸福を得た時に、それをその世界の皆が心から喜べば、それは非常に大きくなる。これが極楽浄土の極楽の原因ではないだろうか。逆に、皆で妬んで憎み、それを奪い取ろうとすれば、どんな喜びも吹っ飛んでしまうだろう。
    同じように、ある人が苦しみを得たとしても、それをその世界の全ての人が、心から同情し、分かち合おうとすれば、苦しみなど吹っ飛んでしまうだろう。これが、極楽浄土にはほとんど苦しみがない原因ではないだろうか。逆に、皆で、その人の苦しみを残虐な心で喜んで、いっそう苦しみを押し付け合おうとするならば、ちょっとの苦しみでも非常に大きく感じるだろう。
    こうして、苦楽というのは、他との関係が、慈悲に基づくものか自己中心的なものかということで大きく変わるものであり、その意味では、自分や他人の心が作り出す実体のないものである。端的にいえば、幸福は慈悲から生じ、苦しみは無慈悲から生じるのである。

    26.精進の実践:智慧と慈悲は一体であり、仏道修行の要

    ここまで検討してきたことに基づけば、仏陀の智慧と慈悲は、怠惰を乗り越えて継続的な改善努力をなすことと一体不可分であり、それは仏教が説く「精進」の実践である。
    この精進の実践は、実際に非常に多くの仏教の修行体系において強調されており、その要になっている。例えば、八正道の正精進、五(ご)根(ごん)五(ご)力(りき)の精進根・精進力、七(しち)覚(かく)支(し)の精進覚支、四(し)如(にょ)意(い)足(そく)の精進如意足、大乗仏教の六波羅蜜の精進など、重要な修行体系において頻繁に強調されている。
    さらに、各修行体系の中で、禅定による智慧を得るという最終段階の一歩手前の実践課題となっており、その意味では悟りの達成の要となっている。例えば、八正道は、正精進の実践の後に、正念(正しい思念)、正定(正しい禅定)によって、正智(正見)を得ると説いている。六波羅蜜も、精進の実践の後に、禅定による智慧を得ると説く。
    これは、仏教の最終的な目標である智慧と慈悲を得るために、精進が必要不可欠であるからである。もう少しいえば、智慧と慈悲と精進がセットであり、その対極である無智と煩悩(貪り・怒り)と怠惰もセットである。

    27.初期仏教の四(し)正(しょう)勤(ごん)の教え

    第一に、初期仏教が説く精進の教え(八正道などの正精進)は、四正勤(四(し)正(しょう)断(だん))と呼ばれており、具体的には、以下の通りである。

    (1) 今なしている善行を、続ける・強める。
    (2) 今なしていない善行を、未来になすように努める。
    (3) 今なしている悪行を、止める。
    (4) 今なしていない悪行を、未来にもなさないように努める。


    28.大乗仏教の六つの完成が説く三つの精進

    第二に、大乗仏教が説く精進の教え(六波羅蜜=六つの完成における精進の教え)は、具体的には以下の通りである。

    (1) 鎧の精進:勇気を持って修行の道(菩薩の道)に入る努力(始める精進)。
    (2) 実行の精進:今日できることは今日行って明日に延ばさない努力(遅らせない精進)。
    (3) あくなき精進:一生たゆまずに努力し続ける努力(弛まぬ精進)。


    29.緊緩(きんかん)中道(ちゅうどう)の精進:焦らずたゆまず、無理せず怠けず

    第三に、精進の実践においては、焦らず弛まず、無理せず怠けず、という精神が重要である。
    卑屈などを背景として、すぐに結果を求めて焦ると、無理をする場合がある。また、慢心があると、すぐに弛む。仏教の考えでは、人の業(カルマ)=精神的な傾向は、すぐには変わらないものの、こつこつ努力をすれば、少しずつではあっても着実に変わるものである。よって、川の流れのように、毎日毎日、焦らずたゆまず、無理せず怠けず、一歩一歩進んでいくような心構えが適切である。そして、その結果、気づいてみれば、大海に出ているのである。
    なお、釈迦牟尼も、瞑想を修行している弟子の中で、力が入り過ぎて逆にうまくいかない弟子を見て、「弦楽器の弦は、たるみすぎれば音が出ないが、引っ張りすぎれば切れる」と述べて、瞑想修行においても、緊張と弛緩のバランスが重要であることを説いている。


