教本と講義
ひかりの輪で使用している教本やテキスト、それを解説した上祐代表の講話などをご紹介しています。

【動画あり】21世紀のための仏教講義

2011年~2012年 年末年始セミナー特別教本『三仏心経の教え――感謝と尊重と愛の実践』
(2012年04月06日)

2011年~2012年の年末年始に行われた年末年始セミナーの特別教本です。

テーマは、『三仏の教え-感謝と尊重と愛の実践』です。

この教本は、ひかりの輪で、毎日の中心的な修行実践としている「三仏心経」を解説したものです。

「三仏心経」とは、「万物恩恵 万物感謝、万物仏 万物尊重、万物一体
万物愛す」という短い経文で、文字そのままなのですが、「万物を恩恵と見て感謝する、万物を仏と同等に平等に尊重する、万物を一体と見て愛す」という意味合いがあります。

これまで、ひかりの輪の説いてきた一元思想で、大乗仏教の思想に見られるものですが、それを現代語の短い言葉で表したものとなっています。

昨年の夏、出羽三山での修験道体験の中で、「般若心経」の読経を集中的に行う機会があったのですが、その経験から、ひかりの輪の独自のお経が生まれていきました。

セミナーでは、各章ごとに、全6回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてUstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。

教本の販売もしています。 


◎動画の内容(全7回)

第1回講話 『現代の2つの生き方について』

第2回講話 『宗教が説く、あまねく実践について』

第3回講話 『質疑応答を中心とした講話』

第4回講話 『ひかりの話独自のお経「三仏心経」』

第5回講話 『年末年始セミナー特別教本第2章「釈迦牟尼の法則・
                万物恩恵・万物感謝」の解説』

第6回講話 『年末年始セミナー特別教本第3章「観音菩薩の法則・
                万物仏・万物尊重」の解説』

第7回講話 『年末年始セミナー特別教本第4章「弥勒菩薩の法則・
                万物一体・万物愛す」の解説』


>>動画はこちらでご覧いただけます。

 

◎特別教本『三仏心経の教え 感謝と尊重と愛の実践』の教本の内容


>>ご購入もできます。冊子になっています。


目次

第一章 三仏心経の由来 -------------3
第二章 釈迦牟尼の法則:万物恩恵・万物感謝 --- 5

1 三仏心経 ----------------- 5

2 釈迦牟尼の法則「万物恩恵・万物感謝」の解説 ----- 5

3 私たちは一体である宇宙の万物に支えられている:無智の捨断 - 6

(1)万物の支えを意識して感謝する ------------ 6
(2)万物を一体と気づいて、平等な感謝と愛を培う ----- 7

4 貪りを越えて慈悲を培う感謝(貪りの捨断)-------- 8

5 苦しみの裏にある喜びに気づいて感謝する(怒りの捨断) -- 11

6 苦と楽の双方に偏らない釈迦牟尼の中道の教え ------- 14

(1)中道の教え ---------------------- 14
(2)感謝と慈悲(分かち合い)のつながり ---------- 14
(3)今後の日本社会のために ---------------- 15


第三章 観音菩薩の法則:万物仏・万物尊重 -------- 17

1 他者が与えている恩恵を十分に考えること ---------- 17

2 謙虚になれば、万人が仏と同等に、学びの対象であることに気づく 18

3 万人は平等に、未来に仏陀になる存在であるという思想
=人類社会は、未来に仏の浄土のように大きく進化すること -- 20

(1)人は皆未来に仏陀になるという思想 ----------- 20
(2)人は皆、平等の価値を持つという思想 ---------- 21

4 現代社会の人間観・人類観・未来観の歪みを越える ------ 24


第四章 弥勒菩薩の法則:万物一体、万物愛す ------- 27

1 万物を一体と見る思想 ------------------- 27

2 三仏心経の第二部:万物一体の経典 ------------- 29

3 万物を一体と愛すること ------------------ 30

4 真の利他の条件:他への感謝、尊重、一体の自覚 ------- 31

(1)三仏心経と大乗仏教の菩薩道の類似性 ----------- 31
(2)最善の利他の実践のための心構え ------------- 33


《参考資料》日本の良さを再発見:日本の聖地 ------- 34
(上祐史浩オフィシャルブログhttp://ameblo.jp/joyufumihiro/ 日記から)

1 日本の良さを再発見① 聖地とは?(2011年8月18日) ---- 34
2 日本の良さを再発見② 聖地の聖なる水(2011年8月19日) --- 35
3 日本の良さを再発見③ 聖地と大地のエネルギー(2011年8月19日) 37
4 日本の良さを再発見④ 聖地と温泉(2011年8月21日) ----- 39
5 日本の良さを再発見⑤ 宗教の聖地と自然の聖地(2011年8月22日) 41
6 日本の良さを再発見⑥ 五大と五行・自然との調和(2011年8月23日) 43


《参考文献》ひかりの輪の特別教本や小冊子リスト ----- 45

 

以下、教本の全文を掲載。  



2011年~2012年
年末年始セミナー特別教本

三仏心経の教え
感謝と尊重と愛の実践

 

第一章 三仏心経の由来

  「三仏心経(さんふつしんきょう、さんぶつしんぎょう)」は、ひかりの輪オリジナルのごく短いお経である。それは、これまでにひかりの輪で説かれてきた釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の三世の仏陀(=三仏)の教えのエッセンスである。「心経」とは、心髄の教えという意味で、「般若心経」の場合も、般若経典の中の心髄の教えという意味である。

   この教えが生まれた一つの背景は、それ以前にひかりの輪で実践されてきたサンスクリット原語のマントラ(真言)が、日本人一般にとっては馴染みにくいということがあった。まず、日本語ではないので意味がわからないこと、さらには正確には発音しにくく、日本語訛りになることなどである。


   それとは別に、このお経が生まれるもう一つの背景として、ひかりの輪が長年行ってきた日本各地の聖地巡礼があった。その一つに、昨年2010年に、島根県に大国主(おおくにぬしの)神(かみ)を祭る出雲大社を巡礼した。この出雲大社の御祭神の大国主神は、日本の神道の神話上、日本列島に最初に国を作った国造りの神とされる(神武天皇による大和朝廷以前)。


  この大国主命は、出雲と周辺諸国を治める上で、人々の心を歌で惹き付けたとされ、そのため、歌の神ともされる。そして、これは日本の「歌」であるから、和歌や短歌というように、韻を踏んだリズミカルな言葉であろうというのが、私の解釈である。そして、この韻を踏んだリズミカルな言葉というのが、「三仏心経」にも活かされている。


   さて、その後、今年2011年になって、羽黒山修験道で有名な出羽山(出羽三山)を巡礼した。その際、現地の修験道の先達に習って修験道の勤行を行ったが、その中に含まれていたのが、般若心経の読経であった。


   般若心経は、大乗仏教が中心の日本の仏教において宗派を問わず広く唱えられている。読経される経典としては、間違いなく日本で一番人気のある、突出して人気のあるお経である。そのお経は漢訳の経典で、「色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)」という言葉で有名で、四字熟語などを中心とし、読んでみるとリズミカルな経典で、この、読んだときの調子・リズムによる心地よさが人気の原因ではないかと私は感じた。


   しかし、色即是空・空即是色を含め、全体が漢語であるため、ほとんどの人には、読経はできても、ある程度仏教用語を知っている人でも、意味を理解することは難しい。ましてや一般の人の場合はなおさらで、意味がさっぱりわからないだろう。よって、読経自体はリズミカルだが、その教えの意味が、心に入ってくるのは難しいだろう。


   そういった経緯の中で、韻を踏んだ語句によって読経するのにリズミカルで、かつ現代の日本人の皆さんにも、わかりやすい経典を独自に作れないかという視点から生まれたのが、この三仏心経である。


   それは、「三仏心経」という題名を合わせると全部で27文字で、般若心経(約270文字)の十分の一の短さであり、しかも、現代日本語で表現されているので、誰にでもわかりやすいものとなった。四字熟語を中心に、韻も踏んだ語句となっている。

   とはいえ、これは、世界の普遍的・根本的な道理とする思想、すなわち万物を輪のように平等一体と見る思想(輪の法則、一元法則)を、ひかりの輪が表したものである。その普遍的な道理は、現代社会の日常の意識・常識を越えた法則であり、よって、その理解のためには十分な解説が必要となる。その理解ができていれば、すでに一定の悟りの段階(推理智)に来ているともいうことができるからである。本書の主な目的は、その解説である。

 

第二章 三仏心経の解説1:釈迦牟尼の法則


1 三仏心経

   三仏心経は、以下の通りである。

     万物(ばんぶつ)恩恵(おんけい)、万物(ばんぶつ)感謝(かんしゃ)
     万物仏(ばんぶつほとけ)、万物(ばんぶつ)尊重(そんちょう)
     万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛(あい)す


   簡単に意味を示せば、以下の通りである。

     万物を恩恵と見て、万物に感謝する。
     万物を仏と見て、万物を尊重する。
     万物を一体と見て、万物を愛する。

   そして、この三行は、それぞれが釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の教えの悟りを表しており、以下の通りになる。

  釈迦牟尼の法則:万物恩恵、万物感謝

  観音菩薩の法則:万物仏、万物尊重

  弥勒菩薩の法則:万物一体、万物愛す

  そして、このお経は、教えを説いたお経でもあるが、同時に、このような心境に至るように自ら努めるとともに、神仏にその達成を祈願するためのものであるから、「誓願の言葉」とも言われている(三仏の悟りの誓願の言葉)。


2 釈迦牟尼の法則「万物恩恵・万物感謝」の解説

   では、「万物恩恵、万物感謝」という教えの意味合いを解説する。


   まず、日ごろ、私たちが体験するものは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものの三つに分類することができる。そして、好きなものには、それをもっともっと欲しいと感じ、嫌いなものには、それから逃げようとか、それを排除・破壊しようと感じ、無関心なものには何も感じない。


   この一つ目の心の働きを仏教では貪りと言い、二つ目の心の働きを怒りと言い、この二つを含めて、貪り・怒り・無智の三つを心の三つの毒(三毒)と呼ぶ。伝統的には、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒と言われることが多い。


   しかし、こうした心の働きは、私たちが本来感じることのできる幸福を非常に少なくしてしまう。それは後ほど詳しく説明するが、例えば、好きなものがあっても、「もっともっと」という心の働きが強いと、それは際限がないために、満ち足りることはなく、その裏側にさまざまな苦しみをもたらす。


   また、嫌いなものでも、その裏側には、私たちにとって、大きな恩恵となるものがあるが、それからいたずらに逃げる心が強いと、それを活かせない。そして、普段はまったく無関心な対象も、大きな恩恵をもたらしている事実がある。


   その結果として、多くの人が、万物に恩恵を感じ、万物に感謝できる心の状態ではなくて、その逆に、いろいろな不幸・不足を感じ、いろいろな不満を抱く、といった心の状態に陥りがちである。一言で言えば、自分を取り巻く条件が客観的にどうであれ、心が感じる幸福・喜びが少なく、不幸・苦しみが多いという状態である。


   それは、客観的に見たら世界最高レベルの長寿と豊かさと安全といった三拍子揃った日本という社会に住んでいながら、年間に三万もの人が自殺し、数百万もの人が精神を病むといった現状が、表している。


   よって、この万物恩恵・万物感謝という教えの意味・目的は、心の持ち方、ものの見方を変えることによって、心の感じる幸福・喜びを最大限にしようというものである。その究極的な状態が、万物を恩恵と見て、万物に感謝できる心境である。


   そして、それに少しでも近づければ、日常生活で感じる幸福・喜び・恩恵・感謝が、今までの二倍・十倍・百倍となっていく。そして、究極的な状態が、仏陀の四無量心と呼ばれている心の状態で、その中には、無量=無限の喜びが生じているという。


   では、次に、具体的にどのようなものの見方・考え方によって、万物恩恵・万物感謝の境地に近づくことができるかについて、解説する。


3 私たちは一体である宇宙の万物に支えられている:無智の捨断

(1)万物の支えを意識して感謝する

   万物を恩恵と見て感謝する心を培うために、まず意識するとよいことは、私たちは自分だけの力だけではなく、万物の支えで生きているということである。


   それは、具体的に言えば、他の人々の支え、日々の糧となる他の生き物の支え、空気・水などを与える地球の生命圏の支え、太陽からの陽の光を含めた太陽系や、太陽系を支える銀河系、無数の銀河系を相互に支え合っている無限の宇宙と広がっていく。よって、万物を恩恵と見て、万物に感謝する。


   このものの見方のメリットは、

①普段はまったく意識しない万物の支えを改めて意識して、感謝の心を培うこと

②狭くなりがちな意識を解放して、宇宙全体に広げること

③自分だけの力で生きて(成功して)いるという慢心とそれによる苦しみを減らすこと

などがある。


   なお、この教えを伝統的な仏教的な方便(表現)で解説するならば、釈迦牟尼が説いた縁起の法にあたる。縁起の法の「縁起」とは、「因縁(いんねん)生起(しょうき)」の略であり、万物が、他から独立して、自分だけの力で生じるのではなくて、他に依存して、他を原因・条件として、生起しているという事実を説くものである(因 =原因、縁は条件といった意味がある)。


よって、縁起の法は、人の思考の対象となる宇宙の万物は相互に依存し合って存在し、固定した実体がなく、本質的に一体であることを意味している。なお、ひかりの輪は、仏教開祖・釈迦牟尼を尊敬し、仏教のさまざまな教えを採用しているが、仏教とその教えを絶対視してはおらず、あくまでも、それを方便・手段として活かそうとしている。


   よって、教えの解説においては、まず現代の誰もがわかる日本語の言葉で解説し、その後、その教えが、伝統仏教の教え(ないしはその他の宗教の教え)においては、どのような教えと関係するかを付け加える形で紹介するスタイルをとることにする。

 

(2)万物を一体と気づいて、平等な感謝と愛を培う

   さて、次に考えるべきことは、私たちが得ている万物の支えというものが、平等で一体であるということである。私たちの毎日の生活や、幸福の探究を支えているのは、自分が日常の中で好きだと感じる人・ものだけでなく、嫌いと感じる人・ものや、普段は無関心な人・ものも含めた万物である。


