仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

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    このコーナーでは、ひかりの輪が説く仏教思想や「輪の思想」の特別教本をご紹介するとともに、仏教・ヨーガを科学的に検証する記事を掲載していきます。

仏教思想の基本

  • 2017年GW特別教本『苦しみを滅する仏陀の思想と瞑想』第1章公開

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    第1章 苦しみを滅する仏陀の哲学


    1.はじめに

       釈迦牟尼が説いた教えの目的は、苦しみを滅することである。その中核は、釈迦牟尼の初めての説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で説かれた中道・四(し)諦(たい)・八(はっ)正(しょう)道(どう)で明らかにされている。ここでは、まずそれについて詳しく検討する。


    2.中道

       釈迦牟尼は、快楽主義(左道)でもなく、苦行主義(右道)でもなく、中道を説いたことで知られる。
       王子時代は、おそらくは欲楽にふけった生活を送ったと思われるが、人生の無常を感じて出家して修行に入ると、断食を含めた長年の厳しい苦行を行った。しかし、その末に、それで悟りを得ることができないとして苦行を捨て、「中道」に基づく修行に励んで悟り、目覚めた人(=仏陀)となったという。
       その後、釈迦牟尼は、鹿(ろく)野(や)苑(おん)において、五人の比丘(出家者)に初めての説法を行ったが(初転法輪)、四諦・八正道よりも先に、この中道の教えを、以下のように説いたという。

    「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
    比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃(ねはん)のために役立つものである。」(パーリ語経典相応部から『世界の名著 1』中央公論社 p435-439)

       なお、中道の教えと呼ばれるものには、いろいろな種類があり、初転法輪で説かれた中道は、快楽主義にも苦行主義にも偏らないという意味で「苦楽中道」ともいわれる。


    3.四諦

       「四諦」とは、四(し)聖(しょう)諦(たい)ともいわれ、4つの聖なる真理という意味がある。その4つの諦とは以下のとおりであり、まとめて「苦(く)集(じゅう)滅(めつ)道(どう)」と略称される。

    1.苦(く)諦(たい)--この世は苦であるという真理
    2.集諦(じったい)--苦の原因に関する真理
    3.滅諦(めったい)--苦の止滅に関する真理
    4.道諦(どうたい)--苦の止滅の道に関する真理

       四諦は、釈迦牟尼が最初に説いた教えであり、仏陀の根本教説である。これは、人間の苦を滅するために説いた教えである。
       この教えの要点は、この世・人生は一切苦であるが、苦の原因は煩悩であり、煩悩を滅すれば、苦は滅することができ、その具体的な道(八正道)があるというものである。この道を一言でいえば、この世、特に自己に対する執着(自我執着)を捨てることで、苦しみを滅すること(悟ること)ができるというものである。
       なお、煩悩が苦の原因であるという教えは、「縁(えん)起(ぎ)の法」ともいわれる。ただし、縁起の法は、釈迦牟尼の死後、その意味が拡大され・複雑化したので、煩悩が苦の原因であるという最初期の縁起の法は、特に此(し)縁(えん)性(しょう)縁起という。よって、此縁性縁起を言い換えたものが、四諦の(集諦の)教えということもできる。


    4.苦諦:この世は苦である--仏教の説く「苦」の意味とは

       これは、この世界の一切が苦であるという意味だが、ここでは「苦」という意味を正確に知る必要がある。この漢訳語の苦の原語は、サンスクリット語ではドゥッカ(duhkha)といい、その原義は「不安定な、困難な、望ましくない」といったほどの意味である。
       それから転じて、ドゥッカ(duhkha)には、二つの意味がある。
       一つ目の意味は、日本語の苦と同じような意味であり、苦と楽のうちの苦のことである。より正確にいえば、この世界には、苦と、楽と、苦でも楽でもない(不苦不楽)の三つがあるが、その中の苦である。これは、苦と楽と不苦不楽を、異なるものとして区別し、苦は、楽と不苦不楽の対極にあるものという意味がある。
    しかし、苦諦が説く苦とは、この意味でのドゥッカ(duhkha)ではないことが肝心である。これが理解できないと、仏教の教えが、不合理なまでにこの世界が苦しみだと強調していると誤解することになる。
       二つ目の意味のドゥッカ(duhkha)とは、楽も不苦不楽も、それにとらわれると、それが変化して壊れるがゆえに苦しみの原因となると考える場合の苦である。苦と楽と不苦不楽を、別のものとはしない特殊な見方であり、苦楽は表裏一体という仏教の重要な思想が反映されている。
       このドゥッカ(duhkha)の意味をよく表すものとして、仏教には「三苦」という教えがある。三苦とは、苦(く)苦(く)・壊(え)苦(く)・行(ぎょう)苦(く)である。
       「苦苦」とは、苦しみそのものである苦である。すなわち、身体的・精神的な苦痛である。
       「壊苦」とは、楽が変化して壊れる・滅する時の苦しみである。ここでは、仏教の中核の思想である無常が関係してくる。言い変えれば、今、楽であるものの先には、それにとらわれると苦しみがあることを意味している。これを苦楽表裏ともいう。
       次の「行苦」も、無常に関係している。行とは、サンスクリット語でサンスカーラ(saṃskāra)であり、作られたものといった意味があるが、わかりやすくいえば、一切の存在である。
       そして、仏教では、後に詳しく述べるが、あらゆる存在は無常であるから、一(いっ)切(さい)行(ぎょう)苦(く)といって、一切の存在は(とらわれれば)苦しみ(の原因となるもの)であると説く。こうして、行苦とは、(とらわれれば、無常であるがゆえに)一切の存在は、苦(の原因となるもの)であるという意味での苦である。
       こうして、苦諦が説く「この世は苦である」ないしは「一切は苦である」という教えは、一切のものが、今この時点で苦痛であるという意味ではない。一切のものが、無常であることなどを背景として、とらわれれば、人にとって苦の原因となるという意味である。
       ここでドゥッカ(duhkha)の原義に、先に述べたように、不安定な、望ましくないといった意味があることを思い出してほしい。これを踏まえると、仏教が説く「苦」=ドゥッカ(duhkha)とは、「不安定であるがゆえに、とらわれることは望ましくない(もの)」という意味だと解釈するとよいと思う。こうして、物事にとらわれない、執着しないというのは、仏教の思想の中核である。


    5.四苦八苦

       さて、三苦に加えて理解しておきたいのが、四(し)苦(く)八(はっ)苦(く)の教えである。日常用語の四苦八苦とは、非常な苦しみを意味するが、仏教用語では、人間の人生の様々な苦しみを分類して説いたものであり、人生は苦しみであると説くものである。ただし、この場合の苦しみも、先ほどの仏教的な広い意味での苦しみ(ドゥッカ〈duhkha〉)であることに注意されたい。
      まず、「四苦」とは、①生・②老・③病・④死である。老・病・死はわかりやすいが、仏教では、生も苦しみとする。実際、妊娠・出産の過程は、いろいろな意味で思い通りにならず、母胎と胎児に、死を含んだ危険が伴う。
       さらに、次の四つの苦を加えて「八苦」という。それは、⑤求(ぐ)不(ふ)得(とく)苦(く)--求めても得られない苦しみ、⑥愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)--愛する対象と別れる苦しみ、⑦怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)--憎む対象に出会う苦しみ、⑧五(ご)蘊(うん)盛(じょう)苦(く)である。
       最後の「五蘊」とは、人または世界を構成するものを五つに分類したものである、具体的には、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)であり、その意味は、色が身体、受が感受作用、想が表象作用(イメージ)、行が意志作用、識が識別作用である。ここでは、色=身体のみが物質的な要素で、受・想・行・識は精神的な要素である。なお、広い意味では、世界全体を構成する物質と精神的な要素を意味する。
       そして、五蘊盛苦とは、五(ご)取(しゅ)蘊(うん)苦(く)ともいわれ、その意味は、五蘊は全て無常であることなどから、とらわれると苦しみであるという意味である。すなわち、一切行苦とほぼ同じ意味だと解釈してよいと思う。
       さて、ひかりの輪では、四苦八苦の教えをよりわかりやすくするために、後半の四つの苦しみに関して、⑤求めても得られない苦しみ、⑥得て執着したものを失う苦しみ、⑦(求めるがゆえに)奪い合うことによる苦しみ、⑧それがゆえに一切のものはとらわれれば苦しみになる、などと表現している。
       これは、一切のものは、とらわれ求める限りは、その結果として、いろいろな苦しみが必ず生じることを強調したものである。


    6.集諦:苦しみの原因は煩悩である--苦の原因とは何か

       集諦とは、苦(く)集(じゅう)諦(たい)ともいうが、苦の原因に関する真理という意味であり、釈迦牟尼は「苦の原因は煩悩である」と説いた。この「集」の原語には、起源・原因・招集という意味がある。そのため、苦の原因ないし苦を招き集めるものは煩悩であるという意味で、集諦と訳されたと思われる。
       なお、これは、先ほど述べたように、最も根本的な最初期の縁起の法である此縁性縁起と同一である。よって、集諦を中核とした四諦の教えを端的に表現したのが、此縁性縁起だという解釈もある。
       では、次に、この「煩悩」とは何かというと、仏教が説く根本的な煩悩は、三毒といわれ、それは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)、すなわち貪り・怒り・無智である。ただし、ここの四諦の文脈における煩悩は、特に渇愛(渇いたように欲望を求めてやまない感情)のことを意味するという解釈もある。
       そして、根本的な煩悩が苦しみを招く過程を示したのが、釈迦牟尼が説いた「十二縁起」という教えであるとされるので、多少難解ではあるがここで解説したい。なお、この十二縁起の教えの中では、渇愛は「愛」と漢訳されたものである。


    7.十二縁起:無智から苦しみが生じるプロセス

       「十二縁起」とは、人間の苦しみの原因(=煩悩)を、順に分析したものであり、それが「無明」から始まり「老死」で終わる十二の因果関係の連続で表現されるので、十二縁起と呼ばれる(縁起とは因果関係という意味がある)。十二因縁、十二支縁起、十二支因縁などと訳される場合もある。
       その十二の因果関係の連続とは、以下のとおりであるが、これは、「無明」によって「行」が生じ、「行」によって「識」が生じ、最後に、「生」によって「老死」が生じるという意味であると理解されたい。

    1.無明(むみょう) - 煩悩の根本。根本的な無智。真理がわからないこと。
    2.行(ぎょう) - 意志作用・志向作用。
    3.識(しき) - 識別作用(物事の区別・差別・好き嫌いの精神的作用)。
    4.名(みょう)色(しき) - 人の心身。名が精神現象(心)、色が物質現象(肉体)を意味する。
    5.六(ろく)処(しょ) - 五感と意識。六処とは、六つの感覚器官といったほどの意味で、六つとは五感と意識のこと。
    6.触(そく) - 六つの感覚器官が、それぞれの感受対象に触れること。外界との接触など。
    7.受(じゅ) - 感受作用。六処で外界などに触れた結果として感じること、感覚。
    8.愛(あい) - 渇愛・愛着。
    9.取(しゅ) - 執着・とらわれ。
    10.有(う) - 存在・生存。
    11.生(しょう) - 生まれること・出産。
    12.老(ろう)死(し) - 老いと死。


    8.十二縁起の法の解釈:様々な解釈があり多少難解

       十二縁起の法の解釈は、率直にいえば、様々な解釈があって、多少なりとも難解である。全体を見れば、最後の方に、生=生まれることがあるから、少なくとも前半は、生まれる前のプロセス=胎児の胎内でのプロセスだと解釈して、胎生学的な解釈をすることが少なくない。
       また、釈迦牟尼の死後は、十二縁起が、前世と現世(今生)と来世の三つの生にまたがった過程をあらわしているとする解釈(三(さん)世(ぜ)両(りょう)重(じゅう)の縁起)も現れた。そこで、こうした解釈のばらつきを越えて、十二縁起のエッセンスと思われることをまとめておきたい。
       第一のエッセンスは、すべては「無明」から始まるとしていることである。この無明とは、元の意味は、目が見えないという意味で、転じて聡明さに欠けるという意味を持つ。そして、仏教用語としては、人生や事物の真相・実相に明らかでないこと=無知であることを意味する。
       より具体的には、すべては無常であり固定的なものは何もないという事実に、無知なことであるとされる。これを仏教用語で言い換えると、縁起・無常・空といった真理を知らないことなどと表現される場合もある。この縁起・無常・空に関しては、第二章で詳しく説明する。
       そして、釈迦牟尼は「無明こそ最大の穢れである。比丘(出家者)たちよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ」と説いたという(法句経243)。また、仏教用語の中で、この無明と同一とされるのが、痴(愚痴)であるが、この痴も、煩悩の中でも最も基本的なものとされる。三つの根本煩悩(三毒)とか、六つの根本煩悩とされるものの一つであって、その中でも最も根本的なものとされる。
       こうして、無明とは、人の持つ根本的な無知であって、すべての煩悩の根源とされるものである。その意味を込めて、以下では、根本的な「無知」ではなく、根本的な「無智」という表現を使うこととする。では、次に、より詳しく無明の意味を理解することにしよう。


    9.四(し)顛(てん)倒(どう)

       この根本的な無智に関連して、釈迦が悟った直後に、まず説いた教えと思われるのが、四顛倒である。顛倒の原義は、ひっくり返ることであるが、それから転じて、真理とは逆さまな見方=間違った見方といったほどの意味になる。
       具体的には、釈迦牟尼は、人は、

    1.無常なものを常(恒常的なもの)であると錯覚している。
    2.無我を我と錯覚している。
    3.苦しみであるものを楽であると錯覚している。
    4.不浄なものを浄であると錯覚している。

    と説いた。
       ここで、無我とは、私・私のもの・私の本質ではない、という意味である。よって、無我を我と錯覚しているということは、私・私のもの・私の本質ではないものを、私・私のもの・私の本質と錯覚しているということである。
       なお、我は、永久不変の本質という意味があり、そのため、無我は、永久不変の本質がなく、固定した実体がないとも解釈される。これは、大乗仏教が説く空の思想と繋がるものである。
       この中の無常・無我・苦の三つは、頻繁に説かれる仏教の重要な教えであり、仏教の基本的な現実認識である。詳しくは第二章に述べるが、ここで簡潔にいえば、「この世の一切のものは、無常であり、変化して消えていくものであって、私自身も、必ず老い病み死ぬものであるから、本当の意味で、私とか、私のものといえるものは全くなく、一切は(とらわれるならば)苦しみである」ということである。
       にもかかわらず、実際には、悟っていない人は、無常であることを理解せず、本当の意味で私・私のものなどはないことを理解せず、そのために(とらわれるならば)苦しみ(の原因となるもの)を楽だと錯覚して、それにとらわれるという間違いに陥っているというのである。


    10.四顛倒と十二縁起

       この四顛倒の教えを踏まえて、十二縁起のプロセスを考えてみよう。無常を常、無我を我、苦を楽、不浄を浄と錯覚すると、実際はとらわれれば苦しみ(の原因)となるものを、楽と錯覚することになる。
       すると、この無明=無智のために、無明の次の「行」(意志作用)が生じる。すなわち、何らかの意思・欲求が生じるのである。その後に「これが良い悪い」といった「識」(識別作用)が生じる。そして、その後に、母体内の胎児の意識は、育ちつつある自分の「名色」(=自分の心身)に執着するようになる。
       そして、「六処」(感覚器官)によって外界に接触して(「触」)、色々なものを感じるようになり(「受」=感受作用)、その結果、いろいろなものを愛着して求めるようになり(「愛」=渇愛)、いろいろなものにとらわれ(「取」)、自分の存在(「有」)にとらわれて生まれる(「生」)が、その結果、老いと死という苦しみに至る。このように理解することができる。
       そして、このプロセスをどこかで切断・捨断できれば、苦しみが生じないということになる。


    11.仏教心理学的な無智の説明

       次に、仏教が育んだ仏教の心理学の視点から、無智を根源とする煩悩の形成について述べる。仏教には、唯識思想をはじめとして、人の心を分析した心理学というべきものがある。その中には、根本的な無智からどのように煩悩が生起していくかの過程も分析されている。
       まず、(悟っていない人の)根本的な無智として、「(自分の)覚醒状態を見失っているという無智」があるという見解がある。覚醒状態とは、仏教では涅槃であり、仏陀の覚醒状態である。
       そして、この根本無智と同時に生じるのが、「自己と他者を区別する無智」であると説く。これを言い変えれば、覚醒状態では、自己と他者を区別しないが、それを失うと同時に、自己と他者を区別する意識が生じるということである。すなわち、仏教では、この世界の真実は、自己と他者は繋がっていて別ものではないが、それを人は理解せずに、自己と他者を区別する錯覚に陥っていると説くのである。
       そして、自己と他者を区別すると、自分・私という意識が生じ、他者よりも自分に執着する。これを自我執着、我執、我見、我愛などという。
       そして、外界に、自分に心地よいものと不快なものがあると感じるようになる。快不快、好き嫌いの区別が生じる。そして、心地よいものを、自分のものとしよう、自分のものとして増やそうという「貪り」、その逆に、不快なものを排除しようとする「怒り」が生じる。
       これが、無智から、貪り、怒りが生じるプロセスであり、これら三つを三毒(三つの根本煩悩)ともいう。この三つの煩悩が、他の様々な煩悩(下位の煩悩)をもたらす。妬み・慢心・愛着などの様々な煩悩が生じる。
       しかし、この煩悩は苦しみをもたらす。四苦八苦の教えで解説したように、貪り求めても、得られない苦しみ、得たものさえ失う苦しみ、そして、求めるがゆえに奪い合う苦しみが生じる。こうして、無智から様々な煩悩が生じて、様々な苦しみが生じる。
       最後に参考までに、大乗仏教の唯識思想では、痴(根源の無智=自他の区別)が、我痴(自我意識)を生じさせ、それが我愛(自我執着)を生じさせ、我慢(慢心・私は偉い・優れているという意識)を生じさせると説いている。ここでは、自我執着の中で、慢心(我慢)が強調されている。


    12.滅諦と道諦

       四諦の第三である「滅諦」は、苦(く)滅(めっ)諦(たい)ともいう。苦の止滅に関する真理という意味であり、「苦は滅する」という教えである。
       より具体的には、苦しみの原因は煩悩であるから、煩悩を滅するならば、苦しみは滅することができるということである。
       そして、四諦の第四の道諦は、苦(く)滅(めつ)道(どう)諦(たい)ともいう。苦を止滅する道に関する真理という意味である。
       そして、苦の原因は煩悩であり、その根源は無智であるから、苦を止滅する道とは、無智を滅して、煩悩を滅して、苦しみを滅する道である。
       これが、まさに仏道修行のことであり、釈迦牟尼の直説の教えでは、この修行体系をまとめて、「七(しち)科(か)三(さん)十(じゅう)七(しち)道(どう)品(ぼん)」という。
       ただし、その中で、釈迦牟尼の初めての説法で四諦とともに説かれ、初期仏教において最も主要な修行体系が、「八正道」である。この八正道について、第二章で詳しく述べることにする。
       なお、八正道以外の七科三十七道品の修行体系に関しては、本教本の主旨を外れるので、『2016~17年 年末年始セミナー特別教本「四無量心と六つの完成」』を参照されたい。

  • 2016~17年年末年始特別教本『総合解説 四無量心と六つの完成』第1章公開

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    第1章 四無量心の教え:基礎編


    1.四無量心とは何か

      「四無量心」とは、仏陀や菩薩の心の在り方及び実践である。その意味で、仏教の思想と実践の最も重要なものの一つであり、仏道修行の基本であって、なおかつ究極の目的ということもできる。
       まず、『岩波仏教辞典』(第二版、岩波書店)が解説する四無量心の意味を見て、その概略を理解しよう。

       「四つのはかりしれない利他の心、慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量に
        おこして、無量の人々を悟りに導くこと。」


    2.四無量心の「無量」とは何か

       こうして、四無量心とは、四つの無量の(=はかりしれない)利他の心である。では、「無量」とは、具体的にはどういう意味だろうか。
       『分(ふん)別(べつ)論(ろん)註(ちゅう)』という仏教の経典解釈書によれば、

       「無量とは、『対象となる衆生が無数であること』あるいは『対象とする個々の有情
       (著者注:生き物)について(慈悲の心で)余すことなく完全に満たす』という遍満
       無量の観点から、このように称する。」

    とされている。(ウィキペディア「四無量心」より)
       こうして、無量とは、利他の心の広さと深さに関係する。広さに関しては、その利他の心は、この世界・宇宙のすべての生き物=無数に広がっている。よく「すべての衆生(生き物)」と表現されるが、すべての生き物に及ぶ、広大無辺な利他の心である。
       次に、深さに関しては、その利他の心は、個々の生き物を完全に幸福にするという意味を持つ。そして、大乗仏教の「菩薩道」という思想においては、これは、究極的には、すべての生き物を最高の幸福の境地である「仏陀の境地」に導くことを意味する。すなわち、すべての生き物を、ついには仏陀の状態にすることが、四無量心の利他の心の究極である。


    3.慈・悲・喜・捨とは何か

       それでは、慈・悲・喜・捨とは何か。その原語を含め、いつくかの文献から引用する。

    「「慈」とは生けるものに楽を与えること、
    「悲」とは苦を抜くこと、
    「喜」とは他者の楽をねたまないこと、
    「捨」とは好き嫌いによって差別しないことである。」
    (『岩波仏教辞典』(第二版・岩波書店)より)

    「慈無量心(サンスクリット語:マイトリー, パーリ語:メッター)
       -「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
    悲無量心(サンスクリット,パーリ語: カルナー)
       -「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
    喜無量心(サンスクリット,パーリ語: ムディター)
       -「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
    捨無量心(サンスクリット語: ウペクシャー パーリ語: ウペッカー)
       -「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。」
    (ウィキペディア「四無量心」より)

       それでは、次に慈・悲・喜・捨のそれぞれに関して、より具体的に解説をする。


    4.慈・悲・喜・捨の、より具体的な解説

       「慈(マイトリー)」とは、他の幸福を願う心であり、他に楽を与える行為である。こうして、四無量心とは、心の持ち方と、行為・実践の双方を含んでいる。
       「悲(カルナー)」とは、他の苦しみを悲しむ心であり、他の苦しみを取り除く行為である。「悲」といっても、自分の苦しみを悲しむのではなく、他の苦しみを悲しむ意味である。
       「喜(ムディター)」とは、他の幸福をねたまずに、共に喜ぶことである。そして、行為としては、他の幸福の源である他の善行を称賛する、見習うことなどが含まれる。
       「捨(ウペクシャー)」の意味としては、いろいろな表現があるが、まとめれば、「平静で平等な心」ということができる。「平静」とは、苦楽に一喜一憂せず、心の沈みと心の浮つきの双方を離れた、落ち着いた平らかな心の状態を意味する。また、「平等な心」とは、他者に対して、好き嫌い・差別を超えて、皆を等しく利する心である。
       なお、「捨」には、無関心という意味もある。これは、自分の苦しみや自分を苦しめる他の悪行(あくぎょう)に、無関心・怒らないという意味である。自分の苦楽に一喜一憂しない、平静な心の中核として、自分の苦しみや、それをもたらす他の悪行に無関心・怒らないという心の状態があるということである。よって、これは、他の苦しみに対して、無関心・無頓着という意味ではない。仮にそうであれば、他の苦しみを悲しむ「悲」の心と矛盾する。他の苦しみに対する無関心を含めた、単なる無関心は「無智捨」と呼び、「捨無量心」とは似て非なるものとする経典もある。
       こうして見ると、「喜」が、他の善行を称賛することである一方で、「捨」は、他の悪行を怒らないことである。よって、四無量心の一つの解釈として、四無量心とは、他に楽を与え、他の苦を取り除き、他の善行を称賛し、他の悪行に怒らないことと解釈することもできる。実際に、同じインドで発祥し、仏教の母胎となったヨーガの経典は、そのように表現している。


    5.仏教の伝統における四無量心の位置づけ

       説明の言葉が多少難しくなるが、伝統の仏教の教義では、四無量心は、「四(し)梵(ぼん)住(じゅう)」とか、「四(し)梵(ぼん)行(ぎょう)」ともいわれる。これは、四無量心を修行する者は、大梵天界という高い天界に生まれ変わるとされているからである。
       また、四無量心は、上座部仏教が説く、「サマタ瞑想(止)」に入る際の40種類ある瞑想対象である「四十業処(しじゅうぎょうしょ)」の一部である。ここで上座部仏教とは、テーラワーダ仏教ともいわれ、釈迦牟尼の直説である初期仏教の教えに忠実な仏教宗派であり、後にインドからスリランカ・東南アジアに広がった。
    そして、この初期仏教の時代から、仏教瞑想の基本的な教義として、「止観(しかん)」というものがある。そして、「止(サンスクリット語でサマタ)」は、心を静める(止める)瞑想である。「観(ヴィパッサナー)」は、物事をありのままに見る瞑想である。心を静めると、物事をありのままに見ることができ、物事をありのままに見ると、心が静まる。この「止の瞑想」の一部として、四無量心があるのである。
       これを簡略化したものが、現代において広く行われている「慈悲の瞑想」である。慈悲の瞑想は、現代において「ヴィパッサナー瞑想」として広がっている瞑想においては、その準備段階として、セットにして行われる。これは、仏教の精神を最もよく表現した瞑想法として、きわめて重視されている。
       慈悲に関して最も有名な経典の一つである『慈悲経』(パーリ仏典小部小誦経9番)には、慈悲の瞑想の要点として、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願うことが説かれている。さらに、慈しみを修習する上で、毎日の生活で従うべき態度、精神的姿勢、行動等などが説かれている。例えば、「自分の独り子を命がけで守るのと同じ態度で、一切の生類への慈しみを増大させるように」など。この慈悲の瞑想は、パーリ仏典では非常に重要視されており、長部、中部、相応部、増支部等のたくさんの経典に出てくる。
       そして、慈悲の瞑想をすることで得られる成果については、釈迦牟尼は、息子のラーフラに、以下のように説いている。

    「ラーフラ、慈の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚(しんに)(怒りの心)も消えてしまうからです。ラーフラ、悲の瞑想を深めなさい。というのも、悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな残虐性も消えてしまうからです。ラーフラ、喜の瞑想を深めなさい。というのも、喜の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな不満も消えてしまうからです。ラーフラ、捨の瞑想を深めなさい。というのも、捨の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな怒りも消えてしまうからです。」
    (『大ラーフラ教誡経』パーリ仏典中部62番)


    6.四無量心が静める様々な煩悩

       上記の経典が説くように、四無量心は、利他の心ではあるが、同時に、それを実践する者の煩悩を和らげ、心を静め、悟りに近づけるものである。すなわち、「利他」を目的としながら、それが「利己」の結果をももたらす。そこで、慈・悲・喜・捨のそれぞれについて、どのような煩悩を静める効果があるかを詳しく述べることにする。


    7.「慈」が静める煩悩:貪りと怒り

       釈迦牟尼は、ラーフラに対して、「慈」の瞑想と実践によって、瞋恚(怒りの心)が消えると説いている。確かに、慈しみの心と怒りの心は対極であるから、慈の瞑想によって、怒りの心が静まることは納得がいくだろう。しかし、これには、より深い意味合いがあるのである。それは何かというと、怒りの根底には、貪り・執着があるということである。そして、慈の瞑想は、この貪り・執着を和らげ、怒りの心を和らげるのである。
       人は、自分のものを際限なく求めて、とらわれる心=貪り・執着がある。その究極が独占欲である。これがあると、それを妨げる者に対する怒りが生じる。貪り・執着が全くない状態であれば、怒りも生じない。そして、この貪り・執着を和らげるのが、他の幸福を願い、他に楽を与えることである。自分のものを際限なく求めるのではなく、足るを知ることがなければ、他に与えることはできないからである。
       この意味で、慈は、貪り・執着を和らげ、その結果、怒りを和らげることになる。


    8.「悲」が静める煩悩:冷たさ・残虐性

       釈迦牟尼が説いているように、他の苦しみを悲しみ取り除く「悲」の瞑想と実践によって、残虐性を和らげることができる。これをもう少し広く表現すれば、冷たさ・冷たい心を和らげるということができるだろう。残虐さといえば、他の苦しみを喜ぶ、他を苦しめようとする心というニュアンスがあるが、冷たい心は、そこまではいかないが、他の苦しみに無関心という状態である。
       他の苦しみに無関心ということは、その根底に、「他の苦しみは、自分とは無関係である」という意識がある。例えば、他の苦しみに対して「自分には責任がない」とか、「今、他人が経験している苦しみは、自分の過去や未来の苦しみではない」といった、いわゆる「他人事」という意識である。これは、自と他の幸不幸を区別する意識であり、煩悩としては「無智」という根本的な煩悩の範疇に入る。
       そして、「慈」が和らげる貪りの煩悩と、「悲」が和らげる冷酷な心は、不離一体である。というのは、貪りが強ければ、他から幸福を奪い、他を苦しめることになるが、他の苦しみに無関心だからこそ、貪りを続けるからである。
       その意味で、慈悲の実践は一体である。他に楽を与える「慈」の実践は、他の苦しみを取り除く「悲」の実践に自ずと繋がり、同じように、他の苦しみを取り除く「悲」の実践は、自ずと他に楽を与える「慈」の実践に繋がってくる。
       そして、これは、自分が煩悩的な喜びを得ている時に、その裏側では、他者が苦しんでいるという重要な事実を示している。すなわち、自分の煩悩の喜びの裏側には、他の苦しみがあり、他の煩悩の喜びの裏側に、自分の苦しみがあるということである。


    9.煩悩的な喜びは、自と他の間で奪い合うもの

       煩悩的な喜びをよく観察してみると、財物・異性・食べ物・名誉・地位・権力といったものは、いずれも際限なく求めれば、他との奪い合いになる。
       例えば、お金持ちであるという喜びも、貧乏であるという苦しみも、他との比較・競争で決まっている。日本人は途上国からは、皆が王侯貴族に見えるほど金持ちだと見えるそうだが、日本人の中では、経済苦を原因として年間数千人が自殺するし、自分が貧しいというコンプレックスで悩んでいる人がいる。
       異性も、三角関係を含めて同性への妬みなど、他との奪い合いの側面は否めない。食べ物の喜びの裏には、食べ物になる死んだ生き物の苦しみがある。名誉・地位・権力は、少数の人しか得られないからこそ成り立つものであり、得る人の喜びに裏には、得られない人の苦しみがあることは明白である。

    10.慈悲は、奪い合いを超えて、分かち合いを深める

       こうしてみると、煩悩的な喜びは、自他の間で奪い合うものである。その結果、わかりやすくいえば、人は、他と楽を奪い合い、互いに苦しみを押し付けあう傾向がある。
       そして、その反対が慈悲の実践であり、他に楽を与え、他の苦しみを取り除く。これを言い換えれば、他と苦楽を分かちあう実践である。こうして、「奪い合い」を控えて、苦楽の「分かち合い」を深めることが、慈悲の実践の要点である。


    11.「喜」が静める煩悩:妬み

       他の幸福を喜ぶ心は、妬みを和らげる。妬みは、「喜」とはまさに逆の心の働きで、他の幸福を憎む心である。この妬みの心の背景には、「自分が他に優位になることで幸福になる」と考える錯覚がある。これに対して、喜の心は、「他の幸福を喜ぶ広い心が、真の幸福の道である」という気づきに基づいている。
       さらに深く考察すれば、人は、自と他の幸福を区別し、「幸福は自他の間で奪い合うもの」と錯覚しがちである。そうして、自分のものを「今よりもっと、他人よりももっと」と際限なく求める。しかし、この際限のない欲求がある限り、満たされることはなく、求めても得られなかったり、得たものさえ失ったり、自分より得ている他人への妬みや不満がある。
       一方、自と他の幸福を一つと見て、他の幸福を自分の幸福とする広い心を培い、それが本当の幸福であることに気づくならば、不満が根本的に解消する。そして、「喜無量心」ともいわれるが、世界のすべての人々・生き物の幸福を自分の幸福とも見て、共に喜ぶ心には、無量の喜びが宿り、完全に満たされる。よって、釈迦牟尼は、「喜の瞑想によって、不満がなくなる」と説いているのである。


    12.「捨」が静める煩悩:怒り

       釈迦牟尼は、「捨」は、「慈」と同様に、怒りの心を静めると説いている。捨は、前に述べたように、苦楽に傾かず、一喜一憂しない「平静な心」、好き嫌い・差別を超えた「平等な心」、そして、自分の苦しみや、それをもたらす他の悪行に「無関心・怒らない」という意味がある。その意味で、捨の実践が、怒りの心を静めることは自明である。
       しかし、捨が怒りを静めるという教えは、実は非常に深い内容を含んでいる。それについては別の章で述べることにする。

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    第1章 仏教心理学の精髄:心の三毒と、智恵と慈悲


    1 心の三毒とは

       仏教は、心理学の要素がある。そして、人の心の働きを論理的に分析し、すべての煩悩と苦しみの原因として、(心の)「三毒」というものを説く。これは、すべての煩悩の根本となるものであり、そのために、すべての苦しみの根本原因と考えられている。
       三毒とは、貪り・怒り・無智の三つの心の働きである。仏教用語では、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と表現する。貪=貪り、瞋=怒り、痴=無智である。そして、この三つの中で、無智が根本であり、無智が原因となって、貪りと怒りが生じているとされる。

    2 無智とは何か

       無智とは何か。これは非常に奥が深い。これを理解することは、仏教の精髄を理解することに等しい。仏陀とは、無智を超えて、智慧(智恵)を得た者とされる。よって、無智と智慧は対極的な概念であり、この二つを理解することは、仏陀とは何か、その悟りとは何かを理解することでもある。
       無智を一言で説明することは難しい。一言で説明してしまうと、逆にそのエッセンスが理解できない面がある。よって、本書では、無智を説明するために、様々な表現を使う。しかし、その表現はすべて同じことを意味している。


    3 伝統仏教の無智の説明

       まず、無智とは、物事をありのままに(正確に)認識することができないことをいう。ではありのままに、正確に認識できないというのは、どういうことであろうか。
       伝統的な仏教的な表現をすると、たとえば、無智とは、仏教の根本哲学である縁起の法を理解できず、それに基づいて事物を理解できないことと表現できる。なお、縁起の法とは、あらゆる事物が、他に依存し、相互に依存し合って存在しているというものである。
       また、無智とは、同じく仏教の根本哲学である空の思想を理解できず、あらゆる事物が空であることを理解できないこととも表現される。空とは、固定した実体がないことという意味であり、仏教(特に大乗仏教)では、あらゆる事物は固定した実体がないと説かれる。
       この縁起と空の二つの思想は、本質的に一体であり、同じことを言っている。なぜならば、縁起の法が説くように、あらゆる事物が他に依存し、相互に依存し合って存在しているならば、あらゆる事物は、他が変われば自分も変わり、自分が変われば他も変わるという関係にあり、その結果、空の思想が説くように、あらゆる事物は、固定した実体がないという結論となるからである。
       逆に、仏陀の智慧とは、あらゆる事物が縁起(相互に依存)しており、空である(固定した実体がない)ことを理解する強靱な認識力であると表現されることがある。


    4 簡明な無智の説明 (1) 自と他の区別

       このように無智を説明したとしても、皆さんの日常生活に役立つ智恵にはならないだろう。そこで、上記の意味をより噛み砕いた形で、無智の意味を説明した表現を紹介したいと思う。
       そうした無智の説明としては、「自と他の区別をする無智」というものがある。これは、人が、自己と他者・外界、例えば、自分と他人が、本質的には繋がっているにもかかわらず、それを別のものだと錯覚することを意味している。本当は一体なのに、別のものだと錯覚することを無智と言っているのである。
       その当然の結果として、この無智の状態にある人は、他人よりも自分に執着する状態に陥る。これが自我執着などと呼ばれている。具体的には、自分自身に加え、自分の物に執着するのである。
       なお、この応用編として、本当の自分は、自と他が繋がっていると認識しているのだが、その本当の自分を見失ってしまっていることを「根本的な無智」という場合がある。これは、まず、本当の自分を見失う根本無智があって、そのため、次に、自と他を区別する無智が生じるという理論である。
       さて、この自と他を区別する無智は、自と他の幸福を区別する心に結びつく。わかりやすく言えば、自分と他人の幸福は一体ではなく、別のものであるという意識である。自分の事だけを考える、エゴの心の働きである。


    5 簡明な無智の説明 (2) 目先の楽へのとらわれ

       また、別の無智の説明としては、「目先の楽を求める心の働き」という表現もある。これは、実際には、目先の楽の後には苦しみがあるにもかかわらず、その楽の部分しか見えず、裏の苦しみの部分がわからない心の状態である。
       これは、仏教が説く、苦楽表裏という思想と繋がる。すなわち、楽の裏には苦しみがあり、苦しみの裏には楽がある、という思想である。この視点からは、無智とは、苦しみを伴わない楽があるという錯覚(および、楽を伴わない苦しみがあるという錯覚)のことを言うのである。わかりやすく言えば、(人生は)楽があるから苦があって、苦があるから楽があるということである。
       以上の二つの簡明な無智の説明は、両方とも縁起の法と合致する。自と他を区別する無智は、自と他が相互依存の関係であることを理解しない状態である。楽があるから苦があり、苦があるから楽があることを理解しない無智は、楽と苦が相互依存の関係であることを理解しない状態である。


    6 簡明な無智の説明 (3) 今の自分さえよければいい

       さて、さらに噛み砕いた無智の説明をしたいと思う。それは、「今の自分さえよければいい」という心の働きである。
       前項で述べたとおり、自と他を区別する無智は、他よりも自分に執着する自我執着をもたらし、自分と他人の幸福を区別することにつながる。これをわかりやすく言えば、「自分さえよければいい」という意識である。
       次に、目先の楽にとらわれる無智とは、わかりやすく言えば、「今さえよければいい」ということである。よって、この二つの無智の説明を組み合わせて、わかりやすく表現すれば、無智とは、「今の自分さえよければいい」という心の働きと表現できる。
       このように無智を理解することは、人の様々な心の問題・煩悩・苦しみの根本原因を理解する上で非常に役立つので、ぜひ頭に入れておいていただきたい。


    7 簡明な智慧の説明

       それでは、無智の簡明な説明に基づいて、仏陀の智慧(智恵)というものを簡明に説明するとどうなるか。それは、「今だけではなく、長期的に(全体的に)、自分だけでなく、他と共に、幸福になることが、真の(自分の)幸福である」と理解している意識ということになる。
       これを噛み砕いて表現すると、第一に、目先の楽だけではなく、後先を見渡した長期的・全体的な幸福が重要だと理解していること。第二に、本当の(自分の)幸福とは、他人と共に幸福になることで、自と他の幸福は、本当は一体であると理解していることである。
       しかし、我々は、なかなかこのように思えないし、仮に頭ではわかっていたとしても、実際には、なかなか、このようには行動できないものである。そして、それは、無智が心を覆っているからだと仏教は説くのである。


    8 智慧と慈悲の一体性

       そして、智慧が生じるならば、慈悲が生じる。なぜならば、智慧とは、自と他の存在を一体と見て、自と他の幸福を一体と見る意識状態であるから、自ずと万物への愛が生じるのである。
       さらに、目先の楽にとらわれず、長期的な幸福を考えるため、他と共に幸福になる道をコツコツと地道に歩んでいこうとする。仏陀・菩薩は、すべての人々・生きものを救うために、延々と利他の実践に励もうとすると説かれているが、それは仏陀・菩薩の智慧から生じた慈悲であり、別の言葉では、菩提心と呼ばれている。


    9 無智から生じる貪り

       では次に、無智から生じる貪りについて説明したい。これは、自分にとって好ましいと感じるものを求める心の働きである。
       一見して、これは問題がないように思えるかもしれない。しかし、なぜ問題かというと、先ほど述べたように、目先の楽の後には苦しみがあり、自分にとって好ましいと思っても、それにとらわれて求め過ぎると、苦しみを招くからである。
       よって、より正確に言えば、貪りとは、単に自分に好ましいと感じるものを求めることではなく、それにとらわれて、生きていくに必要以上に貪り求める状態ということができる。そして、実際に、人は、この貪りの状態に非常に陥りやすい。
       たとえば、財や富、名誉や地位といったものへの欲求は際限がない。いくら得ても、もっと欲しくなる。そのため、求めて得られない場合の苦しみ、得たものを失う苦しみや不安・恐怖、さらに、他人と奪い合うことによる怒り・憎しみ・妬み・不安・恐怖といったものが生じる。これらの苦しみは、得れば得るほど逆に大きくなるのである。
       よって、仏教では、苦楽表裏と言う。得れば得るほど苦しみも増える。すなわち、楽の裏には苦しみがある。すなわち、多くを得た者の重たさ・苦しみである。逆に、それほど得なければ、そうした苦しみは生じない。すなわち、得ていない者の気楽さである。
       こうして、貪りは苦しみを招くものとされる。


    10 無智から生じる怒り

       さて、無智から生じる怒りとは、ある意味で、貪りとは正反対のものである。すなわち、これは、自分にとって好ましくないと感じるものに対する心の働きである。まとめれば、好ましいと思う(錯覚する)ものに対する心の働きが貪りであり、好ましくないと錯覚する者に対する心の働きが怒りである。
       なお、この怒りは、よりわかりやすく言えば、嫌悪と言った方がよいかもしれない。好ましくないと感じるものに対する嫌悪である。ただ、伝統仏教の表現では、瞋=怒りと訳されることの方が多い。
       この怒りも、一見して問題がないように見える。好ましくないもの、苦しみだと感じるものに対して嫌悪する、怒るのは当然ではないかと思うかもしれない。
       しかし、貪りの問題と同じように、好ましくない、苦しみだと感じるものの裏側に、好ましい要素、喜びの要素があるのである。よって、怒り・嫌悪が強いということは、苦しみの裏側にある喜びには気づかないということなのである。
       ここで、「仮に、苦しみの裏側に喜びがあっても、苦しみもある以上は、それは要らないから、苦しみをもたらすものに対しては、私はやはり怒るのだ」と考えるかもしれない。しかし、実際には、それでは苦しみが消えない場合が多いのである。
       たとえば、逃げ切れない苦しみである。どんなに怒り・嫌悪しても、それから逃げられない苦しみがある。たとえば、人間関係の苦しみのほとんどは、家族や、学校・会社の友人・知人など、嫌だからといっても簡単に離れられない人との間に生じる。
       さらに、この怒りは、貪りの対象と共に生じることが多い。そのため、貪りを捨てなければ、どんなに怒っても苦しみは続くのである。先ほど述べたように、何かにとらわれ、貪り求めれば、求めても得られない場合や、得た者を失う場合や、他と奪い合う場合に、苦しみが生じる。そして、この苦しみと共に怒りが生じるが、この苦しみは、どんなに怒っても、貪りを和らげなければ解消しない。


    11 苦の裏の楽に気付いて怒りを超える

       そこで、仏教は、こうした苦しみには、悪いことばかりではなく、良い面があると説くのである。
       例えば、こうした苦しみの経験によって、人は、過剰なとらわれ・貪りを解消する方向に導かれるという。それが解消できたならば、より自由な幸福な心の状態になるのである。
       また、こうした苦しみによって、人は、貪り奪い合うのではなく、他と分かち合うことこそが、真の幸福であると悟る時が来るという。
       こうして、苦しみの裏側には、自分にとって好ましい面、喜びがあると気づくならば、苦しみと怒りが和らぐことになる。


    12 仏陀・菩薩の広い心、平等心

       一方、無智を超えて、智慧を有する仏陀・菩薩とは、特定のものに対する過剰な貪りや、特定のものに対する過剰な怒りを超えて、万物への愛(大慈悲・菩提心・博愛)を有している者である。
       この心の働きは、万物を分け隔てなく愛することができるという意味で、平等心と呼ばれることもある(仏教用語では捨の心ともいう)。言い換えれば、非常に広い心、究極的には、世界・宇宙全体に広がった、広大無辺な心である。
       この象徴として、仏教には、宝生(ほうしょう)如来という仏がいる。平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)という智慧を持っているとされる仏で、万物の平等性を悟っているとされる。また、阿弥陀如来にもそのイメージがある。南無阿弥陀仏の念仏や、世界遺産の宇治平等院で祭られていることで有名だ。その念仏を唱えるならば、悪人さえも救うといわれる。
       阿弥陀如来の化身とされる有名な観音菩薩も同様である。観音菩薩は、別名を観自在菩薩といわれる。そして、千の手を持つ観音菩薩は千手観音といわれるが、その千の手には千の目があり、すべての生き物を見守っているという。


