2010年08月

  • 苦の裏に楽あり一考 (2010年08月25日)

    苦しみの裏に喜びがあるという教えの具体的な例を考えてみました。貧乏の利益と批判を受けることの利益です。
    なお、大乗仏教の最も重要な教えである六つの完成の実践の中で、忍耐の実践というのがあるのですが、それは、貧乏と、批判と、教えの理解の難しさに耐えよという教えです。

    貧乏の利益
    1.慣れれば質素に生きる力を身につける機会となり、
    2.視野を広げて他の貧困を思えば慈悲を培う機会となり、
    3.普段気づかない皆が共有する物(例えば大自然)の豊かさを理解する助けとなり、
    4.貪らなければ必要なものは(神仏に)与えられると知る助けになる

    批判を受ける利益
    1.正しい批判は謙虚に受け止めれば自己の成長の助けになり、
    2.理不尽な批判は冷静に対処すれば逆に自己の名誉を高め、
    3.感情的な批判は相手の苦しみを理解するきっかけになり、
    4.総じて自己愛を超えた真の慈悲を得る助けとなる

    さて、もう少し、人の性格や能力も、苦と楽が表裏であることについて。

    1.人の性格には、絶対善、絶対悪はない。
    全ての性格は長所と短所が裏表。例えば、短気=速い、臆病=慎重、
    融通が利かない=まじめ、無鉄砲=大胆・勇気があるなど。

    2.人の能力にも、絶対善、絶対悪はない。
    いかなる能力にも利益と不利益が裏表である。例えば、自分が何かに優れていると、
    それが出来ない人の苦しみを理解したり、手助けしたり、また、他の力を活かすことは、
    逆に出来なくなる。他に勝つ能力と、他を愛して活かす能力は、合致しない。

    3.大悪人が大善人となる可能性がある(大煩悩大解脱)
    仏陀の教えでは、人は無智によって悪をなすが、その苦しみにより、ついに間違いに気づき、善をなすように変わる。そして、大きな悪をなす人は、そのエネルギーが強いからであり、よって、改心すれば、大きな善をなす人になる可能性がある。


  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵5 (2010年08月05日)

    さて、今回は、宗教と科学の接点を探りたいと思います。まず、前回、人と人の違いは優劣ではなく、お互いを助け合う上での役割の違いであり、役割分担と考えて、卑屈・寂しさを乗り越える、というお話をしました。そして、それが、人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。

    そして、今回は、その人の体の中の各細胞の助け合いと神様の存在のお話です。前にも述べたように、人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合60兆もの細胞を持っています。その中には、頭、手、足、各臓器、神経、血管など、様々な細胞があります。

    そして、筑波大学の村上教授という人が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、DNA情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。

    DNAには、人体の全ての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な(奇跡的な)ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシングレート(何か偉大なもの)」と呼んでいます。

    「サムシンググレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、まさに神仏を指しています。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。

    例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏(無量の寿命の仏という意味)であり、この宇宙が無数の生命を育む力を仏の力、仏の法力と見なす思想の結果です。

    さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、余りに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、10の300乗分の1ほどしかないとも主張します。

    ここでは、偶然に発生する確率が余りに小さい事柄が発生した場合は、それは偶然ではなく、必然的に発生した=誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だという考えがあります。これは統計科学での考え方だと思います。例えば、貴方が、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが誰かによって意思され、作られたものではなくて、単なる偶然の現象だとは考えないでしょうか。

    仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から(故障で)水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で(再び地震?)、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で(火事?)温められ、その後、何かの原因で(また地震?)、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後は全てがきれいに元に戻った、ということになります。これは、余りに無理があることはお分かりでしょう。

    そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあるります。

    また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授(インフレーション理論の提唱者)が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界の全ての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずには居れない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。

    これらの科学者の見解をどのように解釈するかは皆さんにお任せしたいと思います。

    しかし、「自分はだめだ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつはだめだ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考える場合には、自分や他人という存在、生命存在が、それ自体が、全く奇跡的なものであって、人智を超えた、神仏の御業ではないか、という視点は、とても重要ではないでしょうか。