    30.精進のための良き法友・サンガの重要性

    最後に、継続的に努力していく上では、環境条件、特に人間関係は非常に重要である。特に、仏道修行者=法友の集い=サンガは重要である。何事を学ぶにしても、一人の力・独力には限りがある。学校も、塾も、会社・企業、武道や、学芸の道場でもそうであるように、同じ学びの道を行く者同士の間で、良い意味での他人からの刺激を得ること、切磋琢磨することは、非常に貴重である。
    ここで一つ紹介したいことが、修行を進める上での苦しみというものである。人は、煩悩的な欲求を追求してばかりでは、前に述べた空しい苦しみの循環に陥り、本当の幸福を得ることができないが、さりとて、煩悩を超える修行はすぐに完成するものではなく、率直にいえば時間がかかり、困難を伴うものである。
    こうして、人には、煩悩による苦しみと、煩悩を脱却する上での修行上の苦しみという、二重の苦しみがあることになる。実際に、本当の苦しみとは、二重の苦しみであり、すぐには、にっちもさっちも、いかないことであろう。すぐに突破口が見つかり、抜け出せれば、それは大した苦しみではないからである。
    しかし、釈迦牟尼が問うているように、人の煩悩からの脱却を妨げているこれまでの悪習慣(悪業)は、地道な努力によって、徐々にだが着実に減少していくものである。そして、この修行の道の苦しみを分かち合う者が、法友でもあるだろう。そして、釈迦牟尼は、「自分こそが(弟子たちの)最良の友である」とも言ったという。
    実際、釈迦牟尼は、布教を決断する前に、自分の教えを人々が理解するかどうかと思い、布教するかを迷ったという。そこで、梵天という神が、「それでは悟れる者も悟れません」と言って布教を懇願し(梵天勧請)、あらためて世界を見渡して、悟れる者がいることを確認して、布教を開始したという。
    そして、50年近くの布教の中で、完全な悟りといわれる阿羅漢の境地に達した者は、500人であったという。仏教の宗派によっては、阿羅漢の境地も非常に高く、仏陀が現れない時代には現れないともいわれているので、500人の阿羅漢といえば非常に多いということができる。しかし、当時のインド亜大陸の全人口から見れば圧倒的に少ないことはいうまでもない。
    こうして、布教してもすぐに全ての人が悟ることはないことを知りながら布教した釈迦牟尼は、自分の死後延々と仏教の教えが引き継がれる中で、人類の寿命が8万歳にも到達するという遠い未来において、数百億人を悟りに導く弥勒如来の予言を残した。
    こうして、全ての衆生を救済することを志す仏陀・菩薩の菩提心は、何度も輪廻転生を繰り返しながら救済を続ける遠大・広大な心の働きであるとされる。これこそが、最も高度な精進の実践であろう。


    31.精進と様々な煩悩の関係

    精進の不足(怠惰)は、無智と結びついているから、様々な煩悩・否定的な心の働きとつながっている。
    例えば、慢心である。これは、自分の力を過信し、「継続的な努力なく今が続く」という思いである。これには、自分の幸福が、幸運・他者の支えによるものであるとか、他人の苦しみ・問題が、自分の反面教師であるといった謙虚さ・感謝の心も乏しい。こうして、慢心と怠惰はセットであり、謙虚・感謝と精進もセットである。
    次に、卑屈であるが、これは、「自分はだめ、自分はできない」という思いである。その心の奥に、できるようになる地道な努力を嫌がる心=怠惰がある場合がある。「自分はできない」と考えれば(言えば)、努力をせずに済むからである。一方、地道な努力を続けている人は、あまり卑屈にはならない。そして、努力は、欠点を徐々に長所に変えていく。逆に、慢心・怠惰によって、長所さえも徐々に欠点になっていく。
    妬みは、優れた・恵まれた他者への否定的な思いであり、それを自分の幸福の邪魔と見る心の働きである。しかし、本来は、優れた他人は、自分の見本、切磋琢磨の対象、全体のために活かすべき存在である。ところが、努力を嫌がる者には、どんな優れた見本や切磋琢磨の対象も無意味であり、努力をせずに自分が一番になること・勝つことばかりを考える者には、邪魔にしか見えない。こうして、妬みは、本来は自分の助力者・友である者を邪魔・敵に見せてしまう。これは、仏陀さえも悪魔に見せることになる。
    怒りとは、「なぜこいつはこんなことをするのか」「なぜやめないのか」「こんなことはありえない」などといった思いである。しかし、この言葉を見ればわかる通り、人は、こうして怒る時は、怒りの対象である他人の悪行の原因がわかっていない。原因の理解とは、同じ原因があれば、自分も同じ行為をする可能性を理解することにつながり、対象が自分と結びついて、怒りが静まる。さらには、自分の反面教師にさえなる場合がある。


    32.他人がどう見えるかは、自分の心・物の見方次第である

    これまで見てきたことに基づけば、他人がどう見えるかは、自分の心・物の見方次第であることがわかる。怠惰の心が強ければ、卑屈・慢心・妬みが強くなって、他人は自分の幸福の邪魔・敵か、価値がないと感じる。そして、卑屈であるために、自分にも価値を見いだせない。
    そして、現代社会でも、この怠惰・精進の精神の不足による病理的な行動が少なくない。例えば、「容易には得られない」と思うと、地道な努力をせずに逃げ、引きこもり、さらには自殺に至るケースがある。また、幸福になれないことを自分の努力不足ではなく、不合理に他人の責任にする責任転嫁も多く、これは自己中心・自己愛型人格・被害妄想などにつながり、他害行為に発展する場合もある。
    また、最近日本の大企業でも次々と発覚しているが、正当な努力ではなく、不正な手段で幸福(勝利・優位)を得ようとするケースが相当に広がっている。これは、時とともに破綻をきたすが、そもそも自分を甘やかしているのであるから、実力を培うことができない。さらに、薬物その他の不健康・不健全な手段に依存するケースがある。
    さらにいえば、オウム真理教が自らの教えを広めるために暴力手段を使おうとしたことも同様である。

    33.ひかりの輪の読経瞑想:「三悟心経」

    逆に、精進(謙虚・感謝)と智慧・慈悲といった心の働きを強めて、世界を見るように努めれば、万人・万物は皆、長所・欠点を持っており、自分と無関係ではない自分の教師・反面教師としての学びの対象であり、仏陀に準じる者と感じることができる。
    こうして、万物が、恩恵、仏であり、自分と一体と見えてくる。経典にも、仏陀の境地に至ると、世界万物が仏の現れ、この世界は仏の浄土に見えると説かれている。そして、ひかりの輪の現代人のための読経瞑想である「三悟心経」は、そうした仏陀の境地を表したものであり、それに近づくためのものである。

    「三悟心経」
    万物恩恵、万物感謝
    万物仏(ほとけ)、万物尊重
    万物一体、万物愛す

     

     

     

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