    13 目覚めた人・仏陀

       こうした仏陀・菩薩は、まさに仏典の物語に出てくる(おそらく架空の)超人的な存在であって、私たち人間の手の届く境地ではないだろう。しかしながら、私たちも、自分だけのことばかり考える心の働きを乗り越えるならば、自分の身の回りの人から、友人・知人、さらには、その他の多くの人や生き物の苦しみを思うことは可能である。
       特に、情報通信技術が飛躍的に発達した現代では、昔の人から見るならば、私たちは、千の目を持っている存在といえるかもしれない。問題は、それを持ちながらも、毎日、自分のことしか考えていなければ、目が開いておらず、眠っているのと同様である。
       仏陀という言葉は、覚者とも訳されるが、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味だ。仏陀でない普通の人は、夢者とも表現される。自分のことばかりにとらわれていれば、体の目は持っていても、実際には世界のほんの一部しか見ることはないから、事実上、眠っているのとほとんど同じであろう。体の目に加え、心の目が開かれてこそ、真に目覚めた人になるのではないだろうか。


    14 仏陀・菩薩の息の長い努力

       前に述べたように、目先の楽に偏らず、苦と楽が表裏であることを理解する仏陀の智慧は、息の長い努力をする特性がある。
       目先の楽の裏側には苦しみがあり、苦しみの裏側には喜びがある。ということは、真の幸福は、さほど簡単に得られるものではなくて、コツコツとした地道な長期的な努力によって得られることを示している。
       そして、仏陀の智慧とは、「今の自分さえよければいい」という無智を乗り越えて、「長期的に、他と共に幸福になることが、本当の幸福である」と理解している。非常に広い心を持って、皆と共に、息の長い努力によって、幸福になろうとする心構えである。
       伝説の弥勒菩薩などは、地球のすべての人々を救済するために、何十億年も修行するといわれている(一説に56億7000万年)。あえて身近な格言で表現すれば、これでは足りないかもしれないが、「ローマは一日にして成らず」ということだろうか。
       しかし、我々には、「すぐに幸福になりたい、成功したい」、という気持ちが起こりやすい。言い換えれば、「楽して幸福になりたい、努力はなるべくしたくない、怠けたい」という心の働きである。格言で言えば、「急いては事をし損じる」である。
       巷には、すぐにでも幸福になれる、誰もが成功するなどと宣伝し、多額の料金を取るものもあるが、これらは、目先の楽に飛びつく私たちの無智の煩悩を利用している商売のようにも思える。


    15 真の力は、破壊力ではなく継続力

       そして、長期的な地道な努力こそが、真の力ではないかと思う。つまり、忍耐力・継続力である。よく「継続は力なり」といわれる。
       一方、力には、いろいろな種類があって、人によっては、怒りの力とか、攻撃力・破壊力の方を重視するかもしれない。
       怒りにもいろいろあり、すべてを否定するつもりはないが、悪い意味での怒りは、忍耐力・継続力と対極にあるものだ。怒りを乗り越える力が忍耐力であり、怒りでキレずに辛抱強く努力し続けてこそ、継続力に繋がる。
       そして、前に述べたように、悪い意味での怒りは、苦しみに対して、その裏側に喜びがあることを理解できずに生じる心の働きである。
       逆に、その裏側の喜びを理解すれば、今の苦しみに忍耐することができる。そして、地道な継続的な努力によって、苦しみの裏側の喜びを引き出していくことができる。無執着や慈悲といった悟りの境地は、そうした努力によって実現されるものだろう。
       これは、世俗の世界にも通じる真理ではないかと思う。たとえば、戦国の覇者でいえば、織田信長は、破壊力に長けていたと思う。今川を破った衝撃的な桶狭間の急襲、武田を滅ぼした革新的な三千丁の鉄砲隊。
       しかし、最後に天下を手中に収めたのは、辛抱強さ・息の長い努力に優れていた徳川家康だった。気性が激しいといわれる織田信長らは、その性格からか、家臣の謀反で絶命した。信長を引き継いで天下を統一した秀吉も、寿命が足りず、自分の子孫は続かなかった。
       一方、家康は、その名の通り、健康によく留意し、辛抱を続けた。そして、49歳で没した信長や62歳の秀吉と異なって、76歳の天寿を全うし、徳川幕府は世界史で他に類を見ない、260年の長き太平の世を実現した。その寿命の違い、忍耐力・継続力の違いが、三人の命運を分けたのではないだろうか。
       怒りの力と関係する破壊力・攻撃力は、ある意味で、瞬間の力、一瞬の力である。一方、忍耐力・継続力と関係するのは、「時」というものの力である。時と共にすべては移り変わり、大器は晩成するという。その意味でも、それは大きな力ではないかと思う。


    16 広く長い心:時空間に広がる仏陀の心

       こうして見ると、仏陀の智慧・慈悲とは、世界・宇宙全体(の生きもの)に広がった心を持って、一生の間(ないしは未来永劫ともいうべき)息の長い努力を続けようとする心の働きということができると思う。短くいえば、空間と時間全体に広がった心、時空間一杯に広がった心である。
       私たちがこの境地に到達することは到底できないだろうが、できるだけ広い心を持って、一生の間努力し続ける心構えは重要である。それは、怠惰や焦りから解放された、広くて、どっしりとした心の状態であろう。

心の安定と幸福・人間関係の智恵

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    第1章 不安や恐怖を和らげる


    1 はじめに

      物質的には豊かになった現代社会でも、私たちの人生には、さまざまな不安が付きまとっています。例えば、仕事、経済、人間関係、健康、老後・死の不安など。そして、最近は、不安神経症・強迫観念症の人も目立ってきました。
      これは、物や技術が豊かになっても、人の心の不安は、解消されないことを示しています。そこで、本章では、不安や恐怖を和らげる方法を解説したいと思います。


    2 不安と欲求は比例する

      まず、不安は、欲求と比例して大きくなります。「こうしたい」、「こうでなければならない」という欲求が多ければ多いほど、「そうならないのではないか」という不安も増大します。
    私が、仏教哲学を研究した結果としては、欲求の増大とともに、以下のような不安・苦しみが生じます。まず、欲求には際限がありません。満たしても満たしても、「もっともっと欲しい」と思うのが、人間の心です。そのため、第一に、必ず欲求が満たせないという苦しみが生じます。その前に、「満たせないのではないか」という不安が生じます。
      第二に、何かを求めて、それを得たとしても、そのために、逆に、「それを失うのではないか」という不安が生じます。そして、場合によっては、実際に失う苦しみが生じます。
      第三に、求めれば、多くの場合、同じものを求める他人と争い・奪い合いになります。そこで、「他人に負けるのではないか」、「奪われるのではないか」、という不安・苦しみが生じます。また、「憎まれるのではないか」、「妬まれるのではないか」、といった不安・苦しみも生じます。
      これらの人生の不安・苦しみに加えて、人間には、老い・病み・死ぬという根本的な苦しみ・不安があります。そして、これらの人間の抱える苦しみ・不安全体を表現したものが、「四苦八苦」という言葉の本来の意味です。これは、そもそもは仏教用語だったのです。


    3 欲求と不安を自己管理する

      もちろん、欲求と不安がすべて悪いと言っているのではありません。欲求と不安が全くなければ、何かを実現したり、改善したり、問題を察知して解決したりすることもできません。これまでの人類の発展もなかったでしょう。
      しかし、強すぎる不安は、逆効果となります。焦りや緊張が強すぎれば、逆に目的を達成することができません。また、不安に押しつぶされて萎縮し、非常に消極的な生き方に陥る場合もあります。また、人によっては、不安を持つ必要がない些細なことにも、不安を持つ場合があります。いわゆる、不安神経症とか、強迫観念症とも言われる状態です。
      よって、欲求と不安が大きくなり過ぎないようにする必要があります。つまり、自分で、欲求と不安の量をコントロールできるようになることが望ましいと思います。


    4 とらわれを減らす

      さて、これまでにお話ししたとおり、不安が強すぎる場合は、欲求・とらわれを減らすことが、その一つの解決策となります。
      しかし、これには多少のハードルがあります。不安が生じるということ自体が、欲求に執着している、とらわれている状態だからです。簡単に欲求を減らせるならば、不安が強すぎる状態にはならないからです。
      そこで、不安が強すぎる場合は、落ち着いて「今自分が望んでいるものは、そのすべてが必要なものだろうか」と考えてみるとよいと思います。例えば、

      「それは皆、今、絶対に必要だろうか。もう少し後でもよいのではないか。
      焦りすぎてはいないだろうか。」

      「それは皆、自分が健やかに生きていくために必要だろうか。
      十分に恵まれているのに、欲張っているのではないか」

      などと、自問してみます。
      そうすると、多くの場合、必要以上のものを求めていることに気づきます。そして、少しだけ、自分の欲求・とらわれを減らすように、自分に言い聞かせます。そして、これがうまくできれば、心が落ち着きます。


    5 腹八分目の精神

      とはいっても、とらわれを減らすことは、なかなか難しいものです。例えば、「求めることをやめてしまったら、幸福になれないのではないか」という思いも生じます。これは当然のことでしょう。それが、まさに「とらわれ」というものだからです。
      しかし、必要なことは、欲求・とらわれのすべてを捨てることではありません。それを「少しだけ」でいいから、節約することです。そして、客観的に見れば、とらわれによる不安が強すぎる場合は、それに押しつぶされてしまい、逆に不幸になろうとしているのです。落ち着いて考えて、これに気づき、自分に言い聞かせることが重要です。
      よく、「腹八分目に医者いらず」と言います。これは、食べたいと思う量の8割くらいまでにしておく、ないしは満腹の一歩手前でやめておくと、健康を守ることができるということですね。そして、この腹八分目の精神は、体の健康のみならず、心の健康にも役立つものだと思います。食べ物も、「こうしたい」という心の欲求も、多すぎれば、不幸を招くのです。
      言い変えれば、人間は、多くの場合、幸福になるために必要なものを100パーセントではなく、120パーセントくらい求めてしまうものだと思います。そうした時に、不安が強くなる場合があります。これをよくわきまえ、必要な時に、内省してみるとよいと思います。


    6 とらわれない方がうまくいく智恵

      そして、古来の格言・ことわざや、仏教哲学を学んでみると、とらわれ過ぎない方が物事がうまくいくとか、幸福になるという智恵があることがわかります。
      例えば、「急がば回れ」、「急いては事をし損じる」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言があります。武術や競技の世界でも、「肩の力を抜け」、「勝つと思うな、思えば負けよ」と言われます。
      これは、欲求・とらわれが強すぎると、焦り・緊張・不安が強くなりすぎ、逆にうまくできなくなることを示しています。そうした時に、少しだけ、とらわれを節約すると、逆にうまくいくのです。
      私も、人前で講話をする時に、うまく話せるかが不安になることが、時々あります。そうした時は、「うまくやろうと思わない方(思いすぎない方)がうまくいく」と自分に言い聞かせることがあります。そして、今までの経験で、本当にそうだと思っているので、そのように言い聞かせると、すぐに心が落ち着くようになりました。


    7 無心・無我の境地が最強という智恵

      そして、この延長上に、仏教の悟りや、武術の達人の境地として、いわゆる無心・無我の境地というものがあると思います。
      武術の達人は、相手に勝つこと(負けないこと)を目的としています。しかし、あたかも「勝ちたい」という欲求がないかのように、心が静まっている状態こそが、最強・無敗の境地であるということです。これは、静まった心こそが、相手の動きを最も正確に読み取ることができるし、自分の体も、緊張なく最もスムーズに動くからではないかと思います。
      仏教では、心が静まると、物事をありのままに見ることができると説きます。これは、有名な「止観」という教義です。「止」と「観」とは、「心が止まると、物事を正確に観ることができる」という意味です。
      そして、物事をありのままに見ることができる、という意味の中には、単に正確な分析力・判断力だけではなく、いわゆる直観・ひらめき・インスピレーションといった高度な知性が含まれています。心が静まった状態でこそ、直観が生じやすくなるのです。


    8 捨てた後に、舞い込んでくる幸福

      よって、とらわれを捨てた後に、逆に得られるものがあるのです。「うまくやろう」と思い過ぎるとらわれを捨てて、心が静まった結果として、正確な判断力・直観が生じ、逆に物事をうまく行う智恵が生じるということです。
      また、単に自分の判断力や、直観が改善するだけでなく、実際に、自分の周囲の流れが良くなると感じる場合もあります。例えば、とらわれている間は、なかなか得られなかったものが、とらわれを捨てたら、逆に舞い込んできたと感じることです。
      これはあたかも、幸福を求めて幸福になるというのではなく、幸福があちらから舞い込んでくるような感覚です。まさに、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」といった格言の背景にあるものかもしれません。
      不思議なことですが、この現象を合理的に説明できる面もあります。例えば、何かにとらわれるあまり、ガツガツしていれば、他人との良い関係は得にくくなります。「友達が欲しい」、「恋人が欲しい」、「顧客が欲しい」、「取引先と良い関係を得たい」と思っても、空回りしてしまいます。とらわれを弱めて、振る舞いに落ち着きや明るさが出てくれば、他との良い縁が得られやすくなります。何事も自分の力だけでは成せないものですから、これは重要だと思います。
      また、とらわれが強く、焦りがある場合は、時間が長く感じられて、「いつまでたっても、うまくいかない」と感じます。しかし、とらわれを弱めて、今できることに集中していると、その間に、求めていたものが得られることがあります。こうした場合も、幸福が舞い込んできたと感じるものでしょう。


    9 バランスが重要。釈迦牟尼の中道の思想

      繰り返しになりますが、これまでのお話は、欲求・とらわれをすべて捨てるということではありません。適度な欲求を持つ、欲求の量を管理するということです。欲求が、多すぎず、少な過ぎず、バランスが取れていることが最善だということです。
      欲求が全くなければ、何の進歩・改善もありません。仏教で言えば、釈迦牟尼も、真の幸福を求めて、修行に入り、悟ったとされます。また、そもそも、人間が生きるためには、生存欲求が必要です。これを捨てるということは自殺を意味します。宗教で言えば、苦行の果てに死ぬことを解脱と誤解した一部の昔の修行者のケースです。
      その一方で、欲求・とらわれは、多ければ多いほど、多くのものが得られる、幸福になる、というわけでもないことが、重要なポイントです。全く欲求がなければ、得ることはできませんが、逆に多すぎれば、空回りするばかりか、逆に得られにくくなるということです。さらには、心身を病んだり、周りが敵ばかりに見えてきたりする場合さえあります。
      そこで参考になるのが、釈迦牟尼の中道という思想です。釈迦牟尼は、王子として生まれました。よって、修行を始める前に、王子として欲楽を極める生活をしたと思います。その後、修行に入って苦行を行いました。それは、極度の断食など、死の間際まで自分の体を痛めつけるものでした。
      その結果、釈迦牟尼は、このどちらの生き方も、真の幸福・悟りに至るものではないと悟り、どちらにも偏らない「中道の教え」に目覚めたとされます。それは、欲楽にふけるものでもなく、いたずらに体を痛めつけるものでもなく、心を静めた平安の境地(涅槃)を目指すものでした。


    10 とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観

      ここで、仏教の哲学の中で、とらわれを減らすために役立つ人生観・世界観をご紹介したいと思います。その代表的なものが、無常と慈悲の思想です。
      まず、無常とは、世の中のすべてが移り変わり、生じたものは滅するということです。私たちは、いつか必ず死にます。死ぬときは、それまでに得たものはすべて失います。だとすれば、例えば、「お金・名誉・地位などに、あまりにガツガツして生きることに、絶対的な価値があるのだろうか」と考えることができます。
      実際に、あまりにそうしようとすれば、犯罪さえも犯しかねず、実際に、そうした事例が毎日報道されています。それは著名な政治家・事業家にまで及んでいます。そのため、死んだ後に汚名を残す場合もあります。
      これに対して、自分がいずれは死んで、得たものすべてを失うことを意識することは、有益だと思います。こうして人生を長い目で見ると、目先のものへのとらわれが弱まり、本当に重要なことが何かが見えてくるのではないでしょうか。
      なお、仏教では、人は、「自分」と「自分のもの」にとらわれると説きます。それぞれを我執(がしゅう)・我所執(がしょのしゅう)と言います。お金や地位や名誉といった「自分のもの」に対するとらわれは、「自分」に対するとらわれが土台になっています。よって、「自分」を失う「死」を意識することで、「自分のもの」に対するとらわれを弱めるのです。

     

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    1 ひかりの輪の内観:仏教と融合した新しい内観実践の思想


    (1)仏教と内観の一致点


    1.自分が多くの人に支えられていることや、多くの幸福を与えられていることを認識し、感謝すること

       仏教の教義と内観が一致するところは、日頃認識することが少ないが、実際には、自分が、肉親・友人知人をはじめとして、多くの人々に支えられて生きていること、多くの幸福をすでに与えられていることを理解することである。これは、仏教の教義においては、縁起の法、唯識の依(え)他(た)起(き)性(しょう)の教義に関係する。
      現代社会に生きると、恒常的に欲求不満を作り出す構造を持つ資本主義社会の中で、「もっともっと」と求める(=貪る)心が強くなりがちで、すでに与えられているものの大きさを認識し、それに感謝することが非常に乏しい。こうして、感謝・満足よりも、貪り・不満が強くなってしまうのである。
       仏教的に言えば、これは、学習実践上の重要な課題である貪りの止滅である。それは生きていく上で必要以上のものを貪らず、他と分かち合う(他に施す)ことである。そして、この貪りを止滅するためには、まず、貪りに際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみであることを理解する必要がある。
       まず、貪りに際限がない理由は、人が感じる幸福・不幸が、比較によって生じる幻影であるからだ。例えば、今まで10万円の給料だった人が、給料が20万に上がると、上がった直後は喜びを感じるが、それに慣れてしまうと、それが当然のことになり、喜びがなくなり、もっともっとと求める心が生じる。再び喜びを感じようとして、もっと高い給料を欲するのであるが、その欲求が満たせないと苦を感じる。
       さらに、給料が元の10万に戻ると、大きな苦しみを感じる。最初は10万円で足りていたのに、得たものに対する執着が生じるがために、失う時には、苦しみが生じるのである。これは、四苦八苦の教えに説かれているものである。
       こうして、貪りは際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみをもたらす。このことを理解したならば、もっともっとと求めるのではなく、すでに与えられているものに感謝して貪りを止滅することが、真の幸福の道であることがわかる。
       さらに付け加えると、単に与えられていることへの感謝と貪りの止滅だけではなく、自分より恵まれない他者と分かち合う慈悲の実践によって、貪りはさらに止滅していく。
       そして、内観によって、いかに自分が支えられ、いかに多くの幸福を与えられてきたかについて、客観的に自分自身を調べて、それに感謝することは、貪りを和らげ、慈悲・利他の心を培うために、非常に有効な実践である。


    2.感謝に基づいて恩返しの心構えを持つこと

       感謝の実践が深まれば、それに伴い自ずと生じてくることが、恩返しの実践である。自分が支えられ、多くを与えられていることを認識すれば、自然と、自分も同じように他を支えて、与えることを考えるようになる。
       ところが、人は、親については、支えてもらう、養ってもらうことを当然としているために、自分が親にして返したことについて考えてみると、驚くほど少ないことに気づく場合が多い。これは、親と同様に、自分が依存すること、甘えることを当然としている対象に対しても生じやすい。
       よって、内観によって、親や親に類する依存の対象について、何をして返したかについて、客観的に自分自身を調べることは有効である。

       また、仏教では、慈悲・利他の実践が強調されるが、その実践が、他を見下した傲慢な心の働きによって行われる場合がある。この場合、物質的な意味では、他に施しをしたとしても、慢心の貪りを生じさせている。
       これを防ぐためにも、自分は様々な意味で他に支えられてきたのに、他にして返したことが乏しいことを自覚することが有効である。こうすることで、自分が偉いから他を利するというのではなく、他に多くを与えられてきたことに対する恩返しとして、他を利するという実践をすることができるからである。

       そして、この実践は、内観によって、自分が他に迷惑をかけたことについて、客観的に調べることによってさらに深まっていく。感謝が少なく、不満が多い場合は、知らず知らずに、自己中心・身勝手な心によって、他に迷惑をかけているものである。
       また、他に文字通り迷惑をかけていなくとも、他から与えられていること自体が、それは、他がなんらかの労苦を背負っているわけであり、他に迷惑をかけていると解釈することもできる。仏教の教義では、ある人の(煩悩的な)幸福は、多くの場合、その裏で他の苦しみが伴う場合が多いと説いている。
       こうして、自分が他にかけた迷惑を認識すると、傲慢な気持ちで慈悲・利他の実践をすることはおろか、恩返しとしてそうすることさえも超えて、いわゆる贖罪=悪業の清算として善業を積ませていただくという極めて謙虚な心構えが実現する。
       これは、非常に仏教的な生き方の実践となる。仏教においては、慈悲・利他の実践とか、善業・功徳を積む実践とは、それまでに自己中心的な心の働きによって積み重ねてきた悪業を清算して、自我執着を弱め、悟りのための土台を作る、自己の浄化の実践にほかならない。


    3.三つのレベルの内観:仏教と内観の融合

       ひかりの輪では、一般の内観をさらに発展させて、三つのレベルの内観のステージがあると考えている。
    まず、第一のレベルの内観が、通常の内観であり、肉親や友人・知人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを調べて、彼らに対する感謝と恩返しの実践を深めることである。
       しかし、仏教的な悟りを求める場合には、このレベルの感謝と恩返しを超えて、第二のレベルとして、人類社会全体への感謝と恩返しの実践に入る必要がある。
       私たちは、日々生活する上で、友人知人に限らず、無数の人々に支えられている。特に現代社会では、分業が進んでいるから、無数の人が互いに支え合って生活しており、自分や知人の力だけでは、1日として生活することはできない。
       自分の衣食住から通勤・通学、そして学習実践などを支えている存在は、単に日本の1億人にとどまることなく、遠く外国から輸入される様々な食料や製品、物資や資源・エネルギーから、そして日本の輸出品を買う多数の外国、そして、モノに限らず、世界中を結ぶ金融・情報のネットワークに至るまで、経済のグローバル化が進んだ今現在は、地球の60億全体が相互に支え合って生きていると言っても過言ではない。
    大昔は、東京がなんらかの原因で壊滅しても、日本の他の地域の人達は生活に困らなかっただろうが、今は東京の壊滅は日本全体の崩壊に繋がるだろうし、実際にアメリカの金融危機は、世界中を同時に大不況に陥れるほどに、人類社会の相互依存が深まっているのである。まさに、人類社会全体が相互依存の状態、相互に縁起・依他起性の状態である。
       しかしながら、こうして人類社会全体に支えられているにもかかわらず、日本をはじめとする先進国においても、自国の利益の追求=貪りが強まっているために、人類社会全体に対する感謝の気持ちや、それに基づく恩返しは乏しい状態である。それは、10億ほどの先進国が世界の富や財の多くを独占し、飽食にふける中で、それと同じほどの途上国が貧困と飢餓・病苦などに苦しんでいることからも明白である。

       さらに、仏教的な悟りを求めるためには、第三のレベルの内観として、全ての生き物、全ての衆生、万物への感謝と恩返しの実践が必要である。私たち人間は、人間社会だけで生きることができているのではなく、地球の生態系の中で、多くの生き物の犠牲の上に生きている。
       それは、生き物に限らず、空気・水を含めた地球の生命圏全体、そして、遠くは太陽の光も必要不可欠であり、それを支える太陽系、そして太陽系の支える銀河系・宇宙の全体に支えられて生きている。
       こうした大自然・大宇宙・万物に支えられて生きているという認識は、仏教が説く縁起の法や唯識の依他起性の教えや、大宇宙を、衆生を育む仏陀の母胎であると説く胎蔵界の思想にも通じるものである。
       この認識が深まると、自分というものが、宇宙・万物・全体から生み出され、全体に支えられ、全体の一部として、全体と一体になって存在しており、自然の与える寿命が来たならば死んで、自分の体は他の生き物の体になっていく、といった認識が生じる。
       これによって、自我に対する執着が弱まり、自と他の区別を超えて、無限の全体こそが本当の自分ではないか、といった認識も生じ、万物への愛・慈悲が深まっていく。こうした自我執着の弱まりと慈悲の増大こそが、まさに仏教の悟りのプロセスである。
       そして、全ての衆生・万物への感謝に基づいて、万物に恩返しようとする心の働きは、大乗仏教で最も重要な心構えである菩提心と関係してくる。菩提心とは、全ての衆生の幸福のために、仏陀の境地を求めようとする菩薩の心である。


    4.内観と聖地巡りの融合

       以上のように、内観を発展させると、大宇宙・大自然への感謝と一体感に行き着くが、これを体験的に培うのが、聖地巡りであり、発展的な内観の実践と組み合わせることが望ましい。
       発展的な内観の実践によって、理性を使って、自己存在の土台・根源として、大自然・大宇宙をとらえなおした上で、感謝と一体感をもって、大自然と向き合うならば、大自然と融合する仏教的な悟りの意識状態に近づきやすいということができる。
       現代社会に生きる人は、実際には大宇宙・大自然に支えられ、その一部として生きているにもかかわらず、そういった自覚がなく、自分と自然を切り離して区別し、自分だけの力で生きているかような錯覚をなしている。
       その結果として、他人や他の生き物・自然を害するような、自己中心的な生き方をして、地球環境問題まで起こしてしまっている現状がある。よって、仏教的な悟りを得るためには、こういった、自と他を区別し、自分と大自然を区別する心の働きを浄化し、大自然の一部としての自分を再認識することが望ましい。
       そして、私の体験上は、例えば、上高地などの純粋な自然・聖地は、現代社会の人々が陥りやすい、そういった自己利益の貪りや、貪りに基づく争いの心が静まって、純粋な自然が有している、他との調和・慈愛の心を培う体験をしやすいと思う。


    (2)内観と親子関係の問題


    1.オウム真理教と親子問題

       ひかりの輪においては、昨年、オウム真理教事件の総括を行い、その中で、元教祖や弟子たちの親子関係に関する問題が、オウムの問題の背景にあったのではないかという分析をなした。さらに、今年に入って、親子関係を含めた内観を行ない、スタッフ・会員が抱える親子関係の問題が、より明確になってきたように思う。
       そもそも、オウム真理教の麻原元教祖は、その幼少期に親との関係において、不遇を経験したと思われる。ジャーナリストが幼少期の元教祖を取材した内容を出版しているが、そこには、全盲ではないのに、無理に全寮制の盲学校に転校させられた不満、学校の友達と違って親が休日に会いに来ることがなかった事実、親が自分に対する国の交付金を生活費に回そうとしたことへの怒り、元教祖が師事した宗教団体の代表に漏らした親への憎しみなどの事実が報告されている。
       実際に、オウム真理教は、聖母(聖父)といった宗教的な概念がない。釈迦を生んだマハーマーヤ夫人や、イエスを生んだ聖母マリアといったような開祖の親を尊重する教義がない。実際に、マハーマーヤという宗教名は、麻原元教祖の妻(松本知子氏)に一時期与えられるなどしたが、元教祖を釈迦とダブらせるのならば、釈迦の母の名前は、元教祖の母に与え、知子氏には最初から妻の名前を与えただろう。
       また、1990年頃、元教祖は両親に会い、「父親は地獄、母親は餓鬼の世界に転生するから、父親を地獄ではなく餓鬼に、母親を餓鬼ではなく動物に転生するようにポアしておいた。今生はもう会うことはないだろう」と私に語ったことがあった。
       オウム真理教において、地獄・餓鬼・動物の三悪趣に転生する魂は、悪業多き魂とされている。元教祖が解釈したヨハネ黙示録では、キリスト(=元教祖)に従い、キリスト千年王国に入る、善業多き魂である聖徒(オウム真理教の信者)と、キリストと対立して地獄に堕ちる悪業多き魂が存在するが、元教祖の両親は、善業多き魂には含まれないことになる。
       普通の宗教では、救世主を生んだ親は当然の如く尊重されるし、仏教教義でも、出家者を生んだ親には大きな功徳が返るという。オウム真理教でも、元教祖の子供を生んだ女性達は大きな功徳を積んだとされた。これらの事実からしても、元教祖自身を生んだ両親が、三悪趣に落ちるという位置づけであるのは特別に思われる。そこには、元教祖の両親に対する特定の思いが現れているとは考えられないだろうか。
       そして、オウム真理教の教義の大きな特徴であり、最初の社会との対立の主因となったのが、苛烈な出家制度であった。(少なくとも成就者になるまで)親と子の連絡を禁じたこともあって、出家した子供の親による激しい反対活動が起こり、それがオウム真理教の一連の犯罪の原点ともいわれる坂本弁護士事件にも繋がった。坂本氏は、出家した子供の親達のために、教団を批判する活動をしたからである。
       そして、オウム真理教が大量の出家者を得たということは、元教祖だけの人格によるものではなく、その信者となって出家した者においても、その全てではないが、元教祖と同様とまではいかなくても、親に対する感謝や尊重ではなく、否定的な感情があったのではないかと思われる。これは私が知る多くの出家者がそうだからである。
       また、教団と親の対立は、そのまま、教団と社会全体との対立に繋がるものであった。親を含めた社会は悪業多き魂の集団であり、それを脱却してキリストたる元教祖に帰依し従う出家者こそが聖徒であり、救われるとされたからである。


    2.現代社会全体に広がる親子問題

       しかし、私の経験上、この親子関係の問題は、オウム真理教の信者だけの問題ではなく、日本社会全体を覆っている問題に違いないと思われる。むしろ、日本社会全体に広がる親子関係の問題の一部をオウム真理教の信者があぶり出したにすぎないだろう。
       また、私のロシアに関する体験からすると、日本だけではなく、現代の人類社会全体に広がっている可能性もある。彼らの多くは、親子関係が昔よりも悪化していると証言しているからである。
       もちろん、統計を取って、昔と比較したのではないから、昔と比べて多いとは断言できない。しかし、親子の人間関係に問題がある人の割合は非常に多いように思える。そして、子供側に親に対する尊敬・感謝が乏しいと思われる。
       それを裏付ける1つのデータとして、読売新聞が昨年末に実施した全国世論調査の結果によると、親を尊敬していない子は56%、一方、尊敬している子は37%となっているデータがある。半数以上が尊敬していないのだから、親を尊敬しない子の方が普通になっているのである。
       特に、日本ではこの傾向が顕著なようだ。戦後に価値観が崩壊し、天皇や国家の権威とともに、親の権威が崩壊したことも一因かもしれない。財団法人日本青少年研究所による日・米・中・韓で中・高校生を対象にしたアンケート調査(2008年9~10月)によると、

       ①「親の意見に従う」と回答した子どもは、日65.5%、米83.6%、中88.6%、韓83.3%で、日本の低さが際立ち、
       ②「親によく反抗する」は、日57.0%、米26.2%、中11.0%、韓44.9%で、逆に日本が一番高くなっており、
       ③「親はよく私を叱る」は、日66.5%、米36.3%、中33.5%、韓34.3%で、日本の子どもはよく保護者から叱られていると認識されており、
       ④「親はよく私をほめたり励ましたりする」では、日57.8%、米82.9%、中73.4%、韓74.7%で、4カ国中で最低となっており、
       ⑤「親を尊敬している」は、日64.1%、米89.8%、中97.0%、 韓84.2%で日本が最も低く、
       ⑥「親は私を大切にしてくれる」も、日83.7%、米92.4%、中95.5%、韓91.9%と日本だけが9割を下回っており、
       ⑦「自分はダメな人間だと思う」と回答した中学生の割合は、日56.0%、米14.2%、中11.1%、韓41.7%で、日本は5割を超えている。

       歴史や文化が違えば、子育てや親子関係の在り方も異なるといえ、以上の調査では、日本の子どもは、親を尊敬できず、自分自身も尊敬できないという結果が出ている。


    3.心理学や内観などを通した親子問題の分析

       私が、親子関係について、心理学的な分析や内観などを通した経験からして、問題となる親子関係のパターンには、以下のようなものがあると思う。もちろん、これが全てではなく、一部であろうが、最近の指導の体験上、印象深かったものをまとめてみた。

    1.親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。
    2.親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊敬・尊重せずに、反抗ばかりする。
    3.親に過剰に依存し(絶対視し)、自分に劣等感、自己嫌悪を抱く。
    4.親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。
    5.親に対する期待が十分に満たされずに、常に不満・怒りを持つ。

       まず、1については、オウム信者に多くみられるパターンだと思う。何かしらの理由で、親への尊敬、感謝がなく、恨みはなくても、多かれ少なかれ、親に失望している。
       この背景としては、心理学によると、子供は、誰しも幼少の時には、自分が絶対的な存在、特別な存在、世界の中心でありたいといった、誇大妄想的な願望があり(専門用語では誇大自己とも言う)、その願望を満たしてくれる存在として親に深く依存をする、という説がある。
       そして、この願望は、幼少の時に、親がそれを適度に満たしてあげて、成長するにつれて、自分も親も絶対・特別ではないという現実を徐々に受け入れさせ、それを卒業させるのが、子供の健全な発達には良いというのが心理学的な見解のようである。
       幼児であれば、自己中心的な世界観で、あれこれ親に要求しても、それは昔からある自然なものであるし、そうした欲求も、親との狭い世界の中であれば、充足させることが可能である(例えば、子供がアニメのヒーローや、キリストになった、という遊びをするのに、親が付き合うなど)。そして、親に絶対的に依存するのも、自分では何もできない子供にとっては、生きるためにも自然なことであろう。
       しかしながら、心理学的な見解では、幼少の時に、親にこうした願望を満たしてもらえないケースにおいて、大人になっても、誇大妄想的な願望を引きずって、現実的な向上欲求ではなく、誇大妄想的な傾向に陥る場合があるという(心理学的には誇大自己症候群と呼ばれる)。
       そして、親の代わりに、自分が誇大妄想的な願望を満たすことができると思う対象を求めて、誰かがそうだと思いこめば(すなわち盲信するならば)、その対象に絶対的に服従し、そうでなければ、誰も尊重せずに反抗する傾向を示すという。
       こうして反抗するのが、2のケースである。その理由は、その子供は、自分の絶対者願望を満たしてくれる存在のみに、価値を見いだしているからである。
       もし、誇大妄想的な願望ではなくて、現実的な向上心がある場合は、対象が絶対ではなくとも、重要なことを学ぶことができる者ならば十分に尊重できるし、親についても、完璧ではなくとも、その良い点を認めて、一定の感謝・尊敬ができる。
       しかし、誇大妄想的な願望が強いと、そういった健全な学習の姿勢や、他者への尊敬・感謝を持つことは難しくなるというのである。

       また、現代社会では、様々なメディアの情報が、こうした誇大妄想的な欲求を増大させているという問題がある。例えば、アニメ・漫画・SF映画のフィクションの世界もそうだし、バランスを欠いた超能力・神秘主義や、破滅予言・陰謀論などを扱う精神世界の雑誌や書籍もそうであろう。最近は、パソコンゲームやインターネットでも、そういった大量の妄想的なフィクションの情報が増えている。
       こういった情報が氾濫する現代社会の子供・若者は、場合によっては大人も、妄想的な世界観に陥りやすくなっていると思われる。
       そして、オウム真理教の教義には、こうした妄想的な概念が多く盛り込まれていた。絶対神の化身であり、最終解脱者である教祖がいて、教祖に帰依すれば、自分が解脱者・超能力者になり、ユダヤ・フリーメーソンを中心とした悪魔が支配する社会との戦いに勝利して、20世紀末にハルマゲドンで滅ぶ世界を生き残って、キリスト千年王国に入ることができる選ばれた存在になる、といった教義である。
       世紀末の予言が外れた今から思うと、これらの教義は妄想的と思えるが、当時信者となった者達はなぜ信じたのであろうか。自分のケースでもあるが、それは、教祖がキリストであるという確実な根拠を得たからではなく、オウム真理教に巡り会う前から、そもそもが、そういった世界に対する強い欲求・願望があったからではないかと思われる。
       つまり、十分に信じる根拠があったから信じたのではなく、そういった世界があり、そういった教祖がいてほしかったので、それがオウム真理教にあると信じたということではないかと思うのである。
       このオウム真理教の事例からもわかるように、子供の誇大妄想的な願望は、親と子だけが作り出している問題ではなく、親子を取り巻く社会全体の環境が影響していることはいうまでもない。親と子と社会の三者があいまって、問題を作り出しているのである。

       次のケースは、親に失望するのではなく、親を過剰に肯定(絶対視)するケースであり、これが3のケースである。
       1と2のケースは、なんらかの理由で、幼少の頃に、親によって、誇大妄想的な願望を満たせない場合に起こると述べたが、3のケースは、正反対に、大人になっても、親が、子供にとって、絶対的な存在であり続けるというケースである。
       このケースは、子供の親に対する依存が強く、親の子供に対する支配欲が強い場合に起こりやすいと思われる。子供が親に依存するだけでなく、親がいつまでも子供を自分に縛り付けるのである。
       この背景として、親は、子供を支配することで、自己存在意義を満たしている面があり、親の方も、実は子供に依存している心理状態にある。すなわち、親離れしない子供と、子離れしない親の組み合わせである。
       よって、一見そうは見えないものの、親の本質的な性格が、子供と似ているのではないかと私は思う。この場合は、親がまず子離れをする必要があり、子供に自信を持たせたり、自分への過剰な依存・甘えを抑制したりするべきである。ところが、こうした親の場合、子供が自分に依存するように誘導している場合もあるかもしれない。

       そして、このケースにおいては、例えば、実際には親が悪いのに、自分が悪いと思って、自分を責め、その結果、自分に不合理な劣等感を抱く場合がある。こうして、不当に自分を責める背景には、自分の存在意義を深く親に依存してしまっていて、親を否定すると、自分の存在意義が無くなるような場合である。
       例えば、親に認められることで、自分の存在意義を満たしてきた子供は、親が間違っているとなれば、自分の存在意義を根底から否定しなければならない。よって、親を否定するよりも、自分を一部でも否定した方が、相対的には、自己存在意義を守ることができるのである。
       この背景には、先ほども述べたが、なんらかの理由で、自分の存在意義を自分自身の価値・判断ではなく、親の価値・判断に委ね過ぎていることがある。
       そして、それから抜け出せない理由としては、①抜け出すためには、親によって満たしてきた自己の存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②親の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信のなさ・卑屈、その奥にある依存・怠惰などがあるだろう。

       さて、先ほども述べたように、幼少の頃には、誰もが、親を絶対視し、親の価値・判断に自己を深く委ね、親も子供を良い意味で支配することが必要であり、自然であり、健全であるから、問題の核心は、子供が大きくなっても、依然としてそれを卒業しないということに尽きる。
       心理学的には、子供が健全な発達過程をたどる場合は、反抗期というものを経て、子供は親の絶対性を否定し、自分の価値・判断で、自立して生きる過程を経る。その中で、重要なことは、子供は、親の絶対性を否定するだけでなく、自分自身も、多くの人間の一人であることを受け入れて、自己を相対化していくプロセスがある。
       これによって、妄想的な絶対者願望ではなく、現実的な健全な自己向上欲求を持つようになる。そして、親に対しても現実的に見て、不完全ではあっても、自分を育てた存在として健全な感謝の心を持つようになるのである。
       しかし、3のケースでは、子供や親の要因によって、この自立のプロセスがうまくいかないのである。そして、30歳、40歳になっても、親に依存し続ける場合がある。

       さらに、このケースは、肉親の親に限らず、親の代わりに依存の対象とした者にも当てはまる。
       例えば、前回の1のケースなどで、親以外に、自分の願望を満たす存在を見つけ、それに過剰に依存・服従する場合は、その存在について、同じことが起こる。例えば、実際には相手が悪いのに、自分が悪いなどと考えるのである。
       これは、言うまでもなく、オウム真理教の信者と元教祖の関係に当てはまる。例えば、元教祖が主導した事件について、少なからぬ信者が、「自分たちのカルマが悪いから、元教祖が事件を起こさざるを得なかったのだ」と考えるケースがあった。
       これは、信者にとっては、元教祖を否定すれば、自分の信仰=自分の存在意義の根本を否定することになるから、それよりも、元教祖を否定せずに、自分の一部を否定する方が、自己を守ることができたからである。
       また、信者がこの状態から抜け出せない背景も、親への依存から抜け出せない子供の理由と同じであり、①抜け出すためには、元教祖によって満たしてきた自己存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②元教祖の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信の不足があるが、その奥には、自信がつくほどに必要な努力をしない依存・甘え・怠惰などがある。
       具体的に言えば、元教祖に対する絶対的な帰依によって与えられるとされていた、キリストの弟子・選ばれた魂になること、解脱者になること、三悪趣に落ちず高い世界へ転生することといった願望について、それを放棄するか、ないしは、別の手段で得ようとする努力が必要となる。
       そして、元教祖の教義としては、信者は汚れており、正しい判断ができず、グルに絶対的に帰依することによってのみ救われ、自分で判断してはならず、グルを裏切ると三悪趣に落ちる、などというものがあって、これが信者を呪縛し、その自立を妨げる要素となっている。
       しかし、根本的な原因は、元教祖の教義が根本的な原因ではなく、必要な努力をなす労苦を嫌がる信者側の依存・甘え・怠惰である。依存したい者には、依存するべきであるという教義は、都合が良いものであるからだ。
       しかし、依存・甘え・怠惰という煩悩の本質は、最初は楽だが、後からつけが回ってくるというものである。一方、自立は、最初は努力が必要で労苦があるが、後は楽になるというものであろう。これを踏まえて、自分の弱さに打ち勝たなければならない。

       さて、このケースの1つの変形版として、ずっと依存状態が続くのではなくて、親の目から見ると、ある段階から突然、服従から反抗に移行する場合があるようだ。これが、4のケースである。
       すなわち、段階的に反抗期を経験し、段階的に親も自分も相対化し、親への一定の感謝や尊敬をもって、健全な自立をするのではなく、ある段階まで全く反抗期がなくて、親から見ると、何でも言うことを聞く、とても素直で良い子であったのが、いきなり、反抗や非行に移行するケースである。
       この場合、子供は、長らく、親に認められたいために(親に従って自己存在意義を満たそうとしてきたがために)、無理して自分を抑圧してきたことが、ある段階から、恨みのような感情に変わり、爆発する場合もあるようだ。
       客観的に見ると、子供が自らの意思で親に依存してきた場合も、子供の方は、親が自分を無理に抑圧してきたという印象を形成する場合があるようだ。他人から見れば、過剰な責任転嫁であるが、こういったことは、子供に限らず、大人の世界にもよくある。

       そして、これも、子供と親に限らず、オウム真理教の元信者と元教祖のケースにも当てはまる。自分の意思で元教祖に帰依したにもかかわらず、元教祖を否定した後は、自分が安直に信じた責任は十分に自覚せず、もっぱら教祖にのみ責任を転嫁し、教祖を一方的に恨むというケースである。
       しかし、(特に幹部信者などの場合は)単純に騙されたと主張するばかりで、自分が安直に信じて教祖を祭り上げたという反省がなければ、本当の意味で自分が変わることはできない。
       帰依している時は、教団を弾圧する社会が悪いと安直に主張して、帰依をやめたら、自分を騙した教祖が悪いとばかり主張するならば、今も昔も、常に自分は被害者の位置づけであって、問題を他人のせいにしてばかりである。
       こうして、脱会しても、人格は変わらないという問題はよくみられる。わかりやすく言うと、オウムは脱会したが、オウム人格は変わらないという現象である。脱会するのは、一瞬の手続きだが、本質的に人格を変えるのは辛抱強い努力が必要である。
       この背景には、先ほどのケースと同じように、やはり依存・甘え・怠惰があるといわざるをえない。真に幸福になるには、自分の問題点を反省して、辛抱強く努力して、成長していくほかはないのである。