    特に、自分はだめだ、あいつはだめだ、という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で、自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば(人格を磨く努力も無しに)、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。

    しかし、私は、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私達が毎日毎日、目にしている、人間を含めた全ての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いや既に共有している奇跡に他なりません。

    そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を自殺などで破壊したり、自己中心的な願望をかなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいに騙されることもないと思います。

    ただし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。

    そして、それを取り戻すとすれば、やはり、人と人の違いは、優劣ではなく、個性であり、互いを助け合う役割分担であるという考え方や、自分の欠点・失敗・苦しみの裏に、長所・成功の元・幸福があると考える訓練ををすることが望ましいと思います。

    さらに、人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世の全てを現す神仏が、1人1人に与えた、かけがえのない個性・役割・天命であるという考え方まで持てればと思います。一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられた個性・役割であり、他と比較する必要のないものです。

    そして、興味深いことに、これは、先ほど述べた「サムシンググレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。

    さて、こういった思想を表現したのが、この宇宙の森羅万象は、仏の平等な現われ、という大乗仏教の教えだと思います。そして、私は、この思想を、非常に素晴らしいものだと感じています。美しい、と表現したらよいかもしれません。

    大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端の行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人達がいるのでしょう。

    現代の合理的な知性の究極と、古代の直感的な知性の究極は、共通して、私達の常識を越えて、生命を含めた宇宙の万物の存在に、人智を超えた神秘を感じ取っているように思います。

    最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕に出来ることではないと思います。しかし、それをなるべく育んでいく、日々のコツコツとした努力は、直ぐにではなく、徐々にではありますが、しかし、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵4 (2010年08月05日)

    さて、前回までに、人と人の間には、違いはあるが、それは優劣ではなく、個性であって、お互いを助け合うための役割の違い、であるというお話をしました。そして、そう考えないと、自分はだめだ、生きている価値がない、と考えてしまい、卑屈・寂しさ・孤独の原因となります。

    また、今はそう考えていない人でも、他人を見て、あいつらは、生きている価値がないと考えているならば、将来、自分が挫折・失敗した時などに、他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられることになります。人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思いますが、他人に向けた冷酷な刃が、自分に返ってくるということです。

    さて、人と人の違いは、優劣ではなく、個性・役割の違いである、という考え方、そして、その背景にある、自分の欠点・失敗・苦しみは、視点を変えれば、長所・成功の元・幸福になるのだ、という考え方は、その果てに、神や仏の存在という視点が生まれてくることがあります。

    逆に言えば、自分がだめだ、生きている価値がない、または、あいつはだめだ、生きている価値がない、世の中は苦しみ一杯だ、と考えている人は、この世に神仏が存在して、万物を神仏が現しているという宗教的な世界観は信じがたいことでしょう。

    大乗仏教や神道は、自分や他人を含めた、この世界は、神仏の現れ・神仏の一部・神仏の子であると説き、キリスト教は、この世界は、神仏の創造物であると説きますが、多少の表現・解釈の違いがあっても、宗教の多くは、この世の万物の存在の根元に神仏があります。

    それに対して、自分や他人を含め、この世には、だめなやつが多くいて、生きる価値のないものが多いと考えるならば、この世を現した全知全能で慈悲深き神仏などは存在しない、存在しないからこそ、この世はこうなのだ、と考えるのが自然ですね。

    こうして、自分や他人といった人間存在を価値あるものとして愛する、尊重することが出来るかどうか、いうことと、人間を含めた万物の根元に神仏が存在すると信じるかどうかは、根底において、繋がっている部分があると思います。

    かといって私は、神仏や宗教を信じている人が、自分や他人を愛していると主張しているわけではありません。というよりも、現在の多くの宗教は、必ずしも、そうできていないと思います。場合によっては、自分も他人も本質的に愛することが出来なくなる歪んだ信仰があります。

