2010年までの日記

万物は仏:自分を愛せない人のために
(2010年06月18日)


(2010年06月18日の日記)
今日は、万物は仏(の現われ)という大乗仏教の教えについてお話ししたいと思います。

この教えに最初に私が巡り会ったときは、何を言っているか全く分かりませんでした。例えば、経典には、仏陀の悟りの境地に至れば、この世界が、仏の浄土(仏の集まる世界)に感じられ、全ての人は、仏に感じられる、などと説かれています。

その後、聖地の巡礼を含め、色々なところで学び、よくよく自分の中で考える中で、ようやく、確かに、現代社会の固定的な観念を超えて、純粋に論理的な思考をするならば、すべての人は仏であると考えることができると、確信するようになりました。

しかし、最近は、自分を愛せない人が非常に多いと思います。たびたび受ける相談でも、「自分は生まれてきて良かったのでしょうか?」とか、「自分は生きている意味があるのでしょうか?」とか、「自分が好きになれない」、「自分が嫌い」といった悩みを多く聞きます。

この原因は、端的に言えば、現代社会で一般化してしまっている自分と他人の比較優劣にとらわれていたり、その比較の土台となる画一的な価値観の影響を受けているからだと思います。そのような固定観念を振り払って、純粋なまなざしで、すべての人を見ると、自分を含めて、一人残らず、尊い存在と考えるための突破口になるのですが。

ただ、この点を詳しくお話しする前に、まず、よく言われる「自分を愛せない」という言葉の意味を正確に理解しておきたいと思います。

私が思うに、こういった人は、本質的には、自分自身に人一倍執着しているものの、現実の今までの自分が、自分の満足できるものではなく、そのために、「自分が嫌い」「好きになれない」と言います。そもそもが自分自身への執着がなければ、自分がどんなであろうと、全く気にならないわけですから、悩むこと自体がありません。

そこで、「自分を愛せない」といった言葉は、「自分が幸福になるために、今のありのままの自分を活かすことが出来ない」というように言い換えることができると思います。

これに対して、大乗仏教の教えは、いかに、神仏に与えられた個々の生命・人生を、他と比較して否定することなく、世界に唯一の個性として活かすことが出来るか、大切に出来るか、ということに集約されると思います。

そして、信仰の立場から言えば、自分を本当に愛している人でなければ、神や仏を信じていると言うことは出来ないと思います。神仏への信仰は、神仏が現した(ないしは神仏がそれに変化した)この世の全てを愛することと同意義となるからです。自分を愛せない、他人を愛せない、だとすれば、神仏も愛せない、信じられないとなります。

これらの前提として、次回に、どうすれば、自分を本当に愛することが出来るようになるかについて考えてみたいと思います。そして、それは、同時に、他人も愛すること、万物を愛することと一体のものです。

それは、自と他の比較・優劣や、勝ち組・負け組といった、一種の妄想から解放されることから、この世界・宇宙自体を巨大な生命体として仏と見なすことまでが、含まれています。

皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

 

<<< 前へ【負け組の裏に勝ち組の芽】

次へ【母なる仏としての宇宙】 >>>

ひかりの輪ポータルサイト
一般の方のために
ひかりの輪YouTubeチャンネル
ひかりの輪ネット教室
ひかりの輪ネットショップ
著作関係
外部監査委員会
アレフ問題の告発と対策
地域社会の皆様へ