       最後に5番目のケースは、親を絶対視してはいないが、親に対する期待が十分に満たされないために、常に強い不満・怒りを持つ場合である。
       2のケースとの違いは、親に失望し、突き放しているのではなく、依然として期待していることである。4のケースとの違いは、4のケースは恨みであるから、もう相手への期待はないが、2のケースの不満・怒りは、依然として強い期待が背景にある。
       そして、私の経験上、こうして、常に不満・怒りを持っていると、場合によっては、憎しみのレベルにまで至る場合があるようだ。
       しかし、実際に、どんな親も不完全な人間であるから、いろいろな欠点があるのは仕方がないことである。そして、先ほど言ったような状態で、精神が歪みやすい現代社会においては、相当に人格が崩れている親もいるだろう。そして、その親のもとで育った子供が親になり、その子供がまた親になっている時代である。
       具体的には、会員や一般の人の相談を受けていると、父親で言えば、女癖・酒癖が悪い、母親や自分に暴言を吐く、暴力を振るうとか、いろいろな事例が出てくる。
       確かに、そういった問題はない方がいいに決まっている。しかし、私が相談を受けた体験上は、そういった親の人格は、直ちには改善されそうにない場合も少なくない。
       さらには、子供が単に不満や怒りをもって親を責めても、親にもいろいろあるだろうから、必ずしも良い方向には行かない場合がある。仏教的な因果の法則(カルマの法則)からすれば、自分の不満や怒りの心・波動が相手に伝わって、相手に投影され、相手からも反発が返るだけとなる場合もある。それでは、建設的・前向きな行為ではないだろう。
       そもそも、本当に相手を変えようとする場合は、相手をよく理解し、辛抱強く賢いアプローチ=慈悲の実践が必要であり、その中には、相手の向上を祈りつつも、無理な期待はしないという心構えが含まれる。
      子供にとって、これは大変なようだが、ポイントは、本当の意味で大人になるには、必要な努力であるということだ。親に求めるばかりで、自分側の努力がない場合は、子供はいつまでも子供であり続ける。
       そして、その背景には、繰り返しになるが、必要な努力を避ける依存・甘え・怠惰があり、それから脱却できないならば、その自分の未熟な人格の投影を親に見続けることになりかねないのである。

       さて、この5のケースも、親以外の強い期待・依存の対象に当てはまるものである。例えば、団体の内部での学習仲間同士の関係にも、これが当てはまらないかについて、よく検討してもらいたい。


    4.内観と親子問題の緩和

       次に、こういった問題に対する内観の実践の効果を考えてみよう。まず、この5のケースにおいては、特に内観が有効であると思われる。
       というのは、確かに、親にはいろいろな欠点があるだろうが、内観を通して、自分が親に実に様々なことをしてもらってきたことや、自分も親にいろいろ迷惑をかけてきたことなどを認識することによって、バランスの取れた見方ができるようになることが期待されるからである。
       逆に言えば、通常は、強い期待を背景に、普段は、親のしてくれないこと、親の欠点ばかり見ており、内観の実践でもしなければ、親の長所・恩恵を客観的に見たり、自分側の欠点を客観的に見たりすることはなかなかできないと思われる。
       自分の欲求が強いと、与えられていない部分ばかりを見て不満に思うが、仏教的には、それは貪りの心の働きである。また、その場合は、相手と同様に、自分にも欠点があることが理解できなくなるが、それは、自他を区別する無智である。
       相手の問題について、自分では正しいことを言っているつもりでも(仮に言っていること自体は正しいとしても)、その時の心の働きが、無智・貪りに基づいており、相手のことを思って(慈悲に基づいて)いない場合が少なくない。
       この場合は、相手の反応も、自分の心の投影として否定的なものになる可能性があるし、何よりも、こうした期待を背景とした不満・怒りを募らせるだけでは、自分自身がなかなか成熟していかないという不利益がある。

       次に、1と2と4のケースにおいても、内観は有効であると思われる。その前に、もう一度、1と2と4のケースを列挙すると、以下の通りである。

    1.親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。
    2.親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊重せずに、反抗ばかりする。
    4.親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。

       これらのケースの根底には、自己の誇大妄想的な願望が背景としてあることは、前に述べた通りである。1のケースは、教祖などに依存し、その願望を満たそうとしており、2のケースは、満たすための依存の対象が見つかないので、誰も尊敬しない状態であり、3のケースは、依存したが満たされなかったことによる恨みの状態である。

       しかし、この誇大妄想的な願望は、前にも述べたとおり、子供の時ならばともかく、成長する過程では、卒業すべきものである。言うまでもなく、現実の社会では、幼稚で、妄想的で、傲慢で、自己中心的なものである。
       これに対して、内観の実践は(特にひかりの輪の仏教的な内観の実践は)、自分が、いかに実際に肉親や知人を含めた他に支えられているか、いかに万物に支えられているかという事実を理解していくから、自己の絶対性ではなく、自己の相対性(他との支え合いで自分が成り立っていること)の理解を促進する面がある。
       すなわち、内観とは、物の考え方において、子供から大人になる効果があると思われる。妄想的な自己存在意義を求めて、自分や特定の他者を絶対視・特別視するのではなく、自分を多くの人間の一人として受け入れて、その中で健全な自己向上欲求を持つことである。これは、内観の権威である人も述べていることである。
       こうして、内観に基づいて、他への感謝と謙虚さを培うならば、自己中心を脱却して、他と調和した生き方をするきっかけとなる可能性がある。そして、前にも述べたが、この考え方は、仏教では、縁起の法や、唯識の依他起性の思索・瞑想でもあり、自我意識を弱めて、全体と一体化する効果を持つ。

       最後に、3のケースであるが、これは、内観実践上は特殊なケースである。この人の場合は、親や、親に準じる依存の対象に対して、普通とは逆の偏りを形成している。
       すなわち、普通は、してもらっていることの多さ、して返したことの少なさ、迷惑をかけたことの多さを十分に認識しないために、それを調べていけばいいのであるが、このケースにおいては、逆に、①してもらっていないことも、してもらっていると考えたり、②して返していることがあっても、過小評価していたり、③迷惑をかけていない場合も、迷惑をかけていると思いこむといった場合がある。
       これは、通常のケースでは、自己中心的な意識が働くところ、3のケースは、相手が、自己の存在意義になっているために、その相手を中心とした意識が働いてしまい、相手に偏った見方をしているからである。
    よって、私の見解としては、通常とは逆の方向性で内観をする必要がある。


    5.内観で培う健全な親への認識と悟りの関係

       さて、内観によって、両親をはじめとする人々に対して、感謝や尊重といった、健全で肯定的な心を培うことは、仏教の悟りを得る上で非常に重要である。
       というのは、大乗仏教の教えの核心は、全ての衆生を愛する四無量心であり、それに関連して、全ての衆生に仏性があると説くことにある。
       そして、全ての衆生を愛する四無量心を培う上で、いにしえの聖者方は、弟子たちに、自分の両親が自分をいかに愛してくれたかを思い出させ、全ての衆生が自分の過去世の母や父であったことを瞑想させてきた。
       また、大乗仏教には、この宇宙が全ての衆生を育む仏陀の母胎の中であると考え、その仏に合一する教えがある。宇宙を自分の母であり、仏であると見ているのであるが、この思想を理解する上でも、今生の自分を生み育てた母親や父親に対する感情がバランスの取れたものであることは重要である。
       また、全ての衆生に仏性があるという教えは、全ての生き物は、本質的には、慈悲という仏陀の心を有しているという意味であって、どんな悪人でも、例えば我が子を育もうとする瞬間には、慈悲・利他の心を現すといった事実が指摘される。
       簡単に言えば、仏教の教えとは、全ての人、全ての生き物に価値を認め、それを愛することであるから、自分を生み出した、自分が今生初めて接した人間である親を愛することは、非常に重要な課題となる。

       ところが、現代では親子関係が歪んでおり、親を尊敬していない子供が多くなっている。よって、この親子の問題を乗り越えなければ、仏教の教えの根幹が損なわれる。
       一方、オウム真理教は、この問題を解決せずに、この問題を逆手にとった宗教であると思われる。すなわち、末法の世には悪業多き魂が多いとして、教団を肯定しない親は強く否定し、出家制度によって子供を親から隔絶し、教祖のもとに集中させることで、子供が救われるとし、親をはじめとする社会と敵対し、戦って勝利することを教義とした。
       よって、この問題を乗り越えることは、現代における仏教の学習実践の困難を克服することであるとともに、オウム真理教を乗り越えることとも深く関連している。

       そこで内観の実践の重要性が出てくる。確かに昔に比べて親の問題が増えているのだろうと思う。しかし、昔も相対的に不徳な親は多くいたはずであり、そういった場合は子供がどのような眼差しで親を見るかで、親への感情が大きく変わるはずである。そこに、内観の重要性がある。
       また、悪化しているのは親だけでなく、子供の友人、学校の教師、マスコミの情報を含めた、子供を取り巻く社会全体であろうから、それによって、子供側が親を見る目が歪んでいることもあるはずである。
       そして、内観では、客観的に、親に受けた恩恵や親に迷惑をかけたことを調べていく。そうすることによって、現代の親でも、依然として我が子を思う気持ちは決して少なくない、という事実が浮かび上がってくるのではないかと私は思う。
       もちろん、人によっては、例えば、浮気、離婚、酒癖、女癖、暴言、暴力と、親の問題がいろいろあるだろうが、それであっても、親が子供になす自己犠牲の奉仕は膨大であるという事実もあるはずである。それらをありのままに認識し、親に合格点を与えられないものであろうか。
      また、親に捨てられた子供の場合も、捨てたくて捨てたのではない親の苦しみに気づいたり、親代わりになってくれた人への感謝を深めたりすることで、自分の心を癒して浄化し、他者への愛というかけがえのない心の働きを深めることで、悟りの土台ができるのではないだろうか。

気の科学・ヨーガ・健康・自己実現

  • 2016年夏期特別教本『気の霊的科学と人類革新の道 ヨーガ行法と悟りの瞑想』第2章公開

    【※この教本の目次・購入は、こちらから】


    第2章 気の霊的科学:人類の革新の可能性


    1.気(生命エネルギー)の霊的科学とは

       「気」とは、体の中を流れる目に見えない生命エネルギーである。その存在は、物理学的には証明されていないが、気の思想を前提とし、それを活用する効果は、例えば、中国医学の鍼灸・指圧の治療法のように、長い歴史の中で経験的に広く認められてきた。
       その結果、鍼灸・指圧は、現代では大学で教えられ、国家資格があり、保険医療の対象にもなっているように、WHO(世界保健機関)を含め、公式に認められている事実がある。
       さらに、依然として異端の学会ではあるが、トランスパーソナル心理学会などでは、気の存在を何かしら物理量で表せないかという検討・研究がなされるなどしている。
      この生命エネルギーを表すために、気という言葉を使うのは、中国の思想の道教・仙道・気功・中国医学などである。一方、ヨーガではプラーナ、チベット仏教では風(ルン)などと呼ばれる。

    2.気の通り道:気道に関して

       体内には、気が流れる道がある。これを気道という。中国医学では、経絡(けいらく)(経脈(けいみゃく)と絡(らく)脈(みゃく))と言われてよく知られている。ヨーガやチベット仏教では、ナーディ(脈管(みゃっかん))と呼ばれる。
       気道の場所も気道の総数も、それぞれの思想・学派によって異なる。中国医学などでは、経脈には、12の正(せい)経(けい)と呼ばれるものと、8の奇(き)経(けい)と呼ばれるものがあるとすることが多い。ヨーガや仏教では、主に3つのナーディがあるとするが、それを含めて72000本ものナーディがあると説かれることが多い。


    3.気道の交差点:経穴、気道の密集点:チャクラ

       複数の気道が通る交差点があり、これを中国医学では、経(けい)穴(けつ)(ツボ)という。経穴の総数については複数の見解があるが、例えば、350以上の正穴(せいけつ)と250以上の奇(き)穴(けつ)があるという。
       そして、チャクラとは、ヨーガや仏教が説く、非常に多くの気道が密集しているところである。後に詳しく述べるが、体内の各種の神経(しんけい)叢(そう)や臓器に関係し、様々な能力や煩悩と関係しているとされる。


    4.気の強化と気道の浄化の恩恵:心身の健康・悟り

       そして、仏教やヨーガにおいては、①気を強化することと、②気道を浄化して気道の中に十分な気がスムーズに流れるようにすることが、その人の心身の健康、煩悩・心のコントロール=悟りを実現するために非常に役立つと考えられている。言い換えれば、「気」と「心」と「体」が深く関係しているというのである。
      まず、中国医学では、気の流れが悪い部分に、病気が発生すると考える。その意味で、病気という漢字は、「病んだ気」のために体の疾患=病気が生じるという思想を表している。よって、気を調整することで、病気を治したり、予防したりすることができると考えられている。
       また、気と、気持ち=心は、気と体の関係よりも、いっそう深く関係・同期している。気の強さや気道の状態によって、心が大きく変化するのである。気を調整することで、煩悩・心をコントロールし、悟りの大きな助けになるというのである。これについては、後に詳しく述べたい。
       そして、体操や呼吸法などの身体の操作を通して、気のコントロールを積極的に行うヨーガをハタ・ヨーガと呼ぶ。これと同じ技法は、ヨーガと同じインドを発祥とする仏教に関しても、密教の中に取り入れられた(特に後期密教とされる密教の中に)。
       しかし、気のコントロールを積極的に行うヨーガ・仏教の修行法は、日本には、実質上20世紀後半になるまでは、本格的に輸入されることはなかったと私は考えている。


    5.ヨーガのナーディの思想

       前にも述べたように、気道(ナーディ・脈管)とチャクラの位置や数に関しては、ヨーガ・仏教の各学派・宗派で異なる。私たちは、それらを総合的に研究してきた。
       その中で、図A・Bは、著名なヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師が解説する、3つのナーディと9つのチャクラの図である(『魂の科学』〈たま出版刊〉より引用)。

    ※図A↓


    ※図B↓


       まず、三つの主要なナーディは、以下の通りである。

    ①スシュムナー管
       尾てい骨から背骨(脊髄)を通って頭頂に至る。中央の気道。

    ②ピンガラ管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも右側を通って右の鼻に至る。
       右側の気道。別名スーリヤ・ナーディ。

    ③イダー管
       尾てい骨からスシュムナー管よりも左側を通って左の鼻に至る。
       左側の気道。別名チャンドラ・ナーディ。


    6.ヨーガのチャクラの思想

       次に、9つのチャクラの位置と名前は、以下のとおりである。

    ①頭頂:サハスラーラ・チャクラ
    ②眉間:アージュニャー・チャクラ
    ③咽頭部:ヴィシュッダ・チャクラ
    ④胸部・心臓部:アナーハタ・チャクラ
    ⑤肝臓部:スーリヤ・チャクラ
    ⑥膵臓部:チャンドラ(マナス)・チャクラ
    ⑦上腹部:マニプーラ・チャクラ
    ⑧下腹部:スヴァディシュターナ・チャクラ
    ⑨尾てい骨:ムーラダーラ・チャクラ

       ヴェーダの聖典では、これらの9つのチャクラが説かれているが、現代のヨーガの導師は、その中のスーリヤ・チャクラとチャンドラ・チャクラを除いた7つのチャクラを主なチャクラとして強調することが少なくない。この7つのチャクラの性質に関しては、『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。
       なお、ヨーガ行者の体験の中には、これとは異なったピンガラー管・イダー管の位置を体験する者もいる。例えば、ピンガラー管とイダー管が、尾てい骨からそれぞれ直線的に右側か左側を上っていくのではなく、双方ともが左右に蛇行しながら、チャクラの部分でお互いに交差して上っていくものである。これについては、別に解説する。


    7.仏教のナーディの思想

       図Cは、チベット仏教の僧侶ツルティム・ケサン師が解説する3つのナーディと4つのチャクラである(『図説マンダラ瞑想法』〈ビイング・ビッグ・プレス刊〉229頁より)。

    ※図C↓


       まず、3つの気道は以下の通りである。

    ①ウマ・アヴァドゥーディ(中央脈管)
       下端は性器で、脊髄を通り、頭頂に至る。太さ10ミリ程とも。
       ※下端は臍(へそ)から指4本分下がった所との表現もある。
       ※位置が、脊髄ではなく、背骨の前という表現もある。
       ※管の太さは状況で変わる(右と左の脈管も同じ)。

    ②ロマ・ラサナー(右の脈管)
       中央脈管の右側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その右側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その右側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と左の脈管と絡み合っている。

    ③キャンマ・ララナー(左の脈管)
       中央脈管の左側を通り、その下端は中央脈管の下端に、
       その左側から繋がり、その上端は眉間の下の鼻の奥に、
       その左側から繋がっている。太さ5ミリ程とも。
       各チャクラで、中央脈管と右の脈管と絡み合っている。


    8.仏教のチャクラの思想

       次に、4つのチャクラの位置と名称は、以下の通りである。

    ①頭頂:大楽輪

    ②咽頭部:受用輪
       正確には、喉そのものの中にではなく、喉から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ③胸部・心臓部:法輪
       正確には、心臓ではなく、両乳房の中央の所から背骨側に入った奥のあたりにある。

    ④臍:変化輪
       正確には、臍そのものではなく、臍があるところから背骨側に入った奥のあたりにある。

       なお、中央の気道の位置として、背骨・脊髄に加え、体の前面、背中とお腹の中間という3つがあるという考えもある。すなわち、体を側面から見て、前側の気道、中央の気道、後側(背骨)の気道である。


    9.チャクラでの気道の詰まりが煩悩を生じさせる

       さて、チャクラの部分で、気道に詰まりがあって、気がうまく流れず、停滞すると、そのチャクラに対応した煩悩が生じる。気道が詰まっているチャクラによって、それぞれ異なる煩悩が生じる。
       ただし、気=エネルギーが不足していれば、気道は詰まっていても、その詰まった部分までエネルギーが届いていない状態になる。この場合は、煩悩は生じない。あくまでも、エネルギーが気道の詰まった部分にぶつかり、その流れが遮られている場合に煩悩が生じる。
       すなわち、煩悩とは、流れようとするエネルギーと、それを遮る気道の詰まりの間の緊張状態が作るストレスなのである。例えば、性器のところのスヴァディシュターナ・チャクラの部分で気道が詰まると、性欲が生じるのである。
       そして、そこで性欲を満たすならば(すなわち射精をするならば)、そのチャクラの部分から、エネルギーが外に漏れだす。その結果として、エネルギーと気道の詰まりの緊張状態は一時的に解消されるから、性欲が消える。しかし、エネルギーが回復して、再び緊張状態が生じると、再び性欲が現れることになる。


    10.気道の浄化の重要性:悟り・解脱の道

       仮に、チャクラの部分の気道の詰まりを取り除くことができたとしたら、緊張状態は解消され、そのチャクラを越えて、エネルギーが上昇する。
       そして、すべてのチャクラに詰まりがなくなると、エネルギーは頭頂のサハスラーラ・チャクラに集中する。このチャクラは特別であって、このチャクラにエネルギーが集中すると、悟り・解脱が生じるとされる。
       なお、頭頂に至る気道は、中央気道だけである。よって、中央気道にエネルギーが集まるときに、心は不動となり、悟り・解脱に至るといわれることがある。


    11.気と気道の3つの状態

       ここで、エネルギーと気道の状態を以下の3つに分類することで、より理解を深めたいと思う。

    ①エネルギーが不足している場合
       煩悩は生じない。無気力な状態。意志・集中力も弱い。

    ②エネルギーはあるが、気道が詰まり、流れが阻害される場合。
       煩悩が生じる。無気力ではないが、煩悩のため心が不安定で、集中も妨げられる。

    ③エネルギーが強く、気道の詰まりもない場合。
       煩悩がなく、心が静まり、集中力が強い。高い瞑想状態。


    12.各チャクラと各気道と煩悩の関係

      さて、次に、各チャクラと煩悩の関係であるが、主な7つのチャクラに関しては、『ヨーガ・気功教本』に詳説したので、そちらを参照されたい。
       残りの二つの副次的なチャクラのうち、スーリヤ・チャクラは、「太陽のチャクラ」ともいわれ、小さな太陽のような形をしており、肝臓の右側にあって、火元素優位だとされる。食物の消化作用を助けている。
       このチャクラの部分で気道が詰まると、怒りが生じるという。それは、実際に怒りを表現せずに、内面に怒り・ストレスをため込んでいる状態の場合もある。この怒りは、ムーラダーラ・チャクラの怒りよりもレベルが高く、単に「嫌だ嫌だ」というのではなく、他人の問題に対して怒る場合などがある。
       チャンドラ・チャクラは、「月のチャクラ」ともいわれ、球形であり、膵臓と脾臓の近くにあり、膵液の分泌に関係しているとされる。
       このチャクラで気道が詰まると、無智の煩悩が生じる。無智とは、仏教では根本煩悩といわれ、物が正しく考えられない状態である。具体的には、単純に物が考えられない愚鈍な状態、動きが鈍い、目先の快楽に偏る、怠惰である、(自己中心で)他に冷淡・無関心といった状態をもたらす。さらに、間違った霊的・宗教的な探求・魔境、イメージ上の性欲、覚醒剤の使用にも関係するともいわれる。


    13.3つの気道と煩悩の関係

       中央・右・左の3つの気道が、仏教の3つの根本煩悩である貪(貪り)・瞋(怒り)・痴(無智)に関係しているという考えがある。どう対応するかというと、以下のとおりである。

    ①中央気道:貪り・執着
       どういう対象への貪りかは、どのチャクラの部位で、中央気道が詰まるかによる。
       なお、この気道だけは、他の気道と異なり、頭頂のチャクラに通じており、どこも詰まっていなければ、解脱・悟り・真理に対する貪り=探求心・求道心が生じることになる。

    ②右気道:怒り
       どういう性質の怒りかは、どのチャクラの部位で、右気道が詰まるかによる。

    ③左気道:無智
       どういう性質の無智かは、どのチャクラの部位で、左気道が詰まるかによる。


    14.各チャクラの3つの詰まり

       この3つの気道は、各チャクラを通っている。そこで、各チャクラの中央や右側や左側で気道が詰まっているならば、そのチャクラに対応する煩悩に加え、貪り・怒り・無智の煩悩も、加わっている可能性がある。
      例えば、スヴァディシュターナ・チャクラの右側で詰まっている場合は、そのチャクラに対応する煩悩である性欲に関係する怒り、例えば、異性への性愛に絡んだ怒りが生じる可能性がある。
       こうして、サハスラーラ・チャクラを除くと6つの主なチャクラがあるが、それぞれが3つの気道と関係しているので、全部で18か所の詰まりのポイントがあることになる。それに加え、チャンドラとスーリヤの2つのチャクラがある。


    15.気道の浄化の方法:身体行法・瞑想・戒律・聖地

       気道の浄化の方法としては、物理的な方法、すなわち、ハタ・ヨーガなどの身体行法によるものと、精神的な方法がある。
       ハタ・ヨーガなどの身体行法として、アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラーが有効である。この詳細は『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。
       なぜ有効かというと、気道の詰まりは、経験的に言って、①筋肉や関節をほぐす、②血流を増大させる、③体を温める、④深い十分な呼吸によって浄化することができるからである。よって、アーサナ(体操・体位法)やプラーナーヤーマ(呼吸法・調気法)が有効なのである。
       また、ヨーガ行法以外にも、同じような効果を持つ修行法として、気功の行法、歩行瞑想、(温泉の)入浴などは有効である。また、中国医学の鍼灸・指圧・マッサージなどが、気道の浄化に有効な理由もわかるだろう。
       なお、プラーナーヤーマやムドラーは、尾てい骨に眠っているプラーナ(気・生命エネルギー)の親玉ともいうべきクンダリニー(宇宙エネルギー・根源的生命エネルギー)を覚醒させる効果がある。
       このクンダリニーが覚醒すると、その力強いエネルギーの上昇によって、ナーディを物理的に浄化することもできる。たとえて言えば、詰まった配管を高圧洗浄するようなものである。
       次に、精神的な方法であるが、一つは、煩悩を和らげる瞑想である。気道の詰まりは、煩悩と一体不可分である。よって、何かしらの精神的な作業、煩悩を和らげる効果を持つ思索ないしは精神集中によって、煩悩が和らげば、同時に気道も浄化されることになる。これは、ヨーガでは、ジュニャーナ・ヨーガやラージャ・ヨーガの実践に分類されるだろう。
       二つ目は、日ごろから悪行を慎み、善行に励むことである。宗教的な表現では、戒律を守る、功徳を積むことである。悪行は、煩悩を増大させ、気道を詰まらせる。言い換えれば、気道を詰まらせているものが、煩悩の原因である悪いカルマという考え方がある。
       なお、カルマ(業)とは、過去の行為の後に残存する潜在的な力のことをいうが、悪いカルマは気道を詰まらせ、良いカルマは気道を解放する力・効果を持っているということである。
       よって、日ごろから悪行を慎み、善行に励めば、おのずと気道は浄化される。ただし、それだけでは、十分には浄化できないために、上記の身体行法や瞑想などによっても浄化するのである。
       三つ目は、神聖な環境に身を置くことである。体の中の気(内気)の状態は、体の外の環境の気(外気)の状態と繋がっており、大きな影響を受ける。すなわち、神聖な気・波動に満ちた聖地に身を置くと、内気も浄化することができるのである。
       ひかりの輪では、修行の四つの柱として、①教学(正しい考え方の学習)、②功徳(悪行の抑止と善行の励行)、③行法(身体行法や瞑想実践)、④聖地巡り(や自宅の霊的な浄化)を掲げている。これは皆、気を強化し、気道を浄化する効果がある。


    16.善悪を感じる身体への進化:人類の革新へ

       気を強化し、気道を浄化することに成功すると、エネルギーがスムーズに身体を流れていく結果として、心身が軽快で楽になり、心の安定と広がりが生じる。また、クンダリニーの覚醒に成功すると、そのエネルギーによって、内的な歓喜も生じる。
       そして、これは、修行者が悪行を回避し善行を励行する上で、非常に重要な変化をもたらす。というのは、奪い合いなどの悪行をなせば、気道を詰まらせ気を弱めるため、心身が不快となり、分かち合いなどの善行をなせば、心身が心地よくなるからである。
       普通の人は、煩悩・欲望・奪い合いなどは、頭では「悪い」とわかっているが、体や心がそれを求めてしまう。また、逆に、分かち合い・慈悲は、頭では「善い」とわかっているが、体や心は「辛い」と感じる。
       つまり、頭と心と体がバラバラであり、理性と感性が、矛盾・葛藤しているのである。これが、現代の社会になっても依然として、個々人が善悪を十分に分別して行動できない理由であるし、無数の事件・紛争が続いている理由である。
       しかし、気の強化と浄化を進めていくならば、善いことをすれば心身も「気持ちよい」と感じ、悪いことをすれば心身も「気持ち悪い」と感じる状態に、いわば「進化」することができるのである。
       言い換えれば、善悪を理解する頭に加え、「善悪を感じる体」を持つことができるようになる。これは、都市文明が始まって以来、数千年もの間、人類が現在に至っても克服できていない奪い合いや戦争を乗り越えるための決め手になるのではないだろうか。だとすれば、これは、人類の革新・進化であろう。


    17.ヨーガや仏道修行の様々な恩恵:高い集中力など

       ここで、気を強化・浄化するヨーガや仏道修行の恩恵を列挙しておきたいと思う。
       第一に、それは、悟り、すなわち、心の安定と広がりを与える。そして、心の安定は、正しい判断力や直観力を含めた智慧を高めることになる。
       第二に、気の状態と密接に関連する心身の健康を向上させる。そして、心身を軽快で楽にして、究極的には、内的な歓喜をもたらす。
       第三に、物事の達成・人生の成功をもたらす。すでに述べた安定した心、智慧、健康に加え、気の強化・浄化ができていれば、前に述べたように物事を実現するために必要な強い意志・集中力が得られるのである。
       特に、仏教・ヨーガの修行が深まると、禅定・サマディなどと呼ばれる深い瞑想状態に至る。それは、心が深く安定し、非常に高い集中力を持った状態である。無心の集中力とでもいうべき状態である。
       これは、スポーツの世界で選手が最高のパフォーマンスを発揮する際の特殊な心理状態である「ゾーン状態」や、心理学で何もかもが流れるようにうまくいく心理状態とされる「フロー状態」に深く通じるものである。
       その状態に入った選手は、勝敗の結果を気にする雑念がなく、無思考の状態であり、流れるように最善の動きをするという。まさに、無欲の極限的な集中状態である。
       そして、これを偶然・偶発的に体験するのではなく、継続的な訓練によって作り出そうとするのが、ヨーガや仏教の禅定・サマディの修行である。

  • 2013年GWセミナー特別教本『現世幸福と悟りの集中修行  不動心・人間関係・健康・自己実現』第1章公開

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    第1章 現世幸福の教え

      ここでは、私が、現世幸福に関する宗教的な智恵と考えるものを、いくつか紹介したいと思う。これは、巷にあふれるお金儲けや成功術のノウハウを紹介する書籍などとは大きく違い、あくまでも宗教的な智恵の枠組みの中から、現世を幸福に健やかに生きていくための教えを紹介するというものである。
      よって、現世の幸福の智恵といっても、際限なく欲楽を貪ることをよしとする価値観に基づいたものではない。ひかりの輪が、その中核の思想として説いている、万人・万物を一体・平等と見る輪の思想や、それに基づく万人・万物への感謝・尊重・愛といった価値観に矛盾しないものであることを、前もってご理解いただきたい。

    ※「精神的・宗教的な智恵」という言葉についての補足
      ここでいう「精神的・宗教的な智恵」とは、盲信の危険をはらむ宗教の信仰の話ではないことを補足しておきたい。智恵という言葉は、正に叡智・知性・理性に通じるものであることからわかるように、「宗教的な智恵」とは、宗教の思想の中で理性によって納得することできるもの、理性に基づいて再解釈したものである、「宗教哲学」と同じ意味合いで使っている。
      特に、ここでは、仏教の中の悟りの思想哲学に関する話である。悟りの思想は、人の多くの苦しみは、自己に対する過剰な愛着に原因があり、瞑想その他の修行により、過剰な愛着を弱めることで、苦しみを弱めることである。これは一種の高度な心理療法ということもできる。
      たとえば、鬱病やストレスに対する最新の心理療法の一つである「マインドフルネス心理療法」は、仏教の念(=マインドフルネス)の瞑想法の応用であることからも、仏教の説く苦しみ・ストレスを和らげ、悟りに近づく思想と実践は、理性による批判を許さない盲信とは違う、幸福の人生哲学である。


    1 不動心の法:苦しみに強く、絶えず前向きな心

      人生は、山あり谷ありで、喜びもあるが、同時にさまざまな苦しみがある。それは、毎日のさまざまな苦しみから、学業・仕事・事業での失敗・挫折・敗北や、失業・倒産・病気・事故を含めた人生の危機まで、さまざまである。
      特に近年の日本は、高度成長期が終わり、バブル崩壊後の停滞する経済の時代となった。リストラ・失業・鬱病等の精神疾患・自殺者は増大した。市場原理主義の導入による競争の激化により、厳しさを増す労働環境の中でのストレスが増大し、勝ち組・負け組といわれる貧富格差の拡大や、若者のワーキングプアといった問題も起こっている。
      今後の社会全体を見ても、東日本大震災・原発事故・地球温暖化に見られる自然災害や環境問題や、少子高齢化・消費増税・巨額の国家債務による財政破綻の危機、さらには、近隣諸国との外交領土問題・安全保障問題など、さまざまな不安要素も抱えている。
      こうしたさまざまな問題に対しては、その解消のために、絶えず個々人から政府までが努力しているが、全てを解消することは、到底できそうもない。よって、こうした問題が起こったとしても、それに対していかに絶望することなく、強くて安定した前向きな心を保ちながら生きていくかという智恵が、非常に重要なものとなる。ここでは、そうした不動心を得るための宗教的な智恵を紹介したいと思う。


    (1)私の人生体験について

      まず、その前提として、私自身の人生体験について多少述べたいと思う。一言で言えば、私は、よく「地獄体験」といわれるものを繰り返してきた。
      オウム真理教の時代から、私は、仏教的な智恵を学び、不動心を追い求めてきた。87年に出家した私は、ストイックな戒律の下での生活と極限的に厳しい修行、慣れない海外生活と教祖の与える宗教的な試練の連続に耐え、88~89年頃になると、不動心を得ることに、一定の結果を感じ始めていた。
      ところが、その前後から、教団は教祖を絶対とし、社会を悪魔に支配されたものと見て敵対する狂信的な思想に陥って、犯罪行為を正当化し、実行し始めていた。89年の坂本弁護士殺害事件後には、教祖への盲信などから、自分も同じ間違った思想に陥り、90年にかけて、テレビ出演で公衆の前で教団を守るために嘘の弁明をする緊張した状態を経験した。93年ごろには、一つ間違えば死亡する緊張を伴う生物兵器の製造実験の活動にも参加した。
      その教団は、94~95年にかけて、サリン事件などの重大な事件を起こして破綻するに至り、教祖と同僚の高弟たちは、次々と重罪で逮捕・起訴され、死刑が求刑された。その中で、事件の直前にロシアに赴任した私は、紙一重でその難を逃れることとなったが、教団の破綻は、痛烈な精神的な打撃であったし、近しい同僚が刺殺されるという生命の危機や、社会的に四面楚歌の状況を生み出した。
      さらには、自分も、偽証という比較的軽微な罪であったが、逮捕・起訴され、数年にわたる独居房での勾留・受刑を経験した。受刑中に、麻原の中心の教義だった予言が外れるとともに、麻原自身が奇行・不規則発言を始め、精神的に深く麻原に依存していた私は、独居房の孤独の中で、精神的にも追い詰められていった。
      さらに、99年の出所近くになると、外の信者と地域住民との摩擦が非常に激しくなり、団体を監視する新しい法律が、最高幹部の私の出所を警戒するものとして「上祐新法」とも呼ばれるなどしたために、相当の精神的なプレッシャー・葛藤が生じた。ただ、このプレッシャーに対して、麻原とは関係なく、自分自身の仏教的な思考・瞑想で、自己愛・我執を弱めることで、非常に深く静まった精神状態を体験した。これは以後の自分の精神の安定の土台となった。
      99年末の出所は、社会全体の大変な喧騒・圧力・監視の下となり、出所後も、前と同様に、一歩も自由に外出できない期間が、2000年以降も数年続いた。その中で、私は、自分が主導して、教団名をアレフに変え、過去の事件の関与を認め、謝罪を表明し、被害者賠償契約を締結するなどして、社会との摩擦の緩和に努めた。
      しかし、2003年頃になると、自分なりの思想が芽生えて、オウム時代を反省して、教団を改革しようとしたが、麻原やその家族を絶対視する保守的な人々の激しい反対を受け、結果として、自室に事実上幽閉され、再び勾留同然の状態となった。その中で、自分の今後の方向性に関して深く葛藤・逡巡(しゅんじゅん)した。
      一年半ほどして、2004年の末になると、自分に賛同する人々が増えたことに意を強くして、自分の考えを貫くため、麻原の家族に反旗を翻し、その幽閉状態を破り、独自の活動を始め、教団を割ることになった。その後も、麻原を絶対視する人々からの激しい批判・拒絶・妨害・追放を経験し、2006年には二つのグループを施設や経済の面で完全に分離することになった。
      その後、2007年になると、私たちのグループは、精神的な進化を深め、麻原信仰を払拭して、アレフを集団で脱会し、ひかりの輪として独立した。しかし、その後も、様々な人たちの理解・協力・支援によって、徐々に改善されつつあるが、依然として、社会からの誤解・批判・圧力が続いてきた。
      また、今はすでに収まっているが、この過程においては、団体内部においても、過去の信仰を放棄するという一種の自己破壊のプロセスや、従来の団体の財務を支える仕組みの放棄のために、さまざまな精神的なストレス・動揺・混乱・摩擦・失敗が発生し、一部ではあるが、鬱病にかかる者も現れた。さらに高齢化のために、認知症や身体障害を患った高齢者の介護の問題も生じた。こうして、厳しい財務状態の中で、オウム事件の被害者賠償の履行に四苦八苦した。
    そうした中で、昨年2012年に至って、オウムの逃亡犯全員が逮捕・収監されたことを一つのきっかけとして、テレビ・週刊誌などのメディアに復帰し始め、年末に大手出版社から、オウム時代の総括本を出版した。
      その後は、今年2013年は、トークショー・ネット番組・講演会に招かれることが多くなり、東京や大阪ではすでにさまざまな方々や団体にご招待いただき、福岡・札幌・熊本・沖縄などでもご招待いただいている。最近は、宗教関係の著名な映画・書籍の批評の依頼を受けることもままあり、去年に引き続き、間もなく対談本を発刊する予定となっている。こうして、ようやくではあるが、社会復帰の途に着くに至りつつある。
      こうしたわけで、過去20年以上、一種の地獄体験の連続であったが、その中で結果として殺されもせず死刑にもならず、ノイローゼにもならず、賠償負担を負って厳しい中で、何とかではあるが、一団体の代表を務めてきたことは、自分の力ではとうていなく、厳しい社会環境の中でも、さまざまな人々の貴重な手助けがあったからこそであり、さらには、人智を超えたさまざまな幸運のおかげであった。
      そして、以下に私が述べることは、こうした地獄体験の連続を通ってきた者による、実体験・実感に基づいたものである。

     

    (2)逆転の法則:苦しみを喜びに変える智恵

      先ほど述べたさまざまな苦境において、私を精神的に助けた大きな要素が、苦の裏に楽があるという考え方だった。これは、仏教開祖の釈迦牟尼の思想でもあり、苦楽表裏などといわれる。快楽の裏には苦しみがあるが、苦しみの裏にも喜びがある。特に、苦しみによって、正法に対する信仰が芽生えると説く。それほど苦しみがない状態では、人は、自らの間違った執着などを反省しないというのだ。苦しみがあってこそ、その原因となっている過剰な執着を反省するという。
      また、受刑中に、昭和の希代の実業家となった松下幸之助(パナソニック・松下電器の創始者)の著書を読んだ。その中には、彼が苦境にあった時に、「この苦しみは、将来の幸福のために必ず役立つ」と自分に言い聞かせてきた体験が切々と書かれていた。そして、彼は、病弱だったから他に頼む術を憶え、学歴がなかったから他から素直に学べ、お金が無かったから丁稚奉公に行って商人の機微を学んだとして、「自分の不遇・苦しみを、逆に活かしてきた」と語っていた。
      そんな中で、私も、オウム真理教の深刻な失敗・挫折に対し、それを重要な教訓として活かし、それを完全に乗り越えた新しい思想、新しい知恵の学びの場を創造することを志すことにしたのである。それは、最初は理解されにくくても、長期的には社会の役に立つはずだと考えた。
      なぜならば、オウム真理教の問題は、オウム真理教に限らない。世界全体の原理主義的な宗教の問題であるし、さらには自己の教祖や教団を絶対視する従来型の宗教に広く当てはまる問題である。そして突き詰めれば、オウム真理教を生んだ戦後日本社会が、依然として乗り越えていない、敗戦までの自国を絶対視した大日本帝国体制にも共通した問題である。
      それがゆえに、この問題を完全に乗り越えた思想を創造することは、オウム真理教的なさまざまな問題を解決するために役立ち、他のカルト教団・原理主義組織に限らず、日本社会全体が過去の過ちを繰り返さない方向にも役に立つと考えた。そして、今そのためにさまざまな取り組みを行い、それが徐々に、前に述べたように、社会の一部に受け入れられ始めている。
      こうして、苦しみの裏に喜びがある。苦しみは、宗教的には執着を捨てる悟りへの道だし、世俗的にも失敗・挫折・批判は、反省と改善を通して成功・脱皮・称賛の始まりとなる。失敗は成功へ、挫折は脱皮に、批判は称賛につながる。
      逆に、苦しみ少なく、楽が多すぎれば、自分を鍛える機会を得にくい。成功の体験ばかりで失敗・挫折の体験がないと、失敗・挫折に対して精神的にもろくなったり、過去の成功体験によるプライドにとらわれたりして、失敗・挫折を直視できずに失敗する。称賛に慢心を起こせば、ゆくゆく批判されるようになる。成功・称賛が、失敗・批判につながる。
      こうして、苦境にある時には、その苦しみばかりに目を向けずに、なるべくその裏にある利点を捜すべきである。必ず何かの利点があると考えるのだ。格言で言えば、人間万事塞翁が馬、ピンチの裏にチャンスあり、死中に活を求めるである。
      この際、苦しみから逃げてばかりいて、例えば自分の失敗を認められなかったりすると、その苦の裏にある利点は見つからないし、失敗を成功の元にする道は見いだすことができない。死中に活という視点では、これまでの自分の死を恐れていては、新たな生=脱皮・進化はできない。人の脱皮・進化とは、死と再生、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。
      なお、日常生活でよく経験する失敗・挫折・批判・病気・経済苦といったさまざまな苦しみの裏側に、一般論として、どんな喜びがあるかについては、例えば、前回のセミナーの特別教本(2012年~2013年 年末年始セミナー特別教本)などでも述べているので、その一部を下記に引用しておく。

    「個々別々の苦しみを恩恵とみる事例」

    ① 病気の苦しみ
      病を得て、生活習慣を改め、体を労(いた)われば、健康・長寿を得る機会に変えることができる(いわゆる一病息災)。また、病気になって初めて、自分を支える人の恩恵に気づくことも多い。
    ② 経済の不安(最近よく聞かれる日本人の苦しみ)
      そもそもが、恵まれている日本人という視点を持てば、貪りや浪費を反省し、質素倹約を培う機会であり、途上国の貧しい人たちへの慈悲を培う機会ともなる。
    さらには、自己の所有物ではなくて、大自然など、皆が共有しているものが、真の宝であると悟る機会ともなる。

    ③ 批判・誹謗
      正しい批判は、自分を改善し、自分の未来のためになるものである。その意味で批判されなければ、自分に良き未来はない。間違った批判は忍耐力を養い、それに動じなければ、長期的には自分の評価を高める機会となる。すなわち、批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」という欲求が作り出すものである。

    ④失敗・挫折
      その裏に恩恵がある。努力を続ける限りは、それは、成功・成長へのステップである。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれる。失敗は、これでは成功しないことを知るという成功へのステップだ。すなわち、失敗、挫折の苦しみは、すぐに成功を望む欲求が作り出すものである。

    ⑤怒り・軽蔑の対象
      悪行をなしている他人も、謙虚な心で見れば、自分の反面教師であり、その意味で、助力者である。仮に、全く反面教師なく、自力だけで間違いを避けることができるかを考えるとよい。
      自分の幸福を邪魔するように感じられる妬みの対象も、「感謝の法則①」で述べたように、よく考えれば、実際には、自分よりも必ずしも幸福ではないことがわかる。また、優れた他人に対する妬みの場合は、実際には、その人たちは、自分の見本であり、貴重な切磋琢磨の対象である。そうした存在なく、自分だけの力で向上することができるかを考えるとよい。

    (3)感謝の法則:苦境の中で自分の恵みに感謝する智恵

      また、苦境に強い人の性格として、そういった状況でも、依然として自分が得ている恵みを意識できることがある。たとえば、失業しても、健康な体と愛する家族がいることに感謝して、絶望せず、それを土台として再び立ち上がっていくとか、病気になっても、支えてくれる家族や知人がいることに感謝して、人間の幅を広げて再び立ち上がっていくなどである。
      しかし、苦境に弱い人は、そういった状況になると、全てを失ったかのように錯覚し、「自分はもうだめだ、おしまいだ」と考えてしまうことがある。しかし、実際に、私たち日本人は、安全・長寿・豊かと三拍子揃った社会に住んでおり、いかなる苦境であろうと、視点を変えれば、大変な恵みにある。
      例えば、民族紛争・感染症・飢餓貧困に悩む途上国の人から見れば、王侯貴族である。途上国では、常に水も電気も燃料も不自由なところもあり、毎日が東日本大震災の被災地のような環境条件である。百年・二百年前の日本の人々から見れば、天国のような恵みに恵まれている。
      この意味では、苦しみ・苦境とは、実際には、比較の問題であって、途上国や昔の人から見れば、私たちが苦境と考えるものは、苦境とは感じられないだろう。あまりに恵まれた私たちが、その恵みに慣れ過ぎて感謝を失っているがゆえに、苦境と感じられるともいうことができるのだ。
      こうしたことを考え、苦境に立ったときに、依然として自分には、さまざまな恵みがあることや、この世界には、はるかに苦境にある人たちが無数に存在することを考えるならば、苦境に強くなることができるのではないだろうか。


