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上祐史浩の仏教・心理学等の講義の動画をご紹介します。

ネット生中継用教本テキスト(セミナー)

2017年夏期セミナー8月15日講義資料(中継/8月15日(日)13:00より)
(2017年08月15日)

   2017年夏期セミナーにて、8月15日 13:00から行われる、上祐代表講話のネット生中継で使用されるテキストです。

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第2章 八正道:苦しみの解消の道

1.はじめに

ここでは、第1章に引き続き、苦しみの原因である煩悩を滅する道として仏陀が説いた八正道について解説する。これは、悟り・涅槃に至る修行の基本である。最初に、その八つの修行と、その簡単な意味を説明すると、以下の通りとなる。

1.正(しょう)見(けん) -- 正しい見解
2.正(しょう)思(し)惟(ゆい) --正しい考え
3.正(しょう)語(ご) --正しい言葉
4.正(しょう)業(ごう) --正しい行為
5.正(しょう)命(みょう) --正しい生業・生活形態
6.正精進(しょうしょうじん) --正しい努力
7.正(しょう)念(ねん) --正しい思念
8.正(しょう)定(じょう) --正しい集中


2.八正道の詳細

第一の「正見」とは、正しい見解のことである。その究極は、仏道修行で得られる仏陀の智慧にほかならない。そして、何が正見なのかは、いろいろな解釈があるが、基本は、「四諦」の真理を正しく知ることである。よって、正見とは、「四諦正見」とか、「四諦の智」ともいわれることがある。そして、この正見は、それ以下の七つの修行によって体得される。
第二の「正思惟」とは、正しい思惟・考えのことである。いろいろな解釈が可能であるが、仏教が説く根本煩悩である貪り・怒り・無智に陥らずに、①貪らないこと、②怒らないこと、③仏法を信じることを思惟することと解釈できる。
他の解釈としては、①出(しゅつ)離(り)(離欲)、②無(む)瞋(しん)(怒りをなくすこと)、③無害(他を害さないこと)を思惟することである。出離(離欲)とは、財産、名誉や、感覚器官の快楽(五欲)など、俗世間で渇望されるものから離れることである。そして、この正しい思惟を実践するのが、次の正語・正業・正命などである。
第三の「正語」とは、正しい言葉という意味だが、具体的には、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。
第四の「正業」とは、正しい行為という意味だが、具体的には、殺生を離れ、盗みを離れ、(不適切な)性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。
この「正語」と「正業」は、正思惟されたものの実践であるということができる。なお、漢訳語の業のサンスクリット語の原語karman(カルマン)には、行為という意味がある。
なお、正思惟・正語・正業は、仏教が説く基本的な戒律である「十戒」と、ほぼ同義だと考えることもできる。十戒については後に詳しく述べる。
第五の「正命」は、正しい生活という意味だが、具体的には、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当な生業を持って生活を営むこと、正しい生活形態である。
第六の「正精進」とは、正しい努力という意味だが、仏教用語としては、四(し)正(しょう)勤(ごん)という教えの実践である。これは、
①すでに起こった不善を断ずること、
②未来に起こる可能性のある不善を起こらないようにすること、
③すでに生じている善を維持して増やすこと、
④いまだ生じていない善を未来に生じさせること、
という四つの努力のことである。
第七の「正念」とは、正しい思念、正しい思いを持ち続けることである。なお、「念」の原語は、サンスクリット語のsmṛti(スムリティ)、パーリ語のsati(サティ)であり、「記憶して忘れないこと」という意味である。「念仏」の念も、本来は仏を思念する意味だったが、後に仏の名を唱える意味になった。
また、現代に広がった心理療法のマインドフルネス(瞑想)は、この「念」の英語訳であるが、今この瞬間に善悪・是非の判断をせずに、意図的に対象に注意をすること(気づいた状態でいること)と定義されている。
第八の「正定」とは、サンスクリット語の原語では、正しいサマーディ(samādhi・三(さん)昧(まい))である。三昧とは、心が静まって安定し、集中している状態である。この「正定」と「正念」の状態によって、「正見」が得られるとされる。
なお、八正道の後に、「正智」と「正解脱」を置く場合がある。これは、正見から正定の実践で、正智(仏陀の智慧・悟り)を得て、悟り・解脱を得るという意味である。
正智・正解脱なしで八正道を理解するのであれば、八正道は、正見(仏陀の智慧)を得るために、正思惟から正定の実践があるという構造だと解釈することができる。


