ヨーガ・気功
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ヨーガに関する教本の紹介

ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

以下のテキストは、2019~2020年 年末年始セミナー特別教本『最新科学が裏付ける仏教・ヨーガの悟りの思想』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらまで。

 


1.ヨーガが説く真我の思想と人間の苦しみの原因

ヨーガでは、真我というものを説く。サンスクリット語では、アートマン(Ātman)である。ヴェーダの宗教(バラモン教・ヒンドゥー教)で使われる用語であり、意識の最も深い内側にある個の根源などを意味する。

わかりやすくいえば、真実の自分、自分の本質といった意味だが、重要なことは、心とは異なるものであることだ。本来、真我は、純粋な認識主体であって、思考・感情・意志・欲求などの心理的な要素は一切含まない。絶えず移り変わる心(の諸要素)と異なり、真我自体は決して変化することがなく、永久不変の平安の状態にあるとされる。

ところが、ヨーガの根本経典(ヨーガ・スートラ)によれば、普通の人の場合は、真我が、心を自分自身と混同・錯覚しているとする。そして、真我が、心を自分自身と錯覚して一体となっているので、心が苦しむとともに、真我が苦しむ状態に陥っている。本来は、真我が認識の主体であって、心は、体や外界と同じように、真我が認識している対象にすぎない。

しかし、映画の観客が、映画の主人公に熱中して、主人公と精神的に一体化すると、映画の主人公の苦しみを、そのまま自分の苦しみのように感じるのと同じように、真我は、心と同化して心の苦しみを感じているのである。

映画のたとえを使って、さらに説明すれば、この映画の名前は、21世紀の宇宙・地球・日本であり、それは三次元立体映画であって、その中の主人公は「私」という名前であり、観客席は「私」の体の頭部にあって、観客であるあなたは、体はなく、単なる認識する能力を持った意識である。

そして、あなた=真我は、「私」の心や体を動かしてはいない。あなたは純粋な観客・観察者として、それを見ているだけである。しかしながら、あなたは、「私」の心を自分だと混同・錯覚し、「私」の心や体とともに苦しむのである。

(※「真我」について:なお、ひかりの輪では、自分自身の中に永久不変な「真我」があるとする説を絶対視したオウムの教訓として、真我を認めるヨーガの修行では、場合によっては自我意識が肥大化し自己を神であると考える意識状態(いわゆる魔境)に入る恐れがあることを指摘し、伝統仏教にならい自己を特別視しない無我説を重視している)


2.ヨーガが目指す心の制御と真我の覚醒

こうした思想に基づいて、ヨーガが目指すものは、真我が心(や体)を自分自身と錯覚した状態から抜け出して、独立することである。これを真我独存位という。真我独存位に至ると、永久不変の平安の状態に至るとされる。そして、この状態に至れば、インド思想が説く輪廻転生からの解脱(モークシャ)をもたらす。なぜ解脱できるかというと、輪廻・生まれ変わりの原因も、真我が、生き物の心(や体)に執着して、それを自分の物と錯覚することであるからだ。

そして、真我独存位に至るために、ヨーガは、心の働きを止滅することを目指す。実は、心の働きを止滅することが、まさに「ヨーガ」という言葉の本来の意味である(ヨーガは体操ではない)。広くは、心の制御・コントロールとも解釈できるが、ヨーガの根本経典であるヨーガ・スートラには、心の働きを止滅することだと明記されている。

これはなぜかというと、真我が、心を自分自身と混同・錯覚している中で、心の働きを止滅させるならば、真我のみの状態となり、真我はその本来の在り方に戻りやすくなるからである。そして、心の働きを止滅することが、ヨーガと呼ばれるとともに、サマディと呼ばれる深い瞑想・集中の状態である。この詳細に関しては、ひかりの輪のテーマ別特別教本第1集『ヨーガの思想と実践』を参照されたい。

(※輪廻転生について:なお、ひかりの輪は、大乗仏教等の宗教・宗派ではなく、思想哲学の学習教室であり、来世や輪廻転生については、否定も肯定もしないという立場(中道)である)。


