2008年09月

  • 博愛の人も、エゴの人? ではどうすれば? (2008年09月25日)

    前回は、欲望と博愛・慈愛が同根の側面があるのでは、
    と書きました、

    今回は、このテーマの実際な側面として、
    私達が、博愛・利他の行為をする場合にも、
    動機の中に、自分のためにそれをやっている、
    という意味で、エゴと無縁ではないものがあるのでは、
    というお話です。

    宗教家、政治家、慈善活動家でも、人間はたいていが、
    自分の存在価値を追求して、その道に入りますから、
    利他の実践をすると言っても、その根底には、
    自分が重要な人間になりたいから、
    利他・博愛の人になろうという心の働きがあるのだと
    思います。

    その意味では、利他・博愛の行為も、根底では、
    自分のための行為=ある種のエゴでもある、
    ということになると思います。エゴという言い方が
    きつければ、自己向上欲求でしょうか。

    その意味で、自分が思うには、利他の実践をする場合は、
    自分のエゴを自覚した上で、それが悪さをしないように
    努めるべきであり、さもなければ、独善的な行為に
    陥りかねないと思います(オウム時代の反省です)。

    最近は、誇大妄想を抱く人が多くなっているようで、
    自分が、救世主である、偉人であるという妄想を抱いて、
    実際には、他人に迷惑をかけてしまうケースがあり
    それを誇大自己症候群と心理学では呼んでいるそうです。
    ヒトラーなどは正にそうだったと思います。
    ポイントは、現実・周囲に適用して、本当に他のためになることを
    するか、独善的な世界にはまって迷惑をかけるかということの
    ようです。

    その一方で、自分が、利他の人、善い人になりたい、といった
    タイプのエゴは、それをうまく活用さえすれば、実際に、
    他を利する行為に結びつくエネルギーになりますから、
    あれもこれも皆エゴだといって否定して、何もしない人間
    になろうとするのは、それもまた何らかのエゴであり、
    逆の意味で極端な行為でしょう。

    そのため、善い人間になりたいと思う自分の心には、
    エゴが同居していることを自覚して、なるべく、
    その善い面が出て、悪い面が出ないように努める、
    ということが、バランスの取れた心の持ち方だ、と思います。

    皆さんは、この「善い行いをしよう、善い人になろう」と思う私達の
    心に潜む問題について、これまでの経験を通して、
    どうお考えでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 欲望や怒りと、博愛の本質が同じって信じられますか? (2008年09月24日)

    仏教では煩悩即菩提という思想があります。

    この解釈は色々ありますが、「煩悩」、すなわち、性欲や怒りといったものと、「菩提(ぼだい)」すなわち、仏陀の悟りの心=慈悲・博愛は、全く別のものではなく、本質的には互いにつながっている、といった程の意味です。皆さん、これを信じられますか?

    釈迦牟尼は、煩悩による苦しみを経験して、ダルマ(仏法)に対する信を持つようになり、解脱・悟りに至ると説きました。だから、仏陀の悟りも、その根本原因は、煩悩である、ということです。仏教的な用語では、菩提心も、煩悩を縁として生じる(縁起する)と言います。

    これは、基本的な解釈ですが、実はそれだけではありません。私も、ヨーガ・仏教の実践をした結果初めて知ったことなのですが、人が経験する、性欲などの欲望や他に対する怒りも、全ての存在を愛そうする慈悲・博愛の心は、本質的には同じ「エネルギー」であるという側面があるのです。

    エネルギーとは、最近のスピリチュアルブームで言えば、「気」といわれる目に見えないエネルギーの流れと言っても良いです。そのエネルギーの流れが、体の中をスムーズに流れ、特に、特にヨーガ・仏教で重要とされる三本の主要なルートのエネルギーの流れが整っていると、慈悲の心が生じます。

    その一方で、それがどこかで滞っていると欲望が生じます。例えば、性器の部分で滞っていると性欲が生じるとか、おなかで滞っている食欲が生じるとか。怒りが生じる場合も、その怒りの種類の応じて、どこかで引っかかります。

    そして、ここがポイントなのですが、仏教・ヨーガの教えの深い理解や、精神集中力があると、自分の意思で、そのエネルギーと滞りを解消して、欲望を慈悲のエネルギーに変えることができるのです。その場合、悶々とした性欲が、博愛のエネルギーに昇華されてしまいます。この経験に基づいて、私は、確かに、煩悩即菩提だな、と思うようになりました。