   日常の感覚では、好きと感じる以外のものは、あたかも必要がない存在のように錯覚しているが、実際には、嫌いと感じるものや、無関心なものに支えられなければ、私たちは生きていくことはできない。客観的に見れば、好きなものよりも、むしろ、嫌いなものと無関心なものを合わせたものの方が、実際に私たちの毎日を支えている割合は、圧倒的に多いだろう。


   さらに重要なことは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものを含めた万物は、お互いに切り離すことができない、相互に依存し合った関係にある。すなわち一体として存在している。


   例えば、人類社会は、今や非常に進化した分業のシステムの中にある。普段はまったく意識しない地球の裏の国の産業活動も、私たちの毎日の経済生活に直接関係するほど、人類社会の一体性が深まっている。普段意識する存在に支えられている割合の方が、全体の中では、圧倒的に少ないだろう。


   また、嫌いなものに支えられている場合も非常に多い。自分が嫌いな人や、ないしは会えば必ず嫌いになるであろうタイプの人が働く会社の製品・サービスに、毎日大変助けられていたり、自分が日常生活で最も嫌いだと感じている人が、自分の最愛の人を産んだ人であったりする場合も多いようだ(嫁と姑の問題)。多くの場合、好きなものが嫌いなものを、嫌いなものが好きなものを作っている。


   また、私たちを育む地球の生命圏・大自然も相互依存の一体性の中に存在する。今日の私たちにとっては嫌に感じられる雨も、農家にとっては必須の「恵みの雨」であり、その農産物がなければ、私たちも生きていくことができない。逆に、晴天の日の心地よさも、雨乞いをする農家には、恨めしいものである。快適なものが不快なものを、不快なものが快適なものを作り出している。


   こうしてみると、私たちは一体である万物の中の一部分を見ては好きだとか、嫌いだとかと感じているが、それらは一体である全体の一部であって、他から独立した存在ではないことがわかる。


   そして、ここで重要なことは、このことを意識すると、万物を一体と見て、万物に平等に感謝する心を養っていく第一歩となることである。その意味で、万物を一体として恩恵と見て、万物に平等に感謝するのである。


   ここでも、この教えに関して、伝統の仏教的な方便・表現による解説を加えておこう。大乗仏教の教えでは、「平等心」という言葉がある。これは、普段好きだとか嫌いだとかとして、区別している対象を等しく平等に愛する心の働きであり、仏陀の心の働きの一つであるとされる。万物を平等に愛するのが、仏陀の心なのである。


   そして、さらに重要なことは、仏陀の平等な愛は、万物への平等な感謝から生じるということである。感謝に基づいた愛なのである。これは、詳しくは後に述べるが、すべての衆生を救済するために、仏陀の境地に至ろうと決意する「発菩提心」と呼ばれる教えに関係してくる。

 


4 貪りを越えて慈悲を培う感謝(貪りの捨断)

   資本主義を中心とした現代社会に生きる私たちは、日常生活の中で、快楽は、それを必要以上に際限なく貪ろうとし、その逆に、苦しみには嫌悪して、それを避けようとばかりする傾向が少なくない。


   しかし、昨今行き詰まりを見せつつある資本主義の中で、今こそ、この快楽と苦しみといったものの本質について、正しく知る智恵(智慧)が必要である。すなわち、人が感じる楽と苦というものの本質を深く考察してみるのである。すると、自分が日常生活に流される中で、いままで理解していなかった、私たちの心の働きの真理を理解することができるのである。


   その心の働きの真理の中で、まず第一に重要なことは、苦楽表裏という事実である。これは、楽を貪ると、苦しみも増えて、楽の裏に苦があるということ、そして、逆に、苦しみの裏には、楽もあるということである。


   まず、快楽の貪りは、際限がない。そのため、決して真の満足は得られない。例えば、私たちは、世界全体から見れば、長寿・豊か・安全と三拍子揃った日本社会に生きている。しかし、日本社会の中から見れば、年間三万人が自殺し、数百万人の人が精神を病み、停滞する経済と少子高齢化により、多くの人が現状への不満と、将来への不安を抱えている。これはなぜだろうか。


   貪りの心は、何かを得ても、喜びや感謝の気持ちは最初だけで、すぐにそれを当然のものとして、さらに求める性質がある。その一方で、いったん得たものには執着が生じ、得る前はそれ無しでいられたのに、得た後に失うと、非常に辛く感じられる。そして、より多くを求める中で、ないし得たものを守ろうとする中で、他との奪い合い、妬み・恨みなどが生じる。こうして快楽の貪りの裏には、さまざまな苦しみがあるのである。


   これを伝統の仏教的な方便・表現で解説すると、四苦八苦という教えである。仏教の専門用語の「四苦八苦」とは、我々が日常的に用いる特別に苦しい状態を意味する言葉ではなく、貪りや執着のため、人間が陥りやすい一般的な苦しみを八つに分類したものである。


   こうして、貪りには際限がなく、それが強くなると、決して満ち足りず、絶えず不満が生じ、感謝の心が弱まる。よって、「万物恩恵・万物感謝」ではなく、「万物不足・万物不満」といった意識状態になる。

 

   そして、貪りの心は、非常に偏狭な視野に陥っている心の状態である。それは、自分が得ていないもの、自分より恵まれている人ばかりを見ており、世界全体を見ていない。その結果として、自分の幸福の大きさを客観的には見ることができない状態である。


   この貪りの落とし穴に気づくには、今与えられている幸福の大きさを努めて考えるようにして、それに気づいて感謝し、足るを知る心を持つことである。そうすると、人の感じる幸福感とは、じつは、お金や名誉の量といった外的な条件よりも、心の持ち方によって、心から生まれるものであることがわかる。


   言い換えると、同じ環境にあっても、心の持ち方で幸福な人もいれば不幸な人もおり、どんな場合でも、心の持ち方によっては、幸福を見いだすことができるが、貪りにとらわれると、どんな場合でも、不満が生じることがわかる。幸福は心が感じるものだから、幸福感は、心が中心となって生み出している。これに気づくと、万物恩恵・万物感謝の心境に近づくことができる。


   そして、感謝は、人にとって最も重要な宝ともいうことができる「慈悲の心」をもたらす。感謝によって、貪りが静まると、自ずと、自分と世界がありのままに見えてくる。すなわち、世界の中で自分の得ている幸福の大きさに気づくのである。


   その中から自ずと、自分よりはるかに苦しんでいる、恵まれていない者たちが、この世界には、無数に同時に存在している事実に気づき、他への慈悲の心が生じる。そして、ひいては、貪りとは正反対の分かち合いの重要性に気づくことになる。


   この慈悲の心というのは、「仏の心」ともされるが、人の心の働きの中で、貪りや怒りとは違って、非常に大きな安定した幸福感を与えるものである。感謝と結びついた慈悲の心は、その意味では、人にとっての最大の宝であろう。


   一方、現代の日本社会に生きる我々の日常の状態は、多くの場合、この視野(しや)狭窄(きょうさく)の状態に近いのではないだろうか。自分の生きている周囲の世界がほとんど見えていない状態で、自分のことばかりを考え、そして、自分がまだ得ていないもの、自分より恵まれているものばかりを見ている。そこから、現状への不満と将来への不安が生じる。


   それは、仏陀の視点から見るならば、自分よりはるかに苦しむ無数の存在に対して、非常に無慈悲な心の状態だろう。


   さて、無慈悲という言葉を使ったが、この貪りの心の本質は、しっかりと分析するならば、そもそもが、他から幸福を奪おうとする心の働きなのである。


   そして、奪うために生じるのが、嘘や悪口、盗みや不当な手段での取得、場合によっては殺しといった、さまざまな悪行や犯罪行為である。しかし、この悪行は、長期的には、当然、さまざまな苦しみをその本人にもたらすことになる。


   この点について詳しく分析してみよう。際限のない貪りは、必ず、自分と他人を比較して、他よりも多く得よう、他に優位に立とうという心の働きを含んでいる。よって、必ず他との奪い合いの一面がある。


   お金持ちになることや、名誉、地位、権力を得ることは、皆が得られるものではなく、他との比較・競争・奪い合いの一面がある。そもそも、お金持ちとは、他と比較して多くのお金を持っていることだし、名誉や地位や権力も同様である。


   その意味で、自分が快楽を貪る裏側には、必ず他の苦しみが存在している。自己の快楽の裏に他の苦しみ、他の快楽の裏に自己の苦しみが存在する。言い換えると、貪りとは、どこかで自分のことだけを考え、他の苦しみを無視しなければ、できないのである。気づかないうちにか、気づいて自覚的に行なうかは別にして、貪りとは、「無慈悲になる」という大きな代償を必要とするものである。


   こうして、貪りは、そもそもが、他から幸福を奪おうとする無慈悲な本質があるから、他から奪う過程で、前にも述べたとおり、嘘や悪口、盗みや不当な手段の取得といった悪行を犯すことにもつながっていく。私たちの世界の中で、富や権力の追求において、これは非常によくあることだろう。


   ここでもう一つ重要なことは、貪りの心の働きがあると、自分より恵まれていると思われる人への妬みが強くなる。しかし、その妬みの対象は、自分が想像しているようには、実際には幸福ではないのである。それは、自分の貪りのために、その人が自分よりも幸福だと錯覚しているだけにすぎない。真実は、慈悲こそが真の幸福の道である。


   自分より多くを得ていても、貪りは際限がなく、真の満足をもたらさない一方で、より多くを得たがゆえに、それを失う不安や恐れも多く、奪い合いにも深入りして、妬みや恨みを買うことも多い。さらに言えば、奪い合いの中で悪に手を染めている場合も多い。


   それでは、本人は決して幸福ではない。しかし、貪りの心が強いと、こういったことがわからず、実際には、妬む必要がないのに、妄想の中に入ったかのように、妬みの感情に苦しんでしまうのである。


   なお、別のケースとして、妬みの対象が、快楽を貪るものではなく、真に精神的に優れた存在である場合があるが、その場合は、そういった存在は、自分の幸福への障害・邪魔なのではなく、切磋琢磨して自分が向上するための貴重な助力者である。ただ、名誉や地位への貪りは、それがわからなくなる原因となる。


   こうして、この貪りの落とし穴に陥らないために、感謝と分かち合いが必要である。感謝がないと、足るを知って貪りを静めることが難しい。そして、他への無慈悲や、自分の力で幸福になっているという慢心が生じる。それは、他の幸福を奪う、他を苦しめる悪行が増大する原因となる。


   一方、感謝に基づき、自ずと生じるのが慈悲の心である。そして、慈悲の心は、貪りや奪い合いの悪行とは正反対の行為である分かち合いの実践をもたらす。他と苦楽を分かち合う行為である。


   最後に、こうして、私たちが日常生活で感じているさまざまな苦しみが、実は貪りの心によって生じているものであることに深く気づくならば、そういった苦しみの経験は、貪りを反省し、智恵(智慧)と慈悲を育むために、神仏が与える愛の鞭と考えることができるようになる。


   すなわち、苦しみを恩恵として感謝できる心境である。こうするならば、苦にも楽にも感謝し、この意味でも、万物恩恵、万物感謝の心境に近づくことができる。よって、この点について、次に詳しく述べることとしたい。

 

 

5 苦しみの裏にある喜びに気づいて感謝する(怒りの捨断)

   さて、次に快楽への貪りではなく、苦しみに対する嫌悪について考えてみよう。普通、人は、苦しみを嫌がり、快楽を求める。しかし、深く考えてみるならば、快楽や喜びばかりの人生は、恐ろしいものであり、逆に、一定の苦しみの経験は、先ほども述べたが、慈悲という大きな宝の源になり得ることがわかる。


   まず、苦しみが慈悲の源であることについて考えてみよう。人のさまざまな苦しみの根元は、自分と他人を区別し、自分のみを偏愛し、自分のために、さまざまな快楽を貪ることによって生じることは、先ほど述べたとおりである。


   この苦しみの真の原因に気づく(=智慧が生じる)ならば、自と他を区別せずに、万物を平等に愛する慈悲の心、すなわち、苦楽を分かち合う心の働きが生じ、それによる最高の精神的な幸福を得ることができる。


   その意味では、自己の苦しみというのは、私たちを智慧と慈悲に導く愛の鞭であるということができる。例えば、自己の苦しみの経験があってこそ、それを活かして、他の苦しみを理解し同情し、それを分かち合おう、取り除こうという温かい心の働きも生じる。また、自己の苦しみの経験があってこそ、他が苦しみから脱却して、幸福になることを本当に喜ぶ心の働きも生じる。


   逆に苦しみの経験が少なく喜びの経験が多い者は、他の苦しみを理解することはできない。美貌・才能・財産・名誉・地位などすべてを得ていたマリー・アントワネットが、それがゆえに、民衆の餓えの苦しみをまったく理解できず、命を落とした話は有名である。


   一方、慈悲の化身とされる観音菩薩は、その前生において、さまざまな苦しみが連続する悲惨な生涯を送ったが、「その苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決意したことによって誕生したという説話がある。こうして、苦しみの体験が、まさに慈悲の化身を生み出したのである。


   伝統的な仏教的な表現では、この、他の苦しみを自己の苦しみのように悲しみ、他の喜びを自己の喜びのように喜ぶ心の働きを「慈悲」という。詳しくは、他の苦しみを悲しみ、取り除く心を「悲」といい、他に幸福・楽を与える心を「慈」の心という。


   次に、苦の裏には楽があるという理解をもう少し深めるために、いろいろな具体的な事例を見ることにしよう。


   まずは、物理的な苦しみに関してである。病気は苦しみであるが、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気があった方が、体を労り、長寿になるという意味である。確かに、病気の中には、普段の不摂生が原因のものも多い。それを反省し、改めて節制して、体を労るならば、逆に健康に良く、長く生きることができるだろう。一方、健康が自慢の人は、体を労ることがなく、ある時ぽっくりと逝ってしまう場合もある。


   また、病気になったとき、ないしは病弱な人の場合は、慢心を抱きにくいという長所もある。病気になって、自分が多くの人に支えられて生きていることがわかり、感謝の心を持つことができたという話は多い。


   また、松下幸之助は、病弱であったがゆえに、他に頼む術を身につけたという。彼は同様に、財力がないからお金持ちの元に丁稚奉公に行って若くして商人の才を育み、学力がなかったから、他から謙虚に学ぶことができたと語っている。


