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上祐史浩の講話の動画をご紹介します。

ネット生中継用教本テキスト(セミナー)

2016~17年年末年始セミナー特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第4,5章(中継/1月2日(月)12時より)
(2017年01月02日)

   2016~17年年末年始セミナー にて、1月2日 12:00から行われる、上祐代表講話のネット生中継で使用されるテキストです。

 特別教本第4章.pdf

  特別教本第5章.pdf

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  第4章 六波羅蜜(六つの完成)・十八の実践

1.六つの完成

本章では、いよいよ六波羅蜜(六つの完成)の解説を行う。六つの完成とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行の完成を意味する。そして、そのそれぞれに、三つの修行があると解釈できるので、六つの完成・十八の実践ということになる。


2.布施--三つの布施

では、六つの完成について説明する。まず第一は、布施の実践である。
第一の布施は、「財施」である。これは、財物を施すことである。また、広くは労働を奉仕することも含む。これは、財物への過剰な執着は、人を幸福にせず、それを他に施すことが、それを和らげ、慈悲を培うという意味合いがある。
第二の布施は、「無(む)畏(い)施(せ)」である。これは、文字通り解釈すれば、畏れ(恐れ)の無い状態を施す、という意味である。言い換えると、他を恐れから守ることである。そして、これは、その裏に、怒りによって他を攻撃することを避けるという意味があるとも解釈できるだろう。
第三の布施は、「法施」である。これは、仏陀の教え・法則を施すということである。自と他を区別せずに、他と法則を分かち合おうとする慈悲の心で、行うべきものである。
布施の実践は、他と分かち合うことであるから、「自分だけよければいい」とか、「自分が独占したい」という心の働きを弱めることができる。こうして、自と他の区別を和らげ、利他の心を培うことになるから、智慧と慈悲を体得するために重要な法則とされる。また、布施以下の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧も、本質的には、これと同じ意味合いがあると解釈される。


3.持戒--三つの根本戒と十戒

持戒は、例えば、仏陀の説いた十戒(=十悪をなさないこと)を護持することである。
この十悪とは、①殺生、②偸(ちゅう)盗(とう)(盗み)、③邪淫、④妄語(嘘)、⑤綺語(きご)(必要のない言葉)、⑥悪口(あっく)、⑦両舌(仲違いさせる言葉)、⑧貪り、⑨怒り、⑩無智(仏法を理解せず、現象をありのままに見ることができない)である。
この十戒は、本質的には、最後の三つの心に関する戒(貪り・怒り・無智の「三毒」を避ける)が根本である。この三毒は、根本的な煩悩とされ、これから他の悪行も生じる。例えば、殺生は主に怒り、偸盗は主に貪り、邪淫は主に無智が原因となることが多い。また、妄語・綺語は主に無智、悪口・両舌は主に怒りが原因となることが多い。
なお、この十戒は、行為の戒律(殺生、偸盗、邪淫)、言葉の戒律(妄語、綺語、悪(あっ)口(く)、両舌)、心の戒律(貪り、怒り、無智)の三つにも分けることができる。


4.忍辱--三つの忍辱

忍辱の第一は、物質的な困窮に耐えることである。第二は、非難・批判に耐えることである。第三は、仏陀の教えの理解の難しさ(教えと常識のギャップ)に耐えることである。
この忍辱の実践は、大乗の修行の中でも、非常に重要だといわれている。大乗の実践は、その根幹に、万物への感謝がある。そして、忍辱は、単に苦しみに対する忍耐とか、とらわれの放棄といったものにとどまらず、苦しみを喜びとして、苦しみに感謝するという教えが含まれている(転換の感謝)。それでこそ、敵対者を含めた万物への感謝が生じ、万物を恩人と見る発菩提心の土台となるのである。
なお、三つの忍辱と三つの布施は、密接につながっている(表裏である)。財物を施すことは、物質的な困窮に耐えることと表裏である。怒らずに他を恐れから守ることは、他からの非難・批判に対して怒らずに耐えることと関係する。法則を施すことは、法則の理解(及び法則を理解させること)の難しさに耐えることと表裏である。
さらに、この三つの布施と忍辱は、三つの根本戒と合致している。というのは、財施は、貪りを弱める(財物は貪りの原因)。無畏施は、怒りを弱める(怒らずに守るから)。法施は、無智を弱める(法則は無智を弱めるから)。こうして、三つの布施・三つの戒・三つの忍辱で、三毒を和らげることができる。
最後に、多少脱線するが、これは、ヨーガのチャクラの思想とも似ている。ヨーガのチャクラは、①その下位の三つのチャクラは、財物・異性・食べ物に関係する。②アナーハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラは、虚栄心(プライド)や妬みに関係する。③アージュニャー・チャクラは、(間違った)善悪の観念のとらわれに関係する。そして、①は、物欲などの放棄であるから、財施・貪りの止滅と関連する。②の虚栄心・プライドは、怒りの原因となることが多いから、無畏施・怒りの止滅と関連する。③(間違った)善悪の観念は、法施・無智の止滅に関連する。

