動画[講義]
上祐史浩の仏教・心理学等の講義の動画をご紹介します。

ネット生中継用教本テキスト(セミナー)

1月13日(日)大阪年始セミナー生中継 上祐代表講義教本(中継13:00)
(2019年01月13日)

   1月13日(日)大阪年始セミナーにて、13:00から行われる、上祐代表講話のネット生中継で使用されるテキストです。

「2018~19年年末年始セミナー特別教本の第1章の一部と第2章」を掲載しています。

※ここに掲載された教本の著作権はひかりの輪にあり、コピー、ダウンロードは禁止します。

  

ネット公開生中継はこちらからご覧いただけます。

   Ustreamひかりの輪チャンネル http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa

 

第1章の15.から

15.結果にとらわれすぎて、結果を得る手段を損なうという無智

これに関連して、例えば、日常生活でも「何かを得たい」と思って、得られるか得られないかの結果を気にするあまり、逆に、得られなくなる場合が少なくない。というのは、結果を得るためには、結果を得るための手段に集中しなければならないが、結果を気にするあまりに手段に集中できず、場合によっては、手段に逆行する場合さえ少なくない。
例えば、学業の試験や、仕事上のパフォーマンスや、スポーツ競技においても、その出来・不出来の結果にとらわれて気にしすぎれば、過度な緊張・不安・恐怖・焦りが生じて、パフォーマンス自体に集中できなくなることがある。よって、とらわれない方が逆にうまくいくといわれることも少なくない。よって、過度な緊張・不安が生じたときは、「うまくやろうと思いすぎない方が逆にうまくいく」と、自分に言い聞かせるとよいと思う。
スポーツ心理学などでも、スポーツ選手が最高のパフォーマンスを発揮する「ゾーン」と呼ばれる心理状態では、勝ち負けの結果を気にすることなく、無思考に純粋に競技に集中して行動しているという(心理学では「フロー状態」ともいう)。また、武術・武道でも、勝ち負けの欲や恐怖を超えた「無心」の境地が、相手に最も集中できるために、最強の境地であるとよくいわれる。「勝つと思うな、思えば負けよ」といった言葉もある。
一般的な諺・格言の中にも、焦りを戒めて、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来る」、「急いては事を仕損じる」、「(溺れかかったときには)身を捨ててこそ(体の力が抜け)浮かぶ瀬もあれ」といった言葉がある。
恋愛関係でも、愛されたい場合に本来なすべきことは、相手の立場に立って相手が喜ぶことをすることであって、その意味で、相手を大切にすることであろう。しかし、「愛されたい」という欲求にとらわれて焦るあまり、相手の愛を求めるばかりで、相手を大切にはできないことも多い。そして、相手を縛り付けるような行為や、相手に噛みつくような行為をしすぎるならば、どんな人も自由を求めているために、相手が息苦しさを感じて、逆に離れていく可能性もある。


16.他に勝つことにとらわれすぎて、成長できずに負けること

我欲・煩悩を控えて、慈悲の実践をする仏教的な人生哲学は、現代の競争社会にはマッチしていないように思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。
まず、仏教思想は、「自己愛・自己中心」ではなく「全体愛・慈悲」を持って生きることが真の幸福の道である、というのが根本的な思想である。そこで競争に関していえば、自己の勝利のみを目的とした自己勝利至上主義の競争は否定するが、全体の向上のための切磋琢磨としての競争は、全体愛の実践の一環として肯定されると解釈できると思う。
そして、自己の勝利への欲求が強すぎれば、第一に、勝利の可能性が乏しい場合には、競争に参加しなくなる場合が少なくない。しかし、これは、その場の劣等感からは逃れることができても、競争の切磋琢磨を通じて成長する機会を逸することになるから、人生の長期的な視点から見れば、将来の敗北の要因となる。一方、自己の勝利に過剰にとらわれなければ、積極的に競争に参加することができて、その中での切磋琢磨や、勝利と敗北の双方の経験によって、成長することができ、将来の勝利につながるだろう。
また、自己の勝利への欲求が強すぎれば、不正手段を用いてまで勝利を得ようとする場合がある。また、負けた際には、劣等感を紛らわすために、根拠もなく「自分が負けたのは不当である」などとして、他の批判・攻撃をする場合もある。これらはすべて、健全な成長を阻害するものであって堕落にほかならず、長期的な視点から見るならば、将来の敗北の要因となるだろう。
こうして、自己の勝利への欲求が強すぎれば、十分で健全な競争ができない。よって、自己の勝利への欲求を和らげ、全体の向上を目的・動機としてこそ、最善の競争・切磋琢磨が実現し、最も成長することができ、将来の勝利につながるのではないかと思う。