    もちろん、これは、容易ではなく、いつでもどこでも簡単にできれば、その人は、神様・仏様になってしまいますから、それはありえません。そして、前提として、ヨーガが説くクンダリニーの目覚め、仏教が説く管・風・心滴のヨーガが必要になります。

    しかし、こういった体験をいくらかでもすることで、どんな悪人のどんな邪悪な心も、本質的には、聖人の博愛の心と全く別のものではないのだ、という価値観が形成され、人間の見方を柔らかいものにかえていくために役立っています。

    仏教でも、これに類する教えがあり、それは、大煩悩大解脱というものです。大きな煩悩を持っている人が、解脱すると大きな解脱をするということですが、これは、エネルギーが大きいから、煩悩も解脱も大きくなると解釈できます。

    また、仏教の有名な守護神である聖歓喜天は、かつては大きな悪業を積んでいたが、観音菩薩に教化された後は、大きな善業を積むようになったとされ、こうして、大悪人が大善人になった理由は、そのエネルギーが強かったから、悪いことも良いことも、大きかった、と説かれているそうです。

    心理学的にも、ヒトラーのような、誇大妄想の人間が、その狂気によって多くの人に迷惑をかけるケースがある一方で、誇大妄想は、偉大な存在になろうとする強いエネルギーの現われである側面があり、妄想に陥らず、うまく現実に適用出来れば、本当に偉人になる可能性があると言われています。

    例えば、ヒトラーと闘ったイギリスの英雄であるチャーチル首相は、子供の時、自分は空を飛べるはずだ、と考えて、実際に高いところから飛び降りて、失敗したということがあったそうです。ヒトラーとチャーチルは、元々は、妄想的なまでに、自分が偉大だ、という意識・願望があったところ、チャーチルは、成長過程で、現実に適用できたということでしょう。

    こうすると、この世の中に、絶対の善人と絶対の悪人はおらず、条件が変われば、悪人が善人になる可能性がある、善人も悪人になる、という柔らかな人間観が、単なる観念ではなく、具体的な根拠を持って、成立します。

    そして、これは、例えば、他人に対する怒りを和らげる効果があると思いますし、その発展的な実践として、自分の他人への怒りの想念を瞑想によって、愛に昇華する境地があります。

    ともかく、人間観として、この世には、善人と悪人の別々の存在であり、大雑把には2種類の人間がいるのか、善人と悪人は、条件によって生じる流動的なものなのか、どちらの見方もあると思いますが、皆さんは、どう考えられているでしょうか。

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  • 大自然こそが仏ではないか (2008年09月21日)


    9/13掲載の日記で、読者の方からコメントをいただいたことから、仏としての大自然について、皆さんにお話したくなりました。

    大自然が仏である、というのは、日本の大乗仏教の教義であり、聖地での自然の中での学習が特長である「ひかりの輪」でも、重視している教えです。

    ご指摘の通り、生きていくために必要以上の物を貪り、地球環境を脅かしている人類に比べて、草・木・山・川・石などの自然は、まったく足るを知っています。

    自分が他に優位になろうとなどせず、他と調和して自分の領分を守り、かつ、その中で多くの生き物を育んでいます。

    その意味では、人よりも仏に違い、欲望の超越と慈悲があるという見方もできます。そして、その大自然の中で、人も生まれて、育まれています。

    普段、われわれ人間は、自分たちが地球の王様であるかのような錯覚をして、大自然を見下し、破壊・開発・消費の対象としていますが、見方によっては、それが仏に見える。

    これは、自然を開発してきた西洋文明ではなく、自然との調和を重んじる日本文化の生んだ素晴らしい伝統だと思います。そして、地球環境問題が深刻化する21世紀において、その価値は大いに見直されるべきだと思います。

    私の瞑想体験では、大自然を仏とみて、人間に乏しいその優れた性質から学ぼうとするとき、自分が、(大自然への愛・感謝を取り戻し)大自然に再融合したという感覚を得ることがあります。

