2010年までの日記

寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵5
(2010年08月05日)

さて、今回は、宗教と科学の接点を探りたいと思います。まず、前回、人と人の違いは優劣ではなく、お互いを助け合う上での役割の違いであり、役割分担と考えて、卑屈・寂しさを乗り越える、というお話をしました。そして、それが、人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。

そして、今回は、その人の体の中の各細胞の助け合いと神様の存在のお話です。前にも述べたように、人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合60兆もの細胞を持っています。その中には、頭、手、足、各臓器、神経、血管など、様々な細胞があります。

そして、筑波大学の村上教授という人が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、DNA情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。

DNAには、人体の全ての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な(奇跡的な)ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシングレート(何か偉大なもの)」と呼んでいます。

「サムシンググレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、まさに神仏を指しています。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。

例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏(無量の寿命の仏という意味)であり、この宇宙が無数の生命を育む力を仏の力、仏の法力と見なす思想の結果です。

さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、余りに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、10の300乗分の1ほどしかないとも主張します。

ここでは、偶然に発生する確率が余りに小さい事柄が発生した場合は、それは偶然ではなく、必然的に発生した=誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だという考えがあります。これは統計科学での考え方だと思います。例えば、貴方が、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが誰かによって意思され、作られたものではなくて、単なる偶然の現象だとは考えないでしょうか。

仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から(故障で)水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で(再び地震?)、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で(火事?)温められ、その後、何かの原因で(また地震?)、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後は全てがきれいに元に戻った、ということになります。これは、余りに無理があることはお分かりでしょう。

そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあるります。

また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授(インフレーション理論の提唱者)が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界の全ての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずには居れない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。

これらの科学者の見解をどのように解釈するかは皆さんにお任せしたいと思います。

しかし、「自分はだめだ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつはだめだ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考える場合には、自分や他人という存在、生命存在が、それ自体が、全く奇跡的なものであって、人智を超えた、神仏の御業ではないか、という視点は、とても重要ではないでしょうか。

特に、自分はだめだ、あいつはだめだ、という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で、自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば(人格を磨く努力も無しに)、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。

しかし、私は、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私達が毎日毎日、目にしている、人間を含めた全ての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いや既に共有している奇跡に他なりません。

そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を自殺などで破壊したり、自己中心的な願望をかなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいに騙されることもないと思います。

ただし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。

そして、それを取り戻すとすれば、やはり、人と人の違いは、優劣ではなく、個性であり、互いを助け合う役割分担であるという考え方や、自分の欠点・失敗・苦しみの裏に、長所・成功の元・幸福があると考える訓練ををすることが望ましいと思います。

さらに、人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世の全てを現す神仏が、1人1人に与えた、かけがえのない個性・役割・天命であるという考え方まで持てればと思います。一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられた個性・役割であり、他と比較する必要のないものです。

そして、興味深いことに、これは、先ほど述べた「サムシンググレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。

さて、こういった思想を表現したのが、この宇宙の森羅万象は、仏の平等な現われ、という大乗仏教の教えだと思います。そして、私は、この思想を、非常に素晴らしいものだと感じています。美しい、と表現したらよいかもしれません。

大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端の行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人達がいるのでしょう。

現代の合理的な知性の究極と、古代の直感的な知性の究極は、共通して、私達の常識を越えて、生命を含めた宇宙の万物の存在に、人智を超えた神秘を感じ取っているように思います。

最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕に出来ることではないと思います。しかし、それをなるべく育んでいく、日々のコツコツとした努力は、直ぐにではなく、徐々にではありますが、しかし、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。

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