   こうして、自分の体力、財力、学力が乏しいという苦しみを、優れた他の力を活かすという形で逆に活用して、喜びに変えたのである。これも、自己の苦しみを、他を活かす慈悲の源にして、自と他の双方を幸福にするという一つのパターンである。


   伝統的な仏教的な教義では、老い、病み、死ぬという身体の苦しみは、究極的には、無常である自分というものにとらわれず、自我執着から心を解放する(悟りを得る)ために、逆に活かすべきであると考える。


   すなわち、他から独立した固定した実体を持つ自分などは、実際には存在しないことを悟り(無我の悟り)、自分への執着を捨てて、すべての衆生を平等に愛する大慈悲の体得などに活かすのである。ヨーガ的に表現すると、真実の自分は無限の宇宙であるという悟り(宇宙意識)の体得である。


   次に、経済的な不安の裏にある恩恵についても考えてみよう。病気の一病息災と同じように、経済的な不安は、贅沢・浪費を反省し、質素倹約や勤労の習慣を身につけ、長期的な経済的な安定を得る機会ともなる。


   そして、究極的には、物質的な幸福の限界を悟って、精神的な幸福に目覚める機会となる。具体的に言えば、例えば、自己が所有する財や富による幸福の限界を悟って、皆が共有する物、例えば大自然などにこそ、真の豊かさがあることに気づくなどである。これも、仏教的にいえば、自我執着から無我・大慈悲・宇宙意識への進化ということができる。


   次に、精神的な苦しみについてである。まず、誹謗・中傷の苦しみである。まず、正しい批判ならば、それは、今は辛くても長期的には自分の成長を促し、結果として逆に称賛・名誉をもたらす愛の鞭である。逆に、まったく批判されない場合には、将来は非常に暗いと言わざるを得ない。


   一方、間違った批判は、それに落ち着いて耐えることで、しばらくすれば、逆に評価されるようになるものだし、智慧と慈悲の目で見るならば、それは批判している者の心の歪み・苦しみを知る機会ともなる。


   そして、究極的に言えば、称賛・名誉・権力に対する貪りが強い我々にとっては、誹謗・中傷は、それに落ち着いて対応することで、そういった貪り・欲望から自己を解放して、智慧と慈悲を培う良い機会ともなる。ある仏教の経典では、誹謗・中傷等に耐えることが、慈悲を目指す大乗仏教において非常に重要だと説いている。


   また、現代社会の中で多いのが、自己嫌悪・卑屈・妬み・寂しさといった感情であろう。物質的に満たされた今の社会では、称賛・名誉・地位・権力といった欲求、自己の存在価値を認めてもらいたい欲求が強い。それがゆえに、それが認められない状態、自分が他に劣っている、価値がない、愛されていないといった感情に悩む人も多い。


   しかし、自分がそういった苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解できる者となることや、優れた他を活かして自分も幸福になることを考えるならば、苦しみを喜びにすることができるだろう。これは文字通り、他と苦と楽を分かち合う実践である。


   コンクリート・ジャングルとも呼ばれる現代社会は、愛情欲求・認知欲求は満たされずに、多くの人の中にいながら、心は寂しいという人も多い。それは、自分の苦しみに没入せずに、それを活かして、同じような苦しみ、ないしは自分以上の苦しみを持ちながらも、この世界に同時に生きている無数の者たちへの慈悲によって、和らげることができるだろう。


   妬みの苦しみについて言えば、先ほど述べたように、妬みの対象が、実際には、自分が思うほどには幸福ではないことに気づくための試練である。貪りの追求において、自分より勝った他者が、幸福に見えるのは錯覚である。人の心を真に幸福にするものは、貪りではなく、慈悲だからである。


   また、妬みの対象が、真に優れた存在である場合は、それが実際には、自分の幸福への障害ではなく、自分の助力者であることに気づく試練であろう。人は、一人ではなかなか成長できるものではなく、優れた切磋琢磨の対象があってこそ、よりよく成長できるからである。


   人生における困難や挫折・失敗の苦しみにも、その裏側に喜びを見いだすことができる。まず、困難なく達成できることには、たいてい真の価値はない。困難の経験は、自分が取り組んでいることの価値を示している。


   大乗仏教では、教えの理解と体得の難しさに耐えることを説いている。教えの理解と体得は、それほど容易ではない。すぐに身につくものではなく、コツコツと努力する中で、徐々に身につくものだ。逆に、すぐに身につくものは、まやかしや落とし穴が多い。


   また、多くの偉人は、成功とは、失敗なく達成できるものではないとしている。失敗こそが成功の元。失敗・挫折なく成功するというのは、自分が抱えている壁を突破したものではないだろう。


   イギリスの元首相であるチャーチルは、「成功する能力とは、めげずに何度でも失敗を経験できる能力だ」と言い切っている。自動車のホンダ(本田技研工業)の創業者は、「皆が成功を求めるが、自分にとっての成功とは、度重なる失敗と反省を通してのみ、得られるものだ」という趣旨のことを述べている。


   エジソンは、1000回の実験で白熱電球を発明した際に、「999回は失敗ではなく、これでは成功しないということを知った成功へのステップだった」という趣旨のことを語っている。


   仏教的に言えば、人は皆、神ではなく、不完全な人間として生まれるときに、万事を正確に理解できない無智・悪業と共に生まれてくる。その無智・悪業は、実際に挑戦し、失敗の体験を通して、それでは成功しないと知ってこそ、晴れていくと考える。無智の悪業の清算によって、智慧(智恵)と成功が生じるというのである。


   よって、悟りの道程も、本を読んでも、指導者から学んでも、すべてが計算通り、目算通りには行かない。個人によって違う紆余曲折がある。よって、苦しみによって、正法に対する信仰が生じるとも説かれている。

 

 

 

6 苦と楽の双方に偏らない釈迦牟尼の中道の教え

(1)中道の教え

   さて、現代の日本人に非常に参考になると思われる教えが、釈迦牟尼の中道の教えというものである。これは、快楽主義も苦行主義も双方を否定した教えなので、「中道」と言われる。双方の極端を否定した道である。


   そして、これは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという真実に基づけば、自然な結論となる。苦しめば悟るという苦行主義は、合理性がなく前近代的であろう。しかし、楽を貪り、苦をいたずらに厭うのも意味がない。


   よって、①与えられている楽=恵みの大きさに気づいて感謝することで、貪りを静めて足るを知り、②さらには、経験する苦しみ(=与えられていない楽)については、その裏にある恩恵にも気づいて感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝する実践をするのである。



(2)感謝と慈悲(分かち合い)のつながり

   さらには、貪りが静まり足るを知った状態において、感謝と共に出てくるのが、他者への慈悲の心である。慈悲の心は、他者との苦楽の分かち合いに結びつく。よって、キーワードを言えば、仏教的に表現すると「知足と慈悲」、現代的に表現すると「感謝と分かち合い」ということになる。そして、この慈悲・分かち合いが、人の心にとって、最も安定した大きな幸福感を与えるものである。


   この背景には、先ほど述べたように、快楽を貪ると、さまざまな苦しみを招くが、自己の苦しみと共に、他の苦しみも生じているという事実がある。貪りは無慈悲なのである。よって、この貪りを静める中道の道は、知足と慈悲、感謝と分かち合いの道は、自分の幸福だけでなく、他の幸福の道でもある。


   そして、感謝と慈悲は、不離一体で、互いが互いを強め合うものである。感謝で貪りが静まると、自分の得ている恵みと無数の他の苦しみに気づき、慈悲の心が深まる。そして、慈悲の心が深まると、自分のさまざまな苦しみは、じつは貪りから生じていると気づき、苦しみさえも、自分を慈悲に導く恩恵として感謝できるようになる。こうして、感謝が慈悲をもたらし、さらに、慈悲が感謝を深めることになる。



(3)今後の日本社会のために

   そして、現代の日本人は、苦しいといっても、一般的にいって、途上国の一部のように飢えているわけではない。それどころか、長寿・豊か・安全と三拍子揃った、現在の人類社会でも希な社会である。


   先日、九州の阿蘇や高千穂に行ったが、その際に、ある神社の宮司さんが、「現在の日本社会は、人類史上最も恵まれた社会です」と語っているのを聞いた。もちろん、これは、物質面や民主主義体制といった視点から見た場合であろう。しかし、少なくとも、大日本帝国の時代や士農工商の江戸時代に戻りたいという人は極めて少ないだろう。


   その社会の中では、釈迦牟尼の説いた、苦にも楽にも偏らない実践は、過剰な貪りを抑制して、バランスを取るために非常に重要ではないかと思う。貪りは際限がなく、満ち足りることない中で、求めても得られない苦、執着したものを失う苦、奪い合いの苦など、さまざまな苦しみを招く。よって、絶えず現状への不満と将来への不安がある。


   そのため、先ほども述べたように、日本社会は、客観的には恵まれているのに、その中の人は、幸福観に乏しいのではないだろうか。それは、国際比較・世論調査などを見てもそうである。


   逆に、途上国でありながら、一説によると、国民の97%が幸福であると感じているのがブータンという国である。その前国王は、経済力=GNPを幸福の指標にするのではなく、人の感じる幸福感の大きさを重視し、GNH(国民総幸福感)を唱えた。このブータンは、自然環境を重視する仏教国である。


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  2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答した。
  (中略)
ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。
「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」(以上ウィキペディアより)
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   こうした状況を考えると、恵まれた環境でも、幸福観の乏しい日本人のためには、万物を恩恵と見て、万物に感謝し、慈悲・分かち合いの喜びを培う教えと実践が、今後非常に重要ではないかと思う。

 

 

第三章 観音菩薩の法則:万物仏・万物尊重

   さて、釈迦牟尼の法則に続いて、観音菩薩の法則は、「万物を仏と見て、万物を尊重する」というものである。


  なお、前提として、この教本では、「万物」を仏と見るというところまでは範囲を広げず、「万人」を仏と見て尊重するという点に、力点をおいて解説する。究極的に言えば、人と他の生き物や、それを取り巻く大自然は一体不可分のつながりを持っているので、万物を仏と見る教えがあるのだが、今回の目的には、そこまでの解説は必要がないため、省略する。


   まず、現代社会に生きる人は、競争社会の中に生きる中で、万人を尊重するということは非常に難しい精神状態に置かれている。むしろ、知力・財力・容姿などの基準で、人の間に優劣を設け、卑屈・妬み・慢心といった感情に悩むことが多い。その意味で、自分も他人も、本当の意味では、尊重・尊敬・愛することができない人が多い。


   さらに、日本人について言えば、親への尊敬も、他の先進国と比較しても、突出して低いということがわかっている。自分を産んだ親への尊敬の欠如は、自分自身を良い意味で価値のある存在と考えることができるかにもつながってくるので、重要な問題である。


   では、そういった中で、どのようにしたら、他に対する尊重の心を育むことができるかについて、考察するのが、この章の目的である。

 


1 他者が与えている恩恵を十分に考えること

   まず、第二章で述べたように、人は万物に支えられながら生きている。自分一人で生きることができる人はいない。これは対人関係においても同様で、「自分」は自分一人の力で生きているのではなく、多くの他人に支えられて生きている。


   特に、分業が非常に進化した現代社会は、全体が一体となって機能しているから、この社会を構成する万人に支えられながら、私たち一人一人は生きている。しかし、日常生活では、自分の力だけで生きているという錯覚=慢心を抱くことも少なくない。そうならないように気をつけて、他への感謝や尊重を培うべきである。


   また、自分が尊敬して大切にしている人も、そうでない人も、実際には、皆が一体となって存在している。自分が尊敬する人も、尊敬できない人を含む万人・万物に支えられてこそ存在しているのである。それは、釈迦牟尼、ゴータマ・シッダールダのような人についても変わらない。尊敬する人を支えている存在も、感謝の対象にするのである。


   また、これに関連して、拝金主義とも言われる現代社会であるから、「お客様は神様です」と言うように、お金をくれる人だけを尊重したり、自分で稼いで生きているのだから、他人のやっかいにはなっていないといった錯覚に陥ったりすることがある。しかし、自分自身も、自分に仕事をくれる会社も、お金を払うお客さんも、万人・万物が、一体となって支えているものである。お金に惑わされて、万人・万物の価値を見失わないようにする必要がある。


   それから、人は、貪りがあるために、自分がすでに与えられている恩恵は当然のことだと思って、感謝の心が持てないということがある。よって、他人からすでに与えられている恩恵について、改めてその大きさをよく考えて、十分に気づく必要がある。


   また、親などの場合を含めて、自分と他人を比較して、自分が得ている恩恵が少ないと考えて、比較をしなければ、事実としては、大きな恩恵を得ているのにもかかわらず、比較によって、感謝どころか、逆に不満を持つという場合もある。こういった場合にも気をつけて、比較を越えて、実際に与えられている恩恵について考えるべきである。

 


2 謙虚になれば、万人が仏と同等に学びの対象であることに気づく

   まず、重要なこととして、他人が、自分にとってどのような価値を持つかは、他人が決めるのではなく、自分が決めているということがある。例えば、悪いことをしている人について、その人を自分の反面教師と見て、自己の向上に役立てる人と、単に軽蔑の対象とする人では、まったく違った価値を持つ。


   また、同じように、優れている人について、その人を自分の見本や切磋琢磨の対象と見て、自分の向上に役立てる人と、単に妬みの対象、すなわち自分の幸福への障害・邪魔と見る人とでは、まったく違った価値を持つ。


   こうして、自分の心の持ち方によっては、すべての人が、仏と同等に、自分の学びの対象、自分の向上のための手助けになる。逆に言えば、心の持ち方によっては、向上の手助けになっている人さえも、邪魔者に見えるのである。


   もう少し詳しく述べるならば、普通、他人が悪行をなしているのを見ると、私たちには軽蔑や嫌悪の心の働きが生じる。しかし、よく考えれば、この社会の中で、人と人は密接不可分につながって存在している。


   よって、他人がなしている悪行は、自分を取り巻く条件が変わったならば、自分が将来犯す可能性がないとは言い切れないものである。だとすれば、その人は、自分にとって、貴重な反面教師の一面があるということになる。


