2010年までの日記

大自然こそが仏ではないか
(2008年09月21日)


9/13掲載の日記で、読者の方からコメントをいただいたことから、仏としての大自然について、皆さんにお話したくなりました。

大自然が仏である、というのは、日本の大乗仏教の教義であり、聖地での自然の中での学習が特長である「ひかりの輪」でも、重視している教えです。

ご指摘の通り、生きていくために必要以上の物を貪り、地球環境を脅かしている人類に比べて、草・木・山・川・石などの自然は、まったく足るを知っています。

自分が他に優位になろうとなどせず、他と調和して自分の領分を守り、かつ、その中で多くの生き物を育んでいます。

その意味では、人よりも仏に違い、欲望の超越と慈悲があるという見方もできます。そして、その大自然の中で、人も生まれて、育まれています。

普段、われわれ人間は、自分たちが地球の王様であるかのような錯覚をして、大自然を見下し、破壊・開発・消費の対象としていますが、見方によっては、それが仏に見える。

これは、自然を開発してきた西洋文明ではなく、自然との調和を重んじる日本文化の生んだ素晴らしい伝統だと思います。そして、地球環境問題が深刻化する21世紀において、その価値は大いに見直されるべきだと思います。

私の瞑想体験では、大自然を仏とみて、人間に乏しいその優れた性質から学ぼうとするとき、自分が、(大自然への愛・感謝を取り戻し)大自然に再融合したという感覚を得ることがあります。

そして、自分は、実際は大自然の支配者などではなく、大自然の一部であって、自分の母なる大自然から生まれてきて、母なる大自然に戻る存在である、と感じます。

最近の歌で言えば、「千の風になって」、という歌もありました。

そして、その時は、大自然側こそが、自分の本体で、自分が「私」と呼んでいるものは、それに属する存在と言った感覚がありました。

人とは、水の中の生まれては消える泡のように、母なる大自然の中に生まれては消えていく一瞬の何か。

これが、人間の世界の自己中心的な世界観ではなく、大自然の中の人間というものをありのままに見た姿ではないか、と思います。


そして、仏教では、仏陀は三宝と言われ、宝とされていますが、自分は、大自然こそが、最高の宝だと感じます。

例えば、早朝に地平線から光り輝く太陽(ご来光)や、透明な夜空にきらめく星々よりも素晴らしいダイヤモンドなどあるでしょうか。

なによりも、この大自然・大地球・大宇宙よりも素晴らしいマイホームなどあるものでしょうか。

大自然は、誰彼のものではなく、すべての人が共有している最高のもの。最高のものであるから、それが神・仏であって、最高のものは、皆のもの。

いや、皆のものというより、皆自体が、その最高のものの一部であり、だから、皆が仏の一部、仏の子。なんと素晴らしいことか。

そういった感覚の中では、自分だけの財物や名誉を求める、ちんけな欲望が消え去っていきます。

こういった感覚は、仏教の教学をしつつ、聖地とか自然の美しい場所で体験しました。今度、機会があれば、ご紹介したいものです。


※参考

大乗仏教には、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは、一切の衆生はことごく仏性(=仏陀になる可能性)を有しているという意味です。同じように、一切衆生悉皆成仏は、一切の衆生はことごとく皆仏陀に成る、ということ。

そして、日本の大乗仏教ですが、単に衆生=生き物だけではなく、無生物を含めた大自然全体に、仏性を拡大しました。自然との調和を重視する日本らしい思想ですが、「山川草木悉有仏性」とか、「草木国土悉皆成仏」などと言います。大自然を仏としています。

 

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