17.煩悩・我欲を追求する人生と、慈悲の実践をする人生の比較

最後に、煩悩・我欲の充足を求める人生と、慈悲の実践をする人生の比較をしてみよう。
まず、煩悩・我欲の充足を求める場合は、前に述べた通り、一時的な喜びはあっても、その裏側には得られない苦しみ、失う苦しみ、奪い合う苦しみがあり、人生の後半になればなるほど、そうした苦しみが大きくなり、人生は尻すぼみとなる。
一方、我欲・煩悩を控え、他者と苦楽を分かち合う慈悲の実践をする者は、煩悩・我欲を追求した場合のような、さまざまな苦しみが生じないように行動する。具体的に言えば、何らかの喜びを得ても、その喜びを支えた他者・万物に感謝し、他者となるべく分かち合うのである。これによって、際限なく求める貪りに陥って、後にさまざまな苦しみを招くことを予防できる。
これに加えて、他に幸福を与える広く温かい心による精神的・生理的な幸福を得ることができるし、他者から愛されるという幸福を得ることもできる。互いに愛し合う、良い人間関係による幸福である。
さらに、慈悲の実践は、苦しみに強い心を与える。というのは、多くの他者の多くの苦しみを思い悲しみ、それを取り除く実践をするならば、自分の苦しみは小さく感じられるし、他の苦しみを取り除く手伝いが、自分の苦しみに対する備えにもなるからである。
さらに重要なことは、煩悩・我欲を控え、慈悲の実践をする者は、自己の苦しみを喜びにすることができることである。第一に、すべての苦しみの原因は、煩悩・我欲であり、その背景の自我執着・自己愛であるから、自己の苦しみはそれらを弱めるための愛の鞭と考えて、喜びにすることができる。
第二に、自己の苦しみは、同じような苦しみに嘆く多くの他者の苦しみを理解し同情し、その苦しみを取り除く手伝いをする智慧と慈悲を深める貴い体験となると理解するので、苦しみを喜びに変えることができる。こうして、喜びと苦しみの双方を含めた万物に感謝する心境に至る。
こうして、慈悲の実践をする者は、煩悩・我欲の充足を追求する者と異なり、苦しみが生じても、それを嫌がりすぎて落ち込んだり、他に苦しみを押し付けたりすることはなく、苦しみを喜びに変えて感謝して、慈悲の心をさらに深めることができる。
そして、慈悲の実践をする者は、人生後半になるほど、喜び・幸福が増大する。加齢とともに、煩悩・我欲の充足は難しくなるが、慈悲の心と実践による幸福は、修行を続ける限り、その積み重ねの結果として増大していき、加齢によって衰えることはない。
さらに、慈悲の実践をすれば、一般的には苦しみが増えていく高齢期においても、前に述べたように、その苦しみを逆活用して、悟りと慈悲を深めて、本当の幸福を増していくことが可能である。そうして死とは、我欲から完全に離れ、純粋な慈悲に至ることができる時であって、精神的には絶頂の時となる。こうして、人生は尻上がりで、最後に絶頂に至る。
また、慈悲の実践をする者は、健康・長寿を得ることができる。我欲・煩悩の充足を求めるならば、さまざまな苦しみ・ストレスが生じるが、慈悲の実践をする者には、前に述べたように、そうした苦しみ・ストレスがなく、万物に感謝する心境が生じ、心は絶えず安定しているために、それが身体の健康・長寿をもたらす。
ストレスは免疫力を低下させるなど健康を害する要因であり、感謝や愛といった前向きな感情は免疫力を高める要因であり、良い人間関係も健康を増進させる要因であることは、さまざまな研究で確認されている。
また、慈悲の実践によって得られる絶えず安定した前向きな心は、老化を防いで、健康長寿を得るための重要な要因となる。煩悩・我欲の充足を追求する場合は、高齢期になって喪失体験が増大すると、精神的に落ち込むことが多くなり、生きる意欲や活動する意欲が減少し、頭や体を使わなくなるために、老化の大きな原因となるからである。
こうして、慈悲の実践は、苦しみを乗り越えて、絶えず安定した前向きな広い心、健康長寿、良い人間関係をもたらすので、知性・智慧も向上する。その結果として、煩悩・我欲の充足を追求した者達に対しては、争うことなく、いろいろな意味で、自ずと優る状態になる。
人生はマラソンであり、その意味で長期戦である。我欲・煩悩の充足を求め、自己の他に対する勝利・優位性にばかりとらわれ、いたずらに他と争う人は、心の安定・知性・健康長寿・人間関係を損なう。そのため、長期的には、慈悲の実践をする人に対して、遠く及ばないことになる。