   そして、そのように考えて、他人の悪行を見ては、謙虚に自戒する人の方が、安直に軽蔑・嫌悪して見下す人に比べて、同じ過ちを犯す可能性は低いことは間違いない。言い換えると、謙虚で向上心の強い場合と、慢心と軽蔑が強い場合では、他人の見え方が違ってくるのである。


   特に、身近に悪いことをしている人がいる場合は、それは非常に貴重な反面教師になる。親や親族、近しい友人・知人は、遺伝子を共有していたり、類は友を呼ぶという経験則があったりするように、自分と似た要素を持つ存在である。


   そういう人を見ると、人は「自分は絶対にこのようにならないようにしよう」と強く思うことも多い。そして、その思いは、心のどこかで、自分とその対象が似ていることを理解しており、言い換えるならば、油断すれば同じことをしてしまう可能性を感じるがゆえに、「同じようにならないように」という、強い思いも生じるのだろう。


   こうしたことを考えると、悪行をなしている他人というのは、自分に代わって、悪行をなすと、いかに他を苦しめ、自分も苦しみ、ぶざまであるかについて、自分に詳しく教えてくれている貴重な存在である。


   仮に、こういった反面教師がまったく自分の周囲にいなかったとして、自分が初めて悪に誘惑されたとしたならば、自分はすべての誘惑に打ち勝つことができるだろうか。反面教師がいてこそ、かろうじて、自分が同じ悪を避けることができている場合も多いのではないだろうか。


   一般的に言っても、人は、そもそも多かれ少なかれ無智であり、皆が仏陀の手のひらの中で、ドングリの背比べであるという視点もある。また、悪を避ける上でも、一人の智恵や力には限りがある。こういったことを考えるならば、謙虚な向上心があればあるほど、反面教師の貴重さを理解することができるだろう。


   そして、悪行を戒める法を説く諸仏・諸菩薩は、確かに宝である。しかし同時に、悪行の苦しみを教える実例も、非常に貴重な存在であり、それを十分に活かしてこそ、他の悪行を止める力も増やしていけるのではないだろうか。こう考えるならば、万人が仏と同等に、自分の学びの対象であると考えることができるだろう。


   次に、他人が悪行をなしているのではなく、善行をなしているのだが、妬みの感情によって、それが自分の向上を手助けする存在とは感じられずに、自分の幸福の邪魔に見える場合について述べる。


   これも、自分と他人の関係というものを正確に見ることが重要である。繰り返しになるが、自分一人の力というものには限りがある。自分より優れた存在からの刺激、優れた切磋琢磨があってこそ、自分も、よりよく向上していくことができる。


   仮に、自分の周囲に、自分より優れた存在がまったくいなかったならば、自分が(一時的に)トップになることはできても、それは本当の意味で、長期的な意味で、自分の人生にとって幸福なことであろうか。


   人は一人では、慢心や怠惰に打ち勝って、最大限の努力をするのは難しい。このことを考えたならば、他人の努力や向上が、自分の努力や向上に密接に関連していることがわかるだろう。先ほどは、他人の悪行が、将来の自分の悪行になる可能性について述べたが、それと同じように、他人の善行が、自分の善行に関連しているのである。


   よって、先ほどと同じように、謙虚な向上心を持つならば、妬みを越えて、優れた存在をありのままに見て、それから学び取り、向上することができるようになるだろう。また、これも同じように、経典で説かれる諸仏・諸菩薩は確かに宝であるが、現実の人生の中で、実際に自分の見本となる対象、切磋琢磨の対象は、仏陀に等しく、非常に価値のある存在である。


   なお、これまでに述べた他人の悪行と自分の悪行、他人の善行と自分の善行をつながったものと見る考えは、一元の思想の一環である。この見方の根底には、万物が本質的に一体であるという思想がある。


   そして、これに関連して、ひかりの輪には、三乗の法則と呼ばれる教えがある。それは、自分と他人というものが、相互に依存し合って存在し、同根であり、循環していると説く法則である。これについては、詳しくは後述する。


  最後に、大乗仏教の究極の悟りとして、悟った者には、この世界が仏の集う仏の浄土であると感じるという教えについて述べておく。これも、現実とは、それを見る者の心の持ち方で、まったく違った感じられ方をするものであるという思想に基づいている。


   この思想は、大乗仏教では、唯識思想といわれている。厳密に言えば、私たちが現実と呼んでいるものは、何か定まったものではなく、それを見る側の五感や意識との組み合わせで作り出される意識の中の印象(脳内の情報処理)である。だから、同じ時に同じ所にいても、違った生き物には、ないしは違った人には、まったく違った現実が現れてくる。


   よって、心が完全に浄化された仏陀にとっては、この世界が、普通の人とはまったく違って感じられ、普通の人には軽蔑すべき悪人も多いこの世界が、仏の集う仏の浄土と見える、というのである(大乗仏教で、輪廻即浄土・輪廻即涅槃と呼ばれる教え)。

 

 

3 万人は平等に、未来に仏陀になる存在であるという思想
=人類社会は、未来に仏の浄土のように大きく進化すること

(1)人は皆、未来に仏陀になるという思想

   次に、仏教の人間観に基づいて、人=人類は、無智ゆえに悪業をなして失敗しつつも、その反省に基づいて、諸法に目覚め、解脱する(仏陀になる)存在であるという人間観を紹介する。


   まず、仏教の人間観として、苦しみがあって、初めて正法に対する信仰があるという思想がある。これは、悪業による苦しみから反省し正法に目覚めるということである。これは、人が成長するという思想に他ならない。


  そして、煩悩を持った凡夫が、菩提心を持った仏になるという思想がある。ここで凡夫というのは普通の人という意味で、仏とは仏陀、真理に目覚めた人・覚醒者という意味である。また菩提心とは、仏の悟りの心といったほどの意味である。


   そして、すべての生き物は、未来に=来世のいつかで、仏陀になるという思想がある。仏教は基本として、輪廻転生思想を説くから、何度も生まれ変わる中で、遠い未来ではあるが、釈迦牟尼のように、すべての生き物は悟るという思想である。


   特に、仏性思想というものがあり、仏性とは、未来に仏陀になる可能性を意味しており、すべての衆生・生き物が仏性を持っているとされる(一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう))。そして、その仏性がいずれ覚醒し、すべての衆生が未来に仏陀になるという思想がある(一切衆生悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ))という思想がある。


  これと関連して、弥勒如来の伝説というものがある。これは、56億7千万年の後に、弥勒菩薩が仏陀・如来となって降誕し、その際に、その際の人類のすべてとも思われる非常に多くの人を救うというものである。具体的には、一度に90億人近くの人を四向四果と呼ばれる一定の悟りに導くことを三度行なうという。その際の人類の平均の寿命は8万年にも及んでいるという。これは仏教の一種の理想的な人類社会の予言であろう。


  なお、これとシンクロするものとして、弥勒菩薩を象徴する法具である「水瓶」と同じキーワードを持つ、占星学における未来の理想の人類社会の到来の預言がある。それは、「水瓶座の時代」と呼ばれており、それは、万人が平等に尊重される高い精神性の時代と解釈されている。


(2)人は皆、平等の価値を持つという思想

   さらに、大乗仏教の思想では、万人は、未来の仏として、平等の価値を有している。正確に言えば、万人というよりも、万物・森羅万象が、平等な仏性の顕現という思想である。万物・万人が、平等に、未来に仏陀になる可能性の現れであるという思想である。


   ここで重要なことは、万人・万物の間に、優劣の比較・区別がないことだ。万物が皆、仏陀と同等に尊いものであるという世界観である。これを私なりに噛み砕いて解釈して、解説するならば、私たちが認識する個々人の違いは、本質的には、優劣ではなくて、個性・役割の違いと解釈すべきものである。


   それを私たちが優劣の違いと認識することは、私たちの価値観が一面的・一時的な基準に偏っているからではないかと思う。例えば、学校での偏差値などの知能、財力、容姿、スポーツの能力などで、現在の社会は、人を比較して、優劣をつけてしまう。競争社会だから、人との競争に勝てる者、資本主義社会だから、よりお金を生み出す者を優れた者とする傾向も強い。


   しかし、本質的には、そういった能力だけが、人にとって価値があり、優れた人の条件かは非常に疑わしい。そもそも、経済力優先の価値観、たとえばGNP優先の価値観自体がすでに疑われ始めている(第二章のGNH・国民総幸福感を参照)。


  仏陀が説くように一切は無常に移り変わるこの世の中で、人類の社会の価値観も移り変わってきた。日本にしても、100年前は経済力より軍事力中心の世界、200年前は士農工商の鎖国の社会であった。その意味で、現代社会が重視する優劣の基準が、これから100年後にそのままである可能性はむしろ非常に低いだろう。


  そして、深く考えるならば、いかなる長所も短所とセットであり、苦楽と同様に、優劣も裏表であるという事実があると思う。


   例えば、一般的に、欲望の追求において、他との競争に勝つ能力は、他の苦しみを思いやる慈悲の能力と相反する一面がある。前にも述べたが、貪りの追求は、他に優位に立って、他から幸福を奪う性質があるために、それに邁進するタイプの人は、他に無慈悲な心を形成する一面がある(なお、この例外としては、お互いに尊重し合い、お互いの成長のための切磋琢磨として、競争を位置づけている場合があるかもしれない)。


   さらに深く考えるならば、何かに優れている人というのは、それに劣っている人の気持ちを、実体験を通しては理解できない。劣っている人こそが、実体験を持って、同じように劣っている人の気持ちを理解し、それを乗り越える手助けをする能力と気持ちを持ちやすい。こうして、他に勝つ能力と他を助ける能力というものを考えると、長所の裏に短所、短所の裏に長所があることがわかる。


   また、何かに劣っている人こそが、それに優れている人を支える能力や気持ちを持ちやすいということもあるだろう。優れている者同士では、それぞれが自分自身を中心に置いて、闘争になることも多い。他に勝つ能力と、他の良さを活かす能力も、相反する一面があるだろう。


   また、宗教的にいえば、大乗仏教などでは、煩悩が少なく、そのために解脱も早いことが絶対善とはされていない。煩悩が強く、そのために解脱が遅い者も、煩悩が強いということは、解脱を果たすならば大解脱を果たすという思想がある(大煩悩大解脱)。


  これは、煩悩が強いとは、エネルギーが強いということであり、そういった者が解脱を果たすならば、その煩悩のエネルギーが昇華され、強い慈悲の心・エネルギーを持つ者となるという思想である。


   そもそも、仏教では、「煩悩即菩提」「凡夫即仏」と説いて、煩悩と菩提心(仏の悟りの心・慈悲の心)はまったく別のものとは位置づけない。密教やヨーガの思想では、煩悩が昇華されたものが菩提心になるとする。


  わかりやすく言えば、人は皆幸福になりたいが、最初は、無智や経験の不足のために、自己中心的な行動で幸福になろうとするが、それを繰り返す中で、苦しんで行き詰まり、その経験から、利他の行為によってこそ真に幸福になると気づくということである。


   そのため、経典では、大悪人であった者が、改心して大善人になるという物語が少なくない。釈迦牟尼の高弟であるアングリマーラ、チベットで最も敬愛される聖者のミラレパは、初期は大罪を犯した者である。仏陀の教団を分裂させた悪名高きデーヴァダッタも、後に深く改心して、仏教を守護する神(護法神)に生まれ変わったとされる。


  釈迦牟尼自身も、釈迦より一つ前の仏陀に初めて出会ったときは、インチキ宗教家と誹謗する悪業をなしたともされるが(仏教では、仏陀への誹謗は大悪業ともされる)、その後改心して修行に励み、次の仏陀になったのである。


   イエス・キリストの弟子についても、当初はイエスの教団を弾圧していたパウロが、ある時から改心して、キリスト教が世界宗教になる立役者となった。敵が最大の助力者に変わっていったのである。キリスト教は、イエスの時代のユダヤ教の一新興宗派から、パウロらによって世界宗教の枠組みが整えられたので、パウロが発明した宗教であるとする宗教学者さえいる。


  こうしたところから、仏教では「敵こそ教師である」という思想がある。また、イエスは「汝の敵を愛せ」という教えを説いた。これは、仏陀やイエスが、自分の宗教的な敵である者さえ、時とともに変化し、自分たちの偉大な助力者となることを洞察する智恵を持っていたということかもしれない。ともかく、優劣・善悪という視点では、最悪である「敵」という存在が、時を経て、正反対に最大の助力者になるという思想があることがわかる。


   また、過去の仏である釈迦牟尼と、未来の仏である弥勒菩薩の物語も興味深い。釈迦牟尼は、「王の菩提心」の持ち主とされ、自分がまず悟って他を導く者である。弥勒菩薩は、「船頭の菩提心」の持ち主とされ、自分と共にすべての衆生を救済の船に乗せて、その船頭として、皆と共に解脱という目的に向かうとされている。


   釈迦牟尼は、弥勒菩薩より早く成仏したが、釈迦牟尼自身は人類の全体はおろか、インドの一部に布教し救済するにとどまった。弥勒菩薩は釈迦牟尼より遅れること56億7千万年後に成仏するとされるが、人類全体とも思われる人を一定の悟りの境地に導くとされる。


   これを見ると、現代社会の価値観のように、早ければ良い・遅ければ悪いというのではないことがわかる。早く行くものは、新たな道を見つける先駆者の役割を果たす。一種の時代を切り開く天才であろう。


   一方、後から来る者は、そういった早く行く能力はないが、その能力がないがゆえに、自分の苦労の中を通して、万人がその道を歩む上での障害を理解して手伝いをする能力を逆に身につける。そのため、万人が、その道を歩むことができるようにする、偉大な普及者としての役割を果たす可能性がある。こうして、釈迦牟尼と弥勒菩薩は優劣ではなく、役割の違いがあり、後から成仏する弥勒菩薩が釈迦牟尼を補い助ける仏とされる。

  こうして、大乗仏教の人間観を解釈すると、すべての人がいつかの未来に仏になる中で、それぞれの時期と救済のあり方が異なるが、それは優劣ではなく、それぞれの役割の違いであって、互いが互いを助け合う・補い合う関係にあるということになる。