3.十戒について

ここで先ほど出てきた十戒について、あらためて述べる。仏教では、さまざまな戒律がある。その中には、比丘の250戒(比丘尼の約350戒)などもある。しかし、大乗仏教が起こると、「大乗戒」と呼ばれるものが説かれ、主なものとして、十項目の善行(ぜんぎょう)を説く「十善戒」が説かれた。
そして、十善の反対の行為として、十の悪業(十悪)がある。これは前に解説した通り、三つの身(行為)の悪業、四つの口(言葉)の悪業、三つの意(心)の悪業に分けられるが、具体的には、次の通りである。
まず、身の悪業とは、①殺生、②偸盗、③邪淫といい、これは、①他の生き物を殺すこと、②自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、③不倫などの不適切な性行為を行うことである。
次に、口の業とは、①妄語、②綺語、③悪(あっ)口(く)、④両舌といい、これは、①嘘、②無駄話・噂話をすること、③悪口あるいは粗暴な言葉を話すこと、④人を仲たがいさせる言葉を話すことである。
心の悪業とは、①貪(とん)(貪欲、貪り)、②瞋(じん)(瞋恚(しんに)、怒り)、③癡(ち)(邪見、無智)といい、①健やかに生きるために必要以上のものを、むやみに求めること(例えば、他人に属するものをむやみに「欲しい」と思うこと)、②他に対する邪悪な思い・怒り・憎しみを持つこと、そして、③仏陀の教えを否定する誤った信念・考えを持つことである。
そして、十悪をなさないことが十戒(十善業・十善戒)である。すなわち、①不殺生、②不偸盗、③不邪淫、④不妄語、⑤不綺語、⑥不(ふ)悪(あっ)口(く)、⑦不両舌、⑧不(ふ)貪(とん)欲(よく)、⑨不(ふ)瞋(しん)恚(に)、⑩不(ふ)邪(じゃ)見(けん)(ないしは正見)である。
また、単に、十の悪業をなさないという意味での「十の善業」ではなくて、これを発展させ、「十の特別な善行」というものも説かれる。それは、次の通りである。
行為においては、①殺生をせず、他の命を救うこと、②盗みをせず、寛大であること(布施をなすこと)、③邪淫をせず、そして他にも同じようになすことを勧めること。
言葉においては、④嘘をつかず、誤解を生まないように真実を話すこと、⑤悪口を言わず、優しく静かに話すこと、⑥無駄話をせず、教えや祈りのように、意味あることを話すこと、⑦仲たがいさせる言葉を話さず、ケンカの仲裁をし、敵を仲直りさせること。
最後に、心においては、⑧欲を持たず、満足を知ること、⑨他に対して邪悪な気持ちを持たず、良い思いを持つこと、⑩誤った信念、考えを持たず、正しい教えを信じることである。


4.正念の具体的な実践=四念処の瞑想

さて、正念の具体的な修行としては、先ほども述べたが、七科三十七道品の中の「四念処」の瞑想がある。これは、釈迦牟尼の時代から、悟りに至るための最も重要な観想法であった。具体的には、以下の通りである。

1.身念処:身体が不浄であることを観想する。

身体は、糞尿を排出し、老いる中で醜くなり、死んで腐り、不浄なものである。
その内部には、グロテスクな五臓六腑があり、糞尿もあり、不浄なものである。
(※身とは、身体・肉体のこと)

2.受念処:感受作用(感覚)が苦しみであることを観想する。

不快なものは最初から苦であるが、心地よいものも無常に変化して壊れるため、
とらわれれば苦しみとなるために、一切の感受作用は苦しみである。
(※受とは、五感と意識で色々なものを感受する作用のこと)

3.心念処:心は無常であることを観想する。

心は、絶えず移り変わって、とどまることがない。

4.法念処:いかなる事物も無我であることを観想する。

あらゆる事物は、私・私のもの・私の本質(私の自我)ではない。
あらゆる事物は、永久不変の本質、固定した実体がない。
(※法とは、事物のこと。一切の思考の対象)
(※無我とは、私・私のもの・私の本質ではないということ。
もしくは、永久不変の本質、固定した実体がないということ)

こうして、四念処の瞑想の主旨は、この世の一切が、特に、体や感覚や心といった「自分・自我」と呼んでいるものが、不浄で、苦しみで、無常で、本当の意味で私・私のものではないと瞑想することで、それにとらわれないようにすることである。すなわち、物事に対する執着、とりわけ自我に対する執着を弱めるものである。
そして、これは、第1章で述べた「四顛倒」とよく一致している。すなわち、四念処は、四顛倒の間違った見解を正すものである。また、これは、第3章で述べる「四(し)法(ほう)印(いん)」が説く諸行無常・諸法無我・一切皆苦とも、よく対応している。こうして、無常・苦・無我は、仏教の基本的な現実認識である。
なお、四念処は、後に述べる仏教の瞑想の「止観」の中では、「観」の瞑想の中核を成すものである。


