2010年06月

  • 全てを神聖な存在と見ること (2010年06月23日)

    (2010年06月22日の日記)

    この日記のやりとりの中で興味深いやりとりがありました。それは、宗教や信仰には、どのくらい客観性が必要かと言うことです。具体的に言うと、信仰者が神聖な体験をするときは、ある参加者の方がコメントされたように、何かを神聖なものだと深く信じることから生じるという経験則があります。

    それをよく表している言葉として、「犬の歯も信心」というのがあります。ある老婆の息子が、本当は犬の歯なのに、それを仏陀の遺骨だと偽って、母に渡したところ、母がそれを熱心に敬った結果として、非常に高い境地を得た、というお話です。

    経典では、その老婆の信心に対して、仏陀の祝福が与えられたからである、とされていますが、現代的に、合理的に言えば、対象を深く尊敬することによって、それをきっかけに、その人の自身の中の神聖な要素=その人の中の神や仏の要素が、最大限に引き出されたと言うことになると思います。

    そして、チベット仏教では、自分の仏教の師=グル・ラマを仏陀の化身と見て信じるという実践があります。この実践の理由を合理的に言えば、師から学ぶとは、師の良いところを吸収することであるから、そのためには、最大限の尊敬・謙虚さをもって学ぶことによって、達成されるということだと解釈できます。尊敬や謙虚さが無いと、他の良さはわかりにくくなりますから。

    しかし、オウム真理教では、この教義が暗転しました。麻原を仏陀の化身と見たために、麻原の犯罪の指示も、自分達では分からない何か深遠な意図・神の意志があるのではないかという考えによって、弟子がそれに従ったと言うことです。

    よく考えてみれば、自分の信仰の実践のために、他を犠牲にすることは、身勝手であって、自己中心的な行為であり、本来は仏道修行に反することです。しかし、信者は、それに気づかずに、専ら、自分が嫌なことでも、グルの指示なら我慢して行うことが、自分のエゴを滅することだと解釈したのでした。こうして、犬の歯も信心は良いのですが、それを無秩序にやるならば、人を神格化した結果、その人が犯罪・戦争を指示したならば、それに従うことになります。

    そして、これは、オウム真理教に限らず、キリスト教・イスラム教、日本では第二次世界大戦の国家神道(日本を神の国と位置づけた)などを含め、ある意味で宗教全般に見られた落とし穴ではないか、と思います。自分達が神聖だと思うものがあって、それを根拠にして、他の存在の価値をひどく否定してしまうのです。

    さて、こういったオウム真理教に対する批判があったからだと思いますが、オウム事件の後に、チベット仏教では、師を仏陀の化身と見る教えは、自分のエゴを弱めることが目的であって、実際に客観的にチベットの師が完全な人格者であるという主張なのではない、としているようです(ダライ・ラマ法王の日本の代表部などのHPなどから)。

    私も、これが正統な解釈だと思います。仏教の教えの多くは(ある意味では全ては)、人の心をエゴから解放し、慈悲に近づける手段であって、それ自体が目的であったり、絶対的なものではありません。人が法則を活かすべきであり、法則の奴隷になるべきではないというのが仏教思想だと思います。

    ただし、社会的な視点からは、全く健全な見解なのですが、この見解は、深く信じるということによる効果は減らしてしまう面があるでしょう。本当に完全であるから信じなさいと言われるのではなく、実際には完全ではない対象を、方便として、完全であると信じなさいと言われれても、深く信じられないということになるでしょう。

    宗教にとっては、この問題は非常に重要だと思いますが、この問題を解決するために出てきた面があるのが、人ではなく、例えば、仏像などの物を神聖視するという信仰ではないかと思います(神聖な象徴物、仏の象徴物)。

    特に、日本の仏教は、人ではなく、専ら仏像を仏様と呼ぶのが普通であることは、皆さんご存じの通りで、その意味では、このパターンを取ってきました。これは、仏像仏教とも言われています。

    日本でも、チベット仏教のいにしえの聖者のように、古くは弘法大師空海のような、生き神のような人がいたようですが、その後は、そういった人には、余り恵まれなかったために、こうなったのかもしれません。

    しかし、この物の場合は、カリスマ的な人物と比較すると、神聖なものだとは信じにくいという問題があります。相当のカリスマ性が、その物にないと、人の信仰心を引き出す、支える力は生じません。

    例外としては、現代の人には余り知られていないかもしれませんが、霊験あらたかで有名な日本最高の仏像である善光寺の秘仏などがあるでしょう。私個人は、善光寺の秘仏以外に、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に深いものを感じた経験があります。