    そして、自分は、実際は大自然の支配者などではなく、大自然の一部であって、自分の母なる大自然から生まれてきて、母なる大自然に戻る存在である、と感じます。

    最近の歌で言えば、「千の風になって」、という歌もありました。

    そして、その時は、大自然側こそが、自分の本体で、自分が「私」と呼んでいるものは、それに属する存在と言った感覚がありました。

    人とは、水の中の生まれては消える泡のように、母なる大自然の中に生まれては消えていく一瞬の何か。

    これが、人間の世界の自己中心的な世界観ではなく、大自然の中の人間というものをありのままに見た姿ではないか、と思います。


    そして、仏教では、仏陀は三宝と言われ、宝とされていますが、自分は、大自然こそが、最高の宝だと感じます。

    例えば、早朝に地平線から光り輝く太陽(ご来光)や、透明な夜空にきらめく星々よりも素晴らしいダイヤモンドなどあるでしょうか。

    なによりも、この大自然・大地球・大宇宙よりも素晴らしいマイホームなどあるものでしょうか。

    大自然は、誰彼のものではなく、すべての人が共有している最高のもの。最高のものであるから、それが神・仏であって、最高のものは、皆のもの。

    いや、皆のものというより、皆自体が、その最高のものの一部であり、だから、皆が仏の一部、仏の子。なんと素晴らしいことか。

    そういった感覚の中では、自分だけの財物や名誉を求める、ちんけな欲望が消え去っていきます。

    こういった感覚は、仏教の教学をしつつ、聖地とか自然の美しい場所で体験しました。今度、機会があれば、ご紹介したいものです。


    ※参考

    大乗仏教には、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは、一切の衆生はことごく仏性(=仏陀になる可能性)を有しているという意味です。同じように、一切衆生悉皆成仏は、一切の衆生はことごとく皆仏陀に成る、ということ。

    そして、日本の大乗仏教ですが、単に衆生=生き物だけではなく、無生物を含めた大自然全体に、仏性を拡大しました。自然との調和を重視する日本らしい思想ですが、「山川草木悉有仏性」とか、「草木国土悉皆成仏」などと言います。大自然を仏としています。

     

  • やめられない罪 (2008年09月15日)

    ある女性からこういった相談を受けたことがあります。
    「10年以上の間、不倫を続けて、どうしてもやめられず、
    そのやめられない自分をずっと責め続けて、
    相当に苦しんできましたが、最近になって、
    やめられない自分を受け入れることに
    決めたのですが、これで良いと思いますか」
    というものです。

    そして、最後に付け加えられていたことは、
    「良いと言って欲しくて、相談しているのだと
    思います」ということでした。

    こういった相談について、普通、単純に言えば、
    あきらめずに、今後とも、
    やめられるように努力し続けなさいとか、
    相手の奥さんのことを考えてみなさい、
    といった答えが出てくると思います。

    ましてや、仏教を学ぶ者として、
    不倫は不邪淫戒に反する悪業と
    されています。

    しかし、今の時代、人の心の状態は、
    相当、複雑に病んでいる面があると
    思います。
    悪いことと知りながら、それがやめられない、
    そういった精神状態もあるかもしれません。

    このテーマに関連するかどうかは別にして、
    浄土真宗開祖の親鸞は、20年もの間、
    比叡山で修行したが、煩悩を振り切ること出来ず、
    ある意味で挫折して、
    性欲を超えられないので、観音様が現れて、
    自分が女性に変身して現れるから、
    その女性と結婚するようにと言われて、
    妻帯したという話も聞いたことがあります。

    こうしたエリートとは言えない修行者だった
    親鸞は、悪人正機という教えを説きました。
    解釈は色々ありますが、
    阿弥陀の慈悲はすべての衆生に及ぶから、
    善人は当然のこと、悪人をも救われる、
    といったような教えです。

    この相談について、皆さんどう思われるでしょう。
    また、皆さんならどう答えられるでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
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  • 楽しみと苦しみは別のものか、つながったものか? (2008年09月14日)


    よく苦しいことがあるから、楽しいこともあると言います。

    これを宗教の教義としたのが釈迦牟尼だと思います。

    しかし、釈迦牟尼が説いたことは、一般の人が、
    それを言うときのものとは違って、もっと徹底していて、
    楽しみと苦しみはセットであり、別々のものではない、
    という思想でした。

    例えば、20万という給料があるとして、
    それをもらう人が、
    これまでは10万の給料で苦労していれば、
    20万という給料は喜びであり、
    これまでは30万の給料で楽していれば、
    20万という給料は苦しみとなる、
    といった具合です。

    これは苦楽表裏(苦と楽は裏表)とも言われますし、
    これまでに日記に書いた縁起の法の
    意味の一つでもあります。

    よく、私達は、大変なときに、「四苦八苦」といいますが、
    実は、これは、人間の苦しみを分類して説明した仏教の用語で、
    四苦は、生・老・病・死の四つの苦のことであり、
    八苦は、これにもう四つが加わったもので、それは、

    1 求めても得られない苦しみ、
    2 愛著したものと別れる(を失う)苦しみ、
    3 嫌なものに会う(を経験する)苦しみ、
    4 一切の作られたもの苦しみである(この部分は諸説あり)、
    というものです。