 

5.精進--三つの精進

精進の第一は、伝統的な表現では「鎧の精進」といわれるが、言い換えれば、「決起の精進」である。これは、困難を感じても、勇気をもって仏道修行の実践に入ることである。
人は概して、「楽して幸福を得たい」と思うものだが、仏陀の教えは、真の幸福とは、善行を積み上げる努力を経て達成されるものである。よって、常に楽を求める精神からは、仏陀の教えの実践は困難に思えるが、それが真の幸福の道であるから、これを乗り越える決起の精進が必要である。
第二は、「実行の精進」である。これは仏陀の教えの実践を、遅らせないことである。人は、「今さえ楽であればいい」と考えがちだが、今日できることを明日に延ばすほど、実際には苦しみが増大していく。よって、今日できることは今日実行する精進が必要である。
第三は、「たゆまぬ精進」といわれているが、言い換えれば「継続の精進」である。これは、たゆまず仏陀の教えの実践することである。人は、何ごとにつけても、ある程度修行が進むと、途中で気を緩め、修行から離れてしまう傾向がある。これを乗り越えるのが、継続の精進(たゆまぬ精進)である。
この精進は、法則の実践において、とてもよく問題となる無智・怠惰・慢心を滅するものである。第一の決起の精進は、「楽して幸福になりたい」という無智を超えるものである。第二の実行の精進は、「今さえ楽であればよい」という怠惰を超えるものである。そして、第三の継続の精進は、「焦らず弛まず努力せずに楽をしたい」という慢心を超えるものである。


6.禅定--三つの禅定

禅定の第一は、未真理の瞑想である。これは、まだ、十分に仏陀の教えに基づいた瞑想に至っていない段階の瞑想である。教学がしっかりとできていないと、与えられる瞑想をなしても、その深い意味がわからず、瞑想上の気持ちよさなどに意識を取られる場合が、この場合である。
第二は、真理の論理的な瞑想である。これは、仏陀の教えに基づいた瞑想をしているが、それが依然として論理的な思考に基づくものであって、仏陀の教えを直接体験している段階には至っていない。相当に高い段階ではあるが、まだ、煩悩が十分に滅してはいない。
第三は、真理を直接体験している瞑想である。これは、仏陀の教えを直接体験している瞑想であり、論理・思考によらない瞑想である。

 

7.智慧--三つの智慧

智慧の実践の第一は、教学による智慧である。教学といっても、この段階は、仏陀の教えを知識として吸収しているにすぎない段階である。知識としては吸収しているが、まだ十分な思索・分析がなされておらず、仏陀の教えの正しさを、論理的にも体験的にも理解していない。
第二が、推理智(論理智)の智慧の段階である。これは仏陀の教えを、論理的に分析・思索し、十分に納得している段階である。しかし、この理解は、仏陀の教えの直接体験による理解ではなく、論理によって間接的に、仏陀の教えを理解した=推理した段階である。
第三が、真理を直接体験している智慧である。これは仏陀の教えを(瞑想によって)直接体験して得られた智慧である。いわゆる直観智である。
なお、上記のように、禅定と智慧は連動している。これは、禅定=瞑想の結果として、心が静まると、智慧が生じるからである。これは、止観の教えの中にも出てくる。すなわち、瞑想によって心が静まる(=止)と、正確な観察が生じる(=観)という教えである。
以上、大乗仏教が説く、六つの完成・十八の実践について紹介・解説した。それは、仏教の実践の中で、煩悩を止滅し、利他の心を培い、仏陀の境地に至るために欠かせない重要な実践項目であるとされている。


8.粘り強い修行で、必ず智慧は深まる

悟りに向かう道を歩む際に、私たちは、煩悩の手ごわさを経験する。しかし、ねばり強くダルマの実践を行うならば、徐々に智慧=仏陀の教えの理解が深まり、煩悩の根本である無智を減少させていく。その理由は、仏陀の教えは、この世界に関する正しい事実関係の理解に基づいているが、煩悩の源の無智は、その名のとおり、間違った事実関係の理解に基づいたものであるからだ。要するに、真実は勝つということである。
例えば、無智の意識は、煩悩による「一時的な快楽」を好むが、それを貪れば、必ずその裏側に「さまざまな苦しみ=四苦八苦」を招く本質がある。また、無智の意識は、「私」というものが、他と独立した固定的な実体があるものと錯覚して、それに執着するが、実際には、他から独立しておらず、必ず、老い、病み、死ぬ無常なものである。
多くの人にとって、悟りの道を歩む過程において、仏陀の教えよりも、煩悩と無智に馴染んでいるために、煩悩の力が大きく感じられる。それを減らしていくことは、難しいと感じられる。しかしこれは、これまでに仏陀の教えと煩悩を修習した時間・量の違いによるものであって、長い目で見るならば、一時的なものである。
煩悩は強そうに見えるが、間違った事実の理解に基づき、本質的には人を幸福にしないために、無限に強くなることはない。いくら煩悩を追求しても、人は、煩悩によって、本当に幸福になると確信することはない。煩悩は、人を欺く性質のあるもので、人が煩悩を幸福への道として完全に信頼することはできない。
一方、仏陀の教えの実践は、正しい事実関係に基づいたものだから、ねばり強く実践すればするほど、それに対する信頼は増大していく。輪廻転生の存在を仮定すれば、今生から来世とつながり、永久に無限に増大する。徐々に仏陀の教えになじんでいくことで、正しい見解である仏陀の教えが、間違った見解である煩悩と無智を、徐々に減少させていく。
まとめれば、仏陀の教えは、真実・叡智であり、煩悩と無智は、虚構・錯覚である。真実が虚構を乗り越えるのは、長い目で見れば、時間の問題である。これをよく理解し、直ちに煩悩を乗り越えることができなくても、ねばり強く道を歩む心構えを持つべきである。