第2章 三宝(さんぼう)の尊重と仏道修行の達成

1.三宝とは

三宝とは仏道修行の支柱となるものであり、サンスクリット語で、ブッダ・ダルマ・サンガとされる。漢訳では、仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)とされる。
ブッダ(仏陀・仏)とは、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味で、覚者などとも訳される。ブッダが説く悟りの境地を得た者である。ダルマ(法)は、ブッダの教えのことである。
サンガは、僧という訳語を見ると、僧侶のことと誤解される。しかし、実際には、サンスクリット語では「集い」という意味であり、それから転じて、ダルマを実践する者達の集い=仏教集団のことである。
なお、サンガは、狭義には出家修行者の集団を指す場合があるが、これは仏教開祖のゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼)の教団が、初期はもっぱら出家者の集団であったためだと思われる。しかし、後に、釈迦牟尼の教団には在家の者も加わった。


2.三宝の尊重

仏教では、三宝は、三つの宝と書くように、仏道修行者の尊重の対象であり、拠り所となるものである。かといって、ひかりの輪の見解では、三宝は、絶対視されるべきものではなく、妄信の対象となってはならないと考える。釈迦牟尼自身が説いたように、修行者は、自分の頭で仏陀とその教えについてよく考えて吟味し、その是非を判断する必要がある。釈迦牟尼の教説=初期仏教の教えを忠実に維持している上座部仏教でも、釈迦牟尼は絶対視・崇拝の対象ではなく、尊重・尊敬の対象に留まるとされている。
同じように、三宝に関連して、三宝帰依(きえ)という言葉があるが、この「帰依」とは「崇拝する」という意味ではない。この帰依のパーリ語やサンスクリット語の原語を見ると、その言葉の一部には、保護所・避難所という意味が含まれている。こうして、帰依とは「拠り所とする」といったほどの意味である。
そして、釈迦牟尼の教えの中には、「(他者ではなく)自分自身と法に帰依せよ」と説くものがあるように(自(じ)灯(とう)明(みょう)・法(ほう)灯(とう)明(みょう)の教え)、釈迦牟尼の思想は、釈迦牟尼自身を含めた他人を絶対視・妄信することを否定するものである。代わりに、修行者が自分の頭で釈迦牟尼や他の仏教思想の指導者の教えをよく考えて吟味し、その是非を判断することを重視していると考えられる。
3.ブッダ(仏陀、目覚めた人・覚者)