5.四念処と五蘊無我の瞑想

なお、前に、四苦八苦の教えのところで、仏教は、人ないし世界全体を構成する要素として、五蘊(身体・感受作用・表象作用・意志作用・識別作用)を説いていることを述べた。
そして、この五蘊にとらわれないことで、苦しみを滅するという教え・瞑想も説かれた。「五蘊無我」などといわれる。具体的には、五蘊が、無常・苦・無我・空(固定した実体がない)などと瞑想するものである。これは、四念処とともに、現世と自我に執着しないための瞑想である。


6.八正道の全体的な理解

八正道の修行の全体の構造を解説すると、

① まず、四諦を中心とした正しい見解・仏陀の智慧を学ぶ(正見)、
② それに反する無智・煩悩・自我執着に基づく悪い思考・言動・生活上の習慣を改める
(正思惟・正語・正業・正命・正精進)、
③ 無智と、無智による執着、とりわけ自我執着を解消する瞑想を行い(正念)、
その結果として、集中した静まった意識を実現し(正定)、
それにより、正見(正智)を悟って、解脱する。

ということになる。


7.戒・定・慧の三学

さて、八正道を含めた七科三十七道品の修行体系に共通するエッセンスが、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の「三学(さんがく)」である。これは、仏道修行者が必ず修めるべき三つの基本的な実践の項目であり、戒学・定学・慧学ともいう。
「戒学」とは、戒律を守って、身(しん)(行為)・口(く)(言葉)・意(い)(意識)の悪行(あくぎょう)を止め、善行(ぜんぎょう)を修することである。「定学」とは、禅定(瞑想)を修めることである。心の散乱を防いで、心を静める教えである。「慧学」とは、智慧を体得することである。煩悩が静まった、静かな心をもって、物事をありのままに見ること(=悟りを得ること)をいう。
そして、重要なことは、三学は一体であり、循環していることである。戒を守って生活を正すことが、禅定の達成を助け、禅定の静まった心は、物事をありのままに見る智慧を生じさせる。そして、真理を悟った智慧によって、いっそう戒を守った正しい生活をすることができる。
仏典(パーリ語経典長部の『沙(しゃ)門(もん)果(か)経(きょう)』など)でも、四諦の真理は、出家修行者が戒律を順守して清浄な生活を営みながら、瞑想修行に精進し続けることで、はじめて悟ることができると述べられている。
よって、「三学」と「八正道」は、よく一致している。すなわち、①正見が「慧」に相当し、②正思惟・正語・正業・正命・正精進(正念)が「戒」に相当し、③(正念)・正定が「定」に相当する。
8.定ないし禅定(瞑想):煩悩を滅する決め手

煩悩を克服するためには、煩悩の根本である「無智」を取り除かなければならない。無智を断ち切るためには、第一に、仏陀の教えの正しさを論理的に理解している意識(正(しょう)理(り)智(ち))が、大きな力を持つ。
理解すべき教えの内容としては、まずは、中道・四諦・八正道・十二縁起の教えである。そして、特に無智を滅する智慧の教えである。すなわち、無常・苦・無我・不浄という教え(四顛倒の教え)や、それと一致する四念処の教えや、後に詳しく述べる四法印の教え、縁起や空の教えである。
まとめれば、この世界の一切は無常であり、無我であり、(とらわれれば)苦しみであること、言い換えれば、万物が他を条件として、相互に依存し合って生じているにすぎず(縁起の法)、そのため、他者が変われば自己も変わり、固定した実体がない(空の思想)ということである。
これは、しっかりと教えを学び、深く考えることで得ることができる。そして、この理解においても、安定した集中した心は重要である。安定した集中した心であれば、教えを論理的に深く検討し、正しく十分に理解することができるからである。
しかし、禅定には段階があり、教えの深い論理的な理解は、最終段階のものではない。最終段階の禅定は、教えの論理的な理解を超える。それは、論理を超えた直観で、無智を取り除く段階である。
これは、言葉・思考・論理を介さない直接知覚・直観で、仏陀の教えを理解する智慧(直観智)である。そして、このためにこそ、深い瞑想(禅定)の助けが必要になるのである。
なお、八正道では、正定といわれるが、禅定という言葉を使うことも多い。禅定とは、「禅」と「定」という二つの漢訳語を合体させたものである。そして、これを瞑想と訳すことが多い。
禅は、サンスクリット原語では「ディヤーナ(dhyāna)」であり、それが「禅(ぜん)那(な)」となって、「禅」となったものである。ディヤーナは静(じょう)慮(りょ)と訳されることもある。一方、定は、前にも述べたとおり、サンスクリット原語では「サマーディ(samādhi)」であり、漢訳語では「三昧」であるが、その意味を訳して「定」としたものである。
そして、禅定の意味は、瞑想による心の安定と集中といったほどになる。それは、心が静まって安定し、高い集中力が生じている状態である。

 

 

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