9.智慧が増大し、無智・煩悩が減少する段階

煩悩・無智が減少していく段階がある。これを理解することは、自分の教えの学習の進度を理解するために有効である。そこで、チベット仏教の教えから、その一例を紹介する。
まず、最初の段階は、「誤った理解」の状態である。これは「煩悩的な欲求を満たすことが幸福の道である」と考える無智に覆われた心の状態である。これは、悟りの智慧の状態とは正反対である。真実と正反対に物事を理解している状態である。この状態の心は、まったく静まっていない。
第2の段階が、「疑惑」の状態である。これは、最初の段階から、仏教の教えに多少なじんできた段階であり、誤った理解と正しい理解の双方が混在する、中間的な状態である。例えば、「「煩悩的な欲求を満たそうとしても、幸福にならないかもしれないし、やはり幸福になるかもしれない」と思っている。この両者のどちらの割合が大きいかによって、「疑惑」の段階の中にも、さまざまな段階がある。
第3の段階が、「正しく憶測する意識」の段階である。これは、考え方は正しいが、それが論理的な根拠に基づいていない状態である。例えば、「煩悩的な欲求を満たそうとしても幸福にならない」とは考えているが、なぜそうであるかという論理的な根拠が十分に把握されていない。これは、第2の段階から、いっそう仏教の教えになじんできた段階である。
第4の段階が、「正しい根拠に基づく推理」の段階である。これは、論理的な根拠に基づいて、「ダルマの教えが正しい」という推察に至っている段階である。例えば、「煩悩的な欲求を満たそうとしても、その裏側に様々な苦しみが生じるため、幸福にならない」と考えている状態である。これは、第3の段階から、ダルマの教えの論理的な根拠を観察する訓練を続けることで到達される。
第5の段階が、「直接知覚」の段階である。これは、第4の推理による理解になじみ、物事をありのままに認識するに至った段階である。第4の段階と第5の段階の違いは、第4の段階では、「煩悩では幸福にならない」と理解はしていても、それは単なる観念的な理解にすぎず、煩悩が苦しみをもたらすことを実感できていないため、実生活においては、煩悩・執着を捨てることができない。その後、瞑想を含めた、長い修行を経て、意識を根底から変革して、実際に煩悩・執着を離れた心の状態(直接知覚)の段階に至る。


10.第4段階を実現する学習と実践--教えをしっかりと考えながら学ぶ

私の個人的な見解であるが、私たちが第一目標とするべきは、第4段階の「正しい根拠に基づく推理」の段階である。これは、ダルマを十分に学び、しっかりと思索することによって実現できる。単に学ぶだけで何も考えない場合は、ダルマが正しいという考えは強くなるが、なぜ正しいかという根拠が把握されていないので、条件が変われば、考え方が逆戻りしてしまう恐れがある。
よって、例えば、釈迦牟尼を含め自分の仏教の教師が偉大であると考えて、その教えを無思考に学んで記憶するだけでは不足である。一時的には、その人は偉大だという思いから学んでも、なにかの拍子で気が変わると(例えば、その人に対する気持ちが変わると)、教えの正しさとは無関係に、学ばなくなってしまうことがある。いかなる人間も、人である以上は不完全であるから、特定人物の偉大さを信じる気持ちのみで学ぶことは、不安定なものであり、教えを教えの正しさゆえに学ぶ姿勢が望まれる。
実際に、釈迦牟尼自身が、自分に対する崇敬の念のみによって、その教えを受け入れるのではなく、よく吟味して、咀(そ)嚼(しゃく)した上で、受け取るように説いたという有名な事実がある。以下はこの点についてのダライ・ラマ法王の書籍からの引用である。

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このような方法を用いて仏陀の言葉を慎重に検討する必要があるということは、仏陀自身による経典の中でも述べられていることである。仏陀はある経典の中で、本当に金であるかどうか定かでない金属を受け取ったときのように、自分の言葉を受け取りなさいと、弟子たちに勧めている。(中略)