   最後に、この万物を平等と見る思想は、万物が一体であるという思想と密接不可分である。ひかりの輪では、三乗の法則として、万物が、相互に依存し合い、同根であり、循環しており、本質的に一体であるという思想を説いている。万物が一体であるならば、万物が、本質的に平等の価値を持つと考えるのが自然となる。


  例えば、現在の宇宙の万物は、皆が同じ根源、すなわちビッグ・バンから生まれた同根のものである。同じように、大乗仏教では、宇宙の万物は、「根源仏とされる大日如来の現れである」とか、「万物の源である根本的な意識である阿頼耶(あらや)識(しき)の現れである」などと説く経典もある。万物が同根であると考えたならば、万物が本質的に平等であるという直感的な理解も得やすいであろう。


   また、万物が一体であるという思想から、この宇宙が、一つの巨大な人体のようなもので、宇宙の中のさまざまな部分、すなわち、さまざまな人々や生き物などは、その細胞のようなものであると解釈する思想もある。
例えば、先ほどの大日如来の教えや、ヒンドゥー・ヨーガには、人体と大宇宙がシンクロしていると解釈する思想がある。人の体の中の各細胞や各臓器は、役割の違いはあっても、優劣はなく、お互いに助け合い、お互いを必要としている。同じように、宇宙の万物には、優劣はなく、それぞれの役割があって、お互いに助け合っているという思想である。


   そして、人体では、どの細胞も、基本的には同じDNAを有しており、理論的には、どの細胞からも、体全体を再生することがクローン技術によって可能である。すなわち、全体と一部が本質的には等価である。これは、大日如来に関する教えで、華厳経などが説く、宇宙の全体と一部分が等価であり、すべては大日如来の現れであるとする思想と共通している。


   最後に、この思想は、すべての衆生を等しく未来の仏、仏の子と見て尊重して慈しむという慈愛の思想に結びつく。そして、仏とは、宇宙のすべての母のような存在であり、未来の仏であるすべての生き物を慈しみ育む存在であるというイメージである。このイメージの仏様には、慈母観音菩薩や、仏母グリーンターラ(観音菩薩の化身)などが存在する。


   また、宇宙自体を、すべての衆生を育む母なる仏と見なす思想もある。例えば、大日如来の胎蔵界曼荼羅の思想などがそうである。

 

 

4 現代社会の人間観・人類観・未来観の歪みを越える

   さて、上記の大乗仏教などの思想を前提にすると、人類は成長する存在であり、未来に仏の浄土のような高次元の社会を実現すると解釈できる。


   しかしながら、宗教界には、これまでに終末思想的な未来観が繰り返し流行し、その意味では、人類が未来の理想社会に向かって成長する存在であるということに対して、否定的な見方もある。


   この否定的な見方の背景にあるものは何かというと、私が思うには、第一に、競争社会においては、妬みなどが強くなり、自と他の幸福は矛盾するもので、幸福は奪い合うものという錯覚が生じるため、万人が成長し幸福になることを信じて、皆で努力しようという心の働きは弱くなることが一因ではないかと思う。そこには、他の成長・成功=自分の不幸という錯覚さえもあるだろう。


   一方、終末思想などは、それを実際の現実の世界に当てはめて解釈すると、競争社会によく似た一面があると思う。終末思想では、大破局が起きて、悪しき大勢の者は滅びて、少数の正しい者(選ばれた者)だけが生き残って、神の王国・理想郷を作るというシナリオである。この場合、皆が共に一体となって成長するのではなく、大勢の者が滅びることが、逆に自分たち(選ばれた者)が幸福になる前提条件になっている。


   これは、競争に勝利した者だけが幸福になるといった競争社会の価値観・精神構造と似た部分がある。神の集団と悪魔の集団の対決も描かれており、そこに競争社会と同じように、優劣・善悪の二分化がある。優れた者と劣った者、勝ち組と負け組、幸福になれる者と不幸になる者の二分化である。


  これは、本質的には、自と他を比較し、他とは違って優れた自分という存在を求める自己愛、自我執着、虚栄心といったものが背景にあるだろう。そして、終末思想を好む風潮を分析すると、なかなか自分が中心になれない現代社会の中で、大破局が起こり、その中で自分が(選ばれた)特別な存在になるといった、妄想的な欲求、一攫千金的な欲求があるのではと思われる。


   こうして、終末思想の流行は、競争社会などが強める、自と他を比較する価値観による影響があると思われる。逆に、万人が一体平等であるという価値観が浸透すれば、そういった思想は好まれなくなるのではないだろうか。


   より細かく分析すると、自と他の優劣の比較が強まると、自分の幸福を邪魔すると感じる他人への妬み、自分の方が他より優れていると感じる慢心、それに基づく他人への軽蔑、他に比べ劣っているという自分への卑屈などの感情が強まる。


   そうすると、万人の価値を尊重するのではなく、自分も他人も価値のない存在であり、自分も他人も愛せないと感じる心の働きが強まる。そして、他人の成長は妬ましく、その可能性は否定したくなるが、他人の成長の可能性を否定するがゆえに、自分の成長の可能性にも、自信が持てなくなる。


  よって、前にも述べたとおり、自と他の優劣を安直に比較せずに、長所と短所は裏表で、個々人の違いは個性・役割の違いで、万人が平等の価値を有するとする人間観である。そして、万人が、未来に向かって、それぞれの個性を活かしつつ、互いに助け合って、成長するといった思想である。


   今の風潮では、こうして皆で協力し合って、皆で成長していく可能性を考えることは難しい。互いが互いの価値と成長の可能性を信じ合って、互いに助けあうという風潮は乏しく、競争の中での卑屈や妬みや慢心・軽蔑で、他の成長は信じたくないし、そのために、自分の成長も信じられない傾向が強いからである。


   しかし、仮に皆が、従来の貪りに基づく競争ではなく、智慧と慈悲による幸福、感謝と分かち合いによる幸福に目覚めるならば、万人が一体となって成長していく可能性を信じやすくなるだろう。そして、実際に互いの成長を助け合う社会となれば、今よりも精神的にずっと高次元の社会、究極的には、仏の浄土のような社会が実現される可能性も感じられるだろう。


   また、現在の経済的な貪りを中心とした幸福観の行き詰まりも、肯定的な未来観を持つことが難しい背景にあるだろう。貪りには際限がなく、満ち足りることはない中で、経済的な貪りは、マネー資本主義の破綻、財政赤字による財政破綻の危機、地球環境問題の危機など、さまざまな問題をもたらしている。


   こうして現代社会は行き詰まりつつあり、この価値観の下では、人類全体の未来に希望が見えにくく、このままでは、人類社会が高次元の存在に成長することを信じる気持ちは持ちにくいだろう。よって、前にも述べたように、今後は、経済的な貪りによる幸福という思想を乗り越えて、新しい幸福の思想・価値観に進化する必要があるだろう。それが感謝と分かち合い、知足と慈悲の幸福観である。


   また、貪りが強く、感謝が不足すると、これまでの人類の進歩に対して、それを客観的に自覚することも難しくなる。こうした社会では、感謝の不足=現状への不満を原因として、いろいろな課題は山積するものの、さまざまな意味で進歩してきた人類社会を素直に認識し、先祖・先人に感謝する気持ちも持ちにくい。前に述べたように、現在の日本は人類史上最高の社会の一つであるという感覚は持ちにくい。


   よって、今与えられている幸福に努めて気づいて感謝し、また経験している多少の苦しみも、自分を成長させる試練としての恩恵とみなす肯定的な考え方、すなわち、「万物恩恵・万物感謝」の視点を持つと、自分たち人類社会の歩みについても、より肯定的な見方ができて、未来の進歩の可能性も信じやすくなるのではないかと思う。


   結論を言えば、人類は、本質的には、高い成長の可能性があると思う。今現在の社会には、行き詰まり感があるが、それは、真の幸福への思想=智慧と慈悲に目覚める過程としての必要な経験であり、長期的な視点では、一歩一歩進歩しているのだと思う。


   その中で、この教本が説く三仏心経の思想は、明るい人類の未来観を支える土台となるものである。第一の「釈迦牟尼の法則」は、智慧と慈悲、感謝と分かち合いといった、新しい幸福観によって、経済的な貪りによって行き詰まった現状を打開するものである。そして、与えられている幸福への感謝は、人類が進歩していくことの可能性を自覚させる。

 

   第二の「観音菩薩の法則」は、万人が平等に貴重な個性・役割があるといった認識を助け、万人がその人なりに成長し、幸福になる可能性があるという認識を助ける。


   そして、第三の「弥勒菩薩の法則」は、後で詳しく述べるが、万人が一体となって苦楽を分かち合い、助け合うことで、万人が成長していく、解脱していく可能性・道筋を示すものである。

 

 

 第四章 弥勒菩薩の法則:万物一体、万物愛す

 
1 万物を一体と見る思想

   ここでは、万物を本質的に一体であると見る思想について述べる。これは思想というより、しっかり考えるならば、科学的な事実である。


   しかしながら、私たちの日常生活は、さまざまなものを別々なものに位置づける、言葉による思考の影響を深く受けている。名前の違う事物は、実際にはそれが別々ではなく、つながって一体であるにもかかわらず、言葉による思考の深い影響を受けている私たちの意識・心は、それらが、あたかも別々のもののように錯覚してしまうのである。


   その中で、最大の区別は、自と他の区別である。自分と他人を区別し、両者の幸福を区別し、自分だけを偏愛して、他から幸福を奪うような自己中心的な行動で、自分が幸福になると錯覚するのである。これは貪りの害悪として述べたとおりである。


   よって、貪りなどの欲望の根本には、自と他を区別する、さまざまなものを別々にとらえるという錯覚があるということになる。そして、その錯覚を乗り越える根本的な法則をまとめたものが、ひかりの輪が説く「三乗の法則」と呼んでいるものである。


   三乗の法則の三乗とは、仏教の三つのタイプ、すなわち、原始仏教、大乗仏教、密教のことを意味しているが、三乗の法則とは、以下の通りである。



  (1)万物は相互に依存し合って存在し、一体である。
  (2)万物は同根であり、一体である。
  (3)万物は循環し、一体である。

   この三乗の法則については、詳しくは、『2011年夏期セミナー特別教本 輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』を見ていただくとよいと思うが、ここでは簡潔に解説しておく。


   まず、第一に、万物は、よく考察するならば、相互に依存し合って存在し、何物も他から独立して、自分だけで存在することはない。例えば、人間というものも、空気・水・食べ物・陽の光・その他の社会システムから地球の生命圏・宇宙全体のシステムに密接不可分につながって生きている。


   それは、科学的にいえば、あたかも人体の中の細胞のようなもので、宇宙・地球の一部であって、それから独立した存在ではない。自分があたかも、宇宙・地球から独立して存在し、その支配者であるかのような意識があれば、それは錯覚であり、妄想である。


   あくまで、私たちは、宇宙の一部であり、しかも、宇宙の一部であるとはいっても、密接不可分につながっているので、どこまでが私たちで、どこからが私たちであるかの区別さえ、正確にはつかないのである。例えば、水、空気、食べ物は、自分の中に取り入れる前は、自分のものではないとされるが、取り入れた途端に、自分の一部になり、排泄した途端に、自分のものではなくなる。自分と自分の外の境界は科学的には存在しない。


   第二に、万物は、科学的にも、宗教的にも、同根と見ることができる。最新の宇宙物理学は、今の宇宙の万物は、ビッグ・バンという爆発的な膨張から始まったとされる。こうして、宇宙の万物は、科学的に言って、一つの源から始まった同根のものである。


   なお、仏教やキリスト教の思想にも、これとシンクロしたイメージがある。聖書にある宇宙は、最初は天と地にさえ分かれておらず、一体であった。神による宇宙の創造の過程で、一体だったものが、いろいろなものに分かれていったと解釈できる。また、その最初の状態は、ビッグ・バン宇宙論が描くのと同じように、水の中のような不透明な状態とされることも、両者の一致点である(最初期の宇宙は、光が直進できず、水の中のような状態である)。


   大乗仏教でも、宇宙の根源は一つであるとする思想がある。特に宇宙のすべては根源仏の大日如来の現れであるとする経典や、宇宙の万物は阿頼耶識という根本的な意識の現れであるとする思想がある。


   万物が同根であるという認識を持つと、宇宙のあらゆるものと自分が不可分の関係にあるという認識が生まれる。万物は、一つの木の枝葉のようなもので、同じ祖先を持つ同族・家族である。


   よって、家族の中の功績や罪は、家族全体の誉れや恥、喜びや悲しみであるように、宇宙の中のあらゆる善も悪も、本質的には、自分たちとすべて無関係のものではなくて、かつては自分たちが一体であったものから生じているものなのである。


   この思想は、自と他を区別して、他を妬んだり他を軽蔑したりするのではなく、他の善行と喜びを自己の喜びとして、他の悪行や苦しみを自己の悲しみとする仏陀の境地に結びつくものがある。


  第三に、万物は、循環して存在し、一体である。これは特に、私たち生命体の存在についてよく当てはまる。
例えば、私たちの思考を形成する情報・知識は、自分と他人の間を循環している。他人から自分へ、自分から他人へ、日々さまざまな情報・知識が出入りし、交換されている。


   よって、自分だけで形成した思考というものは一つもなく、他から学んだ言語に基づき、他から吸収した知識・情報によって形成したものを「自分の考え」と思い込んでいるだけである。実際には、自分と他人を含めた社会の中の膨大な情報の循環の中で、その時々に、さまざまな思考が浮かんでは消えていくにすぎず、厳密な意味で、他とは無関係の自分だけの考えなどと呼べるものはない。実際に、考えが一生すべて変わらない人はおらず、自分と他人の考えが入れ替わる場合さえよくある。


   また、体を構成する分子も、数年で完全に外から取り入れたものに入れ替わり、以前のものは排出されてしまう。こうして、自分の体だけの分子など一切なく、人間から植物や微生物に至るまで、さらには、その他の非生物に至るまで、その体を構成する分子を皆で交換し合いながら、共有して使っているのである。


   さらに、この循環とは、生と死の循環を含む。すなわち、この地球の生命圏では、多くの生き物が生まれ、多くの生き物が死ぬという生と死の循環によって成立してきた。多くの生き物が生まれるには、多くの生き物が死ぬことが前提である。


