2010年までの日記

寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵3
(2010年08月05日)

前回までに、短所と長所は裏表であるということをお話ししました。よって、人は誰も、他人と比べて、優れていたり、劣っていたりはしません。すべての人が、何かに優れ、何かに劣っているのです。

これは、人と人の間には、確かに違いはあるが、その違いは「個性」であって、優劣ではない、という意味を持ちます。そして、更に重要なことは、その個性の違いは、単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。

例えば、前回の例のように、様々な物事において、それを他の人より先に実現できる能力がある人と、様々な障害のために、遅れて実現する人がいます。この場合、後者は、その人と同じように、その実現に障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。そして、前者は、皆の見本・モデル・先駆者となるという役割があると解釈できます。

そして、この両者は互いに助け合っています。前者は見本・モデル・先駆者として、その物事に道筋を作って、後者を助けます。しかし、後者があってこそ、その道筋は、多くの人が進める太い道となり、この世界で、現実に有意義なものとして、確立します。

この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、2500年ほど前に既に悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それから遙かに遅れて56億7千万年後に悟るとされています。

しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼より遙かに多くの人達を、悟りに導くと言われています(経典の表現では約270億の人だから、全地球の人口か)。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩を初めとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが、真に全ての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。

よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀とも言われます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。

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こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いである、という考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。

成人した人間には約60兆もの細胞があると言われていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、様々な細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。

そもそも、この60兆の細胞は、皆が一つの細胞(父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵)から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。

そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体と小宇宙とみて、大宇宙と相似形と考える思想があります。良く考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグ・バンから。

そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることは出来ません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に、支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。

また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9%という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることが分かります。

では、次回は、この点をもう少し深めてみたいと思います。これは非常に興味深いテーマです。なぜなら、そこに、神とか、仏とされるものが、宗教と科学が融合した形で、かいま見えてくるからです。


※参考 事物が相互に依存していること(縁起の法)

万物が相互に依存してあって存在するというのは、仏教の根本教理であり、縁起の法(えんぎのほう)と言います。これは、一般には、縁起が良い、縁起が悪いなどと言いますが、この言葉の本来の意味は、縁が条件、起が生起するという意味であり、(あらゆる)事物は、そのものだけでは生起せず、何かの条件を得て生起しており、言い換えれば、相互に依存し合って生起する、という意味です。

 

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