2010年10月

  • 幸福の手段(方便)としての信仰5 (2010年10月01日)

    (2010年10月01日の日記)

    幸福の手段(方便)としての信仰5
    盲信の原因である虚栄心と依存心を超える


    これまで、信仰実践において、自分が信じていることと、知っていること(=誰もが認める客観的なな事実)をしっかりと区別して、単に信じていることについては、絶対真理とはせずに、自他の幸福のためになるように、それを手段として使うことについて書いてきました。

    しかし、これに対して、そのように考えると、自分の都合の良いように、信仰を解釈してしまい、自分のエゴを弱めることが出来ないのではないか、という反論を頂いたことがあります。逆に言えば、自分が信じる宗教(の教義)を絶対真理として、それに出来るだけ従うことで、自分の欲望を縛る、自分のエゴを抑制する効果があるのではないか、というものです。

    しかし、私の考えでは、そういった一面は確かにありますが、それとは正反対に、自分の信仰を絶対視する結果として、信者自身が気づかないうちに、大きなエゴが生じていく問題があることに気づかなければならないと思います。

    これについてのお話しを進めると、だいぶ長くなってしまいますが、このテーマにご関心があれば、今回は、長いのを多少辛抱して読んでいただけばと思います。

    まず、万人が認めるものではない教義を自分達だけが絶対真理と信じる場合、自分達が、信じていない人よりも優れているために、他の人が信じることができないものを、自分達は信じることができるのだ、という心理が働くことが非常に多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴということができます。

    そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとは言えないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、既に慢心・虚栄心が生じている恐れがある訳です。しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。

    何かを絶対真理と信じる際は、それが実際には絶対真理ではないことを自覚しつつ、絶対真理であると思い込むのは不可能です。真実として絶対真理であると考えなければ、そうは信じられません。よって、信じる際には、信じていない人達が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できたという思考パターンになることが非常に多いと思います。

    しかし、客観的には、万人が信じない理由は、信じる人達が信じない人達より優れているからではなく、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。世界最大の宗教のキリスト教が人類全体を信者に出来なかったのも、その信仰の中核にあるイエスの復活が、誰もが認める客観的・科学的な事実とは言えないからでしょう。

    よって、信じている自分達は、信じていない人達より優れているという思考は、虚栄心・慢心だと思いますが、それによって、次に、信じていない人への見下し・軽蔑が生じます。さらに、信じていない人が、信じている自分達の盲信を批判したり、別の宗教を絶対真理だと信じている人達がいると、彼らを(自分達の信じる)神・開祖と矛盾・敵対する存在、いわゆる、悪魔・魔神と見なす思考にも繋がります。

    ここで、更に良く考えると、「自分達が信じているものは絶対真理」と考えることは、究極的には、「自分達が絶対真理である」という心理が働き始める恐れがあります。こうして、信者は、その宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していく恐れがあるのです。

    私の過去の経験からしても、自分が重要な存在になりたいとか、他より優れた存在になりたいという欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、さらに勝ち組になりたいという欲求があり、負け組は、挽回したいという欲求があるからです。

    なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求(自分が重要な存在、優れた存在になりたい)は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。

    しかし、妄信的な宗教の場合は、自分達の宗教を絶対視するという非現実的な独善的な妄想的な形で満たそうとすることで、様々な問題が起こるのだと思います。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、妄信的な宗教にはまる可能性が高くなると思います。

    例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、(自己の虚栄心を満たすためにも)過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、その妄想の世界に陥る恐れがあると思います。こういったタイプの人は、盲信の危険性があります。

    しかし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。
    漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。 競争主義・個人主義・金銭主義で精神的な潤いを失った人達が、現実の世界だけでは充足出来ないのだと思います。

    そして、その苦しみに対する、歪んだ形ではあるけれども、癒し一つの形態として、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっており、妄信的な宗教を禁じれば、同じ問題が別の形を取って出てくる可能性がありますし、現実としてなくすことは不可能でしょう。