  死んだ者の体を構成している有機物のほとんどは、新しく生まれる生き物の体を構成するというリサイクル=再利用の循環が生じている。私たちが毎日生きているのは、他の生き物の犠牲である食べ物があるおかげだが、私たちも死んだ後に、その体を構成した分子は、自然界で他の生き物や非生物の構成要素となるのである。


   最後に、万物が循環するという法則は、上記のような生命体の精神的・肉体的な構成要素における循環に限らない。それは、同じように生命活動に密接関係する、水の天地の循環や、植物と動物の間での空気の循環(酸素と二酸化炭素の循環)もある。マクロ宇宙を見ると、これらの地球上の生命と同じように、生成と消滅を繰り返すさまざまな天体を構成する物質も循環している。


   また、循環=回転運動という視点からは、多くの生命の存在を可能にしている地球の自転と公転があり、それによって、毎日の昼と夜そして四季=春夏秋冬の循環が生じている。また、マクロ宇宙では、その太陽系を支える銀河系の回転運動があり、それとシンクロして、ミクロ宇宙である原子の中の原子核の周囲の電子の回転運動がある。


   この循環の法則は、密教の経典である「時輪タントラ」などが、中心の思想としている。時輪とは時の輪、すなわち、周期的な運動を意味する。その経典は、宇宙の根本原理として、この周期的な運動があるとして、これまでに述べた循環から、人の死と再生(輪廻転生の循環)、覚醒と睡眠の循環をも扱っていると解釈される。
なお、こうして大宇宙の運動の中心に循環・回転があることから出てくる霊的科学が占星学である。星々の回転が周期的な影響を人々に与える(星々の周期的な運動が人の周期的な変化とシンクロしている)と考える思想である。


   なお、ひかりの輪においては『2009年夏期セミナー特別教本、循環の法則との密教加行』に、循環の法則について詳説したので参照されたい。

 


2 三仏心経の第二部:万物一体の経典

   さて、三仏心経の第二部として、上記の三乗の法則を含め、万物が一体であるということを表す短い法則を以下に示す。


     万物(ばんぶつ)互根(ごこん)、苦楽(くらく)一体(いったい)
     万物(ばんぶつ)同根(どうこん)、優劣(ゆうれつ)一体(いったい)
     万物(ばんぶつ)循環(じゅんかん)、自他(じた)一体(いったい)

   では、これについて説明すると、万物互根の中の互根とは、お互いが根であるという意味であり、相互依存のことである。


  よって、万物互根・万物同根・万物循環は、ひかりの輪の説く三乗の法則そのもの、すなわち、万物が相互依存し合って存在し、同根であり、循環しており、一体であるという法則を表している。


   次に、右側の列の三つ、すなわち、苦楽一体・優劣一体・自他一体は、ひかりの輪の説く三仏の法則を表している。これと、三仏心経の第一部の関係は、以下の通りである。


   第一に、苦楽が一体表裏であり、楽の裏に苦があるから、貪りを静め足るを知るための感謝をなし、また、苦しみの裏に楽があるから、苦しみも恩恵と見て感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝するべきである。


   第二に、優劣が表裏一体であり、万物を優劣に二分化するのではなく、万物を平等に仏と見て、万物を尊重すべきである。


   第三に、自他が表裏一体であり、万物を一体と見て、万物を愛するべきである。


3 万物を一体と愛すること

   さて、万物が一体であるという視点に基づいて、万物一体として愛するというのが弥勒菩薩の教えである。では、この万物を一体として愛するという教えの意味合いについて考えてみよう。


   第一に、万物を一体として平等に愛するという意味がある。自分が好きなものも、嫌いなものも、お互いが相互に依存し合って存在しているのだから、それらすべてを一体と見て、すべてを平等に愛するというものである。


   第二に、自分と宇宙全体は一体であり、自分は宇宙の一部であって、真実の自分は宇宙全体であるという意識を持って、万物を愛するということである。


   自分は外界=大宇宙から独立して存在しておらず、大宇宙の一部であり、しかも、科学的に見れば、どこまでが自分で、どこからが自分ではないのかの境界は存在しない。これは仏教では無我の教えという。無我とは、他から独立した固定した実体を持つ私・我などは存在しないという意味であり、ゆえに、私・我に対する執着を弱めることを説く。


   そして、これを言い換えれば、真実の自分は、宇宙全体に広がっているとも表現することができる。これはヒンドゥー・ヨーガの宗派の一部が説く宇宙意識という概念に結びつく。

 

   また、ヒンドゥー・ヴェーダーンタ学派の説く不二一元論(アドヴァイタ)における梵我一如の思想とも結びつく。梵我一如とは、宇宙の根本原理のブラフマン(梵)と個々人の本質であるアートマンは同一であると悟った解脱の境地である。


   第三に、現実の日々の実践としては、他の喜びや苦しみと、自分の喜びや苦しみを一体であると見て、他の幸福を願い喜び、他に喜びを与え、他の苦しみを悲しみ、他の苦しみを取り除くという慈悲の実践をすることを意味する。一言で言えば、他と苦楽を分かち合うということになるだろう。


   この実践は、仏教では四無量心と呼ばれる仏の心の実践である。四無量心とは、慈悲喜捨の四つの無量の心という意味である。まず、①他に幸福を与えるのが慈の心、②他の苦しみを悲しみ取り除くのが悲の心、③他の幸福を喜ぶのが喜の心、そして、④分け隔てなくすべてを平等に愛するのが捨の心である。この慈悲喜捨の心の実践をすべての衆生に対して行うので、四つの無量の心=四無量心と言われている。


   そして、一言で言えば、他と苦楽を分かち合う、究極的には宇宙のすべての生き物と苦楽を分かち合うということになる。苦しみは、多くで分かち合えば、その人数の分だけ和らげることができる。喜びは多くで分かち合えば、その人数の分だけ増えることになる。よって、無数の人が苦楽を分かち合うならば、その世界は、苦しみが無限小に小さく、喜びは無限大に大きくなるということができるだろう。


   ここでは、自と他、および自と他の幸福と不幸を区別しないことが要点である。よって、他に幸福を与えることは、同時に自分を幸福にすることであり、他の苦しみを取り除くことは、同時に自分の苦しみを取り除くことと位置づけられる。


   他に幸福を与えることは、自分が必要以上の快楽を求める貪りとそれによる苦しみを和らげて、慈悲の心が強まることによる幸福につながる。特に、他の喜びを、妬みを越えて自分の喜びにすることで、自分の喜びが増大する。また、多くの場合、自分の幸福は他に支えられており、その、他の幸福は自分の幸福を支え直す、支え返すものである。


   他の苦しみを取り除くことは、慈悲の心が強まることによる幸福につながるし、それに加えて、自分も未来に同じ苦しみに陥る可能性を未然に防ぐことができる。苦しむ他人は反面教師でもあるのだ。そして、他に教えることは、自分自身が最も学ぶことになるように、他の苦しみを取り除くときは、自分自身も学んでいるのである。


   こうしたことを理解すると、①人が最も幸福になるのは、他の幸福を願い、助け、それを喜びにすることで、宇宙のすべての喜びを自分の喜びとして感じることであり、②人が、そのすべての苦しみを止滅するのは、宇宙のすべての苦しみを自己の苦しみとして悲しみ、取り除くことによってであるということができる。


   こうして、他と苦楽を分かち合いながら、最終的に目指すものは、他と共に、自分が最高の幸福=仏教が説く仏陀の境地の体得(ないしは解脱とか悟りと呼ばれている境地)である。大乗仏教では、すべての衆生を仏陀の境地(仏性の覚醒)へと導くために、自らが仏陀の境地へ至ろうとする心を「発菩提心」と呼んでいる。


  発菩提心については、『2010年夏期セミナー特別教本 三仏の一元法則 菩提心と六波羅蜜』、『仏教講義悟りの道程2 悟りへの道と大乗の教え』などに詳しく解説されているので参照されたい。


  最後に、弥勒菩薩の菩提心という教えに言及する。弥勒菩薩は、すべての衆生と共に、解脱に向かうという菩提心(仏の悟りの心)を有しているとされる。その菩提心は船頭の菩提心とも呼ばれ、すべての衆生を乗せた船が、解脱という目的に向かっていく中で、その船頭が弥勒菩薩であるという意味である。一方、釈迦牟尼の菩提心は、王の菩提心と呼ばれ、まず自分が解脱してから、他の衆生を導くというものである。


   こうして弥勒菩薩の心は、すべての衆生と共に歩むという特徴を持っていて、その意味で、万人万物と一体となって幸福に向かうと解釈することができる。それゆえに弥勒菩薩の教えとして、「万物一体、万物愛す」という言葉がふさわしい。それは、単に万物を一体として愛するというだけでなく、万人・万物が一体となって解脱に向かい、皆で共に幸福を目指そうという優れた平等心の愛の表現である。


   そして、弥勒菩薩は、56億7千万年後に、弥勒仏・弥勒如来として降誕する未来仏として信じられている。そして、その時の人類のすべての人口とも思われるほどの非常に多くの人々を悟りに導くといわれている(具体的には、一度に90億人前後を救う救済を三度繰り返すともされる)。


   また、この弥勒菩薩を象徴する法具が、水瓶なのであるが、不思議なことに、占星学も、水瓶座の時代と呼ばれる未来に、万人が平等な理想社会が到来するとしている。弥勒菩薩の水瓶の中には、功徳水と呼ばれる聖水が入っているとされるが、この水は、生命の源として慈悲の象徴であり、禊ぎなど浄化・清浄の象徴であるが、さらには、水平と言うように、平等性の象徴となっていると思われる。

 

 

4 真の利他の条件:他への感謝、尊重、一体の自覚

(1)三仏心経と大乗仏教の菩薩道の類似性

   三仏心経の教えの流れは、すべての衆生の済度を目指す大乗仏教の菩薩道・菩提心の教えと、本質的には合致している。その伝統仏教の菩薩道の実践のエッセンスを簡潔に述べるならば、まず、救済の対象となるすべての衆生について、無数の過去世から現在に至るまで、さまざまな形で恩恵を受けた存在=恩人だと考える。例えば、すべての衆生は、無数の過去世のどこかの生では、自分の母や父となって自分を育み導いてくれたと考える。そして、その恩に対して報いる、恩返しをしようという心を培う。


   そして、恩人である衆生が、今さまざまな形で苦しんでいることを見て、その苦しみを悲しみ、その苦しみを自分が引き受けて取り除く決意をして、そのために自らが仏陀の境地に至ることを決意し(発菩提心)、その具体的な修行として六波羅蜜(六つの完成)の教えを実践するという流れである。


   こうして、救済対象を恩人と見なし、感謝をなし、その恩返しとして救済するという流れになっていることが重要である。なお、この大乗仏教の菩薩道・菩提心の教えの詳細については、『2010年夏期セミナー特別教本 三仏の一元法則 菩提心と六波羅蜜』や、『仏教講義悟りの道程2 悟りへの道と大乗の教え』などに詳説したので、できれば参照されたい。


   なお、ここで、恩人であり、苦しんでいるすべての衆生について、その苦しみの原因は、仏性(未来に仏陀になる可能性)を有しながら、いまだにそれが未覚醒であるからであるという考えであり、彼らを苦しみから真に解放するには、仏性を覚醒させる以外にはなく、自と他と、そのために、自分が仏性を覚醒させる=仏陀の境地に至るための修行に入ることを決意するのである。


   一方、三仏心経は、①万物を恩恵と見て感謝し、②万物を仏として尊重し、③万物を一体として愛するとしているが、これを大乗仏教の菩薩道に当てはめるならば、①すべての衆生を恩人と見て、②その恩人たちは仏性を有している(未来の仏である)と尊重し、③彼らと苦楽を分かち合い、共に解脱に向かっていくという意味である。こうして、大乗仏教の菩薩道の実践と、三仏心経の教えは、基本的な構造が同じである。



(2)最善の利他の実践のための心構え

   さて、この三仏心経は、最善の利他の実践をする上での重要な心構えを示してもいる教えである。それは以下の通りである。


   まず、利他の対象を恩人と見て、感謝に基づいて利他の実践を行うこと。これによって、「自分が他人を救済してやる」といった慢心を慎むことができる。救済ないし利他の実践は、宗教的な救済でも、慈善活動でも、場合によっては、自分が上に立って、「やってあげている」という傲慢な意識に陥る場合がある。これを防ぐのが、対象を恩人と見て感謝に基づく恩返しの一環として行うことである。


   次に、対象を、自分と同様に未来の仏として、高い尊重を持って行うことである。これも、慢心・傲慢な意識を避けることができるとともに、対象への高い尊重は、対象への愛そのものを深め、利他の行為を深めることになる。


   これは、母親が子供を育てる場合と一部似ている。幼少の子供は、現時点では無智・無力であるが、母親は、その子が未来には自分と同等の立派な大人になること、自分以上に偉大な人物となることを信じ、期待し、励ましながら育てる。


   その意味で、仏陀とは、すべての衆生が未来の仏・仏の子と信じ、仏になるまで育み育てる者であるとも解釈できて、そこから慈母観音菩薩、仏母グリーンターラ(観音菩薩の化身でチベットで深く信仰されている女神の菩薩)といった、女性的・母性的な仏の信仰もある。


   最後に、対象を自己と一体と見て行うことである。すなわち、対象を利する行為=利他の行為は、自分を利する行為でもあると認識して行うことである。それを突き詰めて言えば、自分を救うことでもあると考えて、感謝の気持ちを持って、利他の実践をすることである。他を利することがいかに自分を利することであるかは、前に詳しく述べたとおりである。

 

 

 

《参考資料》 日本の良さを再発見:日本の聖地

(上祐史浩オフィシャルブログ・日記から)


1 日本の良さを再発見① 聖地とは?(2011818日)

 

   今回から、聖地とは?日本の良さを再発見、というテーマで、シリーズ日記を書きたいと思います。このテーマ、夏期セミナーの講話や巡礼でもお話ししましたが、自分なりに聖地巡礼を10年近くやってきて、ある程度まとまったお話ができるようになったと思うので、書くことにしました。

 

   まず、聖地は、一般的には、ある宗教や宗教の開祖にゆかりのある場所とされます(ウィキペディアなどを見てください)。しかし、日本の聖地は、それとは違った面があります。それは、聖地が宗教を呼ぶのです。すなわち、そもそも、自然の聖地とされていた所に、神社・仏閣・宗教家が集まったのであって、宗教が聖地を作ったのではないということです。

 

   日本文明・文化の発祥ともいうことができる縄文時代には、万物に精霊を認める精霊信仰があったといわれます。この万物に神が宿るとする思想は、八百万の神という形で神道にも、山川草木悉有仏性(山も川も草木も仏の本性を有する)という教えで、日本仏教にも生きています。こうして、日本人は大自然・万物に神性を見いだしてきました。そして、その中で特に経験的に神聖と感じられる特別な場所が、聖地とされてきたのだと思います。

 

   では、日本的聖地の条件とは何か?