    これを噛み砕いて、自分なりに説明すると、
    誕生日おめでとうと生まれたことを喜ぶが、
    出産するのは苦しいし、生きる喜びは、
    老いて病んで死ぬという苦しみと不可分であり、

    さらに、
    何かを求めて得ることは楽しいが、
    得られなければ苦しいし、
    得てしまうと愛著・執着するから、
    失ってしまう苦しみが生じるし、

    また、好きなものを追求すれば、
    その反対の嫌いものも生じてくるし、
    こうして、一切のものについて、
    苦しみを伴わない楽しみはない、
    ということになると思います。

    このように、仏陀の思想には、
    楽しみと苦しみは別々のものではない、
    という考え方があるようです。

    もし、楽しみと苦しみがセットなら、
    普通、私達が、ひたすらに、
    苦しみを避け、楽しみを求めることに、
    どういった意味があるのか?

    苦しみと楽しみという視点からは、
    人は何を求めて生きるべきか?

    そして、そもそも、皆さんは、
    楽しみと苦しみは別々のものだと
    おもわれますか、それとも、
    それは連動した、
    表と裏だと思われますか?

    仏陀は、
    通常の苦楽を完全に表裏と考え、
    真の幸福(真楽)は別にあるとし、、
    それを涅槃と呼んだと、
    私は解釈していますが。

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  • 自分を少し離れたところから見る (2008年09月13日)

    mixiの日記より)

    同じ物に対して、それぞれの人が、
    違った認識を持つ。ということや、
    人間の五感や意識といったものが、
    必ずしも、真実をありのままに伝えない、
    といったことをお話ししてきました。

    こういった考える延長上に、
    仏教の四念処といった瞑想があるのですが、
    今日、私が話したひかりの輪の会員さんですが、

    「こうした瞑想をしていくと、
    今まで自分が「自分」と思っていたたものから、
    一歩距離をおいたような意識が出てきて、
    自分と他人を平等に見ることができる感じがした」

    という感想を伝えてきました。

    私もその感覚がわかるので、興味深く感じました。

    これは、特別な変成意識の体験ではなく、
    精神的な体験であり、心境です。

    もしかすると、皆さんの中にも、
    こうした、自分自身から、
    一歩離れた感じの意識を
    体験されたことがある方が
    いらっしゃるのでは、
    と思い、書いてみました。


    ※参考:四念処の瞑想

    この中には、「受は苦なり」という瞑想があって、
    「受」=人間の五感や日常の意識は、
    人を真実の世界のあり方を正しく認識させない故に、
    苦しみをもたらす、という意味合いがあります。

    この訓練は、自分の心に生じる外界の近くに、
    一歩距離を置いて、冷静に見るという効果が
    あると思います。

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  • 昨日と今日の「私」は、真に同一の存在なのか? (2008年09月11日)


    mixiの日記より)

    私たちは、昨日の私と今日の自分が同一のものである、と考えています。

    しかし、科学的には、そう思いこんでいるだけだという見解もあるようです。
    たとえば、記憶については、記憶が貯蔵される脳内の分子は
    見つかっていないそうです。
    それどころか、脳を含めた体の細胞の分子は、頻繁に入れ替わっており、
    どこかの分子に貯蔵されたら、それが外に出て行ってしまう。

    そして、実際、記憶自体が全く正確に維持されるかというと、
    10年前のことと、今思い出す場合と、5年前に思い出す場合とでは、
    厳密に言えば、内容がちがってくることを考えると、
    記憶自体も少しずつ変質していると考えるのも合理的です。

    同じ分子がずっと脳内に存在せず、絶えず入れ替わっているので、
    分子と分子の繋がり方に、記憶が保存されるメカニズムがある、
    という見解もあるようです。この場合、厳密に言えば、
    つながり方が保存されると行っても、つながる分子自体は
    新しいものに入れ替わっていくため、保存のされ方は、
    大まかであり、分子の入れ替えの影響で、微妙に変化していく、
    とも考えられます。

    こうしてみると、昨日の私と今日の私の間で、
    これが全く同じだというものは何一つない、
    という不思議な事実が浮かび上がってくるように思います。
    体も、心も、記憶も、全てが、厳密に言えば、一瞬一瞬
    変化し続けている。

    だからこそ、人は、過去の自分の状態を文字として記録したりする。
    約束したときに、契約書を作る(作る必要がある)のも、
    これが原因ですね。

    そのため、仏教では、単純に「心」という言い方をせずに、
    絶えず変化し続けている心を、無数の心が連続していると見なして、
    心(意識)の連続体という表現を使います。

    こういった「私」とか、「私の心」に対する見方は、
    「私」というものを一つの固定的なものを見ることで、
    「私」に対する執着が強くなりすぎて、
    それが、人の最大の苦しみの原因である、
    という仏陀の思想に通じるものです。

    皆さんは、この自己同一性というものについて、
    そして、それがもたらす幸福と不幸についてl
    どう考えられるでしょうか?