    やはり、表面的な解決ではなく、根本的な解決が必要だと思います。その一つとして、私個人としては、妄信的な宗教から、ひかりの輪の団体を持って、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択したことになりますが。

    また、先ほどエリートも、妄信的な宗教にはまると言いましたが、宗教に限らず、例えば、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったのではないかと思います。客観的には、誰が見ても、非常に危ないことをしているのに、自分(だけ)は勝つ、成功する、損しない、間違っていない、といった妄想的な慢心です。

    堀氏、村上氏、木村氏、リーマンブラザーズを初めとする国内外の名だたる金融のエリート集団。そして、最近は、証拠を改善する検事など。宗教に限らず、競争社会の中での妄想的な慢心の問題を感じます(なお、80年だから90年代のオウム真理教の隆盛と没落は、ちょうど日本のバブルの形成と没落と同じ時期でした)。

    そして、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。

    これらの問題を回避するためには、努めて自分の虚栄心を自覚して、自分の信仰・宗教を絶対視せずに、それを幸福のための手段として活かしていく姿勢が重要だと思います。そして、その具体的な実践については、前回までに多少なりとも述べました。


    さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。

    これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。

    この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智恵がない。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するウブ・無智と同じことであり、先生という存在に対するウブ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合と言ってもいいでしょう。

    一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信が無く、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向=楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。

    こういった欲求がある場合は、自分が巡り会った宗教が、絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は(他の人が得られないほどに)幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。

    本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。

    それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要ななくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生(=教祖)の言うとおりに勉強する生徒(信者)の努力であって、社会に出て自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。

    そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。

    しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。

    この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人達を強く見下す傲慢となって現れます。

    しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。

    人という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人では出来ない存在ですから、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は生きていく、成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。

    特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合がありますが、これは、傲慢な性格で盲信した後に、同じ傲慢な性格で、全く学ばないという両極端に振れている恐れがあると思います。

    よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的に言えば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。全てが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意を持って学ぶ。

    こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。急がば回れということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。

    こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理ではないかと思います。仏教的に言えば、利他を初めとする善行を積む労苦があって幸福になり、エゴの甘い誘惑に負けて、悪行に堕していれば、不幸になるということだと思います。ローマは1日にして成らず。真の幸福を得たり、真理を探究するためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。

    なお、その宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も今の時代には合わないかもしれません。

    日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。

    こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、そもそもが、人は、他から十分に学びつつも、自分や自分達の時代に最善なものを自分で見つける覚悟が必要だと思います。これが、古きを温めて新しきを知れという言葉だと思います。

    最後に繰り返しとなりますが、妄信的な宗教に陥る原因となる依存心や虚栄心をよく自覚して、それを乗り越えて、真の努力を一生続けていく覚悟をすることが、自分の真の幸福のための手段として、信仰・宗教といったものを活かす道だと思います。


  • 幸福の手段(方便)としての信仰4 (2010年10月01日)

     

    (2010年10月01日の日記) 

     


    幸福の手段としての信仰4
    釈迦牟尼という特徴的な宗教家


    日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物(本名ゴータマ・シッダールタ)は、自分の最も好きな宗教家の一人だと思います。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。

    そして、最近、従来の宗教を超えた、21世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ21世紀のための新しい宗教の在り方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。

    1自灯明・法灯明
    釈迦牟尼は、信者に自分(=釈迦牟尼)を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明とも言われる。これは、ひかりの輪の「人を神(=絶対)としない」という原則に一致する。

    2方便自在・対機説法・択法覚支
    釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた(対機説法)。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた(択法覚支)。様々な法則を方便(=手段)として自在に操った(方便自在)。これは、宗教(の教義)を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。

    3無記と現世指向
    釈迦牟尼は、他の宗教家が、あの世の存在の有無など、決着のつかない議論を持ちかけると、どちらとも決めない(無記)という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを(法の実践で)取り除くことを強調した(現世指向)。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越(合理性の重視)と通じる。

    これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。

    釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、彼が生まれる以前からインドに浸透していた輪廻転生の世界観を説いているものの、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解もあるようです。釈迦牟尼の様々な前生を説く輪廻転生談(ジャータカ)も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。

    また、釈迦牟尼(そして仏教)は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、よく考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。

    それに替えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ(法)」を強調しました。よって、仏教は初めはダルマ信仰であって、ブッダ(仏陀)信仰ではなかったと言われています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたりしたのは、後世のことである(大乗仏教の経典においてである)と言われています。

    このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は、縁起の法や無我の法を説きました。

    この縁起の法とは、事物が条件によって(他に依存して)生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることを言います。また、無我の法とは、永久不変の自分(ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの)は、存在しないという教えです。

    これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それにならって、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。

  • 幸福の手段(方便)としての信仰2 (2010年10月01日)

    (2010年09月30日の日記)


    幸福の手段(方便)としての信仰2
    信仰に逆支配されないために

    前回、自分や他人が幸福になるための方便(手段)として信仰というお話をしました。

    まず、信仰の本質を考えるために、信じていることと、知っていることを対比させて考えるならば、信じていることは、誰もが認める客観的な事実ではないから、冷静に考えれば、正しい可能性と正しくない可能性があって、そのため、何かを信じるとは、それを正しいと思いたいという心理が働いているということでした。

    そして、信仰の対象を絶対真理と考えるのではなく、正しい可能性と正しくない可能性の双方を意識して、それが自分と他人を幸福にするための手段となる場合には、それが正しい可能性を使って(それを信じるようにし)、望ましくない場合は、それが正しくない可能性を使えばどうか、ということでした。

    今回は、これに関連して、宗教・信仰に人が逆支配される現象と、その背景を考えてみたいと思います。

    まず、誰もが認める客観的な事実が無く、何かを信じるということは、必ず、それを信じる人と、信じない人が出てきます。よって、人類の歴史で、どんな大きな宗教でさえ、その信者と非信者が存在します。

    例えば、キリスト教が世界最大の宗教だとして、その信仰の中核と言われるのは、イエスが復活したことを信じるかどうか(信じる者がキリスト教徒)だと思いますが、世界人類全体から見れば、これは誰もが認める客観的な事実ではないために、キリスト教徒とそうではない人達がいます。

    仮に、イエスが、全ての人類の前で、毎日のように、死と復活を含めた様々な奇跡を見せ続ければ、ほとんどの人はキリスト教徒になると思います(その場合は、信仰というより、イエスの奇跡現象が、宇宙の普遍的な(科学的な)真実の一部として認められる)。

    よって、信じる人がいれば、必ず信じない人が出ます。そして、ここで問題なのは、信じる人と、信じない人の間で、場合によっては激しい対立が生じることです。そして、それが、21世紀の人類を危うくさせている事実です。

    何故そうなるかというと、信じる人は、信じることを絶対的に正しいことと錯覚するからです。そもそもが、信じることは、誰もが認める客観的な事実ではなく、知っていることは違うにもかかわらず、それを信じてしまうと、あたかも知っているかのように錯覚する。そして、多くの場合、信じることが出来る自分は、信じることが出来ない人達より優れているという錯覚が生じます。

    本来は、信じない人がいるのは、宗教の信仰というものが、そもそもは、誰もが認める客観的な事実ではないからに過ぎず、信じない人が、信じる人よりも劣っているからではありません。

    しかし、非常に多くの場合、信じる人は、信じない人よりも自分は優れていると強く思います。そして、信じない人を悪業をなしている人だ、地獄に堕ちるなど、と決めつけ、自分が気づかないうちに、実は、無智・傲慢になっていくのです。

    それと同時に、自分にも苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されると言ってもよいかもしれません。例えば、場合によっては、自分達の信仰を否定する勢力とは(そうしたくないのに)戦わなければならないという状態に追い込まれる。