   聖地に関する著作の多い京都大学教授の鎌田東二氏は、昨年のNHKの聖地をテーマとした番組で、私たちも最近巡礼した出羽三山を紹介しつつ、聖なる木、聖なる水、聖なる山などを条件に挙げていました。もちろん、これは、聖地の絶対的な基準ではないと思いますが、一定の理解の手助けになります。

 

   まず、聖なる木。日本人は、神様を一人・二人ではなく、一柱・二柱と数えます。そして、ご神木・ご聖木という概念があります。木は、その形から、天と地を結ぶものとされます。木を伝わって、神が天から地に降り、人が地から天に昇るといった考えもあります。

   ご神木とされる木の中には、人間よりもはるかに寿命が長く、例えば千年以上も生きた巨木もあります。人より長く生き、多くの人間の生死の営みを、その不動のたたずまいで見つめてきた木に対して、人間が崇敬の念を抱くのも不思議ではありません。

   さらに、霊的なことをいえば、御神木とされるような寿命の長い木があるということは、東洋思想の霊的な科学の視点からいえば、その周辺の生命エネルギー・気のエネルギーが強いということの証となります。

   よって、聖地に聖木あり、聖地が聖木を作り、聖木が聖地を深める、ということになります。

 

   わたしの好きな御聖木は何かというと、これは一言では言えません。あえて言えば、諏訪の御頭ミシャグチ総社の御聖木は、すばらしく優しい慈悲の波動、仏母・慈母の木だと感じます。また、諏訪には七つの御聖木があるともいわれます。

   その諏訪は、諏訪大社の御柱も注目です。山から切り取って、諏訪大社の四方の結界のために立てられた柱ですが、霊的なパワーを感じます。そこで、私は、縄文以来の日本の原初的な信仰であるミシャグチ神のようなものを霊視した!?体験もしました。

 

   また、戸隠神社奥社の杉並木の参道も素晴らしい。霊気・生気に溢れており、エネルギッシュになります。ここ数年パワースポットとして大変人気になりました。

   そして、その参道から少し逸れたところにあるのが、宝篋印塔と、その御聖木。これは御頭ミシャグチ総社にならぶ御聖木。ここは未だ行く人は少ない秘境の聖地です。

 

   巨木・長寿の木としては、最も有名なものと言えば、世界自然遺産の九州・屋久島の縄文杉ではないかと思います。樹齢数千年、一説には7000年とも。圧倒的な迫力です。

   屋久島に最初に行った時には、その木だけではなく、その森と水を中心とした純粋な自然全体が、霊気に溢れ、まさに生きていると感じ、衝撃を受けました。

 

   とはいえ、非常に重要なこととして、聖地とは、有名なものばかりではありません。名も知れぬ聖地がたくさんあります。それは行ってみないとわからない。つい先日も、長野の小諸道場近くの巡礼で、湯の道の百体観音を巡っていた時に、名も知れぬ聖地を見つけました。こうして、名も知れぬ聖地で、神聖な波動を発する御聖木があります。それは、皆さんがお住まいの近くや、皆さんの故郷や、皆さんが訪れる自然郊外にあるかもしれません。

 

 

2 日本の良さを再発見② 聖地の聖なる水(2011819日)

 

   さて、前回の日記に引き続き、聖地の二つ目の条件として聖なる水があると思います。

   水は、そもそも、命の源、人体の7割が水、地球は水の惑星と、人・生命の中心。稲作中心だった日本にとって、水は太陽とともに、日々の糧に必要不可欠。

   さらに、浄める、清める、と書くように、水は、清らかなもの、清らかにするものの中心。よって、神社仏閣に見られる手水や、禊ぎといった行為、御神水といった概念がある。

 

   こうして、水は命を育む慈悲や、浄化力、形無くとらわれのない様の象徴にもなり、お寺の中には、水の素晴らしさを水の功徳と呼び、仏の功徳とだぶらせるところも。

   こうして、聖なる土地=聖地にも、聖なる水がつきものなのが、自然の理となります。

   それは、御神水とされている湧き水だったり、清流・渓流・川の流れであったり、または、神話・伝承のある池や湖、そして滝も。

 

   そして、水の神の象徴として特に多いのが、龍神。龍神の神話のある聖地が多い。仏教でいえば、弁天様が水の神。特に日本は、水と森の国ともいわれ、豊かな降水量と、それが育む森林。そして、国土全体が海に囲まれた水の国です。さらには、その国土の形が、龍と似ているので、極東の龍とも。水神の国。

 

   天照大神を主神とする太陽の国ではありますが、天照大神と並んで、龍神である大国主命を大国主の大神と呼んで尊ぶ信仰習慣がある。

 

   風水では、清らかな水の流れは、それとともに生気を運ぶとされます。純粋な自然の中の渓流の側に行くと、なぜか非常に気持ちが良い。ひんやり、涼しげで、心地よい微細な何かを感じ、近くにたたずんでいると、元気が出てくる。また、冷たいが、手や足を水の流れに付けると、一種の禊ぎとなり、心身が浄化された気分になる。

 

   風水などでは、川の流れが湾曲している場合は、その内側(川の囲まれる側)に、気の流れがたまるという説も。また、二つの川が合流して水が貯まるところも、気の流れがたまる所ではないかと思います。

 

   具体的な聖地といえば、例えば、奈良の天川。水の神の弁才天信仰のメッカで、天の川と呼ばれる美しい川や大峰修験で有名な山、そして天河弁財天社と、霊気溢れる空間です。近くには御手洗渓谷という渓谷・渓流も。

 

   前回紹介した、諏訪大社の発祥地である前宮の御神水も素晴らしい。 この水の源は、日本最大の地層の断層帯である中央構造線とフォッサマグナの交点にあるとされます。

 

   その諏訪の真北にあるのが、前回も登場した戸隠で、ここも龍神を祭る水の神の聖地。戸隠山から流れるご神水があります。

 

   日本有数の山岳景勝地の上高地。この梓川の水は、アルプスの雪解けの水で、あまりにも透明で美しい。触ると非常に冷たいが、禊ぎにはよいかも。

 

   諏訪の真東が有名な鹿島神宮。鹿島アントラーズの鹿島。ここには、御水洗池と呼ばれる池と近くに湧き出る御神水があり、非常に神聖。

 

   神聖な池といえば、出羽三山の羽黒山の山頂の鏡池。日記でも書きましたが、 不思議な体験をしました。長野の真楽寺の池も御神水が湧き出る聖地。

 

   前回の日記のコメントにあった奈良の三輪山の大神神社にも、有名な御神水があります。大神神社が祭る大国主命は龍神で水の神。近くには弁天様も。

 

   奈良・京都には、天川、三輪山を始め、水の聖地が多い。京都の貴船神社、賀茂神社なども。水の神の神社のラインがあるとも。

 

   湖では、日光の中禅寺湖。これは神秘的な美しさ。特に千手ヶ浜。また、近くの華厳滝は、虹が架かるのが有名で、気に入っています。

   また、神秘的な湖といえば、東北の十和田湖も同様で、龍神の伝説がある。 龍神の伝説・信仰があるのは、諏訪湖や富士五湖も同じ。

 

   滝はなんといっても、日本最大の滝、熊野の那智の滝が圧倒的。下り落ちる滝の流れを龍神と見る信仰もあり、滝自体がご神体です。

 

   とはいえ、こうした名だたる聖地よりも、前回もお話ししたとおり、皆さんの自宅や故郷の、ないしは、偶然訪れたり知ったりした自然の中にこそ、水の聖地があると思います。

   私も、先日、偶然、ひかりの輪の長野の道場近くの渓流に、素晴らしいところを見つけました。非常に小さな渓流ですが、近寄ると非常に気持ちが良く、さらに、二つの川の流れが合流する地点があって、その部分が特に最高でした。

次回は、聖地の大地について書きたいと思います。

 

 

3 日本の良さを再発見③ 聖地と大地のエネルギー(2011819日)

 

   さて、今回は、木、水に続いて、聖地の条件の三つ目として、その大地のエネルギーについて。

 

   まず、聖地はだいたい高いところにあるという説があります。標高が、1000~1500m以上のところ。よって、聖地と山というのは深く関連します。そもそも、日本人の場合は、空海や最澄など、古代から宗教家が山に籠もる伝統があります。また、山自体を仏と見る修験道の修行があります。山を仏の母胎と見て、仮に死ぬつもりで入山し、山で浄化され、生まれて変わって下山する。

 

   山の聖地といえば、山岳仏教や修験道に関連したものを挙げても、高野山、比叡山、日光山、戸隠山、出羽山、富士山、大峰連峰(吉野・天川)など、いろいろ出てきますね。残念ながら、四国と九州の山は研究不足です。

 

   また、私は小さな山にも注目しており、日本文化の根元に関係する、奈良の大和三山、前回日記に出てきた三輪山、縄文時代に絡めて、東北の黒俣山なども。

 

   ただ、単に標高が高いのがいいかというと、それもあるのかもしれませんが、山というのは造山運動があってこそ生まれるものですから、その場所の大地の活動が活発であり、エネルギーが強いということになります。

 

   よって、山ではなくても、大地のエネルギー・活動が活発であるところには、聖地が見られます。その典型が、中央構造線と呼ばれる日本最大の地層の断層帯です。地層の断層帯とは、異なる二つの地層がぶつかり合っているところです。当然、そこは地震が発生しやすい一面があります。中央構造線は、関東の鹿島から、長野の諏訪、三重の伊勢、奈良の吉野、四国、九州の阿蘇を通って、熊本の八代までを貫く、日本最大の断層帯です。

 

   そして、この中央構造線上に、名だたる聖地が結集しているという説があります。鹿島神宮、諏訪大社、分杭峠(ゼロ磁場地帯)、豊川稲荷、伊勢神宮、吉野金峰山寺、天川、高野山、剣山、幣立神宮など。

 

   断層帯では、二つの地層のぶつかり合いにより、地磁気が特殊な状態となり、長野の分杭峠のように、ゼロ磁場状態があらわれ、それが人の心身に好影響を与えるという説もあります(ゼロ磁場とは磁場がないのではなく、逆方向の磁場が重なりお互いを相殺した結果とされます)。

   また、高地、山、断層帯と出てくると、当然、火山というのが出てきます。聖地の近くに火山あり、ということはできると思います。典型的なのが、富士山、阿蘇山、浅間山、磐梯山など。

 

   火山は、その噴火は恐ろしいものですが、その裏側に人間にさまざまな恩恵を与えている面があり、例えば、肥沃な大地、湧水、温泉、黒曜石を代表とする鉱物、美しい風景などがあるとされます。湧き水、温泉、美しい風景などは、聖地の条件ですね。

 

   そして、火山を含めた活発な大地の活動は、湖の形成とも結びつく。富士五湖、猪苗代湖。聖地と湖となれば、諏訪湖、中禅寺湖、十和田湖、宍道湖なども。そして、その湖には水の神の象徴として龍神の信仰・伝承が多い。

   私がかつて見た印象的な宗教的なヴィジョンで、火山とその噴火・震動、水(湖?川?)の中の龍神といったものが出てくるものがありました。今思うと、日本の大地・聖地の特徴をよく表したものだと思います。

 

   そして、大地のエネルギーが活発な所では、温泉の祝福があります。しかし、温泉について話し始めると、今回の日記が終わらなくなるので、機会を改めたいと思います。

 

   最後に、日本は地震国で、今回は東北の震災で大変な被害を受けました。しかし、今後、私たち日本人が、震災を超えて、前向きに生きていかなければならない中で、地震国である利点も考える必要があると思います。

 

   仏陀の教えでは、苦楽表裏、苦と楽はセットというのがあります。あらゆる苦しみの裏側には喜び・幸福の源があるというものです。地震・火山・断層帯が多いということは、大地のエネルギーが強いということで、それは、精神的・霊的・宗教的にいえば、聖地に恵まれるということになります。

 

   また、世俗的・実業的にいえば、美しい風景、湧き水、温泉といった観光資源、肥沃な大地や地熱発電といった資源・エネルギーが与えられる。今後、苦楽表裏を意識して、地震国であるゆえの利点を活かすとよいのではないかと思います。

 

   一部の統計では、世界の(一定規模以上の)地震の10~20%が日本で起こるともいわれています。また、日本は、世界の7大プレートのうち、3つのプレートの交点にあるとされます。その意味では、地球の地表面のエネルギーの非常に多くの部分が、日本で発散されていることになるわけです。

 

   日本の国土の地形が龍に似ていることから、日本を極東の龍とする解釈があると述べましたが、龍が水の神の象徴であるように、日本は豊かな水に恵まれるとともに、豊かな大地のエネルギーに恵まれています。

   極東の龍は、火と水、熱と水の双方の自然を兼ね備えた類いまれな龍ということができるでしょう。

 

 

4 日本の良さを再発見④ 聖地と温泉(2011821日)

 

   聖地の条件シリーズ第4回は、聖地と温泉です。

   前回までに、聖地には、清らかな水があり、エネルギー豊かな大地がある、と書きました。この二つが合体すると温泉の恵みということになります。日本は火山が多いために温泉が多く、温泉はまさに日本の文化の典型で、日本の良さの再発見の一つです。

 

   また、温泉と宗教は、実は深く結びついています。日本では、温泉地にまつわる神話や開湯伝説の類も非常に多いとされます。

   神道では、温泉の神は、大国主命と少彦名命の神。仏教では、薬師如来。傷病を癒やす温泉の力が、病を癒やす薬師如来と結びついて、薬師温泉といった言葉も。そして、大国主命も薬師如来も自分が好きな神仏で、だから温泉が好きなのかも。