釈迦牟尼の初期仏教の思想に基づいて、仏道修行を行う上では、ブッダ(仏陀)とは何かをまず押さえておく必要がある。初期仏教では、仏陀とは、仏道修行者の目標であって、神格化された絶対者・絶対神ではない。すなわち、粘り強く修行することで、自分が近づくべき目標・目的地を意味する。そして、目標・目的地が定まっていないと、修行もうまく進まない。そのため、仏陀とは何かをなるべく押さえておく必要がある。
そして、仏陀とは何かという答えは一つではないし、その表現もさまざまである。そこで、仏教の教義・思想全体を俯瞰した上で一つの解釈・表現を示すならば、仏陀とは、①物事をありのままに見る高度な認識力(=智慧)を得ており、②その心は、煩悩とそれによる苦しみを滅して静かで平安であり(=涅槃)、③さらに、すべての生き物に対する広大な愛=慈悲に満たされており、④その心に基づいて実際に多くの人々・生き物を利する者ということができるだろう。
まず、目覚めた人(覚者)という原意を持つ仏陀は、悟った人(覚った人)という意味がある。そして、仏教における悟りの境地は、涅槃(原語でニルヴァーナ)と呼ばれる。この涅槃は、煩悩の炎が吹き消された静寂で平安な心の境地とされる。また、仏教では、煩悩こそが苦しみの原因であるとするので、煩悩が止滅した仏陀は、苦しみを根絶した者である。こうして、仏陀とは、煩悩とそれによる苦しみを滅し、究極的な心の静寂・平安を得た者ということになる。
また、仏陀の二大特性(徳性)は、智慧と慈悲であるといわれる。智慧とは、先ほど述べた通り、物事をありのままに見る力であり、より厳密には、仏陀の説く縁起や空の道理を理解する高度な認識力のことをいう。より具体的には、自と他を含めた万物は、相互依存の関係にあり、自と他(の幸福)は別物ではなくつながっていることを理解する認識力を含む。
一方、仏教では、この智慧がない状態を無智(痴(ち))と呼び、それがすべての煩悩の根源・原因であって、それによって貪り(貪(とん))や怒り(瞋(じん))といった他の煩悩が生じるという。無智と貪りと怒りの三つは、三毒(さんどく)と呼ばれ、根本的な煩悩とされる。よって、智慧を得た仏陀は、その智慧によって煩悩と、それによる苦しみを止滅した者である。涅槃(悟りの境地)も、厳密には、この三毒を滅した状態であると解釈される。
さて、慈悲とは、おおざっぱにいえば、すべての生き物に関して、その幸福を願って幸福を与え、その苦しみを悲しんで苦しみを取り除こうとする心の働きと実践である。よって、これは、自己中心的な我欲の強い心を克服し、自と他を平等に大切にする心である。
そして、この慈悲は、智慧と一体不可分である。前に述べた通り、智慧は、自と他(の幸福)のつながりを理解する力であるから、他者・万物を自分自身と平等に大切にし、他者・万物と苦楽を分かち合う慈悲を生じさせる。一方、智慧の対極である無智は、自と他(の幸福)は別物だと錯覚する意識であって、そのため自己を偏愛して、自己中心的な心の根源となる。
なお、「仏陀」の原意や、涅槃・三毒に関しては、前章や、他の特別教本を参照されたい(※1)。また、仏陀の心である慈悲は、より精密には四無量心と表現されることがある。四無量心とは、慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)の四つの心であるが、詳しくは、他の特別教本に述べたので、それを参照されたい(※2)。
このように、仏陀の意識は、安定した広大な意識である。よって、仏陀の意識は、世界の時空間全体に合一した意識とも表現されることがある。これは、ヨーガやスピリチュアル的な思想の一部で「宇宙意識」とも呼ばれる広大な意識に通じるものがある。
そして、以上の結論として、仏陀を目標として、それに近づいていくこととは、静かで安定し、大きく広がった心を培って、それに基づく利他の実践を行うことだとも表現することができるだろう。

(※1) 仏陀の原意、涅槃・三毒
・2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成:長寿社会の新しい生き方 感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』
・2017~18年 年末年始セミナー特別教本『仏陀の智慧・慈悲・精進の教え 立ち直る力と願望成就の法則』
・2017年GWセミナー特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想 四諦・八正道・四法印・マインドフルネス(念)』
・2015年夏期セミナー特別教本『仏教の心理学 心の三毒、智慧と慈悲』

(※2)四無量心
・2016~17年 年末年始セミナー特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』
・2017~18年 年末年始セミナー特別教本『仏陀の智慧・慈悲・精進の教え 立ち直る力と願望成就の法則』
・2014年GWセミナー特別教本《改訂版》『幸福のための仏教哲学 平等社会の道と自己を知る知恵』


4.ダルマ(法・ブッダの教え)

ダルマとは、仏陀の教えのことである。仏教は、釈迦牟尼が初めて説いた教えであり、根幹の思想とされる四(し)諦(たい)八(はっ)正(しょう)道(どう)を初めとして、釈迦牟尼の直説である初期仏教の教えから、その没後に形成された大乗仏教の思想まで、さまざまな教義・思想がある。
その詳細に関しては、他の特別教本を参照されたい(※3)。本稿では、仏陀の教えの学び方について、以下に解説する。

(※3)初期仏教・大乗仏教の思想
テーマ別教本《第2集》『初期仏教の思想と実践』,テーマ別教本《第3集》『大乗仏教の思想と実践1』,
テーマ別教本《第4集》『大乗仏教の思想と実践2』
5.ブッダへの崇敬の念だけで教えを信じてはならない

釈迦牟尼によれば、前に述べた通り、教えの意味・内容を理解していないのに、仏陀や仏教指導者への崇敬の念だけで教えを信じてはならない。その教えの意味を理解し、その内容・主張の是非を自分でよく考えて吟味し、納得したら実践するべきであるとされる。
すなわち、少なくとも初期仏教とは、絶対者の言葉をそのままに信じるという「信仰」ではなく、自らがその思想を理解して実践して体得するという「実践哲学」である。信じる教えではなく、学んで理解し体得するものである。


