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私と一般の方々との意見交換の中から、Q&A方式にしてご紹介します

Q&Aダルマの教え、説法内容について

精神的達成を求めることも欲望ではないか

Q:お話を聞いていると、
修行による身体的な感覚の追求とか、
精神的な世界を高めることとか、
良い将来とか良い来世を目指すことというのも、
一つの欲望だと思うんです。

それが、例えば指輪が欲しいとか、
ブランド物が欲しいというような物質的な欲望ではないにしても、
そういうものを目指すということ自体は一つの欲望だと思うんです。

それが欲望であるのかどうかということと、
欲望を持つことについて教えていただけますか。

A


(上祐)そうですね、要するに物質的なものではなく、
より高い次元の精神的な喜びを求めるというのも欲望だというのは、
間違いないと思います。

ただ、その欲望を追求した果てにどういうことが起こるかというと、
ヨーガというのは、その定義からして
「心を止滅すること」だというんですね。
ですから、そうやって修行していった最終的な段階というのは、
完全な「自分を愛する思考」が止まる、
つまり心が完全に止まる状態なんですね。
だから、これによって欲望が消えるとしています。

◎欲望をもって欲望を消していく

(上祐)簡単に言うと、大阪から東京に行くためには
新幹線に乗らなければいけないんですよ。
で、東京に着いたら、もう乗らなくていい。
欲望を持って修行するんだけど、
着いてしまったらその欲望が消えてしまってるという感じなんですね。

なぜそうなるかというと、着いてしまったら、
欲望を持つよりも欲望を持たない方が楽、
その方が素晴らしいということを体感的にわかるから、
と言うことができると思います。

ですから、確かにあなたがおっしゃるように、
欲望を持って修行します。「もっと幸福になりたい」と。
その結果悟ること、欲望を一切消すことが、
最も平安な絶対的な状態だということですね。

その状態になると、基本的に心が止まって、
そして肉体が滅びたときには、
精神が再び輪廻転生しない完全な静止状態
--これを「涅槃{ねはん}」といってるんですが--
そういった状態に入るといわれています。

ですから「欲望をもって欲望を消していく」--これが修行。
ちょっと難しいですけどね。

別の言い方すると、好き嫌いの観念、
これは人間にあるわけですけど、
その好き嫌いの観念を消そうという欲望を持って、
観念を持って、修行しているうちにすべての観念が消えてしまう。

もう少し変えて言うと、
「正しい」「正しくない」っていう観念がありますよね。
それが最終的にはなくなる。
しかし、その過程において、
「これが正しいんだ」「これが悪いんだ」という
そういった教えを段階的に使う。そんな感じになってるんですね。
非常に難しいですけどね。

イスラム教とかキリスト教の場合は、
例えばアラーは絶対、ヤハーは絶対とか、
またはこれはこうだ、あれはこうだという、
そういった自分たちの欲求の対象というか、
観念というのをきちっと設定されてるわけですけど、
仏教は「それは過程の段階だ」というふうにとらえていて、
「その上の段階に一切のその観念がない、欲望のない状態、
その絶対的な静止の状態があるんだ。
心が止まる状態があって、これが最高なんだ」という考え方をしています。

ですから、どちらかというと、
そういった観念的なものというか外的な欲求というものは、
すごく柔軟というか柔らかい。

つまり、いろいろ教えが時代によって人に応じて
変わってくるというのが、仏教・ヨーガの特徴ですね。

◎静止した状態の幸福感

(質問者)その静止した状態というのは、
どんな幸福感があるんでしょうか。

(上祐)そうですね、広がりと......まず思考は停止してるんですけれども、
しかし、自分があるようでないような状態なんです。
つまり思考は停止してます。
しかし、その意識状態を認識している自分はあるんですね。
で、その意識状態は、これは人によって違います。

それまで修行した人、静止状態に入るまでに
どんな修行をしたかによって違いますけれども、
その人の愛が非常に大きければ、その意識が非常に広大に広がって、
まあ潤いというか充実感がある。

皆さんが日常的に体験できることからイメージしてもらうと、
何もしないでボーっとしているときありますよね。
何となく平安な境地。あれがずーっと続く。
これも一つのニルヴァーナ(涅槃)です。

ただ、修行していって得られるニルヴァーナというのは
もうちょっと違って、時々訪れるかもしれないけど、
静かで、自分というものを意識しないで、
心が自分の外側にも染み出していくような、
幸福感みたいなものを感じられるところがあれば、
それがものすごく広大に広がった状態--それが至上の、
究極の境地といわれているものだと言ったらいいかもしれません。

簡単に言うと、人間というのは、自分の意識が自分の殻、
自我の殻の中で閉じ込められて、そしてかつ、
いろいろな観念によっていろいろなことを考えなければいけなくなって、
こう突き動かされて苦しんでるというふうに
仏教的にはとらえているんですよね。

その一切から解放されて、完全な静けさと明るさと充実感、
これがある状態という感じですかね。
言葉で言うのはすごく難しいんですけど。
体験しないとちょっとわかんないですけどね。

だけど、お話を伺っていると、
そういう感覚はある方なんじゃないかなという気がしますので、
そういった前生での経験があるかもしれないと感じます。

 

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