2008年11月

  • 「負け組」思考から自分を解放する (2008年11月30日)

    最近、よく勝ち組、負け組という言葉が使われます。今日はこの点について、特に負け組について、考えてみたいと思います。

    負け組になるというのは、誰しも非常に辛いものだと思います。私も、無智のため、かつては、自分たちが一番偉いと主張する宗教(オウム真理教)に属し、勝ち組であるという妄想を抱いていましたが、その後、教団と共に、大きな過ちを犯し、破綻した、という意味では、社会の中で、負け組の中の負け組だと思います。

    また、最近社会を見渡しますと、様々な負け組の人たちにあふれていると思います。思い違いをして犯罪に陥った人だけでなく、バブルの幻想のために大失敗した人、借金で首が回らない人、激化する競争社会の中でワーキングプアー状態にあえぐ人や、社会生活自体できず引きこもり・ニート・鬱になった人など。特に若者に多いかもしれません。

    しかし、考えてみると、負け組は、視点を変えると、勝ち組であるという見方が出てきます。例えば、日本の中にいる大勢の負け組も、日本という世界有数の生活水準と、世界最高の長寿、主要国随一の安全性(犯罪発生率の低さ)を誇る、豊かで長寿で安全な国に住んでいる勝ち組であるという事実があります。長寿や安全性では超大国アメリカをもしのぐ。こういった民族は、60億の中で、たった1億しかいない。

    そして、なぜ、日本が豊かなのかというと、それは、国際社会の中の市場競争に勝っているからであり、例えば、日本を含めた先進国は、お金の力で、必要以上の食べ物を国際市場から集めて、飽食の状態にあり、その裏では、お金がないために、食料が調達できず、飢餓にあえぐ途上国という負け組が存在します。今年の春などは、先進国のヘッジファンドなどの影響で、食糧価格が高騰し、途上国の食糧危機が拡大しました。

    こうしてみると、日本の中の競争社会の結果として、負け組である人たちも、世界の中では、同じ競争原理のために、知らず知らずのうちに、勝ち組になっており、その恩恵を毎日得ているということに気づきます。気づかないうちに、競争の勝利者としての利益を毎日感じつつ、その一方では敗北者としての苦しみは強く自覚して、感じている。

    これを達観して表現するならば、こういった競争社会に身を置いて、自分たちの自覚が乏しくとも現実としては、何らかの形で他を打ち負かして、多くの幸福や豊かさを享受し、その裏で自分たちよりも不幸な人を作っている以上は、その同じ競争の社会の中で、自分が負けて苦しむ場合が出てくるのも必然的だ、とも解釈できます。

    その意味で、ここでの問題は、自分が勝ち組である部分は自覚せず、負け組である部分だけを強く自覚する、ということではないか。自分より幸福そうな人には目がいきやすく、自分より遙かに不幸な人の方が、この世界には圧倒的に多いという事実は忘却していることではないか。すなわち、自分が得ているものを見て、感謝することより、得ていないことを見て、不満に思い、自分で、自分を負け組だと位置づけてしまうことではないか、とも思います。

    また、負け組が勝ち組であると共に、勝ち組もやはりいつかは負け組になる。最近も、色々な会員さんの相談を受けますが、その中には、60歳で、自分の技術は、もはや若い人には勝てず、使ってもらえず、退職して、田舎に帰って、90歳の母親と二人で暮らす方などがいました。体も不調で、目、肩、腕、背骨、腰など、色々な所が痛い。若いときに、どんなに勝ち組になっても、年を取れば、若者に負けていく。老いと死には、誰も勝てない。

    こうしてみると、他に勝つことで幸福になろうとするだけではなく、与えられている幸福をよく考えて、それに感謝し、自分より不幸な人の存在に気づいて(しかも、その存在を自分が作り出している場合もある事実に気づいて)、苦しみを分かち合うという、別の幸福への道が出てくると思います。これが、仏陀が説いた、貪りを超えて、慈悲を培う生き方ではないか。