このように仏陀は、自分が説いた教えを弟子たちが批判的に検討することを認めている。仏陀の言葉を十分に吟味し、自分でそれを十分に検証した後で、「尊敬の念からではなく、教えを受け取るべきである。」と仏陀はいっている。
仏陀のこの言葉どおり、古代インドの僧院、例えばナーランダー大学のような仏教大学では、学生たちが自分の教師の学術書を批判的に検討・分析するという伝統が発達した。
このような批判的分析が、教師に対する敬意に反するものであるとみなされることは決してなかった。例えば、インドの偉大な導師であるヴァスバンドゥ(世親)にはヴィムクティセーナと呼ばれる一人の弟子がいた。彼は般若心経の理解に関してはヴァスバンドゥを凌駕するほど優秀な弟子だったといわれていて、ヴァスバンドゥの唯識理解に疑問を呈して、中観派の思想に即して経典を理解する方法を発展させた。
チベット仏教の中でこのような例を挙げてみると、アラク・ダムチュ・ツァンの例がある。彼は十九世紀におけるニンマ派の偉大な導師、ミパムの弟子だった。彼はミパムに対して深い尊敬の念を抱いていたが、ミパムの著作に対しては、しばしば異論を口にすることがあった。
あるとき、アラク・ダムチュ・ツァンは自分の弟子の一人から「自分の教師の著作を批判することは正しいことなのですか」と尋ねられた。すると彼は即座にこう答えたという。「もし教師が間違ったことを口にすれば、それがどんな偉大なラマであっても批判されなければならない」と。

チベットの格言に、「人には尊崇の念を向けよ。しかしその人の著作は、十分かつ批判的な分析がなされねばならない」という言葉がある。これは、極めて健全な態度である。仏教ではこのことを「四つの拠り所」(四依)と呼んでいる。

人に拠らず、言葉に拠るべし
言葉に拠らず、その意味に拠るべし
暫定的な意味に拠らず、決定的な意味に拠るべし
知的な理解に拠らず、直接的な体験に拠るべし

(『ダライ・ラマ 般若心経入門』ダライ・ラマ十四世、春秋社、2004)
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   第5章 仏教の基本:初期仏教の教え


1.はじめに

ここでは、仏教の基本として、釈迦牟尼が説いた主な教えを解説する。具体的には、中道、四(し)諦(たい)、八(はっ)正道(しょうどう)、十二縁起、四(し)念(ねん)処(じょ)、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学、止観などである。


2.中道

釈迦牟尼は、長年の厳しい苦行の末、悟りを得ることができないとして苦行を捨て、断食も止めて、「中道」に基づく修行に励んで悟り、目覚めた人(=仏陀)となったという。
その後、釈迦牟尼は、鹿(ろく)野(や)苑(おん)において、五人の比丘(出家者)に初めての説法を行ったが(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))、四諦・八正道よりも先に、この中道を、以下のように説いたという。

「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」(パーリ語経典相応部から『世界の名著 1』中央公論社 pp435-439)

なお、この中道の教えは、快楽主義にも苦行主義にも偏らない「苦楽中道」ともいう。


3.四諦

「四諦」とは、四聖諦(ししょうたい)とも言われ、4つの聖なる真理という意味がある。その4つの諦とは以下のとおりであり、まとめて「苦(く)集(じゅう)滅(めつ)道(どう)」と略称される。

1.苦(く)諦(たい) - この世は苦であるという真理
2.集(じっ)諦(たい) - 苦の原因に関する真理
3.滅諦(めったい) - 苦の止滅に関する真理
4.道(どう)諦(たい) - 苦の止滅の道に関する真理

四諦は、釈迦牟尼が最初に説いた教えであり、仏陀の根本教説である。これは、人間の苦を滅するために説いた教えである。そして、あたかも医者が、患者の病気の症状と原因を知り、その治療法を与えるようなものだともいわれる(応病(おうびょう)与(よ)薬(やく))。
この教えの要点は、(煩悩を滅しない迷いの状態では)この世・人生は一切苦であるが、苦の原因は煩悩であり、煩悩を滅すれば、苦は滅することができ、その具体的な道(八正道)があるというものである。この道を一言でいえば、自己に対する執着(自我執着)を一切捨てることで、苦しみを滅すること(悟ること)ができるというものである。
なお、煩悩が苦の原因であるという教えは、「縁起の法」ともいわれる(特に此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)という)。よって、此縁性縁起を言い換えたものが、四諦の(集諦の)教えということもできる。