    (4)無我の法則:苦の根源である自我執着を取り除く智恵

      さて、仏陀の教えでは、全ての苦しみの根本的な原因は、過剰な自己愛である。自と他を区別して、自己を偏愛する心の働き。自我執着ともいう。これは、自分自身(心や身体など)に対する執着(我執(がしゅう))と、自分のもの(財物・地位・名誉)に対する執着(我所執(がしょのしゅう))がある。
      これをわかりやすくいえば、人は、他者よりも自分を愛し、死を恐れ、天寿を無視して、永久に生きていきたいと思うことが多い。だから、自分が老い、病み、死ぬことを恐れる。しかし、自分が生きるには、他の生き物が食べ物などとなって犠牲になる(自分の生の裏に他の死がある)。多くの生命体が死ぬからこそ、多くの生命体が生まれても、地球の生命圏のバランスが取れる。人間が不死となれば、人口が爆発し、飢餓や戦争が起こる。
      さらに、人は、他人よりも、自分の財物・名誉・地位を増やそうとし、その欲望には際限がないことが多い。しかし、それを言い換えれば、いくら得ても満ち足りることがなく、さらには、得られない時の苦しみ、得たものを失う時の苦しみ、他と奪い合う苦しみが生じる。実際に、これまでの人類の歴史の一面は、貪り・争い・戦争の歴史であった。
      このように考えていくと、自分と他人を区別し、自分だけ過剰に愛する自我執着が、苦しみの根本原因であることがわかる。そして、仏陀の教えでは、この自我執着を弱めるためのさまざまな教えがある。その典型が、釈迦牟尼の直説とされる無我(アナートマン)という教えである。
    これは、私たちが通常「これが私である」と思い込んで執着する自己の心身について、実際には、身体は老い・病み死ぬものであり、心も絶えず移り変わっていく、無常で実体がないものであることを考え、それらが、本当の意味で私ではなく、私のものではなく、私の本質ではないなどと瞑想するものである。また、これとほぼ同様の四(し)念処(ねんじょ)・五蘊(ごうん)無我といった教義・瞑想がある。
      この瞑想の目的は、自我執着を和らげることであり、一言で言えば、自我執着に基づく思考を減少させることだ。自分のことばかりを過剰に愛して、それゆえに悩み続ける思考を弱め静めていくことである。ようするに、自分のことばかり考えるのを止めてしまうのである。
    こう言えば、何か簡単なことに思えるかもしれない。しかし、それは単純なことではあっても、簡単ではない。この単純なこと、自分のことばかり考えないようにすることを阻んでいるのが、自分に深く執着してきた長い習慣であって、そのために、自分のことばかり考えないようにしようとすると、不安・恐怖などが襲ってくることが多い。
      それゆえに、この境地を体得するには、従前から仏教的な思想を学び、無我の瞑想の練習をした上で、自分のことを考えることをやめないことによる苦しみが、自分のことを考えることをやめる不安や恐怖をしのぐような状況、すなわち、一種の試練・苦境を体験する場合が多いと思う。
      私の場合は、前に述べたとおり、オウム時代の初期に、こうした仏教的な考え方の学習や訓練がある程度なされていたので、それに馴染んでいった時期があって、その後、オウムが破綻した後に、元教祖から離れて、獄中で独りで苦悩する中で、あらためて無我の瞑想を行って、それを体得していった経緯がある。それ以来、たいていのことでは動じないようになり、今もそれを訓練し続けようと努めている。
      この瞑想を体得するならば、非常に静かな、静まった意識状態を体験する。不要な思考は停止している。それは、オカルト的な霊的体験とは違った意味で、神聖な感じさえする状態である。

    (5)無我と直感:静まった意識に生じる直感

      そして、この静まった意識状態においては、現実の問題を突破するアイディア・直感・インスピレーションが浮かびやすい。
    苦境にあって、自我執着が強すぎると、例えば、「失いたくない」という不安ばかりが先立って、いろいろと考えてはいても、悩んでいるだけで、エネルギーを消耗するばかり、空回りすることが多い。さらに、不安・焦りなどで混乱・狼狽した精神状態から、さらに苦境を深めるような過ちを犯す場合も少なくない。
      一方、無我の静まった意識状態では、こうした精神的な混乱はなく、落ち着いて物事を見ることができる。また、こだわりがないゆえに、こだわりによって見えなかった突破口も見えてくる。さらに、不思議なことだが、こうした意識状態においてこそ、直感・インスピレーションが生じやすい。仏教の経典の一部も神通力を説くものがあるが、それは煩悩・欲望が静まった人間の精神に生じる、高度な智恵のことを意味するのではないかと思う。


    (6)輪の法則:万物一体、万物を喜びとする悟り

      輪の法則は、無我の法則をさらに推し進めたものだ。先ほど述べたように、自我執着の根本には、自と他を区別する心の働きがある。自と他を区別して、自己を偏愛するのが自我執着だ。
      一方、輪の法則とは、万物が一体平等という思想であり、私たちが日常的になしている自と他の区別とは、厳密には錯覚であって、実際には自と他を含む宇宙の万物は一体であるという真理を示している。
      これは科学的に、自分や他人、自分と外界を観察すればわかる事実・現実である。どんな人間も一人だけで生きることなどできず、絶えず空気・水・食べ物などを外部から取り入れ、排出して、外界と一体となって生きている。人は宇宙の一部であり、「私」とは他から独立した存在ではなく、いわば、宇宙の中に「私」と名付けられた場所があるようなものである。しかも、その場所の範囲は、絶えず変化しており、その内と外に明確な境界はない。
    この真理を悟るならば、単に心が静まるだけでなく、自と他の区別を超えた、広く温かな意識が生まれてくる。それは、万物との一体感であり、万物に支えられていることを認識した万物への感謝・尊重を伴う意識である。私は、これが大乗仏教の説く悟りの境地だと考えている。この境地を垣間見るようになれば、自と他の区別に基づく自我執着は相当に弱まっており、さまざまな苦しみも同時に減少する。


    (7)サンガの重要性:実際に法則を体得するためのポイント

      さて、これらの法則を言葉で言ってしまうと簡単な面もあるが、実際に体得・実践するのは、一筋縄ではいかない場合もある。それが容易であれば、ある意味では、誰もが苦しみを容易に脱却できているだろう。しかし、苦しみは苦しみ、喜びは喜びと見て区別する、これまでの習慣によって、なかなか苦しみの裏側に、喜びが見いだせない場合もある。
      実際に、苦しみの裏に喜びがあるといっても、こうした法則は、いわば一般論、公式であって、自分の苦しみ・苦難に具体的に当てはめて、自分の場合は、どのような喜び・利点が、その裏にあるかを見いだすことは、また別である。すなわち公式の応用力・適用力の問題があるのだ。
      また、世間一般は、苦しみの裏に喜びを見いだすことがない中で、そのように信じて見いだす努力をすること自体に、本当にそうなのだろうか、本当にそう考えられる自分になれるのだろうか、という心細さを感じることもあるだろう。
      そこで、仏陀が説いたのは、同じ志を持った者が集まり、助け合ったり、切磋琢磨したりすることの重要性ではないかと思う。仏陀の教えは、仏・法・僧と訳される三宝を尊重することを説いた。サンスクリット語では、ブッダ・ダルマ・サンガといわれる。
      ブッダ(仏)は道理・法則に目覚めた人であり、ダルマ(法)はブッダの教え・法則である。そして、サンガは、僧伽(そうぎゃ)・僧と音訳される。その意味を表す漢訳は、「衆(しゅ)」、「和合(わごう)衆(しゅ)」などである。すなわち、サンガの元の意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。
      こうして、仏教では、サンガは、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重された。サンガは、仏陀の教えを実行し、その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。なお、狭い意味では、サンガは仏教の出家者の教団を指す。
      ところが、中国や日本では、出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じた。そのため、僧という言葉が、集団・集会を意味する本来のサンガ(僧伽)とは、大きく違った意味で用いられるようになった。
      それはともかく、学業や武道をはじめ、どのような習い事も、同じ志を持つ者たちが、道場や教室などを場として集い、先輩後輩の間で助け合ったり、互いに切磋琢磨したりすることは、大きな効用がある。
      法則も、単に頭から知識として学ぶのではなく、それを長く深く実践してきた先輩などと直に接して感化を受け、肌から学ぶ、心と体から学ぶ部分があるのは、いうまでもない。
    これによって、独りでは、なかなか法則を体得できず、それどころか、疑問も多々わいて、心細くもあるといった問題を和らげることができる。ひかりの輪も、各地に教室を設け、専従スタッフが運営し、それが良きサンガとなることを志している。
      さらに、ひかりの輪は、サンガの良さをフルに生かしたものとして、「悟り集中修行」というものを行っている。それは、ひかりの輪の支部教室にて、法則を学び体得する者が集い、丸一日ないし数日の間、集中した修行実践をするものである。
      皆がよく集中できるように、一人一人のために一定の個別の空間を作り、その中で、他の用事・雑務を排除して、集中的に法則の学習を行い、法則に基づいた思索を深め(法則を自分の問題に当てはめる)、法則に基づいた思考を修習・瞑想する。
      これは、浄化された空間、同じ志を持った者が集うことによる目に見えない相乗効果、先輩の助言・助力といった環境と、各人が他の用事を排除して法則の体得に一定の長時間の間、専念・集中するといった条件が相まって、法則の体得に、大きな効果を発揮する。


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21世紀の社会のための仏教・宗教哲学

  • 2016年GW特別教本『新しい幸福と成長の哲学』第1章公開

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    第1章 仏教の幸福哲学:心が作り出す幸不幸


    1 一般的な幸福観

    一般には、「今よりもっと」「他人よりもっと」と、何かの喜びを求めて、それを得ることで幸福になると考える。しかし、実際には、多くの場合、必ずしもそうできないので、人は苦しむ。求めても得られず、むしろ失う場合もある。求めれば奪い合いが深まるから、他と苦しめ合う場合も多い。結果として、「求めても得られない幸福という苦しみ」が生じる。言い換えれば、「逃げようとしても逃げられない苦しみ」が生じる。


    2 苦と楽は表裏という思想

    このことを仏教の説く人の心の仕組み(仏教の心理学)に基づいて、もう少し詳しく分析すると、「苦と楽は表裏である」という道理があることがわかる。
    第一に、「楽の裏に苦がある」ということである。例えば、人は、何かの幸福を得ても、ずっと満足することはなく、それに飽き足りなくなって、もっと欲しくなる。特に、他と比較して、「自分も他人と同じように欲しい」、さらには「他人よりも欲しい」と思う。先ほど述べたように「今よりもっと」「他人よりもっと」ということである。こうして、健やかに生きていくに十分なものを得ていても、それ以上に欲求する。
    しかし、こうして果てしなく欲求すると、様々な苦しみを招く。そもそも、際限ない欲求自体がストレスである。求めても得られない苦しみが生じる。さらに、得たものさえ失う苦しみがある。そして、求めるほど、他との奪い合いは激しくなり、それによって苦しむこともある。
    第二に、第一と逆に、「苦の裏の楽」がある。苦しみは、後に様々な幸福に繋がる面がある。人は、苦しみがあるから努力し、成長する面がある。苦しみが自分を鍛えて成長を促すのである。
    そして、究極的には、苦しみは、仏教的な悟り・慈悲の原動力になる。というのは、すべての苦しみは、「私」と「私のもの」に過剰に執着すること(自我執着)によって生じるので、(仏教的な悟りの教えを知る者にとっては)苦しみを体験することは、自我執着を弱めて悟りに近づこうとする動機を強めるからである。
    さらに、苦しみの体験こそが、悟りの終着点である慈悲の心を培う上で役に立つ。自己の苦しみの体験が、他の苦しみを理解して慈悲を培う土台となるからである。


    3 仏教的な幸福観:苦楽に頓着せず、分かち合う幸福

    苦楽が表裏であることを踏まえ、仏教が説く「真の幸福」とは何かと言うと、楽を過剰に貪らずに、足るを知って、他者と楽を分かち合って、幸福になることである。この「足るを知る」とは、今ある多くの恵みに気づいて感謝し、その恩返しとして他と楽を分かち合うとも表現できる。
    その意味で、これは、①今ある幸福に気づくこと、②他者と幸福を分かち合うことによる幸福である。言い換えれば、「(今ある幸福に)気づく幸福」と「分かち合いの幸福」である。言い換えると、感謝と分かち合いの幸福、知足と慈悲の幸福である。
    一方、「今よりもっと・他人よりもっと」と幸福を求めることは、現状への不満に基づいて、他者から奪い勝って、幸福を得ようとするものである。言い換えると、「(今ないものを)未来に求める幸福」であり、「奪い勝つ幸福」である。不満と奪い合い、貪りと奪い合いの幸福である。
    そして、仏教的な幸福観では、苦しみに対しては、苦しみを過剰に厭わずに、苦しみの裏にある喜びに気づいて、苦しみを喜びに変えて幸福になる。これは、苦しみにも感謝することに繋がる。
    さらに、これに基づいて、他者の苦しみに関しても、それを分かち合うことによって、他者だけでなく、自分も幸福になると考える。よって、楽とともに苦しみをも分かち合って、苦楽を分かち合うことで幸福になるとする。
    一方、一般的な幸福観では、苦しみに対しては、それからなるべく逃げようとして、その中で、他者と苦しみを押し付け合う面がある。楽を奪い合い、苦しみを押し付け合うのである。
    なお、仏教が説く慈悲とは、まさに他と苦楽を分かちあうことと表現できる。慈悲の慈は、他に楽を与えることとされる。悲は、他の苦しみを(自己の苦しみのように)悲しみ、それを取り除くこととされる。こうして、慈悲とは、苦楽の分かち合いにほかならない。そして、仏陀の持つ大慈悲の心とは、すべての人々・生き物に対する慈悲である。


    4 仏教的な幸福観・生き方の恩恵

    上記の仏教的な幸福観、すなわち、楽を過剰に貪らずに足るを知り、苦を過剰に嫌がらずに喜びに変え、他者と苦楽を分かちあう幸福観・生き方には、気づきにくいが、実際には、様々な重要な恩恵がある。
    第一に、心の安定と広がりである。苦楽に過剰に頓着して、一喜一憂しないために、心は安定している。また、他と楽を奪い合わず(苦を押し付け合わずに)、分かち合うので、心が広がる。これは、自分と他人の真の幸福が一体であると気づいて、自と他(の幸福)を区別しないため、心が広がるとも表現できるだろう。
    第二に、深い智恵(智慧)、すなわち、物事を正しく認識する力が生じる。合理的な判断力や直観力などが生じる。心が安定していると物事を正しく見ることができる。波立つ感情に左右されずに、合理的な判断ができる。さらに、心が静まっている時にこそ、直感が働きやすい。
    第三に、健康・長寿をもたらす。心が安定し、ストレスが少なければ、ストレスを原因とした悪い生活習慣による様々な病気(生活習慣病)、心因性の病気、そして、免疫力の低下を防ぐことができる。
    また、東洋医学の思想で言えば、心が安定して広がっていると、体の中の目に見えないエネルギー(気)の流れがスムーズになり、心身の健康をもたらす。逆に、気の流れが悪い所が病気になる(そもそも「病気」という漢字の意味は、病気が「病んだ気の流れ」によって生じることを意味している)。
    第四に、良い人間関係をもたらす。これは、他と奪い合わず、苦楽を分かち合う生き方をするのであるから、自明であろう。
    さらに、仏教的な生き方は、こうした様々な恩恵を得つつ、継続的な地道な努力によって、(他者・全体のために)有意義な事柄をなす人生を送ることができる。


    5 仏教的な幸福観と競争に関して

    他と幸福を奪い合わないとする仏教的な幸福観は、必ずしも競争を否定するものではない。なぜならば、競争には二つのタイプがあるからである。ないしは、競争する人の姿勢には、二つのタイプがあるからである。
    一つ目は、互い・全体が向上する切磋琢磨としての競争である。これは、仏教的な幸福観と矛盾せずに合致する、他者・全体への愛・慈悲の実践と解釈できる。
    実際に、切磋琢磨が全くなければ、馴れ合い・腐敗・堕落・怠惰などで、皆で悪い方向に行く場合も少なくない。この意味で、競争による切磋琢磨により、お互いの良い所を見て学び合う機会や、お互いの問題点を指摘し合って解消し合う機会を得て、互いの努力を深めることは有意義だろう。
    二つ目は、自分が勝つことだけを目的とした競争である。これは、他に勝ったり負けたりして、互いの成長を図るのではなく、自分の勝利だけを至上とする姿勢である。これは、優越感を満たすことだけが目的とも表現できるだろう。
    これは、仏教的な幸福観とは合致しない。他の勝利を憎み、他者・全体への愛は育たない。負けた場合は、卑屈・妬みに苦しむ。よく勝つ者でも、長い間には、落ち目があり、それに苦しむ。老化のため、勝つ力は、誰でも尻すぼみである。
    さらに、勝利至上主義は、競争自体を損なう。負けることを強く嫌がって、競争自体を避ける場合がある。これでは、切磋琢磨し合う者(競争の参加者)が減る。優越感を満たす欲求が強いと、そうできない場合には、強い劣等感が生じる。別の問題として、競争上のルール違反、不正行為をなす者が出る。嘘・偽装・盗作・中傷など。これは、本来の切磋琢磨による成長・向上を妨げる。現代社会の競争に多いのではないだろうか。


    6 幸不幸を含めた全ては心の現れ

    「苦楽は表裏であって、苦楽の分かち合いが真の幸福の道」と説く仏教の教えを言い換えれば、「苦しみは煩悩から生じ、真の喜びは慈悲から生じる」ということになる。
    そして、この教えの土台には、「苦楽、幸不幸は、自分の心が作り出す」という思想がある。これは、心の持ち方、視点、価値観を変えれば、より幸福を感じることや、不幸・苦しみを和らげることができるということである。
    そもそも、仏教では、幸不幸に限らず、「全ては心の現れ」とも説く。実際に、私たちが感じる「外界」とは、実際には脳内の情報であって、外界を直接に感じたものではない。外界の刺激は、感覚器官が、脳に伝える信号を出すきっかけにはなるが、脳が感じるもの自体ではなく、信号を受け取った脳は、関連した情報を瞬時に引き出し、それら全体を私たちは感じている。
    この際、それが良いとか悪いとか、楽であるとか苦であるといった印象も生じる。こうして、私の脳・意識・心が、いろいろな解釈を加えている。よって、同じものを体験しても、異なる人には、異なった体験・印象が生じる。人によって、同じものに対する良し悪し・苦楽の印象も異なる。こうして、一人に一つの宇宙(の体験)がある。私たちが「外界」と呼ぶものは、「自分の脳・心の中にある外界」の体験である。
    これは、一部において、自分の夢の中に現れる他人が、自分の意識が作った他人にすぎないことと似ている面がある。現実の体験も夢の体験も、脳内の情報の体験である点は違いがないからだ。目に見えるものは「目の前」にあると感じられるが、実際には「目の後ろ」にある脳内の情報である。そのため、現実と同じほどリアルな夢を見る場合もある。
    こうして、「外界」と呼ばれる体験が、自分の意識の中の体験であるならば、自分の意識・考え方・心の持ち方・視点などを変えることで、その「外界」の感じ方を大きく変えることができると仏教は説く。具体的には、喜びを感じなかったものに喜びを感じることも、苦しみを感じたものに喜びを感じることもできる。以下にいくつかの事例を挙げて、これを説明する。


    7 貪りを捨て、感謝の心を持つと、大きな喜びが生じる

    人の心には、際限のない欲求(貪り)がある。どんなに得ても、満足せず、もっと欲しくなる。すでに得たものは、どんなに多くても、当然のものとなって、飽きてしまう。特に、他人と比較して、「他人と同じように得たい」、「他人よりももっと得たい」と感じる。自分と他人がともに多くを得ていても、お互いの間の差に意識が集中し、「(他よりも)もっと欲しい」と感じるのである。これは「優越感を満たしたい」という欲求が背景にあるからだろう。
    そのため、我々の住む「21世紀の日本社会」は、客観的に見れば、「人類史上最も恵まれた社会」と言っても過言ではないが、ほとんどの日本人には、「最も恵まれた社会」のようには感じられていないだろう。毎日見る日本社会の印象は、大して変わり映えせず、楽しいこともあるが、いろいろ嫌なこともあるといった印象だろう。人によって、楽しいことが少なく、嫌なことが多いと感じているかもしれない。
    しかし、客観的には、今現在の他の国々と比較しても、世界最高の長寿、突出した安全性、有数の豊かさがある。さらに、現在の人類が生まれて以来30万年の間に、一説では5000億もの人類が生まれたともいわれるが、その5000億の中で、僅かに70億のみが、21世紀に生き、1億3千万のみが、21世紀の日本社会に生きている。
    仮に、イエスや仏陀の時代の人々が、現代日本にタイムトラベルしてきたら、これこそが、極楽浄土・千年王国と思うかもしれない。科学技術と物資の豊かさ。人種・民族・性・階級による差別や、暴力の支配を否定した平等主義・民主主義の社会と、その中で育った人々の意識や言動。それは、高度な科学と高徳の人々が集う仏教伝説の理想郷である「シャンバラ」とさえ、映るかもしれない。
    言い換えれば、様々な物資・技術・思想・規範・制度など、私たちの日常は、先人の血と汗の結晶によって作られた膨大な贈り物に満ちている。私たちが、得ているものを当然と見る貪りの心を捨てて、得ている恵みの大きさに気づこうとする感謝の心を持てば、21世紀の日本社会は、貴重な宝に満ちた世界と感じられるのではないだろうか。
    この意味で、外界に恵みを感じる時は、私たちは、「感謝」という「心の豊かさ」の投影を見ているのではないだろうか。逆に、外界に不満ばかりを感じる時は、私たちは「貪り」という私たちの「心の貧しさ」の投影を見ているのではないだろうか。


    8 幸福を求めても得られない苦しみに対して

    多くの人が、幸福を求めても、なかなか得られないという苦しみを抱えているだろう。しかし、幸福は心が作り出すという視点から見れば、それも、心の持ち方が問題なのである。具体的には、例えば、以下のような問題がある。

    (1)とらわれ過ぎている

    すでに述べたように、苦しみの原因として、過剰な欲求・とらわれがある。よって、「それなしではいけないのか」、「多くの人々がなしで生きているのではないか」と自問するとよいのではないか。
    ただし、これは、「いかなる欲求も捨て、何もしなければよい」と主張しているのではない。何か有意義で重要な事柄を実現しようとする場合でも、とらわれ過ぎない方が逆にうまくいくからである。
    とらわれ過ぎると、心身が緊張して、最善の思考・行動が妨げられる。そうした場合は、とらわれを減らすとうまくいく。前に述べたように、心が静まると、物事を正しく見ることができるし、最善の行動ができる。
    よって、そうした時は「あまりうまくやろうと思わない方がうまくいく」と自分に言い聞かせるとよいだろう。これは、格言で言えば、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」、「勝つと思うな、思えば負けよ」といったものに通じるものである。

    (2)すでにある幸福を見ようとしない

    今は得ていない幸福を、未来に得ることが幸福だとばかり考えている。言い換えると、感謝が少なく(足るを知らず)、自分よりも恵まれている人ばかり見て(妬み)、恵まれていない人のことは考えない(慈悲に乏しい)。
    21世紀の日本社会が、客観的には人類史上最も恵まれた社会であるように、実際には、(自分も他人も)得ている幸福の方が、まだ得ていない幸福よりも膨大である。しかし、これに気づいて感じることはない。というのは、常に「今よりもっと」「他人よりもっと」と求めて、「皆が得ているものは当たり前だ」と思っているからである。これは貪りの心が生じさせる苦しみである。

    (3)他の幸福を喜びとしない

    常に自分が(他よりも)幸福になることばかりを考えている。「自分の幸福は喜びだが、他の幸福は妬ましく、自分には苦しみだ」と思い込んでいる。言い換えれば、「幸福は、自分と他人の間で奪い合うもの」とばかり考えている。
    しかし、実際には、「他の幸福を自分の喜びとする」という幸福がある。言い換えると、「広く温かい心による幸福」とも表現できるだろう。そして、これには非常に多くの恩恵がある。
    まず、広い心自体が、生理的に心地良いものである。そして、これには、他との奪い合いがなく、分かち合いがあるから、精神的な安定や健康、さらには、良好な人間関係が得られることになる。
    また、これは、加齢とともに失われる幸福ではなく、心の訓練を続ければ、死ぬまで増大していく喜びである。そして、自分は1人だが、他は無数に存在するから、自分の幸福だけを喜びにするよりも、はるかに多くの(無数の)喜びを得ることができる。

    (4)分かち合うものこそ、最高のものと気づいていない

    「他人より多くを得ることが幸福だ」と思い込んでいるために、実際には「他と分かち合っているものこそ、最高のものである」と気づくことができない。自分のものだけを喜びとし、他人のものは妬ましく思う中で、共有しているものの価値・喜びを見失っているのである。
    実際には、この世界で最も価値があるものは、自分のものも他人のものも、自分も他人もすべてを含み、生み出し、包んでいる、宇宙、地球、大自然の万物であろう。その素晴らしさ・価値を感じることができない。
    逆に、宇宙万物に比べれば、極めて卑小であって、さらに長続きしないものが、自分や他人の財産・地位・名誉である。しかし、そうしたものが、自分のものか、他人のものかに関して、滑稽なほどに、一喜一憂している。言い換えれば、真の幸福(=万人と分かち合っているもの)に気づいていないため、偽りの幸福を追い求めて、苦しんでいるとも表現できるだろう。


    9 「逃げられない苦しみ」という悩みに関して

    次に、逃げられない苦しみに悩んでいる場合である。苦しみがあっても、逃げることができれば、そうすればよいし、たいていの人は、すでにそうしているだろう。しかし、人生には、なかなか逃げられない苦しみがある。
    これに対しては、心の持ち方・視点を変えて解消することが唯一の対処法である。逆に言えば、「心の持ち方が、苦しみを作り出している」と考えるのである。具体的には、例えば、以下のような心の問題が、苦しみを作り出す。

    (1)実際よりも悪いと考えている

    苦しみを増大させる一つの要因は、実際よりも、苦しみを過大視すること。実際よりも悪いと考える。例えば、何か嫌なことを経験する時だけでなく、する前も、した後も「嫌だ」と思い、そのため、合間なく、ずっと苦しむなど。「苦しみが永続し、合間がない」と感じる。
    実際には、苦しみは、時とともに消えていくものだし、生じたり消えたりと合間もあるものである。これは、(苦しみを過剰に)嫌悪するために生じる苦しみである。
    よって、「それは、それほど悪いのか」と自問するとよいのではないか。

    (2)良い面もあることに気づかない

    先ほど述べたように、苦しみの裏側には喜びがあり、苦しみは、人の努力・成長をもたらす。仏教的な悟りの原動力や慈悲の土台にもなる。言い換えると、目先は苦しみであっても、その先には様々な恩恵がある。
    しかし、このことに気づかずに、苦しみは、「悪い」とばかり考えてしまう。同じように、目先の喜びに対しては、その先にある苦しみに気づかずに、それに流されてしまう。
    よって、「それは、良い面もあるのではないか」と自問するとよいのではないか。

    (3)必要な面があることに気づかない

    全く苦しみがなければ、本当の努力・成長はできないだろうし、悟り・慈悲を培うこともできないとすれば、全く苦しみがないことは恐ろしいことであり、一定の苦しみは、人に必要なものだろう。ところが、私たちは、無意識的に、「苦しみは、なるべくない方がよい」と考えてしまう。
    よって、「(この苦しみは)必要なのではないか」「自分の抱えている苦しみは多すぎるのか、それとも少なすぎるくらいなのか」などと自問するとよいのではないか。
    なお、仏陀の教えは、苦行主義を否定している。言い換えれば、苦しめば苦しむほどよいとは主張していない。快楽主義も苦行主義も否定する。これは、楽にも苦にも偏らない中道とされる。


    10 各種の苦しみの裏にある喜び・恩恵の事例

    次に、批判、失敗・挫折、経済苦、病苦といった、よくある苦しみに関して、その裏側にある恩恵を意識する瞑想について述べる。

    (1)批判

    全く批判がなければ、必要な反省・成長ができるか。自分の欠点全てを自分で気づくことができるか。批判は、反省・成長に必要であり、将来の称賛をもたらす。さらには、自己愛を弱め、悟りに近づく機会も与える。

    (2)失敗

    全く失敗・挫折がなければ、本当に成功できるか。真の成功とは、失敗とその反省・改善の努力から生じるのではないか。失敗は成功の元であり、すなわち、成功へのステップである。

    (3)経済苦

    全く経済苦がなければ、本当に豊かになれるか。経済苦は、質素倹約の智恵を生み、その意味で、浪費を解消し、安定した豊かさをもたらす。また、経済苦の体験は、貧しい人たちへの慈悲や、自分のものに執着せずに、宇宙万物を自分の本当の宝とする悟りの境地の土台となる。

    (4)病苦

    全く病苦がなければ、本当に健康になれるだろうか。何か一つ病気があると、体をいたわり長生きするが(一病息災)、健康自慢の人は、過信のため、早死にする場合が多いという。さらに、病苦の時こそ、自分一人で生きているのではないと気づき、他者への感謝・謙虚な心が芽生えることも多い。さらに、老いや死の苦とともに、自我執着を越え、悟りの境地に至る助けになる。


    11 敵と友も心が作り出す

    人にとって、最大の苦しみの対象の一つである「敵」という存在も、自分の心の持ち方が作り出す面がある。すなわち、心の持ち方によって、友が敵に見えるし、逆に敵を友と見ることも可能なのである。以下に、その事例を挙げる

    (1)妬み:優れた他者(仏)が敵(悪魔)に見える

    「自分が一番になりたい」、「独占したい」という欲求が強いと、優れた他者は、妬みのために、自分の邪魔・敵に見える。その場合は、本来は自分を幸福に導く仏陀のような人でさえ、悪魔のように見えてしまう。
    しかし、純粋に自分が向上・成長して幸福になろうとすれば、優れた他者こそは、自分の見本となり、向上・成長に不可欠である。良き切磋琢磨の相手である好敵手は、敵ではなくて、最大の助力者・最大の友ともなり得る存在である。

    (2)怠惰:自分を批判する者は全て敵と見える

    批判は辛いが、自分では気づかない自分の問題点を知って成長する機会を得る場合もある。実際に、他人は、自分の成長を期待して、批判する場合も少なくない(逆に言えば、批判されなくなったら、見捨てられているのかもしれない)。また、たとえ理不尽な批判であっても、自分の精神力・忍耐力を鍛える機会として活かすこともできる。
    よって、向上心が強ければ、自分を批判する者が、「自分の成長の助力者」と見えるが、怠惰と未熟な自己愛が強いと、「敵」と見えやすいことがわかる。

    (3)コンプレックス:いろいろな人が敵に見える

    コンプレックスが強い場合、「他人が自分を嫌っている」とか、「不当な扱いをしている」と、すぐに考えやすい。一種の被害妄想である。すると、多くの人を敵と見やすくなってしまう。これは、劣等感・自己嫌悪・卑屈が背景にあって、それが、他への過剰な嫌悪に繋がるという心理構造である。

    (4)悟りの心:憎むべき敵さえも、仏に見える

    自分を憎む敵対者も、悟りを求める者には、悟りへの重要な助力者・原動力になる。というのは、自分が、自我執着を弱めるならば、敵対者による苦しみも弱まるからである。
    よって、いにしえの仏道修行者は、敵対者を重要な修行課題としてきた。悪魔さえも、自分の悟りを促す、仏の化身・仏法の守護神と見る瞑想や、仏陀と父母と敵対者をすべて平等に愛する瞑想もある。
    こうして、心の持ち方によって、仏が悪魔に見えることもあるし、逆に悪魔が仏に見えることもある。


    12 苦しみを和らげる仏教の三毒の教え

    前に述べたように、仏教は、苦しみは煩悩が作り出すと説く。そして、煩悩の中には、三つの根本的な煩悩(三毒)があるという教えがある。その三毒とは、貪り・怒り・無智などと訳される(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))。
    よって、日常生活でいろいろな苦しみを感じた時に、「この三毒が原因ではないか」と自問してみることは有益である。そして、自分に思い当たる節があれば、苦しみが和らぐだろう。具体的には、以下のように自問・瞑想するのである。

    (1)貪り=欲張り過ぎ

    貪りとは、過剰な欲求、欲張り過ぎである。あれやこれや求め過ぎれば、得られない場合の苦しみや不安は増大する。よって、苦しみを感じている時に、「(本当に必要なものではないのに何かを)欲張り過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、とらわれ過ぎによる苦しみと同じである。

    (2)怒り=嫌がり過ぎ

    怒りとは、よりわかりやすく言えば嫌悪であり、嫌がり過ぎである。よって、苦しみを感じている時に、「(それを苦しみだとばかり考えて、何かを)嫌がり過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、苦しみの過大視や、苦しみを悪いとばかり考え、その裏の良さ・必要性を理解していない場合と同じである。

    (3)無智=怠け過ぎなど

    無智は、三つの根本煩悩の中でも、さらに根本的な煩悩である。すなわち、貪りと怒りも、無智から生じている。それは、物事をありのままに見ることができない(縁起や空を理解できない)ために、自と他の幸福を区別し、苦楽表裏を理解せずに、「自分だけが早く楽に幸福になろう」とする意識状態である。そのため、無智は怠惰を含んでいる。
    よって、苦しみを感じている時に、「(その原因が)何か必要な努力を怠っているからではないか」と自問して、思い当たる節がないかを考えてみるとよいだろう。というのは、人は、最初は、必要な努力を認識していても、怠惰によって、それを実行したくない場合、それを忘れてしまい、その後は、なぜ苦しんでいるのかが、わからなくなるからである。

  • 2014~2015年 年末年始セミナー特別教本 『哲学・科学・宗教  21世紀の日本の道』第1章公開

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    第1章 哲学・科学・宗教:人類の叡智を総覧する


       この章では、哲学、科学、宗教といった人類の叡智とされるもの全体に関して考察してみたいと思う。そして、これは、現代に生きる私たちが、常識として確かなものと信じているものが、いかに実際にはあやふやなものであって、現代も、近代や中世と変わらぬほどに、依然として発展途上であるということを知る手助けとなる。それは、いわゆる無知の知・謙虚さという偉大な智恵を与え、その結果として、真の智恵・叡智の進歩に役立つものだと信じる。


    1.哲学とは何か

       哲学の原語であるphilosophiaは、philein(愛する)と、sophia(知恵、知、智)が結び合わさったもので、「知(智)を愛する」、「愛知(智)の学」といった程の意味になる。なお、「哲学という日本語訳は、明治時代に西周(にし あまね)が用いて一般的に用いられるようになったという。
       よって、何を研究する学問であるかは決まっておらず、物理学とか、医学などと違って、学問の対象が決まっていないのである。広辞苑によれば、哲学とは、以下のように定義されている。

    「古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」
    (『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年、「哲学」より)

       すなわち、古代は、哲学は、学問一般であった。学問とは哲学であった。その後に、諸科学が哲学から分化・独立して、それ以外が哲学として残ったということである。

       哲学のテーマは、一定していないが、よく扱われるものは、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがあり、抽象度が高い概念であることが多い。
       また、その世界や物事や人間が、どのように存在しているかを論じる「存在論」と、「善とは何か(あるのか)」といったことを論じる「価値論」がある。
       また、近年は、哲学といえば、今現在の課題を扱うというよりも、過去の哲学(の歴史)を研究する学問とされることが多い。例えば、ギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)の主題、著作、哲学者を研究の対象とする学問である。


    2.さまざまな地域の哲学

       ヨーロッパ哲学は、その大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であるといえる。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。

       次に、東洋哲学についてであるが、哲学とは西洋で生まれたものだが、中国哲学、インド哲学、日本哲学というように、東洋思想を哲学と呼称する場合も多い。
       インド哲学は、インドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするが、インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。よって、インドの宗教には、哲学的でない範囲も広くある。
       中国哲学というと、老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家、朱子学、陽明学がよく取り上げられる。


    3.元は一体だった自然科学と哲学

       哲学は、最初から、自然現象の説明に努力した。そもそも、19世紀までは、科学(science)や自然科学(natural science)という言葉ではなく、「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われていたという。例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である。
       しかし、近代において、実験を重視する実験科学が登場すると、哲学と自然科学が分離し始める。こうして独自の研究方法が確立した分野が、哲学から分離して、諸科学となって、それ以外の分野について考えるのが哲学という感じになっていったようである。よって、哲学の研究対象として、科学的な研究方法が定まらない分野と、それに加えて、「どうあるべきか」「善とは何か」といった倫理や価値論の分野が残っていったということになる。


    4.現在までの哲学と自然科学の相互作用

       知・智を愛する哲学は、自然科学を無視することはなく、自然科学の新たな発見が、旧来の哲学を変化させたり、その逆に、古代の哲学者がなした科学的な知見が、自然科学の分野であらためて証明されたりすることもあった。
       特に近代の哲学者は、自然科学者の成果を重視し、観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。逆に、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題、例えば、科学と非科学の区別などについては、哲学者が考察を行ってきた(科学哲学)。こうした哲学者の活動が、新しい科学理論の形を呈示した場合もあり、相互に影響を与えている面もある。


    5.宗教と哲学:対立的な関係と類似性

       哲学は、宗教と同様に、神の存在に関連している分野を含んでいる。そのため、両者の厳密な区分は難しい。ただし、それは科学と非科学の区別が難しいのと同じように、境界がはっきりしていないということであって、理性を重視する哲学とは明らかに異なる宗教と、理性を否定する面が強い宗教の区別は可能である。
       そもそも、宗教哲学の項で述べるように、理性を重視する哲学は、その始まりから、理性を否定して盲信に陥る一面がある宗教に対して、懐疑的な姿勢を取ることが、その一つの役割であった。
       そして、宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、理屈や議論を敬遠した面があったろう。
       哲学と宗教との差異として、理性に基づく疑問・考察があるか否かがあげられることが多い。もちろん、宗教の中には、仏教のように哲学的で、師匠の見解に対する疑問・批判的な考察・改良を許してきた伝統があるものもあるが、信仰の遵守を求めるドグマ性があって、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして、比較される。
       そして、西洋における哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきたといった見方は、今日一般的な哲学観となっている。


    6.宗教哲学の誕生

       宗教哲学(philosophy of religion)は、18世紀末ごろにヨーロッパにおいて成立したもので、宗教一般の本質、または、あるべき姿を探求するとともに、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解することを目的とする。
       前に述べたように、古代ギリシアなどで哲学が誕生した時から、それは、伝統的宗教に対する疑問と結びついていた。
       哲学は、理性によって宗教を解釈し、捉え直そうとしていた。そして、近世になると、ヨーロッパで強まった理性の啓蒙は、キリスト教の伝統的な信仰や神学を批判する哲学の流れを作った。
       その結果、二つの流れが生じた。一方では、宗教を理性によって否定しようという流れが生じ、一方では、その真逆に、理性を否定して、信仰の立場を維持・確立しようという流れである。これは、今現在の人類社会にも当てはまるかもしれない。いわゆる、宗教を否定する無神論の流れと、原理主義的・保守的な宗教に回帰する流れである。


    7.第三の道としての宗教哲学

       これに対して、第三の道が宗教哲学であった。それは、盲信を排除し、理性に基づいて、理性が納得いくように、宗教を新しく解釈し直そうとするものである。この立場を確立したのが、カントとされる。
       「ひかりの輪」も、オウム真理教の一連の事件に直面した者たちが、それによって、宗教的なものをすべて否定するのでもなく、「アレフ」のように理性を否定して従来の信仰を続けようというのでもなく、理性を否定する盲信を排除し、理性の納得がいくように、宗教を再解釈して、宗教そのものではない、新たな人の幸福の思想・哲学を作り上げようとする点で、この伝統的な宗教哲学の発生と似ている面がある。
       ヨーロッパでは、カントが「単なる理性の限界内での宗教」において、キリスト教の信仰の内容について、それを道徳という実践理性の立場から解釈して、キリスト教の説く真理を人間の普遍的な真理として再解釈しようとした。こうして、彼は、宗教を人間にとって普遍的な意味を持つものとして再解釈する宗教哲学への道を開いた。
       その後、カントのように宗教を道徳の範疇でとらえるのではなく、シュライアマハーのように、「宇宙の直観」などと見たり、ヘーゲルのように「生の根幹」ととらえたりする見方が現れたが、いずれにしも、宗教を理性に基づいて理解するものである。


    8.「ひかりの輪」の基本理念

       さて、ここで、以下に、「ひかりの輪」が、昨年制定(改正)した団体の「基本理念」(団体の綱領)の一部を紹介する。

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                                  「ひかりの輪」基本理念

    1, 思想・哲学の学習・実践を通じて、社会への奉仕に努める

       私たちは、物心両面の幸福のための様々な智恵・思想を学ぶとともに、現代に合ったものを新たに創造・実践し、普及させていく。物の豊かさに限らず、心の幸福・豊かさ・解放・悟り、真の自己実現・人生の目標の達成、さらには21世紀の社会全体の幸福の実現を通じて、社会への奉仕に努めていく。
       そのために、私たちは、仏教などの東洋哲学や心理学をはじめとする東西の思想哲学を学習・実践していく。その対象には、仏教のほか神道、修験道、仙道、ヨーガ、ヒンドゥー、聖書系等の宗教の思想哲学を含んでいるが、私たちは、特定の教祖・神・教義を絶対視して盲信したり、人や自然とは分離された超越的な絶対者を扱ったりすることはないので、宗教または宗教団体ではない。
       また、学びの対象には、宗教思想とともに、心理学、物理学などの自然科学、社会学、人類学、国内外の歴史なども含む。

    2, 宗教ではなく、「宗教哲学」を探求していく

       一般に宗教とは、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され忌避された神聖なものに関する信仰・行事」と定義されており(※1)、その実践においては、崇拝対象に対する疑問や理性による考察を許さない絶対的な信仰や、行きすぎた盲信を伴う場合もある。
       しかし、私たちは、次項以降に述べる理由により、特定の存在に対する絶対視や盲信を否定するとともに、人間から分離された超越的絶対者を崇拝することなく、理性を十分に維持して、私たち自身の内側や周辺の現実世界の中に神聖なる存在を見いだして尊重していく実践を行う。
       これを正確に表現するならば、「宗教」ではなく、「宗教一般の本質ないし、あるべき姿を自己の身上に探求し、理性にとって納得のゆくものとして理解しようとする」とされる「宗教哲学」(※2)の実践といえるものである。

      (※1)岩波書店『広辞苑』
      (※2)岩波書店『岩波 哲学・思想事典』

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    9.宗教哲学の本質:理性と感性のバランス

       こうして、崇拝対象に対する疑問や理性による考察を許さない絶対的な信仰や、行きすぎた盲信を伴う場合もある「宗教」に対して、宗教哲学とは、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解・解釈するものということができるだろう。
       わかりやすく言えば、人は、神的なものを感じる体験をする場合があると思う。しかし、自分が感じたことが、本当に神そのものなのか。それは、あくまでも自分の中の神体験であって、本当に自分を超えた絶対者・超越者である神を体験したのか。
       人は、そもそも外界の存在を直接的に体験するのではなく、自分の中の脳内現象を体験しているのではないか。こうした、客観的な、合理的な視点から、自分の感じたこと、体験したことを検討するのである。


    10.「感じること」と「存在すること」の違い

       人間が「感じること」と、実際に「存在するもの」は同じではない。これは、実は、ほかでもない仏陀の教えのエッセンスである。その意味では、仏教は、宗教とされながら、その中には、一般の人が宗教に抱くイメージとは真逆の要素、非常に哲学的、科学的な視点を含むものである。
       話を元に戻すと、人が、五感と意識、五感と言葉による思考によって把握するものは、厳密に考察すると、物事が実際に存在するあり方とは、実際には大きく異なっていることが多い。
       その良い例が、地動説と天動説である。日常の感覚では、どう見ても、太陽が地球の周りをまわっているのだが、科学の発見は、その逆であることを立証し、その土台の上に、現在の宇宙関連技術は機能している。こうして、科学の発展は、人の感性と異なる世界の真実を示してきた。
       分子生物学の発展は、常識的な人間観も覆している。普通に他人を見ると、自分とは別の生きものに見えるが、自分と他人は、それぞれが吐き出した空気をそれぞれが吸い込んで、それぞれの体を構成する分子を共有している。すべての生命体は、地球生命圏を循環する分子を共有し、一体となっており、「体を共有している」のである。


