2010年09月

  • 教師としての大自然 (2010年09月29日)

    (2010年09月26日の日記)

    上高地に数年前に入った時に感じたことは、教師としての大自然
    というものでした。

    木々も山々も、自分こそが一番になろうという欲望がなく、
    大きいものも、小さいものも、全体の中でのそれぞれの役割を果たし、
    調和しているように見える。
    自然の美しさ(特に日本のそれは)には調和の美がある。

    和をもって尊しとなせ、というのは、日本の釈迦、観音菩薩の化身と言われた
    聖徳太子の言葉ですが、大自然は、この教えの見本かと思います。

    こうして、大自然を仏の教えの見本として尊重する心が生じた時に、
    自分があたり一帯の大自然と繋がって、心が非常に大きく広がり、
    一体となった感覚が生じました。

    現代社会に住む私達は、自然を尊重し、自然と調和して生きた昔と違って、
    自然と切り離された都会で、自然を見下した価値観で生きていますが、
    際限のない欲望で地球の調和を乱し、地球環境問題などの困難を抱える今、
    あらためて自然から学ぶ精神を取り戻すことが大切ではと思います。

    人間は考える葦(あし)と言われますが、考える葦だからと言って、
    考えない葦よりも、優れているかというと、単純にそうではない。

    何ごとにも、長所の裏に短所ありで、仏典でも、人間には両面性があり、
    考える力を悪い方に使えば動物以上に悪いことをなし(地獄に堕ち)、
    良い方に使えば、釈迦のように悟るといった主旨が説かれています。

    そういった意味で、現代の考える葦は、多少なりとも傲慢で、
    人間である自分が、他の生き物よりも、優れているという油断があるかも。
    それを冷ますためにも、考えない葦から学ぶことが重要かと思います。

    万物を仏の平等な現れと説き、全てが平等に尊いとする、
    大乗仏教の思想も、これと関連すると思います。
    人の間もそうですが、この世の万物も、本質的には、一長一短であり、
    人が思うほど、大きな違いはなく、互いに助け合って存在している。

    さて、最後に、大自然に加えて、人が教師としにくい対象があと二つ。
    まず、妬みの対象。真実は自分の見本。努力が嫌な人には嫌に見えるが。
    まず、怒りの対象。実は自分の反面教師。傲慢な人には邪魔に見えるが。