6.まず言葉の意味を理解しなければならない

仏陀の教えを学ぶ場合、その言葉だけを学んで暗記しても不足である。その言葉の意味をよく理解しなければならない。仏陀の教えの多くは漢訳されているが、それだけでは、その意味が不明確なものも多い。さらには、仏教の教義の一般的な漢訳語の一部には、原語の意味を十分に伝えていない場合もある。
よって、その言葉の意味・定義を十分に押さえる必要がある。そのため、ひかりの輪の仏教思想を解説する教本では、仏教用語の意味・定義をなるべく十分にわかりやすく解説するとともに、時には原語にさかのぼって紹介している。これがなされなければ、仏陀の教えの言葉や読み方(音)を知っているだけにすぎず、いわゆる「論語読みの論語知らず」「馬の耳に念仏」ということになる。
なお、現代の僧侶の一部には、仏典の意味を解説しない方が信仰対象としてのありがたみが出ると主張し、その言葉と読み方(音)だけを暗唱させる者もいるが、信仰・崇拝・祈りの対象として仏陀や仏陀の教えをとらえることは、少なくとも仏教開祖の釈迦牟尼の姿勢とは異なると思われる。


7.教えの正しさを論理的に理解すること

教えの言葉の意味を理解したら、その教えが主張することの正しさを論理的に理解する。いわゆる、「なぜ、そう言えるのか」という点を考えるのである。仏陀の教えは、煩悩を止滅するものであるから、煩悩的な欲求を際限なく充足させようとする一般の価値観とは当然に異なる。悟っていない普通の人は、物事を十分には正しく見ることができず、そのために煩悩を際限なく充足させることが幸福の道だと錯覚しており本当の幸福の道を理解しておらず、多くの人が苦しんでいると仏陀の教えは説くのである。
よって、教えに出会った最初の時点では、貴方の心の中の煩悩が必ず反発してくるはずである。教えを理解しようとする自分と、それに反発するもう一人の自分が存在するはずである。よって、教えの正しさを論理的によく検討して、教えに反発する自分を十分に説得する必要がある。言い換えれば、心の中に教えに対する疑問が残っていればいるほど、煩悩を和らげることは難しくなり、教えの下に心が統一されないことになる。
なお、自分自身の論理的な思索だけでは、これができない場合は、教えの学習の先輩・先達・指導者に十分に質問し議論する必要がある。その意味で、仏教の思想の学習においては、適切な質疑や議論は非常に重視されている。


8.教えを自分自身に当てはめて思索する

教えの是非に関して考える場合に、単なる一般論としてではなく、自分に当てはめて考えることが重要である。仏陀の教えは、よく考えるならば、すべての人に当てはまるものであると理解できる人類の経験則に基づいたものである。例えば、老い、病み、死ぬことがない人は誰一人としていない。
しかし人間は、誰しもが、自分では気づかないうちに、どこかで「自分だけは特別である」と考えている一面がある。これは、心理学的にいえば、幼少期には誰しもが抱く自己万能感というものがあり、それが大人になる過程で相対化されるのだが、実際には、依然としてその一部が(潜在的には)残存しているということではないかと思われる。
また、心理学的には、現代人の幸福は、もっぱら自己愛の充足によるものとされ、「自己愛型社会」などという言葉も聞かれる中で、自己中心的な人格が強く、人間関係に大きな支障が出て、社会生活がうまくいかない人が目立ってきている(自己愛型人格障害、誇大自己症候群)。こうした人の場合は、大人になっても自己万能感が強く残存している。
仏教の専門用語でも、この過剰な自己愛を「我(が)愛(あい)」などという場合があるが、その中には、専門用語で「我慢」と表現される意識、すなわち、「私は他よりも偉い、特別である」という意識・錯覚・煩悩があるという(ここでの「我慢」とは、辛抱するという日常用語とは異なる意味を持つ)。こうして自己愛の中には、自己特別視が含まれているのである。
よって、仏陀の教えの正しさを論理的に検討する際には、それが、単なる一般論としてではなく、具体的に自分自身にも当てはまるものとして検討されなければならない。そうしてこそ、自分自身がその教えを納得し、自分の煩悩を和らげる道を歩むことができるからである。教えを自分に当てはめて思索することは、仏陀の教えの学習の中で、一つの大きな山場となる。


