2010年までの日記

幸福の手段(方便)としての信仰1
(2010年10月01日)

(2010年09月30日の日記)

幸福の手段(方便)としての信仰1
信じることと知っていることの違い


従来の宗教のもたらす問題を超えて、21世紀に新しい宗教の在り方を創造する上で、まず、考えるべきことが、信じていることと知っていることの違いだと思います。言い換えれば、信じるということは、どういう意味を持つのか、ということです。

多くの宗教の信者は、その教祖か、ご本尊か何かを信じますが、この信じるということは、知っているということと対比させると、その性質の違いがよく分かると思います。

知っているという場合は、大雑把に言えば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるもので、信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、言わば、その人が、正しいと思っている、ということだと思います。

もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠がある訳ではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。 そして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思う訳ですから、これには、自分でも気づかない何らかの理由で、正しいと思いたい、という個人の好き嫌いの感情が入っているという推測が成り立ちます。

しかしながら、多くの宗教の信者は、信じる=正しいと思いたいことを、知っている=正しいことと混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分達の信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。

しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること=正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明かではないかと思います。

では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのか、というと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段(=方便)として使う場合だと思います。

例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生れ変わりを信じることで、今生悪いことをしても、見つからなければいいと考えを押さえ込み、来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしようと考えることは、輪廻転生思想を自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。

しかし、生れ変わりを信じる人が、生れ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるからよい(高い世界に生まれ変わらせればいい)と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者は、その功徳で天界に転生できると考える原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化出来ないでしょう。

一方、信仰者の方からは、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたい」に過ぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるため、信じることによるメリットも無くなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生れ変わりの場合は、生れ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。

しかし、生れ変わりについては、確かに生れ変わりは、誰もが認める客観的な事実=科学的に完全に証明されたものではありませんが、依然として、科学者の研究や古来の聖者の見解など、その存在を示唆するいくらかの事実はあるわけです。すなわち、生れ変わりがあるとは断定できないが、逆に、生れ変わりがある可能性は否定できないわけです。

こうして生れ変わりがある可能性とない可能性があるならば、生れ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら、今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、同時に、生れ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為を正当化しないことが出来ると思います。

そもそも、信じることの対象は、例えば、神を信じると言うように、それがあるともないとも(正しいとも正しくないとも)断定できないものです。すなわち、存在する(正しい)可能性と、存在しない(正しくない)可能性の双方があります。

この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する(正しい)可能性を使い(すなわち信じ)、信じることが悪い場合には、それが存在しない(正しくない)可能性を使うことはできる、と思います。

さて、次回の日記では、この点をより深めて、自分の信仰に逆支配されないこと、すなわち、真の信仰の自由を得ることについて、お話ししたいと思います。

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