    11.感性の究極:「神のようなもの」を感じること

       しかし、人は、非常に多くの場合、自分が感じたことに基づいて生きるものだと思う。そして、その感性の究極が、「神のようなもの」を感じることだと思う。人類の歴史を見ると、宗教は人類の文化・社会・国家の中核にあり、無数の宗教が生まれた。ここ数世紀いろいろな意味で世界をリードしてきた欧米社会は、キリスト教社会であり、中世まではキリスト教が絶対であった。
       戦後日本は、国家神道による戦争の反動で、無宗教と自覚する人が多いが、宗教に属さずとも、節々でお寺や神社には足を運んでお祈りをし、世論調査では、人間を超えた大いなる何かがあると思う人が、無いと思う人より多いという。これは、特定の宗教に特化しない、日本人独自のやわらかく高度な宗教心であり、未来の人類のスタンダードだという主張もある。もちろん、戦後も無数の宗教団体が生まれ、活発に活動しているし、そもそもが、国家神道による戦争でさえ、まだわずか70年前のことだ。
       欧米の先進国は、政教分離の原則があるが、政治・国家運営の世界にも、宗教の大きな影響がある。米国大統領は、その就任の宣誓式を「それ故に神よ、私を助けてください」という言葉で締めくくる。宗教こそ、人と動物との違いだという考え方もある。戦後、猛烈な労働で経済を発展させた日本人は、エコノミックアニマルと揶揄されたこともある(なおエコノミックアニマルとは経済に非常に優れた才能があるというほめ言葉という解釈もあるが)。


    12.感性の暴走:盲信

       そして、時には、感性が暴走する。感じたものが感じたとおりに確かに存在すると考えて、客観的に見れば(多くの他人から見れば)、理不尽な形で、他人を傷つける。
       「ひかりの輪」が、反省と教訓の対象とするオウム真理教事件は、教祖と信者が感じた「神のようなもの」が、客観的で合理的な根拠がないにもかかわらず、真理だという集団心理が形成されて、起こされたものであった。
       イスラム原理主義、イスラム国の宗教的な戦争もそうだし、日本こそが神の国だと信じた大日本帝国の戦争にもその一面があるし、欧米の植民地侵略も、キリスト教を唯一絶対の真理と信じて、武力をもってしてでも世界に広めようという一面があった(牧師が軍隊と一緒に侵略した)。


    13.感性の暴走を止める理性

       だとすれば、我々は、感性の暴走に対して歯止めをかけようとする意識を持つ必要がある。感性に対して、理性といえばいいだろうか、客観的・合理的な思考によって、感じたことが実際にそうであるかを検証するのだ。
       その結果として、感じたことを完全に否定することになる場合もあるだろうが、少なくとも、疑問符をつけて、保留扱いにすることもあるだろう。少なくとも保留扱いにすることができれば、暴走することがなくなる。それは、感じたことを絶対視するのではなく、相対化することである。


    14.人は神を知る能力があるか

       神のようなものを感じる人の感性に対して、理性による疑問は、たとえば、以下のようなものである。
      人間は、不完全で全知には程遠く、宇宙のごく限られた範囲しか知らない。完全で全知で宇宙全体に存在するとされる神というものが仮に存在するとしても、それを知ることができるだろうか。神を知ることができるものは神だけであって、神でない者が、神を知ることができるだろうか。
       たとえるならば、バクテリアのような微生物は、人間を理解できるだろうか。サルと人間の違いを理解できるであろうか。犬や猫と人間の違いはどうか。昆虫と人間の違いさえ危ういのではないか。そして、動物や昆虫と、人間を取り違えれば、いったい何が起こるか。次元が違う者は、正しく理解できない可能性の方がずっと高いのではないか。


    15.否定の断定も不合理:理性の暴走・独裁

       しかし、だからといって、神が存在しないというわけではない。あくまでも、人の能力では、神が存在するかどうか、わからないというだけだ。神が存在しないと知ることも、神(を超えた神)でなければできないだろう。感性の暴走を抑制する理性の働きとは、感性を相対化することであって、わからないものは、わからないままにすることである。
       仮に、わからないから、証明できないから、存在しない、と断定することではない。もし存在しないと断定してしまうと、それは、逆に、理性の暴走・理性の独裁となる。感性の絶対性を否定するのはよいが、その反動で、理性を絶対とすれば、同じ愚を犯すことになる。人間は不完全であり、現在の科学さえも不完全であって、発展途上にほかならない。
       にもかかわらず、自分たちがわからないことは全て存在しないと決めてしまうことは、わからないことを確かに存在すると盲信することと、本質的には、同じ愚である。両者とも、無知の知の謙虚さと、それに基づく継続的な探究心を失っている。
       そして、理性に基づいて宗教を理解・解釈しようとした宗教哲学に対して、近年、理性ではそもそも理解できない神と宗教を理性で解釈しようとすることは矛盾しているという批判がある。これも、理性の独裁が起こった時に生じる批判ではないかと思う。何事も行きすぎは問題である。


    16.理性の限界を突破する感性

       科学の発見も、最初は、感性の働きから生じる場合がある。科学が、夢で見たものとか、合理的な根拠はないが、直感的に感じたことなどから生じる場合である。発見・発明とは、それまでにないものを見つけることだから、それまでの常識・知識・概念では理解できないことが多い。
       最近も、ノーベル賞を受賞した中村修二教授は、「ノーベル賞はだれか"狂ったこと"をしてこそ取ることができる。大きな企業には多くの上司がいるから、奇抜なアイデアが最後まで生き残ることはできない」と断言したという。
       例えば、今現在は、近代の自然科学の幕開けとして不動の地位を得ている、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も、発見当時は、十分には理解されずに、「オカルト」とされたことがある。最初は、非科学・まやかしとされたことが、後に科学と認められた事例も少なくない。ガリレオの地動説もそうだっただろう。
      すなわち、理性・合理性の働きは、従来の知識・概念に基づいて推察するという限界がある。だから、理性ばかりに偏り、感性を一切無視すれば、従来の知識・概念を突破して、未知の真実を知るきっかけを失う可能性がある。それは、進歩・進化を阻むことになる。


    17.理性と感性のバランス・調和

       そうすると、結論としては、理性と感性のバランスが必要なのではないかと思う。感じたことはすべて存在するとしてしまう「感性の暴走」と、わからないことはすべて存在しないとする「理性の暴走」という二つの暴走を回避して、感性と理性のバランスをとることである。
       感じたことをすぐに存在すると思い込まずに、理性によって検証してみる。そして、従来の枠組みで直ちに理解できなくても、感じたことをすぐさま否定しない。わからないことはわからないとして、あるともないとも決めつけずに、さらに探究を続ける。無知の知に基づく、継続的な探究心である。
       そのため、「ひかりの輪」の基本理念では、宗教哲学の項目の後に、「自己を絶対視せず、『未完の求道者』の心構えを持つ」「私たちは、謙虚に、自らを『未完の求道者』と位置づけ、道を求め続けていく。」としている。
       そして、理性で宗教の感性の暴走を止めようとした宗教哲学も、理性の独裁ではなく、理性と感性のバランスの上に実践されてこそ、その真の価値を発揮すると思う。


    18.科学と非科学の区別とは

       以上と関連することとして、科学と非科学は区別できるのか、について検討しておきたい。というのは、科学と宗教は、一部の人にとって、よく対極的なものとされるが、この場合は、それは、科学と非科学とはほとんど同じことのように扱われるからだ。
       しかし、結論から言えば、科学と非科学の区別を研究する学問である科学哲学の検討の結果は、両者の境界はあいまいであって、両者を区別する基準は確立できないというものである。
       まず、科学的であることの基本原則は、実験的な結果が再現可能であり、他者が検証可能ということである。STAP細胞は、小保方氏以外の研究者によって再現ができなかったので否定されたのである。そして、科学哲学者のカール・ポパーは、反証が可能であるという意味の「反証可能性」を持つ理論を科学とした。「反証が不可能」な理論は、科学ではないとして線引きされる、という考え方である。
       しかし、現場の科学者たちは、1度でも反証された理論を破棄するかというと、実際にはそうではないと指摘されている。科学者の実態は、ある理論が採用される・されない、というのは、合理的な論理によってではないという。実験を行った結果、彼らの意に反して反証された場合、それを素直に認めることはなく、自分たちが信仰している中心的な命題を守りたがり、実験のほうが失敗だったと解釈したりする。
       しかし、科学の世界では歴史的に見て、ある時代に当然だと認められている命題が、後代になってあっけなく覆ってしまうことが何度も繰り返されてきた。そして、そうした時に、信仰されてきた理論体系を打ち倒しているのは、別の理論体系を提唱した別の科学者集団である。


    19.科学界も歪める集団心理

       「集団心理」と言うが、「多数派の意見に追随して安心したい」とか、「少数派になることは怖い、」という心理・バイアスがかかり、行動・言説が変化してしまうということが明らかにされている。
       科学者も科学界という閉鎖的な集団の場で活動している人間であるので、その例外ではなく、ある科学者の集団(学会など)である理論体系を採用する人が多数派になると、それによってバイアスがかかり、それに追随したいという心理が働き、別の説は支持しにくくなるという心理が働く、ということが指摘されている。これは、まさに宗教団体にも通じる構造である。
       また、さらには少数派の説を非難することで自分が多数派に属していることを誇示することでバッシングに合わないようにする心理が科学者にも働くという。学校の教室のいじめの行動、および、いじめられ回避の行動と似ている。宗教団体でも同様である。


    20.統計とバイアス:プラシーボ効果

       反証主義以降に、ある頻度で起こるというように確率的にものごとを検証する方法としての統計学が発達していったが、この場合も、人間の心理的な原因によって、バイアスが起こり、例えば、自分の都合のいいように証拠を集めるバイアスもある。
       こうしたことを避けるため、観察者にも誰に偽薬を渡したのかわからない計測方法である二重盲検法が導入された。そして、偽薬や偽治療によっても心理作用によって効果が出るというプラシーボ効果が発表され、従来認められていた効果が単なるバイアスやプラシーボ効果である可能性が指摘されるようになった。
      こうした中で、2000年以降は、医学の分野では根拠に基づいた医療(Evidence Based Medicine)が大きく展開され、統計的な有効性といった科学的根拠に基づいた診療ガイドラインが作成されるに至った。


    21.科学界と産業界のつながり

       業界の利益を脅かすような問題が起きると、業界団体がその問題の研究を始める例が、ここ30年間で非常に増えている。 例えば、ある企業の従業員が危険なレベルの化学物質にさらされていることが研究から明らかになったとしよう。
       そういう場合の企業の典型的な対処法は、自社で研究者を雇ってその研究を批判する研究をさせることだ。また、ある薬の安全性が取りざたされると、製薬会社の経営陣は健康に対する深刻な危険はないとする実験結果をさかんに宣伝する。この手の研究は会社の資金で行われ、不安を感じさせるような結果は無視したり隠したりする。
       米国産業界の一部では脅威となる研究を「ジャンクサイエンス(ニセ科学)」だと非難し、反対に業界が委託して行った研究を「サウンドサイエンス(健全な科学)」として正当化することが常套手段になっている。


    22.疑似科学による悪徳商法、宗教の霊感商法

       疑似科学は、悪徳商法と親和性が高い。特に、偽医療の分野に親和性が高く、療法の根拠として使われることがある。世間に広く知れ渡っている医学的俗説の中には、医学的な正当性がないにもかかわらず医師がこれを信奉しているものもあるため、不適切な医療行為の原因になる恐れが指摘されている。
       そして、これは、宗教団体・精神世界関連団体でも批判される霊感商法と構造は同じだろうと思われる。どちらも、例えば、健康問題や悪霊憑依など、何かの実在しない危険性を訴え、それに対して、必要のない解決策(健康食品・健康機器・悪霊払いの儀式)を勧める。


    23.宗教界と科学界の類似性質

       こうして、科学界も宗教界も、双方とも人間が行うことであるから、そのグループの中の最高権威(教祖)や主流の考え方(教義)になびく集団心理、個々人の名誉欲・権力欲、さらには金銭欲といったものが、宗教と科学の区別を問わずに、働いている。
       そのために、宗教と科学は、双方が、「真理の探究を本来の目的としている」と主張し、そして、お互いがお互いに関して批判的な主張をする場合が少なくないにもかかわらず、客観的に見ると、そうした主張に矛盾して、様々な共通の問題を抱えている現実がある。


    24.違いとつながり:二分化していないが違いはある

       しかし、当然のことであるが、明らかに科学的であるものと、明らかに非科学的であるものの区別は当然可能である。すなわち、両者の違いは明確だが、両者にはつながりがあると言えばいいだろうか。
       これは、宗教と哲学の区別についても、同様であって、両者の境界を定めることは困難だが、理性を重視して宗教の盲信に対抗する哲学に対して、人間の理性を否定しても神を信じようとする宗教があるように、両者の違いは明確である。
       哲学と科学、哲学と宗教、科学と宗教といった、一見して対極的な両者の関係は、実際には、白と黒に全く二分化してはいないが、当然全く同じものなのではなく、イメージ的に表現すれば、(完全に白ではないが)限りなく白いものから、(完全に黒ではないが)限りなく黒いものまで、その間に灰色を挟みながら、途切れることなく連続的に変化している。
       そして、これは、哲学と科学と宗教の違いと類似性に限らず、この世界の万物・森羅万象に当てはまる根本的な原理ではないかと考える。東洋思想でいえば、道教の陰陽の思想などにも見ることができるものだ。


    25.現代の科学の構造的な問題

       現代社会は、中世・近代に比較して、科学技術が非常に大きなウェートをしめる。各国の経済力・軍事力その他の力は、科学技術の開発に大きく依存する。その結果、以前よりはるかに多くの人々が、そして、巨額の資金が、そのために使われる。
       そうすると、科学者の活動が、昔のように純粋に、真実の発見への関心によるものばかりではありえなくなった。昔は皆、科学者はアマチュアであって、職業科学者はいなかった。自己の科学的な探究と、自分の経済的な利益や社会的な名誉は必ずしも直結してはいなかった。
       しかし、今や、科学者のほとんどは、それを職業とし、企業や公的な研究機関の中で、研究成果をあげて名誉を得る、ないしは経済的な利益を得る、という圧力の中で活動している。それは、他の職業と全く違いはない。
       そして、私見では、初期の純粋さを失った、大きくなった後の宗教団体にも同じ現象が起こる。


    26.STAP細胞問題の背景

       その結果として、本当に真実発見のみを目的にして科学しているのではなく、自分の社会的な存在意義や生活の手段として活動している面も多くなっていく。場合によっては、それほど科学が好きではないのに、職業としては他の分野よりも自分に向いているだろうといったくらいの動機で入る人も少なくないだろう(いや過半数がこうかもしれない)。
       そうした中で、論文を多く出せば、その成果が十分に確認される前でも、学会では尊敬されるから、論文の捏造などの科学者の不正が生じる。予算の獲得のためには、自分の研究分野・研究所の将来の可能性を強調する必要があるから、事実上、誇大宣伝・嘘をつく場合もある。そこまでいかなくても、相当に先走ってしまうこともある。昨今の理研のSTAP騒動も、そうした科学の世界の人間的な現象から生じていると思う。
       こうして、「宗教と科学」という、一見して対極的な両者の間にも、同じ人間世界の活動として、多くのつながり・類似性があると思う。


    27.言葉の問題と無知の知の大切さ

       最後に、これまで述べてきたことから、人類の叡智としての哲学・科学・宗教を考えるとしても、言葉とその意味について、よく考えなければならないことがわかる。
       第一に、その日本語は、近年の訳語にすぎない。第二に、原語の外国語も今と昔では大きくその意味が変わっている。そして、第三に、今の意味も昔の意味も、そのだいたいのイメージはあるが、明確な定義できない、ということである。
       そして、明確に定義できないということは、言い変えるならば、それとそうでないものの区別(例えば哲学と哲学でないものの区別)が明確ではないのである。
       さらに言い換えれば、私たちは、言葉があって、それを何となく日常的に用いていても、その言葉の本当の意味となると、それをほとんど理解していないということが非常に多い。そして、本当はほとんど理解していないのに、あたかも理解しているかのように錯覚しながら、それを使っているのである。
       だからこそ、哲学にしても、科学にしても、宗教にしても、何が何だかわからない面があると理解しておくことは、なんとなくわかったつもりになって、(極端に宗教ないし科学を)信頼したり、(極端に宗教ないし科学を)否定したりするよりも、より深い智恵を得る土台となると思う。
      これは、よく言う「無知の知」ということである。この心境に立つことが、逆に、哲学・科学・宗教といったものを以前より正確に理解する扉を開くことになる。

  • 2012年夏期セミナー特別教本『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺』第2章公開

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    第二章 親子問題の克服と仏陀の智慧


    1 親子問題は諸問題の根源

       現代社会のさまざまな問題の原因を探っていくと、親子問題に行き着くという見方がある。人にとって、親子関係は初めての人間関係である。そして、「三つ子の魂百まで」というように、幼少期・青年期の体験が人生全体に及ぼす影響は大きい。よって、親子関係のあり方が、他の人間関係にも大きな影響を与える可能性がある。よって、親子関係における心の問題・課題があれば、それを解決・改善することは非常に重要である。
       特に、親子関係は、最初の上下関係である。よって、人生における他の上下関係、すなわち学校の教師、会社の上司、一部の妻の夫との関係、そして、自分が所属するあらゆる組織・集団のトップ・上層部との関係、宗教団体の信者と教祖の関係、市民・国民としての政府・政治家との関係にまで、影響を及ぼしている(投影されている)と考えられる。


    2 真に大人になる過程

       さて、親子関係の問題を考える前に、どのように変化していくのが健全な親子関係なのかを考えてみたい。もちろん、そのパターンに当てはまらないものが、不健全であると解釈するのは適切ではない。人は、親子関係における不備を、人生の中で、他の方法によって埋め合わせる能力を持っているからである。よって、それを踏まえながら、分析してみよう。
       親子関係の変化とは、言い換えれば、子供が大人になっていくプロセスであろう。乳幼児のころは、子供は親に絶対的に近い依存状態にある。子供は親なしでは生きることができず、自分と親が中心である「狭い世界」を体験している。ある心理学の理論では、この段階の子供は、親と自己を、神と神の子のように絶対視しているとする。自分が何か欲すると、すぐにそれを満たしてくれる万能の存在(親)が現れるように見え、3歳前後で自我意識(他人とは別の自分)が芽生える前までは、その親と自分の区別さえ定かにはついていない。
       その後、自我意識が芽生えて、第一反抗期を迎える。親と自分の区別が生じ、親とは違った存在である自分=自我が確立されていく。さらに十代に入って、第二反抗期を迎える。親に対してさまざまに依存していた状態から、親以外の人々との交わりの中で、親とは違った自分の考え方・価値観・生き方が生じ、第一反抗期で芽生えた自我が、第二反抗期では、確立に向かう。
       ただし、いつまでも単純に親に反抗しているならば、真に成熟した大人になったということができるかは疑問である。十分に成熟した大人になるには、親も自分も、同じ多くの人間の一人であり、長所も欠点もある不完全な存在だと認識することである。
       そうすると、親の良いところには感謝しつつ、親の過ちについても、不完全な人間の一人として許しやすくなる。親が自分を傷つけたとして恨みを持つばかりではなく、親の過ちの背景にあるものが、親の人間としての苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると洞察していく。そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づく。
       さらに、自分も、親と対等の一人の人間として、いつまでも親ばかりに負担をかけずに、自立して生きていくべきだと自覚が生じる。そして、自立ができると、その後は、自分が親側に回って、他を育む責任があると自覚する段階に至る。子供から親側に回るのである。なお、他を育むとは、一般的には、自分の子供を生み育てることだが、そうでない場合は、縁のある次世代やなんらかの自分の後進、年齢に関係なく未成熟な人たちの育成を担う。
       そして、この自覚の背景には、理想としては、親に対する感謝に基づく恩返しの心がある。自分が親に辛抱強く育ててもらったことに対する感謝に基づき、自分も同じように、子供や次世代を辛抱強く育むという恩返しの心である。
       こうして、今までのプロセスをまとめると、①親への依存(親と自分の絶対視)→②親への反抗(自我の芽生えと進化)→③親と自分の相対化→④感謝や許しを伴う自立→⑤親側に回って恩返しというプロセスがあると思うのである。


    3 現代社会の親子問題:親への感謝・尊敬の減少

       しかし、ここで、「理想としては」と書いたのは、現代の社会では、親に対する感謝・尊敬が、著しく低いという問題があるからである。特にこの日本においては、そうである。世論調査によると、子供の半数以上が親を尊敬・信頼しておらず、しているのは三割強であるという結果もあり、諸外国に比べても低い。この場合は、親への感謝に基づいて、その恩返しとして、自分も親と同じ他者の養育の義務・責任を担うという意識が不足する可能性がある。
       この点に関連して、他者への感謝と、他者への愛(慈愛)は深い関係があるという考え方がある。自分が他に支えてもらっている、愛してもらっているという自覚=感謝は、自分の他者に対する愛につながり、その恩返しとして、他者に奉仕する心を作るものだろう。なお、ここでの愛は、親が子供の養育に要する愛であるから、「長期間の忍耐を伴う無償の愛」である。
       これは、宗教的に言えば、仏陀の慈悲、神の博愛などと性質がよく似ている。実際に、大乗仏教の教えでは、仏陀がすべての衆生を救おうとする大慈悲の心を説くが、その心に近づくためには、親の子供への愛をモデルにする場合が多い。具体的には、自分の親が、いかに自分を愛してくれたかを思い起こした上で、今生では親ではない者たちも、無数の過去世では自分の親だった生があると考えて、すべての者たちを過去世の親としての恩人であると瞑想するのである。こうして、すべての者を恩人と見て、その恩を思って、すべての者への愛を育み、その恩に報いようと考え、すべての者を苦しみから救う利他行(菩薩道)の実践をすることを決心する。
       こうして、大乗仏教が説く衆生済度の菩薩道・利他行の修行においても、「感謝と恩返し」という構図が明確である。よって、他者の愛の恩に感謝して、その恩返しとして、今度は自分が他者に奉仕していく、というパターンは、人間としての人格の成熟・向上の上で、極めて基本的・根源的・普遍的な道理ではないかと思われる。
       これをわかりやすく言えば、父親としてか母親としてかは別にして、自分が柱になる(大黒柱になる)という決意であろう。こうして、人類は、親から子供に、前世代から次世代にと、この感謝と恩返しの心の連鎖を経て、愛と奉仕というものを伝播してきたのである。


    4 親子問題が少子化の一因では

       しかし、この21世紀の現代社会において、少なからず、この愛と奉仕のリレーが弱体化しているのではとも思われる。少子化の問題がいわれるが、この原因は、マスコミでよくいわれるように、将来の経済的な不安によるものだけなのであろうか。20年前までの高度成長期やバブル期などと比較するならば、そうかもしれないが、明治以降の日本の近代全体から見れば、今よりも経済的な困難や将来不安が大きかった時期もあったことは明らかだ。
       しかし、そうした発展途上国でさえあった時期にさえ、出生率は今より高かったであろう。もちろん、諸条件が大きく違うので、単純な比較はできない。しかし、根本的な問題として、子供・次世代を辛抱強く育むことへの責任や、価値の自覚が乏しくなったのではないか。そして、さらにいえば、そうする自信が乏しくなったのではないだろうか、というのが私の仮説である。
       この視点に基づいて、親などへの感謝と、それに基づく恩返しの実践が、現代社会において、どのように損なわれているのかについて、考察してみたいと思う。


    5 親への感謝を妨げる要因:戦後社会の心の隙間

       次に、親への感謝を妨げる要因を考えてみよう。第一に考えられることは、戦後日本社会の基本的な価値観である。まず、その前に、戦前・戦中の思想を考えてみよう。
       その時代は、大日本帝国・国家神道の体制の下で、日本は神の国で、国父たる天皇は神の末裔の現人神(あらひとがみ)であり、それにならって、家長である父親や学校の教師・校長先生には強い権威があった。子供たちは、その思想の下で、天皇のみならず、自分を生み育んだ親、教師、国を尊び、自らもその神の国の臣民・子孫としての自尊心を形成した。
       このタイプの思想の場合、自分を生み出したものへの尊重と、自分自身の価値が完全にセットになっている。自分を生み出したものは、神の国とその王と臣民であり、よって、生み出された自分も、神の国の臣民であるとなる。よって、人が本質的に欲求する自分の価値=自尊心に基づいて、親・教師・社会・国家への尊重が自動的に形成されるのである。
       こういった仕組みは、神の化身を自称する宗教団体と、それに帰属・帰依する信者の間にも見られる精神的な構造である。いったん、自分たちの教祖と集団が、神の集団であると妄信してしまうならば、自分が、選ばれた神の民(選民)として自尊心(厳密には虚栄心)を非常に強く充足できるために、あとは、その自尊心(虚栄心)の充足を維持するために、その教団(ないしは宗教国家)の立派な信者(臣民)として必要とされる行動を求められれば、それが客観的には相当に苦行的なことであっても、選民たるに必要なこととして、それに励む仕組みができあがるのである。
       とはいえ、こうした仕組みには大きな弊害があることは、第二次世界大戦の結末や、こうしたタイプの新興宗教・カルト宗教の状態を見れば、一目瞭然である。自分たちだけを神の集団と信じるのは、根拠なき妄信であるばかりか、外部社会を尊重せず、その価値を強く否定することになり、排他的・攻撃的にもなる。神の集団と摩擦するものは、必然的に悪魔の集団となるからだ。
       よって、我々は、こうした妄信・選民思想ではなく、自分を生み出した親や社会に対する感謝と、虚栄心ではなく健全な自尊心を見出すための、「新しい道」を見出さなければならないだろう。


    6 戦後社会の競争主義の弊害

       しかし、戦後日本社会は、この新しい道を十分に見出せていない。大日本帝国の虚栄心の充足が完全に崩壊し、その代わりに導入された価値観は、個人主義、自由主義、資本主義、競争主義、経済主義、会社主義などである。国家のために、個人の自由を抑圧する全体主義的な体制に替わって、個人の自由が尊重される社会になったのは良かったが、その中には、自分を生み育む者たちへの感謝・尊敬を培うための土台となる思想は見あたらない。
       その代わり、資本主義・競争主義の価値観の中では、現状に不満を抱き、「今よりも、もっと」と求め、自分と他人を比較し、「他人よりも、もっと」と求めることが重視される。この不満と競争は、まさに感謝と逆行する思考の枠組みである。感謝は、与えられているものの大きさを見ることによって生じるが、不満は、与えられているものは当然のこととして、与えられていないもの、得ていないものを見て生じる意識である。
       さらに競争主義は、自他を比較して、他に勝ってこそ価値があるという価値観である。よって、自分の親と他人の親を比較したり、自分の親を一般的な親の基準・イメージなどと比較したりして、評価することにもなる。これは、親や教師の方が、それぞれの子供の評価を他の子供との比較=偏差値によって行うのだから、自業自得といえなくもないが、子が親を、親が子を比較=偏差値で評価する時代だ。
       この場合、たいていの親がなしている養育上の莫大な自己犠牲は、「親だから当然」の一言で、評価されない可能性がある。そして、子供が親を評価するのは、何か特別なことをしてもらったという印象がある時のみとなり、親なりに精一杯やっていても、例えば他の親と比較して、それを下回る場合には、恨みさえ抱くという結果になりかねない。
       偏差値・相対評価を超えて、親が子になすことを見れば、死の危険さえはらむ出産から、乳幼児の際の24時間の拘束への忍耐、そして、20年以上にもわたる体調の良い時も悪い時も含めた、年中無休で毎日提供される衣・食・住や、教育・学習・娯楽の機会、そして、精神的なケアを含めた、物心両面の無条件・無償の奉仕など、本当に膨大なものがある。これは、偏差値・相対評価には馴染まないことは明らかだろう。
    しかし、競争社会、偏差値・相対評価の世界では、子供も親も、それぞれが「自分なりに精一杯努力したか」ではなくて、他との比較や、一般的な基準・イメージとの比較で、評価される。子供も親も、自分たちで気づかないうちに、競争社会の価値観に犯されて、努力が評価されるのではなく、他と比較して優位であるかどうか、すなわち「勝利という結果」が求められているのではないか。
       しかし、他と比較して、良い子・悪い子、良い親・悪い親と評価することは、本来の親子関係には馴染まないものだろう。なぜならば、親子関係は、基本的に、条件付きの愛ではなく、「無条件の愛」「無償の愛」の典型であるべきだと思うからである。親は、自分の子供というだけで、他の子供との比較なしに、子供を愛し、子供も自分の親というだけで、他の親と比較せずに、親に感謝するのが自然であろう。この無条件の愛の原則に基づいて、親が子供に無償の奉仕をなし、その後、子から親に、それが恩返しされるのである。
    こうして、「今よりも、もっと」「他人よりも、もっと」という、資本主義・競争主義の価値観が、親子関係を脅かしているのではないかと懸念される。その中では、当然のこととして、多くのものに感謝せず、他と比較して少なければ、逆に恨むことさえある。
       さらには、感謝よりも不満・怒りが多い意識状態の中で、仮に親に叱られるなどすれば、それを愛の鞭と解釈する智慧や忍耐力は働かずに、自己を否定されたとばかり思い込んで、長らく恨むという可能性も増えていくだろう。


    7 親側の問題を考える前に

       これまでは、子供の親に対する感謝の不足の問題を取り上げてきたが、次に、親側の問題を取り上げたい。子供が親になっていくのだから、子供にゆがみがあって、そのまま親になれば、親側にも問題があることは疑いない。ただし、その前に、何が親側の過ちで、何が子側の過ちではあるかを慎重に検討する必要がある。
       ゆがんだ視点で親を見ていると、感謝すべきことを恨んでいる場合もある。自分の家の経済状態を考えず、「他の親と比較して、おこづかいが少なかった」と恨みを持つ人もいれば、客観的に見れば、親が怒るのが当たり前のことをしているのに、自分の過ちは思い出したくないために、すっかり忘れてしまって、親にひどく叱られたことだけを根に持っている等の事例がある。
       そして、幼少期・青年期は、多分に記憶が不正確である。主観的な印象ばかりが残って、客観的な事実と一致していない場合も少なくない。そういったことには十分注意するべきである。


    8 自分の親への感情が、親になった自分に跳ね返る

       さて、次に、親側の問題について考えてみよう。まず、自分が子供として親に持った感情が、親になろうとする自分、ないしは親になった自分に跳ね返ってくる可能性があることである。自分が親に対する十分な感謝がなければ、感謝に基づく恩返しの気持ちも弱いということになる。親が自分を育てるために、いかほどの困難に耐えたか、という認識がなければ、自分が自分の子育てに忍耐する気持ちが十分に持てるだろうか。
       人の能力というのは、気持ち次第の部分が相当にあると思う。客観的には相当につらいことでも、皆がやっていること、やれていることは、たいてい自分もやるものだが、皆がやっていなければ、なかなかできるものではない。よって、「自分の親が自分自身にこうしてくれた」という認識は、自分も同様にする責任があり、「そうできた親の子供として、同じようにできるはずだ」という気持ちが、無意識的にであっても生じるものではないだろうか。こうして、親に対して正しく感謝することは、自分が親として子供を育てるときの目に見えない力になるのではないだろうかと思う。


    9 親の過ちをいかにして許すか

       次に、親側に問題がある場合に、子供としてどうしたらよいかについて考えたい。まず、先ほど言ったように、子供の認識が偏っているのではなくて、本当に親側の問題であることを確認する必要がある。しかし、そうした上で残る、明らかな親の過ちについては、それを許す智慧を持つのが、自分自身が大人になることであろう。
       そのためには、第一に、自分も親も、多くの不完全な人間の一人であるという客観的な事実を受け入れることである。すなわち、親も自分も、長所も短所もあり、功も罪もなし、親に完全は期待できず、親に間違いがあっても仕方がない(人間の家族として自然な)のだという認識である。これは決して親を否定したり、見下したりすることではなく、親にしてもらったことには正しく感謝しつつ、親の過ちを許すことである。
       これは、親という人間をより深く理解することでもある。それまでのように、「親はこうしてくれなかった、自分を傷つけた」として恨みを持つばかりではなくなって、「親も一人の欠点もある人間」と位置づける中で、親の過ちの背景にあるものが、自分に対する根拠のない悪意ではなくて、ないしは表面的には自分への怒り・不満があるにしても、根本的には、親の中の苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると気づく。
       そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づき、その意味では、親への感謝を保ちつつも、親の人格の一部は反面教師となる。その子供である自分が、同じ問題を潜在的に共有する可能性があるからである。
       こうして、子供の頃は、前に述べた心理学によれば、あたかも親が絶対神で、自分を神の子と位置づけ、親と自分を平等に見てはいないが、大人になる中で、親と自分を平等に見るようになる。そして、親という存在を正しく理解する中で、感謝と許しとともに、親の長所や欠点が、その子供である自分の潜在的な長所や欠点である可能性に気づき、親と自分のつながりを正しく悟るのである。
       そして、親と自分を特別視・絶対視する意識から、親も自分も多くの不完全な人間の一人と気づく。親と自分を相対化することは、自己中心的な意識から抜けることでもある。その意味でも、これは本当に大人になることであろう。よって、親の過ちを許すことができない場合は、依然として、親と自分を特別視する、未成熟な意識が隠れている可能性がある。
       客観的に見れば、過ちをなすのは、自分の親だけではない。世界の中には、自分の親以上の過ちをなしている親が無数に存在する。にもかかわらず、自分の親の過ちは許せないというのは、その背景に、気づかないうちに、自己中心的な甘えがあるからではないか、ということである。


    10 誇大自己症候群という心理学理論

       心理学の理論に、誇大自己症候群という人格障害のタイプがある。通常、幼少期の子供は、親と自分を絶対視しているが、その後、大人になるプロセスで、徐々に、自分も親も相対化していく。しかし、子供の時に親に依存する経験が不足していると、このプロセスがうまく進まずに、大人になっても、自分を相対化できず、特別視する場合があるという。これを誇大自己症候群という。いわゆる自分を特別視する誇大妄想の精神状態である。
       この理論では、望ましい発育のプロセスは、幼少期に親にほどよく依存し、自己特別視の願望を満たすことができた上で、大人になる過程で、徐々にそれを脱却していくことらしい。それができずに、親への依存と自己特別視の欲求を満たせないままに大人になると、その欲求の渇きが残ってしまうというのである。


    11 競争社会やメディアが作る自己特別視の願望

       私は、この心理学の理論をすべて信じているのではない。私の経験からは、この理論とは違う理由でも、自己特別視の欲求が生じることがあると思う。例えば、子供の時に親の無条件・無償の愛を得ることができずに育つと、自分を無条件に愛することができず、そのために、競争社会の中では、もっぱら他と比較して自分が特別である場合だけ、自分に価値を感じる可能性がある。
       また、メディアの影響も大きいように思う。特に、40年から50年ほど前から、漫画やテレビのアニメや特撮番組などで、選ばれた若者が、超人に変身したり、超能力を発揮したりして、壮大な悪との戦いにおいて、特別な活躍をする内容のものが流行した。その中には、ウルトラマン・仮面ライダー・ヤマト・ガンダム・エヴァンゲリオンなどのように、社会現象になったものも少なくない。これらはフィクションであるとはいえ、明らかに誇大妄想的であり、かつ闘争的な内容であることは間違いない。
       さらに、精神世界系の雑誌や一般の書籍やテレビ番組などで、超能力、UFO等の神秘現象、世界を支配する陰謀、世紀末のハルマゲドン・世界戦争の危機の予言などが、大々的に宣伝された。その中でも、ユリ・ゲラーやノストラダムスの大予言などは、これまた社会現象になったものが少なくないが、超能力者になるとか、宇宙人にコンタクトするとか、世紀末を救う存在になるといった願望は皆、妄想的であることは間違いない。
       そして、私自身の場合を分析するならば、小学生の時に、父親が浮気で別居した前後から、学業において競争に勝つことに相当の精力を注ぐようになった。それとともに、超能力やUFOといった精神世界に関心を持って、先ほどのようなアニメや書籍を好むようになったのである。よって、無償の愛を感じられない家庭の現実の中で、競争やフィクションの世界に没入し、自己特別視の願望の充足を求めたのかもしれないと思う。


    12 誇大妄想と被害妄想のセット

       もちろん、「この世界で特別な存在でありたい」という気持ちは、誰もが持っている。しかし、誇大自己症候群が問題になるのは、それが現実的な願望ではなくて、明らかな誇大妄想を形成する場合である。また、誇大妄想は、セットで被害妄想も発生しやすい。本来は偉大な自分を認めない周囲の方が極めて不当であるという認識である。
       そして、オウム真理教の麻原教祖は、この誇大自己症候群の典型であろう。麻原の場合は、自分がキリストであるのに、それを認めず否定する社会はキリストを弾圧する悪業多き魂であり、戦わなければ教団はつぶされる運命であり、戦うならば一教団にもかかわらずキリストの集団であるがゆえに勝てる(可能性がある)という誇大妄想と被害妄想に陥ったのである。
       麻原のように重篤なケースは、特に幼少期の親子関係に特に深い傷があるのかもしれない。実際に麻原は視覚障害者であり、自分の意に反して、親元から離されて全寮制の盲学校に入れられるなどして、親への恨みが強かったといわれている。
       それに加えて、本人に通常とは違った認識・体験が多いことが、その原因になる場合もあると思う。すなわち、精神世界的にいえば、神秘体験・霊的体験である。客観的に見れば、それは(すべてではないにせよ)幻想・幻覚・幻聴を含む精神病理の体験である。しかし、本人(や本人の信者)にとっては、それを通して、自己(や教祖の)絶対性を信じ込んでしまうような体験である。
       そして、この誇大自己症候群の場合は、自分を特別な存在にしてくれる対象があると、それに絶対服従するが、そうでないと見ると、誰も尊敬しないという極端な傾向を持つ。自分が特別だという欲求を満たしてくれる(ように見える)存在にしか、価値を見出さないからである。麻原は、自分を救世主と予言するシヴァ大神(という自分の中の妄想体験)に帰依した。インドやチベットの宗教指導者については、自分を特別視しないと知ると、尊敬をやめてしまった。そして、親については、地獄や餓鬼の世界に落ちる低い存在と位置づけたのである。


    13 苦しみを喜びに転換する智慧

       これまでは、親の過ちを許す上で、親と自分を相対化して、親も不完全な人間の一人であり、過ちの背景には、親なりの苦しみ・弱さがあって、自分も潜在的にはそれを共有していると気づくことについて述べた。とはいえ、親との傷が大きい場合には、この許しの考え方だけでは、なかなか前向きになれない場合もあるだろう。そこで、仏陀の智慧から、もう一つ別の智慧を紹介したい。
       それはまさに、伝統的な仏陀の智慧であって、苦しみを喜びに変えていくというものである。どんな苦しみにも裏には恩恵がある。それに気づくことができれば、苦しみが減り、苦しみを与えた存在への恨みも和らぐ。例えば、親のせいで自分は不幸になったという、親への恨みや被害者的な感情と、自分に関する卑屈を引きずることを避けることができる。
       では、苦しみにはどんな恩恵があると考えるのだろうか。これは、智慧の分だけ恩恵があり、言い換えれば、無限である。しかし、多くの場合に当てはまるいくつかの公式をあげれば、例えば以下の通りである。


    14 苦しみは自分を鍛える愛の鞭

       第一に、苦しみは多くの場合、その人の進歩・鍛錬のための試練となる。何の苦しみもなければ、温室育ちとなり、社会に出ると潰れる人間になりかねない。
       例えば、親に、自分や自分の考え・生き方を否定・批判される人は少なくない。しかし、それを乗り越えてこそ、自分の成長もあり、強い自分、大人の自分になることができる。そして、社会に出た後にこそ頻繁に訪れる、自分が否定される状況にも耐える準備ができる。
       逆に、最近の若年層の中に、子供の時に親から全く叱られたことがないため(親が子供を叱ることができない)、忍耐力が極めて乏しく、ちょっとしたプレッシャーでうつになるケース(新型うつとも)が多発しているという。これでは一生、親のすねをかじるか、社会福祉に依存するしかなくなる。言い換えれば、自分でも気づかないうちに、過去の苦しみが、今の自分の忍耐力を形成しているのである。
       なお、否定・批判には、およそ二種類のものがあって、一つ目は正しい批判、すなわち、自分の問題点の適切な指摘である。これは、「今の自分を誉めてほしい」という欲求には辛いものだが、未来の自分をより良くするためには絶対に必要である。そこで、「どんな人間も不完全なのだから、全く批判をされないことは、逆に恐ろしいことだ」と考えれば、批判を恩恵と感じることができるだろう。すなわち、今誉められることよりも、成長して未来に真の評価を得ることの方が大切だと考え、今の賞賛ばかりにとらわれているから、味方を敵と錯覚するのだと気づくことである。
       これは一つの例であるが、仏陀の教えでは、人のすべての苦しみは、自分や自分のものに対する執着・とらわれによって生じていると説く。そして、とらわれのために行き詰まって苦しむと、ある段階で、とらわれの不利益に気づき、それを放棄できるようになって、苦しみから解放されると説く。こうして、苦しみは、とらわれを超える智恵(智慧)につながるものなのである。
       二つ目は、間違った批判・否定である。これは相手が無智であり、そのために否定している場合である。しかし、これも自分の見方一つで、恩恵と考えることができる。
       というのは、親・先輩・他人に否定されても、それに負けずに進んでいく経験をしてこそ、本当の意味で、正しく強く生きていくために必要な精神力や智慧を培うことができるからである。その意味では、たとえ自分が正しかったとしても、それを否定される経験がないことは、長い人生を考えれば、逆に恐ろしいことではないだろうか。
       そもそも、人類の歴史の中で、どんな時代も完全ではなく、あらゆる時代で、新しい世代は、何かしら古い世代と闘って、それを乗り越えて、新しい時代を作ってきた。前世代は、最初からは、次世代の新しい道を認めない(認めることができない)のが普通であり、新しい世代は、それに負けずに乗り越えなければならない。

    15 苦しみがとらわれを解消する源になる

       これに関連して、再びとらわれを超える智慧について述べたい。それは、何か重要なことを達成するには、辛抱・忍耐・継続的な努力が必要であり、「すぐに成功したい、認められたい」というのは、間違ったとらわれだということだ。本当の幸福は、苦しみを超えたところにあるということである。
       例えば、「ローマは一日にして成らず」、「失敗は成功のもと」、「急がば回れ」、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」といったさまざまな格言は、皆これを表していると思う。
       過去の偉人の話でも、これはよく出てくる教訓だ。ナチス・ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦の英雄である英国首相チャーチルは、「真に成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次へと失敗を経験する能力である」と語り、彼の有名な言葉は、「決して、決して、決して諦めない」であった。
       発明王エジソンは、1000回目の実験で白熱電球を発明したとされるが、エジソンは、その前の999回の失敗については、「失敗ではなく、これでは成功しないと知った成功へのステップだった」と語った。本田技研の本田宗一郎も、「人はすぐ成功を求めたがるが、私にとっては、99%が失敗と自己反省であり、成功は残りの1%である」という趣旨のことを語っている。自動車王のフォードは、成功するまで4回倒産、5回失敗した。ディズニーランドの創業者も、創業する前に、自分の考えを妄想的だと否定され、その後、3回倒産した後に成功した。大統領になったリンカーンも、最初は選挙に8回連続落選したという。
       逆に、すぐにできたこと、すぐに成功したこと、すぐに認められることの延長上に、真の達成や幸福があったためしがあるだろうか。世の中には、すぐに成功したように見える人もいるが、それを長く維持するとなれば、その過程には、人知れず、相当な困難があるものだろう。また、「すぐに認められたい」と考えて、常に親が敷いたレールの上を歩こうとしても、実際にそうできるわけでもないし、それで親が幸福を保証できるわけでもなく、後悔が残るだろう。
       これを仏教的に表現すると、人は皆、不完全であり、最初は何が正しい道かがわからないという無智の悪業があり、これに対して、エジソンが言ったように、いろいろな困難・失敗・苦しみを経験することで、無智の悪業を清算すると、智慧が生じて、真の幸福・達成の道を悟るのである。よって、苦しみは、まさに幸福へのステップなのである。