    また、自分や他人を愛している人は、神仏や宗教を信じるはずだとも主張していません。特定の神仏や特定の宗教を信じていなくても、自分や他人を愛することは可能だからです。ただし、そういった人の場合は、広い意味での宗教性、例えば、人智を超えた何かを尊重する謙虚さ、というものがあると解釈できる場合が多いと思います。

    そして、日本人の場合は、後者の宗教性は非常に高いと思います。言い換えれば、それこそが、日本的な宗教性であると言うことが出来ると思います。

    読売新聞が特集した「日本人の宗教観」という世論調査によると、「宗教を信じている」という人は3割以下にもかかわらず、日本人の半数以上は、「自分たちの宗教心は薄くない」と考えており、さらに、「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じ、日々の暮らしでは、「墓参り」「初詣で」などを宗教色を意識せずに受け入れています。

    1宗教を信じているかどうか 「信じている」26,1%  「信じていない」71,9%

    2日本人は宗教心が薄いと思うか? 「そうは思わない」48,9%、「そう思う」45,1%、
    →特定の信仰の有無と、宗教心の有無が一致しない。日本人特有の宗教観。
    「そうは思わない」と答えた人が最も多かった年齢層は40歳代の54%。

    3先祖を敬う気持ちは?   「持っている」が94,0% 「持っていない」4,5%
    →年代別でも、「持っている」は、20歳代でも86%、30歳代以上で9割超を記録

    4自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか? 「ある」56,3%、「ない」は39,2%
    →「ある」はすべての年齢で5割超、「宗教を信じていない人」と答えた人でも51%

    5日常生活の中の宗教的行為
    1盆や彼岸などにお墓参りをする 78,3% →「宗教を信じていない」と答えた人でも77%。
    2正月に初詣でに行く 73,1% →「宗教を信じていない」と答えた人手も74%。
    3しばしば家の仏壇や神棚などに手を合わせる 56,7%

    6死んだ人の魂については、
    「生まれ変わる」29,8%、「別の世界に行く」23,8%、「墓にいる」9,9%、
    「消滅する」17,6%。「魂は存在しない」9,0%。
    →何らかの形で死後の存在を信じている人が過半数を超えている。

    皆さんは、どうでしょうか。神や仏の存在を信じていらっしゃるでしょうか。そして、信じているという人は、どういう意味で信じているでしょうか。信じていないという人は、どういう意味で信じていないでしょうか。良く考えると、信じていると考えている人が、別の視点では信じておらず、信じていないとした人も、他人から見ると信じている人に見えるかもしれません。

    そして、ひかりの輪は、この日本的な宗教心、宗教性、霊性といったものを大切にしています。例えば、純粋な自然の聖地に行くことがあるのも、その一環です。また、最近は、一般にも、聖地に行く人が多くなっているようですね。

    さて、次回は、科学の世界から、神仏の存在との接点をみたいと思います。それは、非常に興味深い内容です。例えば、人智を超えた超越した何か(=神仏?)が、個々の存在が互いを助け合うように役割分担をしているとも解釈できる、科学的事実もご紹介します。

    なお、私自身は、早大の大学院を卒業した科学指向と、その後の宗教人生を双方を抱えている人間です。また、オウムでの過ちから、盲信を超えることをテーマとしています。そういった視点から、宗教好きの人も、宗教好きでない人も、どちらの方でも、利益になるお話ができれば、と思います。


    ※付記
    神道と仏教が融合した神仏習合の文化を持つ日本らしく、神と仏を一体と見て、神仏と表現させていただいています

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵3 (2010年08月05日)

    前回までに、短所と長所は裏表であるということをお話ししました。よって、人は誰も、他人と比べて、優れていたり、劣っていたりはしません。すべての人が、何かに優れ、何かに劣っているのです。

    これは、人と人の間には、確かに違いはあるが、その違いは「個性」であって、優劣ではない、という意味を持ちます。そして、更に重要なことは、その個性の違いは、単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。

    例えば、前回の例のように、様々な物事において、それを他の人より先に実現できる能力がある人と、様々な障害のために、遅れて実現する人がいます。この場合、後者は、その人と同じように、その実現に障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。そして、前者は、皆の見本・モデル・先駆者となるという役割があると解釈できます。