    ただ、善光寺の秘仏は、そのカリスマ性ゆえに、その仏像を奪い合うといった歴史も過去にはありましたが(戦国時代)。

    そして、この神聖な象徴仏に加えて、それ以上に重要な道が、誰か特定の人や物を神聖視することに偏らずに、すべての人・万物を本質的に神聖なものとする考え方だと思います。

    この具体的な例として、前回の日記でご紹介したのが、仏陀菩薩を信仰しつつも、全ての生き物が未来の仏陀・菩薩であり、その意味で彼らは仏陀の胎児である、という大乗仏教の思想でした。

    これによって、特定の人・物だけを絶対視・神聖視する場合に比べると、他の人々や存在をを蔑視してしまい、犯罪や戦争が起こるといった落とし穴にははまりにくくなると思います。自分の信仰対象と、世界の全ての存在が、本質的には同一ですから、全てを尊重し、愛する心を育みやすくなります。

    しかし、今度は、実際に実践する上で、すべての人々・存在を神聖と見ることは、特定の存在に限って神聖と見ることよりも相当に難しいという問題が生じます。依存心の強い人は、何かを直ぐに盲信しますが、そういった人でも、いやそういった人こそ、全ての人を神聖に見ることは出来ません。

    さらには、悪人も含めて、全てを神聖と見るのは、それこそ間違った思い込み、盲信ではないか、という反論も出てきます。悪い物は悪いとしなければ、何でもありということになるではないかという反論も出てきます。

    しかし、私が考えるには、こういった問題は、最終的には、解決が可能だと思います。そのポイントとなるのが、自と他、善と悪、苦と楽などを間違って二分化してしまう人間の思考パターンの癖に気づいて、それを超越することです。

    これを言い換えるならば、万物を神聖なものだと思いこむ、盲信するのではなく、そもそもが、純粋に論理的に考えるならば、万物は神聖な要素があることに気づくことであり、日常生活の思考の中では、それを見失っていることに気づくということです。こうして、盲信ではなく、論理的な根拠を持って、全てのものを尊重していく思想です。この具体的な内容については、次回以降にお話ししたいと思います。

  • 母なる仏としての宇宙 (2010年06月20日)


    (2010年06月19日の日記)
    大乗仏教の世界観で、特に素晴らしいと思うのが、この宇宙が仏の現れである、というものです。そして、これは、この宇宙の中で育まれる全ての生き物が、仏の子であると言う意味を持ちます。

    もう少し詳しく表現すると、この宇宙が仏の母胎(=子宮)であり、その中で育まれている全ての生き物は、仏の胎児と説かれています(専門用語では、胎蔵とか、如来蔵という)。

    すなわち、この宇宙が単なる物質ではなく、生命体であるというのですが、この考え方は、全く非科学的なわけではありません。

    もちろん確立された科学理論ではありませんが、宇宙の人間原理という説があって、それが説くところは、まず、宇宙が現在のように生命を育む状態になることは、それが偶然の物理現象の結果として起こったとすると、その数学的な確率は、あまりにも小さい(十の三百乗分の一程とも)ということです。

    宇宙が生命を育んでいることは、偶然の結果だとすると、余りに奇跡的な出来事であるから、合理的に考えるならば、偶然ではなく、必然の結果であろう。すなわち、何か超越的な存在が、そうなるように意思した結果であろうというものです。

    例えば、貴方が家に帰ったときに、テーブルの上に、沸いたコーヒーが用意されていたら、それが、偶然の物理的な現象ではなく、何者かに意思された結果だと考える方が合理的でしょう。よって、偶然起きる確率が余りに低いことは、必然的なもの、意思されたものと考える方が合理的=科学的だという見解です。

    この科学的な視点を踏まえると、この宇宙が物質ではなく、意思を有した巨大な生命体であるということになる、母なる宇宙とか、仏としての宇宙という大乗仏教の思想と矛盾しなくなります。

    そして、これから出てくる、もっとも魅力的で、重要な思想は、人間のお母さんの体の中の生き物は、皆動物ではなく、人間であるように、仏として宇宙の中に育まれた生命体は、皆が仏であるというものです。

    人間の胎児が、胎児や児の時は、何も分からず、無智で、無力で、わがままであるように、今私達が日頃目にする人々や生き物は、今はとても仏陀には見えないけれど、何回何回も生まれ変わる中で、釈迦牟尼がそうだったように、徐々に仏陀に成長していくという思想です。

    釈迦牟尼自身も、仏陀となる前の転生では、修行者ではなく、普通の人だった時期があり、その際は、その時の仏陀を誹謗・中傷するなどの罪を犯したとされています(仏教では、仏陀を誹謗することは大変な悪業とされる)。

    こうして、大乗仏教の思想は、全ての生き物は、成長する存在であり、突き詰めると、未来は仏陀になる存在であるという、とても肯定的な生命観・人間観を持っています。そして、その背景として、この宇宙は母なる仏であり、その中の生き物は、仏の胎児であり、長い時間はかかるが、未来に仏になる、仏の胎児であるという世界観があります。