    21世紀は、途上国の急速な経済発展に伴い、地球環境、資源・エネルギー・人口爆発等の問題が地球全体の将来に影を落としていますが、こうした事態であればこそ、なおのこと、今得ていない幸福を得ようとして、もっともっとと求める競争原理、市場原理主義の価値観ばかりではなく、今ある幸福に気づく智恵と、分かち合う慈悲の思想も必要かと思います。

    以上、負け組になるのは辛いものの、負け組も勝ち組ではないか、そして、勝ち組も負け組になる人たちではないか、という視点でした。皆さんのご意見をお待ちします。
    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
    活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 苦しみをごまかすことと超えること (2008年11月14日)

    今日は、苦しみをごまかすことと、超えることの違いについて、
    自分が思うことを書きたいと思います。

    多くの場合、人は苦しみがあった場合、
    それをごまかす方向で、処理してしまうと思います。

    多くの人が、この競争社会の中で、自分の存在意義などの欲求が、
    満たされないストレスを感じていると思います。

    そして、それを様々な享楽で、一時的にごまかす。
    酒・たばこ・グルメ・ファッション・ギャンブルなどなど。

    また、別のパターンのごまかしもあると思います。

    一部の宗教では、現実にはいまひとつの人たちが、
    その宗教を信じることで、一瞬にして、それを信じない人たちより
    優れた存在(選ばれた存在)になり、それで満足する。

    これは大宗教から、新興宗教、そして、一部の政党にも
    働いているメカニズムだと思います。しかし、実際には、
    それは、妄想でしかない。この一つが、オウムでした。

    これは、ごまかしであると同時に、現実からの逃避だと思います。
    そのつけは、どこかで回ってくる。

    社会全体においても、つけが回ってくる。娯楽による消費主義は、
    地球環境問題を起こし、バブル経済の原因の根底をなしている。

    妄想的な宗教世界は、宗教と社会、及び 宗教と宗教の間の摩擦・闘争、
    宗教テロなどをもたらす。

    では、一体何が、本当の苦しみからの解放の道なのか。

    それは、もちろん、たった一つしかないものではないでしょうし、
    特に言葉で、表現すれば、様々に表現できると思います。

    しかし、私が行き当たった一つの考えは、
    自分の苦しみをごまかして、逃避することではなく、
    この世界では、自分だけではなく、多くの人達が、
    自分と同じ、いやそれ以上の苦しみの中にいるのだ、
    ということを認識することでした。

    そして、思うだけでなく、できるならば、それを取り除くこと。
    これが、仏教で、慈悲と呼ばれることだと思います。

    この延長として、菩薩とは、自分が苦しいときに、
    他の苦しみを思うことが出来る人のことだと思うことを
    前にも日記に書きました。

    自分だけが苦しんでいるかのように錯覚し、
    自分のことばかり考えていると、実際よりも、
    大きな苦しみを感じると思います。

    過剰な不安、被害妄想も生じ、人によっては、
    客観的には希望があるのに、絶望して自殺する人まで。

    一方、大慈悲は、まず、自分の心を落ち着かせ、
    強いものにしてくれます。

    そして、静まった心の状態から生じる智恵によって、
    困難を突破する道が見えてくる。

    仏教が説く智慧と慈悲は一体だと思います。

    私も、様々な社会的な条件の中で、団体を運営し、
    オウム時代の賠償を背負っており、楽ではないのですが、
    これは、自分を真の智恵と慈悲に導く、仏の祝福だ、
    と考え、喜びにするように努めています。

    では、いつもの通り、皆さんのご意見をお待ちします。

    皆さんは、何が、上記のような現代人の苦しみを取り除く道だ、
    とお考えでしょうか?
    皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
    活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。

     

     

  • 極楽・天国とは何か? それはあるのか? (2008年11月03日)

    (2008年10月29日)