4.四諦の詳細

第一の「苦諦」とは、(煩悩を滅していなければ)この世界の一切が、よく観察すれば、苦であるという現実を指す。(煩悩を滅していなければ)「人生が苦である」というのは、仏陀の根本的な思想であり、その人生の苦しみを仏教では「四苦八苦」として説く。
「四苦」とは、根本的な四つの思うがままにならないことであり、①生・②老・③病・④死である。老・病・死はわかりやすいが、生も苦しみとする。実際、妊娠・出産の過程は、いろいろな意味で思い通りにならず、母胎にも胎児にもいろいろな危険が伴う。
さらに、次の四つの苦を加えて「八苦」という。それは、⑤愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)-愛する対象と別れること、⑥怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)-憎む対象に出会うこと、⑦求(ぐ)不(ふ)得(とく)苦(く)-求めても得られないこと、⑧五(ご)蘊(うん)盛(じょう)苦(く)-五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着することによる苦しみである。なお、日常用語の「四苦八苦」は、非常に大きな苦しみ・苦闘を意味するが、仏教用語としては、人間・人生の主な苦しみを分類して述べたものである。
第二の「集諦(または苦(く)集(じゅう)諦(たい))」とは、苦の原因に関する真理という意味で、「苦の原因は煩悩である」という教えである。この「集」の原語には、起源・原因・招集という意味があり、苦の原因、ないし苦を招き集めるものは、煩悩であるという意味となる。
そして、煩悩とは、貪欲、瞋恚(怒り)、愚痴(おろかさ)などであるが、その中で、  ここでは、特に渇愛(渇いたように欲望を求めてやまない感情)のことを意味するという解釈がある。そして、この苦の原因である煩悩の、詳細な成り立を示したのが、「十二縁起」という教えであり、後に解説する。
第三の「滅諦(または苦(く)滅(めつ)諦(たい))」とは、苦の止滅に関する真理という意味であり、「苦は滅する」という教えである。より具体的には、苦しみの原因は煩悩であるから、煩悩を滅するならば、苦しみは滅することができるということである。
第四の「道諦(または苦(く)滅(めつ)道(どう)諦(たい))」とは、苦を止滅する道に関する真理という意味である。これは、まさに仏道修行のことであり、釈迦牟尼の直説の教えでは、「七科(しちか)三十七(さんじゅうしち)道品(どうぼん)」といわれる修行体系がある。そして、その中の特に「八正道」という修行が、釈迦牟尼の初めての説法(初転法輪)において、四諦とともに説かれた。


5.八正道

八正道は、釈迦牟尼が最初の説法において説いたとされる、悟り・涅槃に至る修行の基本である。具体的には、①正(しょう)見(けん)、②正(しょう)思(し)惟(ゆい)、③正(しょう)語(ご)、④正(しょう)業(ごう)、⑤正(しょう)命(みょう)、⑥正(しょう)精(しょう)進(じん)、⑦正(しょう)念(ねん)、⑧正(しょう)定(じょう)である。

第一の「正見」とは、正しい見解のことである。その究極は、仏道修行で得られる仏陀の智慧にほかならない。そして、何が正見なのかは、いろいろな解釈があるが、その根本は、「四諦」の真理を正しく知ることである。よって、正見とは、「四諦正見」とか、「四諦の智」ともいわれることがある。そして、この正見は、それ以下の七つの修行によって体得される。

第二の「正思惟」とは、正しい考え・判断・意志・決意のことである。いろいろな解釈が可能であるが、仏教が説く根本煩悩である貪・瞋・痴(貪り・怒り・愚かさ)を否定し、①貪らず、②怒らず、③愚かさに陥らずに仏法を信じようとする考え・意思と解釈できる。
他の解釈としては、①出(しゅつ)離(り)(離欲)、②無瞋(むしん)(怒りをなくすこと)③無害(他を害さないこと)を思惟することである。出離(利欲)とは、財産、名誉や、感覚器官の快楽(五欲)など、俗世間で渇望されるものから離れること。そして、この正しい思惟を実践するのが、次の正語・正業・正命などである。

第三の「正語」とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。

第四の「正業」とは、殺生を離れ、盗みを離れ、(不適切な)性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。

第五の「正命」は、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当な生業を持って生活を営むこと、正しい生活形態である。

第六の「正精進」とは、四(し)正(しょう)勤(ごん)のことであり、具体的には、①すでに起こった不善を断ずること、②未来に起こる可能性のある不善を起こらないようにすること、③既に生じている善を維持して増やすこと、④いまだ生じていない善を未来に生じさせる、という四つの努力のことである。

第七の正念とは、正しい思念、正しい思いを持ち続けることである。より具体的には、例えば、四(し)念処(ねんじょ)の瞑想である。四念処は、「七科三十七道品」の修行の1つであり、釈迦牟尼の時代から、悟りに至るための最も重要な観想法であった。具体的には、以下の通りである。
① 身念処:身体の不浄を観ずる。
② 受念処:一切の感受作用は苦であると観ずる。一切皆苦。
③ 心念処:心の無常を観ずる。諸行無常
④ 法念処:法の無我を感ずる。いかなる事物も自分に非ず(諸法無我)。
こうして、この瞑想は、自分・自分のものに対する執着(自我執着)を和らげる働きを持つ。なお、これは、後に述べる仏教の瞑想の「止観」の中では、「観」の瞑想の中核を成すものである。