    そして、この両者は互いに助け合っています。前者は見本・モデル・先駆者として、その物事に道筋を作って、後者を助けます。しかし、後者があってこそ、その道筋は、多くの人が進める太い道となり、この世界で、現実に有意義なものとして、確立します。

    この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、2500年ほど前に既に悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それから遙かに遅れて56億7千万年後に悟るとされています。

    しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼より遙かに多くの人達を、悟りに導くと言われています(経典の表現では約270億の人だから、全地球の人口か)。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩を初めとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが、真に全ての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。

    よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀とも言われます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。

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    こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いである、という考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。

    成人した人間には約60兆もの細胞があると言われていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、様々な細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。

    そもそも、この60兆の細胞は、皆が一つの細胞(父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵)から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。

    そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体と小宇宙とみて、大宇宙と相似形と考える思想があります。良く考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグ・バンから。

    そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることは出来ません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に、支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。

    また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9%という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることが分かります。

    では、次回は、この点をもう少し深めてみたいと思います。これは非常に興味深いテーマです。なぜなら、そこに、神とか、仏とされるものが、宗教と科学が融合した形で、かいま見えてくるからです。


    ※参考 事物が相互に依存していること(縁起の法)

    万物が相互に依存してあって存在するというのは、仏教の根本教理であり、縁起の法(えんぎのほう)と言います。これは、一般には、縁起が良い、縁起が悪いなどと言いますが、この言葉の本来の意味は、縁が条件、起が生起するという意味であり、(あらゆる)事物は、そのものだけでは生起せず、何かの条件を得て生起しており、言い換えれば、相互に依存し合って生起する、という意味です。

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵2 (2010年08月04日)

    寂しさを超える大乗仏教の智恵の第二回目として、善と悪、ないしは、優と劣の区別・二分化を超える教えのご紹介です。

    現代の社会は、競争社会のため、優れている人と劣っている人を強く区別するのが普通になっています。最近は、勝ち組・負け組といった言葉も良く聞かれます。

    その中で、自分はだめだ、自分には価値がない、自分は誰にも愛されていない、必要とされていない、自分は生きていていいのだろうか、と思う人が増え、卑屈・自己嫌悪・絶望感に悩み、鬱になったり、自殺する人が増えていると思います。これが、強い寂しさの原因となるのは間違いありません。

    優と劣の区別・二分化を超える教えとは、そもそも、真実の眼差しで、この世界を見るならば、優れている者と、劣っている者の区別・違いなどは存在せず、あらゆる存在が、それぞれ、全体に対する役割を持っており、尊い存在である(=神仏の現われ、ないし、神仏の一部)、というものです。仏教的には、「万物・森羅万象は、平等な仏の現れ(仏性の顕現)」と言います。

    一方、ご存じのように、私達の常識は、「この世界は、優れている者と劣っている者、良い者と悪い者があるに決まっている」と考えています。しかし、そういった常識に流されずに、純粋な知性で、深く考えてみると、優劣の区別は、私達が日常で考えているようには、存在しないことが分かるのです。

    では、具体的には、どのような考え方によって、全てが平等に尊いと考えられるかについて説明したいと思います。

    第一に、一般に劣っているとされる人は、同じように劣っている人の気持ちが分かります。しかし、優れている人は、その人達の気持ちは分かりません。場合によっては、他に勝つことばかりしていると、冷たい人間になる恐れがあります。こうして、他の苦しみを理解できる人になる、優しい人になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。

    第二に、劣っている人が、諦めずに努力して、その欠点を克服すると、同じように劣っている人が、欠点を克服することを手助けする力が備わります。しかし、優れている人は、劣っている人が、どういった具体的な困難・障害を抱えているかを体験的に理解できませんから、それは難しいと思います。

    この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当のなることが多いのです。他人がどこで分からなくなるか、というのが、できの悪い自分は、全部分かるからです。」と語っていました。こうして、多くの他を助けることができる人間になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。、

