2010年までの日記

幸福の手段(方便)としての信仰4
(2010年10月01日)

 

(2010年10月01日の日記) 

 


幸福の手段としての信仰4
釈迦牟尼という特徴的な宗教家


日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物(本名ゴータマ・シッダールタ)は、自分の最も好きな宗教家の一人だと思います。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。

そして、最近、従来の宗教を超えた、21世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ21世紀のための新しい宗教の在り方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。

1自灯明・法灯明
釈迦牟尼は、信者に自分(=釈迦牟尼)を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明とも言われる。これは、ひかりの輪の「人を神(=絶対)としない」という原則に一致する。

2方便自在・対機説法・択法覚支
釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた(対機説法)。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた(択法覚支)。様々な法則を方便(=手段)として自在に操った(方便自在)。これは、宗教(の教義)を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。

3無記と現世指向
釈迦牟尼は、他の宗教家が、あの世の存在の有無など、決着のつかない議論を持ちかけると、どちらとも決めない(無記)という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを(法の実践で)取り除くことを強調した(現世指向)。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越(合理性の重視)と通じる。

これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。

釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、彼が生まれる以前からインドに浸透していた輪廻転生の世界観を説いているものの、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解もあるようです。釈迦牟尼の様々な前生を説く輪廻転生談(ジャータカ)も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。

また、釈迦牟尼(そして仏教)は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、よく考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。

それに替えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ(法)」を強調しました。よって、仏教は初めはダルマ信仰であって、ブッダ(仏陀)信仰ではなかったと言われています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたりしたのは、後世のことである(大乗仏教の経典においてである)と言われています。

このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は、縁起の法や無我の法を説きました。

この縁起の法とは、事物が条件によって(他に依存して)生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることを言います。また、無我の法とは、永久不変の自分(ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの)は、存在しないという教えです。

これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それにならって、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。

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