第八の「正定」とは、原語では、正しいサマーディ(三昧(さんまい))である。三昧とは、心が集中して静まっている状態である。この「正定」と「正念」によって「正見」が得られるのである。
そして、八正道は、正思惟から正定の実践によって、正見、すなわち、仏陀の智慧を得ることができると説くが、八正道の後に、正智・正解脱を置いて、説く場合がある。すなわち、正見から正定の実践で、正智(仏陀の智慧・悟り)を得て、六道輪廻から解脱するということである。


6.八正道の全体の構造

八正道の修行の全体の構造を解説すると、

①まず、四諦を中心とした正しい見解・仏陀の智慧を学ぶ(正見)、

②それに反する無智・煩悩・自我執着に基づく悪い思考・言動・生活上の習慣を改める
(正思惟・正語・正業・正命・正精進)、

③無智・自我執着を解消する瞑想を行ない(正念)、
集中した静まった意識を実現し(正定)、
それにより、正見(正智)を悟って、解脱する。
ということになる。


7.十二縁起

「十二縁起」とは、人間の苦しみの原因を、順に分析したもので、それは「無明」から始まり「老死」で終わる12の因果関係の連続のことである。これを端的に表現したのが「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」である。十二因縁、十二支縁起、十二支因縁などと訳される場合もある。
その12とは、以下のとおりであり、「無明」によって「行」が生じ、行によって「識」が生じ、最後に、「生」によって「老死」が生じるという12の因果関係である。

1.無(む)明(みょう) - 煩悩の根本。無智。真理がわからないこと。
2.行(ぎょう) - 意志作用・志向作用。
3.識(しき) - 識別作用(好き嫌い、選別・差別の元)
4.名(みょう)色(しき) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形とその名前
5.六(ろく)処(しょ) - 六つの感覚器官。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)
・身(触覚)と意識
6.触(そく) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
7.受(じゅ) - 感受作用。六処で外界に触れた結果の感受作用。
8.愛(あい) - 渇愛・愛着。
9.取(しゅ) - 執着・とらわれ。
10.有(う) - 存在。生存。
11.生(しょう) - 生まれること・出産
12.老(ろう)死(し) - 老いと死。

このプロセスをおおざっぱに解説すれば、根本煩悩である無智・無明によって、自我(すなわち名色=心身)に執着し、五感と意識で外界に接触し、渇愛・執着・とらわれが生じ、生まれた後は、老いと死を迎えて苦しむということである。


8.戒・定・慧の三学

悟りに至る道として、仏教が説く最も伝統的な教えの一つが、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の「三学」である。これは、仏道修行者が、必ず修めるべき三つの基本的な実践の項目であり、戒学・定学・慧学ともいう。
「戒学」とは、戒律を守って、身(しん)(行為)・口(く)(言葉)・意(い)(意識)の悪行を止め、善行を修することである。「定学」とは、禅定(瞑想)を修めることである。心の散乱を防いで、心を静める教えである。「慧学」とは、智慧を体得することである。煩悩が静まった、静かな心をもって、物事をありのままに見ること(=悟りを得ること)をいう。
三学は一体であり、循環している。戒を守って生活を正すことが、禅定の達成を助け、禅定の静まった心は、物事をありのままに見る智慧を生じさせる。そして、真理を悟った智慧によって、いっそう戒を守った正しい生活をすることができる。仏典(パーリ語経典長部の『沙(しゃ)門(もん)果(か)経(きょう)』など)でも、四諦の真理は、出家修行者が戒律を順守して清浄な生活を営みながら、瞑想修行に精進し続けることで、はじめて悟ることができると述べられている。
よって、「三学」と「八正道」は、よく一致している。すなわち、①正見が「慧」に相当し、②正思惟・正語・正業・正命・正精進(正念)が「戒」に相当し、③(正念)・正定が「定」に相当する。


9.戒律について

仏教では、さまざまな戒律がある。その中には、比丘の250戒(比丘尼の約350戒)などもある。しかし、大乗仏教が起こると、「大乗戒」と呼ばれるものが説かれ、主なものとして、十項目の善行を説く「十善戒」が説かれた。
十善の反対の行為として、十の悪業(十悪)がある。輪廻転生を信じる仏教の教えでは、その結果として不幸な転生(地獄・餓鬼・動物の転生)をすると説かれ、大変な苦しみを味わわなければならないという(なお、ひかりの輪は、大乗仏教の宗教・宗派ではなく、思想哲学の学習教室であり、来世や輪廻転生は否定も肯定もしないという立場(中道)である)。これは、「自業自得」という言葉で有名な「因果の法則」に基づいた考えである。この法則の基本は、幸福は、善い業(善いカルマ)の結果であり、苦しみは、悪い業(悪いカルマ)の結果であるということである。
そして、その人のなしたことは、その人に返り、もしあなたが人を殺すなら、その果は、あなたの両親でも子どもでもなく、あなた自身に返るため、もし自分、そして他人を利することを望むなら、悪業をやめて、善業を積む必要があると説かれる。


