2010年までの日記

幸福の手段(方便)としての信仰5
(2010年10月01日)

(2010年10月01日の日記)

幸福の手段(方便)としての信仰5
盲信の原因である虚栄心と依存心を超える


これまで、信仰実践において、自分が信じていることと、知っていること(=誰もが認める客観的なな事実)をしっかりと区別して、単に信じていることについては、絶対真理とはせずに、自他の幸福のためになるように、それを手段として使うことについて書いてきました。

しかし、これに対して、そのように考えると、自分の都合の良いように、信仰を解釈してしまい、自分のエゴを弱めることが出来ないのではないか、という反論を頂いたことがあります。逆に言えば、自分が信じる宗教(の教義)を絶対真理として、それに出来るだけ従うことで、自分の欲望を縛る、自分のエゴを抑制する効果があるのではないか、というものです。

しかし、私の考えでは、そういった一面は確かにありますが、それとは正反対に、自分の信仰を絶対視する結果として、信者自身が気づかないうちに、大きなエゴが生じていく問題があることに気づかなければならないと思います。

これについてのお話しを進めると、だいぶ長くなってしまいますが、このテーマにご関心があれば、今回は、長いのを多少辛抱して読んでいただけばと思います。

まず、万人が認めるものではない教義を自分達だけが絶対真理と信じる場合、自分達が、信じていない人よりも優れているために、他の人が信じることができないものを、自分達は信じることができるのだ、という心理が働くことが非常に多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴということができます。

そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとは言えないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、既に慢心・虚栄心が生じている恐れがある訳です。しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。

何かを絶対真理と信じる際は、それが実際には絶対真理ではないことを自覚しつつ、絶対真理であると思い込むのは不可能です。真実として絶対真理であると考えなければ、そうは信じられません。よって、信じる際には、信じていない人達が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できたという思考パターンになることが非常に多いと思います。

しかし、客観的には、万人が信じない理由は、信じる人達が信じない人達より優れているからではなく、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。世界最大の宗教のキリスト教が人類全体を信者に出来なかったのも、その信仰の中核にあるイエスの復活が、誰もが認める客観的・科学的な事実とは言えないからでしょう。

よって、信じている自分達は、信じていない人達より優れているという思考は、虚栄心・慢心だと思いますが、それによって、次に、信じていない人への見下し・軽蔑が生じます。さらに、信じていない人が、信じている自分達の盲信を批判したり、別の宗教を絶対真理だと信じている人達がいると、彼らを(自分達の信じる)神・開祖と矛盾・敵対する存在、いわゆる、悪魔・魔神と見なす思考にも繋がります。

ここで、更に良く考えると、「自分達が信じているものは絶対真理」と考えることは、究極的には、「自分達が絶対真理である」という心理が働き始める恐れがあります。こうして、信者は、その宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していく恐れがあるのです。

私の過去の経験からしても、自分が重要な存在になりたいとか、他より優れた存在になりたいという欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、さらに勝ち組になりたいという欲求があり、負け組は、挽回したいという欲求があるからです。

なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求(自分が重要な存在、優れた存在になりたい)は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。

しかし、妄信的な宗教の場合は、自分達の宗教を絶対視するという非現実的な独善的な妄想的な形で満たそうとすることで、様々な問題が起こるのだと思います。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、妄信的な宗教にはまる可能性が高くなると思います。

例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、(自己の虚栄心を満たすためにも)過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、その妄想の世界に陥る恐れがあると思います。こういったタイプの人は、盲信の危険性があります。

しかし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。
漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。 競争主義・個人主義・金銭主義で精神的な潤いを失った人達が、現実の世界だけでは充足出来ないのだと思います。

そして、その苦しみに対する、歪んだ形ではあるけれども、癒し一つの形態として、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっており、妄信的な宗教を禁じれば、同じ問題が別の形を取って出てくる可能性がありますし、現実としてなくすことは不可能でしょう。

やはり、表面的な解決ではなく、根本的な解決が必要だと思います。その一つとして、私個人としては、妄信的な宗教から、ひかりの輪の団体を持って、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択したことになりますが。

また、先ほどエリートも、妄信的な宗教にはまると言いましたが、宗教に限らず、例えば、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったのではないかと思います。客観的には、誰が見ても、非常に危ないことをしているのに、自分(だけ)は勝つ、成功する、損しない、間違っていない、といった妄想的な慢心です。

堀氏、村上氏、木村氏、リーマンブラザーズを初めとする国内外の名だたる金融のエリート集団。そして、最近は、証拠を改善する検事など。宗教に限らず、競争社会の中での妄想的な慢心の問題を感じます(なお、80年だから90年代のオウム真理教の隆盛と没落は、ちょうど日本のバブルの形成と没落と同じ時期でした)。

そして、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。

これらの問題を回避するためには、努めて自分の虚栄心を自覚して、自分の信仰・宗教を絶対視せずに、それを幸福のための手段として活かしていく姿勢が重要だと思います。そして、その具体的な実践については、前回までに多少なりとも述べました。


さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。

これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。

この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智恵がない。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するウブ・無智と同じことであり、先生という存在に対するウブ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合と言ってもいいでしょう。

一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信が無く、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向=楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。

こういった欲求がある場合は、自分が巡り会った宗教が、絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は(他の人が得られないほどに)幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。

本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。

それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要ななくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生(=教祖)の言うとおりに勉強する生徒(信者)の努力であって、社会に出て自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。

そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。

しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。

この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人達を強く見下す傲慢となって現れます。

しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。

人という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人では出来ない存在ですから、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は生きていく、成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。

特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合がありますが、これは、傲慢な性格で盲信した後に、同じ傲慢な性格で、全く学ばないという両極端に振れている恐れがあると思います。

よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的に言えば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。全てが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意を持って学ぶ。

こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。急がば回れということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。

こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理ではないかと思います。仏教的に言えば、利他を初めとする善行を積む労苦があって幸福になり、エゴの甘い誘惑に負けて、悪行に堕していれば、不幸になるということだと思います。ローマは1日にして成らず。真の幸福を得たり、真理を探究するためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。

なお、その宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も今の時代には合わないかもしれません。

日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。

こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、そもそもが、人は、他から十分に学びつつも、自分や自分達の時代に最善なものを自分で見つける覚悟が必要だと思います。これが、古きを温めて新しきを知れという言葉だと思います。

最後に繰り返しとなりますが、妄信的な宗教に陥る原因となる依存心や虚栄心をよく自覚して、それを乗り越えて、真の努力を一生続けていく覚悟をすることが、自分の真の幸福のための手段として、信仰・宗教といったものを活かす道だと思います。


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