3.最新の認知心理学と真我

最新の認知心理学・認知科学は、ヨーガの真我と心の関係の思想と、よく似た見解を持っている。それによると、全てないしほとんど全ての思考・感情・意志・欲求は、私たちの意識ではなく、無意識の脳活動が司って形成しているものである。そして、私たちの意識は、実際には、無意識から上ってくるそうした心理作用を、単に見ているだけの「傍観者」であるが、それを自分のものだと錯覚しているという。

これは、意識が単なる観察者で、心理作用は意識のものではないという点で、驚くほど、ヨーガの説く真我と心の関係と一致している。真我は、純粋な観察者・認識の主体であり、心とは異なるものである。また、仏教の無我の思想とも一致している。仏教は、真我説は説かないが、心を含めた一切は本当の私・私の物ではないとする無我の思想を説く。

そして、科学者によれば、過去数十年の目覚ましい認知科学の発展の結果として、従来の伝統的な人の意識・脳・心・精神の概念は崩れ去ろうとしているという。それはガリレオが唱えた地動説のように、人類の人間観・世界観に、革命的な変化をもたらす。

これまでは、「私」の心・体の中心に、「意識」が存在し、人は自分の意志で、心や体を動かしていたはずだった。ところが、科学が描く新しい「意識」や「脳」の概念は、ガリレオの地動説が、地球を宇宙の唯一の中心的な存在から、宇宙のごくありふれた無数の星の一つにしてしまったのと同じような意味合いを持っている。

すなわち、「意識」は、「私」の中心的な存在ではなく、「私」のごく端っこにいる存在であって、しかも「私」に起こることのごく一部を見ているだけの存在であるというのである。こうして、再び科学は、人類の自己中心的な欲求と、それに基づく固定観念を崩そうとしているのだ。


4.自己中心性を失った代わりに得る壮大なもの

地球を世界の中心とした天動説は、人類の自己中心的な欲求を満たせたかもしれない。しかし、それを崩壊させた地動説が与えたものは、天動説による地球を中心とした狭苦しい世界とは比較にならない、はるかに壮大なものだった。

それは、現在の科学でもその大きさが決定できないほどの広大な宇宙空間(無限である可能性もあるらしい)と、その中の無数の銀河・星々であり、いまだ発見されていないが地球と似た知的生命体が存在する星の可能性さえも内包しており、その中で人類は、単に観察するだけではなく、徐々にではあるが、地球以外の天体に旅をし始めているのである。

同じように、私達=「意識」が、「私」という小世界の中心的な存在から、ごく周辺の存在に格下げになったとしても、それを前向きに受け止めて活用するならば、その代わりに、「意識」は、はるかに壮大なものを得ることになる。それについて次に述べたいと思う。


5.「私」に過剰にこだわらない生き方への転換へ

認知科学者が言う通り、自分=意識が、「自分の心や体」を主導しておらず、単に自分や他人の心や体の「観察者」であるならば、それは、ヨーガの真我説、仏教の無我説の人間観・世界観を裏付けることになる。

そして、この意味合いは、極めて重要だと私は思う。というのは、その見解を確信すれば、自分と他人を過剰に区別し、自分だけを偏愛する意識(自我執着)から解き放たれやすくなるからだ。すなわち、悟りの境地に近づくことが容易になる可能性が高まるのである。

まず、人が、自分と他人を区別する理由の一つは、自分の体は他から独立している自分の自由意志で自分が動かしており、同じように、他人の体は自分から独立した他人の自由意志によって他人が動かしていると解釈するからである。これは、自と他が別のものとして明確に区別された認識をもたらす。

しかし、認知科学の見解によれば、真実は、あなたの意識は、「私と呼ばれる体の脳」に存在してはいるが、「私と呼ばれる脳や体」を動かしておらず、それを含めた「21世紀の世界・日本」と呼ばれる三次元立体映画を鑑賞しているだけである。同じように、彼の意識は、「彼と呼ばれる体の脳」に存在しているが、「彼と呼ばれる脳や体」を動かしてはおらず、同じ映画を観察・鑑賞しているだけである。