    この世界観・生命観に基づいて、全ての生き物を尊重して愛するという大乗仏教の思想が出てくるのですが、私は、これがとても魅力的な思想に感じられます。

    成長する存在としての全ての生命、それを育む存在としての無限の宇宙。
    未来の仏陀としての全ての生命、母なる仏としての宇宙。

    人々の間の優劣に集中し、物質主義的な価値観の強く、殺伐とした一面のある現代社会の中に、大きな潤い、生命力をもたらす思想のように感じます。 皆さんはどう思われますか。

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  • 万物は仏:自分を愛せない人のために (2010年06月18日)


    (2010年06月18日の日記)
    今日は、万物は仏(の現われ)という大乗仏教の教えについてお話ししたいと思います。

    この教えに最初に私が巡り会ったときは、何を言っているか全く分かりませんでした。例えば、経典には、仏陀の悟りの境地に至れば、この世界が、仏の浄土(仏の集まる世界)に感じられ、全ての人は、仏に感じられる、などと説かれています。

    その後、聖地の巡礼を含め、色々なところで学び、よくよく自分の中で考える中で、ようやく、確かに、現代社会の固定的な観念を超えて、純粋に論理的な思考をするならば、すべての人は仏であると考えることができると、確信するようになりました。

    しかし、最近は、自分を愛せない人が非常に多いと思います。たびたび受ける相談でも、「自分は生まれてきて良かったのでしょうか?」とか、「自分は生きている意味があるのでしょうか?」とか、「自分が好きになれない」、「自分が嫌い」といった悩みを多く聞きます。

    この原因は、端的に言えば、現代社会で一般化してしまっている自分と他人の比較優劣にとらわれていたり、その比較の土台となる画一的な価値観の影響を受けているからだと思います。そのような固定観念を振り払って、純粋なまなざしで、すべての人を見ると、自分を含めて、一人残らず、尊い存在と考えるための突破口になるのですが。

    ただ、この点を詳しくお話しする前に、まず、よく言われる「自分を愛せない」という言葉の意味を正確に理解しておきたいと思います。

    私が思うに、こういった人は、本質的には、自分自身に人一倍執着しているものの、現実の今までの自分が、自分の満足できるものではなく、そのために、「自分が嫌い」「好きになれない」と言います。そもそもが自分自身への執着がなければ、自分がどんなであろうと、全く気にならないわけですから、悩むこと自体がありません。

    そこで、「自分を愛せない」といった言葉は、「自分が幸福になるために、今のありのままの自分を活かすことが出来ない」というように言い換えることができると思います。

    これに対して、大乗仏教の教えは、いかに、神仏に与えられた個々の生命・人生を、他と比較して否定することなく、世界に唯一の個性として活かすことが出来るか、大切に出来るか、ということに集約されると思います。

    そして、信仰の立場から言えば、自分を本当に愛している人でなければ、神や仏を信じていると言うことは出来ないと思います。神仏への信仰は、神仏が現した(ないしは神仏がそれに変化した)この世の全てを愛することと同意義となるからです。自分を愛せない、他人を愛せない、だとすれば、神仏も愛せない、信じられないとなります。

    これらの前提として、次回に、どうすれば、自分を本当に愛することが出来るようになるかについて考えてみたいと思います。そして、それは、同時に、他人も愛すること、万物を愛することと一体のものです。

    それは、自と他の比較・優劣や、勝ち組・負け組といった、一種の妄想から解放されることから、この世界・宇宙自体を巨大な生命体として仏と見なすことまでが、含まれています。

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  • 負け組の裏に勝ち組の芽 (2010年06月18日)


    (2010年06月17日の日記)
    今回は、負け組の裏には、勝ち組の要素があり、勝ち組の裏には負け組の要素があると思うことについてお話ししたいと思います。

    まず、互いに切磋琢磨し、互いに対する尊重が増すような、良い意味での競争ではなくて、他を苦しめて、自分が幸福になる、といった「奪い合い」の場合ですが、そういった勝ち組は、お金や名誉を手に入れたとしても、他に対する優しさという、ある意味で(本当の意味で)、最も大切なものを失ってしまうように思います。
    現代のような競争社会ですと、ある意味で、自分では全く気づかないうちに、他に対して冷たい、冷酷な人格が作られていく恐れがあると思います。私は、若い時に、エリートと言われるような状況を体験しましたが、それがばっかりに、一面において、そういった冷たい人格を形成したように思います。

    自分が正しいとか、優れているという思いだけに意識が集中してしまって、良く考えると、本当の意味での智恵が欠けており、正しくもなければ、優れてもない。これが、オウム真理教における失敗・過ちの一因になったように思います。