9.教えの要点を繰り返し学習する(修習する)

教えの正しさを論理的に理解することができたならば、徐々に煩悩が弱まり始める。すると、自分にとって、経典や教本のどの部分が煩悩を弱める要点であるかがわかってくる。経典や教本全体を復習することは必要なことであるが、絶えずそうすることは煩悩を弱めるためには効率が悪いし、必要もないことである。
また、釈迦牟尼は、絶えず教えを意識・思念することを説いたが(八正道などの「正念」)、実際の日常生活の中で、なるべく教えを意識・思念する場合には、経典・教本の言葉全体をそうすることは不可能であり、教えの要点を凝縮した言葉を繰り返して自分に言い聞かせることが現実的である。
そのため、ひかりの輪では、現代語のわかりやすい表現で、仏教的な思想の要点を表すオリジナルの経文を数十文字で作成して、その読経を提唱している(三悟心経・三悟智経・三縁起経など)。詳しくは、他の特別教本を参照されたい(※4)。

(※4)
・2011~2012年 年末年始セミナー特別教本《改訂版》『三つの悟りの教え 万物への感謝・尊重・愛』
・2012年GWセミナー特別教本《改訂版》『三悟心経と集中修行 感謝・尊重・愛の悟り』
・2012年夏期セミナー特別教本《改訂版》『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺を考える』
・2012年~13年 年末年始セミナー特別教本《改訂版》『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』
・2013年夏期セミナー特別教本《改訂版》『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』
・2013~14年 年末年始セミナー特別教本《改訂版》『輪の思想と目覚めの智恵 仏母の瞑想と二極調和
の奥義』
・2015年~16年 年末年始セミナー特別教本『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』


10.現実の苦しみに対して、学んだ教えを当てはめる

最後に、仏陀の教えを体得する上では、自分の現実の苦しみが生じたときに、教えを使って、その苦しみを取り除くことができるかということがある。仏陀の教えは、現実の自分の苦しみを解消して、現実に幸福になるためのものであって、そうでなければ、絵に描いた餅にすぎない。
ところが、現実に苦しみが生じた際に、教えを使って苦しみを解消するためには、大きなハードルがある。それは、煩悩が滅していない人の場合は、現実の苦しみに対して、自分自身を変える、すなわち自分の中の煩悩を和らげることで苦しみを解消しようとするのではなく、自分の外側を変えて苦しみを解消しようとする場合が多いということである。
例えば、何かしらの煩悩的な欲求が満たされない場合に人は苦しむことになるが、その際に煩悩的な欲求自体を和らげるのではなく、何らかの望ましくない無理な手段で自分の外側を変えようとして、その煩悩的な欲求を充足しようとするのである。
わかりやすい例では、他人との人間関係において、自分の過剰な自己愛・自己中心的な姿勢によって問題が生じているにもかかわらず、自分を変えようとはせずに、他人を理不尽に逆批判・逆攻撃して他人を変えようとする場合である。この事例のような場合には、他人を変えようとしても、まず他人を変えることはできないだろう。


11.自分の内側・煩悩を弱めることの重要性の復習

前章で検討したように、①外側を変えようとしても、思いのままにはならず、変えられない場合が多く(求めても得られない・失う・奪い合い憎み合う苦しみが生じ)、②人生後半では、ますます外側は変えにくくなり(四苦八苦の教え)、③仮に一時的に外側を変えることができたとしても、それ自体が同時に、煩悩・とらわれを増大させてしまうので、未来の苦しみの原因を増やすことになる。
こうしたことを理解して、現実の苦しみに対して、外側ばかりを変えようとすることをやめて、教えを繰り返し学習・思念して、徐々に自分の内側の煩悩を弱めることで、苦しみを解消するように努める必要がある。すなわち、仏陀の教えである「苦しみの原因は煩悩である」という教えをしっかりと理解して、教えから逃げずに、煩悩と闘う意思を固めることが重要となる。
これは、教えによって苦しみの本当の原因である煩悩を弱めて、苦しみを本当に乗り越えようとするか、そうではなく、教えを使った煩悩との闘いから逃げて、それとは別の手段で一時的に苦しみを紛らわそうとするために、結局は苦しみを乗り越えることができないかという違いである。