10.十悪(十不善)と十善

さて、十の悪業とは、3つの身の悪業、4つの口の悪業、3つの心の悪業に分けられるが、具体的には、次のとおりである。
まず、身の悪業とは、①殺生、②偸盗、③邪淫といい、これは、①他の生き物を殺すこと、②自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、③姦通、強姦といったような正しくない性行為を行うことである。
次に、4つの口の業とは、①妄語、②綺語、③悪(あっ)口(く)、④両舌といい、これは、①嘘、②無駄話・噂話をすること、③悪口あるいは粗暴な言葉を話すこと、④人を仲たがいさせる言葉を話すことである。
心の悪業とは、①貪(とん)(貪欲、貪り)、②瞋(じん)(瞋(しん)恚(に)、怒り)、③癡(ち)(邪見、無智)といい、①健やかに生きるために必要以上のものを、むやみに求めること(例えば、他人に属するものをむやみに「欲しい」と思うこと)、②他に対する邪悪な思い・怒り・憎しみを持つこと、そして、③仏陀の教えを否定する誤った信念・考えを持つことである。
そして、これらの悪業が、どのような不幸をもたらすかは、どのような心の働きで、その悪業がなされたか、どれくらいの頻度でなされたか、その対象は誰で、その程度は重いか軽いかなどによるとされる。
そして、十悪をなさないことが、十の善行(十善業、十善戒)である。すなわち、①不殺生、②不偸盗、③不邪淫、④不妄語、⑤不綺語、⑥不(ふ)悪(あっ)口(く)、⑦不両舌、⑧不(ふ)貪(とん)欲(よく)(無(む)貪(とん))、⑨不瞋恚(無(む)瞋(しん))、⑩不邪見(正見)である。


11.十の特別な善行について

単に、十の悪業をなさないという意味での「十の善業」ではなくて、これを発展させ、「十の特別な善行」というものも説かれる。それは、次のとおりである。

行為においては、①殺生をせず、他の命を救うこと、②盗みをせず、寛大であること(布施をなすこと)、③邪淫をせず、そして他にも同じようになすことを勧めること。

言葉においては、④嘘をつかず、誤解を生まないように真実を話すこと、⑤悪口を言わず、優しく静かに話すこと、⑥無駄話をせず、教えや祈りのように、意味あることを話すこと、⑦仲たがいさせる言葉を話さず、ケンカの仲裁をし、敵を仲直りさせること。

最後に、心においては、⑧欲を持たず、満足を知ること、⑨他に対して邪悪な気持ちを持たず、良い思いを持つこと、⑩誤った信念、考えを持たず、正しい教えを信じることである。

などと表現することができる。

 

12.十の善業がもたらす幸福

十の善業によって、次のような幸福を得ることができると仏典では説かれている。この中には、合理的な見解もあれば、仏教の「輪廻転生・カルマの法則」などの信仰に属するものがあるが、紹介しておく。

① 他の命を救い、殺生を行わないなら、寿命が長くなる。反対に、繰り返して殺生を
なすなら、命は短くなり、病が続く。

② 人に施して、盗みをなさないならば、その人自身が豊かになり、盗みを行うならば、
貧しくなり、盗みに遭う。

③ 身を清く保ち、邪淫をなさないならば、結婚生活・友人関係はうまくいくが、反対
に、邪淫を行うならば、結婚生活はうまくいかず、夫または妻に裏切られる。

④ 真実を語り、嘘をつかないことで、他の人は、あなたの言うことを信じる。
しかし、いつも嘘をつくなら、誰もあなたの言うことを信じなくなる。

⑤ 意味のある言葉だけを語り、噂話をしないなら、自分も意味のある言葉を聞く。
一方、無駄話をするならば、自分もたわいのないことしか耳にできない。

⑥ 快い言葉を話し、悪口を言わないなら、他の人も、あなたに優しい言葉を話して
くれるでしょうが、常に他人の悪口を言うならば、自分も悪口を言われ、粗暴な言葉
で話し掛けられる。

⑦ 仲たがいさせるような言葉を避け、人を仲良くさせるなら、いつも友人と親しく付
き合うことができるが、反対に、仲たがいさせるなら、敵を作り、妬まれ、友人関
係は貧しいものになる。

⑧ 満足を知り、他人のものを欲しがらないなら、なににも、不自由することはないが、
隣人のものを常に欲しがっているような人は、乞食になり、常に満たされることが
なくなる。

⑨ 他に対して良き思いを持ち悪しき思いを持たないならば、人々に親切にされ、尊敬
される。一方、悪しき思いを持つことによって人に疑われ害されることになる。

⑩ 正しい正確な見方をすることによって、智性・智慧は増し、頭はいつもさえている。
しかし、誤った見方に執着するならば、心は狭くなり、智性は働かず、疑いに満た
される。

では、そのためには、まず、何をなし、何をやめるかを理解し、自分のなす行為を、身・口・意の3つの門を通してチェックすることが大切となる。
そして、常日ごろから、善行を増加・増大させ、悪行を止滅させ、悪業の輪・流れを断ち切り、善業の流れ・輪が途切れないようにするのである。これが戒律の教えである。