    16 苦しみの経験こそが慈悲の源

       第二に、自己の苦しみがあってこそ、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことができるということがある。自分に苦しみのない人は、実体験がない分だけ、どうしたって他の苦しみを理解する上では劣る。そして、この慈悲の心は、仏教では、真の幸福をもたらす最高の宝とされ、仏の心とされる。実際に、前章で述べたように、真の幸福は、今以上に求めたり、他に勝ったりすることばかりではなくて、他と分かち合い、他を愛することで得られるものであり、その意味でも、慈悲の心こそ、幸福への最大の宝だろう。
       逆に、苦しみの経験が乏しいと、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことはできない。それは、現実の人間関係をいろいろな意味で損ない、場合によっては、破滅を招く場合さえある。典型的な例が、フランスの民衆がパンさえなくて飢えていた時に「パンがないならケーキを食べればいいのに」という暴言を吐き、殺されたという王妃のマリー・アントワネットである。彼女は、名誉・血筋・美貌・才能・財産・権力などの一切に恵まれていたために、逆に、人として最も重要である慈悲の心を欠いていたのである。
       この意味で、苦しみに負けずに、それを慈悲の源として逆活用できるならば、苦しみが多いほど、慈悲深い、本当の意味で幸福な人間になることができる。実際に、大乗仏教で最も篤い信仰を集めている観音菩薩は、慈悲の化身ともされているが、苦しみの連続の生涯の果てに、「この苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決心した結果として、生まれたとされる。
       これは、親子関係での傷も同じである。親にひどく人格を否定されたとか、暴力を振るわれたという一般的な事例から、最近では、虐待、ネグレクト、近親姦といった、犯罪ともいうべき事例までよく聞かれるが、自分の苦しみを通して、同じような経験をした他の苦しみを理解し、その苦しみを和らげようとする慈悲の心を培うことができるという視点からは、いかなる傷も、自分の慈悲の心という宝に転換できる道である。よって、仏典では、「苦しみに感謝しよう、私を真理に導いてくれた苦しみに、敵対者に感謝しよう、私を真理に導いてくれた敵対者に」という聖句もある。


    17 反面教師は貴重な学びの対象

       第三に、苦しみを与えた親を反面教師と見る智慧である。親に過ちを見て、「自分は決してこうならない」と決心するケースは少なくない。これは、親と自分は別の人間だという視点からではなく、その親の子として、自分も一つ間違えば同じ過ちをする可能性があることを無意識的にも感じ取っているからこそ、強く決心するのだろう。
       そして、親でなくても、人間は誰しも皆、無智で弱い一面があるから、身近に何かの悪行をなす反面教師を見て、他人に迷惑をかけ、自分を不幸にするさまをよく知ることができる場合と、身近には反面教師がおらず、自分が初めて、ある悪に誘惑された場合では、同じ悪を回避する力は、相当に違ってくるのではないだろうか。
       いや、謙虚になって考えてみるならば、反面教師がいることによって、かろうじて同じ悪を回避することができるのが、人間というものではないだろうか。実際に、人類は、過去の歴史の過ちを教訓=反面教師として、現在を生きている。古代から現代まで、人間は実に多くの過ちをなしてきたが、今でこそ極悪とされていることも、過去には皆がやっていた時代があるのだ。
       こう考えると、見方によっては、親の過ちは、親が自分に身をもって、悪行の不利益を教えているとも解釈でき、それによって親への怒りを静めることができるだろうし、場合によっては感謝さえわいてくるのではないだろうか。
       そして、大きな目で見るならば、親子を含めた人間・人類とは、感情面でいえば、否定・軽蔑して争うことも多いが、その一方で、実際には、互いの良い点と悪い点を互いの教師・反面教師として学び合って、一体となって、進化・成長してきた面が多々あると思う。古代と現代を比べれば、人類は、特定の民族に限らず、全体として、大きく進化しているのである。こうして、親子を含め、人々は、一体となって成長するというのが真実なのである。
       「万人が一体として成長する」という人間観を含めて、「万物は本質的につながって一体である」という世界観は、第一章で解説したように「一元の思想」と呼ばれ、ひかりの輪では、これを「輪の法則」とも呼んでいる(輪が、万物が一体・平等の象徴だから)。これは、「万物が相互に依存し合って存在する」と説く仏教の縁起の法などにも通じる。その仏教では、仏陀や仏法のシンボルが法輪(法の車輪)である。


    18 親からの苦しみを超えて真の自立へ

       さて、苦しみを喜びに変える智慧をいくつか述べてきたが、この苦しみを喜びに変える智慧とは、親からの完全な自立を意味する。すなわち、親が間違った行為をしようが、自分は不幸にはならないという人生を作るからである。親の間違いで、自分が一生不幸になるのであれば、それは、まだ親の影響下である。親の被害者であると主張はできるが、人生の敗者にほかならず、幸福ではない。
       そして、仏陀の智慧から見れば、いつまでも「親のせいで自分が不幸である」と考えることは、自分の努力を怠っていることを隠すものであって、怠惰・甘えにほかならない。それは、まだ親の影響下にあって、真に自立した大人になっていない。真に大人になるとは、「自分の幸福は、自分の智慧と努力で得る」という意志が確立することであり、親の被害者として人生の敗者にならずに、自分の人生を自分で決める智慧者になることだ。
       そして、これは、親との関係に限らず、自分の人生の不幸や幸福、成功も失敗も、本質的には、他人ではなく、自分の努力で決まる(決めることができる)という考えである。そして、私が思うに、仏教などのインド思想が説く自業自得という言葉の本当の解釈ではないかと思う。
       では、これまで述べた、親に関係する苦しみを乗り越えて、智慧や慈悲に転換していく術についてまとめておこう。

    ① その苦しみは、親の愛に基づくもの(愛の鞭)ではなかったか。

       子に(快)楽を与えるだけが親の愛ではない。
       苦しみを与える親の方がもっと辛いのでは。

    ② 親の過ちだったとしても、親も不完全な人間の一人であるならば、それを許すべきではないか。

       親が、一人の人間として、その時に抱えていた苦しみがあったのではないか。
       その苦しみ・弱さは、子供である自分の中にも存在する要素なのではないか

    ③ 親からの苦しみは、視点を変えれば、自分を鍛え、智慧と慈悲の源となるものでないか。

       親の否定・批判は、自分を改善したり、強くしたりしたのではないか。
       親の過ちも、自分の反面教師ではないのか。
       親のせいで不幸になるのではなく、自分の努力で幸福になるのではないか。


    19 親子関係の問題の類型について

       次に、今まで述べてきたことを含め、親子関係の問題に関して、それをいくつかの側面・ケースに分けて、まとめてみたい。これは、すべての問題を網羅したのでなく、その一部であろうが、ある程度の整理にはなるかと思う。
       第一に、依存の対象の親がいなかったケースである。これは、親が他界したというだけでなく、なんらかの理由で親元を離された場合もある。また、片親がいない場合、ないしは親が離婚したので片親に育てられた場合というのも、このケースに含まれる可能性がある。さらに、実際に親はいても、自分が思う通りには依存できなかった印象がある場合も、広い意味では、このケースに含まれる可能性がある。
       この場合、親に対する不満・恨みが生じる可能性がある。しかし、前に述べたように、親への感謝の実践は、それに努めようとすれば、視点を変えることで、いかようにも可能なものである。例えば、親が他界した場合は、子を残したままこの世を去ることになった親の無念を思い、親代わりとして育ててくれた人の労苦に感謝することができる。また、他界していなかったとすれば、子供を手放さざるを得なかった実の親の苦しみを理解することが重要だろう。
       また、片親がいるケースでは、養育の苦労を一手に引き受けた片親の労苦に感謝することや、離婚だった場合では、自分のもとを去った方の親も養育費の支払い等の労苦を背負っていれば、それをよく考え、感謝の心を持つことに努めたい。
       そして、前に述べたが、このケースの中で、場合によっては、自分を特別視する意識が、大人になっても修正されない可能性があるという。この問題を克服するためには、自己を多くの人間の中の一人として相対化する必要がある。そのためには、自分を支えたさまざまな存在への感謝などを通して、万人が助け合って存在していることを理解し、万人を平等に尊重していく訓練が必要であろう。

       第二に、親に対する反発・怒り・恨みが、大人になっても残るケースである。これには、いろいろなパターンがあるだろうが、子供の時から親に酷く傷つけられた場合や、反抗期以来、考え方の違いなどから親との敵対的な関係が続く場合などがあるだろう。
       また、逆に長らく親に従順だったのが、ある時から一転して反発に転じる暴発的なケースが少なからず見られる。これは、支配的傾向の強い親のもとで、子供側の親によく見られたい欲求などから、長い間、子供が自分の欲求を抑圧する中で、徐々に蓄積された親に対する恨みが、一気に爆発する場合などとされる。
       そして、こうした場合は、自分も親も多くの不完全な人間の一人と理解する、成熟したものの見方によって、親にしてもらったことには感謝しつつ、親の過ちについては許すことができる。その中で、親の人としての苦しみを理解し、それが自分にもある要素だと理解すれば、親の過ちを自己の反面教師として生かすことさえできる。また、親に傷つけられたことは、必ずしも自分の価値を損なうものではなく、さまざまな意味で自分を鍛えたり、智慧や慈悲を深めたりする機会となるといった恩恵があると気づくことも有効である。こうして、親に感じた苦しみによる怒り・恨みの影響を超えるならば、本当の意味で自立した大人となることができる。

       第三に、親への依存が継続する場合である。これは、親の支配欲と子供の依存心が強く、子供が体は大人になっても、依然として、親への精神的・物質的な依存を続ける場合である。すなわち、子離れせぬ親の支配欲と、親離れせぬ子供の依存・甘えにより、不健全な相互依存=共依存の関係が形成されている。なお、これは、宗教の教祖と信者に似ており、実の親に依存できなかったり、反発したりした結果として、宗教の教祖のような他者を理想の依存対象として、親代わりに求める構造がある。
       この場合は、人は誰もが神の化身ではなく、親も教祖も自分も皆が、長所も短所もある人であって、万人が皆等しく尊いことを学ばなければならない。そのように親や教祖から自立して、支配されていた間に関して、してもらったことへの感謝と親の過ちへの許しに努めるのである。
       ただし、最近の問題としては、親への依存が継続するケースの中で、親が子供を適切に訓練できず、親子が友達同士のような関係でしかなく、親への尊敬が非常に乏しく(同様に教師等への尊敬も乏しい)、子供が自立して生きるに十分な強さを獲得できないままになって、親に精神的・経済的に依存し続ける場合がある。
       この場合は、まず親自身が、どのように教育してよいかわからない、基本的な指針がない問題や、(自分自身の体験などを通して)子供を叱ることで嫌われることを嫌がる傾向などがあれば、そういった問題を解消する必要があると思われる。


    20 親子問題はすべての人間関係の問題の源

       前にも述べたが、親子関係の問題は、すべての人間関係の問題の源だとも考えられる。親子関係は、人にとって最初の人間関係であり、最初に接した人間に対して、自分が形成した心の働きや見方というものは、他の人間を見る場合にも、相当な影響を与える可能性がある。いわゆる「三つ子の魂百まで」ということである。
       これまで見てきたことからまとめるならば、例えば、他に対する感謝が多いか少ないか、感謝に基づく奉仕(恩返し)の意識が強いか弱いか、怒り・恨みが多いか少ないか(他者への理解が深いか浅いか)、迷惑をかけたという反省の心が深いか浅いか、自己を特別視している=自己中心的か、自他を平等につながった存在として、自己を相対化しているかなどである。
       そして、前にも述べたように、子供の時に親に対する依存の機会が乏しかったり、親に対する反抗・反発から抜けきっていなかったりして、感謝と許しによる自立が果たされていないままだと、その人は、親代わりに、他の人に依存する場合がある。自立していない意識が、親の代わりに依存の対象とするのは、例えば、学校の教師や、女性の場合は結婚した夫、社員として会社の上長、信者として宗教の教祖、国民として国家・政治家などだろう。
       この場合の課題は、依存と反抗を超えて、感謝や許しの心を持って、自立することである。そして、感謝に基づく恩返しの心を持ち、他を育む側に回っていくことである。そして、現在の社会では、こうした人格的な成長の不足が、親子・家庭問題から、会社・宗教・国家の問題までにわたって、非常に重要な問題の根底にあると思われる。


    21 内観法:親などへの感謝を深める自己内省法

       ここでは、ひかりの輪が、親など他者に関する健全な感謝の心をはぐくむ自己内省法として導入している「内観」についてご紹介したい。ひかりの輪では、その外部監査委員のお一人が、この内観法の権威の大学教授であり、各支部で内観セミナーを開き、ご指導いただいている。なお、内観は、その源は、日本の伝統仏教宗派にあるとされるが、その後一切の宗教色を脱して、わが国発祥の科学的な自己内省法となり、学会もあり、国際的にも普及しているものである。
       なお、内観の詳細としては、一般のものとしては、例えば、前記の外部監査委員の方が書かれた冊子『内観への誘い』を参照されたい(ひかりの輪の各支部で頒布または閲覧に供している)。また、ひかりの輪のテキストとしては、過去に『内観、唯識、縁起のエッセンス』(2009年ゴールデンウィークセミナー特別教本)があるので、あわせて参照されたい。
       ここでは、そのあらましをざっと説明すると、内観とは、親をはじめとする家族・親族・近しい友人知人の一人一人について、幼少の頃から今現在に至るまで、だいたい数年単位の期間に区切って、(親などに)してもらったこと、してかえしたこと、迷惑をかけたことについて、なるべく正確に思い出していくという訓練である。
       この内観法の意味合いは、親に対する感謝・理解(許し)を増大させることなどがあるが、その背景として、人は、このようにしっかりとした内省の機会を持たなければ、どうしても自己中心的な、偏った、不正確な視点から、これまでの自分と親の関係をとらえている問題がある。
       すなわち、してもらっていることは、親として当然のことだと一切感謝せず、して返したことは非常に少ないにもかかわらず、自分の主観で相当にしたつもりになっており、迷惑をかけたことについては、相当にあるのに(相手が親だからとして)忘れて反省していない。
       特に、幼少期・青年期は、やはり知的・精神的な能力が未成熟であるから、その当時の(親に対する)認識・印象・判断は、非常に不正確であったり、偏っていたりする場合が少なくない。よって、大人になった今の時点で、落ち着いて見つめ直して見ることが、バランスを取り戻す上で役に立つ。
       また、前にも述べたが、「今よりもっと、他人よりももっと」といった、現代社会の資本主義・競争主義の影響を受けて、「親だから当然」とか、「他の親もしていること」として、多大な恵みがあっても感謝せずに、してもらっていないことばかりを見て不満を抱くことが多い。また、他の親と比較して、自分の親がしてくれたことが少なければ、親の抱える事情・困難は考えずに、恨みさえする場合もある。
       一方、自分では、「親のために、こういったことをしてあげたはず」と思っていても、客観的には、それは自分のためにしていることも多い(例えば親の言うことを聞いて勉学に励んだことなど)。また、迷惑をかけたことは非常に多いが、それも「親だから」として自覚がないことが多いものである。
       しかし、こうした親の労苦は、実際に自分が親側の立場に立って見るならば、相当なものであることが、容易にわかるものばかりである。一般に、出産=死の危険、乳幼児期の24時間の拘束、20年にもわたり、休日がなく年中無休で、毎日の衣・食・住や、勉学・教育の機会から、精神的なフォローまで、物心両面にわたる無償の奉仕など、そのすべてが大変な労苦である。
       よって、内観では、「親だから」という固定観念や、他の親と比較するといったことを排除して、偏差値・相対評価ではなく、絶対値で、事実として、親にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出すのである。
       言い換えれば、人は、現代社会の風潮の中で、親をはじめとする他人について、気づかないうちに、偏った甘えた自己中心的な視点から見ている可能性が高い。そして、親以外の他人にも同様の精神的な傾向が生じる。そこで、内観は、そういった偏り・ゆがみを排除し、公正公平な視点から、親をはじめとする他人を評価する訓練ということができると思う。

輪の思想・一元思想:究極の真理

  • 2015~16年 年末年始セミナー特別教本 『総合解説 一元の智慧 万物一体の真理』第1章公開 

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    第一章 仏陀の一元の智慧


    1.悟りの智慧:常識の中の錯覚を超える

       仏教が説く悟りの智慧(智恵)は、私たちの日常の観念を超えている面がある。これを言い換えれば、仏教の教えは、悟っていない人がなぜ頻繁に苦しむかというと、日常の常識的な観念の中に多くの錯覚があるからと説くのである。
       この錯覚を無智、すなわち、事物をありのままに理解できない意識の状態としている。一方、悟った人(仏陀)は、無智を滅して、智慧を得た者である。
       そのため、本稿では、皆さんが、これまでの学校教育や社会生活などの日常の中では、考えたこともなかった思想を紹介することになる。


    2.言葉にはデメリットがある

       まず、言葉の功罪に関してである。私たちは、日常生活において、言葉を使って考え、言葉を使って他人と意思疎通を行っている。こうして、言葉は、私たちの思考と意思伝達の手段として、必要不可欠なものである。
       そして、ほとんどの人は、この言葉にメリットとデメリットの双方があることを考えることがない。言い換えれば、言葉を、必要不可欠であるだけでなく、気づかないうちに、デメリットのない完全無欠なものであるかのように信じている。
       さらに言えば、言葉による思考は、まさに自分自身となっている。気づかないうちに、絶対善であって、自分自身になっているのである。
       しかし、仏教思想は、言葉に功罪があるとする。言葉は、社会生活を送る上では必要不可欠であって、仏陀の智慧の一部でもあるが、しかし同時に、それはデメリットもあり、絶対善ではなく、盲信すべきではなく、自分自身だと考えるべきではないと言うのである。


    3.言葉を重視する西洋思想

       常識的には、言葉と言葉による思考は、私たち人間と動物との、最も大きな違いの一つとされるものである。例えば、「人間は考える葦である」というパスカルの言葉は非常に有名である。
       そして、ご存じのように、現代の人類社会の常識は、西洋の近代思想の影響が非常に大きい。近代哲学の祖とされるデカルトは「我思う、故に我あり」と語った。彼は、ニュートンらと共に、キリスト教が中心のヨーロッパ社会から近代科学思想が生み出される上で、大きな役割を果たした。
       そして、デカルトは、理性を重視する哲学者らしく、いろいろなものを理性に基づいて疑うことを重視したが、「我思う、故に我あり」という言葉は、「今考えている私があることだけは疑えない」という意味があるという(そう解釈もできるという)。言い換えれば、「思考」と「思考する私」という存在を、絶対的な存在と見たとも解釈できる。
       しかし、後に述べるように、仏教の思想では、言葉、言葉による思考、私という存在も、絶対視しないのである。代わりに、思考や感情が静まった状態も重視し、私という存在は相対的なものであると説く。
       さて、西洋の文化の根底にある聖書を見ると、言葉の重視は際立っている。例えば、「はじめに言葉ありき」「言葉は神と共にあった」「言葉は神であった」などと述べられている。実際に、聖書には、神が言葉によって世界を創っていく様子が描かれている。こうして、言葉は、神格化さえされているのである。


    4.仏教が説く言葉のメリットとデメリット

       一方、仏教を含めた東洋思想の中には、言葉と言葉による思考を絶対視しない思想がある。ではいったい、どんなデメリットが言葉にはあるというのだろう。
       そこで、仏教が説く言葉の功罪を私なりに表現すると、言葉によるデメリットは、言葉によるメリットの裏側にあり、それとセットなのである。
       まず、言葉のメリットとは、言葉によって、人は、この世界にある様々な「違い」を理解することができることである。この世界は多様であって、均一ではない。実に様々なものがあり、時とともに変化している。
       そして、この世界にある様々な差異を認識する上で、言葉は非常に重要である。言葉によって、私たちは、あるものと他のものを区別して認識する。例えば、自分と他人・他者、良いものと悪いものなど。
       そして、差異を認識することは、極めて重要な叡智である。近代の科学の発展も、まさに、この差異の認識=分析に基づいている。何が何の原因であって、何がそうではないか、何を変えれば何が変わり、何がそうではないか、という分析があってこそ、科学は成立する。
       また、高度な都市社会であればあるほど、多くの人が協調・共同して生きていくために、倫理的な視点からの物事の区別、すなわち、善悪の区別・分別が重視される。
       では、デメリットとは何か。それは、言葉を注意せずに使えば、色々なものが違うというだけではなく、「全く別のものである」という錯覚が生じて、事物の間の「繋がり」が理解できなくなるというのである。


    5.言葉によって名前が与えられた場合

       例えば、言葉によって名前が与えられたものは、別の名前が与えられたものとは全く別のものと感じられ、その間の繋がりがわからなくなることは非常に多い。
       例えば、「自分」と「他人・他者」についても、そうである。注意深く観察すれば、自分の体は、外部の空気・水・食べ物によってできており、食べ物とは、他の生き物の体であったものである。その意味で、自分と他者は、全く別のものではない。
       科学的に見れば、他人の体を構成していた分子が、呼吸を通して外部に排出されて、同じ場にいる自分の体の中に入り、自分の体を構成するようになる。その逆もそうである。それが絶えず起こっている。
       人の体の分子は、数年ですべて外のものと入れ替わるとされており、その意味で、自分の体を構成する分子のすべては、他の人や生き物を含めた地球の環境と、完全に共有・交換している。
       その意味で、厳密には、自分だけの体などはない。どこまでが「私」で、どこからは「私ではない」という明確な境界も存在しない。「私」と「私以外のもの」は、全く繋がっているのである。
       しかし、日常の私たちは、自分と他人を強く区別して、自分を特別に愛している。これは、いわゆる、過剰な自己愛・エゴイズムの問題を生じさせる。これを言い換えれば、自分と他人を一体と悟る仏陀は、そのために、万人を(一体として平等に)愛することができるのである。
       そして、言葉による過剰な区別の問題は、すべての事柄に及んでいる。山と平地と言っても、両者の間に明確な境界はない。川と岸、海と陸、大地と空、地球と宇宙もそうである。
       生と死の境界も、本来は区別しがたい。どの状態までが生であり、どの状態から死かというのは厳密には区別できない。そのために、心臓死や脳死などの議論があって、あえて人工的に死の定義をしなければならない(そうしないと何が殺人罪かも定義できず、実際に問題が生じることがある)。
       生物と無生物の区分も難しい。一応、生物と無生物を区分する基準は色々と挙げられるが、なぜそれが妥当な基準なのかの根拠は不明確である。そもそも生物は、無生物から生まれたものである。だから、そうした基準は満たさないが、明らかに生物との関連性が深い、中間的な存在がある。
       こうして、私たちが日常、別々だと思っていたものは、言葉による思考の結果として、そう錯覚していただけにすぎず、よく考えれば、両者の間に境界はなく、本質的には繋がったもの、一体のものであることがわかる。


    6.感覚器官による区別の問題

       こうして、言葉によって名前が与えられると、色々なものを別のものだと錯覚するが、この問題の原因は、言葉とそれによる思考だけではない。それに加えて、私たちの感覚器官が、色々な物事を、実際よりも区別して感じさせる面もある。
       例えば、視覚である。私たち人間の視覚は、現代の科学技術に比べると、物事を極めて大雑把にしか映し出さない。同じ場所にいる自分と他人が交換する、空気の分子の流れなどは全く見えない。そもそも、古代は、空気というものがあること自体が、明確には認識されていなかっただろう。
       自分の体の中に入った空気・水・食べ物が、自分の体の細胞を構成していく様子もわからない。口に入れようとする食べ物が、少し前に他の生き物の体だったことは、頭ではわかっているが、視覚的に全く見えない(過去は見えない)。
       こうして、人間の五感は、現代の科学技術のようには、物事を厳密に観察することができるものではなく、そのために、私たちの日常の感覚は、物事を実際以上に区別することを含め、様々な誤った認識をしているのである。


    7.人の五感と意識は錯覚を起こす

       よって、仏教では、五感と言葉による思考をする意識によって、人は世界をありのままに認識することができなくなっていると説く。私たちが普段ほとんど疑っていない、私たちの五感と言葉による思考をする意識が感じているものが、実際の物事の在り方とは異なるということである。
       すなわち、「人の世界の感じ方」と、「世界の実際の在り方」は、別だと言うのである。強く言えば、人は、実際には存在しないものを感じているということになる。そのため、仏教では、人が、その意識(脳)で感じている世界は、マーヤ(幻影)だとも表現されることがある。
       実際にないものを意識(脳)が感じているならば、それは、意識(脳)の中にしか存在しない夢・幻とも似た性質を持つことになる(なお、実際には、夢・幻と同じではなく、一面において似ているということにすぎないので、この点は注意を要する)。


    8.良し悪しの感じ方にも過剰な区別がある

       さて、人が、実際以上に物事を区別する、別物だと感じるという問題は、言葉で名前が与えられる場合だけではない。
       それは、良い悪いなど価値の判断、楽しい・苦しいの苦楽の感覚などもそうである。言葉で言えば、名詞だけではなく、形容詞に関係する事柄である。
       私たちは、日常生活において、良い人・物、悪い人・物という区別をよくしている。しかし、よく考えてみれば、良し悪しに明確な区別はない。
       実際に、辞書を見れば、「良い」とは、「物事が質的に他よりすぐれまさっている」などと定義されている(『広辞苑』第4版・岩波書店)。すなわち、人が何かの良し悪しを決めているのは、他の何かとの比較の結果なのである。
       これは、人によって、同じ対象の評価が異なる理由の一つであり、また、同じ一人の人の中で、時とともに、同じ対象の評価が変化する理由の一つでもある。
       例えば、毎月20万円の給料を良い給料と感じるか、悪い給料と感じるかは、例えば、それまでに自分がもらっていた給料や、自分に近い人たちの給料と比較して、それよりも多いか少ないかによることが多いだろう。
       だから、人によって、20万円の給料が、悪い給料にも、良い給料にも、良くも悪くもない給料にもなる。
       また、同じ一人の人の中でも、給料が15万円から20万円に上がった時には、良いと思うだろうが、その後しばらくして慣れてくると、良くも悪くもないと感じるようになって、25万円に上がって慣れた後に20万円に下がれば、前とは違って、悪いと思うだろう。


    9.良し悪し・苦楽も繋がっている:苦楽表裏

       これは、良し悪しも全く別のものではなく、繋がっていることを示している。なぜならば、20万円から25万円に上がった時に、それを良いと感じる(喜ぶ)からこそ、その後に20万円に下がった時には、それが悪いと感じる(苦しむ)からである。そもそも25万円に上がることがなかったならば、同じ20万円を悪いと感じることはない。
       言い換えれば、良い(楽しい)と思った時に、将来に悪い(苦しい)と思う原因が作られている。これは、お金に限らず、名誉・地位・異性など、すべてにあてはまることだ。わかりやすく言えば、1階から2階に上がれば、見晴らしは良くなり気分は良いだろうが、落ちれば怪我をする可能性があるのと同じである。
       そして、喜びを感じている時に、気づかないうちに、その裏側で苦しみの原因が作られているという理由は、何かを得た後に、それを失う可能性があるからだけではない。
       何かを得て喜んだ後には、それに慣れてしまうと何も感じなくなるので、「もっと得よう」という欲求が生じる。つまり、欲求には際限がないのである。しかし、実際には、それが得られない場合があるから、それが苦しみとなる。
       さらに、際限なく求めれば、必然的に他との奪い合いが深まることになって、それによっても苦しむことがある。こうして、何かを得て喜ぶ裏側には、得たものを失う苦しみや、求めて得られない苦しみや、奪い合いの苦しみがある。このことを仏教では、苦楽表裏と説く。
       ところが、普段の日常の私たちは、良いもの・悪いもの、楽しいもの・苦しいものが、全く別のものだと感じており、その間の繋がりを十分に感じていない。そのために、先ほど述べたように、際限のない欲求、貪りが生じて、他と奪い合い、苦しむのである。
       そして、これも、人の世界の感じ方が、実際の世界の在り方と異なるという教えの一部である。


    10.仏陀の智慧:二つのものは実は一つ

       仏教では、仏陀の智慧は、普通の人には二つの別のものに見えるものが、実は一つであり、同時に生じるものであることを理解すると説く。これは、仏教の教え、その悟りの哲学の、まさに中核である。
       先ほど述べたように、自分と他人を含め、世界の中で、全く別々のものは存在せず、何事にも明確な境界はなく、物事の間には、何かしらの繋がりがある。その意味で、世界は、実際には、一体であるということもできる。
       しかし、私たちが、「自分」という言葉を使って思考すると同時に、私たちの意識の中には、「自分」と「自分以外のもの」の両者が現れる。こうして、「自分」と「自分以外のもの」は、実は一つであり、両者が現れるのは、同時である。


    11.比較で生じる良し悪し・苦楽も、同時に生じる

      また、良し悪し、苦楽も同じである。
       前に述べたように、良し悪し、苦楽は、比較で生じる。だから、比較の対象がなければ、生じない。実際に、人は、一つしかないものに、良し悪しは言わない。「良い地球・宇宙」とか、「悪い地球・宇宙」とは言わない。二つ以上あるものにしか、良し悪しは言わない。
       そして、給料に関して検討したように、何かを良いと感じた時に、そうではないものを悪いと感じる原因が生じ、逆に何かを悪いと感じた時に、そうではないものを良いと感じる原因が生じる。
       言い換えれば、二つだけしかないものに関しては、その一方を良いとしながら、他方を良くも悪くもない(ないし普通のもの)とすることは通常はない。三つあれば、良い、悪い、普通と区別することがあるが、二つだけしかなければ、たいてい良い・悪いの区別となる。
       こうして、良し悪しや苦楽も、セットで生じていることがわかる。この意味で、両者は本質的に一体であり、同時に生じているのである。


    12.比較による良し悪しの変化について

       こうして、良し悪しは、比較によって生じるため、今、何かを悪いと感じていても、それ以上に悪いと感じるものと比較するようになれば、良いと感じることになる。今、悪いと感じていなくても、それ以上に悪くはないものと比較するようになれば、悪く感じる。
       ある私の知人は、最近、職場で、以前は悪いと感じなかった人を悪いと感じるようになった。相手は何も変わっていない。変わったのは、その人以上に悪いと感じていた人が、退社していなくなったことであった。
    同じように、何かを良いと感じていていも、それ以上に良いと感じるものと比較するようになれば、悪く感じる。良いと感じていなくても、それ以上に良くないものと比較するようになれば、良いものと感じる。
       ある私の知人は、高校時代からある女性と同級生だったが、高校時代は美人とされていなかった彼女が、同じ大学に進学した後は、美人としてもてはやされることを経験した。
       こうして、良し悪しは比較で生じているので、厳密に言えば、絶対的に良いものとか、絶対的に悪いものというものは、存在しないことになる。


    13.一元の思想・哲学

       こうして、私たちが日常では別と感じている二つのものが、本質的には一体であり、同時に生じていることがある。こうした世界観を「一元」「一元の哲学・思想」など呼ぶことがある。
       なお、注意すべきは、これは、世界は皆同一である、という思想ではない。よって、単純に、自と他や、良し悪し、善・悪、苦・楽などがない、というだけの暴論では決してない。仮にそうした思想があれば、それは一元ではなく、「同一論・均一論」とも言うべきものだろう。
       ここで言う「一元論」とは、世界は多様であって、様々な差異があるものの、同時に繋がりがあって、本質が一つである、ないしは根源が一つである、といったほどの意味である。言い換えれば、世界の中の様々な差異を理解しながら、同時に、その間の繋がり・一体性をも理解することである。


    14.仏道修行の手印や座法が象徴するもの

       さて、これまで述べてきた仏陀の智慧、一元の智慧に基づいて、手印について述べておきたい。
       手印とは、仏陀の悟りを象徴する手の印といったほどの意味で、手によって、仏陀の悟りの内容を象徴したものである。
       例えば、皆さんがお寺の仏様(仏像)を前にして合掌するが、これも手印の一つである。合掌は、指を伸ばして、手のひらを合わせるが、指を組んで、掌を合わせる手印もある。
       また、禅でよく見られるように、両手を重ねて、足の上に置くものもある(仏陀の禅定=瞑想の印として、定印(じょういん)ともいわれる)。
       これらの手印は、二つの手を一つにしていることが多い。そうではなくても、指で輪を作っていることが多い。
       私の解釈では、これは、仏陀の悟りの境地、悟りの智慧が、先ほどから述べているように、二つのものが本質的には一つであることを悟った一元の智慧であることを象徴するものだと考えている。
       右手と左手をそれぞれ、苦と楽、善と悪(良し悪し)、自と他を象徴すると考えれば、合掌は、まさにそれらが表裏一体であることを示している。仏教が説く、苦楽表裏の教えを見事に象徴している。
       さらに、瞑想のための座法も、たいていは、両足を一つにまとめている。蓮華座(パドマアーサナ)は、両足が交差する形で、完全に一体化しているし、達人座(シッダアーサナ)も両足を重ねて一つにしたものである。
       これもまた、手印とともに、対極的な二者が、実は一つのものであることを象徴しているのではないかと思う。


    15.一元思想の象徴である「輪」

       そして、手を合わせると、両腕が輪を作ることになる。特に、両手を重ねて脚の上におけば、前から見れば、両手が見事に輪を作っている。
       このように、二つのものが一つであるという一元の思想の重要な象徴が「輪」である。これが、「ひかりの輪」の団体名の由来の一つである。
       ひかりの輪では、輪は、「万物・森羅万象が、輪のように本質的に一体であり、皆等しく尊いこと」を象徴するものだと考えている。
       さらに、輪は、単純に、二つが一つ、万物が一つ、という意味ではない。輪には、車輪という意味もあり、循環という意味がある。すなわち、二つのものが、循環しているという意味がある。これらの詳細については、後に述べることにしたい。


    16.一元思想と、仏教の「縁起の思想」との関係

       これまで述べてきたことは、実は、仏教の中核の思想とされる「縁起」と「空」の思想と、本質的に同じことである。これについて多少説明する。
       縁起の法とは、事物が「条件によって生じる」という意味である。「縁」が条件という意味で、「起」は生起という意味である。
       「条件によって生じる」とは、「無条件では生じない」、「(条件となる)他に依存して生じる」ということだから、「自分だけでは存在しない」「他から独立して存在しない」という意味になる。
       そして、万物が、他に依存して生じていることを言い換えると、万物は、相互に依存し合って存在しており、繋がっている、一体である、ということになる。こうして、縁起の法は、万物が一体であるという一元思想であることがわかる。
       例えば、良し悪し、苦・楽は、縁起しているものである。すでに述べたように、それは、比較によって生じ、比較する対象が変わると感じ方が変わり、さらに突き詰めれば、両者はセットで生じているのである。
       よって、良し悪し、苦・楽は、条件によって生じ、両者は相互に依存し合っているということができる。


    17.一元思想と仏教の「空の思想」との関係

       次に、仏教が説く「空の思想」との関係である。空の思想とは、事物に「(固定した)実体がない」という意味である。
       これは、縁起の思想と不可分である。事物が、条件によって生じるならば、条件が変われば、生じていたものがなくなる、変わることになる。すなわち、固定した実体はないのである。
       そして、良し悪し、苦・楽も、空である(固定した実体がない)ということができる。先ほど述べたように、比較の対象が変われば、良いと感じたものが、悪いと感じるようになり、その逆もまたあるからである。
       これを理解することで、苦しみを和らげたり、喜びを増やしたりすることができる。この点に関しては、次の章で詳しく検討することにする。

  • 2013~14年 年末年始セミナー特別教本 『輪の思想と目覚めの教え』第1章公開

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    第一章 輪の思想・法則の復習

       本書の本題に入る前に、その前提として、ひかりの輪の中核の思想である「輪の思想」と、それに基づく「輪の法則」について、前回のセミナーまでの特別教本と講義で述べたことを簡潔に復習しておきたい。


    1 輪の思想と輪の法則


    (1)輪の思想とは

       まず、「輪の思想」とは、大雑把に言えば、この世界の万物はバラバラのように見えて、実は輪のように一体であるという思想である。さらに、それから派生して、万物を平等に尊重し、調和を重視する思想でもある。言い換えると、一元的な世界観の思想である。
       この詳細は、過去に発刊したひかりの輪の特別教本である2013年夏期セミナー特別教本、2012年GWセミナー特別教本、2011年夏期セミナー特別教本、2011年GWセミナー特別教本などを参照されたい。
       それらの教本で解説したように、この思想は、最新科学が解明した宇宙の実相と一致し、大乗仏教を含めたさまざまな古来の思想にも共通する真理である。よって、これを学んで修習することは、仏教的な悟り・真の幸福に近づく実践と、本質的に同じ効果があると考えている。
       さらに、最新科学の発見は、時間差をもって未来の社会の思想・価値観に反映されるので、輪の思想は、未来社会の思想だと考えている。
       この思想は、諸宗教の思想・哲学、近代科学や心理学などの研究と、聖地・自然でのさまざまな体験・学びから育んできたものである。そして、それは、結果として、日本の根本精神である聖徳太子の「和の思想」や、仏教・道教等の東洋思想と本質的に通じるものとなった。


    (2)輪の法則(一元の法則)とは

       万物を一体と見る「輪の思想」に基づいて、それを噛み砕いたさまざまな法則を「輪の法則」ないしは「一元の法則」と呼んでいる。
       これまでに、主に、①「三悟の輪の法則」、②「三縁の輪の法則」、③「三性の輪の法則」という三つの法則を紹介してきた。これらの詳細は、先ほど紹介した2012年GWセミナー特別教本をはじめとする特別教本を参照されたい。なお、多くの宗教が、自分の教義・思想を唯一絶対と説くが、ひかりの輪は、いかなる教義や思想も、絶対ではないと考えている。そもそも、法則を現す言葉自体が、意思を伝達するには不完全な道具であるし、すべての人に適した唯一の法則があるわけでもない。それは、輪の法則も同様である。
       その中で、輪の法則の目的は、「今よりもっと、他人よりもっと」とお金や名誉を求める現代主流の幸福だけではなく、万物を一体・平等と見る東洋思想の智恵による幸福を体得し、心身の苦しみを和らげ、幸福に生きることである。この延長上には、大慈悲とか、博愛と呼ばれる、万人・万物を愛する心に近づくことがある。
       よって、西洋的な幸福観だけでよいという人や、悪人を憎んで滅ぼすことが善・正義であるという価値観の人などには、輪の法則は、場合によっては、煩わしく感じられ、好まれないかもしれないし、少なくとも、今の時点では縁がないものであろう。
       輪の思想は、そういった人たちを否定しないが、同時に、現代主流の価値観・常識とは必ずしも一致しない。そして、だからこそ、現代社会に不足や行き詰まりを感じる人には、利益があるものだと自負している。
      また、輪の思想・法則は、前に述べたように、未来社会の思想の一部となり得ると考えており、この意味でも、現在主流の価値観と必ずしも一致しないのは自然である。歴史を見れば、人類の思想は絶えず進歩してきたのである。


    (3)輪の法則に関する読経瞑想

       先ほど述べた三つの輪の法則の詳細は、過去の特別教本に委ねるが、その概略は説明しておこう。そのために紹介するのが、輪の法則の要点をわかりやすく簡潔に表現した短い言葉であり、具体的には、「三(さん)悟(ご)心(しん)経」、「三(さん)悟(ご)智(ち)経」、「三(さん)縁起(えんぎ)経」、「三性(さんしょう)理(り)経」、「十二(じゅうに)宝(ほう)経」の五種類がある。
       これらは、必ずしも仏教に限った思想を表したものではない。しかし、仏教の有名な経典である般若心経のように繰り返し唱える(=読経する)ために作ったので、輪の法則の「読経瞑想」と呼んでいる。四字熟語などの連続で構成され、リズミカルな読経となるように工夫されている。では、以下に、各々の読経瞑想を紹介する。


    2 三悟心経:三つの悟りの輪の法則から

      万(ばん)物(ぶつ)恩(おん)恵(けい)、万(ばん)物(ぶつ)感(かん)謝(しゃ)
      万(ばん)物(ぶつ)仏(ほとけ)、万(ばん)物(ぶつ)尊(そん)重(ちょう)
      万物(ばんぶつ)一体(いったい)、万物(ばんぶつ)愛す(あいす)

       三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛という三つの悟りの心のこと。「三悟心経」とは、三つの悟りの心の教えという意味。この三悟心経は、先ほど述べた「三悟の輪の法則」のポイントを簡潔に表現した読経瞑想である。それでは、一行ずつ、その意味を説明する。


    (1)「万物恩恵・万物感謝」

       これは、「万物を恩恵と見て、万物に感謝する」という意味である。しかし、前にも述べたとおり、この考えが唯一の真理であり、「誰もが、万物を恩恵と考え、万物に感謝すべきだ」と主張しているのではない。
       これは、森羅万象・万物は、見方によっては、恩恵と見ることができ、感謝の対象にすることができることを意味する。よって、万物を愛する心(大慈悲・博愛)に近づきたいならば、この考え方が役に立つ。では、次に、具体的に、万物を恩恵と見て、感謝するものの考え方を例示する。

    ①自分の恵みの大きさに気づき、それを支える万物に感謝する

       人の楽を求める欲求には際限がない。どんな楽を得ても、もっと欲しくなって満ち足りることがない。また、多くの楽を得るほど、逆に、少しのことが苦しみに感じられるようになる。求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、他と奪いあう苦しみも強くなっていく。
       こうして、苦楽の本質として、これを得たならば永久・完全に満足できるという絶対的な楽はなく、そのために果てしなく楽を求め続ける中で、その裏側にさまざまな苦しみが生じるという構造になっている。なお、慈悲による幸福は、裏側に苦しみをもたらさない「真の楽」であるが、ここで扱っている楽とは、あくまでも一般に人が求める、自分のための快楽のことである。
       この際限のない欲求のために、私たちは普段、自分がすでに得ている恵みが、実は膨大であることに気づかなくなっている。これに気づいて、さらに、その恵みを世界の万物が支えていることに気づくならば、万物を恩恵と見て感謝する心境に近づくことができる。
       例えば、古代人が、現代社会にタイムトラベルしたならば、楽園のように感じるだろう。まさに万物恩恵、万物感謝の心境になるに違いない。また、現代社会に限っても、飢餓・戦争・貧困に絶えず悩む途上国の人から見れば、長寿・安全・豊かさの三拍子揃った日本社会は、まさに楽園に感じられるだろう。
       数十万年の人類の歴史の最先端の21世紀に生き、その70億の人間の中でも、三拍子がそろった日本社会に住む者は、客観的に見れば、膨大な恩みを得ている。その恵みは、無数の先人の努力と、今現在の地球の万物が、支えているのである。

    ②苦の裏の恩恵に気づき、苦楽双方の森羅万象に感謝する

       苦しみの裏にも、視点を変えれば、さまざまな恩恵がある。例えば、苦しみの原因である過剰な貪り・執着を弱める契機になったり、自分の苦しみを通して、他の苦しみを理解する心(慈悲)を養ったりと、苦しみは、自分を成長させる愛の鞭の側面がある。
       そして、究極的には、苦しみは、真の幸福に至るための愛の鞭だとも考えられる。仏陀の教えでは、人は自己に過剰にとらわれるがゆえに苦しみ、真の幸福は、自己に過剰にとらわれずに、万人・万物を愛する慈悲によって得られるとする。
       先ほど述べたように、自分の楽を果てしなく求めれば、得られない苦しみ、失う苦しみ、奪いあう苦しみなど、さまざまな苦しみが生じる。それをやめて、万人・万物を愛する慈悲を持てば、苦しみは和らぎ、心は静まり、慈悲による温かい心や他との良い関係・助け合う幸福を得ることできる。だとすれば、自分にとらわれるために生じる苦しみは、この真の幸福の道に入ることを促す「愛の鞭」とも解釈できる。
       こうしたことに気づいて、楽に限らず、苦しみも恩恵と考えるならば、苦楽の双方をもたらす森羅万象=万物を恩恵と見て、感謝することができるだろう。