12.煩悩との戦いに勝つ秘訣1 :煩悩止滅の必要性を理解し、
士気を高める

こうして、教えを体得する過程とは、私たちの心の中における「教え=智慧」と「煩悩=無智」の精神的な戦いと表現することができる。
そして、先ほど述べた、苦しみの真の原因は煩悩であることをしっかりと理解して、教えによって煩悩と戦い、煩悩を弱める意志を固めるという努力は、教えと煩悩の戦いという視点から表現すれば、煩悩と戦って勝つ必要性を理解することである。
当然のことであるが、戦いにおいては、戦って勝とうとする士気が、その勝敗を左右する重要な要素である。「戦わなくてもよい」とか、「勝つ必要はない」と思っていれば、どんな戦いでも勝つことは難しい。戦って勝つ必要性が強ければ強いほど、すなわち士気が高ければ高いほど、勝つ可能性は高くなる。
例えば、兵法において、自ら退路・逃げ道を断つ「背水の陣」というものがあるが、これは、戦って勝つ以外には生きる道はないという状態に自らを追い込んで、最大限に士気を高めるものである。これと同様に、修行者が、「自分が本当に幸福になり苦しみを解消するためには、どうしても煩悩を弱める必要があり、それ以外の道はない」と強く思っている場合は、煩悩を弱める力が強くなることはいうまでもない。
このような意識を形成するためには、苦しみの真の原因は煩悩であって煩悩を和らげて慈悲を培うことが真の幸福の道であるという仏陀の教えの部分を、なるべく深く繰り返し理解・修習する努力が必要である。


13.煩悩との戦いに勝つ秘訣2 :持久戦──粘り強く戦う

煩悩との戦いの特徴は、少なくとも修行の最初の段階では、煩悩は強く、教えに基づく智慧は弱いため、なかなか煩悩には勝てないということである。例えれば、煩悩は大軍であり、智慧の軍隊を上回っている。しかし、いにしえの兵法が「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と説くように、煩悩の大軍にも弱点があり、智慧の軍隊にも強みがあり、これを知って実践することが勝利する道となる。
煩悩の弱点とは、どんなに煩悩を充足させて幸福になろうとしても、本当には幸福になれないということである。そのため、煩悩は一定以上には強くならないのである。仮に、煩悩によって人が本当に幸福になるのであれば、煩悩は無限に大きくなる。しかし、この世界では、十分に煩悩を持っているのに、多くの人が苦しんでいる。それは、前に述べた通り、煩悩的な欲求を充足させようとしても、さまざまな苦しみが生じて、先に行けば行くほど苦しみは増大するからである。よって、煩悩は一定以上には大きくならないのである。
一方、私たちの心の中における教えの理解と、それによる智慧は、焦らずにコツコツと教えを学び続けるならば、徐々にではあるが、確実に強くなっていくものである。なぜならば、教えは本当に幸福になる道であるからだ。言い換えれば、粘り強く教えを学べば、徐々にではあるが、煩悩は一歩一歩弱くなっていくのである。
表現を換えて言うならば、無智を根源とする煩悩は、幸福になることができない間違った見方・見解であるから、一定以上には大きくならず、頭打ちであり、教えを学ぶことによって生じる智慧は、本当に幸福になる正しい見方・見解であるから、粘り強く学び続ける限り、徐々にではあっても大きくなり続けるから、煩悩よりも大きくなる時が必ず来るということである。


14.煩悩の術中にはまらないこと

その意味で、煩悩との戦いの最大のポイントは、粘り強く戦うことである。煩悩を弱めることは難しいからといって、すぐに諦めないことである。つまり、自分の中の焦り・弱さが最大の敵である。よく武術やスポーツ競技でも、「本当の敵は他人ではなく自分自身であり、自分自身の弱さである」といわれることがあるが、煩悩との戦いでも、それは当てはまると思われる。
そして、根本煩悩である無智とは、前に述べた通り、わかりやすくいえば、「今の自分さえよければいい」とか、「自分さえ早く楽に幸福になれればいい」といった近視眼的な意識である。これは、本当に幸福になるために必要な長期的な視点を持つことができないために、長期的な努力の必要性を理解しない状態であるとも表現できる。
よって、人は、粘り強く煩悩との戦いを続けようとし始めた時にこそ、煩悩の根源を弱め始めることに成功しているということができるのである。逆に、教えの実践を少しやってみただけで、「煩悩の克服は難しい」として努力をやめてしまう人は、ある意味では、煩悩の術中にはまって敗れる人であるということができる。というのは、煩悩は、持久戦に弱いという自分の弱点を隠し、短期戦に持ち込んで勝ちたいからである。さらにいえば、それ以外には、煩悩が勝つことはできないからである。