    メールでのご意見お待ちしています。
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  • 何が「私」か?、どこからどこまでが「私」か? (2008年09月10日)


    最近、分子生物学者の本を読んだのですが、
    私達は、日常で、「私」というものを「他人」というものから、
    強く区別して、いろいろな争いがある、と思うのですが、
    科学の目から見ると、それは、あまり合理的なことでは
    ないようです。

    というのは、人の細胞を構成する分子は、一年ほどで、
    全部、食べ物などで取り入れたものに入れ替わってしまい、
    分子レベルでは、自分と他人の区別がないそうなのです。
    つまり、自分だけの分子とか、他人だけの分子とかはなく、
    この地球環境の中を壮大なレベルで循環している分子が、
    ある時は、Aさんに、ある時は、Bさんに、ある時は、
    他の生き物に、そして、無生物になる。

    その分子生物学者によると、「私」というのは、
    その壮大な分子の循環の中で、地球の長い歴史から見ると、
    ほんの一瞬寄り集まったものが、生じさせている
    一種の効果である、としています。
    一瞬寄り集まっていると言っても、その数十年間の間、
    絶えず、その中身の分子は入れ替わり、
    そして、一瞬一瞬、厳密に見ると、姿形大きさが、
    変わっている。

    そういった意味では、様々な生き物は、厳密には、
    互いに独立して生きているのではなく、
    人間の中の各細胞のように、各々は確かに生きているが、
    一人で生きているのではなく、相互に依存し合って生きている。
    その意味で、地球生命圏という巨大な生命体があり、
    その中の細胞として、それぞれの生き物が存在している、
    という解釈が成り立つのではないか、と思います。

    爪も髪も、切る前は自分の物で、切った後は自分の物ではなくなる。
    体内の酸素・窒素も、体内に有れば生き物の一部となり、
    外に出れば無生物となる。どこまでが自分で、どこからが、
    自分ではないか、明確な境界がない。

    だとすれば、私達が日常生活で意識している、
    他人や外界とは別の「私」という存在は、実際にあるというよりも、
    人間の脳の中で、「私」という言葉などによって作られている、
    一種の観念・概念ではないか、とも考えられます。

    これが、仏陀の説いた無我という思想だと思いますが、
    現代の科学によって、それがより具体的になってきたように、
    私には思えます。

    みなさんは、私たちの最大の関心の対象である、
    この「私」とは、いったい何だと思いますか?

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    ※上記の分子生物学者とは、福島伸一(青山学院大学教授)など。

  • 私たちは何を愛しているのか? (2008年09月08日)

      今、仏教の縁起の法について研究しています。

    その中でも、出てくる興味深い世界観が、
    私たちは、この世の中で、
    食べ物にしても、異性にしても
    いろいろなものを好きになったり、
    または、嫌いになったりするのですが、
    それは、私たちの外側にあるものを
    直接好きになったり嫌いになったりしているのではなく、
    それらのものについて、自分の脳が感じているもの、
    つまり、自分の脳の感じ方を
    好きになったり、嫌いになったりしているだけ
    という事実です。

    だから、同じ対象を見たり、感じたりしても、
    人によって、まったく好き嫌いが違ってくる。
    こうして、自分たちの外にある対象自体には、
    善し悪しの実体はなく、
    それを見る自分の内側の要素いかんによって、
    善し悪しが現れる。
    その意味で、世界は、現実は、
    人の数だけ、脳の数だけ存在する
    ということもできる。

    これが、仏陀が説いた、縁起の法や、
    大乗仏教の空の思想の
    少なくとも一部だと、自分は解釈しています。

    でも、私たちは、日常生活で、自分たちが感じていることが、
    外側に実際に存在していると、思い込んでいることが多い。
    単に、自分の脳の感じ方にすぎないとは思わない。

    しかし、その結果として、場合によっては、
    非常に強い好き嫌いが起こり、
    さまざまな争い、戦争までも起こる。

    こうして、人間が存在していると感じているものが、
    実際に存在しているものとは違っている。
    これが、苦しみの根本原因だと、仏教は説く。

    皆さんは、この考え方、思想について、
    どう思われるでしょう?

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