そして、あなたの意識も彼の意識も、その映画の観客であって、「私」や「彼」そのものではない。「私」ないしは「彼」だけに過剰にこだわった見方をする義務も利益もない。映画の観客として、「私」や「彼」だけに限らず、様々な者が登場する「映画全体=世界全体」を広く楽しむ権利がある。普通の映画を見に行った際には、誰もが、そうするのではないか。

実際に、「私」や「彼」に過剰にこだわる映画の見方をすれば、その映画は相当に不快なものになる。なぜならば、その映画のシナリオでは、「私」や「彼」は、必ずしも思い通りの人生を送ることにはなっていない。さらには、映画の終盤では、老いて病んで死ぬというバッドエンドを迎えることになっている。だから、「私」ないし「彼」を唯一重要な登場人物だと思い込むことは、楽しい映画の見方ではない。リラックスしながら、様々な登場人物を含んだ映画全体を広く楽しむ方がいい。

そして、「私」という一人の登場人物に過剰にこだわらずに、映画全体を広く楽しむという映画の見方(人生の送り方)は、神の万物への愛(博愛)とか、仏陀の万人に平等な大慈悲といわれるものに通じるものである。


6.精神と脳と体は密接不可分

最新の脳科学は、他にも、仏教やヨーガの思想と合致し、悟りの境地に近づくことを助ける重要な事実を、いろいろと明らかにしてきた。

例えば、デカルトのような昔の科学者は、人の脳と精神は独立しており、精神が脳を動かし、体を動かしているとしたが(有名なデカルトの物心二元論)、現代の科学は、様々な研究・実験・証拠を通して、それを否定するに至っている。人の精神の活動は、明らかに脳の活動と密接不可分であって、脳は体の一部として、体と密接不可分に連動している。よって、体や脳の状態が変われば、我々の思考・感情・欲求は、大きな影響を受けるのである。

この事実は、素人の科学の知識しかなくても、よく考えればわかることかもしれない。しかし、普通の人の常識としては、自分たちに、体の状態からは相当に独立した、確たる自分の意志・感情があるかのように錯覚している。デカルトの物心二元論的な考えは、私たちの常識には合致しても、もはや科学的な事実ではないのである。

さらに、体の中のどこが高次の知的機能を有しているかも、十分に明確にはなっていない。脊髄にも、意外と高度な知的機能が存在する面もあるという。これは、脳とは何なのかという定義自体の問題かもしれない。仮に脳を高次の知的機能をつかさどる臓器というように広く定義するならば、脳の範囲は広がるかもしれない。

そして、仏教やヨーガは、心と(脳と)体の関係を特に強調する思想である。一定の姿勢(座法)や一定の呼吸の仕方を保ちながら瞑想を行うなどの修行法は、まさにこの思想に基づいている。ヨーガは、特に身体と心の状態の一体性を強調し、体のコントロールによって心のコントロールを目指す思想である。特に、ヨーガの中でもハタヨーガや、仏教の中では密教の修行に、その傾向が強い。


7.脳と環境も密接不可分

さらに、第1章で述べたとおり、脳は、体に加えて、体外の環境とも密接不可分に連動している。情報化社会である現代では、特にその傾向は強い。毎日目にするマスメディア・インターネット・街並みや、その様々なお店の様々な商品から、膨大な情報を脳は吸収している。それは意識が自覚しているものもあるが、無自覚で吸収するものも膨大である。そのため、科学者の中には、環境もすべて脳神経の一部であるという主張(いわゆる唯脳論)とか、環境の脳化とか、環境脳という概念を主張する人もいる。

ここでは、「人に自由意志というものがあるのか」という昔からの問題がかかわってくる。自由意志とは、それぞれの個人が、他から独立した自由な意志を持ち、それによって自分の行動を選択しているかということである。

