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2016年4月24日仏教哲学講座11回『仏教的な幸福と成長の哲学』 
(2016年04月23日)

1)一般的な幸福観

一般には、今よりももっと、他人よりももっと、何かの喜びを求めて、それを得ることで幸福になると考える。しかし、それは他との競争・奪い合いの一面があって、多くの人が、多くの場合に、そうできるわけではない。求めても得られず、むしろ失い、奪い合いの中で、苦しめ合う場合も多い。結果として、「求めて得られない幸福」、「逃げても逃げられない苦しみ」を抱えることになる。


2)仏教的な幸福観

仏教は、自分が体験する現実は、心(正確には五感と意識)が作り出している一面があり、幸福・不幸も心が作り出すとする。
これを分かりやすく言えば、心の持ち方・考え方、価値観・視点といったものを変えれば、より幸福を感じ、不幸・苦しみを和らげることができるというのである。


3)求めて得られない幸福に対して

幸福は心が作り出すという視点から見ると、幸福が得られないという問題も、心の持ち方・視点の問題であり、具体的に言えば、以下の通りである。

1.既にある幸福を見ようとしない。

常に今ない幸福を未来に求めて、それを得ることばかりが幸福だと考えている。言い換えると、足るを知ることがなく、感謝が少なく、自分よりも恵まれていない人のことは考えることが乏しい(慈悲の乏しい)。

実際には、既に(自分も他人も)得ている幸福の方が、まだ得ていない幸福よりも、実際には膨大である。しかし、今よりもっと、他人よりもっとと、果てしなく求める欲求(貪り)のために、これが全く見えなくなっている。
例えば、21世紀の日本社会は、客観的には、人類史上最も恵まれた社会であるが、その素晴らしさを実感して感謝することはなかなかない。それは既に皆が得ているから、当たり前のものだとばかり感じている。こうして、これは、貪りの心(際限のない欲求)が作り出す苦しみである。

2.他の幸福を喜びとしようとしない

常に自分が(他よりも)幸福になることばかりを考えている。自分の幸福は喜びだが、他の幸福は妬ましく苦しみであって、幸福は、自分と他人の間で奪い合うものだという考えが強い。これは、妬みの心(自分と他人の幸福を区別する心)が作り出す苦しみである。

しかし、他の幸福を自分の喜びにする広い心は、実際には、大きな恩恵がある。具体的には、1.広い心自体が、生理的に心地良い。2.他との奪い合いがなく、精神的な安定・健康・良好な人間関係が得られる。3.加齢と共に失われず、むしろ訓練で増大する。4.自分は1人だが、他は無数だから、自分の幸福だけを喜びにするよりも、多くの(無数の)喜びを得ることができる。

3.分かち合うものが最高の宝と気づいていない

他人よりも多くを得ることが幸福だと思い込めば、他と分かち合っているものこそ、最高のものである、ということに気づくことはできない。自分のものは喜びだが、他人のものは妬ましく、誰のものでもないものには、関心が乏しい(価値・喜びを感じることが乏しい)。

しかし、実際には、この世界が最も価値があるものは、自分ものも他人のものも、自分も他人もすべてを含み、生み出し、包んでいる、宇宙、地球、大自然の万物であろう。しかし、その素晴らしさ・価値を感じることがない。
逆に、宇宙万物に比べれば、極めて卑小であり、さらに長続きしないものが、自分や他人の財産・地位・名誉である。しかし、それが、自分のものか、他人のものかに関して、滑稽なほどに、一喜一憂している。
これを言い換えれば、真の幸福(=万人と分かち合っているもの)に気づいていないため、偽りの幸福を追い求めて、苦しんでいるとも表現できる。


4)逃げられない苦しみに対して

苦しみの対象から逃げることができれば、そうして解決すれば良いだろうし、実際に既にそうしているものだろう。しかし、逃げられない苦しみに関しては、心の持ち方・視点を変えて解消することが、唯一の対処法である。その視点からは、以下の問題がある。

1.実際よりも悪いと考える

苦しみを増大させる一つの要因は、実際よりも、苦しみを過大視すること。実際よりも悪いと考える。例えば、何か嫌なことを経験する時だけでなく、する前も、した後も、嫌だと思い、そのため、合間なく、ずっと苦しむなど。苦しみが永続し、合間がないと感じる。
実際には、苦しみは時とともに消えていくものだし、生じたり消えたりと合間もあるものである。これは、(苦しみを過剰に)嫌悪するために生じる苦しみである。

2.良い面もあることに気づかない

仏教は苦楽表裏を説き、苦しみの裏側には喜びがあると説く。実際に、苦しみは、人の努力・成長をもたらす面がある(例えば失敗は成功の元)。また、仏教的には、悟りと慈悲は苦しみから生まれるとさえ言われる。
自分の感じる苦しみは、自分にばかりとらわれるエゴ・自我執着が根本の原因であるから、悟りを求める原動力となるもので、さらには、他の苦しみを理解する(慈悲)の源であるからだ。
言い換えれば、目先は苦しみであっても、その先には様々な恩恵があることに気づいてないのである。これと同じように、目先の喜びに流されてしまい、その先にある苦しみには気づきにくい。

3.必要な面があることに気づかない

さらに言えば、全く苦しみがなければ、本当の努力・成長は、なかなかないだろうし、悟り・慈悲を育てることはできない。その意味で、全く苦しみがないということは恐ろしいことであり、一定の苦しみは人にとって必要だろう。

しかし、私達は、無意識的に、苦しみは、なるべくない方が良いと考えるから、結果として、苦しみを過剰に嫌がる傾向がある。しかし、一定の苦しみが必要だとすれば、自分自身に対して、「今自分が抱えている苦しみは、過剰なのか、それとも足りないのか」と問い、心の持ち方を調整する必要があるだろう。

なお、仏陀の教えは、苦行主義を否定している。言い換えれば、苦しめば苦しむほどよいとは主張していない。快楽主義も苦行主義も否定する。これは、楽にも苦にも偏らない中道とされる。

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