13.定(禅定・瞑想)について:煩悩を滅する決め手となる瞑想

煩悩を克服するためには、煩悩の根本である「無智」を取り除かなければならない。無智を断ち切るためには、第一に、事物には実体がないこと、すなわち、「縁起」や「空(くう)」の教えを理解している論理的な意識(正(しょう)理(り)智(ち))が、大きな力を持つ。これは、しっかりと教えを学び、考えることで得ることができる。
第二に、次の段階で、論理を超えた直感で、無智を取り除く。これは、例えば、「事物は実体としては存在しない」という縁起や空の教えの理解を、概念・思考を介さない直接知覚による直感のレベルまで高める必要がある。このためには、瞑想の助けが必要になる。
こうして、単に論理的な意識で、無智を取り除こうとするのではなく、瞑想の助けによる直接知覚によって、空を悟っている智慧を培うことが、無智を取り除く決め手になるのである。


14.空を悟るための瞑想「止観 」

さて、瞑想の助けで「空」を悟った智慧を得る過程を説明する。それは、深い瞑想に入ることを通じて「止観」と呼ばれる瞑想状態を達成し、それによって、智慧が生じるということである。ここで、心が寂滅した状態が「止」であり、物事をありのままに見る特別な洞察が「観」である。
こうして、空を悟った特別な洞察を生じさせるには、まず、心を静寂な状態にし、心を沈静化して、意識の向きを変える必要がある。これによって、観察する対象に注意深く、明晰な状態で、心を集中する能力を伸ばすのである。より鋭く、より敏捷に、より注意深くなるようにするのである。

 

15.止観について

止観について、もう少し詳しく述べる。「止観」の「止」とは、原語では「サマタ」という。これは、心を、外界や様々な想念に散乱せずに、集中して静止した状態にすることである。「観」とは、「ヴィパッサナー」という。これは、「止」の結果として、物事をありのままに観察することであり、智慧が生じた状態である。
なお、「止」と「観」は、戒・定・慧の三学における「定」と「慧」に一致する。また、六つの完成における「禅定」と「智慧」に一致する。
また、「止」と「観」とは、お互いに助け合って深め合うので、不離の関係にある。言い換えれば、両者は循環し合う関係にあるということができる。すなわち、心を、集中した静まった状態にすれば、物事をありのままに見ることができるようになり、物事をありのままに見るように努めれば、心は、集中した静まった状態になるということである。


16.止観を得るための実践

止観の状態を得るためには、心の乱れが静まり、心が観察の対象に鮮明に、そして持続的に、集中できるようにしなければならない。そのためには、先ほど述べたように、まずは、戒律を守って、心と体の悪い行いを抑制し、心が、「貪り」や「怒り」といった煩悩の対象へ散乱しないようにする必要がある。
これに加えて、いわゆる集中修行・リトリート修行といわれるように、通常の生活ではなく、静かな隔絶された場所にとどまって、長い時間にわたって実践を行うことが望ましい。


17.縁起・空を悟った智慧は、無智・煩悩を滅する直接的な手段

最後に、別の教本で詳しく述べているが、私たちの煩悩は、「言葉」による誤った観念的な思考によって生じている。そして、この誤った観念的な思考は、あらゆる事物に実体があると錯覚する、無智から生じている。
具体的に説明する。普通の人は、「言葉」を用いて思考すると、厳密にいえば実在しないものを、あたかも実在するかのように錯覚してしまう。例えば、「山」と「平地」という言葉があるが、両者の明確な境界などは存在しない。しかし、私たちの日常の意識は、「山」や「平地」といった言葉を使うことで、その二つが、あたかも別々のものとして存在していると錯覚してしまう。しかし、「平地」とは別の「山」とか、「山」とは別の「平地」といったものは、その「言葉」によって、人の意識の中だけに、仮に設定された観念・概念にすぎず、実在するものではないのである。実際の世界は、万物は相互依存であり、一体である。
この錯覚が最も大きな問題を起こしているのが、「自と他が別物である」という錯覚である。第3章で述べたように、自と他は、実際には密接不可分に繋がっており、一体である。どこまでが「私」で、どこからが「私」ではない、という境界などは、実在しない。
しかし、これを悟らずに、「自と他が別物であり、自分のものと他人のものが別だ」と錯覚するために、人は、「自分」と「自分のもの」だけに過剰に執着し、際限なく自分のものを増やそうとする。すなわち、自我執着・貪りといった煩悩が生じる。その結果、他と奪い合うなど、四苦八苦といわれる様々な苦しみに陥っていく。
こうして、「言葉」を用いる人の意識の中では、実際には一体であって流動的な世界が、様々な事物に分かれた、固定的な存在のように錯覚される。これは、世界をありのままにとらえる上での障害となり、それを阻む「無智」の意識状態を生じさせる。そして、それに基づいて、貪りや怒りといった煩悩が生じてくる。
そして、この無智・虚構の世界観を滅する直接的な手段が、瞑想の助けによって縁起・空を悟った「智慧」なのである。

 

 

 

 

 

 

 


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