15.煩悩との戦いに勝つ秘訣3 :援軍を得る=法友・サンガ

煩悩との戦いは、自分一人でやらなければならないわけではない。すなわち、自分と共に、煩悩と戦っている仏道修行者、法友と共に戦うことができる。勉強も武術も、学校や道場があるように、どんな学習も、一人で行う場合と、同じ志を持った人と共に励まし合い、助け合い、学び合い、切磋琢磨して行う場合とでは、進み具合が大きく異なることはいうまでもない。
いかなる物事においても、一人の力には限界があるが、力を合わせるならば大きなことが可能となる。よって、釈迦牟尼が、仏陀とその教えに加え、仏道修行者の集団=サンガを三宝の一つとして尊重するように説いたのだと思われる。
特に、貴方の周囲が、煩悩・我欲・自己愛の充足によって幸福になろうとする風潮が強い場合には、冒頭に述べた仏道修行者の集団=サンガは、自分の仏道修行の拠り所となって、周りの風潮に流されずに煩悩を弱めていく自分の志を保ち育てるための保護所の役割も果たすだろう。
よく仏教では、法縁があるとか、ないとかと言うことがある。私が思うに、法縁とは、仏陀の教えを単に本などで学んで独習している状態の法縁と、共に学んで実践する法友の集い・サンガがある場合の法縁の二つがあるのではないかと思う。そして、釈迦牟尼が、自身がサンガを形成し、それを各地に広めたように、法縁を深める上で、サンガは重要な役割を果たすと思う。


16.サンガとの向き合い方

ただし、前に述べたように、サンガは、ブッダ・ダルマと共に、絶対視・崇拝の対象ではない。自分でしっかりと考えることなく、妄信したり追従したりするべき存在ではない。たとえ、自分の先輩や指導者にあたる人物に対しても、仏教の伝統では、彼らの間違いと思われることを指摘することは、彼らに対する尊重・敬意・感謝とは矛盾しないとされてきた。
彼らから学ぶ場合には、絶対視せずに自分でよく考え、その是非を判断しながら学ぶことが肝要である。より具体的にいえば、どんな先輩・指導者も不完全であるし、自分とは異なる人間である。よって、彼らにも何か間違っていることがあるとか、何かは彼らにはよくても自分には合っていないことがあるとか、彼らの時代・世代にはよかったかもしれないが、自分の時代・世代には適切ではないことがあるだろうと思って学ぶことである。


17.今日におけるサンガとの縁

日本では、伝統の仏教宗派の形骸化が長らく続いてきた。そのため、冠婚葬祭などの家業として生活を営むために寺を経営しているだけで、仏道修行者とはいえない僧侶が多くなっている。しかも、檀家も激減し、財務基盤を失い、近い将来に、中身だけではなく、寺院の施設という形式的な部分までもが崩壊しかねないという見方もある。ましてや、仏道修行者の集団=サンガを身近に得ることは非常に難しい状況かもしれない。
そうした伝統の仏教とその教団の崩壊が進む状況の中で、ひかりの輪は、今後の新しい時代に合わせて、何かを絶対視・妄信・信仰する宗教団体・仏教教団という形ではなく、釈迦牟尼の悟りの実践哲学を中心とし、妄信を排除して理性を重視し、仏教の思想哲学を学んで実践する集団・団体であり続けたいと思う。
なお、伝統的な考え方の一部では、人それぞれのサンガとの縁があるという。すなわち、自分と縁のある法友・先輩・指導者・サンガがあって、縁のある人達の下でこそ修行が進みやすいというのである。こうした人と人との縁の不思議は、仏道修行に限らず、いろいろな勉強や習い事、武道・武術・スポーツ競技、さらには医師・弁護士などとクライアントの関係にも当てはまるかもしれない。
そして、そうした人と人との縁は不思議な一面があり、自分が意図して計画的に作れるものでは必ずしもなく、理屈で説明できるものでもなく、直感的なものによって生じたり、何かの偶然の出会いによって生じたりする場合がある。そして、仏道修行における縁は、それが我欲・自他の区別の超越を目指すものであるから、真に成功するならば、精神的には永久的ともいえる価値を持つことだろう。

 

 

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