そして、近代民主主義社会の思想の下に生きる私達の常識では、自由意志はあることが前提となっており、それに基づいて社会の制度・法律もできている。個々人の行動は、個々人の自由意志によるものであり、本人以外の何者かに強いられたり、操られたり、誘導されたものではないから、個々人の行動の責任は個々人にあるというものである。

これに対して、現在の認知科学や心理学の主流の見解は、自由意志は全くないか、あっても非常に乏しいというものである。そもそも、無意識の脳活動が、私たちの思考・感情・意志・欲求の形成を主導しており、意識はそれにアクセスできず、そうなった理由や過程は、まるでわからない。にもかかわらず、それを「自分のものだ」と意識は思い込んでいる。すなわち、自分の中の他者に操られていることに気づいていない。

そして、それにさらに輪をかけるのが、現代の情報化社会の加速である。毎日のあふれる情報は、無意識のうちにも脳に入り込んでいく。そのため、意識が全く気付かないうちに、私たちの精神に影響を与えている。こうして、精神と脳と体と環境が、以前にもまして、密接不可分に影響し合っているのが現代社会である。この知見もまた、仏教やヨーガが説く、万物が相互依存であって一体であるという、一元的な世界観と合致している。

 

8.悟りを助ける脳科学・心理学の見解

そして、ヨーガや仏教の思想や瞑想を実践した者の視点から見るならば、こうした最新の科学的な知見をフルに活用するならば、ヨーガや仏教の意識感・人間観・世界観を確信することの手助けとなる。その結果として、悟りの境地に至る瞑想を助け、以前よりも悟りの境地に近づきやすくなる可能性もあると思われる。

最新の科学の知見は、依然として常識と解離しているが、時とともに、科学の知見が常識になっていくのが人類社会である。革命的な理論ほど、常識による固定観念の抵抗を強く受けるだろうが、長期的な視点からいえば、それは時間の問題にすぎない。キリスト教の人間・地球中心主義の思想のために、当初は激しく抵抗を受けたガリレオの地動説が、その後認められたことからも、よくわかるだろう。

そして、最新科学が発見した精神・意識・脳・体・環境に関する真実が、常識となって深く浸透する頃には、人類の「意識」には、大きな変革が起こる可能性も期待できるのではないかと私は思う。

現在の人々には、この世界は、何もかもがバラバラに見えて、狭苦しい自己と、他者・外界に大きく分かれている。しかし、今後は、私達の「意識」は、科学が検証した事実を学ぶ中で、「私」や「他人」や「環境」などを含めた全てが一体となった壮大なつながりを持った世界があることを認識して、受け入れやすくなるだろう。これは、ヨーガ(ないしは仏教)が説く「意識の拡大」・「宇宙意識」・「悟りの境地」への接近の土台となることは間違いない。

なお、世界の全てが一体であるとするならば、「本当の私は、世界全体である」ということもできるだろう。「世界の一切が本当の私ではない」と説く無我や真我の思想は、実際のところ、これと矛盾するものではない。というのは、世界の何物も自分ではないという認識があればこそ、世界の何物にも執着することなく、世界全体に意識が広がりやすくなる、ということであるから。その結果として「世界全体が私」ということができる心理状態に近づくということである。

話を元に戻すと、仏教・ヨーガの瞑想修行者が、最新の科学の知見をフルに活用するならば、「意識」が、偏狭な自我執着から解き放たれて、壮大な宇宙に精神的に広がる可能性は高くなるだろう。これまでの習慣である「狭い私」の固定観念がすぐに解消はしないだろうが、科学信仰ともいうことができる現代人の意識には、科学の見解は重要な影響をもたらし、固定観念を突き崩すスピードは上がっていくだろう。

そして、「私」の中の中心的な存在から周辺に回された「意識」が、勇気をもってそれを前向きに受け止めて活用したならば、失ったものの代わりに得るものは、実に壮大なものになる。それは、意識の深い安定と、大きな広がりである。そもそも意識には、形や大きさはない。狭い世界に対する執着から精神的に解き放たれるならば、それは宇宙大ともいえる無限の可能性を秘めている。

 

 

 

 

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