    また、自分が、その信仰に反していると思うと、非常に不安になる。さらに、相当に疑問を抱いても、やめた場合の恐怖があるため、なかなかやめることが出来ない。それまで自分が、信じない人達を否定してきたことが、自分に返ってきて、やはりやめることは悪業になるのではないか、地獄に堕ちるのではないかという恐怖・不安として出てくる。

    その結果、自分が幸福になると思ったから、信仰したにもかかわらず、客観的に見ると、信仰によって、逆に不幸・不自由を感じる一面が出てきます。

    さて、宗教に関する自由と言えば、17世紀の市民革命以来、確立した基本的な人権の概念として、(自分の好きな宗教)を信じる自由と(自分が好きでない宗教を)信じない自由を「信仰の自由」と言います。ただ、これは自分と他人の関係の中での信仰の自由です。

    しかし、今までお話ししてきたことを考えると、これだけでは、真の信仰の自由を得たとは言えないと思います。そのためいは、自分自身の中における信仰の自由が必要です。すなわち、自他の幸福の手段として、自分の関わる信仰を自在に使える柔軟な智恵があってこそ、真の信仰の自由を得たということができると思うのです。

  • 幸福の手段(方便)としての信仰1 (2010年10月01日)

    (2010年09月30日の日記)

    幸福の手段(方便)としての信仰1
    信じることと知っていることの違い


    従来の宗教のもたらす問題を超えて、21世紀に新しい宗教の在り方を創造する上で、まず、考えるべきことが、信じていることと知っていることの違いだと思います。言い換えれば、信じるということは、どういう意味を持つのか、ということです。

    多くの宗教の信者は、その教祖か、ご本尊か何かを信じますが、この信じるということは、知っているということと対比させると、その性質の違いがよく分かると思います。

    知っているという場合は、大雑把に言えば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるもので、信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、言わば、その人が、正しいと思っている、ということだと思います。

    もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠がある訳ではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。 そして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思う訳ですから、これには、自分でも気づかない何らかの理由で、正しいと思いたい、という個人の好き嫌いの感情が入っているという推測が成り立ちます。

    しかしながら、多くの宗教の信者は、信じる=正しいと思いたいことを、知っている=正しいことと混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分達の信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。

    しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること=正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明かではないかと思います。

    では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのか、というと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段(=方便)として使う場合だと思います。

    例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生れ変わりを信じることで、今生悪いことをしても、見つからなければいいと考えを押さえ込み、来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしようと考えることは、輪廻転生思想を自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。

    しかし、生れ変わりを信じる人が、生れ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるからよい(高い世界に生まれ変わらせればいい)と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者は、その功徳で天界に転生できると考える原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化出来ないでしょう。

    一方、信仰者の方からは、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたい」に過ぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるため、信じることによるメリットも無くなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生れ変わりの場合は、生れ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。

    しかし、生れ変わりについては、確かに生れ変わりは、誰もが認める客観的な事実=科学的に完全に証明されたものではありませんが、依然として、科学者の研究や古来の聖者の見解など、その存在を示唆するいくらかの事実はあるわけです。すなわち、生れ変わりがあるとは断定できないが、逆に、生れ変わりがある可能性は否定できないわけです。

    こうして生れ変わりがある可能性とない可能性があるならば、生れ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら、今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、同時に、生れ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為を正当化しないことが出来ると思います。

    そもそも、信じることの対象は、例えば、神を信じると言うように、それがあるともないとも(正しいとも正しくないとも)断定できないものです。すなわち、存在する(正しい)可能性と、存在しない(正しくない)可能性の双方があります。

    この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する(正しい)可能性を使い(すなわち信じ)、信じることが悪い場合には、それが存在しない(正しくない)可能性を使うことはできる、と思います。

    さて、次回の日記では、この点をより深めて、自分の信仰に逆支配されないこと、すなわち、真の信仰の自由を得ることについて、お話ししたいと思います。