    ③宇宙・万物こそが最大の恩恵だと気づいて感謝する

       上記の①や②の思索をしていくと、本当の幸福を得るためには、自分のものを果てしなく求めるばかりではなく、自分の得ている多くの恵みに感謝して、足るを知って、他と苦楽を分かち合う慈悲の心を持つことが重要だと気づく。
       この延長上として、自分だけのもの(例えば自分のお金や名誉)ではなく、万人が共有している大自然・万物こそが、最大の宝・最大の恩恵ではないかという気づきがある。これに気づくならば、この意味でも、万物を恩恵と見て、万物に感謝する心境が生じる。
       これは、自分・自分のものに対する過剰な執着を脱却することである。究極的には、わずか百年足らずに終わる「私」に過剰にとらわれることなく、延々と続く人類全体・世界全体を大切にする境地(慈悲・博愛)や、それと連動して、世界全体こそが「真の自己」であるという認識につながるものである。


    (2)「万物仏・万物尊重」

       これは、万人・万物を仏と見て、尊重する心を培うものである。先ほどと同様に、誰もが万人・万物を仏と考えるべきであると主張しているのではなく、見方によっては、万人・万物を仏のようにとらえて、尊重する心を培うことができるという意味である。
       これは、善い人も悪い人もいると考える現代の常識から見るならば、違和感があるだろう。しかし、大乗仏教では、万人・万物の優劣を比較しない思想を有している。万人・万物を平等な仏性の顕現と考える(仏性とは、未来に仏陀になる可能性のこと)。
       さらに、悟りの境地に至ると、この世界が仏の浄土であり、すべての人・生き物が仏に見えるという教えもある。この大乗仏教の思想にヒントを得たのが、「万物仏・万物尊重」である。では、具体的にどのように考えるかについて以下に述べる。

    ①万人が未来の仏

       先ほども述べたが、イエスや仏陀の時代の人々が、突然、現代の日本社会にタイムトラベルしたならば、仏の浄土(仏の集う理想の世界)に見えるのではないだろうか。人々は、原則として人種・階級・宗教・男女・民族で差別をせず、個人の基本的な人権・自由を認め合っている。イエスや仏陀が初めて説いた人間の平等性を子供さえが当然の倫理として理解している。
       また、原子から宇宙までのさまざまな科学的な知識、衣・食・住・医療・交通機関の先進技術がある。イエスや仏陀さえ知らなかった宇宙の真相を子供すら理解し、イエスや仏陀さえできなかった治療や奇跡を、科学技術によって誰もがなしている。
       ところが、現代社会の中では、これらの倫理感・道徳・知識・能力は、当たり前のことになっているので、この社会が仏の浄土だとは感じられない。先ほど、苦楽は相対的で、比較で生じると述べたが、人の善悪・優劣も、比較に基づいて判断されるからだ。善い人でも、同じように善い人ばかりの集団の中では普通の人に見えるし、悪い人でも、同じように悪い人ばかりの集団の中では普通の人に見える。
       しかし、古代と現代を比較すれば、人類は全体として大いに進歩してきたということができるだろう。そして、この視点は、人類全体に対する尊重・愛の心を培うことを助けるだろう。そして、人と人との優劣の比較ばかりせずに、万人・万物を尊重する大乗仏教の思想の価値も、少しはわかるのではないだろうか。
       これに関連するのが、大乗仏教が説く、万人が未来に仏陀になる(可能性を有する)という思想である。万人が、何生も生まれ変わる中で、未来に仏となる(可能性がある)という思想である。輪廻転生を信じない人でも、私たちの来世とは、私たちの次世代であると考えれば、この思想は、人類が徐々に進歩し、未来のいつか、仏の集いの如き社会を形成することを意味するとも解釈できるから、必ずしも非合理的な迷信ではないだろう。
       最後に、仏教では、人は未来に仏になる存在だから、今は仏の子・胎児と考える。そして、人間の子が人間であるように、仏の子は仏だと考えれば、未来に仏になる人類全体を今も仏と見ることもできる。すると、万人を仏として尊重する見方に至るのである。

    ②万人・万物が(仏のように)学びの対象・教師

       この社会には、善いことをしている人もいれば、悪いことをしている人もいる。しかし、見方を変えれば、善いことをしているならば、それは、自分の見習うべき教師であり、悪いことをしていれば、それは自分の反面教師であるとも見ることができる。
       ただし、慢心が強く、謙虚さに乏しいと、他の問題を自分の反面教師にすることはできず、単に他を軽蔑するだけとなる。また、優れた人には妬みの心が生じ、その人さえいなければとさえ考え、優れた人がいてこそ、自分が成長できることが理解できない。
       しかし、慢心や妬みを超えて、謙虚な心を持つならば、万人は、仏と同様に、自分にとって、貴重な学びの対象と考えることができる。そして、この延長上に、万物を仏と見て、万物を尊重する心境に至る道がある。
       謙虚になれば、自分が他に教えている場合さえ、自分が多くを学んでいる事実に気づく。生徒がよく理解できない場合は、自分の教え方にも不足があり、自分自身の理解の不足が、生徒の問題につながっている場合が少なくない。これは、生徒が、自分の問題を知る鏡となっているのだ。
       そして、生徒がよりよく理解できるように努力を続ける中で、自分自身の理解が改善し、生徒の理解も改善することを経験することも多い。これは、ある意味で、生徒が自分の教師を果たしている。こうして、突き詰めると、教師と生徒は、お互いに助け合って、一体となって学んでおり、教えている側と学んでいる側に完全に二分化されてはいない。
       さらに、敵対する者からも、私たちは多くを学んでいる。敵対関係から、お互いの悪いところを責めてつぶし合い、良いところを盗み合うことが多くある。見方を変えれば、敵対者は、切磋琢磨の対象=好敵手と見ることもできる場合が多いだろう。
       究極的には、自己を傷つける者に対しても、先ほど述べた仏陀の教えに基づいて考えれば、自己に対するとらわれを乗り越える手助け・愛の鞭だと考えれば、イエスが「汝の敵を愛せ」と説き、仏陀が「敵こそ教師」と説いた意味もわかってくる。
       こうして、人々・人類は、互いに学び合って、一体となって成長する存在だということができるのではないだろうか。


    (3)「万物一体・万物愛す」

       これは、万物を一体と見ることで、自分だけではなく、他者・万物を自分と同じように愛する心を培う考え方である。より具体的にいえば、例えば、万人・万物と苦楽を分かち合い、共に最高の幸福(解脱・仏陀の境地)に至ろうとする考え方だ。なお、場合によっては、万物こそ真の自己とも考える。
       ここで、万物を一体と見る考え方については、後で述べる「三縁の輪の法則」・「三縁起経」において、具体的に述べる。簡単に概略を説明するならば、①万物が相互に関連していること、②万物が同根であること、③万物が循環していること、である。


    3 三悟智経

       次に、「三悟智経」の経文を示す。

      苦楽一体、万物感謝

      優劣一体、万物尊重
      自他一体、万物愛す

       「三悟智経」とは、「三つの悟りの智慧の教え」という意味である。この三悟とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛の三つの悟りのことであり、この三つの悟りの根拠になる三つの智慧の法則(三つの一元法則、三つの輪の法則)を意味する。
       具体的には、苦と楽・優と劣・自と他は、別々のように見えて、実際には輪のように一体であり、それゆえに、万物を感謝・尊重・愛すべきであるという教えである。
       なお、これは、先ほど解説した「三悟心経」と本質的に同じ法則である。どちらも、苦楽・優劣・自他が一体であることを前提にした法則である。両者の違いは、「三悟心経」が、万物に対する心の持ち方を重視し、「三悟智経」は、苦楽・優劣・自他が一体という世界観を強調していることである。
       そのため、両者の教えには共通点が多いが、以下には、これまでに述べなかった内容に限って述べることにする。


    (1)「苦楽一体・万物感謝」

       これは、先ほど述べたが、苦と楽が輪のように一体であることを考え、楽に限らず苦を含めて、万物に感謝する教えである。
       まず、楽は、苦に輪のようにつながっている。楽を際限なく貪れば、求めても得られない苦しみ、得たものを失う苦しみ、楽を奪いあう苦しみなどに陥って、さまざまな苦が生じる。
       そこで、足るを知ることが重要になるが、そのためには、自分がすでに得ている楽が、実際には膨大であることに気づいて感謝し、さらに、その恵みを支えているのは、この世界の万物だと気づいて万物に感謝する。
       次に、苦の裏にも楽がある。苦の経験で、苦の原因となっている楽の貪り・とらわれ・執着を弱めたり、他の苦しみを理解する慈悲を培ったりすることができる。これに気づいて、楽に限らず、苦しみを含めた万物に感謝するのである。
       こうして、楽と苦が、輪のように一体と気づくと、真の幸福とは、楽を貪り苦を厭うことではなく、自分の恵みに感謝して足るを知り、他に自分の楽を分け与え、他の苦しみを分かち合うこと、すなわち、慈悲の心と実践であると気づくようになる。言い換えるならば、真実は、自と他の幸福は一体であり、自と他双方の幸福を一体として求めることが真の幸福の道である。


    (2)「優劣一体・万物尊重」

       この「優劣一体」という教えは、二つの側面がある。一つ目は、先ほど述べたことで、優れているとされる者も、劣っているとされる者も、その間にはつながりがあって、人と人は、互いが互いの教師・反面教師の関係にあって、互いが学びの対象であるということがある。
       二つ目は、人の長所と短所は裏表であって、その意味で、優劣は、輪のように一体であり、それを踏まえ、人を優劣に二分化しすぎず、万人・万物を尊重するというものである。

    ①長所の裏に短所

       第一に、長所の裏には、短所がある。例えば、何かの長所を有するということは、その長所を持っていない人の苦しみを、体験上は理解できないという短所でもある。仏陀の教えでは、本当の幸福の道は、慈悲の実践であり、他の苦しみを理解して、取り除く手助けをする。これを考えれば、何かの長所の裏には、必ず短所があることがわかるだろう。
       さらに、慢心によって、長所が短所に変わる場合がある。人は、何かの長所のために優れていると評価されると、慢心を抱いて傲慢となり、他に対しては、見下して軽蔑しがちになる。しかし、自分の長所は、自分だけの力ではなく、他者・万物に支えられたものである。慢心・過信に陥ると、これが見えず、感謝は弱り、油断を招き、努力は鈍り、思わぬ落とし穴にはまって失敗したり、堕落したりして苦しむ。

       なお、優れた他人に対しては、依存心などによって、絶対視する場合があるが、長所と短所は表裏だから、完全無欠な人間などは存在しない。さらに、その人が慢心を抱けば、悪く変わる恐れがあるが、他人に依存されている場合は、慢心を抱く可能性が高くなる。
       重要なことだが、「優劣一体・万物尊重」という教えは、特定の人を絶対視することと矛盾する。特定の人を絶対視すれば、それ以外の人の価値は、否定される場合が多い。例えば、神の化身として信者に絶対視された教祖がいれば、その教祖に敵対する者は、信者には、悪魔に見えてしまう。
       こうして、万物への尊重とは、特定の対象の絶対視・過大視の否定でもある。

    ②短所の裏に長所

       次に、短所の裏にある長所について考えてみよう。前に述べたとおり、慈悲の体得が本当の幸福の道であるという視点からは、何かの短所を有することは、同じ短所を持っている人の苦しみが理解できるという長所でもある。また、その短所を乗り越える地道な努力をすれば、同じ短所を持つ人々が、それを乗り越える手助けをする能力も生じる。
       こう考えれば、自己の短所を見て、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、優れた他人を見て、妬ましく思ったりすることを避けることができるだろう。また、逆に、他の短所を見て、安直に軽蔑する心も乗り越えることができる。軽蔑している者が、自分が理解できない他人の苦しみを理解する力があって、さらには、見下しているうちに成長して、自分ができないような人助けを行う力を得る可能性もあるのだ。
       なお、妬みを取り除くには、妬みの対象は、実際には自分が思うほどには幸福ではないことを考えるのも良い方法だ。人は、他から見て恵まれていても、本人は、もっと欲しいと思っており、満ち足りてはいない。さらに、恵まれているほど、得たものを失う、落ち目になる不安や苦しみや、他と争う苦しみが強くなる。妬みがあると気づきにくいが、持つ者の苦しみ、持たない者の幸福がある。
       こうして、短所と長所は表裏、優劣は一体という視点に立って、慢心、過剰な依存、妬み、卑屈、軽蔑などに陥ることを避け、万人・万物を尊重する心を持つのである。

    ③他と共に、成長し幸福になるという考え方

       さて、こうして、優劣が一体だと考えると、真に優れた者になる道とは、他に勝とうとばかりすることではなくて、万人・万物を教師として学ぶこと、さらに言えば、他と互いに学び教え合って、他と共に成長しようとすることであると気づく。
       具体的に言えば、他と、互いの長所・短所を分かち合うこと、すなわち、相手の長所を学び合い、自分の長所を与え合い、相手の短所を反面教師として学び合って、他と共に成長しようとすることである。
       これを言い換えれば、真実は、自と他の成長は一体となって進むものであって、他に勝とうとばかりするのではなく、他と共に成長しようとする者こそが、真に優れた者である。

       逆に、プライドなどで、自と他を区別する限りは、自分の成長は止まって、堕落していく。なお、他と共に成長しようとする精神は、仏教が説く大慈悲・四無量心の実践に通じる。この意味でも、私たちは、万人・万物を学びの対象として尊重すべきであろう。

       最後に、この点に関連して、現代社会が重視する「競争」について検討する。競争とは、本来は、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を分けるものではなく、全体の向上のために、互いの長所を学び合い、短所をつぶし合う、切磋琢磨の過程であるべきだろう。
       さらに、個々人が自分の個性を見いだし、自分なりの道を見いだす過程とも解釈できるだろう。そうした競争は、慈悲の一形態とも解釈できるだろう。


    (3)「自他一体・万物愛す」

       自と他が一体であるという見方は、①自と他は相互に関連しており、②自と他は同根であり、③自と他は循環している、ということである。なお、次の三縁起経で、自と他に限らず、万物について、相互に関連していること、同根であること、循環していることについて詳しく述べるので、それを参照していただきたい。
       まず、自と他が相互に関連していることは、明白である。自分も他人も、空気・水・食べ物・他の人々や生き物・大自然・大宇宙といった万物の支えがなければ、生きることさえできない。
       次に、宇宙物理学による宇宙の歴史によれば、自と他を含めたこの世界の万物が、ビッグバンから生じた同根のものであるし、また、地球上のすべての生物は、この地球生命圏という一つのものから生じた同根のものだということもできる。

    ①自と他が輪のように一体:他が自分に、自分が他に

       さらに、自と他が循環していることについては、まず、自分の身体を構成する分子は、呼吸・飲食・排泄・発汗などを通して、絶えず外界のものと循環・交換し合っており、この意味で、自と他の構成分子は循環・交換し合っている。
       さらに、自分が生きるためには、他の生き物の体が、食べ物として自分の体の一部となり、自分が死んだ後は、その体を構成する分子は他の生き物の体の一部となる。生き物の体を構成する有機物は、死後、そのほとんどが他の生き物にリサイクルされるという。こうして、自分が生きている間は、他の生き物が自分になり、自分が死んだら、自分が他の生き物になる。こうして、他が自分に、自分が他になり、自と他が輪のように一体となっている。
       これを言い換えると、生と死が輪のように一体であるとも表現できる。自分の生は、必然的に他の死・犠牲を伴い、自分の死は、他の生に活かされる。こうして、自と他の間で生命のやりとり=分かち合いがあり、そのために、この地球生命圏では、生きる者は必ず死ぬ宿命にある。何ものも自分だけが永久に生きることはできず、死ぬこと=他の生に貢献することを前提条件として、生きている。
       そして、人間の思考・精神に関しても、自と他のそれは別々のものではなく、輪のように一体である。何人も、自分だけで作った自分の思考などはない。思考の土台の言語を、親をはじめとする他者から習い、膨大な知識・思考を他者から吸収し、その結果として自分の考えができている。また、逆に、自分の言動が、絶えず他者に影響を与え、他者の思考・精神を作っている。こうして、自分と他人は、物心両面で一体である。

    ②万物こそ真の自己と考え、万物を愛する

       こうして、自分が他になり、他が自分になるというのであれば、真の自分・自己とは何か。それが、万物こそ真の自己であるということになる。そして、それに基づいて、万物を愛することが幸福の道である。
       実際に、自と他が一体だと気づくならば、自分だけでなく、他を含めた万物を、自分と同じように愛する心を持ちやすくなる。より具体的には、他と苦楽を分かち合って、共に幸福になろうとすることである。その究極として、共に解脱・仏陀の境地に至ろうとすることがある。
       なお、自と他が一体であるという考えをより深めるならば、①先ほど述べたように、自と他は物心両面で一体であることに加えて、②「万物恩恵・万物感謝」の教えで述べたように、「自と他の真の幸福が一体であること」や、③「万物仏・万物尊重」の教えで述べたように、「自と他の真の成長が一体であること」という視点を含むことがわかる。


    4 三縁起経

       次に、三縁起経について述べる。

      万物関連、万物一体
      万物同(どう)根(こん)、万物一体
      万物循環、万物一体

       「三縁起経」とは、三つの縁起の教えという意味である。「三つの縁起の輪の法則」とは、仏教に見られる、万物が一体であると主張する法則を意味する。

       この三つの縁起の教えの詳細は、別の特別教本を参照していただき、ここでは、要点を簡潔に述べることにする。
       仏教が説く「縁起の法」は、万物が相互に依存し合って存在し、互いに関連し合っていると説くものである。また、大乗仏典の中には、例えば、毘慮(びる)遮那仏(しゃなぶつ)を宇宙万物の根源と説く経典や、万物の根元として阿頼耶(あらや)識(しき)という根本意識があると説く「唯識思想」の教えがある。これは、世界の万物が同根であるという思想である。さらに、大乗経典の中には、宇宙の根本原理を周期的な運動・循環と説いているものがある。
       これらは皆、万物が一体であるという世界観の根拠となり、万物が一体であることを深く理解する手助けとなる。

       そして、これらの思想に対して、最新の科学の理論が、同じような世界観を主張している。詳細は、別の特別教本に述べているので、ここでは、簡潔に述べておく。
       まず、万物が相互に関連しているという世界観としては、主に量子力学・分子生物学などの世界観がある。また、万物が同根であることを説く世界観としては、宇宙の万物が一つの火の固まりから生まれたとする「ビッグバン宇宙論」がある。
       さらに、万物が循環していることを説く世界観としては、分子生物学の世界観がある。生き物の体を構成する分子は、絶えず外界のものと入れ替わって循環しており、さらに死んだ生き物の有機物は、ほとんど他の生き物の体に使われ、リサイクル=循環しているという。
       また、人体とよく似た現象が、宇宙物理学が説く星々の生成と消滅である。人の体と似て、星が寿命を迎えて消滅すると、それを構成していた物質が、新たに生まれる星の材料となって循環するのである。

       次に、万物を一体と見て、万物を愛する心を強めようとする際には、次の三つの意味で、万物が一体であることに注意すると、効果的である。
       第一に、「万人が物心において一体」であることである。万物が物理的に関連しあっているとともに、人と人の精神も関連しあっていること。
       第二に、「万人の幸福は一体」であることである。真の幸福は、他とのお金や名誉の奪い合いによるものではなく、他との苦楽の分かち合い(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)によって得られるものである。また、万人が共有している宇宙の万物・大自然こそが、万人にとって、最大の恩恵・幸福という考え方もある。
       第三に、「万人の成長は一体」であることである。前に述べたが、真の成長の道は、他に勝とうとばかりすることではなく、互いの長所短所を分かち合うこと、すなわち、お互いの長所を学び合い、短所を反面教師として学び合い、他と共に成長しようとすることである。
       この考え方の延長上として、人類を一つの大いなる生命体と見て、それこそが最も偉大な生命体と見ることもできるだろう。

  • 2011年GWセミナー特別教本『ひかりの輪と日本と輪の思想』第1章公開

    《改訂版》2011年GWセミナー特別教本
    『 ひかりの輪と日本と輪の思想』

    ■目次  ★第1章をご紹介      購入はこちらから

仏教・ヨーガを科学する

  • 死後世界の科学的研究と仏教の転生思想

    1.臨死体験とは

      臨死体験(Near Death Experience)とは、事故などで重傷に遭い、昔なら死んでいた心停止の状態などから、現代の蘇生技術の発展などによって蘇生し、死の淵から生還した人が蘇生した後に語る、驚くべきあの世的な体験のことです。

      その医師などの科学者による研究は、1975年に医師のエリザベス・キューブラー=ロスと、医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで著書を出版して注目されました。その後、統計的・科学的な調査が行われ、1982年には、医師のマイクル・セイボムが調査結果を出版し、1977年には、臨死現象研究会が発足し、後に国際臨死体験研究会(IANDS)に発展し、国際会議が開かれています。

      1982年のギャラップ調査では、米国の臨死体験者は、数百万人に及ぶと推測されています。1988年には、オランダで、344名の心停止患者を対象とした調査が行われ、18%にあたる62名が臨死体験を報告しました。2001年の英国における63名の心停止患者を対象とした調査では、11%の人々が心停止中の記憶を有していました。2008年には英国で、過去最大規模の調査が開始され、2060名の心停止患者が対象となり、そのうち330名の心停止から生き帰った患者の中の140名(約40%)が、心停止中に意識があったことを報告しました。

     

    2.臨死体験のパターンと経験者の変化

      臨死体験には個人差がありますが、一定のパターンがあるとされます。それは、①心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる、②心の安らぎと静けさ、③ブーンという耳障りな音、④暗いトンネルのような筒状の中を通る、⑤物理的な肉体を離れる(体外離脱)、⑥他者との出会い(死んだ親族や他の人物など)、⑦光の生命に出会う(神や自然光など)、⑧人生回顧(自分の人生全体を走馬灯のように見る(ライフレビュー))、⑨死後の世界との境目を見る、⑩蘇生する(生き返る)などです。

      臨死体験は、その人の属する文化圏・宗教などの影響が見られる内容が含まれます。その中で、比較的に文化圏の影響が少ないと考えられる子供の臨死体験では、①「体外離脱」②「トンネル」③「光」という三つの要素が見られ、大人よりもシンプルなものであるという報告があります。

     

    3.体外離脱

      全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと、天井に浮かび上がり、ベッドの上の自分の身体を見下ろしたり、手術中の様子を客観的に眺めたりしている鮮明な意識を持った自分に気付くという体験があります。幻覚的な体験も起こりますが、現実の出来事をその五感では知覚できないはずであるにもかかわらず、きわめて正確・詳細に認識し、後に描写できる事例もあります。それは、病室から健常者でさえ知覚できないものも含まれます。また、全盲の者が、視覚を取り戻したかのように体験したという情報もあります。さらに、その間に「天的な世界に入った」とか、「何らかの境界線を感じ引き返した」とする証言も多くあります。

     

    4.光体験

      臨死体験が起こると、まず、暗いトンネルの中に浮かんでいる自分に気付き、その次に「光」を見るという体験をする者が多いということです。この「光」は、死んだ肉親の姿や宗教的人物の形をとることもあります(→死者のお迎えの現象)。体験者の多くは、この光が自分を包み込み保護していると感じ、恋人や家族から感じるものとは比較にならないほどの愛情を持っていると感じる場合もあり、体験後に精神的な変容を遂げる者も多くいます。ただし、文化圏が異なると、体験の質が異なるというデータもあります。

     

    5.人生回顧 (ライフレビュー)

      自分の人生の全ての瞬間が、忘れていた過去を含め、強い感情を伴って一瞬のうちにパノラマとなって目の前に再現されます(俗にいう「パノラマ体験」)。臨死体験者の約25~30%が経験しているといいます。

      ただし、集団意識が強く、個人的なモラル観念が薄い少数民族では経験されないとした研究もあります。また、このとき「光の存在」が現れ、一切批判も称賛もせずに、回顧体験を見守り続けるという報告もあり、神による裁きや審判を信じる宗教との間で、激しい議論の対象ともなりました。

      なお、臨死による人生回顧体験を記述していると思われる歴史的な文献としては、パタンジャリの2000年前のヨーガ文献、「チベット死者の書」、「エジプト死者の書」、プラトンによる、エルの彼岸への世界の旅の話などが挙げられます。

     

    6.臨死体験後に起きる変化

      何割かの臨死体験者は、体験後に人格上の変化を経験することが少なくありません。ケネス・リングやレイモンド・ムーディが報告をしている変化は、

    ①日々の生活にある当たり前のものを評価するようになる、

    ②他者からの評価を気にせずに、ありのままの自分を認められるようになる、

    ③他者への思いやりが増大する、

    ④特に環境問題や生態系への関心が強まる、

    ⑤社会的な成功のための競争への関心が弱まる、

    ⑥物質的な報酬への興味は薄れ、臨死体験で起きた精神的変容へ関心が移行する、

    ⑦精神的な知識への強烈な渇きを覚えるようになる、

    ⑧人生は意味に満ち、全ての人生には神聖な目的があると考えようになる、

    ⑨死への恐怖が克服される(ただし死の過程への恐怖は残る傾向も)、

    ⑩死後の世界や生まれ変わりを信じるようになる、

    ⑪自殺を否定する、

    ⑫光への信頼が生じる、

    ⑬小さな自己という殻を破り、宇宙全体へと開かれた心の成長をのぞむ、

    ⑭ヒーリング・予知・テレパシー・透視などの体験が起こる などです。

     

    7.死者の「お迎え」現象

      死んだ親族などの姿が現れる現象です。すでに死んだ者、生きている者、神話的人物(イエスなど)の3つパターンがありますが、大半は「死者・宗教者」の姿を見ます。死者の目的は、患者を別の存在界に移行させること=お迎えのように見え、患者には、安らぎや歓喜、宗教的な感情が起こり、その中には、あの世的な光景を見る者もいます。こうした傾向は健常者の見る幻覚とは正反対です。また、この死者の幻(げん)姿(し)が、臨死体験者ではなく、看護中の親族などの第三者に目撃される事例があり、臨死共有体験といいます。

      鮮明なヴィジョンを見た直後に死亡する者が特に多く、幻覚性の疾患や薬物の影響、脳の機能異常といった要因との関連性はほぼ見られず、自分が死ぬと思っていなかった(そう診断されていた)が、実際は死の間際にいたという無自覚な患者にも起きることが判っています。

      日本では欧米ほどの調査が行われておらず、体外離脱やトンネル体験などは、欧米と同様の内容でしたが、三途の川やお花畑に出会う確率が高く、光体験に出会う確率は比較的低いという結果が出ました。インドの調査も、欧米の体験との共通点がありますが、相違点もあり、「ヤムラージ」と呼ばれるヒンドゥー教の神が現れる体験が多くを占めました。

      こうした文化による体験の違いは、長く議論されており、前に述べたように、文化的影響の少ない子供を対象とした研究から、「体外離脱」「トンネル」「光」の3つが普遍的な「コア体験」で、残りは文化的な条件付けを受けた体験と考える研究者がいます。

     

    8.ネガティブな(地獄的な)臨死体験

      臨死体験の調査結果では、ネガティブな体験(例えば地獄的な体験)は少ないとされますが、いろいろな疑問が呈されています。第一に、世の中に知られるようになった臨死体験のイメージがポジティブなため、ネガティブな体験をした者は、打ち明けにくいこと(特に地獄的な体験は、罪深い人がするという宗教的な観念がある)、第二に、ネガティブな体験が、忘却される可能性があることです。

      臨死体験の調査は、蘇生直後ではなく、相当後で行われますが、医師のモーリスは、自分の患者が地獄的な体験を報告した後に、それを全く忘却したという体験をしたので、蘇生直後の臨死体験の調査を開始しました。その結果、その調査が進むにつれ、地獄を体験していたとわかった人が増え、今現在は36%にのぼり、50%に近づいており、多くの地獄の体験者は恐怖ゆえに、それを事実上、自らの意識から遮断していると主張しています。

      また、ケネス・リングの調査によれば、自殺による臨死体験では、「光の世界に入る」などの現象はほとんど見られず、体験は中途で途切れたものとなっていて、ネガティブな体験となるといいます(ただし、自殺により、地獄的な体験が起こるという研究結果はない)。そして、こうした事例は、自殺予防のカウンセリングに有効であるといいます。また、自殺で臨死体験をした者は、体験のなかった者に比べ、再び自殺を試みる割合が極端に減少するということです。

      なお、この議論は、実際に地獄があるかないかという議論とは、直接的には関係がありません。例えば、宗教界側の主張としては、臨死体験者とは、境界(日本でいえば三途の川)を越えずに戻ってきた人であり、その境界前で良い体験をしても、境界の向こうで、裁きがないとか地獄がない、というのとは別問題であるといいます。実際に、チベット仏教の死後の世界に関する経典でも、死後の意識は、最初に光の体験をする場合があるが、それは過ぎ去り、死から49日間の間に、地獄を含めた苦しみの世界のヴィジョンが見えてきて、そこに転生するという過程があると説きます。

     

    9.臨死体験は幻覚か否か

      臨死体験には、様々な解釈や仮説があります。臨死体験を、霊魂による死後世界の体験などではなく、従来の科学的な枠組みの中で説明するものが「脳内現象説」「心理的逃避説」です。

      脳内現象説とは、脳に生理学的・化学的な変化が起きた結果の幻覚が臨死体験であるというものです。脳内麻薬物質であるエンドルフィン説、酸素欠乏説、Gロック説、高炭酸症説、薬物説、脳内幻覚物質説、レム睡眠侵入説、出生時記憶説、側頭葉てんかん説などがあります。

      しかし、いずれも、臨死体験を、十分合理的に説明することはできないという批判があります。特に、体外離脱の存在が、脳内現象説を否定するために使われます。1つは、体外離脱中に、通常の手段では知りえない情報を知覚できたケースが多々あることです。体外離脱中に面識のない者と出会い、意識回復後にそれが自分の親族であったことが判明するケースや、体験者本人が知らない情報を死んだ親族から伝えられるケースなどがこれに当たります。もう1つは、心拍停止や全身麻酔で意識不明下にある者が、「意識が身体から抜け出した」最中に見た光景を(意識回復後に)詳細に描写できる、ということがあります。

      さらに、臨死共有体験による反論があります。臨死体験は死にかけた者のみならず、周りにいる健康な人々にも共有されるという「臨死共有体験」が存在します。看護している者に限らず、複数人に共有される場合もあり、「光体験」、「体外離脱体験」、「人生回顧体験」など、臨死体験とほぼ同様の現象が起きるといいます。病気も怪我もない健常者に起こるため、脳内現象説では説明が難しい現象です。

      また、死に直面した心が生み出す心理的な逃避による幻想が、臨死体験だとする説や、これと似た解釈として解離性障害説があります。しかし、死を予期していなかった人や、自覚する間もなく事故や発病が起こり、瞬時に無意識状態に落ちた人にも臨死体験は起こることや、心理的危機が起こす解離性障害の場合は、不安やパニック、現実感の喪失など、臨死体験の性質とは正反対です。こうして、既存の科学的な枠組みで、臨死体験の全てを十分に説明することは、今のところできていないと思われます。

     

    10.通説の科学とは異なる科学的仮説による説明:ユング心理学

      以下は、既存の科学を超えた説明です。まず、臨死体験で起こるイメージと、ユング心理学の元型の概念の類似性を指摘する声があります。ユングの元型理論は、臨死体験の生理学的説明とも超常的説明とも矛盾しません。

      また、ユングは、集合的無意識と個人的無意識に明確に線を引くことはできないと述べていますが、これは臨死体験において、普遍的・客観的と思われる体験と、個人の経験に基づく体験が混在していることの説明となります。

      臨死体験に限らず、変性意識の研究でも、個人的・幻覚的なヴィジョンと、個人性を超えたヴィジョンが、しばしば共に現れます。よって、臨死体験は、魂が、個人的無意識の領域を通り抜け、集合的無意識に至ることによって起こるという主張があります。なお、ユング自身が臨死体験者であり、東洋の宗教的な思想に深い関心を示したことで知られます。

     

    11.超心理学・超能力における霊魂説への反論

      臨死体験者は、ESP・超能力で、通常は知りえない情報を知覚したとする仮説があります。これは、霊魂や体外離脱現象を否定する対立仮説として唱えられています。しかし、超能力が発揮されるメカニズムや、なぜ臨死体験の際に発現するのかが明確でなければ、その超能力が、霊魂が体外に出ることによる能力ではないという反証ができません。

     

    12.量子脳理論

      アリゾナ大学のスチュワート・ハメロフによれば、意識は、ニューロン細胞によって生じるのではなく、脳内の微小管と呼ばれる量子によって生じていて、量子から成る人間の意識は、普段は微小管に詰まっている。しかし、心停止で壊れることで、量子力学で量子もつれと呼ばれる現象が起き、意識が宇宙に拡散する。そして蘇生した場合は、意識は再び脳の中に戻るという新しい脳理論を主張しています。

       これは、いわゆる脳と意識は独立しているという実体二元論です。意識がニューロン細胞によって生じる場合は、死によって意識は消滅しますが(心脳一元論)、量子が意識を担っている場合、死後も量子は存続するため、死後の意識の可能性も肯定されます。

       こうして、従来の科学の潮流は、「意識は脳が生み出すもの」という唯物論的な「心脳一元論」に傾いてきましたが、臨死体験などの研究を背景に、疑問が呈されるようになりました。意識と脳を別のものだと考える思想は、New Dualism(新二元論)とか、実体二元論とも呼ばれますが、まだ仮説にすぎないとの指摘・批判があります。

      例えば、サム・パーニアは、脳波がフラットな状態での臨死体験例は、心や意識が、脳とは独立に存在するという事実を示唆していると述べています。ヴァン・ロンメルは、意識は、本来は時空を超えた場所にあると考え、「脳が意識を作りだすのではなくて、脳により意識が知覚される」のではないかと述べ、意識と脳の関係を、放送局とTVの関係に例えています。

      ケネス・リングやエベン・アレグザンダーは、脳は、意識の加工処理器官であるとし、脳の機能は、本来の意識の働きを制限して、選別するものだと主張しています。これは、臨死体験のときは、脳による意識の制限が、ある意味で解除された状態であると解釈できます。

      これは、仏教やヨーガが、人の意識が、肉体を得ている生存中は、狭い自我意識の中に閉じ込められやすいが、死の際には解放されて、そのため解脱しやすいとする点と類似性があるように思われます。

      また、臨死体験の関連研究として、前世退行催眠を含め、前世記憶の研究があります。仮に人間が前世の記憶を保持しているとすれば、それは肉体の死により意識が消滅せずに、記憶が持ち越されたと考えられるため、心身二元論の根拠となります。

      そして、前世記憶の研究者であるヴァージニア大学のイアン・スティーブンソンは、幼い子供が前世の記憶を持っていたとする事例を2000例ほど集め、様々な対抗仮説(虚偽記憶説や作話説など)を含めて検証した結果として、「生まれ変わり説」を主張しています。

     

    13.スピリチュアル・宗教的な解釈:霊魂説・死後世界説

      臨死体験が、霊魂が体から離れ、死後の世界を体験したとする説には、次のような根拠があります。第一に、臨死体験者たちの多くは、自らの体験を「肉体から魂が離れ、死後の世界を垣間見た」ものであったと考えている(感じている)ことです。

      第二に、古今東西に見られる臨死体験(神秘体験)には、個人の主観・幻想と思われない共通性が見られます。『チベット死者の書』、エジプトの『死者の書』、プラトンによる『国家論』、ベーダによる『英国の教会と人々の歴史』、日本でも『日(に)本(ほん)霊(りょう)異(い)記(き)』『今昔(こんじゃく)物語』『宇治(うじ)拾遺(しゅうい)物語』『扶(ふ)桑(そう)略(りゃく)記(き)』『日本往生極楽記』、柳田邦男の『遠野物語』など。

      歴史家のフィリップ・アリエスは、西暦1000年以前の人々は、死に瀕した時に、神の幻を見たことや、すでに亡くなった人々と会ったことを、普通に語っていたといいます。また、宗教学者のキャロル・ザレスキーは、中世の文献は、臨死体験の記述であふれていると指摘しています。

      第三に、体外離脱現象を最も素朴に(素直に)理解する方法は、人体から何らかの意識が離脱するという解釈です。マイケル・セイボムは体外離脱を検証した結果、こうした仮説に傾いていると述べています。

      第四に、臨死体験で起こる現象が、前世退行催眠の体験者にも起こることがあるというものです。前世退行催眠を施した結果、その被験者が、「トンネルの通過」や「かつての死者・ガイドとの出会い」「光体験」「人生回顧体験」「思考により創造される物体」など、臨死体験者が語る世界観と、ほぼ同一の内容を語り始めたという調査結果があります。

      第五に、臨死体験の内容が、霊魂を説く宗教・スピリチュアリズムの伝統的な思想と合致することです。

      ヨーガや神智学などでは、人間は、肉体の他に微細な身体を持つとされ、「肉体を捨てて別の身体に移行する」という臨死体験と共通点があります。また、体外離脱体験者は、自分の思考がすぐに形となる体験をすることがありますが、宗教には、アストラル界のように、人間の思考が形を取る世界の思想があります。

      また、平安期の僧・源信による『往生要集』は、臨終の時に、光り輝く阿弥陀如来を心に念ずることを説いていますが、大乗経典には、阿弥陀如来の浄土は空間的に無限であり、限りない光に照らされ、個人の想念が叶う世界として描かれています。『チベット死者の書』には、人間の死から再生までの間の描写がありますが、死者は、まず、目も眩む程の光明に出会うといいます。

      また、アボリジニ文化の「ドリームタイム(夢時間)」という概念が、臨死体験に類似しています。世界中のシャーマンの文化のほとんどすべてに、人生の回想、教え導く役割を果たす教師的な存在、想念によって現れる物質、美しい光景といった言及があるともいいます。

      しかし、この霊魂説に対しては、通常の科学の基準から見れば、そもそも反証ができない説であるという批判(欠点)や、臨死体験や前世体験は、一部の人のみに起こっており、普遍性・再現性がないという批判があります。

     

    14.ヨーガ・仏教の修行者の瞑想による体外離脱や前世体験

      さて、研究者によると、臨死体験と非常によく似た体験が、クンダリニー・ヨーガの修行者の体験であるといいます。また、臨死体験者の一部が、クンダリニーの覚醒を体験するという報告もあります。さらに、クンダリニー・ヨーガなどの修行が深まって、サマディという深い瞑想状態に入ると、呼吸が非常にわずかとなり、ついには仮死的な状態に至るとされています。

      これを言い換えれば、ヨーガの高僧は、自分の意思によって自在に瞑想による臨死体験をすることができるということです。私たちひかりの輪のスタッフの中にも、瞑想において、そのような体験をした者がいます。

      すなわち、従来は仏教・ヨーガの瞑想によって、病気・事故などを伴わない臨死状態を体験していた人類が、現代になって、医学の蘇生技術の発展のために、病気・事故による病室での臨死体験をするようになったということができます。だとすれば、このまま蘇生技術が発展すれば、以前とは比較にならない数の人が臨死体験をする可能性があるでしょう。

      そこで、長年ヨーガの修行をしてきたひかりの輪の教室で指導をしている専従スタッフを調査してみると、そのほとんどが、体外離脱、ないしは前世と感じる体験をしていることがわかったので、その一部を紹介します。

     スタッフの男性Yは、19歳の時にトンネル体験をしたといいます。

    「うたた寝をしていると、亡くなって数ヶ月した母の声が聞こえ、ハッと気がつくと、ゴーッという凄い轟音とともに、意識が、暗いトンネルのような中をもの凄いスピードで進んで行きました。それは凄い恐怖でした。やっとの思いで目を開けると、いつもの自分の部屋でした。」

      また、Yは、前世かもしれない不思議な体験をしている。

    「私は、15年ほど前に、心理療法の一つである前世退行催眠(ヒプノセラピー)を学び、その中で、思い出した自分の前世と感じた体験があったのですが、それが不思議にも、その後に私が初めて会った人が記憶していた前世と一致していたのです。

    その中で、私は、明治時代の日本で、女性でした。20代後半の自分が着物を着て、15~6歳の少年が剣道をしているのを見ており、母親ではありませんが、少年の保護者的な立場で、微笑ましく眺めているという場面を思い出しました。

      そして、それから数年後、私が、ヒプノセラピーを含めた教室を開いていると、1人の若い女性が教室にやってきて、いきなり私に、『Yさんとは前にも会ってますよね』、『前世で会ってます』と言うのです。

      その女性の話を聞くと、彼女は前世、男性で、少年時代に私と会っているといいます。前世の私は女性でよく着物を着ていて、教室にやってきたその女性は剣道をやっていて、時代は明治時代で、少年であった彼女は、私のことを姉のように慕っていたと言いました。これには驚きました。私がヒプノセラピーで思い出し、他の誰にも話したことがなかった前世と見事に一致するではありませんか。」

     

     また、スタッフの男性Hも、幼少の頃から、肉体から別の身体が抜け出したとリアルに感じられる体験を頻繁にしていたといいます。意識は、寝ぼけたりしているのではなく、常に鮮明であり、臨死体験の研究で報告される金属音のような不思議な音も聞こえたということです。

    そして、これが日常的に繰り返されたので、幼少期に、肉体以外に別の身体があると自然に思うようになっていったそうですが、このような離脱体験は、大人になってからも、ヨーガの修行の中でも特に強めの呼吸法などを集中的に行っている期間にも、よく体験したといいます。

    なお、前世を記憶していると主張する子供たちの科学的な調査で有名な米国のイアン・スティーブンソン博士によると、200人以上の子供が、身体のどこかに痣(あざ)を持つとともに、それと関連していると思われる前世と思う記憶を持っているといいますが、Hもまた同様です。

      具体的には、その過去世の記憶の中で、今生の痣と同じ箇所に弾丸や刀剣などの武器が貫通して殺されたという証言ですが、Hの場合は、左の腰に、十数センチ四方の大きさの黒っぽい痣があり、以下のような体験をしています。

    「そんな子供の頃、私はよく夢を見ました。私が、軍人として銃を取り、戦場で敵と戦っている夢です。恐ろしい戦場の夢を数え切れないくらい見ましたが、その中の何度かの夢で、必ず私の左腰に銃弾か砲弾のような非常に熱いものが命中して、戦死してしまうのです。どこの時代のどの国の戦場かはわかりませんし、それが自分の前世だという確信があるわけではないのですが、子供の頃に繰り返し見た、この戦場と戦死の夢が、詳細は機会を改めますが、その後の私の人生にも、大きな影響を与えることになりました。」

     

      スタッフの女性Mにも、「真っ暗なトンネル」の体験があります。

      「その時、自分の意識は、真っ暗な空間に放りだされていました。左右、上下も何もわかりませんが、ものすごく大きい筒(=トンネル)の中にいることは認識していて、五感が全く働かず、体があるのかもわからない状態でした。『そこから出たい』と思いました。何も見えないのですが、筒の片側には出口があるのがわかっていて、そこに向かっていこうとしました。そうした瞬間に、私の意識は、自分の体に戻りました。」

      また、Mにも前生と思われる不思議な体験があります。複数あるのですが、その一つは以下のとおりです。

      「私は、江戸時代に、女の隠密(忍者)だったという前世だと感じるヴィジョンを見たことがあります。普段は普通の女性の着物姿で生活しながら、小さい頃から師匠について剣術などを徹底的に教え込まれており、自分が仕える主人に、一人で情報を秘密裏に集めて提供するのです。

      そして、不思議なことに、それが、私の今生の知り合いの男性が見た前世のヴィジョンと一致していたのです。私は、その男性に、自分が見た女の隠密のヴィジョンのことを話したことはありませんでした。にもかかわらず、ある日に何かの拍子に、彼が『私たちは前世でいろいろと縁があったと思う』と言い始めて、彼が見た前世のヴィジョンを話し始めたのです。

      彼の見たヴィジョンも江戸時代であり、私は一般人に見せかけた女の隠密であり、彼も同じように隠密であり、私たちには情報交換のために集まる旅籠屋がありました。そしてその旅籠屋の主人も、私たちの共通の今生の知り合いだったのです」

     