 

   さらに、温泉は、聖地に付随していたのではなく、それ自体が聖地だったようです。

   「湯を使う風呂が一般的でない時代には、温泉は怪我や病気に驚くべき効能があるありがたい聖地であった。各温泉の起源伝説には、...動物が傷を癒した伝説や、...仏教の影響で...高名な僧侶が発見した伝説が多い。このような場所は寺や神社が所有していた...。」(ウィキペディア)

   「鎌倉時代以降になると、それまで漠然として信仰の存在となっていた温泉に対し、医学的な活用がウェートを占め、実用的...なものになり、一遍らの僧侶の行う施浴などによって入浴が一般化した。江戸時代になると...一般庶民にも親しまれるようになった。」(同上)

 

   では温泉の効能は何か。日本の温泉の特徴は、医療目的に限らず、体を休める、元気を回復するために、伝統的に用いられてきたようです。

 

   もう少しスピリチュアルな表現をすれば、温泉入浴で、東洋思想が説く「気」、「生気」といった精神的・霊的なエネルギーが回復すると私は感じます。大地からの火のエネルギーを、温泉を通して吸収しているといってもよいでしょうか。

 

   また、温泉は、仏教・密教・ヨーガ・仙道等の修行の視点から非常に高度な効果があると思います。

   チベット密教では、瞑想で神秘的な体熱を生じさせて悪いカルマ(業)を焼き、エネルギーの流れを整え、悟りの境地とともに万病を癒やすという、チャンダリーという非常に高度な瞑想(究竟次第)に属しますが、この修行と温泉入浴の効能は相通じるところがあると思います。そして、偶然にも、温泉に縁の深い薬師如来の真言には、偶然にも、同じチャンダリーという言葉が入っているのです。

 

   それから、体を温めるという点では、例えば有名な草津の温泉などには、特筆すべき点があります。普通では入れない高温のお湯に楽に入ることができるからです。その秘密は、温泉の中の硫黄酸化物が、入浴する人の体の表面を被膜のように覆って、火傷を防ぐからだとされています。

   このため、火傷せず(苦痛少なく)熱いお湯で体を温めることができ、江戸時代には55℃のお湯にも入ったという説があります。とはいえ、温泉入浴は、無理は禁物です。それぞれの温泉が指導する健康的な入り方を守る必要があります。草津温泉でも、一度にあまり長く入ることは勧められていません。

 

   さて、私は、温泉好きですが、温泉マニアではなく、全国津々浦々の有名な温泉に行ったことがあるわけではありません。草津温泉、有馬温泉、白浜温泉などは行きましたが。しかし、著名な聖地の温泉に入ったことは多く、日光、会津、諏訪、上高地、天川などの温泉にも入りました。

 

   温泉の中では、体を休める、エネルギーを回復することに加えて、薬師如来の真言を唱えて、大自然の生み出した温泉の恩恵に感謝したり、仏教的な思索に耽ったりすることがよくあります。温泉の助けを借りて、新たな次元の思考・仏教的な智慧が増大する場合が少なからずありました。

 

   そして、私がオウム・麻原信仰から脱却していく大きな転機の一つとなった宗教体験をしたのが、薬師如来を祭る草津温泉近くの自然郊外でのことでした。

   その時、私は、自分と他人が繋がっているという一元的な瞑想によって、ある気づきを得たのですが、その後に、外に出てみると、合計で七つもの虹が出ており、それは極めて印象深い体験となりました。

 

   こうして、ひかりの輪は、温泉の聖地の大自然の恵み・導きによって、生まれたということもできる経緯があって、聖地と温泉とひかりの輪の間に深い縁を感じています。

 

 

5 日本の良さを再発見⑤ 宗教の聖地と自然の聖地(2011822日)

 

   初回に書きましたが、聖地には、宗教やその開祖が作った聖地と、純粋な自然の聖地で後から宗教家や宗教が集まった聖地があります。

   宗教やその開祖が作った聖地の代表例は、例えば、エルサレムでしょう。エルサレムは、ユダヤ教にとってはエルサレム神殿があった所で、キリスト教にとってはイエスが布教し、処刑された所であり、イスラム教にとってはマホメットに関連して岩のドームがある所です。

 

   一方、純粋な自然の聖地といえば、無名なものもたくさんあるでしょうし、それは皆さんの家や、故郷、ないしは偶然にも訪れた所にあるかもしれません。ただ、私が体験した中では、日本有数の山岳景勝地として、国際的な観光地としても名高い上高地は、まさに純粋な自然の聖地でした。

 

   まず、その土地は、1500mの高地にあります。にもかかわらず、梓川をはさんで幅1km、長さ10km以上の平らな土地があります。そして、そのすぐ近くに、目の前にそびえるように、アルプスの高峰があります。その一つの奥穂高岳は、日本有数の高峰、富士山に次いで第2位か、第3位かの標高。万年雪をたたえた美しい山です。

   また、万年雪の山に加えて、活火山、すなわち火の山があります。焼岳です。大噴火したのは大正時代ですが、今も山頂をよく見ると、少しだけですが、煙が上がっているのがわかります。

 

   その焼岳の熱によって温泉が湧き出ます。上高地温泉です。これがなかなか良い温泉で、成分が特殊なのです。

   そして、温泉という熱の水に加えて、アルプスの雪解けの水が流れるのが、先ほど出てきた梓川。上高地の中心を流れます。その透明な美しさは、他に類を見ないほど。濃淡さまざまなエメラルドグリーンの色をしています。

 

   さらに、川の周囲に広がるさまざまな植物を抱えた森林地帯。この中を散策することができます。林の中は、ところどころに、清流が流れ、小さな池もあります。

   池といえば、大正池という非常に美しい池があります。先ほどの焼岳の大正時代の大噴火で、地形が変わってできた池で、観光名所になっています。こうして、火山は、富士山のように、美しい場所・名所を作る源になる場合が多いですね。

 

   また明神池という、これまた非常に美しく神秘的な池があります。そびえ立つ明神岳という高峰の麓にあるこの池は、穂高神社の奥宮の中にあって、池自体をご神体と位置づけているように思えます。

 

   穂高神社があると言いましたが、明神池を参拝する場所があるくらいで、これを含めて、上高地には目立った寺社の建物はありません。そういった意味では宗教色は少ないです。他に祭られている神様というと、山の神様で、その参拝所には、まっすぐに伸びた御神木があります。

 

   こうして宗教色は薄い上高地ですが、その神聖なまでに純粋な自然の美しさ・素晴らしさのためか、去年の地元の観光促進のポスターには、「この世の聖地 上高地」というコピーが用いられていました。自分は聖地巡礼として上高地を訪れていましたから、「我が意を得たり」と思ったものでした。また、上高地という名前自体が、神が降りる土地という意味で、「神降地」と書く場合もあります。

 

   そして、上高地は、日本を代表する山岳景勝地として、世界に紹介されています。特に、日本アルプスなどの山を世界中に紹介した英国人登山家ウォルター・ウェストンは、上高地を再発見した人と位置づけられており、また、東北震災の後に日本への観光が安全であることを世界に呼びかけるために、米国の駐日大使が訪問したのも、この上高地でした。

 

   宗教色は少ない上高地ですが、私は、ここで、仏教的な悟りの境地を垣間見る体験を何度もしました。例えば、自我への執着が弱まって、自我が幻影のように軽く感じられ、自分の中心が自分ではなく自分を囲む大自然・大宇宙の方にあるといった心境になったことがありました。

 

   また、上高地の自然を見ているうちに、そのさまざまな自然が、我欲がなく互いに調和している様を見て、仏陀や聖徳太子が説いた教えと同じ真理を学び、それと同時に、自分の心が、あたりの大自然一体を包むほどに広大に広がっていく体験をしました。

 

   修験道などでは、山から学ぶ、自然から学ぶという考え方がありますが、道を求めている人には、様々なことを教え、体験させてくれる聖地だと思います。

   さらには、ひかりの輪の聖地巡礼でお馴染みなのが、虹ですが、この上高地は、ひかりの輪の巡礼した聖地の中でも、今までに最も多くの虹が出た聖地の一つだと思います。

   また、史実上のことではないのですが、私の好きな聖徳太子とも縁があると感じる出来事も繰り返し起こった聖地です。

   こうしたいろいろなことがあって、ひかりの輪にとって最も重要な聖地となっています。

 

 

6 日本の良さを再発見⑥ 五大と五行・自然との調和(2011823日)

 

   聖地を題材として、日本の自然の豊かさに焦点を当ててきました。今回は、少し変わった視点から、このテーマについて話したいと思います。

 

   今年は原子力発電の危険性が認識される年となりました。そこで、少し乱暴かもしれませんが、日本はそもそも、自然と調和する文化が中心。一方、原子力・核兵器・原発とは、原子の構造を変える(破壊する)という意味で、自然を開発(破壊)してきた欧米の文化では?

 

   その意味では、日本らしいエネルギー政策とは、自然と調和した、自然を活かしたものではないだろうか。江戸時代までは数千万人の人口が、石油の輸入も原発もなく生きていました。

   しかし、明治以降、日本も、石油中心の文化となり、米国との戦争の開始も、アメリカの対日石油輸出の禁止とともに始まりました。そして、その戦争の終結は、原子力=核兵器でした。

 

   そして、戦後は、石油の枯渇や供給の不安定さを恐れ、また一説には(いざというときには)核武装できるように、原発を導入しました。しかし、それが今回の原発の災厄を招きました。

   この意味で、明治維新以来、欧米の文化・産業エネルギー政策を真似し、その恩恵とともに、その裏の負の側面を味わうことになりました。すなわち、西欧文明の模倣は、万能ではありませんでした。

 

   だとすれば、21世紀は、西欧文化の模倣ではなく、日本らしい文化、社会構造、エネルギー政策の比重を高めることを考えてもよい時期ではないでしょうか。いわゆる、日本人のお家芸、和魂洋才、和洋折衷、融和の才能の発揮です。

   日本は豊かな自然があり、それは大きなエネルギー。地震が多い裏には、豊富な地熱エネルギーがあります。水が豊かだから水力エネルギーがあります。もちろん、地熱発電や水力発電の推進は環境保護の問題があるが、原発の環境破壊とは比較にならないでしょう。

 

   仏教では、地・水・火・風・空の五大元素(五大)を説きます。それは、そのまま、地熱発電、水力発電、火力発電、風力発電にあたります。ただ、ここで、火は、石油などの化石燃料による火力発電だけでなく、火=陽=太陽光発電も含まれると思います。

   そして、中曽根元首相も新聞社説で述べておられましたが、日本はそもそも日の本の国、日出る国、日の丸、天照大神というように、太陽国家ですから、科学的な根拠はありませんが、太陽エネルギーの活用とは相性がよいのではと感じます。そもそも、日本は、何にしても技術開発が得意ですし。

 

   さて、地・水・火・風・空の最後の空は何を意味するのでしょうか?

   未知の宇宙エネルギー? 宇宙空間での太陽光発電?

   ないしは、仏教の空の悟り・空の智慧=少欲知足・省エネルギーか?

   ともかく、無駄なエネルギー消費を避けることは、重要な智慧に違いなし。この視点からしても、原発は消費地と発電地が遠いため、その送電中のロスが大きい一方で、太陽光発電は逆のため、ロスはゼロに近いといわれます。

 

  こうして、日本らしく、自然と調和した、自然を活かしたエネルギー政策が進むといいなと思います。

 

   話は変わって、道教思想には、五大元素ではなく、五行があります。五行は、木・火・土・金・水のことをいいます。

   しかし、これは、日本の活かせるエネルギー資源ではなく、これまでにお話ししてきた、聖地のさまざまな条件を網羅しているキーワードのように思います。

 

   具体的には、

   1,木=聖地は、生気が強く、そこには長寿の大木・御神木がある。

   2,火=聖地には、火山・温泉など、熱・火のエネルギーがある。

   3,土=聖地は、高地・山岳・断層帯の上など、エネルギーの強い土地にある。

   4,金=聖地の神社仏閣には、純粋な金属で作られた神具・法具がある。

   5,水=聖地には、清流・湧き水・湖など、清らかな水・聖水・神水がある。

   となります。

 

   こうして、地・水・火・風・空の五大元素であれ、木・火・土・金・水の五行であれ、豊かな自然との調和を重視する日本の伝統文化が作り出す、自然のエネルギー資源や、自然の聖地が、今後の日本と世界のために、もっと活かされることを期待したいと思います。

 

   ※注

   ①地熱発電の適地は、国立公園内に多く、開発に規制があるという情報があります(読売新聞)。

   ②水力発電は、大型ダムの適地は少ないが、小型ダムならば非常に多くの適地があるという見解があります(同上)。


《参考文献》ひかりの輪の特別教本や小冊子

※各道場にて、販売中です。ご活用ください。

 

 

◎今回、教本中で提示したもの

 

   『2010年夏期セミナー特別教本 三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜 21世紀の宗教の革新』2010年8月

   『2009年夏期セミナー特別教本 循環の法則と密教加行』 2009年8月

   『仏教講義 悟りの道程2 悟りへの道と大乗の教え』 2008年12月

 

◎その他参考文献

 

   『三仏心経--三仏の中核の教え』 2011年11月(無料配布中)

   『水瓶座の時代とは--宗教と社会の改革と進化』 2011年10月(無料配布中)

   『2011年夏期セミナー特別教本 輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』

2011年8月

   『2011年ゴールデンウィークセミナー特別教本 輪の思想等』  2011年4月

   『2010年~2011年 年末年始セミナー特別教本 中道の教え、卑屈と怒りの超越、

21世紀の新しい信仰のあり方』 2010年12月

   『2010年ゴールデンウィークセミナー特別教本 一元の法則とその悟りの道程、

金剛薩捶の内省修行』2010年4月

   『2009年~2010年年末年始セミナー特別教本  現代人のための一元の法則』

2009年12月

   『2009年GWセミナー特別教本 内観、唯識、縁起のエッセンス』 2009年4月

   『2009年2月聖地巡礼セミナー 大乗仏教・六仏の教え』 2009年2月

 

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