    また、実際に、人生で成功するためには、確かに最初は、知能・容姿・体力・弁舌・才能などが評価され、有効だと思いますが、最終的には、他の苦しみを理解する力、取り除く力、他を受容する力・忍耐力、他を活かす力といったものが、成功のためにも、重要になって来るように思います。

    そして、それらの力は、勝ち組の人が必ずしも身につけられるものではなく、むしろ負け組の人こそが、身につけやすいものではないかとも思います。もちろん、負け組の立場に立ったときに、ふてくされずに素直な努力を続ける場合に限りますから、容易ではありません。

    しかし、負け組の人は、すくなくとも潜在的には、第一に、自分と同じ負け組の人の気持ちが体験から分かりますから、受容力や忍耐力を養う可能性を持っていますし、また、自分の力ばかりに頼らず、他人を活かす術を覚えていく可能性もあると思います。もちろん、これは、あくまでも、可能性であって、それが実際の力になるには、努力が必要ですが。

    この典型的な例として、私が尊敬する昭和期最大の実業家の松下幸之助は、「貧乏だったから、丁稚奉公に行き、商人の際を学べたし、学がなかったから、他人から素直に学べたし、体が弱かったから、他に人に頼むことを覚えることが出来た」と語っています。こうして、彼の場合は、貧乏・無学・病弱といった負け組の要素を全て成功の要素に変えて、大きな成功を得たのでした。

    こうしてみると、人生万事塞翁が馬の言葉通り、苦しみの裏に喜びが、欠点の裏に長所が、失敗の裏に成功が、負け組の裏に勝ち組への道があると思います。言い換えれば、一時的な勝ち組、負け組とは、優劣ではなく、人それぞれの「個性」とも表現できるのではないでしょうか。

    勝ち組は、成功のために油断・慢心に陥れば、落とし穴にはまってしまい、ついには負け組になり、負け組は、努力し続ければ、真の勝ち組になる可能性がある。よって、自分が今そのどちらであろうとも、それを個性と見て、油断も悲観もせず、努力し続けることが、成功・幸福の道ではないかと思います。

    私は、徳川家康が好きなのですが、天才的だった織田信長や豊臣秀吉が道半ばで倒れる中で、彼らほど天才的とは思えないが、辛抱強く努力し続ける性格だった徳川家康が、最終的に戦国の世の覇者となったのも、これと同じ理由ではないかと思います。

    また、この話に関係するものとして、大乗仏教の教えの中には、「全ての人々・生き物・万物は、皆が仏の平等の現われ」という教えがあります。これは、全ての存在は、本質的には優劣がなく、皆が平等に仏の現れとして尊く、神聖であるという意味だと解釈しています。

    最初に、この教えに巡り会ったときは、なかなか、その意味が理解できませんでした。現代の比較優劣の競争社会の価値観に支配されていたからだと思います。しかし、上記のようなことを良く考えているうちに、人の間の様々な違いは、全て神仏の与えた「神聖な個性」の違いであり、本質的な優劣の違いではないと思うようになり、この教えが理解できるように感じました。

    その意味で、自分自身を愛せず、自殺などで命を絶ったり、悲観・絶望して鬱病などに苦しむ人達にも、この教えを知ってもらえればと思います。


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  • 他への怒りか、自己への怒りか (2010年06月15日)

    (2010年06月11日の日記)
    今日からまた少しずつ、私の学んでいる仏教的な心の問題についてお話ししたいと思います。その事始めとして、怒りについて取り上げたいと思います。

    私が思うに、人は、非常に多くの場合に、自分に対するいらだち・怒り・嫌悪を背景として、他に対して怒ることが多いと思います。しかし、本人は それに気づかない。厳しく言えば、気づきたくないので意識しないようにしている。

    例えば、何かの問題があっても、その原因は、少なくとも、自分の努力不足が一因であるにもかかわらず、努力を避けたい弱い心のために、他人のせいにしてしまう。

    しかし、他人のせいにするのは、その時は楽だが、それによって、自分が必要な努力をする方向には向かわないので、問題は解決せず、いつまでたっても幸福にはなれない。努力の不足と他への怒りばかりが続いてしまう。

    その裏には、楽をして幸福になりたいという甘えがある。しかし、行きはよいよい帰りは怖い、というのが、目先の楽に負けた結果というのは、常に成り立つ道理だと思います。

    とはいえ、私は、人というものは、様々な間違いを犯し、その間違いによる苦しみから反省して、正しい道に至る、という主旨を説いた仏陀の考え方が好きなので、怒りを含めて、人間の持つ様々な性質は、未来の進歩に繋がる要素だと考えていますが、皆さんは、他への怒りの背景に、自分に対する怒りがあるという考えはどう思われるでしょう。

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