      スタッフの女性Hは、死期が間近な母親と関連したトンネル体験がありますが、これは「チベット死者の書」が描く死後の世界の記載と一致していて興味深いものです。

      「その日、私はたいへん疲れ、寝ていました。気づいてみると、トンネルの中にいて、ものすごい風が吹いており、その強い風に煽られて、抗うことができませんでした。

      私は、チベット仏教などの経典が説く『バルド(死後の中間状態)』に関する知識があったので、『これはバルドだ!』と思いました。チベット死者の書では、死後、私たちは生前の業(カルマン)の風に追い立てられ、なすすべもなくさまようと説かれています。

    そして、『このまま風に流されてしまったら、死ぬのではないか、戻って来られないのではないか』という恐怖が生じ、『死にたくない!』と強く思いました。その一方で、この状況を冷静に見ている自分もおり、『このように魂は流転していくのだな』と思い、仮に死後の世界・転生があれば、コントロールするのは容易ではなく、生前の善い行いや瞑想体験が必要だと感じました。そして、死にたくないと強く思った次の瞬間に、私の意識は、体に戻っていました。

    これは、実は、末期ガンで死期が迫った母親と病院で面会した直後のことでした。母親は、『死にたくない』、『死ぬのが怖い』、『さみしい』と繰り返して言っていました。その母の意識が、私に伝わってきた結果の体験ではないかと感じました。末期の患者とそれを看護する人の双方が臨死体験を共有するという事例(臨死共有体験)があるそうですが、もしかすると、私の体験も母との連動があったかもしれません。」

     

      スタッフの女性Yも、次のような体外離脱の体験があります。

      「その時、私は瞑想していました。ふと気がつくと、私の意識は、宙に浮いており、なぜか『行かなきゃ!』と思い、瞬時にある家の前に立っていました。家の中をぐるっと回ると、コンクリートでできたお店のような様子でした。

    白髪の男性がいて顔を見ると、ある知人によく似ていました。これは、その知人の親族の家(実家)ではと思いました。もう一人いて、年齢的に、その知人のお兄さんではないかと思いましたが、知人とは似ていませんでした。その家の庭には木がたくさんありました。

    この体験が終わった後に、私が見た家の図面を書いて、知人の実家と同じかどうかを知人に確かめてみました。すると、彼の実家は、私が書いた図面の通りでした。それだけでなく、コンクリート造りで酒屋をやっていることや、知人のお父さんは知人そっくりで、髪型も私の見たものと同じでした。さらには、彼が、盆栽が好きで庭には木がたくさんあることや、その家には知人のお兄さんもいるが顔立ちは知人とは似ていないことなどまで、私がその体験の中で見てきたことと、全てが一致していました。」

     

      スタッフの女性Mも、繰り返し体外離脱を体験しています。

      体外離脱の体験は寝入りばなで、たいへん疲れているときが多いといいます。そして、体外離脱体験が起こる場合は、眠ろうと横になると同時に眠気はやってこずに、意識が身体と分かれて、体外に抜けだし、上から自分の身体を見ており、さらには、壁や天井や窓をすり抜けることができるといいます。

    「ある時は、運転中に、疲れてとても眠くなったので、車を停め、シートを倒して横になると、すぐに意識が体外に離脱したと感じる体験が起こりました。頭から車の天井を通り抜け、外の車の天井の上から、自分の車を見ている私がいました。『それだったらもっと空のほうへ飛んで行ってみよう』と思い立ち、星空に向かってどんどん上に飛んでいくことができました。

    しばらく飛んだ後、自然と車のほうへ戻っていき、また同じように、車の天井を通り抜け、自分の身体に戻ると同時に、目がぱちりと開き、息を吐き出して、身体も目覚めました。そのため、意識が体外に離脱している間は息が止まっていて、身体に戻った後に息を吐き出したのかもしれないと思いました。そして、全体が、普通の夢とは異なり、大変リアルでクリアな体験でした。」

     

      スタッフの女性Kも、前生と感じる不思議な体験をしています。

      「これは、私が、中学生のころに見たヴィジョンです。それは、もうすぐ大変なことが起こるということで、私は、潜水艦に乗って脱出することになりました。並んで潜水艦に乗り込んでいる人は、同じグループの人たちでした。そして、その時に、潜水艦へ誘導していた人は、今生でも私の知人でした。潜水艦は黒っぽい円形であり、その入口がハッチのように開いて、階段で登っていきました。潜水艦の中には大きな部屋があって、偉い人の話があるので皆が集まっていました。

      さて、私が、このヴィジョンを見てからずっと後、成人した後に、Aさんと知り合いになりました。そして、とても不思議なことに、彼女は私が見たヴィジョンと全く同じヴィジョンを見ていたことを知り、大変驚きました。彼女も、やはり子どもの頃に、潜水艦に乗って脱出するヴィジョンを見ていて、その潜水艦の形や色などが、私が見たものと同じだったのです。さらに、皆が潜水艦に乗って脱出するために、潜水艦に誘導していた人も、私が見た人と全く同じで、その人は、私だけでなく、彼女の今生の知人でもあったのです。」

     

    15.仏教の生まれ変わりの思想:六道輪廻

      輪廻転生の思想は、仏教以前からインドにおいて存在していました。原始仏典では、基本的に、五道輪廻が説かれました。五道とは、天界・人間界・畜生界(動物)・餓鬼界・地獄界の五つであり、後の大乗仏教になると、阿修羅界も加え、六道輪廻が説かれました。

      これは、私たち人間を含めたすべての生き物は、この六つの世界を生まれ変わり続けており、私たちは前世で動物だったこともあれば、今生で人間だからといって、来世もまた人間に生まれ変わるという保証もないということです。仏教では、この六道の世界を苦しみの世界と捉え、六道からの脱却=転生しない状態=解脱を求めました。

      また、生前での生き方、為したこと(業)の結果で、生まれ変わる世界が決まると説きます。善行によって善い世界へ、悪行によって悪い世界へ生まれ変わります。そして、六道の各世界に転生する原因は、下の世界から順に、以下の通りです。

     

    地獄界: 憎しみ、怒り、嫌悪の心を持ち、他の生き物を殺傷するなど。

    餓鬼界: 欲が深く、必要以上に物を欲しがり蓄える、他の物を盗む・奪うなど。

    動物界: 無智、愚かさ、目先の楽しみ・遊びに耽るなど。

    阿修羅界: 他に対する妬み・嫉妬・闘争。

    人間界: 親子・夫婦、友人・恋人などに対する強い執着など。

    天界: 今の心地よい境遇に慢心し、自己満足している状態

     

    16.仏教の世界観の全体

      正確に言えば、仏教の輪廻転生の思想は、六道輪廻に限りません。六道をまとめて「欲界」(ないし欲六界)と呼び、その上の世界である「色界(しきかい)」「無(む)色(しき)界(かい)」と合わせて、3つの世界(三界(さんがい))を説き、これが生死を繰り返して輪廻する世界全体です。

      ただし、色界・無色界は、私たち人間の精神レベルから見れば、すでに非常に高い世界なので、欲界から脱却することを(色界・無色界から脱却していなくても)解脱という場合があります。

      なお、仏陀は、この三界全ての輪廻から解脱しており、それを「涅槃」の状態といいます。涅槃は、煩悩が完全に止滅した状態です。それでは以下に、三界と涅槃についてまとめておきます。

     

    ① 欲界: 上記に説明した地獄界から天界までの六道で構成された欲望の強い世界。

    ② 色界: 欲望を離れた清浄な世界。色(しき)とは、物質ないし身体という意味。
       色界に住 む天人は、食欲と淫欲(性欲)を断じ、男女の区別がなく、光明を食とするが、身体
       への執着・プライドはある。

    ③ 無色界:欲望も、身体・物質的欲求も超越し、ただ意識だけが存在する世界。

    ④ 涅槃(ニルヴァーナ): 完全に煩悩が止滅し、想念さえない状態。
        この状態になると、いかなる世界にも輪廻再生しないことが可能である。

     

    17.チベット死者の書:死から再生までの中間状態での救済を説く経典

      チベットには、『バルド・トドル』(チベット死者の書)という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。成立は14世紀頃で、バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことで、中(ちゅう)有(う)・中(ちゅう)陰(いん)とも言い、最長49日間で転生していくとされます。

      『バルド・トドル』とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味であり、死者にこの経典を読み聞かせることで、迷いの世界に転生せず、解脱するように導くためのものです。中間状態のありさまが描写されており、死を解脱のチャンスととらえています。すなわち、バルドは、再びこの世に転生するか、解脱するかの分かれ道です。なお、聴覚は、死後も機能し続け、死体の中の意識に大きな影響を与えると考えています。

      死者の書によると、死後のバルド(中有)は3つあります。それは、①「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)、②「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)、③「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)です。

     

    18.「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)

     【第一の光明の体験】

      息を引き取って間もなく現れるバルドで、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。この光こそ、生命の大本である原初の光・根源の光であり、私たちの「心の本性」です。その光は、実体も、色も、形も、汚れもなく、空であり、輝きに満ちています。その光に飛び込み、溶け合えば、解脱するといいます。

      しかし、そのことを死者に呼びかけますが、ほとんどの魂は、このチャンスを生かすことができません。まず、ほとんどの人々は、死後に、この根源の光明を認識できずに、気絶したままであり、その気絶は、3日半~4日半続くと記載されています。

      気絶していなくても、光明が現れる時間の問題があります。生前に修行・善行を積んだか、悪行をなしたかで光明の現れる時間は大きく異なります。瞑想の訓練で、気道(ナーディ)を清めた人には、この光はいつまでも見えるのですが、そうしていない大部分の人々には、指を鳴らす瞬間で終わったり、数十分しか続かなかったりするといわれています。

      さらに、大半の人々は、生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでおらず、光明が現れても、それに対して強い恐怖を感じ、溶け込むことができないといいます。

     【第二の光明の体験】

      第一の光明である根源の光に溶け込めなかった者の前には、第二の光明が現われます。この際、死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。しかし、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、気絶していてこの状態を認識できない死者も多く、この光にも、溶け込める者は少ないといいます。

     

    19.「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)

      続いて【第三の光明】が現れます。この時期、死者は、親族たちを見ることができますが、親族たちは、死者を見ることはできません。そして、第三の光明は、すさまじい音響と色彩とともに現れ、死者は恐怖と戦慄と驚愕によって失神してしまいます。

      『バルド・トドル』では、このバルドの初めに「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」と死者に語りかけます。第三の光明も、その後の神仏も自分の心の現われであるので、怖れることはないと説きます。

      4日後には、死者は失神から覚めます。このバルドは、光と波動、イメージの世界であり、光が様々な大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。48の寂(じゃく)静(じょう)尊(そん)と58の忿(ふん)怒(ぬ)尊(そん)がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、最も純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できます。

      寂静尊とは、穏やかな仏陀や菩薩方。忿怒尊とは怒りの表情をした神仏。日本でいえば不動明王などの怖い形相の神仏と似ています。忿怒の相でも、人を解脱に導く神仏です。しかし、ここでも、溶け込むことはできず、解脱できない者の方が多く、その者たちは、次のバルドへと向かいます。

     

    20.「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)

       シパ・バルドでは、生前における業(カルマン)がイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化します。生前、善い行ないが多ければ、至福と幸福感が入り混じったものになり、生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、恐怖や苦渋に満ちたものになります。そして、これも自己の心の投影であると説かれます。

      また、物理的には、私たちの意識は、カルマンが作る激しい風に追い立てられ、恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、薄暗がりの中で為すすべもなくさまようといいます。

      さらに、有名な閻魔様による裁きは、このバルドで行われ、自分の生前の業に応じて六道のどれかに生まれ変わっていくということです。

     

    21.心理学者ユングによる『チベット死者の書』の解説

     著名な心理学者のユングは、人間の深層心理に関する自らの理論と『チベット死者の書』との類似点に驚愕しました。そして、同書は、人間の魂を神性の光であるとし、死者に自分の本来の価値を気づかせる深い意義を持っているとして高く評価しました。また、死後のバルドは、人間が生まれた時から見失っていた自分の「魂の神性」を回復する試練のプロセスであるいいました。

      そこでまず、人間の深層心理に関するユングの理論を説明します。ユングは、意識を階層構造でとらえましたたが、それを図で表すと以下のようになります。

     

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      ここで、表層意識とは、通常私たちが自覚している意識です。意識全体の5~7%くらいといわれています。

      個人的無意識とは、私たちが自覚していない、忘却している意識です。人生で経験した全情報が蓄積されています。忘れていたことを思い出すのは、その情報が、ここから表層意識に上っていくことということです。

      集合的無意識とは、人類が共通して持っている無意識であす。ユングは世界中の宗教的象徴、神話、昔話、芸術の研究により、人間の無意識に人類共通の象徴が存在することを見出しました。

      元型とは、集合的無意識の内容・中身であり、人類共通の原初的な普遍的な思考形態・感情・生来の行動の様式のひな形です。元型がイメージ化したものが「元型イメージ」ですが、このイメージ自体を元型という場合も多くあります。

      例として、母性は、元型の一つであり、他者を大きく優しく包み育む心の働きですが、これをユングは「グレートマザー」と名づけました。日本語では、慈母・聖母といったイメージでしょうか。また、「賢い老人」も元型の一つで、白い髭の仙人のようなイメージです。

      そして、「自己」とは、後に詳しく述べますが、「私」という意味ではなく、ユング心理学の特別な用語です。それは、全ての元型を包括する元型の精髄であり、意識と無意識の双方を含んだ心全体の中心であって、人の持つ神性の象徴、内なる神のような存在です。

       

    22.ユングによるバルドの解釈:シパ・バルドは個人的無意識の作る世界

      次に、ユング心理学の理論と『チベット死者の書』のバルドの類似点について述べます。まず、ユングは、「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)は、個人的無意識の世界を表しているとしました。

      通常私たちは、自分をいい人であると思いたいために、自分の汚い部分、強欲さや自分勝手なところは、表層意識から閉め出して、この個人的無意識の中に押し込め、見なくてすむようにして忘れてしまっています。そのため、個人的無意識には、修行で浄化しない限りは、エゴの心から生じる汚れた要素がたくさん存在しています。

      このエゴの心は、先に述べた通り、六道に生まれ変わる心であり、シパ・バルドは、個人的無意識が作る世界であるといえます。具体的にいえば、個人的無意識の中にある六道に生まれ変わるエゴの心の働きが、バルドにおいて幻影のヴィジョンとして現れ、それをきっかけとして六道に転生するという仕組みです。

      なお、個人的無意識の理論を打ち立てたのは、フロイトという著名な精神科医・心理学者です。精神的な病を負った患者を診ることで、人間の無意識領域には、反道徳的な欲求や感情、自分勝手なエゴの心が押し込められていると考えました。

      そして、『チベット死者の書』のシパ・バルドの記載には、フロイトの主張した無意識の中に存在する「エディプス・コンプレックス」と非常によく似た記載があります。エディプス・コンプレックスとは、人間は、乳幼児から性愛衝動を持っており、無意識に異性の親の愛情を得ようとし、同性の親に嫉妬する衝動のことをいいます。この衝動は抑圧されており、個人的無意識の中にあります。

      一方、『チベット死者の書』においても、人が「もしも男性として生まれる時は、自分自身が男性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の父に対しては激しい敵意を生じ、母に対しては嫉妬と愛着を生ずる思いを持つであろう。もしも女性として生まれる時は、自分自身が女性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の母に対して激しい羨望と嫉妬を生じ、父に対しては激しい愛着と渇仰の気持ちが生ずるであろう。」と説かれています(『原典版 チベットの死者の書』川崎信定訳 筑摩書房)。

       

    23.チョエニ・バルドは、集合的無意識が作る世界

      前に述べたように、集合的無意識は、人類(ないしは、ある民族全体)に共通するモチーフがイメージとして現れる世界です。チョエニ・バルドで現れる寂静尊・忿怒尊は、死者に共通に現れるヴィジョン(イメージ)であることから、集合的無意識の領域ということができます。

      チョエニ・バルドでは、五色の光、および五つの仏が現れる。チベット仏教では、この五仏を中央と東西南北の四方に配置したマンダラを描き、瞑想に用います(金剛界五仏のマンダラ)。そして、この五色の光は、死者本人から発しているものとされ、五仏は、自身の魂(心の本性)の投影されたイメージと説かれています。

      これは、チベット仏教の特徴です。すなわち、様々な仏陀をイメージする瞑想と、心の本性は仏陀という教えです。よって、このチョエニ・バルドは、チベット仏教の中心部分と関係すると、ユングは述べています。

      このマンダラの語源には、「丸い」という意味があり、円には完全・円満という意味があります。仏教のマンダラは、仏陀・菩薩が円形(ないし方形)に集(しゅう)会(え)する様子を表す図像です。そして、ユングは、このマンダラを「自己」の象徴ととらえました。

      この「自己」とは、先ほど述べたように、意識と無意識の総体(=心の全体)の中心ですが、相反するものを統合する働き、意識・魂が分裂することを防いで統合させる働きがあります。

      実際にユング自身が、自分の師であったフロイトと決別し、その影響などもあって、統合失調症的な精神状態の際に、繰り返し円形の図画=マンダラを書いて、精神の統合を図ったという経験があり、彼の患者にも同じ行動が見られたといいます。こうして、マンダラは、統合作用を持つ自己の象徴なのです。

      なお、「自己」は、前に述べたように、「自分」という意味ではありません。普通の意味の「自分」=自我は、表層意識の中心です。しかし、「自己」は、表層意識と無意識の総体(=心の全体)の中心です。

      通常私たちは、自分という場合、表層意識(=意識)の部分だけを自分と思っています。この状態を、表層意識と無意識の分裂といいます。過去の出来事などは、表層意識にはなくても、無意識に記憶として留まっています。よって、自分とは、表層意識に限定されたものではありません。しかし、表層意識を自分だと限定してしまっているのです。

      そして、これを超えて、真の自分(自分の全体)を認識すること、意識と無意識の統合された状態=「自己」に立ち返ることこそが、人間の成長の最高段階であり、人生の意味であるとユングは考えました。これは、仏教の悟りと同じか類似したものと考えられます。

      さらに、この「自己」は、その最高の成長に導く働きがあるとユングは考えました。すなわち、私たちの根源である「自己」は、「自己」に至らせようとする働きがあるというのです。いわば、内なる神のお導きのようなものです。

      そして、その「自己」の象徴であるマンダラは、チベット仏教の悟りのための瞑想修行のイメージに使われるものです。この意味でも、ユングの「自己」の実現と、仏教の悟りは同じか類似したものと考えられます。

       

    24.チカエ・バルドの光明は「自己」そのもの:光は神仏・神性の象徴

      チカエ・バルドは、前に述べた通り、私たちの意識の根源・心の本性の世界であり、それは、色も形もない純粋な透明な光明です。ユングは、この光明を彼の説く「自己」そのものであり、私たちの魂は、光り輝く神性そのものであるといいます。

      ここで、なぜユングは、人間の根源・原初の意識(=「自己」)を光としたのでしょうか。それは、東洋思想に傾斜した彼の瞑想体験もあったのかもしれませんが、そもそも、自己が、内なる神の性質を持つとすれば、神仏を光で象徴することは、人類に共通しています。

      古来、光は、様々な思想や宗教において、超越的存在者・神・仏を示すものとされてきました。古くから宗教には、光が登場しており、より具体的には、太陽と結びつけられることも多かったです(太陽神)。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例です。

      哲学においても、プラトンが、光の源である太陽と、最高原理「善のイデア」とを結びつけています。それは、新プラトン主義にも引き継がれ、魔術、ヘルメス思想、グノーシス思想にまで影響を及ぼしたといいます。

      新約聖書でも、イエスが「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語っており、キリスト教の神学では、父なる神が光源で、光がイエスという解釈があるといいます。

      仏教でも、光は、しばしば仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされます。智慧の智は見ての通り、日を含んでいます。対極的に煩悩の根本である無智は無明(明かりがないこと)と表現されました。大乗仏教の中心の仏は大日如来(太陽の仏)であり、奈良の大仏(毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ))もそうです。また、日本の神道の神の総帥も天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)(太陽の女神)であす。

      また、キリスト教と仏教の絵画の双方で、神・イエスや仏・菩薩の後ろに、いわゆる後光(輪の形の光)が描かれることが多くあります。前に述べた通り、仏教では、極楽浄土に導くという阿弥陀仏は、無量の光の仏陀(無量光仏)という別名を持ちます。

      そして、実際に、ユングは、世界の諸民族の文化・宗教・神話・昔話・芸術などの調査・研究をして、人類全体に共通する神聖なシンボルとして、光や、円・輪・環があると考えるに至っています。この点に関しては別に詳しく述べますが、ここで、円・輪・環は、チョエニ・バルドの解釈において、ユングが「自己」のもう一つの象徴としたマンダラ(原意は丸い・円)に通じるものです。

      後光の光の輪や、大乗仏教の輪の形のマンダラに限らず、仏陀・仏法の最初期からの象徴である「法輪」、禅宗の悟りや真理の象徴である「円相」、さらには、道教の円形の太極図や、古代遺跡のストーンサークルなど、輪は、普遍的な神聖なシンボルとなっています。

      こうして、人の心の中心に、内なる神のような存在(「自己」)が存在すると考えたユングは、その根源的な象徴を神性の光と考えたのでしょう。

        

    25.ひかりの輪の象徴:太陽の周りの虹の光の輪

      こうして、『チベット死者の書』とユング心理学を見ていくと、その中で、人の心の本性・意識の根源であって、内側の神・仏である何かの象徴として、光や円(輪・環)があることがわかりました。これはまさに、ひかりの輪の団体名に通じるものです。

      ひかりの輪の団体名は、聖地巡りなどにおける、太陽の周りの虹の光の輪の体験などに由来しています。それは、過去の宗教・教祖の問題に葛藤する中で、事物・万物の一体性・一元性を気づいて心が静まって、悟りの境地に近づいた時などに、不思議と現れたものでした。そして、その体験に後押しされながら、過去の宗教・教祖を乗り越えて自立に至っています。

      これは、自分の師のフロイトと決別し、統合失調症に悩んだ自分の精神を統合するために、ユングが円形のマンダラを描いたことと類似点があるように思われます。いずれも、師からの自立の過程の葛藤を超えて精神を統合していく上で、(光の)輪がシンボルとなっているからです。

      さて、最後に、最初に述べた仏教の三界と涅槃と三つのバルドの対応関係に言及しておきます。しかし、これは確定・確信できない部分もあるので、注意していただきたい。

      まず、欲界は、すでに述べた通り、シパ・バルドに対応します。次に、色界は、チョエニ・バルドに対応します。すなわち、第三の光明(様々な色・音響を伴う光)や、その後に現れる仏(寂静尊・憤怒尊)に溶け込めば、色界に転生すると思われます。

      無色界は、疑問もありますが、チカエ・バルドの第二の光明に溶け込んだ場合に転生する世界ではないかと思われます。この第二の光明には詳しい記載がありませんが、第一の光明と異なって、透明光ではないと思われます。

      最後に、涅槃は、チカエ・バルドの第一の光明(透明光・クリアーライト)に対応すると思われます。すなわち、涅槃=意識の根源・心の本性=色も形もない純粋透明な光の世界=「自己」です。そして、これは、ヨーガの真我や、大乗仏教が説く空とも同じ状態だと思われます。

       

    26.死後世界・転生に関する基本的な考え方

      さて、最初に戻って、科学的には、死後世界・転生は、通常の科学の基準では、十分な証明もなければ、その可能性を否定する十分な反証もないという事実に基づいて、私たちが、死・死後世界・転生に関して、どのように考えることができるかについて述べます。

      第一に、死後の世界があろうとなかろうと、死ぬ十分前に、死の過程や死後世界についてよく調べて、自分なりに十分に考えることはメリットが多く、賢明なことではないかと思われます。

      というのは、死ぬ直前に慌てて考える場合は、臨死体験の研究でも有名なキューブラー・ロス博士が提唱したように、末期患者には5段階の苦痛があります。

      具体的には、

    ①  否定: 死ぬことが信じられず否定する

    ②  怒り: なぜ自分が死ななければならないかと怒る

    ③  取引: 善をなすから生き続けたいという無理な願いを持つ

    ④  絶望: 死は避けられないと知って絶望する

    ⑤  抵抗の停止: 絶望状態によって酷く消耗して思考停止

      しかし、死ぬ十分前から、突然に死の宣告を受けたらこうした苦しみを経験することになるとあらかじめ知っておけば、それに対して自分なりに考え、備えることができるでしょう。

      第二に、死後の世界があるか否か、科学的に結論が出ない中で、死後世界の可能性を無視するか、死後の世界がある場合に備えて、一種の保険をかけるかという視点・選択があると思われます。

      人は、災害・病気・事故など、必ず起こるわけではないことに関しても、起こる可能性があれば、保険などをかけて、それに備えようとする場合と、その可能性を無視する場合があります。

      そして、備えない(保険をかけない)場合とは、可能性が乏しく重大ではないと考えたり、備え・保険のコストがあまりに高かったりする場合でしょう。一方、可能性をある程度感じ、それが重大であって、備え・保険の負担はなんとか賄えると考えるならば、保険をかけるでしょう。

       

    27.妄信せず、宗教哲学・人生哲学として、転生思想を考え活かす考え方

      第三に、転生を前提にして生きる方がよいか否かという視点・選択肢があります。これは、死後の世界があった場合(ある可能性)に備えるか否かという視点ではなく、死後の世界・転生を前提にしたほうが、今生を(すなわち死ぬまでを)よりよく生きることができるか否かという視点です。

      チベットの聖者であるミラレパも、死を見つめてこそ本当の生き方がわかるという趣旨のことを説いています。これは、そもそも生と死はセットであり、切り離して考えるべきものではなく、死を本当に考えてこそ本当に生きることができるという視点です。

      この視点から見ると、死後の世界・転生・因果応報がないと考えて生きる場合、悪行の報いも善行の果報もなくなるから、悪いことをしても見つからなければいい、皆がやっていればいい、自分の中の後ろめたさも忘れてしまえばいい、ということになります。

      これは、まさに、物質的な享楽や、競争・勝利至上主義の中で、自己中心・エゴイズムによる不正行為が広がっている現代社会の傾向でもあります。実際に、連日、国を代表する企業や政治家の、様々な不正が報道されています。

      そして、釈迦牟尼の時代にも、死後の世界はないという思想(断滅論)を説く教祖がおり、それは道徳不要論ともいわれました。米国などで近年、キリスト教の保守主義者が増えているといいます。彼らの気持ちとして、現代の米国は、キリスト教・聖書の真理を信じなければ、ドラッグ・セックス・バイオレンスの流れに圧倒されてしまうと感じているということが新聞で報道されていました。キリスト教も、六道輪廻ではありませんが、今生の行いによって死後に裁きを受けるという思想は共通しています。

      現在、弱肉強食ともいわれる市場原理主義経済が広がり、貧富の格差が増大する中で、政治も、米国ファーストを掲げるトランプ政権をはじめ、EU離脱を図る英国ファースト、さらには日本ファーストという名称の政党ができ、世界をリードしてきた先進国が、人類全体の平等主義よりも、自国優先主義を大っぴらに強調して、各地域で国家や民族間の対立が目立ち始めています。そうした中で、倫理観の核となるものをどこに求めるかというのは、無視できない課題ではないかと思われます。

      こうした視点からは、死後の世界・転生・因果応報を前提にした方が、自己中心を抑制して、より正しく利他の精神をもって生きることができるという考えがあるでしょう。しかし、人によっては、自分は欲望のままに自由に生きたいと考える人もいるでしょう。その場合は、死後の世界・転生・因果応報の考えは、自分の自由を束縛する不自由と感じられると思われます。

      一方、欲望に自由に生きることを、本当の幸福だとは感じない人も多いでしょう。そもそも、ユング心理学に関連して述べた通り、欲望のままに生きるということは、自分の悪事・暗部・後ろめたい部分は、他人に見つからないように、そして、自分でも見ないで忘れるようにして生きていくことにもなります。そこには本質的な緊張があって、真の安らぎはないのではないでしょうか。

      そうではなく、自己中心の欲望を抑制し、利他の心で生きるならば、自分の全体を直視して生きることができます。さらには、自分がつながり支え合っている他者・万物も直視して、彼らとつながりながら生きることができます。こうした方が、本当の意味で幸福になることだと考える(感じる)人は、死後世界・転生・因果応報は自由への束縛ではなく、自分の欲望を制御して本当の意味で幸福になる有力な手助けだと解釈できるでしょう。

      ただし、仮にそのように考える場合でも、ここで一つ落とし穴に注意しなければなりません。それは、転生思想を誤解すると、差別や生命の軽視を招く場合があるということです。

      例えば、インドの階級制度であるカーストや、江戸時代の士農工商は、ヒンドゥー教の輪廻転生思想によって正当化された面があります。ある人が今生、下層階級で苦しんでいても、それは前世の悪業が原因(自業自得)だとして放置するのです。これは、近代民主国家の「法の下の平等」や、万人に健康で文化的な生活を保障する福祉制度と対立することになります。

      これは、仏教思想において、何が善行で、悪行かを正しく理解していないことを原因とした過ち、転生思想の誤用・悪用だと考えられます。釈迦牟尼の教団は、カーストを否定し、当時の教団としてはいち早く女性の出家者を認めるなど、当時の社会の基準からすれば、平等性が高い集団でした(現代社会のような男女の平等性はないが)。

      そして、釈迦牟尼が、最大の穢れ(汚れ)と説いているのが、痴(無智)という根本煩悩であり、これは、自と他を区別し、自我に執着し、慢心などを抱くことが含まれています。しかし、自分が過去の善行によって幸福であり、他者は過去の悪行によって不幸であると考えた段階で、自分と他人を区別し、慢心に陥っていることになります。

      実際には、自と他を含めた万物が相互依存であると説く仏教の思想(縁起の法・相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)など)に照らしてみれば、自分という存在は、他者・万物の支えのもとに存在しており、自分の善行も他者・万物の支えのもとになされたことですから、他と別の自分や、他とは別の自分の善行などは存在しないのです。

      さらに、もう一つの死後世界・転生の問題としては、特殊な宗教的な教義によって、自殺や他殺が正当化されてしまう場合です。これは、イスラム国などのイスラム原理主義において、米国やユダヤ人との聖戦のための自爆テロを行って自殺すれば、その結果として天界に生まれ変わることができるという思想や、解脱者の指示があれば他者を殺したとしても、その者が良い転生を得ることができるから良いと考える、オウム真理教や密教のポアや度(ど)脱(だつ)の思想があります。

      この背景には、自分たちを善・聖なる存在とし、他者を悪・邪と見る、自と他の区別、独善的な善悪二元論、慢心といった問題があるでしょう。また特定の宗教・宗派・教祖に対する過剰な依存も原因の一つです。

      よって、自分がよりよく生きるために、死後世界・転生・因果応報を前提にして生きようとする場合は、こうした転生思想の誤解・悪用や、特定の宗派・教祖の妄信に陥らないようにすべきです。よって、安直に転生思想を妄信したり、特定の宗教・教祖を妄信したりするのではなく、自分の理性で転生思想を熟考し、本当に自分と他者のためになるように、正しく解釈する努力を自ら行うべきです。

      こうして、宗教・教祖の教義を妄信せず、理性によって熟考し、再解釈して、自分と他者の幸福のために活かして用いる姿勢を「宗教哲学」といいますが、これが、仏教などの宗教思想に対する、ひかりの輪の基本的な姿勢となっています。

       

    28.転生を前提とした死への備え

      さて、仮に、死後世界・転生がある場合に備えて保険をかけておこうとする場合や、自分がよりよく生きるために、転生思想を前提に生きようとする場合のために、特定の宗教・宗派・教祖のみが説く思想ではなく、各宗教・宗派に広く共通する普遍的な良い来世・転生の条件について考えてみましょう。

      するとそれは、自己中心の利己的な行為を悪行と考えて離れて、利他の行為=善行をなるべくなすこと、ということに集約されるのではないでしょうか。そして、これは、死ぬまでの苦しみを和らげる効果もあります。なぜならば、自己愛が強いほど、死ぬことに対する恐怖・不安・苦しみは強いからです。死は、執着している自己を失うことだからです。

      もう一つ、死後世界に備えるという意味では、前に述べたように、ひかりの輪のスタッフのように、ヨーガ・仏教の修行による瞑想体験によって、死後世界・転生のシミュレーション(事前体験)をしておくということが考えられます。

      これは、本格的なヨーガ修行ができれば最善ですが、そうした霊的な体験を素早くもたらす特殊な行法も一部にはあるので、それを体験してみることもできるでしょう。また、前世体験に関しては、前世退行催眠を受講することもできるでしょう。

     

    ※参考文献

    ◎エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』 中央公論新社(中公文庫)

    ◎エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』 中央公論新社(中公文庫)

    ◎立花 隆『臨死体験〈上・下〉』 文藝春秋(文春文庫)

    ◎立花 隆『証言・臨死体験』 文藝春秋(文春文庫)

    ◎サム・パーニア『科学は臨死体験をどこまで説明できるか』 三交社

    ◎ケネス・リング『いまわのきわに見る死後の世界』 講談社、1981

    ◎ケネス・リング『オメガ・プロジェクト』 春秋社

    ◎レイモンド・ムーディ『かいま見た死後の世界』『続かいま見た死後の世界』 評論社、

    ◎レイモンド・ムーディ『光の彼方に』 TBSブリタニカ、1990

    ◎レイモンド・ムーディ『臨死共有体験』 ヒカルランド

    ◎カーリス・オシス『人は死ぬとき何を見るのか -臨死体験1000人の証言』 日本教文社、1991

    ◎マイクル・B. セイボム『あの世からの帰還』 『続・あの世からの帰還』日本教文社

    ◎マイケル・タルボット『投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』春秋社、2005

    ◎石井登『臨死体験研究読本 脳内幻覚説を徹底検証』 アルファポリス、2002

    ◎カール・ベッカー『死の体験 臨死現象の研究』法蔵館

    ◎ブルース・グレイソン『臨死(ニアデス)体験 生と死の境界で人は何を見るのか』春秋社

    ◎スーザン・ブラックモア『生と死の境界 臨死体験を科学する』読売新聞社

    ◎ケヴィン・ネルソン『死と神秘と夢のボーダーランド: 死ぬとき、脳はなにを感じるか』 インターシフト


     

  • 宗教と科学の統合に向けて

     1.宗教と科学の統合に向けて

     宗教と科学の統合というテーマは、今、人類において大きな課題となっているのではないでしょうか。

     ひかりの輪の提唱する一元思想は、この宗教と科学の統合にもつながってきます。これまでの宗教と科学は別のものであるいう二元的な考えは、いままでも検討されてきており、さらに今後も改善されていくものと予想されます。

     科学研究はますます発達し、従来のニュートン・デカルトの二元論をくつがえすような結果が生じています。特に量子力学の世界では、ノーベル賞をとった優秀な物理学者が何人も、 東洋思想や西洋の一元的思想に傾倒していることは特筆に値します。ミクロの世界では物心二元論が通用しなくなったのです。そこは一元の世界でした。

     詳細は別の機会に譲りますが、多くの科学者が全一性を唱え始めました。

     すべてはつながっていると、一つであると。

     これは2600年前、仏陀釈迦牟尼が説いた教えと驚くほど一致するのです。すべてはつながっていて、何一つ独立して存在するものは何もないという縁起の法や諸法無我と同じことをいっています。

     

    2.二元論の生み出したもの

     従来のニュートン・デカルト的思想においては、心と物質は別のものであり、そこにつながりなどないものとされていました。いわゆる二元論です。

     そして宗教と科学は相反するものであり、科学は宗教をうさんくさいものとしてなかなか受け入れようとしませんでした。

     ある種の科学は発達しましたが、心がないがしろにされ、人間の欲望をますます満たすためのものとなりました。そのため環境破壊や、軍事兵器の発達による戦争の多大な被害、物質文明の弊害など様々な問題を生じさせているのが現状です。科学の発達に比べて心の成熟が遅れている時代ともいえます。

     そして実際、物質文明にあきた人々は、精神的なものや霊的なものに興味を持ち始めました。1960年代に盛んだったニューエイジムーブメントはその発端だったといえましょう。

     その後アメリカで発達したトランスパーソナル心理学でもその傾向はみられ、ヨガ、仏教、禅などの宗教や霊性というものに注目するようになりました。その背景には日本から禅を広めにいった鈴木俊隆がいたり、ラジニーシ、ムクタナンダ、マハリシのTM瞑想などの影響も大きいでしょう。

     また、中国共産党の侵攻によりチベットの僧が亡命し、世界にちらばり、チベット密教を世界各地に広めたことによる影響も大きいといえます。

     こうした流れの中で東洋系の宗教がたくさん西洋に入り、多くの人が瞑想修行をするようになりました。

     日本でも最近、ヨーガやヒーリングなどが巷で流行っています。書店でも癒しとか精神世界やスピリチャルなものに関する書籍は増加し、人々がいかに心や精神や霊的なものに関心をもってきているかうかがえます。今後この傾向はますます強くなっていくことでしょう。

     物質文明だけでは、心の安定や豊かさや幸福は得られないということを感じている人が増え、物質世界に飽きだしている人は心の安定や本当の幸福をもとめ、自分とは一体何だろうかと考え始めているのです。21世紀はそうした人々が増え、しだいに宗教とか精神とか霊性などに興味を持つようになると思われます。

     

    3.トランスパーソナル学会

     トランスパーソナル心理学の創始者の一人でもあるスタニスラフ・グロフは、1982年にインドで開かれた第7回トランスパーソナル学会で次のように述べています。

     「現代の西洋科学---天文学、物理学、生物学、医学、情報理論、システム理論、深層心理学、超心理学、意識研究---における革命的な発展で最も興味深い点は、宇宙や人間の本性に関する新しいイメージが、古代や東洋の霊的哲学---さまざまなヨーガの体系、チベットの金剛乗、カシミールのシャイヴィズム、禅仏教、道教、カバラ、キリスト教神秘主義、グノーシス主義---のイメージとしだいに類似してくる傾向があるということである。

    われわれは古代と現代の驚くべき総合、そしてまた、この惑星上の生命に甚大な影響を及ぼすにちがいない、東洋と西洋の偉大な業績のとてつもない統合に向かっているように思われる。」(「個を超えるパラダイム」スタニスラフ・グロフ編 吉福伸逸編訳)

     わかりやすくいえば、ここで述べている現代科学とは、これまでの物質主義的機械論的科学、いわゆるニュートン・デカルト的科学とはうってかわり、70年代に登場した、ニューサイエンスといわれる、より東洋哲学の考えに近い科学を指しているのです。

     そしてそれは一元的な宗教といわれるものと、一致し合一する方向に向かっていると言うのです。ここではキリスト教ではなく、キリスト神秘主義とあるように、ここに提示されている宗教は一元思想の宗教を指しているのです。

     今後、新しい科学と一元思想の宗教が合一するであろうと、ひとりの心理学者が提唱し、 そして、トランスパーソナル学会という、科学と宗教の統合、西洋と東洋の統合を象徴する学会を、すでに20年以上も前に開催していたのです。

     

    4.ユネスコ主催の国際会議「科学と文化の対話」

     また、服部英二氏は1979年、フランス文化放送がコルドバで開いたセミナー「科学と人間の意識」に衝撃をうけました。当時ユネスコに所属していた服部氏は20世紀にはいってますます顕著になってきた科学と精神文化の乖離は現代が克服すべき課題だと思っていましたが、このコルドバセミナーで、「量子力学」の新しい世界観に大きな期待が寄せられると感じたのです。

     ここに参加したF・カプラ、D・ボーム、カール・プリムラム等々はタオ、ヴェーダ、ウパニシャッド、仏教の世界に科学との相似点を見出していました。

     しかし、古典的科学者からの批判も強かったようです。新しい考えがでるときは当然のことですが、この領域で全世界の人々が納得するだけの国際会議を開くのはユネスコの使命ではなかろうかと考え、服部氏は「科学と文化の対話」セミナーを開くことを考えたのです。

     ユネスコの名で行う限りは、学的な批判に耐えられるだけの普遍性と学際性を取り入れる必要がありました。

    そして以下のようにセミナーは開催されました。

    第1回 1986年 ヴェニス(ヨーロッパ)

    第2回 1989年 ヴァンクーヴァー(北米)

    第3回 1992年 ベレン(南米)

    第4回 1995年9月  東京(アジア)

     そして、ヴェニスから12年、東京で開催されたこの知的フォーラムは、遂にその両者が対峙するのではなく融合することを認めるに至ったのです。

     カール・プリムラブとヘンリー・スタップが、最終日に満場一致で提示したメッセージは、「科学と文化の対話」の最先端の認識の総決算といえるものでした。

     このときに発表した「東京からのメッセージ」の内容の中では

     「17世紀に始まり19世紀にピークに達する機械論的科学が、300年にわたり、主・客を峻別し、自然を征服すべき客体とみなすことにより、盲目的な<進歩>の概念を生み出し、画一的な物質文明を作り出した。」

     とあり、この思想によって、科学は伝統文化と本質的に相容れないものとなったと指摘されました。

     しかし、実は、デカルトやニュートンに象徴されるこの科学主義は、西欧本来の伝統ではなく、人類の発生からの時間を考えると、実に「1万分の1の時間帯」に起こった特殊な出来事にすぎなかったと説明されているのです。人類の歴史3万年のうちのわずか300年に起こった出来事なのです。

     そして

     「20世紀の新しい科学は、量子物理学を初めとし、宇宙にはかつて古代の智恵が抱いていた自然観に近い<全一性>Wholenessの秩序が存在することを発見した」

     という報告があり、「全は個(部分)に、個は全に返照する」というこの理論は、カール・H・プリムラムやヘンリー・P・スタップの「主客未分」の量子論的宇宙観の中核をなすもので、それは日本から参加した三人、河合隼雄・鶴見和子・中村雄二郎が取り上げた大乗仏教の哲理に対応することを、この会に集った世界の有識者が認めたのです。

     これは一宗教名をださないことを原則とする国際機関主催による会議としては極めて異例のことでした。

     「東京からのメッセージ」の最後の部分には以下のように書かれています。

     「しかし科学は現在、宇宙のまったく違った全一的な様相の存在を明らかにした。

     この新しい全一論はその「部分」の中に全体が包含され、「部分」が全体に分散されているという認識なのである。

     したがって我々のメッセージは、自然の中の人類の未来について強力な全一的ヴィジョンを持つ、大乗仏教の概念を反映したものである。」(『科学と文化の対話 知の収斂』 服部英二 監修 出版会)

     新しい科学と大乗仏教の概念がここで歩みよったのです。

     ユネスコという国際的な機関で、「科学と文化の対話」というような、国際会議が開かれたということは、非常に世界的に大きな時代の変化を感じます。

     そして東京からのメッセージでは、新しい科学というのは、現在全一論をとり、それは大乗仏教の概念を反映したものとなっていると主張しています。

     これは今後の科学と仏教が融合するきざしを予感させます。実に今から20年以上も前に、国際的にこのような動きがあったのです。

     21世紀の今、まだまだ20年前のこのメッセージを知る人は少ないといえます。世の中の人々は依然として物心ニ元論に陥っている人々が多数です。しかし、いずれこの新しい考え方は世の中に広まっていくことでしょう。それに伴い、仏教というものが新たに見直されていくことでしょう。

     

    5.21世紀は仏教の時代

     21世紀は仏教の時代だと唱える有識者は多いのです。

     ユング派の心理学者、河合隼雄氏も21世紀は仏教の時代であるといっています。河合氏は心理療法をやっていると、自分のやっていることが仏教のようになってしまっているといっているのです。

     また、アメリカの比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろうと語っています。

     科学の発達により、仏教の世界観が科学的にも証明され、仏教と科学の統合がなされることによってそれは確固たるものとなるでしょう。

     意識や精神や心が科学的に解明され、物心一元論の時代がまた新たにやって来るということを予感させます。

     それはひかりの輪が提唱する一元論にもつながります。

     英米で活躍する医療のトップジャーナリスト、リン・マクタガートは、新しい科学を取材した結果を綴ったその著書、『フィールド響き合う生命・意識・宇宙』(2001年発行)の中で次のように述べています。

     「来るべき科学革命は、あらゆる意味で二元論の終焉を告げていた。神を破壊するのではなく、科学は初めて--より高次の集合的意識の存在を示すことによって--神の存在を証明しようとしていた。もはや、科学の真実と宗教の真実という、二つの真実は必要ない。そこにあるのは、統一されたただひとつの世界観だけのはずだ。」

     

     

     

     

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