    第三に、自分の力が劣っている人は、物事を成就させる上で、優れている他の力を活かすことができる可能性があります。自分の力が優れている人は、自分で出来てしまいますから、他の力を活かすことが出来ない可能性があります。こうして、他を活かして幸福になろうとするならば、単純に優れていることが有利ではありません。

    その好例が、私が好きな、昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学が無かったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを覚えた。お金がないから、(お金持ちのところに)丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。

    こうして、他に勝って、他に優位に立って幸福になろうとすると、自分が劣っていると思いこんで、苦しみますが、そうではなく、他の苦しみを理解し、他を手助けし、他を活かすことによって、幸福になろうとすると、自分の欠点が、逆に長所でもあることに気づきます。

    よって、欠点と長所は裏表に過ぎず、裏に長所のない欠点はなく、裏に欠点のない長所もない、ということになります。絶対的な長所や短所はないということにあります。しかし、物の考え方が一面的だと、(絶対的な)欠点とか、(絶対的な)長所がある、という錯覚が生じて、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、逆に慢心に陥ってしまう、という心の歪みがあるということです。

    そして、言い換えれば、劣っている人・優れている人という区別は、客観的に実在するものではなく、人の心の中の、偏った考え方が作り出しているに過ぎない一種の幻影、実体のないものと考えられます。

    次回は、この点を更に深く考察してみたいと思います。

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵1 (2010年08月04日)

    寂しい人が多いと思います。皆さんはどう思われるでしょう。
    もちろん、寂しい人の大半は、自分が寂しいとは言わないし、
    一部の人は、寂しさに気づいていません。
    また、寂しさを背景に、他人にかみつく人もいます。
    ネットであらす人なども、そういう人が多いと思います。

    ところで、ひかりの輪では、大乗仏教の法則と心理学などを土台とし、
    現代の人に分かりやすく表現した教えとして、一元の法則というものを
    説いていますが、この教えに基づいて、寂しさを乗り越える考え方
    をご紹介したいと思います。

    この法則には、三つの切り口があり、それぞれ、
    楽と苦の区別・二分化、善(優)と悪(劣)の区別・二分化、
    自と他の区別・二分化をし過ぎていることが、
    様々な苦しみをもたらしているため、それを乗り越える考え方が、
    苦しみを取り除くと考えます。

    そして、三つの切り口は、それぞれ、苦楽の輪の教え、優劣の輪の教え、
    自他の輪の教えと呼んでいます。

    最初の苦と楽の区別・二分化を超える教えとは、
    今得られていない他人の愛や幸福を考えてばかりいるのではなく、
    与えられている愛や幸福に気づいて、その大きさを考えて、
    感謝し、それを与えている万物に感謝すること。

    そして、今経験している苦しみも、実は、その裏に喜びがある、
    祝福、導きがある、愛の鞭である、ということを考えて気づく、
    言わば、逆転の発想です。

    これに習熟すると、自分の周囲の全ての現象に感謝が生じて、
    ついには、全てがありがたい、という感情に近づきます。

    寂しさは、自分が受けいられていない、自分が愛されていない、
    自分を愛してくれているものを失った、という心の働きから
    来ていると思います。

    それに対して、上記のように、今自分が得ている愛と幸福や、
    苦しみに裏にある喜び、祝福、導きについて考え、
    様々な感謝の気持ちを増大させて、乗り越えていきます。

    しかし、寂しさというのはなかなか強烈な感情ですから、
    この法則に加えて、次回以降、他の二つの切り口についても、
    続けて、お話ししたいと思います。

    ※付記:遭難死された日テレ記者北優路さんについて

    寂しさいついて書いた後になんですが、北さんは、ひかりの輪を初期の頃、
    よく取材されたことがあり、広末副代表の知り合いでした。
    団体を代表しまして、心から哀悼の意を表します。

    関連する広末副代表・広報部長の日記
    出会いと別れの1日--オフ会と日テレ・北記者の死