    皆さんは、極楽浄土とか、天国といった存在をどうお考えでしょう。

    日本人の多くが生れ変わりやあの世を信じているという世論調査を前回ご紹介しましたが、だとすれば、仏教の説く極楽浄土や、天国といったものもあるのでしょうか?仮に、あるとすれば、そこには、どこにあって、どうしたらいけるのでしょうかか。

    私は、来世やあの世の極楽浄土や天国については、科学的には証明されない事実であることを冷静にわきまえつつも、仏陀・仏典を尊敬する立場から、否定しない立場をとっています。

    しかし、それ以上に重要なこととして、この世に生きている人の心の中に、極楽・天国と地獄があると思うことがあります。

    他人や環境は、見方によって、善いものにも、悪いものにも見える。例えば、悪いことをしている他人も、それを単純に他人ごとと見ず、自分の潜在的な可能性であると見れば、半面教師としての導き手になる。全ての人が、自分の助力者になると思います。

    逆に、自分が不幸であることを他人のせいばかりにしている人は、嫌な人ばかりがいると思い、人生が嫌になったり、引きこもったりして、生き地獄と言えるでしょう。仏典では、孤独な地獄として孤地獄があるとも言われています。

    その意味で、他人や環境自体に、善とか悪とかがあるのではなく、人がそれをどのように解釈するかによって、善し悪しが生じるものだと思います。そのため、良い世界、悪い世界、その究極である極楽・天国と地獄というのは、人の心が作り出すものではないかと思うのです。

    まずは、人の心の中に生まれ、それが外界に投影されるといったらよいでしょうか。

    今、長野の小諸教室にいます。この近くには、以前の日記でも紹介しましたが、極楽浄土の仏で有名な阿弥陀如来が、有名な善光寺に祭られています。あと数日は、小諸にいて、阿弥陀如来やその化身とされる観音菩薩の聖地に行ったりして、来世と現世、浄土・天国と地獄について考えみたいと思います。

    極楽浄土とは、仏典において、阿弥陀如来がすむ浄土の名前です。浄土とは、清浄な国土という意味です。そして、この浄土信仰の中にも、浄土は、人の心の中にあるという考え方と、この世ではなく、西方の方角に、極楽と呼ばれる浄土があり、阿弥陀念仏によって、その世界に生まれ変わるという信仰があります。

    阿弥陀念仏とは、阿弥陀を念じて、心を込めて、阿弥陀の救済を信じ、阿弥陀の名前を唱える(有名な南無阿弥陀仏、なみあみだぶつ)ことです。日本では、鎌倉時代などに、法然・親鸞による浄土宗・浄土真宗によって、爆発的に広まり、今での伝統仏教の宗派としては日本最大と言われます。

    それまでは寺院を寄贈できるような貴族だけに限られていた仏教の救済対象が、庶民にまで大きく広がったことは画期的だったと思われますが、同時に、戦国時代は、一向宗(=浄土真宗)による一向一揆の動きが起こり、織田信長との激突による破局を迎えるなどしました。

    その際は、一向宗の門徒に対して、(戦いから逃げずに)進めば極楽(に転生でき)、退けば地獄(に落ちる)という教えが説かれたとも言われます。これは極楽浄土が来世にあるという考え方の典型だと思います。今生は戦争だが、来世は極楽ということです。

    最近のイスラム過激派の自爆テロでも、若い人が行なうケースが多いそうですが、自爆テロをするならば、来世天国に行けると教えられるそうですが、これも似た考えですね。オウム真理教の世界観も、突き詰めれば、グルに従って、今生は聖戦を行い、来世は高い世界に生まれ変わるということでした。

    そういったこともあって、私は、まずは、今生を生きている自分の心を鍛錬して、心の中に幸福=極楽を生み出すように生きるべきであり、そうしてこそ、来世においても、極楽浄土に生まれ変わると考えるべきだと思うようになりました。すなわち、今生と来世の極楽・地獄を区別せず、今生きている世界に浄土を見る、という考えです。

    皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
    活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。